「だからさ、あの絵は本当にサスケの意思とは関係なくて。休憩中にぼおっとしてたサスケを見て、あくまでお礼のつもりでデイダラさんがコッソリ描いたものだったらしいよ?」
あの人の事だから、多分サスケの事びっくりさせてやろうとか思ったんだろうねえ。
慣れた仕草で広い玄関に座り込んだカカシ先生は、いつまで経っても出されないお茶を気にする様子もなく、ちょっと軟弱な笑いを浮かべ肩をすくめた。優しい眉が少し困っている。聞けば、つい先程東京にいるその絵描きと電話で話し、改めて事の経緯を確認したらしい。あれ?でもなんでその人まだ木の葉荘にいるの?帰国したんだろ?と不思議がると、ようやくニコリと本来の笑みを見せた先生が「一回はね。でもまた戻ってきたんだよ。チヨバアがお孫さんのとこ行く時に、入れ替わりで戻ってきたの」と説明した。つまりこの前見せられたあの宴会の写真は、チヨバアのお別れ会兼ムッシュ・デイダラの二度目の歓迎会だったらしい。道理で写真の端に写る彼が、複雑そうな表情を浮かべていたわけだ。
「背後で絵を描かれている事にも気がつかないなんて、アイツらしからぬ不覚だよなあ」
先程聞かされたらしい当時の様子に、後ろであぐらをかいたまま(ふんふん)と聞いていたオビトさんが少し驚いたように言った。腕組みのオビトさんの発言に、カカシ先生も「まーね。実際あの絵を見た時も、勝手に描くなって相当怒ったみたいよ」などと苦笑する。ほら、そうでなくともあの子モデルやる事自体、ホント最初から嫌がってたからさ。付け足しつつ、いつもと違いほんの少しだけ土で汚れた指を曲げ、やれやれといったように頬を掻く。
と、いうような会話が終わった途端、話の区切りを見計らったかのように奥の部屋で、懐かしい感じの電話の呼び出し音が「リン!」と鳴った。この家の女あるじがまだ外なのを思い出したのだろう、音の方を振り返ったオビトさんは「あーもう、誰だよー」などと億劫そうに呟き、のそのそと奥の方へと消えていく。
……ま、そういうワケでさ!
すっかり静かになってしまった玄関に頃合を読んだのだろう、そう言って立ち上がった先生は息をつくようにそう言うと、ゆったりと膝を伸ばしまだ雨の降る表を見遣った。
やっぱりね。そこまで本人が隠しておきたかったものをああして晒しものみたいにしちゃったのは、結構可哀想だったかなあって。先刻までこってり同僚の事務員に絞られたらしい先生は、いつになくしおらしい。
「――あ、そうだ。ちなみにね、あの絵のタイトルもさっき教えてもらったんだけど」
思い出したかのように言い出した先生に、タイトル?と聞き返すと、普段よりもほんの少しだけ日焼けした顔がニッコリと微笑んだ。「うん、本当はモデル本人にも伝えたかったらしいんだけど。その前に突き返されちゃったって残念がってたよ」と笑う先生を、ちょっとぼおっとしていたオレは「え?あ……じゃあ、サスケ本人も知らないって事?」と見上げる。
「あれね、題は『鳴かぬ蛍』っていうんだって」
「ナカヌホタル?」
「都々逸だよ。『鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす』。――デイダラさん、ホントよく勉強してるよねえ」
感心したように言うカカシ先生を余所に、『どどいつ』の意味さえもよく解らないオレはただ首を捻るばかりだった。
開けっぱなしの玄関から、雨を染み込ませる砂利の音がする。
すっかり立ち上がり半歩外に出て表の雨雲を見上げだした恩師に、「それってどういう…?」と確かめようとした時、廊下の奥からひょっこりと黒い短髪が顔を出した。受話器を持ったままなのだろう、表情を変えることなくオレに視点を合わせると、海老反りのような妙な姿勢のまま途切れていた通話を再開する。
「――あ?あー、大丈夫大丈夫、今ちょうど暇してるヤツがひとりいっからさ」
「……?」
「は?いンじゃねえの別に、気にするこたねえって。ん?…うん。わかった、すぐに迎えに行かせっから。そのご学友クンにもよろしく言っといて」
* * *
誰にも知られたくなかった秘密を打ち明けてみても、彼はただ唖然としているだけのようだった。
通り雨だと思われた夕立ちはまだ止まない。時刻はまだ5時前だというのに雑木林に囲まれた小さな境内はほの暗く、昼間の目に滲みるほどの明るさが嘘のようだ。
そんな中、ボロボロの廃寺の縁側で両足を遊ばせつつ腰掛けていたサスケには、最初いつもの傲岸そうな迫力はなく、その頼りなげなシルエットは、まるで待ちぼうけで途方に暮れた小さな子供のようだった。半袖から出る、二の腕の白さ。くろぐろとしたその瞳が、オレの告白で大きく見張られたのち、探るようにだんだんと眇められる。
「……なんだそりゃ、つまり……コレが、俺だって言いたいのか?」
わざわざ念押ししてくる慎重さに、オレはまた奥歯を噛んだ。…くそぅ、そうに決まってんだろ何度も確かめてくんなよコンニャロが。そう言いたい気持ちを乗り切って、どうにかコクリと頷き返す。
そのまま何も継げられずにいると、向こうも同じなのかどうにも間の持たない沈黙が延々と流れた。
軒先からの雨垂れが借りた雨傘に落ちてきては、真っ黒の張り地にボツボツという音をたてる。
「お前……よく、そんなの人に教えられるな」
恥ずかしく、ねえの? ようやく色々と理解が及んできたのだろう。ぽつりとそんな苦言めいた質問を投げかけてきたサスケの声は、さっきのオレに負けない位頼りないものだった。呆れたような口許はそのままに、涼しくなった大気にしろじろとしていた頬が、ほんのりと赤らんでいる。
言い返そうとしたオレの喉は、嵐のような羞恥に炙られカサカサに渇いていた。うう…なんでコイツってばこう昔からなんでもキッチリ確かめなきゃ気が済まないのか。オレだってもちろんやってる事も言ってる事も強烈に乙女だって、重々わかっているっての。
「……しっ…死ぬほど恥ずかしいに、決まってんだろ……!」
言ってるそばから、どんどん顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。もうやだ。出来る事ならもうこの場から逃げたい。
「恥ずかしいんだけど、そのっ……カ、カカシ先生が、オマエはあの絵、絶対に誰にも見せたくなかっただろうって。多分、相当恥ずかしかっただろうって。それなのにオレってば無理矢理あの絵を見ちゃって。そんですげえ…失礼な、想像したり」
「……」
「挙句の果てに、なんかとち狂ってオビトさんいンのに、あんな事しちまうし。ホント…サスケが怒んのも、当たり前だと思って」
一旦切って、息を吸った。
許して、貰えるだろうか?もしダメだったとしてもオレにはとうに他の選択肢などないのだから、彼に許して貰えるまで懇願するしかないのだけれど。
「だからお詫びというか、交換にと、いうか。オレの一番知られたら恥ずかしい秘密も、オマエにも教えるってば」
まっくろな瞳がオレを見る。みっともなかろうが捨て身だろうかもうなんだって構うもんか。
一度はまみえる事をあきらめかけたその明るさを、二度とはもう手放したくない。
「こんなんで許してはもらえないかもしんねえけど。だけど」
絞り出した声は、屋根を打つ雨に霞んだ。
雨音よりも何よりも、自分の中で打ち鳴らされる心臓がうるさい。
「――なんで、鳥?」
居た堪れない沈黙を乗り越えて、ぽつんと落とされた質問に、オレはうつむきそうになっていた顎を上げた。
「へっ?」と思わずひっくり返ったオレの声に、無表情のサスケが「なんで?」と重ねる。
「これ、形とかお前が指示したんだろ?」
「……そう、だけど」
「なんで俺が鳥なんだ?」
俺の口、機嫌悪いと先が尖るからか?
そんな事を尋ねてくるしかめっ面に、「は?なんで、そんな事ねってばよ?」と逆に訊き返すと、そうか、と唸ってサスケは黙った。「なんでそんな風に思うんだってば?」と首を傾げると、「昔、そう言ってからかわれた事がある」という憮然とした声が返ってくる。もしコイツにそんな指摘が出来る人間がいるとすれば、かなり限られるだろう。お兄さんか、両親か……もしかしたらあの剽軽者の叔父さんかもしれない。
どうやらオレは、図らずも微妙に気にしていたらしい彼の古傷に触れてしまったらしかった。急ぎ慌てて、「いやいや、そんなんじゃねーから!ほんとに!」と身を乗り出す。こうなったらもう、本当に全部隠すのは一切ナシだ。恥も外聞もかき捨てだ。
「ええと――もうホントに、昔の話になっちまったけどさ。オレが木の葉荘に入ってすぐの頃、玄関先で落っこちた鳥拾ったオマエと話した時があったの、まだ覚えてる?」
確かめると、サスケはすぐに気が付いたらしかった。
しかめ面がほんの少し引っ込み、納得したような声音が「ああ、あいつらと会った時か」と呟く。
「あん時にさ、オマエ動けなくなった鳥に向かって呼びかけてた言葉があるんだけど」
「呼びかけてた?」
「『大丈夫、お前はまだ飛べるからな』って。……覚えてる?」
おそるおそる、その忘れられない科白の事を訊いてはみたが、当のサスケにその記憶は、きれいさっぱり残っていないらしかった。「全然。そんな事言ってたか?」などと目を眇める様子は、完全に他人の話だ。
「いやまあ、別にオマエが覚えていようがいまいが、そんなのはどっちだっていいんだけど。…でもオレには、なんかそん時のオマエのその言葉とか様子が、すげえ印象深くて。忘れ、られなくて。そんでなんとなく……鳥、なの」
まだ消えない恥ずかしさに首が熱くなるのを感じつつ打ち明けると、サスケはまた少し呆れたように「…どうしてお前はまたそうやって、昔の細かい話を」と呟いた。ううっ…そんな事言われてもしょーがねーだろ、忘れられないんだし忘れたくないんだから!
まっすぐに見上げてくる黒い瞳に、オレはほんの少し背中を伸ばし居住まいを正した。
羞恥心を咳払いで誤魔化しつつ、手持無沙汰になってしまっていた右手をズボンのポケットに戻す。
「オレさ。さっきはいつからオレの事好きになったのとか、オマエに訊いたりしちゃったけど。オレの方は多分、その鳥の件があった時にはもうとっくに、オマエの事好きになりかけてて」
ふと、頭上で広がり続けている雨粒達の音楽が、ボロアパートで聴いた終わりかけの雨垂れの音に重なった。宙ぶらりんだったあの頃のオレは、静かに、ただあるがままの日々を淡々と生きている彼の事が、ひたすらに知りたくて。カカシ先生に笑って指摘された通り、あんなにも何かを希求したのは、本当に久しぶりの事だった。……あんなにも他に何も目に入らなくなったのも、あれっきりだ。
「一緒につるむようになってからはもう、どんどんオマエの事知れてくのがただ嬉しくてさ。毎日がすげえ楽しくて、今日も会えるかなって思う度にわくわくして、なんかもうホント――好きで」
通ってきた参道から、ひんやりとした風がすうっと流れてきた。たっぷりと湿気を吸った五月の雨は、火照ったオレの首筋を冷やす。
「最初な、テンテンさんは――あ、あの時計持ってきてくれた人な?あの人オレに、良縁祈願のお守りをくれようとしたんだけど。でもそんなのよりもオレ、オマエの代わりにオレの事見ててくれるようなモノが欲しくてさ。ほら、あん時のオレ、オマエにもう他人に戻るぞとか言われちゃったじゃん?きっともう、オレの事はオマエん中で『無かった事』にされちゃうんじゃないかなあって、そん時は思って」
古い古い思い出を語りつつ、オレは無表情のままのサスケに向かいちょっと苦笑いを浮かべた。まあ結果的にはあん時オマエがオレの事振ってくれたおかげで、オレってばトライアウト受けるの決められたから。今はホント、感謝しかないんだけど。そう言ってほんの僅かに動いた柳眉に、「ニシシ」と笑って歯を見せる。
「でもさ、オレの方は絶対オマエと出会えたのを、無かった事になんか出来ねえし。それどころかオレがあの頃頑張れたのとかも、オマエが近くにいてくれたおかげだしさ。だから正直、振られた事ももちろんショックだったけど、オマエがもうオレの事見ててくれないんだなって事が一番重たくて。……それで、コレ作ってもらったの。お守りっていうより、どっちかっていうとお目付け役みたいなもんだな。ソイツ、絶対ズルは許さないって顔付きしてるしさ」
白い手のひらの上にある銀色を目線でさしつつ一息にそう言うと、眇めた目つきのサスケが「ふん、」と小さく鼻を鳴らす音が聴こえた。形のいい唇が、ほんの少し尖る。…あ、ホントだ言われてみると確かにコイツ、ふてるととくちばしが出来るんだ。誰が言ったか知らないが、よく見ていた人がいたもんだ。
思いながら、ぐっと腹に気合を入れた。尖る口先につい気が抜けそうになる頬を引き締めつつ、広がりだす薄闇に負けないよう、サスケの目をじっと見る。
「……北海道に行ってからもさ。周りにいる人達はみんなあったかいし優しいし、オレの事すごく応援してくれて。けど、なんて言ったらいいんだろな……オレあの人達の事大好きだし、間違いなく幸せでもあると思うんだけど、でも」
続くべき言葉を選ぶため一度口を噤むと、ふいにつやつやとした短い黒髪が脳裏をよぎった。サスケよりもしっとりと落ち着いた、やわらかで素直な髪。彼女だってもしかしたら、実はオレの事、真剣に見ていてくれたのかもしれない。オレがもっときちんと向き合っていれば、彼女とも先のある付き合いができていたのかもしれない。
だけどきっと、そんな彼女であっても絶対に持ち得ないものがある。
この世界でただひとり、彼からしか得られないものがある。
「オレってばただ、サスケに見ていてもらいてえの。認めて、もらいたいの」
――息を、吸う。わかって貰えるだろうか。ちゃんと伝わるだろうか。
あまり性能の良くないオレの頭じゃうまく説明出来ないけれど、どうかこのみっともない程に単純な望みを、彼が受け入れてくれるとくれるといいなと思う。
「他の誰でもない。……サスケじゃなきゃ、ダメなんだ」
ほんの少し湿った前髪から覗くふたつの瞳が、静かにオレの方を見上げた。
極上の黒硝子みたいな双眸。出会ってからこれまで、ただひたすらに望み続けてきたその中に、小さく映り込むオレを見る。今確かに彼の意識は、オレだけに向かっている。たったそれだけの事実を意識するだけで、どうしてこんなにもオレの胸は高鳴っていくのだろう。
「――…て、てな感じ、だから!オレってば今、サスケとまたいられるようになれたのが夢みたいで。もーホント、何もかもがバカみたいに嬉しくて嬉しくて仕方なくってさ…・オマエみたいに冷静でいられないし、声ひとつでスゲー浮かれちまうし。サスケってば昔と比べてなんかすげぇ色っぽくなっちまってるし、だから隣に気配があるだけでなんかもう、色々……ヤバくて」
「ヤバい?」
暴れだしそうな心臓を抑えながらも、語尾に近づいていくにつれて歯切れ悪くなっていくオレに、聞いていたサスケがぽつりと言葉を挟んできた。「ヤバいって、何が」と頓着なく尋ねてくる彼に、再び頬が熱くなるのを感じつつ「それはその、あの…さ、察してくれってばよ?」と小声で答える。
「つーか正直、こんなのあまりにオレにとって都合良すぎてさ…半分位はやっぱ夢なんじゃないかって、実はこのひと月ずっと思ってて。だってほんと、スゲエ…スゲエ、会いたかったんだ。何度もオマエの事夢に見て、その度にやっぱ夢かってガッカリして。だからいつも見てた夢みたいに、触れたら一気に現実に引き戻されて目が覚めちまうんじゃないかってさ。実際サスケすげえ忙しそうだし、オレもなんだかんだでやる事あって全然会えねえなかったし。それがようやくこの連休にココにまた来れて、あーやっぱ夢じゃなかったんだ良かったなあとか実感できるようになってきたのに、そこにきてサスケがなんか別れたそうな事言うから、なんかもうオレってば頭ん中まっしろになっちまってついあんな事」
「――だから。一体いつ誰がそんな事言ったっつうンだ、このウスラトンカチが」
出し抜けに発せられたむすりとした声に、つらつらと息継ぎもないまま並び立てていたオレの陳情は、唐突に打ち切られた。へっ?と間抜けな声が出る。そんなオレを、不機嫌に彩られた美形がじとりと睨んできた。形のいい薄い唇があけすけな舌打ちを打つ。
「なんで、だってサスケ、さっき車ン中で」
「確かにてめえのくっだらねえ妄想に腹は立ったがな。でも誰も別れるなんて言ってねえだろ」
そう言って、サスケは呆けたように口の開いたオレを見上げると、ふうっと深く息をついた。穏やかとまではいかないが昼に見た拒絶の空気は静かに散って、落ち着いた普段の彼に戻っているように見える。
区切りを付けるかのような溜息をまたひとつ落とすと、彼は手の中の鳥をまじまじと眺めた。辺りを取り巻く空気には、先程よりは小さくなってきた雨音の代わりに、ひやりとした靄が漂い出している。
「大体がお前、どうして俺があの男と関係を持つと思うんだ。俺をただの男好きだと思ってんのか?」
憤然として睨みつけてきた彼に、オレは慌てて「ちがっ……それは絶対、違うから!!」と首を振った。「じゃあなんであんな馬鹿げた事。どう考えたっておかしいだろうが」と続けられた言葉に、気まずく口を窄ませる。
「それはその、あの、デイダラって人が金髪で……目ぇ、青かったから」
「はァ?」
「……オレと同じ髪の色と、目の色、だったからさ」
言いにくさを押して打ち明けると、言われたサスケは今度こそ本当に呆れ返ったという様子で言葉を失った。黒目がちな大きな瞳と赤い唇が、ポッカリと開かれ虚空を見せる。
そうして唖然としたまま絶句していたサスケだったけれども、ややもすると意識が戻ってきたらしい。ぽかんとしていた顔が普段の静けさに戻ったかと思うと、落ち着き払った声が「……ナルト、」とオレを呼んだ。ほんのり眇められた黒硝子の瞳が、いざなうようにオレを見る。
「えっ?あ、…な、なに?」
「こっちに来い」
「へ?」
「――もっと、こちらへ」
低く艶めく声に思わずどぎまぎしていると、長く白い腕が二本、すうっとオレに向けて伸ばされた。おいで、と言われているようなその仕草に、誘われるがままフラフラと足が出る。雨の降り込まない軒先に入ると、身を乗り出すようにして彼の方へと僅かに屈み込んだ。オレを絡みとる、黒々と濡れたまなざし。用済みとなった傘が後ろに下がり、張り生地を伝った雫達がボタボタと乾いたままの背中に落ちてくる。
……いつかの時と同じ湿った雨の匂いに混じる、あたたかなサスケの匂い。
記憶と願望がごちゃ混ぜになったような現実に、頭の芯が甘く痺れる。
「そう、そのまま……動くなよ」
低く囁くと、すんなりと形の整った指先が伸びてきて、オレの頬に軽く触れた。チリ、という澄んだ音に僅かに目だけを横に流すと、まだ彼に持たれたままの銀の鳥の金具がその白い指にリングのようにはめられ、差し出された手にひらの内側でゆらりと揺れている。
サスケ?と呼ぼうとした瞬間、つうっと掬うように、耳の輪郭が撫でられた。
なめらかな動きでそのまま顔の両側を包まれる。ぬばたまの瞳に絡め取られると、目の前にきた美形が妖しく微笑んだ。誘い込むようなその微笑と頬に感じる白磁の肌の感触に、思わずうっとりと陶酔する。
「あの、サス…」
「実感させてやるよ」
「え?」
「夢なんかじゃねえって。――実感、させてやる」
そんな、それこそ夢のように甘ったるい声が鼓膜に落とされたかと思うと、優しかった筈の指先がするりと動き、突然ギュッとオレの頬肉をつまみ上げた。すっかり油断しきっていたオレは予想外のその仕打ちに、思わずひゃっと肩が竦む。
「なっ・何!?なんで!!?」
「てめえ……そんなくだらない理由で、こんな騒ぎを引き起こしやがったのか」
「へっ!?」
「ふざけんじゃねえぞ馬鹿、せっかくの休みを無駄に潰しやがって……!!」
「は!?あ、あの、その、ご、ごめんってば……!」
力の加減なんて端からする気ないのだろう。ぎゅうぎゅうと万力のようにつねり上げられたオレのほっぺたは、思うざま左右に引き伸ばされているようだった。「いっだ…いだだだだ!!」という堪えきれなかった悲鳴が、容赦無い仕置きに喉の奥から漏れてしまう。
やがて「どうだ、しっかり目ェ覚めたか」という居丈高な言葉にガクガクと頷くと、ようやく気が済んだのかその指先から力が抜けていった。フン!という鼻を鳴らす音と共にゆっくりと白い手が落ちていき、代わりにじんじんとした熱い痛みが残される。
「ひど…っ、ちょっとやりすぎだってば」と涙目で批難をすると、醒めた目付きのサスケがじいっとオレを見上げてきた。「ほんと…救いようのない馬鹿だな、お前は」という更なる容赦ない言葉に、さすがのオレも頬を抑えたままカッと頭に血が上る。
「はァ!?なんだよそれ、いくらなんでも言い過ぎじゃ…」
「そんなんで代えがきくんなら、誰も困りゃしねえんだよ」
「…え?」
「お前以外、代えなんてきかなかったから。だからわざわざこの俺が、北海道くんだりまで出向くことになったんだろうが」
――そン位、言わなくてもわかれ。馬鹿。
胸に溜め込んだものを吐き出すかのような呟きに、騙し討ちのような仕打ちに批難を呻いていたオレは、ピタリと動きを止めさせられた。「困る?」と耳に引っかかった思いがけない言葉に虚をつかれつつ、腫れぼったさの広がる頬も忘れ、ぽかんとその拗ねたように黙ってしまった口先を見下ろす。
貰った言葉の得難さに思わず放心していると、言いたい事は全て言い終えたのか、ふう、とサスケが息を深く吐いた。白い腕が後ろへいき、少し丸まっていたその背が伸ばされる。ぼけっとしたまま見守っていると、細い体躯がふわりと浮いて、宙に投げ出されるかのように前にのめった。重さを感じさせない軽やかな着地に、ただひたすらに見蕩れてしまう。
オレの目の前に降り立ったサスケの右手が先程の仕置きを確認するかのように、そっとオレの顔に添えられた。冷たく冷えた指先の温度が、まだ赤みの残る頬に心地いい。
「俺は誰に言われたからでもない。自分の意志で、お前といるのを決めたんだ」
「……え?」
「だから、もっと、ちゃんと、実感……してくれ。夢かもなんて、情けねえ事言ってんじゃねえよ」
そう言って、その顔が近付いてきたかと思うとやわらかな熱が頬の痛みの上に重ねるように触れ、そっと撫でるような感触だけを残し離れていった。鼻先に残される濡れた匂い。去り際に零されたひとかけらの吐息に、狂おしいほどに胸の内側が乱される。
……ようやくわだかまっていたものが、全て流せたのだろうか。
羽のようなキスをオレに授けたサスケはそのまま身を引くと、どこか晴れ晴れとした様子でふわりと笑った。「よし、…じゃあ、行くか」という声も、スッキリとしたトーンに戻っている。
「さっむ…これ早いとこ帰らねえと、マジで風邪ひくな。俺の傘よこせ、ナルト」
「やだ」
「あ?」
「こんなんじゃ足りねえって。……もうちょい、実感させて?」
言いながら、傘を受け取るため差し出されていた腕を取りそのまま引き寄せると、すっかり気を緩めていた体はいとも容易くオレの胸元に倒れ込んできた。いきなりの事で、驚いたのだろう。まっくろな瞳を溢れんばかりに見張っている彼を覗き込みながら、痩せた背中に腕を回し、半開きになったままの唇を甘く吸い上げる。
蕩けそうな味わいに思わず抱きしめる腕に力がこもると、重なり合った唇の間から「…ん、ぅ」と呻きとも溜息ともつかないくぐもりが聴こえた。あー…すげぇ、いい匂い…。コイツの匂いってばなんでこんなにいつも、オレを溶かしちゃうんだろう。襟足あたりから立ちのぼる彼の香りに、あたたかな充足感が胸一杯に広がる。
「はー、満足、ごちそうさまでした」
「お前なァ……!」
「だって実感し足りなかったからさ。どうせならあんくらいはしないと」
唇に残る余韻を舌で楽しみつつ肩を上げると、抱き寄せられたままのサスケは怒りと羞恥で顔を赤くしながら「…ここをどこだと思ってるんだ、バチが当たっても知らねェからな」とボソボソ零した。そんな彼に(やっぱカワイイなあコイツ)とじんわり感動しつつ、バチ当たりらしいオレは「いいもんね~、バチの一つや二つ、余裕で受けて立つってばよ」とヘラリとする。
「だけどこれで北海道帰るまで我慢できるし。こっちにいる間はもう絶対、なんもしないからさ」
――ありがとな。帰ろ、サスケ。
まだ口を尖らしているサスケに今度こそ傘を渡しながら笑って告げると、どこか諦めたかのように突っ張っていた細い腕が、ゆっくりと両脇に落ちた。張っていた肩からも、余計な力が抜けていくのが見て取れる。やっと帰る気になったらしいのに、まだ雨の余韻の残る境内でサスケは一向に傘を開こうとしなかった。「傘、ささねえの?」と訊ねてみるも、つんとした横顔は、前を向いたままだ。
「いい。…なんかもう、どうでもよくなってきた」
「でもそれじゃ、オレなんの為に来たのか……」
「だったらお前がさせばいいだろう」
言い捨てるようにそう言うと、サスケはひとりで小雨になってきた空の下へと出て行ってしまった。「あっ、ちょっ…待てって!」と小さく唱え、群青に溶けるその背中を、慌てて追いかけ隣に並ぶ。
古いけれども高価そうな黒い傘は結構大振りなものだったけれども、男二人が入ればやはり窮屈としか言い様がない有様になった。飛び出た肩が、しとしとと濡れていく。どうもサスケの方も同じような状況にあるようだったが、寒いと言っていた割に濡れる肩は大して気にならないらしい。傘を持つ腕に、両手をズボンのポケットにしまったサスケの肘が僅かに触れる。ふと(あ、これって相合傘じゃん)と気が付けば、まだ少しひりつく頬も他愛なくトロトロと蕩けだした。闇に溶けていく参道で、茂みに隠れたカエルがケロケロと機嫌良さそうに歌いだすのを、ニヤけた顔で聞き流す。
「えっへっへ」
「……なにニヤついてんだ、気持ち悪ィな」
「いえいえ、ナンデモ」
「どうせまたどうしようもなく恥ずかしい事でも考えているんだろ」
「あっ、そうだオレのお守り!返してってば」
「馬鹿。あれはもう没収だ、没収」
「ええっ!?なんで!!?」
「知っちまったからにはあんな恥ずかしいモノ持たれてたまるかっての。どうしてお前はそう臆面もなく恥ずかしい事が出来るんだ。恥を知れ、恥を」
「うう…その話はもういいっての!つかオマエこそさっき、なんかスゲー色仕掛けしてきたくせに」
「色仕掛け?」
「『もっと、こちらへ』なんて。……やっぱ、キスもうまくなってるしさあ」
「そうか」
「あの絵がそんなんじゃないっていうなら、一体どこであんなお色気の術覚えてきたんだってばよ?」
「さあな。どこだっていいだろ、別に」
「今度は妬かないから教えろってば」
「うるせえなあ、学校で教わったんだよ」
「はァ?トーダイってそんな事まで教えてくれんの?」と呆れると、前を向いたままの横顔が「そう、教えてくれンの」としれっと返してきた。「えー?ウソだあ、んなわけあるかって」と結局有耶無耶にされた話にぶうたれたオレに、サスケが愉快そうに鼻を鳴らす。行きよりも随分と軽くなった足取りで帰り道を行くと、やがて先ほどオビトさんから菩提寺へと続く参道への目印だと教えられた、小さなお地蔵様の祠が見えてきた。そこを折れ、舗装は甘いが比較的広い道に出ると、道の先にほのかな明かりの灯る屋敷が見える。色々あったけれど、最終的にはちゃんと一緒に帰ってこれて良かった。隣にいる確かな存在に、再びほっと胸を撫で下ろす。
――ただいまァ、という帰宅の挨拶も明るく大きな玄関の扉を引くと、リビングではなく廊下のもっと奥の方から、「はあい、おかえりなさーい」というどこか反響したような返事が聴こえてきた。程なくして胸元にタオルを抱えたミコトさんが、パタパタというスリッパの音も軽く笑顔で迎え出てきてくれる。
「あらまァ、どうして傘持ってったのに二人共そんな濡れてるの?」
玄関の土間でお互い肩を半分づつ濡らし合っているオレ達を見て、ミコトさんは呆れたようにそう言った。外、雨降って寒くなってきてたでしょう?体冷えてない?立て続けに訊きながら、所在なく立つ息子の腕に何気なく触れる。
「――やっぱり!こんなに冷たくして」
「別にいいって。すぐ着替えるし」
「ナルト君も。ごめんなさいね、お客様なのに迎えに行かせてしまって。寒かったんじゃない?」
「あ、それはホント、全然。気しないでくださいってば」
世話を焼きたがる母親にちょっとめんどくさそうにしながらも、サスケは黙って立ったまま履いていたスニーカーを脱いだ。少し泥のこびりついたソールに、ぺたりと濡れた葉っぱが張り付いている。
「そのタオル俺らの?」と言いながら靴を脱いだサスケは、框に足を掛けながらミコトさんの捧げ持っていたタオルを掴もうとしたが、突然すいっと逃げるように動かされたそれに白い手が空振りした。訝しんで振り返る我が子とぼけっと立ったままのオレを見比べて、ミコトさんは「これはあと。丁度良かったわ」と笑顔になる。
「今ね、お風呂沸かしてたとこなのよ。今日は端午の節句でしょう?久々に菖蒲湯をと思ってね」
朗らかに言われた言葉に(ああそういえば今日、子供の日だったっけ)とぼんやりカレンダーを思い浮かべた。タオルを抱えたままのミコトさんは朗らかに、「お父さんちょっと帰りが遅くなるみたいだし、晩御飯まで時間もあるから。待ってる間にあなた達、先にお風呂入ってきたらいいわよ」などと言う。
……あれ?あなた達?という妙に引っかかる単語に動きを止めたオレに向かい、ミコトさんは優雅に小首を傾げた。そうしてからサスケの方に体を返し、有無を云わせない様子で清潔な香りの漂うふかふかのタオルを押し付けながら、白百合のようなかんばせにトドメのような微笑みを浮かべる。
「ふたりとも、雨で体もすっかり冷えちゃったでしょう?――あったかいお湯にゆっくりつかって、男の子同士、仲良くしっかり厄祓いしていらっしゃい」
「…おい」
「…ハイ」
「わかってるな?」
「わかってます、だいじょぶデス…」
閉じ込められた脱衣室で。浴室からの青い草いきれのような匂いにむせながら、小声で念押しされたオレはがっくりと項垂れた。これは神聖な墓地で不埒な事をした罰か、それとも余裕で受けて立つなんていう不躾な発言への、天からの意趣返しか。いやでもまさか、こんなに早々とバチが当たるとは。この後まみえる事になるであろう抗いがたい誘惑とそれに耐えきるための途方も無い労苦を思えば早々と白旗を上げてここから逃げ出してしまうのが一番の得策ではあったが、「ふたりが仲直りしてくれて良かったわ~ごゆっくりね」と花のような笑みを浮かべて立ち去っていった彼の母親の気持ちを慮ると、無下にその気持ちを裏切るような動きをするのも憚れる。
「――や、でもホント、もう絶対暴走しないし。安心して脱いでくれってばよ」
そう言ってへらっと笑うと、オレは手本を見せるかのように先にシャツを脱いでみせた。まあ、オレってばこれでも一応、27のオトナだし?経験だってそこそこあるし、肌色を見れば全部がそーゆー方面への妄想に繋がってしまっていたような覚えたてのガキでもないのだから、ちゃんと節度ある行動を取る事くらい本気出せばいつだって出来るんだぜ多分だけど。
そんなオレの脱ぎっぷりを、服を着たままのサスケは隣でじっと観察していたが、やがてひとつ息をつくと、もそもそと自分のシャツも脱ぎ始めた。平気平気と思いつつも(ぱさ、)というTシャツが脱衣カゴに落ちる密やかな音に、鼓膜がおかしいくらい反応してしまう。
「あーえー…っと、あ!しょ、菖蒲湯、オレ久々だってばよ!大学の寮にいた時以来かも!」
控えめな衣擦ればかりが漂う空間に、耐え兼ねたオレはせめて色気のない話をと必死で繰り出すと、そんな突然声を上げたオレに驚いたのか、横でズボンのベルトを外そうとしていたサスケが一瞬ぴくりと動きを止めた。「…ああ、そうだな」という抑え気味の相槌と共に、再びかちゃかちゃという金属音がする。
「俺も……久々だ。ここを出て以来だな」
「だよなー、一人暮らしだと絶対こんなのやんねえもんな!」
あははははは、と無理に笑った声が、暖かさの籠る脱衣室に反響した。しかし努力の甲斐無く頭の中は不埒な願望ばかりがあぶくのようにボコボコと浮き出てくるばかりで、情けないほどに話題を継げない。笑ったついでにちらと動いてしまった視界で、するりとジーンズから足を抜いたサスケが既に黒のボクサー1枚になっているのが見えた。うわー……なんつーか、結構な破壊力ですねソレ……。いきなり看破されそうな自制心を必死で保ちつつ、煩悩を誤魔化すべく急いで新たなる話題を探す。
「――そ、そういえばさ!木の葉荘の210号室って、サスケが出た後、誰か入ってんの?」
ようやくひねり出した話題に縋り付くと、隣からもちょっとホッとしたような空気が漂ってきた。「ああ、」という低い声に、安心したような気配が混じる。
「シカマルからの紹介でな。あのテマリとかいう女の弟ってのが今住んでる筈だ」
「えっ、テマリさんの弟って、もしかして我愛羅の事か?」
「知ってんのか?」
「もちろん!オレがバイトしてた頃、アイツも現場で一緒に仕事してた仲間だったから。あんま喋んないけどすっげえいいヤツだっただろ!?」
「さあ。そうなのか?」
「え?」
「俺は実際会ってねえから。入居申込書もシカマル通して受け取ったし」
……そ、そっかあ、会った事ねえのかあ!そりゃ残念だってばよ!
同じくズボンを脱ぎながら白々しいほど明るくそう言うと、必死で食らいついた話題は、勢いの甲斐なくあっという間に終焉を迎えた。たっぷりとした沈黙。居た堪れない幕間に、浴室から漏れてくる青い香りが漂う。こなくそ…せっかく見つけた話題だ。他に頃合の話もないし、せめてもうちょい粘らねえと!
「あーえーと……あ、そ、そういやオレのいた部屋にはも一度、デイダラさんが入ったんだって?さっきカカシ先生が言ってたってば」
「ああ。こっち戻ってきた時、丁度また空いてたからな」
「人気ねえな~あの部屋!ひょっとしてまだGが出るんじゃねえの?」
「…かもな」
「チヨバアんとこは?今誰か住んでんの?」
「重吾さんが、パートナーと。あの部屋、2DKだから」
「えっ、重吾さん彼女と同棲してるんだ!?なんだよ~あの人も結構隅におけねえなあ!」
「同棲だろうけど、彼女じゃねえよ」
「は?」
「一緒に暮らしてんの、男だから。――前にお前が出てった後、209号室を日中だけ仕事部屋として使いたいって奴に貸してたって教えただろ?そいつがそれ」
しいん、とした沈黙が漂い、小部屋に満ちたあたたかな湿度がひたすらに息苦しくなってきた。えっ?男だけど同棲?何ソレじゃあ重吾さんてそうだったの?力の抜けそうな指先でどうにか腰にタオルを巻きつけつつも、初聞きの話とそれに付随するあれやこれやの下世話な考えになんだか頭がぐるぐるする。
「えっと、その、それってばつまりその、」
「――ナルト」
呼ばれてつい振り向くと、すぐ横にすっくと立つ、白く輝く体があった。もちろんソコは細い腰に巻かれたタオルで隠されているけれど、無駄のない腹やしなやかに伸びた長い手足は、どこもかしもと感心するほどに整っている。
やば……モロ、直視しちゃった………。
陶器みたいにすべすべしてそうな肌に、うすい胸にある慎ましやかな飾りに。
否応なく釘付けにされそうな目を、必死の思いで引っぺがす。
「その……前々から一度、確かめてみたいとは、思ってたんだが」
言いにくそうに前を見たままぽそぽそと尋ねられた問いかけに、バクバクと鼓動を打ち鳴らしながら続きを待った。息を詰めたような気配を漂わせながら、やがて思い切ったようにサスケが口を開く。
「お前ってもしかして、結構、性欲が強い方なのか?」
「へ!?いや、そのっ……な、なんで!?」
「……なんかやたら、スキンシップしたがるし。さっきから挙動不審だし、それにさっき寺で話してる時、隣にいるだけで色々ヤバいって」
察しろってのはやっぱ、……そういう、意味か?
辺りを憚るような小声で、サスケは言った。消え入りそうな声に、つい先程バチ当たりな事をした寺での会話を思い出す。そーだったオレってば確かにそんな事言いました……。蘇ってきた記憶にちょっと頭を抱えたくなったけれど、考えようによっては、これはサスケの気持ちを聞くまたとないチャンスかもしれない。
「……そういう意味、だってばよ」としっかり答えつつ、呼吸を整え隣を見た。「そうか」と呟く整った横顔は、脱衣カゴを見下ろしたまま彫刻のように動かない。
「サスケは?そういう欲、持ってないの?」
怖々尋ねると、ささやかな声が「多くはねえな」と呟いた。
あ……やっぱそうでしたか……とちょっと落胆しつつも続ける言葉を探していると、じっと考えていたらしい彼が付け足すように「……けど、無いわけじゃない」と小さく言う。
「え。そう、なの?」
「そりゃそうだろ、男なんだから」
「…………ちなみにサスケってば今もまだ童」
「それは違う」
確かめたかったワードに辿り着く前に一刀両断され(えっ)となると、うつ向いた横顔できゅっと口元が引き締まった。「だ、誰と?あの香燐とかいう子?」と思わず追いかけると、それも即座に「違う」と斬られる。
「えっ、じゃあ何?あの後他にも誰かと付き合ったんだ?」
「付き合ってねえよ」
「……どういう意味だってばよ?」
「だから、そのままの意味だ」
「?」
「付き合ったりはしてねえけど、まあちょっと…誘われて」
「誘われて?」
「……その場で、一回限りの相手と。つまり……そういう事だ」
「なっ……」
――なんてけしからん事してるんだってば乱れてる…ッ!!!
なんて思ったがよくよく考えてみれば自分だって、そんな偉そうな事言える立場ではないのだった。まあそれはそれ、これはこれだ。男を勃たせるのがコイゴコロだけならば人類はこんなに繁栄してないだろう。そうやって知らず握ってしまっていた拳をどうにか下ろしつつ、微妙にこみ上げてくるショックを飲み込んだ。くそう、じゃあやっぱあの蕩けそうなキスとかは、どっかにちゃんとルーツがあんのか。つかコイツいつの間にそんな不道徳な事するようになっちまったんだ、大人になるってほんと悲しい。
「へ、へえ~、そうなんだ?」
「……」
「どこで知り合った子?オマエ合コンとかも絶対行かねえのに」
「だから、大学で教わったんだって言っただろ」
「は?」
「…………たまたまとった短期講座の、教授が。まあ、悪くない……女だったから」
「――ンだそれエロい!!」とついに叫ぶと、「うっせえ、声がでけえよ!」という掠れた叱責が返ってきた。信じられない、コイツほんとに学校でそんな事教わってきたんだ……!打ち明けられたとんだ課外授業に、目の前がクラクラする。
「ナニソレ……なんちゅう個人授業受けてんだオマエ」
「ほっといてくれ」
「大体がどうしてそうなったわけ?」
「知るか。なんか知らねェけどいい男を見ると溶かしたくなるんだと。…ていうかその話は今どうだっていいんだ、確かめたいのはそういう事じゃなくて」
唖然とするオレを乗せ脱線したままグダグダと蛇行運転を続けていた会話を打ち切るように、下を向いたまま固まっていたサスケが顔をくっと上げた。
急に向けられる視線のまっすぐさに、思わずきゅっと身が縮む。
「つまりだ。ちゃんと、欲は……あるし。あとお前がなんか我慢してんだろうなってのは、なんとなく察しがつくんだが」
「はあ、まあ、お察しの通りです」
「でも実際、男同士だし。お前はどうか知らねェけど、正直俺は男の裸を見たところで別になんとも思わないから、一体お前が俺にどこまでの事を欲しがっているのかが、よく、わからなくて…」
儚く、消えていく語尾に。言われた言葉の意味が解るにつれ、オレはなんだか無性に感動してきた。
……あのサスケが。傲岸で俺様なサスケが。
潔癖そうで取り澄ましてて自分を乱されるのが大嫌いなサスケが、このオレのどうしようもない煩悩について、こんなに真剣に考えてくれているなんて……!
「……けど、俺も別にお前に触ンのとか、そんな嫌いじゃ、ねえから…。だからもしお前が我慢してる事があるなら、まあ、出来るだけ叶えてやりたいと……」
「――どっ…どこまでも!サスケさえいいのなら、どこまでも欲しいってば!」
本当ならば大声で叫びたい所を必死で抑えながら、恥ずかしげに言葉を紡ぐサスケにオレは熱っぽく言い切った。細い体の横に頼りなく落ちているサスケの手を攫うように取り上げると、こみ上げる熱い思いのままにぎゅううと両手で握り締める。ギョッとしたように一歩後ずさりするサスケに、行かせないとばかりに瞳を合わせた。くろぐろとした瞳が大きくなって、果てしなく真剣なオレをしっかりと映している。
「どこまでもって」
「全部、最後まで。オレってばもっとサスケの事、体で感じたい。実感したいんだ」
「……本気か?俺は……男だぞ?」
「何言ってんだ今更!そんなの端から承知の上だし、全然気にしないってばよ!」
サスケ、やり方……知ってる?ヒソヒソ尋ねると、一瞬恥じらうように目を伏せた彼は「…知識は、ある」と消え入りそうな声で回答した。「さすがお医者さんだってば、安心した」と笑いかけると、弱腰だった彼から力が抜け、ようやく納得したかのような溜め息がゆるゆるとその唇から零される。
「そうか……やっぱ、そうなのか」という呟きには、どこか脱力するような趣きが漂っていた。望んでいたままの展開になんだかもう胸が熱くなりすぎて、今いる状況やお互いの赤裸々な姿も、全部が遠くにブッ飛んでいる。
「正直、不安なんだが」
「大丈夫だって」
「……俺、あんま経験無ェし」
「関係ないって!オレだって男とは、初めてだからさ」
そう言うと、僅かに顔を上げたサスケが「そうなのか?」と何故か驚いたような声を上げた。「当たり前だろ」と苦笑いを浮かべてみせるも、再びうつ向いたサスケは「……ますます不安だ」とやけに暗い。
「なんで?経験あった方が良かった?」
「そういう訳ではないが」
「じゃあいいじゃん」
「……多分最初はかなり、キツイだろうし。もしかしたらお前を、傷つけてしまうかもしれない」
言われた科白にはどことなく、(…ん?)と思うところがあったがそれでもその疑問は不安げにする佳貌に誤魔化され、期待と希望に満ち溢れたオレは全部を都合よく解釈する事にした。(ああ、最初は挿れる方もキツいっていうもんな)というこっそり入手しておいた知識を総動員して、些細な引っ掛かりをわけなく解消する。受ける自分の方が絶対に苦しいだろうに、こんなにオレの事心配してくれるだなんて。サスケってばなんて優しいんだろう、こんな可愛い恋人がいるオレは間違いなく世界一の果報者だってばよときゅんきゅん感じ入りつつ、旧知の雑誌記者から以前褒めてもらった事のあるとっておきの笑顔で、顔を曇らせるいとしい人を覗き込む。
「大丈夫、オレってばサスケの事感じられれば、それだけでもう幸せだからさ!なんつーか、もう…オレを受け入れてくれるってだけで、ホント万々歳だってばよ!」
晴れ晴れとした気分でニッコリ笑ったオレに、手を掴まれたままのサスケが僅かに首を傾げた。ん?という小さな呟き。だけど有頂天になるオレの頭の中は今まさに春爛漫で、そんな小さな疑問符は即座に霞の隅へだ。ああこんなに幸せでいいんだろうか、向こうに帰ってから二人きりになるのが、堪らなく待ち遠しい。
「あ~それより、オレの方が心配だってば。ちゃんとオマエの事、気持ちよくさせてやれっかな」
「……ナルト、」
「あっ、でも無理はしねえから!オレだってオマエ傷つけたくねえし」
「ナルト、ちょっといいか?」
「ホント、絶対、優しく……するし。最大限、努力すっから」
「ちょっと待てって。――お前、何言ってんだ?」
なんでお前が、そんな努力をする必要があるんだ?
ふやけた頭に水をさすような冷静な声に、お花畑の中をふわふわ漂っていたオレは急にその足を掴まれた気がした。ん?なんで?どうしてそんな声?じっとオレを待つその顔は、どこまでも真面目にオレを見る。
「お前はただ痛みに耐えるだけじゃねえか、まあお前自身の希望だから別に止めはしないが」
――え?
「……頑張らなきゃならねえのは、俺の方だろ?」
――ええ??
一瞬にして熱が退いたような目で尋ねられれば、今度はオレの方が首を傾げる番だった。
いや、だって…ど、どういう事なのこれってば。思わず若干のオネエ言葉になりつつ、そっと手を振りほどいてきたサスケの真顔を、しげしげと見返す。
充満していく沈黙の中、だんだんとお互い、それぞれの思惑が読めてきた。つまり…そういう事なのだ。オレ達はどちらも男で、付いてるもん付いてて、『欲望』といえば出したいとか突っ込みたいとか滅茶苦茶にしたいとかいうような兎に角そういう攻撃的なナニカであって。間違ってもその体に異物を受け入れ動かされたいなどというような、そんな寛大で気前のいいものであるはずがないんだ。
瞳と瞳がぶつかり合う。
……滲む視界で思う事は多分一緒だ。まさか、そんな……ゆ、夢だと言って!!!
「ウエ――イ!!お邪魔虫、登ッ場――!!!!!」
スターン!!という引き戸を開け放つ音と共に突然乱入してきた大声に、度肝を抜かれたオレ達は揃って派手に肩が跳ねた。現れたのは彼の叔父だ。惜しいハンサムに笑いを浮かべ、「なんだよズリィぞお前らだけで!どうせならオレも仲間に入れろっての」と踏み込んでくる。
「なんだなんだお前ら、おっかねえ顔しやがって」
「……オビト、てめえ……!」
「ん?どうしたサスケちゃん、まさかこのケダモノに何かイカガワシイ事を…!?」
「ちょっ…何だってばそれ、失礼だって!!」
ひゃひゃひゃ、と笑いながらピシャリとそれぞれ叩かれて、オレもサスケも背中に同じ手形がくっきりついた。そのままあっという間に素っ裸になったその人にぐいぐいと首ったまを両脇に抱え込まれ、有無を云わさず連行される。
浴室に足を踏み入れると、清々しいけれどどこか青臭い、植物の強い匂いがした。きっとあれは池の傍で伸びていたものだろう。ぴんと張った刀のような葉が、きちんと束ねられ湯に浮いている。
「おお~なんか修学旅行みてえ!あれやろあれ!背中流しあいっこ!!」などと盛り上がるオビトさんの脇の下で、同じく抱え込まれているサスケと目が合った。うんざりとした目が(とりあえずは帰るまで持ち越しな)と告げるのを、同じく黙って目で返す。
五月の五日、こどもの日。
――残されたサスケと過ごせる休日は、あとたった……一日だけだ。