着てたに決まってんだろ、と彼は言った。
上だけだ、上だけ。下は普段通り、ズボン穿いたままに決まってんじゃねえか。
「――ったく、変な言い方すんじゃねえよ」
外野三名が見守る中、ようやく叔父の拘束から抜け出したサスケは未だ放心状態から抜け出しきれないままのオレを見ると、即座にそう言い捨てた。昼前の田舎家は静かな明るさに満ちていて、ひとりだけ妙な混乱に陥っている自分が、なんだか酷く場違いな感じがする。ふと見ると、乱された彼のTシャツから、ほんの僅かに白い腹が覗いている。急にそんな事までもが淫靡に見えてきて、鼓動が早まりかけたのを感じたオレは、慌てて視線を他に移した。
「あの…さ。そもそもなんで、モデルなんて引き受けたの?」
今更ながらに尋ねると、すぐさま「なんでって、しつこかったからだ」という明快な答えが返ってきた。お前が出てってからすぐ、奴が入居してきて。それから顔見る度に描かせろ描かせろって、ずっとうるさかったんだ。
「それだけ?」
尋ねると、そんなオレが意外だったのか、サスケはちょっと虚を突かれたような顔をした。しかしすぐに不愉快そうに眉をしかめると、「それだけだ。当たり前だろ」と素っ気なく言う。
ようやくそこで、乱されていたシャツに彼は気がついたらしかった。チッ、という忌々しげな舌打ちと共に、乱暴にそれが直される。
「――ほんとに、それだけ?」
……おそるおそる。くどいと理解しつつも、オレは確かめずにはいられなかった。まっすぐな鼻梁、澄んだ切れ長の瞳。昔と変わらないままの勝気な光が宿るそこを、じっと離さず覗き込む。
サスケの唇が、ほんの少し動く。
開きかけたそれは一瞬何か言いたそうな素振りを見せたが、結局「……馬っ鹿じゃねえの、お前」とだけぽつんと告げると、それきり口を噤んだ。
* * *
なんだかやけに、気持ちがざわざわさせられる絵ですよね。
そんな風に、約十年振り位に会った母校の事務員である人物は、その絵を見て評した。その感想は、すごく共感できる。確かにその絵には、なにか漠然と胸に迫るなにかを感じされる。単色で引かれた線からは、頬に掛かる髪の一筋、浮き出る骨の影ひとつとっても、この体を作り上げている一切のものを絵にした時に損ねてしまわないよう、丁寧に丁寧に神経を使って描かれているのが伝わってきた。なめらかな肌はなめらかなままに、艶めく髪は艶めいたままに。ほんの僅かに漂う青年の未成熟さまで、この絵は完璧にキャンバスに閉じ込めている。
……きっとこれを描いた人は、この絵に自分の持てる才能のすべてを注ぎ込んだんだろうな。
絵の良し悪しなんててんで解らないオレにでも、仔細に描かれた線からはそれを読み取る事ができた。だけどそれよりももっとハッキリと感じ取れたのは、どこか自分にも覚えのあるイメージだ。
描かれたしなやかな背筋に見る、確かな予感。……この絵を描いた人物はモデルとなった彼に対し、間違いなく何かしらの、特別な感情を抱いていたはずだ。
「――カカシんとこにいた、あいつってさ、」
沈黙を破ったのは意外にも彼の方で、ハンドルを握ったままオレは、「…へ?」という気の抜けた声と共に、思わずぱちんとまばたきをした。いけない、運転中だというのに。今はひとまず、前を見る方に集中しなくては。
数メートル先の前方には、急がないスピードで先導する黒のSUV。「お前らの顔見に来たのに、カカシんちに行ったって言われて。ついでに昼までにお前ら連れて帰るよう、ミコトさんに言われてきたんだ」と言うオビトさんに連れられて、要件が済むと長居する事なくカカシ先生の所を出てきたオレ達だったが、車に乗り込んでからもなんとなく会話の糸口が見つけられないままだった。…その元凶となった件の絵は、後ろのトランクに今は積まれている。破られてしまった包装紙の代わりに、「こんなんで大丈夫なのかなあ」と言いながら恩師が出してきた大きな紙袋の中で、オレ達と同じように砂利道に揺らされているはずだ。
「ごめん、何だって?」
「だから、あの男。あれもお前の通ってた高校の、教師なんだろ?」
教科、何教えてるんだ?という端的な質問に、「ああ、あの人はホントの先生じゃなくて」と前を見たままオレは口を動かした。いつも職員室にはいるんだけどさ。教科教える先生なんじゃなくて、事務をやってる人なんだってば。
「なんだ、そうなのか」と肩透かしをされたかのようなサスケはちょっと黙ると、「じゃあなんで『先生』って呼んでんだ?」とまた尋ねてきた。そういえば、確かになんでだったんだろう?言われてみてから考えてみたオレは、「うーん…イルカ先生ってなんかいつもスゲーきちんとした、『まともな大人』って感じの人でさあ。常識的っていうか、ちゃんと優しいっていうか。他の職員室にいる先生なんかより、余程『先生』って感じだったんだってば」と話を続けた。隣から、オレの横顔を見るサスケからの視線を感じる。
「……なんだそりゃ。お前ンとこの学校は、そんなまともじゃない教師ばっかなのかよ」
僅かにゆるんだ気配に、情けないほどホッとした。「だってほら、カカシ先生雇ってる位だからさ」と冗談めかすと、「なるほど、言えてる」とサスケが鼻を鳴らす。よかった。さっきはすごく、彼から冷たい空気が流れてきてたように思えたんだけど。案外オレが思ったほどには、サスケは怒ってなかったのかも。
自分から話しかけてきてくれたサスケにも安心させられながら、オレはさっきからずっと頭の中を占領している疑問を、無理矢理奥へと押し込んだ。……ほんとは、訊きたいけど。あの絵のモデルを引き受けるようになった経緯も、デイダラとかいう画家についても、すごくすごく訊きたいけど。でもとりあえず今は、我慢しよう。せっかくの楽しい休暇なんだし。それにほら、サスケだって言ってたじゃないか、『それだけだ』って。コイツがそう言うんだからきっと、本当にそれだけなんだって。
「――そ、そういえばさ!サスケってば、いつイルカ先生に会ってたんだ?」
ようやく掴んだ会話の尻尾に、この機を逃すかとばかりに、オレはふと先程得た疑問を口にした。初対面かと思ったサスケに、イルカ先生は「こんにちは。…えーと、お久しぶり、ですね」という、微妙な挨拶をしていたのだ。
それに対し、サスケも特に否定をする事もなく会釈を返していた。水を張った田んぼに囲まれた、農道の真ん中で。そのまますぐに場所を移してしまったので、つい訊きそびれてしまっていた。
「ほら、なんかさっきイルカ先生オマエに、『久しぶり』って言ってたじゃん?」
「…ああ」
「いつどこで会ったんだってば?やっぱ木の葉荘で?」
会話の切れ目を恐れるかのように矢継ぎ早に訊くと、それらを取り纏めるかのようにサスケは少し黙った。そうしてからゆっくりと確認するように、「お前が出てった年の、夏過ぎだな」と言う。
「9月頃か。ちょっと用があって、カカシの部屋に寄った時にな」
「ふーん?」
「ちょうどお前んとこに、上着を返した頃だ」
その言葉に、記憶が再び蘇ってきた。短いメッセージ、クリーニングされたダウンジャケット。
それにくっついて、その届け物が元で引き起こされた、その後のアレコレも思い出された。つややかな黒髪、細い腰。喘ぐ躰の向こう側に、椅子に掛けられたオレンジがくっきりと浮いて見えていて。
……舗装の甘い道にハンドルを取られないよう気をつけながら、助手席で頬杖をつく横顔をチラリと盗み見ると、オレはこっそり息をついた。今朝も、思ったばかりだけど。本当に、あの子マジでコイツによく似てた。彼女には本当に申し訳ない事をしてしまったという自覚はあるが、でもあの晩、彼女の持つリアルな体温に、オレが救われたのは事実だ。――さっき、くどいと思いつつも彼に重ねて確かめてしまったのは、オレにそんな記憶があるせいでもあった。本人じゃなくても、似ているのが僅かだけであっても。それでもそこに縋りたくなってしまう気持ちには、痛いほど覚えがある。
そうやって考えているうちにふと先程見せられた宴会の画像が頭をよぎると、オレはまたもやウジウジとした後ろ向きな思考に囚われ始めた。
本当は、どう考えたってそんなの馬鹿げてると、自分でも思うのだ。だって、サスケだ。あのサスケだ。その画家がオレに似てるとこと言ったって、目の色と髪の色が同じというだけじゃないか。たかがそんな事で、サスケがそのデイダラとかいう画家に絆されるとは思えない。心を許すとは思えない。だいたいがサスケがオレに対して、そこまで固執じみた思いを抱くという事からして疑問だ。そりゃあ北海道まで来てはくれたけど。一応、お付き合いもしている(と、オレは思っている)けど。でも離れている間にサスケから送られてきたメッセージは、あの簡潔なメモ一枚きりだ。東京で残りの学生生活を送っていた彼が、オレに対してどんな思いでいてくれたのか、いつオレのとこに来るのを決めたのか。そのあたりの背景が、オレには全然見えてこない。
(……でもさ……だったらなんで、あんな絵……)
結局堂々巡りをしただけでまた戻ってきてしまった疑問に、オレは再び絡め取られてしまった。
モデルだなんて。上だけとはいえ、他人の前で服を脱ぐだなんて。きっとそんな彼をキャンバスに写し取っている最中、サスケとその画家は二人きりだったのだろう。決して少なくない期間、近い距離で同じ空間を共有したのだろう。美しい線を描く、若々しい背中。オレには離れている間なんの言葉も気配も伝えてくれなかったのに。どうしてそいつには、そんな事を許したの?オレには見せてくれなかった自分を見せてやったの?
……それともそいつがいたから、離れている間、オレに何も伝えてくれなかったんだろうか?
オレとの共通点とか関係なく、純粋にサスケはその画家の事が好きだったのかもしれない。
キスが上手くなってたのも、なんだか色っぽくなったのも、もしかしたら全部そいつが……
「――ちょっ…おい!!」
赤だぞ!という鋭い呼び掛けにオレはハッとさせられた。慌てて前を見ると、車の少ない交差点で信号が赤になっている。前を行ってたSUVは既に停車していて、ブレーキランプが点灯している。明々と点けられたそれが今まさに眼前に迫っていた。大急ぎで踏み込んだブレーキに、体がガクンと前のめる。
「…あっぶね…!」
「ごめっ…!!だ、だいじょぶか?サスケ」
「そりゃこっちの科白だ!さっきからやたらボケっとしやがって、しっかり前見ろよ…!」
咄嗟に掴んだのだろう、左手で窓上のアシストグリップを握り締めたままのサスケは急いで無事を確かめるオレに対し、青ざめた顔を見せ早口に言った。余程安心しきって乗っていたのだろう、急な事で拳を作るしか出来なかったらしい右手は、未だ腿の上で白く固まっている。
ワリィ…ほんと、ゴメン。血の気の退いた肌に心底申し訳なくなったオレがもう一度謝ると、サスケの強ばっていた体にも、少しゆとりが生まれたようだった。体を起こし、シートに座り直しながら、重い溜息をひとつつく。
「――わかった、」
「え?」
「こんなんじゃ、マジで事故んなる。明日は空港までまた走ンだろが、そんなボケた頭で運転されたんじゃ、危なくてしょうがねェよ。……いいから、気になってる事があんのならさっさと訊けよ。どうせくだらない質問だろうが、答えてやっから」
突然そう言い出したサスケに、赤信号を待ったままのオレは、口を開けて彼を見た。
諦めたかのように無表情になった顔が、再び頬杖に戻っている。
「くだらない質問って」
「なんか下世話な想像してんだろ?あの絵から」
「なっ…違うし!」
「ほんとしょうもないな、お前。ちょっと服脱いだってだけで、いちいちそんな事勘ぐるのか。今朝だってよせって言ってんのに抱きついてくるし。てめえの頭ン中にはそれしかねえのかよ」
「だから、そうじゃないって!」
頭ごなしな言い分にムキになって言い返したが、力が入り過ぎてひっくり返った俺の声は、実のない叫びに聴こえただけだった。それでもそんなオレに、ゆっくりと彼が振り向く。呆れたように冷めた、まっくろな瞳。どこかガッカリとしているようにも見えるそれが、頬杖をしたままオレを見る。
信号が、青になる。動き出した前の車から少し離れ気味の距離を取りつつ、オレは慎重にブレーキペダルから足を離した。「じゃあ…訊く、けど」と言う声が、回転を上げていくエンジン音に負けそうだ。
「……ホントに、答えてくれんの?」
「あー」
「ホントにホントだな?」
「しつけェな。早く訊けよ」
「サスケは、さ……どうして、オレを好きになったの?どこがよかったの?」
低めた声で投じた質問は、彼にとっては完全に想定外のものだったようだ。「はぁ?」という裏返った聞き返しが、呆気に取られた口から飛び出す。
「なに阿呆な事訊いてンだ、お前が知りたいのはそんな事じゃねえだろ?」
「これでいいんだってば」
「……質問の意図がわからない」
「わかるわからないは関係ねえよ。――答え、くれんだろ?」
前に注意を向けたまま、オレは唇を結んで答えを待った。
別に。いいんだ、オレは。その画家とサスケが、何か特別な関係であったとしても。……本当は、よくないけど。転げまわって、地団駄踏んで叫びたいくらいヤだけど。
でもオレだってサスケと離れてからずっと、ひとりでいたわけじゃあなかった。時々は寝る女の子もいたし、短くても一応ちゃんと付き合った『彼女』がいた時もあった。そんなオレがサスケにどうこう言うのはちょっとアレかなと思うし……いや本当は辺り構わずどうこう言いたいんだ、すごく、すごく……でもそれについてサスケを責めるのはやっぱりおかしい。我慢、するべき事だ。
だけどその代わり、少しだけ自信を裏付けするための言葉が欲しかった。サスケが、オレの隣を選んでくれた理由を。今はオレの事が一番好きだという、明快な答えを。
……視界の先に、堂々と佇む黒塗りの門が見えてきた。すっかり先に行ってしまっていたSUVは、すでに家の前の道に幅寄せして停車している。近付いてみると、薄く曇った後ろの窓に、エンジンも切らないままに携帯電話で誰かと話しているオビトさんが見える。くっきりとした赤を刻む、点いたままのブレーキランプ。誰と喋っているのだろう、ヘッドレストから飛び出す頭は、大袈裟な動きで時折ぴょこぴょこ跳ねている。
「……くだらねえな……」
返事を待つオレに届けられたのは、低い、明らかにうんざりとしたサスケの呟きだった。
なに女みてえな事訊いてんだ、そういうのやめろよ、マジで。
そう言って細い眉を不愉快そうにしならせると、ふいっとまた窓枠に肘を掛け直して外に視線を移す。
「ちょっ…くだらないって」
「そんな事わざわざ言う必要ねえだろ。馬鹿馬鹿しい」
「答えてくれるって言ったじゃんか!」
「俺はてめえの中にある気色悪い妄想を消し去るためにそう言ったんだ、自己防衛の為に。なのになんでお前はわざわざ関係ない事訊いてくるんだ。そんな馬鹿げた質問してくんなら、俺だって答えてやる筋合いなんかねえよ」
顔を背けたまま淡々と拒否を示す彼に最初は一瞬唖然としたが、そっぽを向いたままの白い頬を見るにつけ、徐々にその理不尽さに対する怒りと落胆がこみ上げてきた。なんだよそれ…なんだよ、それ。気色悪い妄想だって?馬鹿げた質問だって?――悪かったなあ気色悪くて馬鹿で。だったらそんなオレんとこに来たお前はなんなんだよ、どういうつもりで来たんだよ。
ハンドルを切って既に停車している黒のSUVの後ろに滑り込んだオレは、抑えの利かない苛立ちを抱えたまま見定めた停車位置に着くと、その場で思い切りブレーキを踏んだ。がくんと車が揺れ、足元でタイヤが砂利を潰す音が響く。衝撃で、窓枠に掛けていたサスケの肘がズルリと落ちる。かすかな呻き声を上げた彼は一瞬驚いたような顔をすると、すぐさまこちらに向き直り、怒りも露わにオレを睨めつけてきた。
「――てっめ…危ねえっつってんだろが、ふざけてんじゃねえぞ!」
今度こそ地を這うような怒りの声で、サスケが低く怒鳴った。
「ふざけてんのはサスケの方だろ、ちゃんと質問に答えろってば」
「いい加減にしろよお前、そんな事でくだらん仕返ししてくんな!」
「くだらなくねえよ、約束だろ」
「知るか」
「――さっき答えるって言った!」
「そんな質問には答える義理はないっつっただろうが。しつけえンだよ」
「なんだよ、しつこかったからって服まで脱いだりしたくせに!オレとそいつ、どこが違うんだよ!」
勢いで言い放った瞬間、即座にしまったと思った。予感の通り、隙なく整った顔がすぐに全力の不快感に歪む。しかしそれは一瞬の事だけで、すぐにその激しい表面は引いて代わりに現れたのは氷点下の無表情だった。…ヤバい。これはヤバい。間違いなくオレが今踏み抜いたのは、彼の地雷のど真ん中だ。
「……お前……」
「ご、ゴメンってば、今のはその…!!」
「結局のとこはやっぱそこかよ。つーか…」
――お前本気で、俺があの芸術馬鹿とどうこうすると思ってんだな。
キツい言葉で返されるかと思いきや、サスケの呟きはとても静かなものだった。まっくろな瞳が、ゆっくりとオレを見る。漂っているのは、隠しようのない失望感だ。薄まった空気を纏いながらオレを見るサスケは、こんな時もただただ端正な顔をしている。
そんなサスケを、オレは情けない気分で眉を下げたままじっと見詰めた。カカシ先生曰く、あの絵が描かれたのはオレが木の葉荘を出て行った次の年の、夏の終わりだという。今のサスケは、絵の中にいる彼よりも髪が短い。華奢な印象は変わらないけれど腕や脚も更に男らしく筋ばって、それに昔よりもほんの少し痩せてもいる。無駄が削ぎ落とされたような体はシャープに尖って、なんともいえない硬質な色気を纏っている。けれどあの絵にあったようなどこか未完成な魅力は、今の彼からはもう漂ってこない。
本当に。……バカみたいだ、オレ。
絵の中の彼よりも確実に成長をしているサスケを見るにつけ、オレは自分がどうしてこんなにもあの絵を許せないと思っているのかが、唐突にわかってしまった。
悔しい、のだ。
オレだって、この4年半の間のサスケを見ていたかった。一緒にいたかった。どんな事考えて、どんな毎日過ごして、どんな風にして今の彼になったのか。変わっていく彼を、その一番近くで見ていたかった。ずっと隣にいたかった。…出来ることならば、片時だって離れたくなんか、なかったんだ。
あの絵の中には、それがある。――オレが見たかったのに、見られなかった彼。それを写し取った誰かの目に、どうしようもなくオレは、嫉妬している。
……車の中でまだ誰かと話しているオビトさんが、ゆらりとこちらを振り返った。薄いグレーのリアガラスの向こうから、ひらひらと能天気な手のひらが振られてくる。
「なんか……うまく、いかねぇもんだな」
ポツリ、と。
手を振る叔父を適当に流して再び前を向かせると、黙ったまましばらく考え込んでいた様子のサスケが、唐突に言った。「…へ?」と聞き返したオレの声は、なんだかふにゃふにゃと頼りない。
「何が?この話合いが?」
「こんなの話合いだなんて大層なものでもないだろ」
「じゃあ、何が?」
「なんつーか……お前との、こういうの。思ってたのとなんか、違ってたっつーか……」
(…………え?)
うつむき加減で言われたサスケの言葉に、オレの頭の中は一瞬にして塗りつぶされた。押し寄せてくる薄暗い予感に、動悸が高まってくる。あれ?なにこれ?なんかこの流れって、ものすごくアノ場面に酷似してるんですけど…。気が付いてしまえば、嫌でも頭はそこから離れられなくなってしまった。沈んだ横顔に、過去に何度か遭遇してきた『お別れ』のシーンが重なってくる。
「ああいうさ…どこが好きとかなんとかいうようなウゼェ事、お前なら言わないと思ってたのに」
呟くサスケに、改めて後悔が押し寄せてきた。でもだってそれは、なんだか、不安だったから。
せめてそんな風に言い訳したいのに、凍りついたかのように舌が動かない。
「こっちにいる間はベタベタしてくんなってあれ程言ってあったのに、お前は全然約束守ろうとしねえし。それどころか下世話な想像しちゃあ、勝手に傷ついたような顔しやがるし。なんていうか、ほんと――」
そう言って、言葉を途中で止めたサスケは再び窓枠に肘を掛けると、オレから顔を背けそれきり何も言わなくなった。彼の見ている、窓の外が明るい。嫌な汗が手のひらの中にまで吹き出してきて、握ったままのハンドルを濡らしていった。相変わらずサスケはこちらを見ようとしない。沈黙に沈んだままの後ろ頭に、ただどうしようもない不安だけがひたすらにその嵩を増していく。
「――な、なあ、それってば、もしかして」
積もっていく沈黙が恐ろし過ぎて、押し潰されそうになったオレはつい、先回りして口を開いた。
不安に彩られた語尾が揺れる。相槌だけでも返してくれたら少しは安心出来るのに、サスケは口を開かない。ひとりでに早くなっていく心臓が痛い。抑えようのない焦りに軽くパニックになりかけているオレを尻目に、ふと目線を上げたサスケは何かに気がついたかのように、急に動きを止めた。
「……やべ、オビト電話終わった。降りてくんぞ」
「まさか、サスケ」
「こっち来る。ナルト、お前もうちょい離れろ」
「サスケ、なあちょっと、こっち見ろよ……!」
――言いながら、止まったままの彼の肩を、汗ばむ手のひらでぐっと掴んだ。
薄い肉越しにその骨を手の内に入れる。サスケの顔が僅かに歪み、掴まれた自分の肩を驚いたように見た。返される抵抗に思わず力が入ってしまい、半ば無理矢理のような形でこちらを向かせる。どうしたらいいのかわからないのに兎に角何かをしなければという切実な思いが焦燥感を煽る。ききたくない。でもきかずにはいられない。そんな喉元までこみ上げる張り詰めた感情に、息が上手く出来ない。
「まさかとは…思うけど。サスケってばもしかして、オレと別れたい、とか、思ってんの……?」
不自由になった呼吸のまま、今度こそハッキリと崩されたポーカーフェイスをじっと見た。
ぽっかりと半開きになっていた唇が、徐々に引き結ばれていく。怒ったような顔になったサスケはまた一瞬何か言いたそうにしたが、フロントガラスからの景色に視線を投げると、ハッとしたように口を噤んだ。焦るような目が、オレと外とを行ったり来たりしている。チラチラと泳ぐ視線はやがてオレからは完全に外されて、短い舌打ちが苛立たしげに落とされた。クソが…手ェ、離せ。そう言って、静まった車内で掠れた唸り声を低く出す。
「その話は今は止めだ。いいからとにかく離しやがれ、オビトがこっちに」
「どうなんだよ、ちゃんと答えろってば」
「…っ、何度も……言ってんだろ!こっちではそういう事してくん――」
「別れねえからな、オレ。絶対、そんなの認めねえから」
回り込むようにして言い切ると、顎先に、緊張するサスケの熱混じりの吐息をかすかに感じた。
うすい唇から覗く、内側が赤い。威圧的だったまなざしはたじろぐように揺れて、あろうことか怯えているようにさえ見えた。見張られた大きな瞳は、まるで暗渠から必死でこちらを睨む小さな生き物のようだ。なんだ…やろうと思えば、いつだって逆転できんじゃねえか。そんな浅ましい優越感さえ抱きつつ、こわばる佳貌を覗き込む。
あいた方の手で、細い顎に触れる。つまむようにして軽く上を向かせると、その唇がうっすらと開かれた。誘うような赤に、ためらいが消える。
いつになく従順に見えるその仕草に、吸い寄せられるようにしてオレは唇を寄せていった。
『――コンコン』
突然飛び込んできたリアルな音は、前のめりになっていたオレを我に返らせるには、充分なものだった。窓を叩く、軽いノック音。ぎくりとした体は瞬時に固まって、全身から冷たい汗が一斉に噴き出してきた。ふと見ると、軽く顎を仰け反らせたサスケも同じような緊迫感に身を固くしているようだ。滅多に汗などかかない白い首筋が、うっすらと水を刷いて光っている。
『――コンコンコン』
もう一度、窓が鳴らされた。ぎこちなく振り返ると、黒々とした短髪とくっきりとした瞳。相変わらずの惜しいハンサムが、気楽な様子でこちらを覗いている。
言葉も出せないままじっと見返していると、その人物はクイクイと親指で下を指した。覚悟も決まらないまま仕方なく示されたジェスチャーに従い、ウィンドウを下げる。開かれた窓の向こう側、佇んでいたオビトさんはきょとんとしたような顔をつくると、「なにしてんだ?お前ら」といつも通りの声で言った。
「……え?いや、なにって、な、なんにも」
「なんか今、サスケん事覗き込んでたじゃん」
「そ、れは…っ」
「どしたサスケー?変な顔して」
「……」
「あれ?サスケお前、なんか涙目になってねえか?」
――なに?目にゴミでも入った?
そう言って、あっけらかんとした様子で首を傾げる、罪のない顔に頭が真っ白になった。心臓だけがおかしなくらいバクバクいっている。…そうなんだ、さっきからなんか、目が。オレを押しのけ、うわずった声でサスケが言う。普段より少しだけ早口だ。
「やけに痛むからなんか入ったのかと思って」
「ふーん、オレ見てやるか?」
「いやいい。もうこいつが見たし。やっぱゴミだったけどもう取れたから」
お気に入りの甥っ子から急ぐようにそう言われると、気のいい叔父は「そっかそっか、目はなー、うちの奴らは、特に大事にしねえとなー」となんだか間延びしたように言った。うちの奴らでなくとも目は大事なのでは?とふと思ったが、この状況下でのオレはまだ声が出せない。
「んじゃ、さっさと家入ろうぜ。ミコトさん待ってるし」
「…ああ」
「おおー、なんか超揚げ物臭がする!メンチかな、メンチがいいな、ミコトさんのメンチ美味いよな~」
言いながら、機嫌良さそうに「あー腹減ったぁ」とドアを離れたオビトさんは後ろを向くと、そのまま門の中へと消えていった。なんという鈍さ。なんという単純思考。しかしそのシンプルさに救われつつようやく息をつくと、同じようにサスケも深い息をはいたところだった。揃った溜息がなんだか嬉しくて、さっきまでの緊張も忘れ思わずへらりと頬が緩む。
「よかった……今のはかなり、ヤバかったな」
「……」
「すっげ、まだ心臓バクバクいってるし。しっかしさすがオビトさんだよな、うまい具合に勘違いしてくれてホント助かったってば」
「――ハァ?ふざけんな、調子のってんじゃねえぞこのドベが……!」
地獄の底から這い出てきたかのような唸り声に、緩みきっていた表情筋はぴたりと凍りつかされた。次いで容赦なく叩き込まれる腹への一撃。的確に急所を狙ったそれはオレに体を折らせ、吐き気混じりの眩暈の海へと叩き落とした。涙が滲む視界の中、思い切りオレを見下ろす冷たい黒が見える。……今朝も思ったけど、サスケの攻撃って物凄くピンポイントかつ強烈だ。きっとそのとびきり優秀な脳味噌に蓄えた医学の知識を、遺憾なく活用しているに違いない。
氷点下のまなざしがオレを見下す。チッ、という小さな舌打ちが、運転席で縮こまる背中に落とされた。
「サ、サス…っ…!?」
「もういい」
「へ?」
「お前なんかもう知らねえ。――北海道でもどこでも、勝手に帰れ」
言い捨てて、塵でも払うかのようにまだ肩に残っていたオレの手を払いのけると、サスケは無言でするりと出て行った。バタン、という閉められたドアの音が、ひとりきりになった車内で無感動に響く。空っぽになった手のひらが、虚しく宙をさまよった。…え?もういいって?どこへでも勝手に帰れって?言い渡された言葉が耳の中で繰り返され、呆然自失となったオレだけが車内に残される。
彼が出て行った、窓の外が明るい。
強い正午の光が射す世界の中、黒ずんだ静寂しか残っていない車内は、まるで作られた真っ暗な落とし穴のように思えた。
箸と茶碗が触れる音、味噌汁を啜る音。
それと時折差し込まれる陽気な小児科医の他愛ない雑談以外、食卓を彩る音は他に無かった。
背筋を伸ばして座す、隣からの気配がおそろしく冷たい。綺麗な所作で食事をとる姿を、横目でちらりと掠め見た。車を降りてから一言も口をきいてくれないサスケは、未だ静かな(だけれども、間違いなく本気の)怒りの中にある。がっくりと視線を落とすと、視界に隣り合わせの座布団が入ってきた。今朝よりも明らかに距離を取られたそれが、しみじみと身に堪える。
「ごちそうさま」
気詰まりな空気を破るように、早々と食べ終えたサスケはそう一言だけ発すると、静かに箸を置いた。手早く皿と椀を重ね、腰を上げようとする。あ、いいわよそのままで、と言う母親からの呼びかけにちょっと動きが止まったが、何も返さないまま食べ終えたばかりの食器を手にすると、サスケはさっさと席を立ち台所の方へと向かった。流しの方で、食器が置かれる気配がする。
「……なにあれ。あの子、何怒ってるの?」
一切の跡を残さず食卓を後にした息子に、ミコトさんはその背中が廊下に消えていった途端、唖然とした様子で言った。ナルト君わかる?何かあったの?振り向いてポカンとする顔に、オレはただひたすらに申し訳なくなる。
「さっきからナルト君も全然喋らないし。ケンカしちゃってるの?」
「えぇと……ケンカっていうか」
「もしかして、またサスケが何か言ったりしたんじゃない?」
「いやっ、全然!そんなんじゃないですってば」
悩ましげに寄せられた細い眉に全力で否定をすると、これまた早々と食べ終えてデザートの果物(初物だから、という言葉と共に大きなガラスの器に盛られたのは、初々しい赤に染まるサクランボだった)に手を伸ばしていたオビトさんが「なにお前ら、ケンカしてんの?」とのんきに言った。
「なんで、さっきまで仲良さそうだったじゃん」
「だからケンカじゃなくて」
「ケンカじゃないなら何なんだ?」
「……オレ、が」
サスケを怒らせるような事、したから。ぽそぽそと言い落とすと、口の端からサクランボの茎を覗かせたオビトさんは、ふぅーん、とのんびりとした相槌をうった。真向かいに座るフガクさんが、ちょっと面倒くさそうにサクランボの種を出している。
「でもさあ、それってお前の方が全面的に悪いのか?サスケだろ?あいつすぐ怒んじゃん」
そんな本人が聞いたらそれこそ怒りそうな事を平気で言いながら、オビトさんはまたガラスの器に手を伸ばした。山になっていたサクランボが、さっきからどんどん減っている。元は自分もここに住んでいたらしいから、そのせいだろうか。この人には本当に遠慮がない。
「そりゃまあ、確かに、そういうとこはあるけど。……でもサスケは理由もなく怒ったりは、絶対にしないってば」
一旦は認めつつも遠慮がちに訂正を入れると、ちらりとフガクさんがオレを見た。台所でお茶を淹れ直しているミコトさんも、気遣うようにこちらを見ている。
……ここに来る前。北海道の空港へ向かう車の中で、オレは確かにサスケから、何度も重ねて念を押されていた。
こちらの家では、意味なく体に触れてこないこと。
それとなくオレ達の関係を悟られるような会話も、ここではしない事。
手を握ってきたりキスをしたりというような行為も完全に禁止。うちはの人達がいる場所ではもちろんのこと、サスケの部屋でふたりきりになったとしても、それを徹底するように。
『禁止する理由は、わかるよな?』
いつにない執拗さでオレに確認を繰り返したサスケは、言葉の最後にそう言っていた。確かに世間一般からいってもオレ達の関係は、あまりおおっぴらにできるような事ではないだろう。それにやっぱりフガクさんもミコトさんも、すごくキチンとした常識を重んじる人達だ。いきなり息子が恋人だと言って男を連れてきたら、どれだけ素晴らしい人達だといっても、さすがに色々と思う事はあるだろう。オレは両親がもう他界してしまっているから紹介のしようがないけれど、でももしもあの人達が生きていたとしても、しょっぱなから両親の前でサスケと恋人宣言するかといえば、どうかなあという気がする。自分のパートナーを誇りたい気持ちはもちろんある。でもそれ以上に家族が変に心配するような事はしたくないなというのが、正直なところだろうなと思った。…多分サスケも、同じように思ったのだろう。いずれにせよ、もう少し時間が必要だ。
ようやく思いが叶った事で浮かれてしまい、そんなサスケとの約束をオレがろくに守ろうともしてなかった事は、確かに認めざるを得なかった。
……サスケがどれだけ自分の家族を、両親を、大事に思っているかはよく知っていたのに。
本気で困る彼が、かわいくて、いとしくて。
それに流され自分の気持ちばかり走らせていたオレは、本当に、彼の気持ちを真面目に汲んでやれていたと言えるだろうか。
『――ピンポーン』
怒涛の後悔に頭を抱えたくなっていると、この家に備え付けられている、ちょっと古めかしい音色の玄関チャイムが鳴らされた。続けて外の方から、「こんちはー」という若い声がする。気が付いたミコトさんが、お茶を淹れる手を止めパタパタと出迎えに行った。しかしすぐに戻ってきたかと思うと、訝しむ声でフガクさんを呼んだ。
「あなた、病院の」
「うん?」
「鬼灯君て子が」
「ああ、それは多分俺じゃなく、サスケにだな」
まあとりあえず上がってもらいなさい、サスケは部屋にいるのか?などとフガクさんが言ってる間に、廊下の奥の方から落ち着いた足音が近付いてきたのがわかった。
開けたままの出入り口から黒髪が覗いて、無愛想な声が「母さん、」と呼ぶ。
「上げなくていい、俺が出るから」
「え?出るって?」
「さっき連絡がきて。時間作れたから、少し会おうって。ちょっと外に出てくる」
感情のこもらない様子でそう告げるサスケに、「外って、うちに上がって貰ったらいいじゃない。ナルト君もいるのに」とミコトさんが言うと、一瞬考えた彼は無表情のまま、「…父さんのいる所では、なかなか話せない事もあるだろうし」とだけ素っ気なく言った。「ついでに帰りに墓の方にも寄ってくるから」と言い足すと、そのまま流れるような足取りで玄関の方へ向かう。オレの方には、一度も視線をくれない。
(――うぅ…もういいや、とにかく謝るのみだ!)
完全無視を貫く彼にそう決意して、思い切って立ったオレは廊下へと急ぎ出ると、玄関先で靴を履こうとしている彼を見つけた。開けたガラリ戸の内側ではどこか見覚えの残る顔が、上がり框に座るサスケに何か喋りかけている。それに対し短い返事をして腰を上げる彼に向かい、玄関まで追い付いたオレは一度、サスケ、と呼びかけた。振り返る事さえしない彼と真剣な顔したオレを、突然現れた来訪者は不思議そうに見比べている。
「ごめん、サスケ」
「……」
「ほんと……ごめん」
不機嫌な背中に差し出した精一杯の謝罪は、受け取られる事もないまま虚しく玄関先に転がった。そのまま前だけを向いて、サスケは外に出て行く。門の前、そこも本来はこの家の私道なのだという表の道には、ウィンカーを出したまま停車している青のフォルクスワーゲンが見える。強い日差しを浴びているそれに、サスケがさっさと向かっていく。
「えーと、よくわかんないけど……とりあえずサスケ、貰っていきますねー?」
僅かに首を傾げそう言った青年は、ほんの一瞬借り物みたいな会釈をオレにすると、へらっと笑ってから先に出て行ったサスケを慌てて追っていった。
自然な動きで、運転席と助手席のドアが閉まる。ふたりが乗り込んだフォルクスワーゲンはちょっと大きな排気音を響かせながら、あっという間に玄関先で佇むオレからは見えなくなってしまった。