Golden!!!!! 前編

掃き清めた玄関と廊下を見渡してから最後に水回りをチェックして、ようやくダイニングに戻ってきてもやっぱりまだそわついた胸は落ち着きを取り戻す事が出来なかった。
この前の来訪時、彼が褒めてくれた献立は全部覚えている。美味しいと言ってくれたメインの料理も、野菜は苦手だけれどこれは好きかも、と控えめに告白してくれた甘めのサラダも抜かり無く準備してある。そこから割り出した彼の嗜好に合いそうなメニューの仕込みも完了しているし、それにもちろん忘れちゃいけない、夫も息子も食べないけれど彼だけは喜んで平らげてくれるであろう、甘い食後のデザートも。
(参ったなあ……これじゃまるで、恋人を待ってるみたいだわ)
我ながら呆れるほどのはしゃぎっぷりに、私はひとり肩をすくめた。こんなに誰かに胸を騒がされるのは、本当に久しぶりだ。なんだか娘時代にでも戻ったようだ。
でも、いいわよね?この位の浮き足は許して欲しい。
だって今日はとてもとても大切で、特別なお客様が、我が家にやって来るのだから

  * * *

「――あのさ、母さん」
溜め込んだ息を、ようやく吐き出せたかのような。
年を増すごとに無愛想さに磨きがかかってきた我が子が、珍しくそんなしおらしさを覗かせて切り出してきたのは去年の5月の終わり、今と同じダイニングで、二人で食後のお茶を啜っている時だった。丁度梅雨入りしてすぐの頃だ。見た先にある顔は普段通りの愛想の無さだったが、その中にほんの僅かなほつれを認めると、私は心の中でそっと(ははァん)と思った。そもそも、母親としての第六感は最初の「あのさ…」を聴いた時点で、すぐにピピピンときていたのだ。普段散々にせっつかないと帰ってこないくせに、今回に限っては突然自発的に帰省してきたのも、多分これの伏線だったのだろう。この子がこんな切り出し方をしてくるのは、十中八九後ろめたい事を打ち明けようとしている時だ。好奇心に負けて夫のラジオを完全に分解してしまった時、上の子の教科書にクレヨンで絵を描いてしまった時。化粧台にあった私の香水瓶を、おもちゃの刀を振り回した弾みで思い切りひっくり返し全滅させてしまった時も、確か同じような声を出していた。
相談……というか、頼みが、あるんだけど。
ボツボツと細かく切るようにして告げてくる声に、悪い想像はますます膨れ上がっていった。そんなおとなしい言い方をしているけれど、どうせもう話し合うような事は残ってないんでしょう?声には出さなかったけれど確信めいた予感に、私は密かにため息をつく。この子がこういう声で言ってくる時にはもう、大概は事後報告なのだ。こちらが何をどう言おうと関係無い。決めてしまった後で、一応伝えてきているだけなのだ。
「あのさ。…俺、今度の春、大学卒業するだろ?」
唐突な話題に怪訝がりながらも、私は話を促すように手にしていた湯呑を置いた。
確かに紆余曲折はあったけれど、最終的には再挑戦して見事合格した大学を、息子は来春卒業する予定だ。信奉していた兄がいなくなってから酷く不安定だったこの子だけれど、今はすっかり自分らしさを取り戻し、大学でも兄に負けない程の評価をもらってきているようだった。
多分この子がこれだけしゃんと立ち直れたのも、ここを出た先で素晴らしい出会いがあったお陰だろう。一度だけだけれど、息子と共にうちに遊びに来てくれたあの金髪の男の子。息子とは対照的に素直でよく笑うあの子に、私はたった二日間ですっかりファンになってしまった。話しかければ嬉しげに返してくれるし、褒め上手だし、よく気がつくし、それになにしろ笑顔がカワイイ。なんだかつい色々と世話を焼きたくなってしまう、不思議な子だった。あの子が木の葉荘を出て彼の地に行ってしまったと聞いたとき、私がどれほど嘆いた事か。一体何を拗ねているのか、息子は全然それからあの子と連絡を取っていないようだった。その事も息子に何度も問い質したかったのだけれど、何故か最初にカカシ君から「その件についてはもう不問て事で。あんまりサスケを突っつかないでやってくださいね」と止められてしまったせいで、結局ずっと何も聞き出せず終いだった。あんなに仲が良かったのに、最後に喧嘩別れでもしてしまったのだろうか。男の子の付き合いって、私にはよく解らない。
「で、卒業してからの、研修先をさ。そろそろ決めないといけないんだけど」
ふわふわと懐かしい笑顔を頭の中で再現していた私だったけれど、耳に飛び込んできた現実的な話題にすっと意識が戻らされた。らしくない程に持って回った言い方に、これから打ち明けられる事柄が、この子にとって相当口にしにくい話であるのが察せられる。何かしら…ひとり暮らしの下宿先で空き巣に入られた事よりも、もっと言いにくい事かしら。ちょっと波立つ心を抑え、「ええ、そうね」と平静な声で答える。
「その、兄さんと…同じように」
「ああもちろん、イタチみたいにうちに戻ってきたらいいわよ。お父さんだってそのつもりでいると思うし、別に何も心配しなくても…」
「――じゃ、なくて」
兄と同じように、という耳に馴染みあるフレーズにホッとしてついそのまま続けたが、それはどうも早合点だったらしい。話の途中で遮ってきた声は、なんだか妙に切羽詰っているようだった。やはり普段とは違う我が子の様子に、訝しげに首を傾ける。
「じゃなくて?」
「…うん」
「なら、何?」
「兄さんと同じようにしないで、研修先をうち以外の病院にしてもいいかなって…」
「なにサスケ、もしかして木の葉荘に残るつもりなの?」
動きの鈍い唇についまた話を継いでしまったが、それもまた早合点のようだった。「だから、違うって。すぐそうやって母さんは話の途中に入ってくる」と憮然と尖る唇が、ぶつくさと文句を垂れる。
「なによ、違うの?」
「違うよ」
「じゃあ何、どうしたいの。ぐずぐず喋ってないで、ハッキリ言いなさい。あんたらしくもない」
「だから――うちじゃなくて他のとこに、行ってみようかなって」
他のとこ?と聞き返すと、歯切れの悪かった息子の口は、とうとう油が切れたかのように動かなくなった。どこの病院に行きたいの?と尚も追うと、ちょっと下を見たその顔が、どんどん仏頂面になっていく。

「……北海道の」
「え?」
「北海道の、大学病院。そこに、行こうと思って」

――だからもし父さんが反対するようだったら、味方になって欲しいんだけど。
最後は自棄になったかのようにそう言い切ると、照れ隠しなのか息子はぷいっと横を向いてしまった。皮肉ばかり言うようになってしまった口はつんとして、すっかり男らしくなってしまった薄いほっぺたが緊張に強張っている。
あらあら…あらあらあら。
普段、大概の事には顔色ひとつ変わることのない子の目の下あたりが、ほんのり赤く色付いているのを見て取ると、私は思わずポカンと口が開いてしまった。
北海道?北海道っていったら、真っ先に浮かぶのはあのお日さまみたいな朗らかな笑顔だ。
……なに?もしかしてこの子、やっぱり本当はあの彼に会いたかったの?
この4年間、ずっと?何の連絡も取り合っていないみたいなのに?
「北海道」
「そう」
「どうして北海道なの?」
「……意味なんてないけど」
だけど今まで一度もそんな素振りさえ見せなかったくせに。そんな恨みがましい事を思いつつ、私はしつこく確かめた。それならもっと早くに普通に会いに行ってくれば良かったじゃない、なんでそうしなかったのかしら。訝しみつつ、じっとその赤らんだ頬を見る。……でもよく考えてみたら、大事な事であればあるほど、誰にも打ち明けないで身の内に秘め続けるのがこの子の常だった。むしろこれまで一度も口にしなかったところこそが、この決断が相当に固く譲れないものであるという証拠だといえよう。と、いうことはやはり、これまで会いに行かなかった事にもちゃんとしたこの子なりの理由があるのだろう。まあどんな理由かは、想像が付かないけれど。多分また極端な考えの下、自分で決めた事があったのだろう。
「そう、意味なんてないなら、別にそんな遠くに行かなくてもいいじゃない。うちに帰ってらっしゃいよ」
久しぶりにみる気恥ずかしそうな様子の息子に妙な嗜虐心が湧いてくると、私はついそんな意地悪を口にしてしまった。えっ?と狼狽えて目を泳がせる子供が、やけにかわいらしい。
「いやでも、その」
「行きたいのって、そこの病院だけなの?ここから通える他の病院は?」
「……」
「北海道じゃなきゃダメな理由でもあるの?」
ここまで追求されるとは思わなかったのだろう、逃げ道を塞ぐように執拗に追いかけられると、普段ツンツンするばかりですっかり可愛げがなくなってしまった息子は、とうとう困ったようにたじろいで固まってしまった。あらら、ちょっと意地悪しすぎちゃったかしら。いつもの冷たい反応へのお返しをしたかっただけなのだけれど、いささか効果がありすぎたらしい。
……まあ、そんなに必死な顔しちゃって。でもそうよね、あんたのその強情っぱりと極度の照れ屋はお父さん譲りだもんね。なんだかその顔、あの人がプロポーズしてきた時そっくりじゃない。あの人も必死になりすぎると、どういうわけか逆に怒ってるような顔になっちゃうのよね。やーね、ホント変なとこばっかり似てるんだから。損な親子。
「一応、訊くけど」
サスケ、そのまま戻らないつもりではないわよね?うち継ぐのが、嫌なわけではないのね?
横向きのままチラチラとこちらの反応を気にしている我が子に念のため確かめると、ぱっとこちらに向き直った息子はすぐさま「まさか!そんな事考えてないって」ときっぱりと言った。「いつかはちゃんと戻ってくるし父さんの後も継ぎたいと思ってる。…ただ、とりあえず卒業したら、研修の間だけでも他所の病院を見てみたいな、と…」と言うその言葉は最初のうちはしっかりしていたが、しかし語尾にいくにつれてだんだん不安げに揺れていく。

「……ダメ、なのかよ……?」

しばらく、黙った後。
はっきりとした賛成を示さない私にとうとう観念したのか、ちょっと弱ったような声を出した息子が、そろりとこちらを窺うような上目遣いで小さく呟いた。
ダメと言ったところで、どうせ聞きやしないくせに。呆れ混じりにそう思いつつ、自分によく似たその目許を見る。表面上のものは私から受け継いだ部分が多いけれど、言いだしたら聞かないところや、途方もなく頑固な性格は、全部父親譲りだ。それでも一応、親の了解を得ようとしてくれているだけでもまだマシなのだろうか。というか、この子昔からこの上目遣いに家族全員がからきし弱いってのに気が付いているのかしら。イタチなんて、どれだけコレにやられてきたことか。本当に、末っ子というのはおそろしい。
「ダメだなんて言ってないでしょ。……まあ、ちょっと、びっくりはしたけど」
いいわ、もしもの時は味方になってあげる。でもまずは自分できちんと、お父さんと話をするのよ?
そう言って(ふうう、)とちょっと芝居がかった仕草で長いため息をついてみせれば、真剣な様子でこちらを見詰めていた息子はほっとしたように、張っていた瞳をゆるりと解いた。途端に気楽な様子で「うん、なら良かった。よろしく母さん」などと言って不遜な態度に戻るその子に、ちょっとムッとする。
なあに、その態度。許してもらったら急にまた偉そうにしちゃって。やっぱりどこか調子のいい次男坊に、なんだかうっすらとした不安が過ぎる。本当に大丈夫なのかしらこの子、こんなんでちゃんと、向こうで彼とまた仲を戻せるのかしら。そう感じた私は、これまでずっとわだかまっていた不満もついでに解消するべく、最後にしっかり釘を刺す事にする。

「――ただし、条件があります」

すっかり気の弛んでいたらしい息子は突然ぴしっと背筋の通った声に牽制されると、「は?」とどこか抜けたような声を出した。くるりと丸くなった瞳をきりりと睨む。僅かに身構えたその気配を逃がさぬよう、一言一言に力を込め、言い含めるように私は言葉を紡いだ。
「一年後。来年のゴールデンウィークには、必ず帰省する事。もちろん、ナルト君も連れてね。ひとりで帰って来たりなんかしたら、うちの敷居を跨がせないんだから。いいわね、しかと承知しておきなさいよ。ふたりで、帰ってくるんだからね?」

(あれから4年……違った、もう5年になるんだわ)
まったくもう、相も変わらずあの子ったら、平気で人を待たせるんだから。またもや知らされていた到着予定時刻を易々とオーバーしている時計を見て、小さな息をつきながら私は卓につき腰を下ろした。空港からは近くのレンタカー屋さんで車を借りて運転してくると言っていたから、きっとまた前回のようにのんびりドライブを楽しんでいるのだろう。こちらは待つばかりで手持ち無沙汰なのは間違いないのだけれど、なんとなくゆったりとお茶を飲む気にもなれない。
緑の濃くなってきた庭を、二羽のツバメが横切っていった。つがいなのだろうか、絡み合うようになめらかな滑空を、ぼんやりと目で追う。残念ながら泰山木の開花は間に合わなかったが、花木の多い我が家の庭では今シャクナゲとハナカイドウが満開だ。茂みの陰ではカタクリが楚々としているし、奥にある小さな池の辺には5月に相応しく清々しい菖蒲が葉を揺らしている。そうだ、5日の端午の節句には久しぶりに菖蒲湯の準備もしてみようか。どれだけ大きくなっても男の子には違いないものね、ああ今思い出しておいて良かった。
……そんな事をつらつらと考えていると、家の前で車が停車する気配がした。つい、息をひそめる。すると少しの間を置いて車のドアが閉まる音がしたかと思うと、開け放した窓の外から「うへぇ、やっぱ久々に見てもすげえ家だってばよ」「そうか?今お前がいる家の方がでかいだろ」などという、気易い様子で何事か喋り合う声がかすかに聴こえた。その中に忘れられない彼の口癖を拾い上げると、もう居ても立ってもいられない。座ったばかりの腰を躊躇なく上げ、私はガラリ戸が開ききるその前に、玄関へと急ぐ。
「なんだよ母さん、珍しくそんな走ったりして」
小走りで出てきた私を見て、開けた扉の真ん中に立つ息子はそう言って鼻で笑った。いつもながら可愛げが無い。しかしそんな息子の後ろから、明るい金色が落ち着いた仕草ですっと一歩前に進み出る。なんだか以前よりも、随分と精悍な顔立ちになった。プロになってトレーニングも本格的になったせいなのか、肩幅もひとまわり大きくなったような気がする。
けれども変わっていない、ふかくてやわらかい、澄み渡った双眼の青。
逆光に黒ずんだ大きな影が、しんから嬉しげに相好を崩す。

「こんにちは。――お久しぶりです、ミコトさん」

スイマセン、またお世話になりますってば。
そう言って、ふかぶかと頭を下げたその礼儀正しさが嬉しくて懐かしくて、思わずちょっと目が潤むのを感じた。そんな彼を横にした息子はものすごく照れくさそうだし仏頂面だけれど、わずかに緩む口の端から察するに、内心ではとても嬉しそうだ。無愛想で気の利かないうちの子が、こんな極上のお友達を作ってこれただなんて。正直今でも、奇蹟のように思う。
熱くなる目頭をそっと抑えても、口許は自然、きゅっと喜びにかたどられるのを感じた。
ああ、本当に。この日がまた来るのを、私がどれだけ楽しみにしてきたことか。
「――いらっしゃい、ナルト君。また来てくれて本当に嬉しいわ。さあ、上がって上がって!」