第二話



――― お い で 。


まさしく時が止まったようだった。
ゆっくりと、緋の唇が動く。
そうして差し伸ばされてきた白い手は、その表面のなめらかさから細らんだ爪先の丸みに至るまで、やはり全てが作り物じみた完璧さだった。危うさを感じつつも、ナルトはその誘いから気を逸らす事ができない。
全ての音という音が消え去った世界で、聴こえるのは自分自身の心臓の音だけだった。どっく、どっくという速るようなリズムに後押しされるかのように、そっとその手を取ろうと腕を持ち上げると……

「――サスケ君!」

青みがかった空間に牽制するような声が割って入ったのは、その時だった。
ビクリと肩を弾ませその出処を見れば、神経質そうな面立ちに丸眼鏡をのせたいかにもインテリ然とした男が、通りの向こうから慌てた様子で駆けてくる。
「ああよかった、駄目じゃないですか勝手に出て行っちゃあ」
傍らに来た途端、その男はしゃがみこんだままの少年にそう窘めた。
汗もそのままに、ぐいっと強い動きで差し出されていた腕を掴むと、引き立てられた少年がぐらりと身体を傾げる。

「……かぶと」
「さあ急いで病院に戻らないと。先生がお待ちですよ」
「かぶと、きつねだ。きつねをみつけた」
「はあ?きつね?」

掴まれた手を指差しに変え少年は言ったが、丸眼鏡の青年はとりあう気はないようだった。
それでも一応といったように埃のたつ路面に座るナルトを一瞥すると、呆けたようなその顔とあちこち擦り切れた学生服をみとめ、鼻先で嗤う。

「あれはきつねじゃなくて薄汚い野良犬でしょう。君はあんなの相手にしちゃあいけないよ」
「なっ……!?」

貴重品に触れるかのような手つきでしゃがむ少年を立ち上がらせた眼鏡の男だったが、ナルトに対して下されたのは見下げきった一言だった。
その言葉に、それまでポカンとするばかりだったナルトの頭に鮮やかな火が点る。
「ふざけんな、誰が野良犬だっての!」
拳を握りつつ大声を張り上げると、ガラリとまた正面にある南京そば屋の扉が開いた。
そこからにゅっと鬼瓦みたいな店主の赤い顔が突き出されたかと思うと、
「うるせえ、いつまで店先で騒いでやがる!」
という一喝が店先から通りに響き渡る。

「犬だろうが狐だろうが、食いもん屋が精魂込めて作ったメシをタダで食らって逃げるようなヤツは、人でなしのこんこんちきだ!」

いい加減、どこかへ失せろ!
吐き捨てて、顔を引っ込めた店主はまたぴしゃりと扉を閉じた。少年と青年の組み合わせに気を取られ気がつかなかったが、騒ぎは通りを行く人々のちょっとした見世物になっていたらしい。ふと見れば店の前にいるナルト達の周りには、人の集まりが出来ている。
「フン、無銭飲食か。やっぱり野良犬で合ってるじゃないか」
そう言うと、眼鏡の男はやはり甘やかすような允恭な、しかし決して逆らいは許さないといった手付きで、ぼおっと立っている少年の背中を促した。
――まったくもう、これからはこんな地べたに落ちてるものに、無闇に触ってはいけないよ?
そんな事を少年に向け、教え諭すように言い含めながら、今しがた駆けてきた道を戻りだす。
そうやって背中を押されつつも、少年はまだナルトの方が気にかかっているようだった。
出したい言葉が見つけられないのか、困ったような顔でしきりに、
「あ…あ…」
などと弱ったような声を出している。

「かぶと、おれは……」
「さあ、先生は御忙しい。せっかく街にまで来たのに早く戻らないと出直しになってしまいますよ」
「おれは、このきつねと」
「――いけませんね、サスケ君。お兄様が見られてますよ」

それはどういった呪文なのだろうか。何か言おうとする少年を牽制するかのように、たったひと言のそれを眼鏡の男が少年の鼓膜に吹き込むのを、動物の耳を持つナルトは聴いた。
するとどうした事か、それまで未練がましい仕草で残される青い瞳を見詰めていた少年は途端にクッと口を結んだかと思うと、急に割り切ったかのように紡ごうとしていた言葉を呑み込む。
きっぱりと黙り込んだその様子に、眼鏡の青年は満足したらしい。
自分に従い従順な足取りで言われた通りその場を動き出した少年を見ると、後はもうナルトの事などなかったかのように踵を返す。

「……なんだぁ、アイツ……」

二人の持つ異様な雰囲気に置き去りにされ声を忘れていたナルトだったが、その後ろ姿が通りの角に消えるとようやくポツリと言った。
その呟きに、立ち止まり見物していたその場の観客も見世物は終了とばかりに、そそくさとまた歩き出す。

「地べたに落ちてるって、ヒトをゴミ扱いしやがって。自分を何様だと」
「――何様ではない、『うちは様』じゃ」

ヒトをヒトとも思わないような扱いにブツブツとひとりごだっていると、不意を打つかのように、上から年老いた男性のそんな声が降ってきた。
キョロリと見上げてみると、なるほど嗄れた声に相応しい顔中に皺を深くした、夏絣の羽織をしゃんとさせた老人が立っている。

「うちはサマ?」
「そう。さる大名家の傍流から出たご一族でな。あの男はそのお家に昔から仕えてる者じゃよ」

二人が消えていった通りの先にある角を遠目に眺めつつ、そんな説明をしてくれた老人に、ナルトは「ふぅん、」と鼻を抜くような返事をした。
じゃああの眼鏡男は使用人なのか。
それにしゃちゃあ随分と差し出た感じだったってばと、一連のやり取りを思い出し伝えると、
「使用人というよりも、元は家庭教師として来たのだそうな。今はあそこの坊ちゃんの後見人の代わりのような事までしているらしいが」
と、どこか憂慮するかのように老人は言う。

「お若いの、さっき坊ちゃんが指で窓を作っているのを見たじゃろう?」
「あ?ああ、なんか窓というか、覗き穴みたいなのを」
「あれは狐の窓といってな。此岸である現し世から、彼岸を覗く為の窓なのだそうだ。あそこから覗くと異界の魑魅魍魎を見たり、ことによれば妖怪変化も見破れるらしい」
「エッ…よ、妖怪変化??」

ドンピシャな言葉につい声がひっくり返ると、斜め上から金髪頭を見下ろしていた老人はニヤリと笑った。
そうしてから未だ緊張が解けないナルトに向かい、
「なんじゃ、おまえさん本当の変化した妖怪じゃったか」
などと冗談めかすと、慌てて
「やっ……ち、違うから!」
と首を横にするナルトにしわくちゃの顔をくしゃりとさせる。

「なんじゃ、違ったか」
「あああ、当たり前だってばよ!」
「そうか。いや、うちは様というのは10年前に大変悲惨な事件にあわれたお家でな。あの坊ちゃんはその時ご家族を亡くされてから、まるで本当に何かに取り憑かれてしまったようで……ふとしたときにああやって異界の窓をつくっては、彼岸の世界を覗き見しておられるんじゃ」

本当に、お可哀想な事よのう―――

最後にそう結ぶと、一通りしゃべり終えた老人はさっと表情を落ち着かせ、真夏の暑さが滲む通りへとまた歩き出した。
振り返ることなく去っていく姿を、呆然とナルトは見送る。
ハッと気が付いたときにはもう、老人も人だかりも綺麗にいなくなっていた。
(…えええ、これじゃまるでオレの方が狐につままれたみたいだってば)
そんな事をうっすら考えつつ、ようやく動く事ができるようになった体で、(よっこらせ)と立ち上がる。


『―――おいで』


学生帽を更に目深に被り直してみると、眼裏にはつい先程差し出された手と、それと共に鼓膜に染みた甘い声が、くっきりと残されたようだった。
人に本当の正体がバレてしまう事だけは、絶対に避けなければならない。
―――もしもバレてしまったら、直ぐにそこを立ち去りに山へ帰る事。
師匠であった仙人の教えを反芻しつつ、尻についた土埃をぞんざいに払い落とす。
日差しが暑い。
なのに立った背中にはいつの間にか冷たい汗が張られ、中のシャツがしっとりしていた。
まだどこかこちらの世界に戻りきれていないナルトであったが、あの時出された白い手と黒瑪瑙の瞳は記憶に鮮やかに焼き付かれ、当分の間は離れそうになかった。