第一話


遠くからメロディー。

 
 東京の中枢は丸の内
 日比谷公園両議院
 いきな構えの帝劇に
 いかめし館は警視庁
 諸官省ズラリ馬場先門
 海上ビルディング東京駅
 ポッポと出る汽車どこへ行く

 ラメチャンタラ
 ギッチョンチョンデ
 パイノパイノパイ
 パリコト パナナで
 フライ フライ フライ


「てっめえよくもまあノコノコと顔を見せられたもんだな、おととい来やがれこの田舎者が!」

ガシャンという皿のひっくり返る音に、流れてくるレコードのアコーディオンがかき消された。
算段が甘かった。
一度は笑いかけてくれた飯屋の亭主であったが、やはり忘れてはいなかったらしい。
怒鳴り声と共に学生服の襟首を引っ掴まれたのは、うっかり(もういいかな)なんて甘い考えでのれんを潜ろうとした矢先の事だった。
温厚そうな亭主から飛び出した剣呑な台詞に、往来を行く人々からの視線が集まる。
小柄な体躯に似合わず大きな寸胴鍋を毎日扱う腕は思いの外強く、しめしめとばかりにえへらえへらとした笑いを浮かべていたナルトはあっという間にそのまま人で賑わう店前の往来に転がされた。

「んだよ、さっきはイラッシャイマセとか言ったくせに!」

土埃にむせつつ言い返したが、亭主はしらけた目で見下ろすばかりだった。
とはいえ、それに関しては仕方がないだろう。
何故ならこの今しがた入ろうとした食事処の店は、数ヶ月前ナルト自身がまんまと食い逃げをやってのけた店だったからだ。
(ちっくしょお、今日はちゃんと金持ってきたってのによ…)
転がされた拍子に土に落ちた学生帽をウヌヌと睨み、ナルトは思った。
まあそう上手くいくとは端から思ってなかったが。
しかしそれでも、数ヶ月前に食い逃げしたここの店の南京そばは、ナルトがこれまで食べたものの中でも飛び抜けて美味しいものだったから。
上手く行くならば是非ともまた食べたいと、そう思ったのだが。

 
 東京で自慢はなんですね
 三百万人うようよと
 米も作らずにくらすこと
 タジレた市長を仰ぐこと
 それにみんなが感心に
 市長のいうことをよくきいて
 豆粕食うこと痩せること

 シチョウサンタラ ケチンボデ
 パイノパイノパイ
 洋服モ ツメエリデ
 フルイ フルイ フルイ


力一杯引っ括られたせいで擦れたのだろう。ヒリつく首周りが気になり襟元を寛げると、ふと途切れ途切れなメロディーがまた耳に帰ってきた。
掠れたしゃがれ声が歌いあげるは東京節だ。
小洒落たカフェーからのものか、はたまた成金の邸宅からか、どこかで蓄音機が鳴らされている。
(クッソ、何が田舎モンだってばよ。テメエだって生まれは長崎じゃねえのかってば)
店前に出された幟の「本場長崎南京街仕込」の文字に、ナルトはムカムカと舌打ちをした。
まったく、東京モンはこれだからいけ好かない。
江戸っ子だと粋がっていても生粋の者はほんのひと握りで、実際をきいてみると田舎者の寄せ集めじゃねえか。ちょいと前まではここいらの奴らなぞ坂東の田舎侍だと京の人間から笑われたものだ。そう変化の術を教えてくれた時エロ仙人は笑って言ってたもんだってのに。
……懐かしい笑い声がふと蘇えれば、ほんの少し胸がきゅっと縮むようだった。
ふうっとひとつ息をつき、地べたで起こした体で腕を伸ばすと、土まみれで落ちたままの学制帽を拾い上げ、「ぱんぱんぱん!」と景気よく叩く。
ぐっと金髪を押し込むようにして、ナルトはところどころ毛羽立つそれを頭に被った。
そろそろここからも、出て行く頃合いかな……
うっすらそんな事を思いつつ、そうしてまた腰を路面におろしたまま、陽炎のゆらめく七月の通りに目を眇めた。


―――ち、ち、ち、ち、ち


後ろから動物をあやすような舌鳴らしの音が聴こえてきたのは、その時だった。
体を捻り、振り返る。するとそこにいたのは座り込むナルトに合わせ身を屈める、ひとりの少年だった。
灰青の着物に、利休鼠の袴。くつろいだ前合わせから覗くはぴんとこてのあてられた、まっしろな襟詰まりのシャツだ。
いや、少年といいつつ本当は、彼はもう既に成人しているのかもしれない……顔かたちは驚くほどに整ったものだけれど、どうしたものかその表情に浮かぶ微笑みは、その背丈や書生のような姿からは不釣り合いなほどに透明なものだった。
すうっと細められた瞳が、静かにナルトを捉える。
無垢な中にある全てを達観したかのようなまなざしが、彼にある種の年齢不詳を引きおこしている。

「はらがへっているのか?」

笑みのままに尋ねられた言葉はあどけなさを纏いながら、するりとナルトの耳に入ってきた。
朗としたその声と出された台詞のアンバランスさに、思わずぽかんと口が開く。

「はらがへっているのなら、おれがいいものをくわせてやろう」
「は?」
「いなりはすきか?それともあぶらげのほうがいいのだろうか。なんでもいってみるがいい。たべたいものものぜんぶ、おれがかってやろう」
「稲荷に油揚げって……」

並べられた単語に、ナルトはようやくハッと気が付いた。
急いで自分の体を確かめ、後ろに回した手で尻の辺りに触れてみる。
――ああよかった、もしやと思ったが大丈夫だ。
触れるのは埃を吸った学生服の布地ばかりで、金の尾っぽはちゃんと隠れている。
(えっ、じゃあなんで、コイツ……!?)
訳のわからなさに息も忘れ慌てて顔をあげると、驚いたナルトの目と、くろぐろとした瞳がかちりと合った。その様子になにか納得するものがあったのだろう。動転するナルトを見ると、少年はニコリと微笑んだ。
男にしては赤すぎる程の唇があがり、陽の光を知らないかのような白い頬が、安堵したかのようにゆるむ。

「やっぱり。きつねといえば、おあげだろ?おれときたら、すきなだけくわせてやるよ」

――だから、おいで。
その声は甘く撫でるようであったが、何故だかぞわりとナルトの背中には、悪寒にも似た痺れがはしった。
話すたび、つくりものみたいに整った口許の奥で蠢く赤い舌がいやに妖しく艶かしい。
なのに見張ったままの目が、そこからどうにも動かせない。

「ど…して、おまえ…」

震える声で尋ね返せば、少年はふふんと得意げに鼻を鳴らした。
人の行き交う往来の片隅で、つやつやした黒髪の頭がゆったりと傾げられる。
正体がバレた事は恐ろしい――恐ろしいけれどしかしそれ以上に、この人間の言う事の方がどうしても気になる。
硬直するナルトに、少年は優雅に立ち上がった。
そうしてからその頬と同じくまっしろな両の手を出すと、するすると器用に指を組んでいく。


「―――これ。きつねのまど」


これをつくると、ここからかくりょのせかいがみえる。
組んだ指で作った窓から底のない漆黒の瞳を覗かせ、少年は言った。
勘違いというにはあまりにもはっきりと、かんかん照りの日差しの中、すうっと彼の周りにだけ青い空気が漂う。
先程まで聞こえていた往来の喧騒も蓄音機の流行歌も、その時一瞬にして彼方に消え去っていた。
出来た小窓から凍りついたナルトの驚いた顔を確かめると、そっと窓を外した少年は、にいっとその端麗な顔に屈託のない笑みを浮かべた。