Golden!!!!! 中編

「なにが『貰っていきますね』だ。犬猫じゃあるまいし」
乗り込んですぐ言われた苦言に、少しだけいい気分になっていた僕は、シートベルトを引っ張り出す手を止めた。「あれ、聞こえてたんだ?」なんでもないように言いながら、チラリと助手席の彼を見る。ムスッとして前を向く横顔が、素晴らしく不機嫌だ。あーこの感じ、久しぶりだなァ、などとのんびり思っていると、「行くぞ。早く出せ」という偉そうな声に更に命じられる。あーあ、相当機嫌悪いみたいだねコレ、とちょっとげんなりしながらさりげなく門の奥に目をやると、開いたままの玄関では未だこちらに注視している人の影が見えた。明るい色した髪が、屋内の薄闇の中くっきりと目立っている。
「なんかさァ……どうかと思うよ、こういうのって」
溜息混じりに呟けば、隣から「フン」というこれまた少しだけ久々な彼の癖が聴こえてきた。これじゃ僕、完全に当て馬じゃない。久々に会ったってのに、いきなりこんな役回りさせるなんて酷すぎるんじゃないの?そんな風に口を尖らせてみたけれど、返ってきたのは「たまたまだ」という言い訳にもならない言葉だけだ。
「たまたま、ねェ」
「別に俺からお前を呼び出したわけでもねえし。タイミングが重なっただけだろ」
「僕院長に挨拶くらいしたかったんだけど」
「大丈夫だ、気にするな」
あっさり言うサスケに(そりゃ君は身内だからそんないい加減でいいかもしれないけどさあ…!)と思ったけれど、ついさっき玄関先であんな事を言ってしまった手前、再び戻って世渡りのためのアレコレをする気にはなれなかった。院長に嫌われて出世できないなんて事になったらサスケのせいだからねホント。ちゃんと後でよろしく伝えといてよ?などと、くどくど確かめると、むっつりと腕組みをしたサスケは「あぁ」とか言って大体な感じの返事をする。……怪しいなあ。昼食中だからわざわざ挨拶はしなくていいと言われ、早々出てきてしまったけれど。結局のところはただ単に、サスケが僕を家に上げたくなかった…というか、自分が早く外に行きたかっただけなんじゃないの?やっぱり、玄関先でこっちを見てるあの人から、逃げ出したかっただけという気がする。
疑惑は尽きなかったがこれ以上の追求は諦めて、僕はウィンカーを消しシフトレバーを切り替えた。
どうせ何言ったって無駄なんだ。そんなのこの6年間で、嫌になるほど僕は学習させられている。

  * * *

管理人を辞めようかと彼が言い出した時、正直僕は世界に終末でもやってきたのかと思った。
大学2年の夏休み明け。だらけた時間が流れる学内カフェテリアで久々に会ったサスケからその言葉を聞いた瞬間、僕は冗談抜きで飲んでいたヨーグルトドリンクを噴きそうになった。鼻から牛乳ならぬ、鼻からヨーグルトだ。
「ハァ!!?」と大声で訊き返すと、潔癖そうな顔がめんどくさそうに顰められた。「なんだよ、大声出すな」という声もハッキリしない。
「何言ってんのサスケ大丈夫!?」
「どういう意味だ」
「ありえないでしょそんなの、サスケがそんな事言うなんて!」
思わずそう言うと、形よく整った鼻が面白くもなさそうに「フン、」と鳴らされた。フンじゃないよフンじゃ。確かに滅茶苦茶地味でどこが面白いのが僕にはどうしても理解不能だけど、でも君その地味な仕事を異様に愛していたでしょう?ほんと、どうしちゃったんだよサスケ。
……夏休みを終えて会ったサスケは端的に表現すれば、とにかくどこか雰囲気が変わっていた。
言葉で言い表すには難しい。けど、確かに何かが違う。髪が伸びたからかな?と思いさりげなく指摘してみたが、ただ単に散髪の間隔が開いてしまっていただけらしかった。特別すごく痩せたりはしてなさそうだけれど、なんとなく全体的に線が細くなった感じ。どことなく弱っているようだけれど、夏バテとは違う気がする。
「なんで急にそんな事言いだしたの?」
尋ねると、一瞬口篭った彼は深い溜息をついてから、「なんかすげぇ、目がチカチカするんだよ」などとこれまた訳の解らない理由を述べた。「はあ?」とまた聞き返してみるが、説明は出てこない。
「目がチカチカ?」
「まあとにかくしつこい奴でさ。何度言っても諦めてくれねえし、ひっついて離れねえし」
「奴?人なの?」
「しかもやたらよく喋るんだ。あの妙な口癖が出るたびに頭痛くなってきて」
「口癖?」
「……とてもじゃないけど、このままじゃ管理人室にいられない」
ぐったりとした様子のサスケはそう告げると、頭を抱えるようにして項垂れた。すぐ横ではやはり購買でさっき買っていた紙パックのトマトジュースが、ストローを差した状態で手付かずのまま結露でテーブルを濡らしている。サスケは疲れが溜まっている時、よくこれを飲んでいる気がする。試験期間とか、レポートの提出後とか。
「つまり、誰かに付きまとわれて、困ってるって事?」
話の筋から導き出された結論に、項垂れて下を向いたままのサスケはちょっと手のひらを動かした。YES、という意味だろう。
うんざりした様子で、彼が語ったのはこういう話だった。
先月から、サスケの管理する木の葉荘には、海外からひとり、新しい入居者を迎え入れたのだそうだ。スペイン系のフランス人だというその人物は絵描きを生業としているらしく、どうもサスケにその絵のモデルになって欲しいと、熱心に頼み込んできているのだという。デイダラとかいうその絵師はラテン系の血が混じっているせいかその懇願の仕方も中々に情熱的で、純日本人のサスケ(しかも潔癖タイプ)にはいささかそのアプローチは強烈すぎるらしい。
「嫌ならハッキリ断ればいいじゃん。グサッと一言、キツイのでもつけて。君得意でしょ、そういうの」
ヨーグルトをストローで啜り上げながら、僕はさらりと解決策を打ち出した。「別に得意じゃねえよ」とサスケは憮然とする。けれど居心地悪そうな様子から察するに、多分少しは僕の言い分も認めている筈だ。手を伸ばし誤魔化すかのように、机上の紙パックにようやく口を付ける。
「でも我慢する事もないでしょ。言ってやんなよ、絶対お断りって」
「……そうしたいのは山々なんだが」
「なに?ダメなの?」
「…………兄さん、が」
さくさく話を進めようとする僕に対し、激しく言い淀んでいたサスケは「勝手に」とか「約束を」とかゴニョゴニョと続けていたけれど、結局は説明を諦めたのか重い溜息を付きながら、「…まあ、とにかく色々と事情があるんだよ」という言葉で締めた。なんかよくわからないけど、取り敢えずサスケには、そのムッシュ・デイダラの熱烈アプローチを無視できない事情があるらしい。
「あ、じゃあさ、こういう時こそ、木の葉荘にいる君のお友達に追い払って貰ったらいいんじゃない?オレのサスケに手を出すな~とかなんとか言って摘み出してもらうとかさァ」
夏休み前、垣間見たサスケの真剣な顔を思い出しながら、ちょっと皮肉を込め僕は笑った。そうだよ、君んとこにはもうすでに、お姫様に忠誠を誓ったナイトがひとり常駐してるじゃないか。最後にアパートで会った時はなんか喧嘩しているみたいだったけど、あの画像見た時のサスケの様子から想像するにどうせとっくに絶交解除されているんだろう。なんだかんだ言いつつも、サスケってあの人の事好きみたいだしさ。スパニッシュは血の気が多いとか聞くけど、あの人だったら警備員のバイトで護身術位は身に付けてるだろうし、長年スポーツやってるなら十中八九腕っぷしにも多少の自信はあるだろ。
しかしそんな僕の案は、その場ですぐ却下されたようだった。「出来るかよ、そんな事」という不明瞭な呟きが、顔を上げたサスケの口から出る。
「……あいつにそういう事はさせたくないし、俺もされたくない」
ぼそぼそと潜めた声で言われた言葉に、僕は半分呆れながら目を眇めた。あーあーそうですかァー、いいですねえ両想いでェー。そんな膿んだ気分で紙パックを引き寄せ、ストローを噛む。そうしていると同じように飲み物を手にしたサスケがおもむろに、「だいいち、あいつには無理だしな」とぽつりと言った。無理?と首を傾げる僕に、ストローを咥えたサスケ(関係無いけど、ストローを咥えるサスケは密かにすごく可愛らしい。僕はすぐに歯で噛んでしまうけど、サスケは空洞を潰さないよう唇の表面だけで、慎重にそおっと咥える)は少し睫毛を伏せながら「あいつもう、うちに住んでねえし」と淡々と告げる。
「…は!?」
「あ?」
「住んでないの?」
「住んでねえよ」
「いつから?」
「先月から」
「なんで教えてくんないの!?」
「なんでお前に教えなきゃならないんだ?」
そ、そりゃまあそうなんだけどさ…!と納得しつつも腰を浮かせた僕を、サスケが不思議そうに見た。そのまま「なんで、どこに引っ越したの?」と立て続けに訊くと、「北海道。あいつ、向こうの実業団チームに入ったんだ」という説明が返ってくる。ちょっと面窶れしたような美形が淡々と話すのを眺めているうちに、だんだんとサスケの変化の理由が読めてきた。
……なるほどね。そうか、あの人もういないんだ?へえー、そう。そうなんだ?
あの赤毛の女と破局した事は、さっき既に確認したばかりだった。他に女の影はもちろんないし、これであの金髪男がいなくなったとなれば、サスケは完全フリーだ。やった。これは本格的に、僕の時代がやってきたんじゃないだろうか。弱っている今は、まさに絶好のチャンスだ。
「――ねェサスケ、今日ってこの後、仕事だよね?」
つい口の端が上がりそうになるのを抑えつつ、おもむろに尋ねると、気を取り直したかのようにトマトジュースを啜り上げていたサスケがちょっとこちらを見た。目線だけで(そうだが、何か?)と彼が応えるのを確かめて、ボクは今度こそ本当にニヤリと笑う。
「僕も今日はもう用事ないしさ。一緒に木の葉荘まで行くよ」
そのお騒がせゲージュツ野郎を、僕にも見せてよ。
そう言って、湧き上がってくる闘志のままに立ち上がった僕は、持っていた紙パックをぐしゃりと握り潰した。ストローの先から白い雫が数滴飛んで、それを見ていたサスケの紙パックが、べこんと変な音をたててへこんだ。

真昼間にそのアパートを訪れるのは、入学してしばらく経ってから半ば無理矢理帰宅する彼に付いて来た時以来だから、実に一年振りだった。普段は夕方か夜、出不精な彼を夜の街へ無理矢理引っ張り出す為に来るようなもの(それさえもほんの数回で、数えてみても片手で余る程しかない)なので、仕事の交代時間である午後二時にここに来るような事はない。
それでもその一番初めの来訪を、その管理人代理の男は覚えていたらしかった。管理人室に入るサスケの後ろにいた僕を見て、山のような大男は最初かすかな驚きを見せたが、すぐに「ああ、こんにちは」と言うとおおらかそうな笑顔を作った。
「どうしたんですか、ふたりでやるような課題でも出たんですか?」
「いや……そういう訳では」
「オレ今日はまだここにいれますし、用事があるようでしたら先にやっていただいて大丈夫ですよ。ご自分の部屋で作業された方がいいんじゃないですか?」
そんな風に気遣いを見せる大男に「いや、大丈夫です、交代します」と受け答えをしつつ、サスケはするりと背負っていたリュックを肩から下ろした。なんとなく辺りを伺っている様子に、椅子から立ち上がった代理管理人の男が苦笑している。
「大丈夫ですよ、今日は何か買い出しに行くとかで、ちょっとお出かけされてるみたいです」
「ああ――そう、ですか」
「でもお昼前に出て行かれましたから、もう少ししたら帰られるかもしれませんね」
問題の人物の不在にサスケは一瞬ホッとしたようだったけれど、付け足された言葉にまたどっと疲れが出たようだった。どさりと体を落とすようにして座り込んだ回転椅子が歪んだ金属音をたてる。頭痛を堪えるようにこめかみを押さえるサスケを見下ろしつつ、男はちょっと笑いながら、もういいじゃないですか、と言った。こんな機会、滅多にあるもんじゃないですし。恥ずかしいのは一瞬で、きっと後から見たらいい記念になりますよ。少しだけおかしがるような色を乗せて、男はそんなことを言う。
「――は?何言ってるんですか、冗談じゃない」
朗らかに説得する大男に対しても、サスケは暗い声で拒否を呟くばかりだった。そんな彼にやれやれといった様子で肩をすくめ、代理管理人の男は苦笑いを浮かべながら自分の荷物を持つ。というか、モデルを嫌がっているのはサスケだけで、周りは結構勧めているんだな。まあ確かにプロの画家に絵を描いてもらえる機会なんてそうないだろうし、やったらやったで悪い事ばかりでもない気がする。でもまあ、サスケだしなあ。すんなりいいよとはいかないのも、わからなくはないけれど。
初めて入る管理人室の中を見渡しながら、つらつらとそんな事を考えている僕を余所に、サスケとその大男はいくつか仕事の引き継ぎをしているようだった。口調はのんびりしているけれど大男の連絡はきちきちと丁寧に纏まっていて、ぼおっとしてそうな見た目よりもずっと仕事をキチンと仕上げるタイプらしい。「じゃあ、オレはこれで。お先に失礼します」と言った大男は僕の方に会釈しながら、静かにドアを開けて出て行った。ここには個人ロッカーというものがないのだろう、男が最後にまとめていた私物は、デスクの背面にある小さなキャビネットの一角にそっと寄せて置かれている。
「ふーん、管理人室の中ってやっぱ狭いんだねえ」
入ったの初めて、とついでのように言うと、ちょっと意外そうな様子でサスケは「そうだったか?」と少し目を大きくした。そうだったか、って、そうに決まってるだろ。僕がここに来た事だって、まだ数える程しかないんだから。
「ここに入ったことのある人って、他にもいるの?」と尋ねると、ちょっと考えたサスケは「…二階に住んでるばあさんが、時々重吾さんとここで昼を食べたりしてるみたいだな」と小さく答えた。いやそーゆー意味じゃなくて。君と、ここで二人きりでって意味だよ、と言い直すと、またしばし考えたサスケが「…香燐かな」と答える。……あの女。こんなとこでもサスケに迫ってたんだ。ムカつくけどまあいいや、もう関係ないもんね。
「ん?じゃああのナルトって人は?」
ふと気が付いて尋ねると、今度はたっぷり言い淀んだサスケが「――まあ、あいつもだな」と素っ気なく答えた。なんだよ、なんでわざわざ隠そうとすんの。なんか却ってやらしいんですけど。
「なんだっけ、どこに引越したんだっけ?」
壁に立てかけてあった折り畳みのパイプ椅子を勝手に開きながら問いかけた僕に、デスクの上に置かれていた管理日誌に目を通していたサスケは「北海道」と目も上げずに答えた。古いエアコンのモーター音が漂う中、ぱらりという管理日誌の捲られる音が混じる。
「北海道かあ」
「そう」
「遠いね、それは」
「まあな」
元気にしてんの?と一応流れで訊くと、「さあ…してんじゃねえの?」というまた随分といい加減な答えが返ってきた。広げたパイプ椅子に逆向きになって座りながら、下に書かれた文字を追うため軽く伏せられた目許を見る。黒々とした長い睫毛が、頬に淡い影を落としている。やっぱり、サスケはちょっと窶れたみたいだ。それは多分、そのモデルの件のせいだけではないのだろう。
……淋しい?とちょっと訊いてみたかったけれど、それはやめておいた。
そんなの、今のサスケを見たら聞かなくたってわかる。わざわざそんな事確認して、また更に本人に自覚させる程、僕は親切じゃないんだ。
「――で。そもそもなんで、その画家からのモデルの依頼を、君はハッキリ断れないの?」
話に区切りを付けるように声のボリュームを上げると、何度か目をしばたたかせたサスケがゆっくりと顔を上げた。「聞かせてごらんよ、その色々な事情ってやつを」とちょっと居丈高に尋ねると、またこめかみを抑えた彼はふかぶかと息を吐く。
「……兄貴がさ」
「お兄さん?」
「そう。そもそもは俺じゃなくて、兄貴が受けた話でさ」
訥々と、サスケは語りだした。事の始まりは数年前まで遡る。
抜きん出て優秀だったと聞くサスケの兄・うちはイタチは大学在学中、やはりここ木の葉荘に住んでいた。今現在サスケが住まう二階端の部屋がそうだ。サスケのように管理業務には携わっていなかったけれど大家としての権限は両親から預かってきていたし、当時管理人だった猿飛さんとかいう老人とは幼い頃から家族ぐるみでの付き合いがあったこともあり、その猿飛翁の紹介でサスケの兄はアパートに住む他の老人仲間とも交流を深めていくようになったらしい。
「えー、二十歳前後の男がそんな老人会みたいな中で楽しめるかなあ。サスケのお兄さんてお年寄りに優しいんだねえ」と鼻にシワを寄せると、じっと考えたサスケは「…まあ、兄さんだからな」というよくわからない回答をした。なんだそれ、どんな兄貴なんだよ。
閑話休題。そうして(多分)楽しく学生時代をここで過ごしたうちはイタチであったが、卒業後はここを離れ、実家の病院に就職する事が決まった。そんな彼へのはなむけのため、ささやかな送別会がこの木の葉荘の一室で開催されたらしいのだが、その時撮影された写真を、出席者のひとりであった老女が海外に住む孫に送ったらしい。その孫とその頃ルームシェアしていたのが、孫の芸術家仲間である件のデイダラ氏であった。当時から熱狂的日本マニアであった彼は、その日何気なく友人から見せられた写真を見て衝撃に固まる。流れる黒髪、ぬばたまの瞳。抜けるような白い肌に赤い弧を描くうすい唇。それは正しく、デイダラ氏の思い描いてきた理想の人物を具現化したような姿だった。デイダラ氏は思った。――これだ。自分の求める芸術は、まさにここにある。
そうしてムッシュ・デイダラはその崇高なる芸術をその身に纏う黒髪の君に対し、手紙を書いた。「連絡ならメールでばあさん通して俺がしてやるって」と言うルームメイトの意見には全く耳を貸さず、ただ全力の日本語で熱心なモデルの依頼を書き綴った。
「……………思い込みが激しいタイプ?」
ポツリと感想を挟むと、無言でサスケは頷いた。
あと、多分だけど一旦思い込んだら絶対に軌道修正しないタイプだ。うーん、早くも厄介な予感がしてきたぞ。こういう人って、誰が何言おうと自分で納得するまで絶対諦めないんだよな。
……手紙を受け取ったうちはイタチはその熱い文章に目を通すと、親切にもすぐに返事をくれたらしい。美しい筆跡で丁寧に返されたその手紙には、自分を高く評価してくれた事に対する謙遜混じりのお礼の言葉と、不自由な日本語を駆使してまで手紙をくれた事に対する謝辞が述べられていたそうだ。そしてモデルを引き受けたいのは山々だけれども、生憎自分は今インターンとして忙しい生活を送り始めている事、そういった理由からそちらへは簡単に伺うことが出来ないという丁寧な詫びが書き記されていた。そうして最後に、しかしながら本当にありがたい話であるし実に楽しそうでもあるから、いつか貴殿が日本に来られる事があれば是非また声を掛けていただきたい。その時は喜んでお役目を務めさせていただきます、という約束で手紙は結ばれていたのだそうだ。
「でもさ、サスケのお兄さんて確か、亡くなってるんでしょ?」
話の途中、以前聞いた事を思い出しながら口を挟むと、またサスケは黙って頷いた。
そう、その手紙を出してちょっとした頃、兄さんに癌が見つかって。感情を込めずにぽつぽつと話す声が、狭い管理人室の中頼りなく響く。
「そいつも、ばあさんの孫から兄さんが死んだ事は聞かされたらしくてさ。それまでずっと、そいつも渡航費用貯めたり色々してたらしいんだけど、でもまあいなくなっちまったんじゃどうしようもねえよなって諦めかけてたとこに……」
話すのを止め、口を噤んだサスケに大体の話の筋は見えてきた。「サスケの事、見ちゃったんだ?」という先回りした問いに、がっくりとその頭が項垂れる。そうだ、僕自身は見比べたことがないけれど、サスケとお兄さんはとてもよく似た兄弟らしかった。うちはイタチを直接見た事があるという先輩も、確かに以前そう言っていたのを思い出す。
「……ばあさんがさ、なんか携帯をスマホに変えたとか言って、面白がってアパートのやたら色んなとこで画像撮っちゃあ孫に送ってんのは、俺も知ってたんだ。そしたらその中の一枚に、俺が写り込んじまってたのがあったらしくて。それ見た孫が奴に教えて、そんで…」
最後まで語る前にサスケは喋るのを止めてしまったけれど、後の説明はもう必要なかった。要するにそのデイダラ氏はサスケを描くという目的の為に、わざわざ日本にやって来たという事なのだろう。しかもダイレクトに、このボロアパートに住み込んでまで。うーん、すごい情熱だ。さすがラテン系、欲望に真っ直ぐだ。ていうか道理で周りもサスケを説得しようとしているわけだよ。そこまで熱心に望んでくれているのだから、絵の一枚や二枚描かせてあげたって別にいいような気がする。
「そういう事情があるなら、仕方ないんじゃないの?やってあげなよ、モデルくらい」
話の終わりを感じ取った僕があっけらかんとそう言うと、「…は?」と呻いたサスケががばっと顔を上げた。少し伸びすぎになった髪が、勢い余って頬に被る。
「なに言ってんだ、そう簡単に出来るかよ」
「だってその人、わざわざサスケの為に海まで渡ってきてくれたんでしょ?」
「そりゃそうかもしれねえけど」
「なんでそんな嫌なの?僕的には結構光栄な事のようにも思えるけど」
「…………服、が」
「え?なに、まさかモデルってヌードモデルなの?」
「…っ!!んなわけあるか冗談でも口にするな!」
何やら言い渋っているサスケを待っているうちに、唐突に管理人室の小窓が「コンコン」と小さくノックされた。
すりガラス越しに写る、明るい影。それを見た瞬間、サスケの顔が瞬時にこわばる。
「……来た」
「え?」
「くっそ、やっぱ今日も来たのか。マジでもう勘弁してくれ…!!」
小声でそう言ってる間に、再び小窓がコンコンと鳴らされた。やがてそれはココンコン、とリズムを変えていき、最後は「コココココン!」と催促するように早まっていく。鳴らされている窓と叩いた瞬間透けて見える白い指を、サスケはじっと息を潜め凝視しているようだった。いつまで経っても諦める気配のないノックに、だいぶ経ってから覚悟を決めたかのように窓の施錠に指を掛ける。
かち、と窓の蝶番が落ちたのと、ターン!と小窓が一気に開かれたのはほぼ同時だった。窓を開けたのは向こうだ。かかる指先が、こちら側から丸く見える。

「――うーん、うん、うん!よっしゃ今日も別嬪だな、お前!!」

いるならいるで早く開けろよな、うん!と大音量で言われた声に目を見張ると、窓の外には作務衣姿の小柄な男が仁王立ちで破顔していた。覇気のある声、青い瞳。長く伸ばされた金髪が、夏の終わりの光を背負って、燦然と輝いている。……なるほど、これは確かに『チカチカ』するな。やたら距離の近い喋りかけに、耳の中がわんわんと響く。
サスケはというと、僕以上にこのチカチカが身に堪えている様子だった。うっと眇めた目付きのまま、そのまま黙って窓を閉めようとしている。そろそろと動きつつあった小窓に敏感に反応したデイダラ氏は、すぐさまその手で窓の縁を掴んだ。僅かに閉じかかっていた窓が、再びピシャッと押し戻される。
「なに閉めようとしてんだ、まだ何も言ってねえだろ!」
「言うことはもうわかってる、わかってるからもう帰れ。別に用は無いんだろ」
「わかってるってのは了解したって意味だな、うん!いつにする!?」
「ちげェよそうじゃなくて……!」
「言ったろ芸術ってのは一瞬の煌めきだって!お前の持つ今この瞬間の美を、オイラは写し取りてえんだ!」
「何ワケわかんねェ事言ってんだテメエは!」
「ぼやぼやしてたらお前もどんどんオッサンになって美が散っちまうぞ、うん!!」
「余計なお世話だ!」
叫びながら今度は素早く小窓を閉じたサスケは急いで鍵を掛けると、憤然としてまた回転椅子にどかりと掛けた。組んだ足先が、イライラと揺れている。
……なんか、すごいね。強烈な存在感にぽつんと呟くと、組んだ足を解いたサスケは一転して途方に暮れたような顔になった。そうなんだ、とにかく、しぶとくて。そうサスケが弱った声で言ってる間に、今度は管理人室のドアが叩かれる。おいコラ無視すんじゃねえよ!オイラの芸術論ちゃんと聞けよ!という声が、エントランスに響き渡った。
「なるほどねー、これじゃ確かにここにいられないね。管理人が騒音の元になってるんじゃ、他の人達にも示しがつかないし」
「だろ?」
「でもさ、サスケ絶対にモデル引き受ける気ないの?やかましいけどこの熱意は買ってあげてもいいと思うけど」
「……」
「本当のところはサスケだって、お兄さんの果たせなかった約束を、代わりに果たしてあげたいんじゃない?」
既に疲労の色を濃くしているサスケに向かい、じっとその目を見詰めた僕はちょっと首を傾げ尋ねてみた。お兄さんの事を心底敬愛している様子のサスケ。嫌で嫌で仕方なかろうが、そんなサスケがお兄さんの果たせなかった約束を、ないがしろにできるとは思えない。…なんとなくだけれど、僕にはそれがわかった。サスケは未だに僕に訊いてこないけど、僕にも兄貴がひとりいる。多分サスケがお兄さんに抱いている気持ちと、僕が満月に抱いている気持ちにはかなりの隔たりがあるだろう。でも途中で潰えてしまった思いを継いでやりたいという気持ちは、兄弟ならば少なからず抱くものではないだろうか。そこだけは、ちょっとわかる。ま、ほんのちょっとだけだけど。
どうなの?と重ねて訊くと、やがて小さな声が「…絶対、というわけでは、ないんだが…」とぼそぼそ告げた。ほらね。柄にもなくハッキリ断りきれないのは、やっぱりお兄さんの承諾が先にあるからだろう。
「んじゃ、そのうちにはちゃんと引き受ける気があるわけね?」
「…まあなくは、ないんだが…」
「それっていつか決められる?」
「……………覚悟、が、決まったら」
観念したかのように言われた言葉を拾い上げると、僕は息を吸ってちょっと背中を伸ばした。
なんだ。それならそうと、彼に言ってやればいいのに。サスケってどうもこう力ずくでガーンと来られると妙に躍起になって突っぱねるとこあるんだよな。そのくせあの香燐とかいう女みたいに頭使って擦り寄られると、結構簡単に懐に入られちゃう時もあるし。ガードが硬いんだか甘いんだか。ま、そういうとこもサスケのカワイイとこなんだけどさ。
「よし、じゃあここはひとつ、この僕がなんとかしてあげるよ」と立ち上がると、ちょっと驚いた様子のサスケがポカンと口を開けた。「なんとかって、どうするんだ?」という質問に、「もちろん、穏便に話合いで解決するんだよ」と横目で答える。

「――ちょっと。まずは少し、静かにしてくれません?」

叩かれるドアを細く開けて、隙間から僅かに顔を出し僕は言った。
サスケの後ろにいた僕に、彼は全然気が付いていなかったらしい。突然現れた知らない顔に、デイダラ氏は最初ぎょっとして一歩下がった。よし、こっからだな。
「アナタねえ、そんなやり方したら逆効果だよ。サスケじゃなくとも引きますって」
ドアを半開きにしたままエントランスに立つと、僕は堂々と胸を張って言った。なんだお前?と訝しがる金髪男に、「サスケの友達ですけど」とうすく笑う。
「友達?あいつ友達いたのか」
「失礼な。いるに決まってんでしょ」
「ちゅーかなんで友達なんかが出てくるんだ、引っ込んでろよ、うん」
鼻持ちならない様子で僕を睨み上げたデイダラ氏は「お前は関係ないんだよ」と言いながら肩を怒らせた。関係なくないもんね、今サスケの一番近くにいるのは金髪大男でも赤毛の女でもない、この僕なんだから。
「サスケね、管理人辞めようかなって僕に相談してきたんですよ」
「あァン?」
「アナタがここでそうやって毎日喧しくするから。いいの?サスケ管理人辞めちゃったら、アナタだってここで毎日サスケ見ること出来なくなっちゃうんじゃないの?」
ぴしっと最初に釘を刺すと、予想通りムッシュ・デイダラはピタリと黙りこくった。やっぱりね、この人モデル云々もそりゃ大事なんだろうけど、ただ単にサスケを見たいだけなんだ。だったら方法は簡単だ、手懐けた上で美味しいご褒美をちらつかせつつ、しっかり『待て』を覚えさせてやればいい。
「――いい?日本には『魚心あれば水心』という諺があってね」
藍の作務衣にちょんまげ紛いの結んだ髪に予測を付けて、敢えて日本独自の言い方で攻めてみると、思った通りたじろぎ気味だったデイダラ氏は興味を引かれたのか少し身を乗り出した。「ウオゴコロ…?」と聞き直す彼に、「相手の出方によってこちらの対応の仕方も違ってくるって意味」とさらりと説明する。
「話聞いてもらいたいんならまずは聞いてもらえる状況を作らないと」
「だからこうして毎日来てんだろ」
「それが逆効果だって言ってんの。これじゃサスケ仕事出来ないし、これまでずっとここにいる間の空き時間使って勉強してたのに、それもできなくなっちゃってるでしょ」
サスケはね、今時ちょっといないような真面目人間なの。仕事と勉学を心から愛してるの。だからそれを邪魔されるのが一番辛いんだよ、アナタだって絵を描くの邪魔されたらすごく嫌でしょ?
静かになったデイダラ氏に滔々とそう説得すると、管理人室の中なら「…おい、」とサスケが低い声を出した。「なんだその言い方」というちょっと勘に障ったらしい文句が、エントランスで小男に向き合う僕に投げかけられる。うるさいなあもう。事実しか言ってないんだからちょっと黙ってなよ。
「……でもよォ。オイラ、マジであいつ描けねえと困るんだ」
言われてようやく気が付いたのか、少し悄気たようなデイダラ氏はしょぼしょぼと下を向くと、「オイラの次の作品、あいつ無しにはどうしても描けねえし」と呟いた。あいつの兄貴見たときからずっと温めてきた構想なんだ。どうしても、描かせてもらいたいんだ。
「どうしたらあいつ落とせると思う?」と逆に尋ねられて、僕はちょっと考えた。この人、良くも悪くも物凄く素直な質なんだろう。よく見たら歳もそんなに僕らと変わらないように見えるし、縋るように見上げてくる青い目は、嘘偽りない必死さでいっぱいいっぱいだ。背中に流れ落ちてる金の髪が、後光みたいにキラキラしてる。……あー、なんかサスケがこの人を突っぱねきれない理由、もうひとつ見つけちゃった。ああやだやだ、またこの色合わせかよ。ほーんとサスケってこういうタイプに好かれるよねえ。それともサスケの方がマニアなんだろうか。うっかりそんな事口にしたらぶっ殺されそうだけど。
「うーん、そうだねえ……なら、『雨垂れ石を穿つ』のココロでいってみたら?」
さっきの僕の発言が尾を引いているのか、まだちょっと怒ったような顔をしているサスケをちらりと見てから、そっと後ろ手に扉を閉じた僕は、懸命にこちらを見上げてくる絵描きに向かい思い浮かんだ諺を進呈した。意味がわからなかったのだろう、キョトンとする彼に向かい「水滴でも同じ場所にずっと落ち続ければ、いつかは石にも穴を開けるって意味」と伝える。しかしそれでも難しかったらしい、まだ首を傾げるデイダラ氏に「小さな力でも根気強くいけば、いつかは成功するって事」と言うと、ようやく彼にも理解が及んだらしかった。すぼまっていた唇が「おお、」と呻いて、感心したような顔付きになる。
「Little drops of rain pierce the hard marble.て事か」
「なんだ、英語も出来んじゃん」
「馬鹿にすんなよテメー、オイラ英仏西日と4カ国語いけんだぜ!」
「へえ、けっこうやるね」
「日本語が一番難しかったっつーの!うん!」
でも結構、しゃべれてるみたいだよ?と控えめに褒めると、にいっと笑顔に戻ったデイダラ氏は「あったりまえだお前、うちはイタチと喋りたくてオイラ無茶苦茶頑張って勉強したんだからよ!」と胸を張った。……ふーん、なるほどねえ。これは確かに、無下には断りにくいだろうな、兄を愛する弟としては。
まあいずれにせよ、サスケがモデルを承諾するのは時間の問題だろう。大体がこんな事でいつまでもグズグズやってるなんて、あんまりにも子供じみている。サスケだって多分、そのくらいの事わかってるんだろう。ただ単に、恥ずかしさを吹っ切るまでの時間が欲しいだけだ。
「じゃあまずはここでそうやって大声出すのをやめる事。窓の開ける音ももっと抑えなよ」
もう一度背筋を伸ばし直して、素直そうな顔つきでこちらを見上げる男に向かい僕は言った。ドアのノック音も控えて。回数も適量を守ることだよ、こんな狭い部屋、一回鳴らせば大体気が付くんだから。
「サスケが仕事してる時は邪魔しない事、勉強してる時も用がないなら妨害してこない事。あとは…そうだね、話すとき一歩下がって話し掛けた方がいいんじゃないかな。ちょっと距離近すぎるよ。――これだけ守れば、サスケのカッチカチの心にも穴は開けられると思うよ。邪魔しないで静かに見てるだけなら、近くにいても怒ったりしないだろうし」
「マジか!?」
「……多分ね。ちゃんと待てば、サスケは期待を裏切らないよ」
「うん、うんうんよしわかった!!」
でもどの位の時間が掛かるかは僕にもわからないよ?と言い足そうとしたけれど、もうすっかり立ち直った様子のムッシュ・デイダラは既に聞く耳を持っていないようだった。うんうん頷きながら(サスケの言ってた口癖ってのは多分これの事だろう)バタバタとさっき買ってきたらしい大荷物を持って一階の奥の方へと走っていく。……単純だなあ、あの人。芸術家ってのは皆あんな純粋なものなんだろうか。来たのが平和な日本でよかったねとうっすら思う。
「――行ったか?」
かちゃり、という抑え目な音に振り向くと、細く開いた管理人室のドアからサスケがそろそろと顔を出した。辺りを見渡す顔がキョロキョロと怪しんでいる。「うん、もう行っちゃったよ」と告げると、ホッとしたようにその全身がドアの影から現された。脱力するその肩が、いつになく疲れ果てている。
「あの人ね、明日からはもう迷惑かけてこないと思うよ」
明言すると、驚いたようにサスケの目が大きくなった。嘘だろ、こんな簡単に?と言う顔も、半信半疑といった様子だ。
「どうやったんだ?」
「どうって、言ったでしょ。穏便に話合いで解決って」
「……奴が話を聞いたのか?」
「まあね。でもサスケ、決心ついたらちゃんとモデルやってあげなよ?お兄さんとの約束、あの人すっごい楽しみにしてたみたいだしさ」
つけつけ言うと、サスケはまた仏頂面に戻って「……わかってる」とボソボソ言った。
わかってんのかねホントに。なんだか今日のサスケは子供みたいだ。この人ってどうして普段はすっごい冷たくて切れ味良さそうな雰囲気なのに、ちょっとその内側に踏み込んだだけでこうも幼いところがあるのかな。あのナルトとかいう奴の前では、サスケはいつもこんなだったんだろうか。あいつがいなくなったから僕にその役が回ってきただけなんだろうか。…あ、なんかすごいムカムカしてきた。この考えはもう忘れよう。
「水月、お前……結構、すごいんだな」と、サスケが呟いた。すっかりこれまでの静寂を取り戻したエントランスを、確かめるように天井を仰いでいる。うーん、やっと気が付いて貰えましたか。もう少し早くに気が付いて貰いたかったけれど、まあいいよ許してやるよサスケだし。
サスケの中で、きっと僕はまだまだ重要なポジションにはいない。今回はここまで踏み込ませてくれたけど、これも多分今は彼がちょっと弱っているからというだけだ。でも今はそれでいいと思った。いつかは彼の、横にいく。いつだって誰よりも高い場所で毅然として立つ、その隣からの景色を、僕は見てみたい。
気を緩めたサスケが、ほどけた溜息をつく。
子供みたいに気の抜けたその顔にニヤリと笑いかけながら、僕は不敵にこう言った。
「まァね。――僕は君の役に立つよ、絶対にね」

「――で?なんでいきなりあんな不穏な感じになってんの?」
サスケの家からしばらく走ったところにある、病院にほど近いファミレスで尋ねた僕に、頬杖を付いたまま(珍しく行儀が悪いが、これはきっと相当虫の居所が悪いというサインだろう)グラスになみなみ注がれたトマトジュースを啜り上げていたサスケは、めんどくさそうに目線を上げた。相変わらずストローを咥える口許が繊細だ。乳白色のストローが、トマトの果肉で薄ピンクに染まっている。
せっかく北海道くんだりまで行ったのにさ。何、もうケンカしてんの?
聞きながら肩をそびやかす僕に、サスケのかすかな舌打ちが落とされる。
……研修先の病院を選ぶ時、北大病院を受けると言ったサスケに僕はあんまり驚かなかった。だってサスケはあの夏以降もずっと慎重に、『ナルト』の名前を避けていた。不要になったものは、すぐに捨てたがる彼なのに。その名前だけは使えなくなってもぞんざいな扱いはせず、来る時まで大切に胸の奥に仕舞いこんでいるようだった。ずっと僕だって、サスケを見てたんだ。そのくらいの事、ちゃんと感付く。
「なに、原因は?なんかサスケが一方的に怒ってるようにも見えたけど」
そう言うと、歯切れの悪い言い方で、サスケが「…絵が、さ」と小さく言った。
絵?と聞き直すと、ん、とストローを咥えたままの唇が少しだけ動く。
「絵って?」
「ほら、あっただろう、あの…」
「ああ、デイダラさんの?」
「そう」
なんで、笑われでもしたの?と首を傾げると、むすっとした声が低く「違う」と言った。
じゃあなんで?あんなの今更でしょ?と重ねて言うと、「…色々あンだよ」とまた彼は大雑把なまとめ方をする。ああそう、色々ね。まあ恋人同士ともなれば、他人には説明出来ない色々はいくらでもあるんでしょうよ。なんだか知らないけど、勝手にやったらいい。そっちの話は僕の管轄外だ。
サスケが北海道に行くと聞いても、僕はうちは病院に就職するのをやめなかった。もちろん時期院長の友人というポジションが魅力的だったのはあるけれど、何よりもサスケが、僕に言ってくれたからだ。お前がいてくれたら、助かるって。いずれ自分がお父さんから病院を継いだ時、僕の力があると心強いって。
結局サスケにとっての『一番』に、僕はなれなかった。だけど仕事の上でのパートナーとしては、多分隣に選んで貰えたのではないかと思う。なんだかもう、それで充分な気がした。だいいち僕はサスケと「そういう仲」になりたかったわけじゃないしね。まああのナルトって人は違うみたいだけど。ていうかサスケだって別にホモってわけでもないんだよなー、ちゃんと女の子相手にアレコレ思う事もあるみたいだし。サスケは隠せてるつもりでいるみたいだけど、僕実はサスケの筆おろしの相手が誰だったかも知ってるもんね。だてに6年間つるんでいたわけじゃない。
そう、6年。6年も僕らは一緒にいたのに、なのにたった2年間しかいなかったあの人の所に、サスケはためらいもなく行ってしまった。……そう思うと、やっぱりちょっと悔しい。悔しいけれど、よくもまあそんな長い事、お互い顔突き合わせる事もなく思い合っていられたもんだねと感心する。
「……ねぇサスケ、もし大変なんだったらさ、『やーめた』って帰ってきちゃってもいいんだよ?」
ずるずるとトマトジュースを啜っているサスケに向かい、僕は言ってみた。気だるそうな睫毛がゆっくりとまたたかれ、まっくろな視線が横目で流されてくる。大体がさあ、そういうのってサスケが一番苦手な分野でしょ。やっぱ無理!ってなったところで全然おかしくなんかないし、むしろああやっぱりなって感じだもん。そんな風に口上を述べつつ、びっしりと結露の張ったヨーグルトドリンクのグラスを手に取った僕は、少し意地悪な気分でニヤリと笑う。
「だから、戻ってきちゃったら?僕絶対馬鹿にしたりなんかしないし、笑ったりからかったりもしないって約束するからさ」
そう言い切ると、流し目でこちらを見ていたサスケが不意にストローから唇を離した。あーほんと、この数ヶ月でサスケまた綺麗になったなあ。そんな事をぼんやり思いつつ、赤いジュースで濡れた唇を見る。

「……約束する?」
「うん」
「ウソだろ、それ」
「まァね」

あっさり認めると、ふかぶかと溜息をついたサスケはまたトマトジュースを啜るのに戻った。
カロン、という音にグラスの中を覗き込むと、ヨーグルトの中で溶けた氷がぼやぼやとした膜を作りながら、ぷかりぷかりと浮いていた。