Golden!!!!! 後編



――私の中に在る闇は。


  * * *

銀ピカの蛇口から噴き出す1月の水は勢いがあって、度重なる水仕事であかぎれを起こしかけている指先をチリチリと痛めた。どうどうと深いシンクに落ちていくそれで、まんべんなく腕を湿らす。そのまま石鹸でしっかりと肘まで洗い、置かれているブラシで爪の細部まで丁寧に擦った。赤くなった指の股に、殺菌成分の強い泡がまた滲みる。マニュアル通りの洗浄方法をきっちりやり遂げてから丁寧に泡を流し、備えられている薄ピンクのエプロンを広げた。纏ってから縦にぴっとシワを伸ばし、後ろがちゃんと結べているかそっと触れる。蝶々結びは、実はちょっと苦手だ。
感染防止と保温のため二重になっている扉を抜ける。迎えてくれるのは、常時煌々と灯され続けている蛍光灯の白い光だ。病棟の端にあるナースステーションは、今日も完璧な様相で整えられている。
「おつかれさまです、交代しますね」
中央に固められるように設置されたデスクにいる先輩に声を掛けると、ちょっと草臥れた感じのその横顔が「わっ、のはらさんもう来てくれたんだ!?」と驚いたようにこちらを見た。そうしてから再びデスクにかじりつくと、「ごめんごめん、ちょっと待ってね今これ書いちゃうから!」と焦ったように言う。書き付けているのは多分今日の昼分の報告書だろう。なんとなく手持ち無沙汰な感じで横で待っていると、ボールペンが急いで動かされ、やがてパタンとその書かれていたファイルが閉じられる。
「――はい!ごめんね~急にお願いしたのにお待たせしちゃって」
じゃあこれ、よろしくお願いします!と言って渡された黒いファイルには、端の所にテプラで作られたラベルが白く見えた。『小児科病棟』――今いる、私の職場だ。
「ほんとごめんね、お正月早々。今日が最後のお休みだったんでしょ?」
「いいですよー、どうせ家でごろごろしてただけですし」
「まったく、彼氏からインフルエンザうつされるなんて。ここでそんなの広められちゃったら大変よホントに」
眉を顰める先輩に、「でも彼女ちゃんと予防接種受けてましたし。仕方ないですよ、予防しててもうつっちゃう時はあるから」と苦笑すると、5つ年上の先輩は腰に手をあて「でもね、彼氏の方は受けてなかったっていうのよ?同棲してるんなら彼氏もちゃんと予防してくれないと」と言いふかぶかと溜息をついた。既婚者である先輩の旦那さんは、私達と同じ医療従事者だ。
「それでもね、休むなら休むでもっと早く言ってくれたらいいのに。ギリギリに言ってくるんだもの」
「でも、ほら、寝込んでいたんでしょうし」
「電話しても誰も繋がらないし。のはらさんだけよ~いつだって気持ちよく『ハイ』って言ってくれんのは。何任せてもキッチリ仕上げるし、丁寧だし、ホントあなたがいてくれて助かったわ」
急な出勤要請に対する詫びも入っているのだろう、過剰な程の褒め言葉にはちょっと辟易したが、それでもその後に続いた「のはらさんは絶対ここ辞めないでね~?」というやんわりとした牽制には、ニコリとした作り笑顔で返した。多分、先週突然辞めたいといって辞表を提出してきた、新人の子の事を暗に言っているんだろう。最初は三ヶ月、それが保てば次は一年。精神的にも肉体的にも過酷な職場は、入ってきた子達を少しずつ、だけれど確実に毎年削り取っていく。学校卒業後、地元で一番大きなこの総合病院に入った私の同期も、入職8年目となった今はもう片手で数える程しか残っていない。別にここが人使いが荒いという訳ではない。他所で働く学生時代の友人に聞いても、状況は似たようなものだろう。
「――あれえ、のはらさん?」
後ろから掛けられた野太い声に振り返ると、奥の部屋からひょっこり出てきた今夜の担当医は私を見て言った。中年に差し掛かろうという年齢のこの医師も、やっぱりちょっと草臥れ気味だ。仮眠明けなのか、若干薄くなりつつある後ろ髪が少し跳ねている。
「今日って休みじゃなかったっけ?」という首傾げな言葉に「ええと、そうだったんですけど」と答えようとすると、横から先輩が「ああ、急な欠員が出ちゃって。急遽お願いしたんですよ」と口を挟んできた。いつの間にかエプロンも外して、もうすっかり「帰宅モード」だ。
「そうかあ、折角の休みだったのになあ」
「あ、えーと……別に、特に用があったわけでもないので」
「そんな事ないだろー、オビト先生と約束とかしてたんじゃないの?」
「オビトとはそういうんじゃないですって」
もう何度繰り返してきたか解らないやりとりに(またか)と思いつつ、それでも一応愛想笑いで誤魔化すと、相好を崩した寝癖頭の医師は「またまた~、いい加減認めちゃったらいいのに。もう同じ職場にいるわけでもないんだしさ」などと悪気もなく言った。なんとなくそれ以上言う気も失せてしまい、黙ったまま下を向く。ここの病院を経営する一族の一員であり、小児科医でもある友人は、去年の春研修医の頃から勤めていたここを離れ、同じ地元で小さな個人医院を開院した。小学校からの幼馴染でもある彼との関係でアレコレ勘ぐった事を言われるのは、もう慣れっこの事だ。
(はァ……お腹、痛いな……)
今朝からじくじくと痛む下腹部に、引き継ぎを終えデスクに腰掛けた私は、ますます憂鬱な気分になった。毎月やってくるおなじみの痛み。憂鬱さと一緒にやってくる下腹部の鈍痛は、こちらの都合など関係無しに、毎回律儀に私を苦しめる。小学校の保健体育で初めて女性の体に『子宮』というものがあると聞かされた時、感じたのは人体の神秘でも生命の素晴らしさでもなく、ただ漠然とした不安だった。女子だけで集められた教室は妙な高揚感に包まれていたけれど、自分の中に生まれつき空虚な闇があるというその事実は、私にとってはなんだか酷く空恐ろしいものに感じたのを覚えている。
……もう一昔以上も前の記憶に思考を飛ばしていると、不意を打つかのようにエプロンのポケットに忍ばせてある院内PHSが小さく鳴動し始めた。表示された番号を確認してから、応答ボタンを素早く押す。昼間も担当した事のある、小学生の女の子からだ。
「どうしたの?」
『――あっ、リンちゃん?あのね、赤ちゃんが泣いちゃって』
「赤ちゃん?」
『…ちょっと来てくれる?』
開いていた誌面もそこそこに急いで向かうと、閉められた大部屋の扉からは既に甲高い乳児の鳴き声が漏れ聴こえていた。部屋に立ち入ると、ますますその声は大きくなる。
「リンちゃあん……」
暗がりの中からすうっと伸びてきた手が、頼りない呼び掛けと共にエプロンの裾を引っ張った。ちょっとドキッとして見れば、ナースコールを押した女の子がしどけなく寝巻きを乱れさせ、幽霊のようにふらりと立っている。
「どうしたの?」
「ううん、あのねー、あの奥のとこにいる赤ちゃんがね、急に泣きだしちゃって。みんな眠れなくて、困ってるんだよ」
見れば、大部屋のそれぞれのベッドではすっかり目を覚まされてしまった子供達が不安げな顔でカーテンを捲っていた。奥で泣く赤ちゃんは確か今日、脱水症状で運ばれてきた子だ。投薬や点滴等の処置も全て済んでいるし経過な筈だったが、大事をとって一晩院で様子をみる事になっていた。そういえばつい先程の引き継いだ注意事項の中に、この子のお母さんから近頃夜泣きが酷いという話があった事を思い出す。
「どうしようリンちゃん、眠れないよお……」
くしゃりと歪んだ幼い顔に、隠しようのない『不安』が滲んだ。ここは完全看護の院だから、ここにいる子供達は皆夜を親無しで過ごさなければならない。真夜中の病院は、子供からしたら起きているだけで結構恐ろしいものだ。
「そっかそっか、大丈夫、大丈夫だよぅ。赤ちゃんは私が連れてくからね、皆はもう寝てていいよ~」
よしよしと隣で途方に暮れる小さなおつむりを撫で、私は足早に泣いている赤ちゃんの傍に寄った。高い冊を下げてオシメが濡れていないのを素早く確かめ、さっと敷いてあったバスタオルでその子を包む。確かナースステーションに帰れば、温かなおくるみもスリングもあったはずだ。泣き止まない子を抱き上げて、ベッドにぶら下げられているクリップボードで前回のミルクの時間と計られた体温を確かめた。そうしてそのまま起きてしまった他の子供達に一言ずつ声を掛けながら、静かに扉を閉めそこを後にする。
泣く子を胸に音の出ないナースシューズの足音を更に殺しながら廊下を行くと、同じく懐中電灯をもった同僚と鉢合わせした。事情を話し腕の中の赤ちゃんを見せると、ひとつ下の彼女は(困ったねえ、でもしょうがないですかねえ)といった感じで苦く笑う。
「ごめんね、とりあえず私この子ナースステーションまで連れてくよ。寝たらそっと戻しとくね」
「了解です~。けど、寝るかなあこの子。強情そうなカオしてるなあ」
赤ら顔のほっぺたをちょっとつつきながら、困り顔の後輩は溜め息混じりに言った。確かに、しかめた眉毛や青筋のうすく見える眉間は、いかにも癇が強そうだ。それでも「じゃあ見回りはこのまま私が行きますね」という後輩にお礼を言いつつ、泣き声の響く廊下を急いだ。引き継ぎの時には生後三ヶ月だと聞いていたが、中々の声量だ。このままでは他の部屋の子達まで起こしてしまいかねない。
ナースステーションに戻り抱っこ紐の中に入れても、赤ちゃんはすぐには泣き止むことが無かった。きっと普段とは違う環境にいるのを、敏感に察しているのだろう。
(あ……しまった。つめ、取ってくるの忘れちゃった)
立ち上がって体を揺らしつつふと指先に目をやった私は、ようやく自分の明るい爪色に気が付いた。普段は滅多に塗る事のない薄ピンクのエナメルは、一昨日の晩に自分でやったものだ。どうせたいして気にも留められはしないし馬鹿馬鹿しい見栄だとわかってはいるのだけれど、東京に住む幼馴染が戻り三人で会う時、私はなんとなく普段はしないような事をしてしまう。いつもだったら仕事場には絶対つけてはこないのだけれど、急なピンチヒッター要請につい落としてくるのを忘れてしまった。今夜が夜勤で良かった。日中だったらきっと、目敏い先輩からの注意がすかさず入っていたことだろう。
(……カカシ、もう向こうに着いたかなぁ)
着いただろうな、と桜色の爪先に、そっと思った。今日の昼にはこっちを出ると言っていたから、何もなければもうとうに向こうのアパートに着いている頃だ。勤めている都内の高校が長いお休みに入ると、その幼馴染は必ずこの田舎に帰省する。早くにお母さんを亡くした彼の家には、今はお父さん一人がいるばかりだ。時々野菜を分けてもらうために訪ねると、老いてはいるけれども彼によく似た穏やかな面立ちが、ニコニコとしながら私を出迎えてくれる。そんなひとり上京している幼馴染が帰ってくると、地元に残るもう一人の幼馴染と私とで必ず一度は集まっては、なんとなくお酒を飲んだりゴハンを食べたりするのが習わしだった。宴会と呼ぶにはあまりにまったりとしてしまうのは仕方がない。私とカカシは元来のんびり屋の気質だし、オビトはカカシを前にすると妙に格好つけてしまうところが未だにあるのだ。
抱きぐせでもついていたのだろうか。泣いていた赤ちゃんは抱っこ紐の中でしばらく揺られていると、やがてゆっくりと落ち着きを取り戻してきたようだった。ゆらゆらと体を揺らし、寝息が整うのを待つ。まだベッドに下ろすには眠りが浅い。大部屋に戻すには、もう少し深くまで寝かしつけないと。

「おお~、さっすがのはら主任。子供の寝かしつけもお手のモンだな」

出し抜けに掛けられた声に驚くと、ナースステーションの入口で寄りかかる黒ずんだ人影に気が付いた。短く刈った髪、学生の頃からずっと着ている、ネイビーのダッフルコート。いつの間に来たのだろう、おそろしく重たいそれをざっくりと着込んだ幼馴染の一角が、腕組みしてこちらを眺めている。
「……いついらしたんですか、オビト先生」
「ん?今さっき。そいつがギャン泣きしてる時」
「面会時間はとっくに過ぎてますよ。この時間は関係者以外立ち入り禁止です」
「えっ、なんでオレちょー関係者ですけど。うちはの一員だし院長の弟だもんね」
悪びれることなく笑うその顔に呆れつつ、「こんな時間に…何しに来たの?」と尋ねると、ドア枠から体を起こした彼は飄々とした様子で「ああ、うちの患者さんでちょっと気になる子がいて。こっちで詳しく検査してもらおうと思って、検体持ってきたんだ」と近付いてきた。確かにひとり位は居残りがいただろうけれど、こんな時間に持ち込まれるとは検査部もさぞや眉をしかめた事だろう。
「……なーんて、嘘。本当は、コレ届けにきたの。昨日うちに忘れてっただろ?」
さっきリンの家に寄ったら、おばちゃんが今日代打で夜勤になったって言ってたからさ。そう言って差し出された小ぶりのシュシュは、確かに昨日オビトの家に三人で集まった時、自分が持っていたものだった。そういえば最後に洗い物をするのに髪を纏めて、そのままどこにやったかの記憶がない。
そっかごめん、ありがとう。小さく言って、受け取った。手応えのないシフォンの感覚が、手のひらの中で頼りなく潰れる。
「――あれ?」
「うん?」
「なんかさ、リン――今日、調子悪い?」
近くに来たオビトはさっと私の顔を一瞥すると、迷うことなくいきなりそう宣った。言い当てられて密かにギクリとする。痺れるような腰の気だるさと思うと、じわりとした痛みがまた下腹部に広がった。ああ、本当にうっとおしい。どうして女ばかりがこんなものを毎月経験しなければならないのか。
それでも不快感を押し込みながら「ううん、全然。そんな事ないよ」と笑ってみせると、しげしげと私を見ていたオビトは(ふうん?)と言ったように首を傾げた。いくら親しい間柄でも、男友達相手にこういう話は流石に出来ない。
「……昨日は送ってくれてありがとう。あのあと二人してまた飲んでたの?」
ポケットにシュシュを滑り込ませると、話を有耶無耶にするべく私は言った。帰り際、食べ散らかしたテーブルの上の片付けは大方済ませたけれども、オビトとカカシはまだ飲み足りない様子だったのを思い出す。独り住まいのオビトの部屋から徒歩で私を家まで送ってくれている途中にも、帰りにアルコールの補充をしにコンビニに寄ろうなどと話していたような気がする。
「うんそう。まあでも、もう朝までは起きてらんねえなー。適当なとこで寝ちゃった」
「カカシ、またオビトのとこに泊まったんだ?」
「そーだよ、今朝なんかムズムズすると思って目が覚めたら、鼻先であいつのホウキ頭がふわふわそよいじゃっててさあ。ウゲッてなって飛び起きたら、いきなり昨日の晩カカシが食ってたナッツの殻踏んづけて超痛いし。もーホント最悪。マジあいつもう泊めねえ」
心底げんなりした様子で語られる話に、情景が思い浮かんだ私はクククと喉を揺らした。オビトの「マジあいつもう泊めねえ」は毎度の事だ。そんな事を言っているけれど、この二人は次もまた絶対に同じことを繰り返す。カカシはカカシでオビトの事を褒めた事は一度だってないけれど、それでも二人はやっぱり仲がいいと思う。
抱っこ紐の中の赤ちゃんは深い寝息をたて始めている。むにゅむにゅと動く口許が薄く開いたまま止まったのを見計らって、ナースステーションの角に置かれたベビーコットの中に、くうくうと眠る赤ちゃんをそっと横たわらせた。このまま起きだしてこないようなら、あとで病室のベッドに戻してあげればいいだろう。ふーっとひとつ息を吐き、重く痺れる腰を伸ばす。
「あ、そういえば」と振り返りざまに言いかけたところで、オビトから出された「あのさ」という声が重なった。なんとなく黙ってしまってから苦笑いしあうと、意思の強そうな眉がひょいと上がって「……わり。リンの方が先だったな」と先回りされる。
「そっかな、同時だったよ」
「んー、いや僅差でオレの方が負けてたね。リンの勝ち」
先言えって、口調の割に穏やかな目で促され、私はちょっと黙った。傍目からは逆に思われがちだが、昔から紳士的なのは実はカカシよりもオビトの方だ。
「……そういえばサスケくんのお手伝いって、今日からだったんでしょ?どうだった?」
昨夜出た会話からふと思い出した話題に水を向けると、早々と気持ちを切り替えたのか再びおちゃらけた様子に戻った幼馴染は、「ああ、サスケ?」と何故か鼻白んだ。確か昨日、今日から冬休みが終わるまでの間、彼の甥にあたる少年がオビトの病院へ手伝いに来てくれるとか言っていた筈だ。
うーん、まあアイツ、一応使えるは使えるんだけどさあ。顎を掻き掻き、オビトは言った。無駄に女子の患者が待合室に溜まる上に最終的にはそいつら泣かすから、余計めんどくさい事になるってのがわかって。
むくれた顔で話される内容に、高校生であるその少年の憮然とした顔が目に浮かんだ。小さな頃から顔立ちの整った彼の甥っ子は、その優男然とした外見に反して中身は実に雑駁としているのだ。
「なァんで女ってのはああいうタイプが好きなのかねー、ありゃただ単に暗いだけだろ。兎にも角にも兄貴一筋で友達もいねーしよ」
「違うよー、ああいうのは『影がある』っていうんだよ」
「むぅ……じゃあオレももっとダークな感じにイメージチェンジしてみようかな。『オレは今地獄にいる…』とか言ってみちゃったりしてさ」
「なにそれ、オビトにはそんなの似合わないよぅ」
妙に低く作られた声音と科白にアハハと笑うと、不貞腐れた横顔が「ちぇっ」と舌を打った。「オビトはオビトだもん。そのままの感じがいいって」と体を揺らすと、その頬が憮然として膨らむ。せっかく子供の頃と比べすっかり線の締まった顔付きになったというのに、これじゃ台無しだ。
「え~、そのままの感じってどんなんだよ」
「んん……なんていえばいいのかなあ、怒りたい時怒って、笑いたい時はちゃんと笑って」
「すげえ馬鹿っぽくね?それ」
「もう、そんな事ないって!あ、そーだほら、あの子みたいな感じだよ。カカシのお気に入りの…」
「ああ、ラーメンくん?」
「違うって、ナルトくんでしょ?」
引き合いに出したのは、もうひとりの幼馴染が昨夜話題に出した教え子の名前だった。東京都内の私立高校に務める彼は、最近とみにそのナルト少年なる生徒がお気に入りらしい。今年のお盆休みに会った時にも「なんかオモシロイの入ってきたんだよ~」と笑っていたのだが、昨夜は可笑しさに涙を滲ませながら、その彼の爆笑珍回答集を披露してくれた。
「あの子モテモテだって。カカシ昨日言ってたじゃない」
「モテモテって、オトコにだろ」
「そんな事ないよぅ、ナルトくん年上のお姉さまとも付き合ってるんでしょ?女の子にもちゃんとモテてるって」
だからオビトだって大丈夫だよ~と笑って太鼓判を押すと、ふてたようにしていた色の薄い唇が、何か言いたげにむずりとした。それには気がつかなかった振りをして、デスクに戻った私は音をたてないよう椅子を引く。
「……高1かあ……」
ぎし、と小さく鳴る椅子に腰掛けると、立ち尽くしていたオビトは「ん、」と有耶無耶な頷きをしながら私のいるデスクに寄りかかった。机の端に、構わない様子でお尻を乗せる。ここにいる頃散々婦長に行儀が悪いと叱られていた悪癖は、どうやら未だに治っていないみたいだ。まあしかし、それも仕方ないのかもしれない。なにしろこの癖の始まりは、私の覚えている限りでは小学生の頃からだ。
「16歳だ?」
「うん。だな」
「ひゃ~若いなあ。うちらが高校卒業してから何年?11……あれ?12年?」
「12年じゃねえ?今が30なんだから」
「すごい昔になっちゃったねぇ。干支がひとまわりしちゃったよ」
「……確かに。リンの例えもなんか、年寄りじみてきてるしなあ」
むむっ、失礼な!とふくれつらになると、そんな私にデスクに腰掛けたままのオビトは、余裕そうにニヤニヤしてみせた。見た目はお互い随分と大人びたけれど、こうして喋っている時のリズムは昔のままだ。夕方の教室で、昼休みの屋上で。いつだって私達は、こんな風に他愛ない言葉を重ねてきた。口の中に放り込むとすぐに溶けてしまう程度のそれらは、まるで色とりどりの砂糖菓子のようだ。たくさんたくさん集めたそれを、私は丁寧にビン詰めにして、胸の奥に仕舞いこんでいる。
「うん――…でも、本当。昔になっちゃったねえ」
オレンジ色に染まる教室を思い出したらなんだか胸が詰まるようで、苦しさを逃すかのように私は深い溜息をついた。朝から晩まで、世界の全てが正三角形の中に納まっていた頃。……一番最初に『いち抜けた』をしたのは、カカシだ。地元の大学に進んだオビトと私とは違い、ひとり上京したカカシは都内の大学を卒業した後、私たちには何の相談も前触れもないまま海外の大学に再び入学してしまった。数年後に帰国した後もこちらへ戻ってくる事はなく、何を思ったか突然都内の私立高校に職を決めてきて、そのまま今も教師として勤めている。
「――ごめんね、先に話しちゃって。それでオビトの話はなんだったの?」
そのままついぼおっとしてしまいそうになるのを押し戻して、私は訊いた。月経中はどうも頭もぼんやりしがちだ。昔から軽い方ではなかったけれど、こういった気鬱な感覚は年々酷くなっている気がする。
そう思い、ちょっとしゃんと気合を入れてオビトに向き直ると、向こうは向こうで何か思っていたらしいかった。はたと気が付いた顔が、ちょっと真面目にこちらを見る。
「ああ、そうだええと――まあ、さっきのサスケの話とも被るんだけどさ」
ためらいがちに口を開いたオビトが、ゆっくりと話しだした。言いにくい事なのだろうか、ほんの一瞬息を詰めるような気配がする。
「リンさ。今度の春からでいいから、オレの病院手伝ってくれない?」
「え?手伝いって、お休みの日にってこと?」
「じゃなくて。ここ辞めて、正式にうちの看護師として。今いるばあちゃんの後任で入って欲しいんだ」
唐突な誘いにちょっとポカンとしていた私だったけれど、続けられた「ばあちゃん」という単語ですぐにその見当がついた。去年この総合病院を辞めて地元で個人医院を開院した彼は、その際にここの小児科で看護婦長をしていた女性を、新しい病院のスタッフとして引き抜いていったのだ。いや、正確には引き抜いていったというより、楽観的すぎる弟の事を心配したここの院長が、指導兼お目付け役として定年間近であったベテラン看護師を差し向けてくれたと言ったほうが正しい。婦長も小さい頃からよく知っている彼の事であるし、若い小児科医の先の怪しい開業を快く手伝ってくれていた(とかく老人と子供には好かれるのだ、彼は)のだが、ここのところあまり体の調子が良くないのだという。
「だから段々と来てもらう日も減らして、近々完全にばあちゃんの後を引き継いでくれる人が欲しくて。まあそれでなくとも患者さんの数もかなり増えてきたし、実際全然人手が足りなくてさ」
入職以来随分とお世話になった婦長の福々しい顔を思い出しつつ話を聞いていると、喋っていたオビトはふと口を噤んだ。やがて「今の感じだったら多分、来てもらったのにいきなり失業とかいうような憂き目にも、合わせずに済むと思うし」とぼそっと呟く。存外真面目に言われた言葉に「憂き目?」と笑うと、ムッと黙った顔が面白くもなさそうに「……開院する前、カカシに言われたんだよ。オレはともかくあっさり潰して、従業員を路頭に迷わせるなよって」と零した。出鼻を挫くような発言だけれど、いかにも慎重なカカシの言いそうな事だ。
「なるほど、手厳しい」
「ほんっとイヤミだよなアイツ」
「そんな事ないよ。カカシは間違ったことは言わないもの」
私の言葉に歯切れ悪く口を噤んだオビトはなんとなく不満げにデスクの上に乗せたお尻をもぞもぞとさせていたが、そのうちに渋々納得したかのように唸ると「そらまあ、そうなんだけど、さ」とおもむろに呟いた。随分と成長したけれども私がカカシを擁護すると機嫌が悪くなる所は、昔から全然変わっていない。
なんとなく落とした目線を上げられずにいると、不意にオビトが「…そういえばさ」と言った。
何気なさを装っているけれども身構えた感じが、ありありと浮き出た声だ。
「カカシのやつ昨日、なんか珍しく阿呆な事言ってたけど。あれ、気にする事ないからな」
「阿呆な事?」
「あんなの聞かなくていいから。つか即忘れていいし」
ああいうのやめろって、昨日ちゃんと言っといたから。
低く呟くオビトに「なんで、別にいいよー」と宥めるように笑ってみたけれど、どうもそれは上手くいかなかったようだった。彼が怒っているのはきっと、昨夜缶ビール片手に赤い顔したカカシが上機嫌で喋っていた話だろう。「学校の職員室にさ、なんかすごく気になる人がいるんだよね」とカカシは話していたのだった。まだあまり喋った事はないけれどやはり今年入ってきたばかりのその事務員は、実に美味しそうな筑前煮をお弁当箱に詰めてくるのだという。
……そこにきてようやく、私はこの幼馴染がわざわざこんな夜更けに仕事場まで様子を見に来てくれたのかに気が付いた。シュシュを返すのも病院に誘う話も、明日の朝でも充分に間に合う話だ。オビトは心配して来てくれたのだ。私が泣いているんじゃないかと。落ち込んでいるのではないかと。
(ほんと……バカだなあ、オビト。私は本当に、気にしてなんかいないのに)
幼馴染からの澄んだ思いやりに触れると、自分の情けなさにまた暗澹たる気分になった。いつだって私はこうだ。オビトからの純粋な好意に甘え、カカシからの緩やかな拒絶に甘えている。オビトは私がカカシを誰かに取られてしまうのを恐れていると思っているようだけれど、現時点ではそんな事絶対にありえないのだ。だって私は知っている。カカシはオビトが幸せにならない限り、決して自分の幸せを求めない。それをわかった上で私はオビトから向けられてくる熱意を、幼い頃からずっとはぐらかし続けているのだった。その傍らで素知らぬ顔して、成就も望まず、ただゆっくりと憧れ続けているだけの子供じみた片思いを、生ぬるく続けている。
――ああ、お腹痛いなあ。
真っ直ぐにぶつけられてくるオビトからの視線に、思わず逃げるように下を向いた。身の内に溜まる鈍い痛み。ドロドロとしてわだかまる濁った血は、まるで狡くて卑怯な私自身の本音のようだ。八方美人で、どちらからも嫌われたくなくて。作った笑顔の裏側で、こんないい年になってもまだ意固地なプライドと、どうしようもない幼稚さを抱え続けている。どちらにも思い切れないのは結局、自分が臆病だからだ。私は私達の関係性が動いて、『三人』でいられなくなってしまうのが何よりも怖い。『友達』の位置を失って、なんの不安もなく親しみを分け合えるような関係が消えてしまうのが怖い。結局のところ私はカカシへの片思いを言い訳に、やさしいふたりを永遠の三角関係の中に縛り付けたいと思っているだけだ。お人好しのオビトは気が付いていないかもしれない。けれどカカシはきっととうに、薄暗い私の願いに気が付いているだろう。私の中にある澱んだ闇に、あの聡い人は気がついているだろう。

「――…ふにゃあああん!!!」

……不意打ちのような泣き声にハッとして振り返ると、ナースステーションの端でつい先程まですやすやと落ち着いた眠りについていた筈の赤ちゃんが小さなこぶしをぱたぱたと動かしているのが見えた。話もそのままに、慌てて座っていた椅子を引いて立ち上がる。ベビーコットを覗き込むと、赤ちゃんはまんまるな顔を真っ赤にさせて、涙を出さずに全力で声だけを上げていた。なにが気に食わないのか、閉じている時にはあんなにも小さなかった口が、嘘みたいにぽっかりと大きく開いて喉の奥を見せている。
辺りを構わない大声に毒気を抜かれたのだろう。途端に普段の様子に戻り「なにそいつ、腹減ってんの?」と小児科医らしい動じなさで事のんびり尋ねるオビトに、「うーん、どうだろ。ちょっと抱きぐせついちゃってるっぽいんだよねえ」と返しながら、私は再びその子をおくるみで包んだ。いけないいけない、すっかりオビトと話し込んでしまった。もうそろそろ仕事に戻らなきゃなどと思いつつ、赤ちゃんを抱き上げながら中腰になっていた上体を起こす。
……あれ?とようやく思ったのは、下を向いていた頭が持ち上げられた時だった。
なぜだろう、首筋から背中がやけに寒い。
あれよという間に冷や汗がどっと出たかと思うと、上から下へとすうっと血が引いていくような感覚が全身を抜けていった。見慣れた目の前の景色が、ゆっくりと暗転していく。冷たく痺れていく指先、折れかける膝。しまった、これは――貧血だ。
咄嗟に「ごめんオビト、赤ちゃんを」と言いかけたのと、ダッフルコートの腕が伸びてきたのはほぼ同時だった。抱いている赤ちゃんごと後ろからぐっと抱きかかえられ、しっかりとした力に支えられる。
「――…っと!ほら見ろ、やっぱ具合悪ィんじゃねえか」
どこか呆れたような口振りが、頭の上から降ってきた。「なに?風邪気味なの?」という問い掛けに、言い様がなくて口を噤む。
「ダメじゃん具合悪いならこんなとこ来ちゃ。リンも悪化するし、院内感染とか絶対ダメだろ」
「あっ…じゃ、なくて。病気とかじゃ、ないから」
「ん?そうなの?」
「うん。あの…………ちょっと今、貧血気味で」
小声で打ち明けると、そこでようやく彼にも察しがついたようだった。「……あっ!?」という変に裏返ったような気付きが頭上で聴こえる。わかってしまった途端、この体勢が妙に気まずく思えてきてしまったのだろうか。後ろで支える大きな体が僅かに身じろいで、助けるように私の手に添えられた大きな手のひらがしっとりとしてくるのが伝わってくる。
オビトからの緊張が、伝染したのだろうか。
思いがけない力強さと後ろに感じる確かな熱に、なんだかこちらまで体が動かない。
「……ごめん、もう大丈夫だから。ありがとう」
薬あるし、今ちょっと飲んどくね。そう言って、ようやっと回された腕を外そうとした瞬間、そんな私の動きを押し切るかのように腕が締まり、私は更なる強さで抱きしめられた。
オビトからのかつてない行動に、驚いた喉が引きつったような音を立てる。
「ちょっ…びっくりさせないでよオビト、あぶないって…!」
「……リン……」
後ろからの張り詰めたような気配に、驚きにひっくり返った声はあっけなく鎮められた。
背中に感じる、大きな熱。甘えるような仕草でその頭が擦り寄せられると、日なたじみたオビトの匂いに全身が包まれるようだった。短くてつやつやの黒髪が揺れ、そわりと頬に触れてくすぐったい。
「…オビト?」とおそるおそる掛けた声に、ぴくりとその肩が揺れた。
固く回された長い腕に今更ながらに早鐘を打ち出した心臓が、湧き出る焦りを妙に煽る。
「……ど、どうしたのオビト、なんか、ちょっと……」
狼狽えを押し殺しつつ口を開くと、またひとつ腕の力が強くなった。
耳元に寄せられてきた唇があるかなしかのような小さな吐息で、短い言葉をそっと紡ぐ。


「オレの方に来て」
「え?」
「お願い。――来て」


……祈るような掠れた声に、子供の頃とは違う厚みのある存在感に。
言いかけたまま言葉を失った私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。こちらに構わない強い腕は、まるで未知なる人のようだ。どきどき鳴る鼓動が触れているところから伝わってしまいそうで、何故だか酷くそれが恥ずかしい。
わんわんと胸元で響いている泣き声がなんだか遠い。天井から落ちてくる蛍光灯の明かりも、眠りに沈む病棟の空気も。なにもかもから現実感が抜け落ちて、幻の中にいるようだった。ただ後ろから覆ってくるオビトの体温だけがひたすらにリアルだ。重ねてくる手のひらはほんの僅かに震えて、彼からの湿った熱がじんわりと伝わってくる。
「……あ、あの……」
衝動に任せた行動だったのだろうか。
そのまま全く動かなくなってしまったオビトに、ようやく舌が動かせるのに気が付いた私が小声で呼び掛けると、ハッと気が付いた様子の彼は勢いよくガバリと顔を上げ、慌てふためきながら体を離した。
「うっ…嘘!今のナシ!!」と叫び飛び退いたところで、背後にあったデスクの角に思い切りお尻をぶつけている。
「イ゛ッ…!!」
「……大丈夫?」
「だ、だいじょーぶだいじょーぶ!平気!全然!!」
お尻を抑えながら苦悶の表情を浮かべるオビトに気遣うと、耳の先まで赤くなったその顔がへらっと崩れ、どう見ても無理やり作り上げたようなカラ笑いを浮かべた。その音に驚いたのか、大口を開けて泣く赤ちゃんの声が更に大きくなる。
オビトのこめかみをよく見ると、汗の玉が伝っている。貧血で冷たくなっていた私の指も、いつの間にか熱で染まっている。
「――あれえ?オビト先生じゃないですかァ。どうしたんですかこんな時間に」
前触れもなく飛び込んできた後輩の声にぎくりとすると、お尻を押さえているオビトはもっと驚いたようだった。振り返ってみると、どんどん大きくなっていく赤ちゃんの泣き声に戻ってきてくれたのか、ナースステーションの出入り口に巡回中の筈の後輩が顔を出している。
「泣き声止まないから戻ってきてみれば。なんですか、わざわざ子供泣かしに来たんですか?」
「……おっ?おお、あーなんだ、その、院長に会いに来たついでに、古巣の様子をうかがいにね」
「まーた、そんなウソ言って。敵情視察でしょ?」
真っ暗な廊下から懐中電灯を持って現れた同僚は、しどろもどろとなるオビトに向かいざっくりと言った。よかった。どうやら彼女には、特に何も見られてはいないようだ。ケラケラと屈託なく笑う彼女にホッとしながらも、腕の中の赤ちゃんを抱き直しゆらゆらと揺らした。すっかり機嫌を損なってしまったのだろうか、ついさっきはすんなりと眠りについてくれていたその子は、今度は中々その癇癪を収めてくれない。
「……じゃ、オレ、そろそろ行くわ」
ふかぶかとした溜め息と共に呟いたオビトに「ん、」と苦笑いすると、後輩からの軽口を作り笑いで受け流しつつ、くるりとオビトは回れ右をした。傍目からもわかるほどにがっかりした背中が、よろよろと出口へと向かう。
そのままドア枠に手を掛けてナースステーションを出ようとした彼だったけれど、暗い廊下に一歩足を出そうとした時、突然「…あ、そうだ」と呟いた。中々泣き声の収まらない室内で、なんだか妙にその声だけがくっきりと残る。
「つめ」
「え?」
「つめ、かわいいな」
言われた事の意味に気が付くと、なんだか急に指先が恥ずかしくなってきた。「あ…えっと、落とすの忘れてきちゃって。それにやり慣れてないから全然綺麗じゃないし」と言い訳じみた返事をする私に、すっと目をこちらに流したオビトがほのかに笑う。
「いいじゃんそんなの。気にすんなよ」
オレはぜェんぜん気にならないね、と去り際に小さく付け足された言葉は、なんだか私に向けてというよりも独り言のように聞こえた。胸に抱いた赤ちゃんの大きな声が、遠ざかっていく足音をかき消してしまう。
……顔が、熱い。
もやがかったような頭で(ああ、鉄剤はどこだっけな)と考えた時、「……な~んちゃって。見ましたよォ先輩、いっけないンだ~」という嬉しげな声と共に、笑う後輩の好奇に輝く目が、うろたえる私をニンマリと捕まえた。

遠くに群れ立つ人影を見つけた途端、繋いでいた小さな手はパッと離され駆けだした。遠のいていく後ろ姿を見送ると、一瞬立ち止まった私はぐうーっと背中を延ばし、先に見える立派な黒門を遠望する。道の脇で固まるシロツメグサが、田を渡る風にそよいでいる。深呼吸をすると昨日の雨を吸って湿り気を帯びた空気が、甘い余韻を残して胸を抜けていった。すっかり雲の消えてしまった空は高く晴れ渡り、降り注ぐ日の光は青く張られた水面でぴちぴちと跳ね踊っているようだ。
はやる気持ちを抑えながら、ほんの少し速度を上げ私は再び歩き出した。本当の事をいえば私だって、いっそ駆け出したい位なのだ。だって揃った彼らに会うのは、実に久しぶりの事で。特に金色の彼の方はもう10年も前から話ばかりはよく聞いていたのに、結局まともに喋った事は殆どないままなのだった。今回こそはちゃんとお話が出来ると思っていたのに、また顔を見る事しか出来ないだなんて。結局またお見送りにしか来られなかっただなんて、あんまりではないだろうか。

「――さすけにぃに~!!」

先に彼らに到達した娘の、甲高い声が空に響いた。小さな体目一杯で飛び込んでくる子を、黒髪の青年が難なく受け止め抱き上げている。そんな二人の様子に、隣で衝撃に固まったまま立ち尽くしている金髪の男の子は、前回は一瞬しか会うことが出来なかったけれど間違いなく以前うちの病院に寄ってくれた彼だ。予想していた通り、数年前と同じ空色の瞳をまんまるにしている姿に、そわついていた心はいっそう愉快な気分になる。
大きな門の前にまでようやくたどり着くと、ミコトさんが笑顔で「どう?少しはゆっくりできた?」と尋ねてきた。「はい、ありがとうございました」と同じく笑顔で返すと、ゆったりと傾げられた首に黒髪が流れる。昔から憧れていたこの綺麗な人は、今では私の義理の姉だ。そうして私は「のはら」から、「うちは」の姓を名乗るようになっている。
「イズナちゃん、ほんのちょっと見ない間にまたおっきくなったわね。髪も伸びて、すっかりお姉さんね」
黒髪の青年に抱き上げられる娘の、その小さな頭の後ろでちょこちょこんとふたつに分けて結ばれた髪を見て、ミコトさんが言った。その言葉に、おしゃまな娘はくふふと鼻を鳴らすような笑いを漏らすと、(どう?)というように、ぴんぴんと先を尖らせている髪先をちょっと摘む。
「あ、ゴムもすごくカワイイのしてる。素敵ね、ちっちゃいイチゴがふたつも付いてるの」
「いちごじゃないよ、とまとだよ!」
「あらら、ほんとだ。珍しいわねえ、トマトの髪飾りなんて」
「きのうねえ、ママがかってくれたんだ~」
「そうなんだぁ、よかったねえ。頭もお母さんにやってもらったの?」
「うん、そうだよ!ママがね、きょうはサスケにぃにとあえるから、みてもらおうねって」
そう言ってから改めて「にぃに、みて!」と自分を抱き上げてくれている青年に後ろでツヤツヤと初夏の日差しを受け光っている髪飾りを自慢すると、間近でそれを見た彼は娘とそっくりなその瞳を、やわらかく細めた。「うん、似合ってるぞ」という返答とふわりとほどける綺麗な口許に、満足した娘はそのふわふわしたほっぺを赤らめて、(えへへ)とさも嬉しげに笑う。
「どうかね、保育園の方は。安心して預けられそうかい?」
はしゃぐ娘に目を細めていた義兄からの質問に、私はこっくりと頷いた。先日見学しに行った地元の保育園は、病院からも程近く送り迎えにも便利だ。集団生活は初めての娘だけれど、物怖じしないあの子の事だから多分すぐに慣れるだろう。それよりもむしろ、心配があるとしたら親達の方だ。私は久々の現場でちゃんと昔の勘が戻ってくるか正直不安だし、オビトは娘が自分の目の届かない場所に行くと考えるだけで、気が気じゃない筈だ。なにしろたったこの二日間の間だけでも、絶対禁止だと言っておいたのに耐え切れなかった彼はここの人達の目を盗んでは、こっそり娘に電話を掛けてきていたし。
「――あのっ…ちょ、すいません、オレだけなんか説明が無いままなんスけど…!!!」
「どーゆー事なのこれってば!?」とひとりだけ泡を食ったような様子の青年に、黒髪の甥っ子に抱き上げられたままの娘はその黒目がちな瞳をきょとんと大きくさせた。少し癖のある黒髪も、切れ長のくろぐろとした瞳も。唇だけは娘の方が流石に少女めいてふっくらしているが、その雪のように白い肌などはすべてこの愛すべき甥にそっくりだ。
「にぃに、このヒトだあれ?」
大好きな従兄妹に抱き上げられたまま、隣で呆然とする金髪の青年を眺め舌足らずに尋ねる娘に、相方を一瞥したサスケくんは「フン、」とあざ嗤うかのように鼻を鳴らした。そうしてからにっこりと(私の知る限り彼がこうも素直に笑うのは、イタチくんがいた頃以来だと思う)その麗しい顔にほほえみを浮かべると、「こいつはどっかのウスラトンカチだ。イズナが気にする必要は全くないぞ」などと、結構酷い事をしれっと告げている。
「ひどッ……なにその説明!」
「うっせえお前の紹介なんかこんなんで充分だ」
「つかなにこの子、まんまちっこいサスケじゃんか!なんなのこれ、似すぎだって!!」
「悪いかよ。血が繋がってんだから、顔が似てても別に何もおかしくねえだろ」
その言葉にナルトくんが「えええ!?なにそれこの子オマエの隠し子ってコト!?産んだの!!?」と真面目に驚くと、何が着火点だったのか急にカッとなった様子のサスケくんが「ばっ…ふざけんのも大概にしろよ、そんなワケあるか!」とひと声怒鳴った。怒り心頭な様子で唸ったサスケくんは娘をしっかりと抱きかかえると、そのまま横にいる青年に向け容赦ない蹴りを繰り出す。ぎゃっと叫びながらも器用にそれを避けるナルトくんは、まだ口が空いたままだ。そんな二人を興味深そうに見詰める娘は、お気に入りの『にぃに』の胸にぎゅっとしがみついて離れる気配がない。荒っぽい動きにもぽんぽんと飛び交う怒声にも、あの子は全然動じない。こういうところは実に父親似だ…いいのか悪いのか今ひとつ判断は付きかねるが。
「そーだそーだそんなワケあるか!この子はれっきとしたオレの娘なんだかんな!」
イジュナ、おいで~~~という猫撫で声に、黒いTシャツにしがみついていた娘はすんなりと手を伸ばした。脇からすくい上げるように小さな体が取り上げられると、鈴を転がすような笑い声が楽しげに宙を舞う。高い高いをサービスされた娘はやがて抱き上げてくれたリネンシャツの胸元に収まると、額を摺り寄せ嬉しげな声で「パパ」とひとつ呼び掛けた。それを聴いた途端、くっきりとした切れ長の瞳が見開き、じわっとそこに膜が張る。そうして広い背中が娘を抱え込むようにして丸まめられたかと思うと、そのままきゅんきゅんと身悶えするようにうねり出した。大体の予想はしていたけれど、やはりうちの夫は結構な重症患者だ。私に対しても目を見張るものがあったけれど、それが対我が子となると更にそのリミッターが外れるらしい。
「――うわああんイズナ、会いたかったよおおお!!!」
「…パパ」
「寂しくなかったか!?パパは死ぬほど寂しかった!!」
「うん、いじゅなもけっこうさびしかったよー」
「はっ!どうしたんだイズナ、たった二日会わなかっただけなのに、また更にかわいくなってるじゃねえか…!!」
「パパ、だいじょうぶだよ。きのせいだよ」
「どうするんだイズナ、こんなにかわいいのにまだ更にかわいさを増してくなんて!オマエにもやっぱ羽が生えてんだな、ちくしょーパパはどこにも飛んでいかせやしねェぞこんにゃろがァ!」
「……うー……やめてパパ、くるしーよぅ」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる父親に慣れた様子で力なく言った娘は、助けを求めるかのように私をチラリと見た。「オビトったら…もうわかったから。いい加減離れなって」と助け舟を出すと、ようやくその腕が緩み、解放された娘が「ぷはー」と息をつく。
「……あの……リンさん、ですよね?」
話しかける間合いを測っていたのだろうか。ようやくおそるおそる確かめてきた金髪の男の子に、私はにっこりと頷いた。ぱちくりと瞬く青い目が、改めて娘と私の夫をしげしげと眺めている。えっ…てことはアレですか?リンさんてオビトさんと結婚したって事?ポカンとする口から出た明らかに半信半疑な口調に、妙なおかしさがこみあげてくる。
あの晩。病院を手伝って欲しいとオビトから誘われた私は、結局次の春から、オビトの個人医院で働き始めた。結構、悩んだのだ。当時の職場だって人が余っていた訳ではないし、なによりオビトの院に行ってしまえば、きっともう進むべき方向は、ほぼ決まってしまうようなものなのだから。その後もぐずぐずと友達以上恋人未満みたいな半端な関係でうろうろしていた私達だけれども、ふとしたきっかけ(それがどんなきっかけだったのかは、恥ずかしいのでここでは秘密だ)で体を許しあうようになった時、全く意図していなかったけれども授かったのがイズナだった。名前を付けたのはオビトだ。曰く、この名前にしておけば、もれなく『すンごい守護霊』が付いてくるのだという。――オビトは昔から、大層なおじいちゃん子だ。
……正直、その当時の私がオビトに対して恋をしていたかと訊かれれば、今でもよくわからない。だってあれは恋と呼ぶには、あまりにも穏やかで親密過ぎるもので。それでも自分のお腹の中にひとつの命が宿ったのだと知った時、感じたのは全身が震える程の強烈な喜びと、澄んだ感動だけだった。私はとても嬉しかったのだ。私のお腹の中にいる子に、オビトの血が流れている事が。その素直な歓喜だけは、絶対のものとして信じてみようと思った。不安も迷いも無かったわけではないけれど、それでもまっさらな命が私達を親として選んでくれたというその事実を、ただまっすぐに信じてみようと思ったのだ。
「そうだよ~久しぶりだねえ、ナルトくん。うれしいな、私の事覚えててくれたんだ?」
笑顔でそう言うと、昔よりも男らしくなった顔がドギマギと少し赤くなった。多分レンタカーなのだろう、家の前に停めているクーペのウィンドウに、なんだか照れたような横顔が映っている。
「そりゃもちろん覚えてます、覚えてますけど……!」
「あれ?そんなに私、昔より老け込んで見える?」
「は?いやいや全然そんな事ないですってば!じゃなくて、オレってばサスケからこっちでオビトさんに会っても、リンさんの名前は禁句だから言うなって言われてて!」
大きな体を申し訳なさそうに縮こまらせる彼は、それでも記憶の中にある彼よりも更に生き生きとしているように見えた。気持ちよく育った大きな体に、以前より短くなった髪がよく似合っている。
「サスケんちでもまるで避けてるみたいに誰もリンさんの事口にしなかったし、その子の事も話題にされなかったし。だからオレってばてっきりオビトさんは本格的にフラれちまったんだと……!」
「バーカ。誰がそんな事言ったんだ、勝手に話を作んなよ」
不遜な態度で横から入ってきた甥っ子は、空いた両腕を組むと、未だ驚きから抜け出せない様子の相方を小馬鹿にするように目を眇めた。この子もまた昔と比べ、随分と雰囲気が変わった。怜悧な印象は一段と増したけれども、口を開けばどことなく角が取れたように思えるのは、きっと彼が唯一人の誰かと繋がることの尊さを、身をもって知ったからだろう。
「ええ?じゃあなんでわざわざ禁句だなんて。あれはなんだったの?」とやっぱりわからない風のナルトくんに、思わずくすりと笑いがこぼれてしまった。そんな相方へ、腕組したままのサスケくんがあっさりと答えを告げる。
「慣らし保育だ」
「へ?ナラシ?」
「慣らし保育。連休明けから、イズナが保育園に入るんだよ。リンさんが病院に復職するから」
「…はあ」
「今まで病院の二階にある居住スペースにずっと二人共いたから、会いたくなるとしょっちゅう仕事抜け出してイズナ見に行ってやがったんだけど。でもイズナが保育園入ったら、さすがにそうは出来ねえだろ。だからいきなり離れ離れになってショックを受け過ぎないよう、あいつうちで二日間『イズナ絶ち』してたんだ。リンさんの名前も娘を連想させるから禁止して」
「えっ?ちょっ――待て待て、じゃあなに?慣らし保育してたのってもしかして」
「そう。オビトの方だ」
なんだそりゃ、親父の方かよ!と絶句するナルトくんを見て、初めて会う『お兄ちゃん』に興味津々な様子の娘は、頬ずりしてくる父親を適当にいなしながらも、じいっとその青い瞳を観察していた。そんな娘に「イズナ、ちょっとおいで」と手招きすると、カジュアルなデニムのワンピースがトトトッとこちらに寄ってくる。
「イズナ、このお兄ちゃんがナルトくんだよ。にぃにのお友達の」
「にぃにの?」
「そう。はじめましてできる?」
ちょっと尻込みする背中をそっと押すと、小さく頷いた娘は半歩だけ前に出て、まごついていた手を両脇に下ろした。ちゃんと教えてあげた通り、しっかりと相手の目を見て背中をしゃんと伸ばしている。『はじめましてのごあいさつ』は、入園が決まってから何度も練習してきたことだ。どうやら練習の成果はしっかりとあがっているらしい。
「――はじめまして。うちは、いじゅなです」
よろしくおねがいします、ときゅっと澄んだまなざしで見上げてくる娘に、まだちょっと頭が追いついていないような顔で立ち尽くしていたナルトくんは「はっ!?えっ…あ、どうも…!」とまごついた様子で応えた。夏雲みたいな大きな体が、小さな顎をくいっと上げている娘にまあるい影を落としている。
「そっか、えっと……イズナ、ちゃん?」
「うん」
「……おいくつですかってば?」
「にさい~でもふゆになったらさんさいになるよ」
「そっか、冬生まれなんだな。あーえっと、オレの名前はね、『うずまきナルト』っていうんだ」
「しってる。さっきママがいってたもん」
「あ、そ、そっか……えーと、そんで年は、27で。あ、オレは秋に誕生日がくるんだってばよ」
「そうなんだ~?ママもあきになったらとしがかわるよ。ママはねえ、よんじゅう…」
「――…あっ!そ、そうだサスケくんが『サスケにぃに』なら、ナルトくんは『ナルトにぃに』って呼ばせてもらったらいいかなあ?」
なんだか妙な方へ向かいかけた話題に慌てて横から入ると、隣で腕組みしたまま二人を眺めていたサスケくんが、「こいつに『にぃに』なんて要らねえだろ。『ナルト』で充分だ」などと妙に鼻白んだ風に言い捨てた。相変わらず彼は、自分のパートナーに厳しい。どこか照れたような隣の顔を一瞥すると、娘の前にぞんざいにしゃがみ込み面白くもなさそうに「言ってみろイズナ。ナルトって」と促した。

「にゃ・る・と?」
「違う、『ナ』だ、『ナ』。ナーって言ってみな?」
「…………にゃ…にゃー、ると?」

自分でもうまく言えないのがもどかしいのだろう。舌足らずな口振りでそおっと呟くと、少し頬を赤らめた娘は困ったようなはにかみで首を傾げ、高いところにある空色の瞳をそろりと見上げた。甥そっくりのまなざしに射止められた瞬間、薄ピンクでおさまっていた小麦色のほっぺたは一気に沸点に到達し、見る間に首まで赤々と染まる。厚くて大きな手が半開きになった口許を覆い、カーゴパンツの足がよろりと数歩よろめく。そんな彼の肩を、いつの間に近づいていたのかオビトがガッシリと受け止めた。うんうん、と深く頷くオビトを、熟れたトマトみたいになったナルトくんが潤んだ目で振り返る。
「…オオ、オビトさん…!」
「――わかってる、みなまで言うな」
「…これスゴイ。スゴイの出たってばよマジで…!!」
「すげえだろ。我ながらオレはいい仕事したと思ってる」
つか絶対オマエにはやんねえからな。死んでも手ェ出そうとか考えんじゃねえぞ。
地を這う声で釘を刺すオビトに、横で見ていたミコトさんが「あらあ、いいじゃない別に。ナルトくんだったら」とのんきな声をあげた。なんでも卒なくこなすように見えて、実はこの義姉も結構な天然だ。
「私はいいと思うけど。ナルトくんだったらイズナちゃんを安心して任せられるわよ」
「……何言ってんのミコトさん!?うち娘ひとりだし、嫁になんて絶対出さねえから!!」
「じゃあお婿に来てもらったらいいじゃない。あ、もちろんナルトくんさえ良ければだけど」
「エッ!?あっ、そのっ、オレってば別に――つかいいとか悪いとかって問題じゃ」
「でもこの子が成人した時、ナルトくんはもう40半ばだろう?それは流石に」
「そ、そうだってば、いくらなんでも年の差ありすぎですってば!」
「…………ふうん、じゃあ年の差さえなければ考えるんだな、お前は」
ぼそりと落とされた無感情な声に顔を向けると、美形の甥っ子がすらりと立って、氷点下の眼差しで事の成り行きを見守っていた。組んだ腕に見える細い指先が、実に冷たそうだ。
「ちなみに何歳差までだったら考えるんだ?参考までに言ってみろよ」
「……か、考えません」
「嘘つけ。無理すんなよ」
「……無理もしてません」
細く言い返すナルトくんに対し、佳貌に冷笑を刻んだ甥っ子が「いンじゃねえの、死ぬ気で挑めば婿入りさせてもらえるかもしんねえぞ?そこにいくまでに、オビトに軽く三回位はぶっ殺されるだろうけど」などとのたまった。それを聞くと、黙って下を向いていた金髪頭が、はじかれたように顔を上げる。「だから!そーゆー問題じゃないって言ってんじゃん!」というなんだか精一杯な感じの言葉が、無表情に戻ったサスケくんにぶつけられている。さっきの様子からも察するに、もしかして今この子達冷戦中か何かなのかしら。黙ったまま顔を見合わせている二人に、ちらりとそんな事を思う。
「ねえ……あのね。いじゅな、にゃるととはけっこんできないよ?」
とりとめもない話が散らばってしまったその場に、声が途切れた僅かな間ができた。そこにぽつんと落とされた、高く澄んだ鈴の声。黒門の前で、あれやこれやと丸くなって喋っていた大人たちが、一斉にその声の主に目をやった。林のように立つ大人たちの真ん中で、小さな娘は怖じる事なく、すっくと真っ直ぐ立っている。
「ん?できない?」
「みんなけっこんのはなししてるんでしょ?」
「……そうだけど」
「いじゅなはね、もうけっこんするひときめてるから。だからにゃるととはけっこんできないよ」
「えっ?……あ、ああ、パパだろ?最初の結婚したい人つったらやっぱパパだよな!」
「なにいってるのパパ。パパにはママがいるでしょ」
「え゛っ……?あ、いやまあ、それはまあそうなんだけど」
愛娘からの冷静な返しに、ぐっさりとやられた様子のオビトはふらふらと数歩後ろにたたらを踏んだ。そんな彼を、今度は後ろにいたナルトくんがポカンとしつつも、しっかりと受け止めてくれている。
――その場にいる全員の頭に『じゃあ、誰?』という疑念が巡る中、田舎道の彼方から「おーい」という茫洋とした声が届いた。古ぼけた軽トラックの運転席の窓が解放され、そこからにょっきり飛び出した長い腕が、のんびりと振られている。

「あーもー、お前らなんでこんな急に帰る時間早めるのよ。危うく間に合わなくなるところだったじゃない」

停められた車から飄々とした様子で降りてきた長身に、つい今しがたまで一同の真ん中でお姫様然として立っていた娘は持ち上げていた顎を引いて、さっと逃げるようにして私の後ろへ回り込んでしまった。足元を見るようにうつ向いてしまった顔が、大真面目に唇を結んでいる。「イズナ?どうしたの?」と体を捻ると、私の着ているシャツの裾が、小さな手にきゅっと握られた。……この子がこんな内にこもるような仕草をするのは、非常に珍しい事だ。
「あ、フガクさんこれうちの親父から。そら豆です~、確かお好きでしたよね」
「……あ?ああ、どうも」
「あれ、リンも来てたんだ?じゃあなに、慣らし保育は終了?無事二日間耐え切れたの?」
「えっ?あ――…うん。まあ、大体はね」
なんとなく静まってしまった場を気にかける様子もなく、手にしていたビニール袋をフガクさんに手渡した幼馴染は私に向かって気楽に言った。今日はまだ畑に出ていないのか、ぱりっと乾いた白いTシャツには泥ひとつ付いていない。
そのまま「あ、ナルト」と言って金髪の教え子を振り返った幼馴染は、ちょっと息を呑む気配をさせたナルトくんに向かうと、「イルカ先生がね、お前によろしくって。また会えて嬉しかったって言ってたよ」と鷹揚に伝えた。「あっ…そ、そういえばイルカ先生は?」とやや吃り気味に尋ね直す彼に、幼馴染はおっとりと垂れた目尻を、さらにとろんと落とす。「イルカ先生は朝からずっと畑に行ったきり。俺らも今日の昼過ぎには帰るからさー、帰る前に区切りのいいとこまでやりたいからって、今夢中で野菜の世話してるよ」と言った彼は、そのまま「やっぱあの人、おれの見込んだ通りだったね」と嬉しげに笑う。私とオビトがきちんとした形になってからも宙ぶらりんなままでいた幼馴染だったけれど、つい最近、勤め先の同僚だというひとりの人を連れ帰ってきた。私はまだ会った事がないのだけれど、オビトが言うにはとてもきちんとした、はにかんだ笑顔が似合うすごく感じのいい人らしい。

「……………かかし」

細い細い、切れかけたこよりのような頼りない声に下を見ると、黙りこくっていた筈の娘が、隠れていた私の後ろからそっと顔を出しているのが見えた。猫背で立つ幼馴染に向ける大きな瞳は、これまで見た事ない程に真剣そのものだ。ひょいと振り返ったボサボサといい加減な頭にぎくりと肩を飛び上がらせると、娘は再びぎゅううと私のシャツを引っ張った。力の入りすぎた握りこぶしが、沢山のシワを集めている。
「おお、イズナじゃないの。久しぶり、お正月に会って以来だねえ」
「……」
「なーにそんなとこ隠れてんの。こっちに出てらっしゃいよ」
「……べつに、かくれてないもん」
「どう見たってかくれてるじゃない。どうしたの、こないだは思い切り飛びついて来てくれたのに」
「そういうのはもう、しないの。いじゅなはもう、あかちゃんじゃないから」
「ええー、そんな事言われたら俺さびしいよ。泣いちゃおうかな」
「……そ、そんなこといってもだめなの!ぜったいしないの!」
「あれ?イズナ、顔なんか赤いよ。暑い?」
「……」
「もしかしておしっこ?もしそうなら急いで行っといで」
「――ちがっ…ちがうもん!そういうのいわないで!」
もぅ、かかしのばか!きらい!!と言って再び私のお尻に隠れてしまった娘は、半べそのような顔をして(うう~)と小さく唸った。どっと押し寄せてくる予感。これは…もしかしてというには、あまりにも……

「…………アレか?」

サスケくんの呟きに、「……うん、アレだってば」とナルトくんが応じた。
そんなふたりに、ミコトさんが眉をひそめ「まあ、アレでしょうね」と溜め息をつく。
「間違いなさそうだな」とまとめるように落としたサスケくんに対し、ちょっと唖然とした様子のフガクさんが「アレでいいのか?40近く差があるだろう?」などとそこはかとなく失礼な事を言った。その言葉にがっくりと肩を落としたナルトくんが「……いいんじゃないスか?そこまでいくと最早犯罪とかいうレベルではないですってば」と零すと、一同の間になんとも形容し難い重たい空気が流れていく。

「……アレアレみんなして言ってんじゃねえよ、この薄情者どもがああ……!!」

地獄の底から這い出してきたような唸りに振り向くと、ナルトくんに支えられたままのオビトが、額に青筋をたててプルプルと震えているのが見えた。ずかずかと前に踏み出したオビトが、カカシの前で仁王立ちしている。「おいコラ、カカシィ!!」と怒鳴る親友に、カカシはただキョトンとするばかりだった。台風の目である娘は、いまだカカシの方を私の影から見詰めているばかりだ。

「ふざけんじゃねえぞバカ、なんでいっつもいっつもオマエばっかり……!」
「はー?なに言ってんのお前、またワケのわからない事を」
「なんでオマエ毎度オレの欲しいもの横からぶんどるの、オレに何の恨みがあんの!?」
「ええー、そんな事俺に言われてもさあ」
「コイツのどこがそんなにいいんだよ、オレ別に全然負けてなんかいないのに!」
「……そーね。でも年収以外で俺もお前に負けてると思った事、これまでに一度もないよ」
「つかマスクしろよマスク!持ってんだろ今も、せめて可能な限りその顔隠せ!」
「うるさいなあ、なんでお前にそんな事指図されなきゃなんないの。俺の勝手でしょ」

「――…アホくさ。とてもじゃねえけど、付き合いきれねえな」
もうこいつらほっといて、とっとと出発しようぜ。
子供じみた喧嘩を始めた二人に、白けた目を向けていたサスケくんがうんざりとしたように言った。それを受けて、唖然として事の成り行きを見守っていたナルトくんも「んー、だなあ。そうすっかァ」と頭を掻く。さっきは一瞬きな臭い雰囲気もあったけれど、目の前の喧嘩を見ていたらそれも馬鹿馬鹿しくなってきてしまったのだろう。アラフォー達の喧嘩をほったらかしにしたまま、停めてあった黒いクーペにさっさと乗り込んでしまう。
車のフロントガラスから透かして見える並んだ二色の頭に、ふと昔、この二人の事を並べて話した事があったのを思い出した。子供を授かれた私達とは違い、きっと最後までふたりだけの彼等は、この先もっと色々と悩んだり大変だったりするのだろう。……だけどそんなふたりの事を誰よりも気にかけているのは、誰であろう実は私の夫なのだった。波乱の多い彼等を守るために、オビトが何食わぬ顔してこっそりと手助けをしてあげているのを、私は密かに知っている。
「ママぁ……かかしとパパ、けんかしてるの?いじゅなのせい?」
ふと指先に触れてくるあたたかさに下を見ると、空いていた私の手の指を、後ろに隠れたままの娘がきゅっと握りしめてくるのが見えた。やわらかく傷つきやすい、あたたかく湿った熱。私を頼ってくる小さな手の、その真っ白ないとけなさを思う時、私はいつもしんから不思議な気分になる。この手は光のない世界から出てきた筈なのに、どうしてこんなにも真っ白で穢れないのだろう。どうしてこんなにもいとおしいのだろう。
――私の中にある、空虚な闇。恐れと虚無感しか抱けなかったそれは、時を経て命を育み、やがて真っ白な光を私に与えてくれた。闇は今も、私の中に息づいている。だけどそれを抱えていても、私が夫を愛しているという事実に変わりはないのだ。何よりも私は生まれてきた娘に対し、透明な愛情を注ぐ事ができる。くもりなく澄んだ気持ちで、「愛してる」という言葉を贈ることができる。
「イズナのせいじゃないよ~、あれはね、喧嘩に見えるけどそうじゃないんだよ」
そう言って、ゆったりとしゃがんで小さな頭を撫でると、娘は心底驚いたような顔で「そうなの?」と目を開いた。そんな娘に頷きで返し、「あれはねえ、『あいじょうひょうげん』なんだよ。二人共お互いが大好きだから、ついああやって言っちゃうの」と諭すと、その言葉に自分よりもほんの少し高い位置にある顔を腹立たしげに睨み上げていたオビトが「違う!!」と叫び、弾かれたかのように振り返った。その様子に、ポケットに手を突っ込んだまま相手を見下すようにして立っていたカカシが、昔よく見たシニカルな笑い(オビトの言うところのイヤミな笑い)で、その口許を僅かに曲げている。なんだかこの構図は久しぶりだ。子供じみた言い合いに、セピア色になった記憶がつい重なる。
「――じゃあ母さん。向こうついたら一度連絡するから」
そう言って、開けられた助手席の窓から跳ねた髪がのぞくと、その奥にいる金髪の子がにっこりとその青い目を細めた。…ドルン!とひとつ、まるで見切りを付けるかのように、停まっていた黒のクーペがエンジンを唸らせる。
ああ、やっぱり今回も大した話が出来なかったな。一向に収集のつかなさそうな幼馴染達の喧嘩に溜め息をつきつつ、回されたイグニッションにそんな事を思った。だけど「お盆とお正月にも、帰れるなら帰って来なさいよ!」と助手席に向かい声をあげているミコトさんを見る限り、そう悲観する事もないのかもしれない。この先も、機会はいくらでもある。私はずっとここにいるし、これからは彼等もきっと、ずっと一緒にいるのだろうから。
――遠ざかっていくクーペの起こした土煙が、流れる風にさらわれていく。
父親に抱きしめられた時に崩れたのだろう、ちょっとずれた髪飾りに気が付いてもう一度しゃがみこもうとした時、その黒の瞳を涙で滲ませたオビトの叫びが、風薫る5月の田舎に響き渡った。

「――畜生バカカシ、もォホント覚えてろよ!オレは!オマエが!大ッッ嫌いだああ!!!」