≪1≫

けどやっぱどう考えても、最初はオレ別に悪くないよな。 あれから時間はずいぶん経ったけど、何度思い返してみても、オレは同じ結論に至るのだった。
時期は六月、任務のため訪れていた里外れの田舎町。当時依頼主である町から仰せつかったのは毎年その時期開催される町おこしの手伝いで、カカシ先生率いるオレ達七班は、先方が用意してくれた古い民宿に滞在していた。
たいして難しくもない、一泊二日のその任務が予定を大幅に狂わせたのは、ひとえに天候不順のせいだ。時期が時期なだけに仕方がなかったのだろう、オレ達の到着と同時にどっしり座り込んでしまった梅雨前線は、覆った雲でしょっぱなから町に大量の雨を降らせていた。
企画されていたイベントは、町の中心にある大広場を使うのが大前提らしい。宿代はすべてこちらが持つからという依頼側の懇願に押し切られるような形で、オレ達七班はそのまま現地で待機することになった。「困ったねえ」なんて口にはしつつも、のんびりしているのがカカシ先生だ。先生にとってはこのトラブルはある意味降って湧いた特別休暇みたいなものらしく、わりあいに悠々と、町が用意した民宿で自分の時間を過ごしている。ただ日に一度は里からの伝達があるようだった。そうするとカカシ先生は何も言わず、するっと外へと出掛けていく。
事件はそんな、ぽかんと出来た平穏の中で起こった。
もう一度いう。あの件については絶対、あいつも悪い。

「……だーっ、もう!」

わめいてひっくり返った畳は妙にぐんにゃりとしていて、どたんと立てた音もなんだか籠ったふうだった。持っていた本を手放し、大の字で放り出したオレンジジャケットの腕が力なく落ちる。一応『休暇』ではなく『待機』だからと今日も真面目に着込んでいる、任務服が虚しかった。手の甲に感じる日焼けしたい草も、吸った湿気でしっとり重みを増しているようだ。
雨はもう、降りだしてから三日目に入っていた。ぐるりと仰向けになった天井が視界に広がる。
横断する洗濯ロープ、干された任務服の替えや普段使い兼用のTシャツに混じり、ぶらぶらと生乾きの下着類が万国旗よろしく垂れ下がっているのがなんとも気分を滅入らせた。特に名物もない田舎町には普段客なんて滅多にいないのだろう、経年に黒ずんだ梁の端っこには、払い忘れのクモの巣が破れて引っかかったままだ。
先程投げ出した本を拾い上げ、その分厚さに溜め息をつく。古びて角が丸くなった文庫本はここの宿のものだ。いつものように一人部屋に泊まっているサクラちゃんの所には退屈しのぎのための本が何冊か置いてあったらしく、あまりにする事がなくて倦んでいたオレは夕方のミーティングの時、彼女からその中の一冊を貸してもらったのだ。   
私うっかり最後泣いちゃったわよなんて、差し出してくれた時のサクラちゃんはニコニコしていたのだけれど。

(やー…ほんと、サクラちゃんすげえなあ。こんなの最後まで読むなんて)

オレには無理だってば、と感心するような呆れるような思いで、湿った天井を見上げればまた溜め息が出た。
サクラちゃんイチオシのその本は、甘く切ない純愛モノの恋愛小説だ。本当の事をいえば、裏に書かれていたあらすじに目を通した瞬間、オレは(うっ)となった。それでも余りある待機時間と、あわよくば同じ本を読んだ感想でサクラちゃんと盛り上がれたらという下心を燃料にして、果敢にも完全守備範囲外の世界に挑んではみたのだ。
しかし結果はこのとおり、人には得意不得意というものがあるものだ。
というか恋愛云々の前に、そもそもがこの相手の男の設定からしてオレはダメだった。なんなんだよこの偉そうな気障ヤローは、顔よし頭よし家柄よしって、こんなの反則過ぎて読んでて腹立つばっかなンすけど。
(――…とはいえ、)
ほんと、マジすることねーってば……。
鬱々としてまた思うと、気分は滅入るいっぽうだった。
いたずらにここ数日ですっかりなまってしまった両腕を、天に向け垂直に上げてみる。暗い色した天井に見える自分の手が、退屈しきった視界に妙に新鮮に映った。
天井を掴むように手のひらを広げれば、凝り固まった筋に血が流れるのを感じる。
そのまま「グッ・パー、グッ・パー」と二回、手を動かしてみた。なにしろもう本当にここ数日というのは、うんざりするほどに身体を動かす事がなかったのだ。そのまま立て続けに高速で、開いて閉じてを繰り返す。

「……おい」

久々に動き出した筋肉が気持ちいい。そのままふと思いついて、寝転がったままぶるぶると全身を揺さぶるように震えさせてみた。普段揺れない尻の肉までもが自分の体重で床に擦られぶるぶるとする。気持ちいい。なんとなくだけど内臓までもが一緒に揺れて位置を正していくようだ。まあ気のせいだろうけど。

「おい」

仰向けに寝たまま両手両足を交互に捻る。そんな意味のない動きがどんどん興に乗ってきてしまって、やがてオレはもっと大胆に動くことを決めた。だいたいがこれじゃ運動不足で、身体が鈍るばっかだもんな。びしっと真っ直ぐ魚のように背中を伸ばし、万歳の両手をぴしゃりと頭上で合わせる。
せーので弾みをつけごろんと横向きに一回転すると、なんとなく気分も一新されるようだった。窓から見える景色が少し近くなる。結構悪くないなこれ、このまま転がりながら、反対側の壁まで――

「おい!」

きつい声に、返された虫みたいに四肢が引っ込んだ。
そろりと見上げた窓際、枠に腰掛け片膝を立てたシルエット。やっぱりオレと同じく、また丸一日その任務服姿を無駄にしようとしているサスケが、いかにもうんざりといった顔でオレを見下ろしている。
紅一点であるサクラちゃんに一人部屋が用意されるのと揃えるかのように、オレとサスケは毎度二人部屋に押し込まれるのが常だった。当時はそういう決まりなのかと思い込んでいたが、実は単に担当上忍の匙加減と財布事情によって決められていただけと知ったのは、大人になってからだ。

「なんだってばよ」
「なにやってんだお前は」
「ん? 運動。身体なまっちまうからさあ」

けっこう気持ちいいってばよ、これ。教えてやるも、サスケは「バカじゃねえの」とばかりに鼻を鳴らすだけだった。
けど思えばこの時、あいつ本当は自分もちょっとやってみたかったんだ。だって最初から苛々していたし、それに物静かな見た目に反し、実は身体を動かすのが好きなのはオレよりもサスケの方だった。落ち着きがないなんてオレには文句を言うけれど、自分だって本当はじっとしてるのが苦手。七班で任務するようになってからオレが知った、優等生うちはサスケの知られざる真実。
「そんなもんが運動になるかよ」
「えー、サスケもやってみろって」
「やらない。つかてめえもやるな」 
「なんで、べつに迷惑かけてねーじゃん」
「かけてる。うぜえ。埃もたつだろうが」
ぽんぽん投げられた注意は偉そうな事この上なかったが、最後に「下にも人がいるんだぞ」と言われると、ようやくオレも「あ、そっか」となった。ここの客間は二階だけだけれど、一階では今もちょっと小太りな女将さんがいるはずだ。しかしそれでも、もうちょい言い方ってあると思う。
「……けど、ヒマなんだもんよ、オレってば」
することねーし、退屈だし。訴えてみても、サスケはほのかに眉を寄せるばかりだった。面倒そうに黒い瞳が細められる。知るか、と言い捨てると、それはまた窓の外へと顔の向きを戻した。
「ヒマなら修行でもしろ」
表を眺めたまま、サスケが言った。
「だから身体動かそうとしてたじゃん、さっき」
「頭鍛えろよ」
「そーゆー気分じゃねえんだよなぁ」
「……偉そうに」
そういう事は気分になってみてから言え、という容赦ない返しに「なんだよそれぇ!」と言い返すも、サスケはそっぽを向いたままだった。
行儀悪く膝を立て腰掛けた窓枠の向こうでは、相変わらずの雨模様。
「飽きねえのかな」
ぱたんと両の腕を広げ大の字になると、見上げた重たい空にふとオレは呟いた。「あ?」と一瞬サスケが見る。
なにが、というかったるそうな問い掛けに、「いや、こんなずっと降らしててさ。よく飽きねえなって」と答えると、サスケは一瞬意味が取りきれなかったのか、きょとんとした表情でまっくろな瞳をひとつまたたく。
しかしやがて意味がわかれば、もう興味も無くなったらしかった。すいっとその目がまた外の景色へと戻る。
「……くっだらねぇ」
こちらを向かないまま言われた科白は、なんだかオレに向かって言っているというよりも、ひとりごとに近いようだった。
溜め込んじまったもんが、そんだけ多いってことだろ。
整ってはいるけれど確実に退屈に倦んでいるその横顔の向こうで、雨避けの端から集められた雨垂れが光を透かし落ちていく。

「――あ、なァ!」

思い立ちにあげた声は、湿った部屋では半端に響いた。
「じゃあさ、じゃあさ、お前も一緒にするってばよ」
「はあ? なにを」
「べんきょ! ヒマなんだろ?」
しようぜ、な!? と勢いよく身体を起こし誘ってみれば、サスケはちょっと戸惑いながらも、一度は何か言おうとしたらしかった。―が、結局はそれもやめたらしい。開きかけた唇がムスリとまた閉じる。
「しない」
「えっなんで、だってさ」
「うるせえなァてめえは、いちいちオレを巻き込むんじゃねえよ」
やる気がねえならせめて黙ってろ、絡んでくんな。つんけんと戻された言葉に、自然鼻が膨らんだ。……なんなんだよこいつ、さっきから妙に苛立ちやがって。そんなふうに思ったところ、ふと視界の端に映る白の切れ端。
「あ、」
気を引くようなオレの声に、当事者であるサスケもすぐに気が付いたらしかった。視線の先、窓枠に腰掛けるオフホワイトのハーフパンツから伸びた足の脛辺りでは、普段きちんと巻かれている包帯が解けかけている。
「サスケ、取れてる」
直してやるってばよ、と言いながらつい伸びた手に、しかし白い踵はつれない仕草でするっと逃げた。
即座の躱しに思わず(へっ?)となったオレに、その綺麗な横顔が冷たく見下ろしてくる。
「さわんな。自分でやる」
言い捨てと共に舌打ちまで付けられれば、さすがにこちらもムッとくるものがあった。なんなのこいつ、さっきから。どうも理不尽にきつくされている当たりに、自然オレの口先もとんがってくる。
「なんだよその言い方」
「…ンだよ」
「オレがやってやるっつってんだろ」
「誰も頼んでねえよ。いいからてめえは絡んでくんな」
お節介め。そんな面倒臭そうな吐き捨てにムッとなったが、同時になんだか逆にちょっと盛り上がってくるものもあった。なんていうかまあ――退屈だったんだな、ひたすら。このあたりは確かにオレが悪かったとは思う。

「――なんだよサスケちゃん、遠慮なんかすんなよ」

上体を起こしては(じりっ)とにじり寄った言葉に、涼しげな細い眉がぴくりとするのがわかった。ちゃん呼びはサスケを煽るには最高の起爆剤だ。睨みつけてくるその隠しようのない苛立ちに、ぞくぞくとした興奮がはしる。
「……遠慮なんてしてねえよ」
「いいじゃんかそんくらい、やってやるって」
「うぜえ。さわってくんな」
薄ら笑いの挑発に、窓枠に腰掛けたまま見下ろしてくる目は明らかな侮慢で満ちているようだった。しかしその奥ではちらちらと、確実に燃え始めている感情の炎が見える。こいつってばいつだってクールに装ってるけど、実はめちゃくちゃ簡単に着火するよな。これも同じ班になってから知った事だ、カッコつけマンうちはサスケの真実その二。
「ヒトの親切は、素直に受けるもんだってばよ?」
にやり口の端っこを上げ、両手を構えオレは言った。
「結構だ、つかてめえいい加減マジ離れろよ。うるせえその口に足突っ込まれたいのか?」
不敵なオレに対し、サスケも尊大だ。鉄面皮は窓枠に腰掛けたままで胸に引き寄せるように軽く膝を折ると、つるりとやわらかそうだけれどがっつり構えた足の裏が、返り討ちだとばかりにオレに照準を合わせる。
隙のないそれにふと指先をぴくりとさせてみれば、間髪入れずひゅっと形のいい踵が風を切った。咄嗟に避けた手の甲、残された感覚の鋭さ。
予想以上だったそれに思わずちょっと目をむくと、そんなオレにサスケは「ふ、」と不敵に目を細めた。……へえ、なるほど上等だ。やっぱそうこなくっちゃな、サスケちゃん。
会話が消えた部屋に、雨の音だけが響く。
身体中を巡るその危うくも奇妙な興奮に、胸が躍るのを感じた。
ぞくぞくする緊張にそっと唇を舐める。そんなオレの動きのひとつひとつを、サスケがじっと見ていた。濡れて光る、上等な黒硝子みたいな瞳。物騒な中身してるくせに、こいつ顔だけはほんっと綺麗だよな。睨み合う中でも涼しげな鼻梁のつくる影に、ちらとそんな事を思ったりする。

「あっ――なあ!」

雨! と演技力を駆使しあたかも驚いたかのように窓の外を指したオレに、瞬間サスケの意識が窓の外へといった。外れた目線に即手を伸ばす、そこでようやく気が付いたサスケは避けようと足を引いたが、逃がすかとばかりにその垂れた白い端っこを素早く捕らえた。
「へっへーだ、やった!」
「てめ……なにが雨だ!」
「雨、やまねえなぁ~~」
悔し気なその顔ににんまり言ってやりつつ、しっかりまたそれを掴み直すと、びんと張られた包帯にサスケが顔色を変えた。やーい、こいつ青くなってやんのざまあみろ。逆転した立場に興奮しつつ、更にその焦りを見下ろしてやろうと立ち上がる。

「なんだ、言ってたわりにたいしたことねェなあサスケちゃん、それのどこが――」
「ばっ――バカお前、そのままで立つな!」

まど! という短いメッセージに、ぐらりとその整った顔が斜めになった。いつになく焦った声に(?)となるも、しかしその一秒後ようやくその意味を理解する。
古ぼけた窓枠に座る藍色のシルエットが、オレの手で無理に上げさせられた足だけを残し、ゆっくりと後ろへ倒れていった。
雨降りの空へと飲み込まれていく上半身。ざあっと背中に冷たいものが走ると同時に、咄嗟に立ち上がった身体で両腕を伸ばす。

「やべ、落ち――」
「……っわああああダメダメダメだってば! オレに掴ま」
「――るわけねぇだろ、このバカが」

危機の知らせから一転、ぱっと戻ったぞんざいさに思わず「え、」と声を漏らせば、脱力しているように見えたその両腕がぐんと伸びて、古い窓枠の左右をしっかと掴んだ。
ふわり浮く身体。
重さを知らない動きに、束の間完全に見惚れた。
上から覗き込むような角度になった視界に研かれた黒のまなざしが刺さってくる。と、同時に目に入ったのはホルスターを巻いていない、ゆるいハーフパンツの裾からの隙間だった。入り口である膝上の更に先、白い腿根に張り付く黒のボクサー。仄暗いそこに垣間見えたほんのりとした膨らみに、阿呆のように口が開く。
サスケおま、パンツ。――思わず口にしようとした途端、左右を掴む華奢な肩がクンと後ろへいった。
一瞬の溜め。広げた白い腕に、ぐっと力がこもる。

「おい」
「……へっ?」
「よそ見してんじゃねえよ、ウスラトンカチ」

こっちだ、と言われると同時に顎にきた衝撃に、ガチン! と奥歯が派手な音をたてた。
放心したところ叩き込まれたそれに声も出せない。よろけて踏んだたたらに、口の中で鉄の味が広がった。それでもどうにか星の散る目の奥を耐えまぶたを開けば、そこに見えたのは華麗な仕返しでいかにも『せいせいしたぜ』といわんばかりの、大胆不敵なサスケの顔だ。

「ざまァねえな、ドベが。てめえがオレの裏をかこうなんて百年早ェんだよ」

すっかり上位に立った様子でサスケは言った。はらりと落ちていた足首の包帯は、いつの間にか直されてしまったようだ。
「忍者たるもの、いくら不意打ちでもあんな窓からただ落ちるわけねえだろ」
「……」
「それに対しお前は自分から仕掛けてきたくせに肝心な所で注意力が散漫だ。なんださっきのは、バカみてえにボケッとしやがって。そんなんだからいつもろくに手裏剣は当たらねえし、縄抜けひとついまだに……」
「――いやだって、パンツが!」
くどくど始まりかけたところ声を上げれば、偉そうに顰められていた眉はひゅっと弛んだ。
はぁ、パンツ? 胡散臭そうな聞き返しに急に恥ずかしくなる。ふいに手のひらに湧いてきた汗を誤魔化すかのように、ぎゅ、とシャツの鳩尾あたりを掴んだ。

「パンツがなんだ」
「その……パンツ、が」
「?」
「…お前そのズボン、隙間から、パンツ見えるってばよ」

どもりつつ打ち明けて見上げると、そこにあったのはぽっかり開かれた黒い瞳と、形のいい唇だった。
しかし段々と意味が飲み込めてきたのだろう。開いていた口は閉じられたかと思うと、不機嫌なへの字にひっくり返る。

「それがどうした」

なんとなくもじもじと目を泳がせてしまうオレと比べ、サスケの態度は実に堂々たるものだった。
見えたのはそれだけだろ、中身が見えなきゃ問題ない。
そんな清々しくも男らしい切り返しに『ぐくぅ』と詰まる。……いや、そうなんだよ。確かにそうなんだけれども。
「女じゃあるまいし、男が騒ぐことかよ」
「……そうだけど」
「そもそもが下着ってのはそういう時にソコを隠す為のもんだろうが。ちゃんと役立ってんじゃねえか」
述べられたのは、至極もっともな意見だった。少し呆れたような、何を気にしているんだこいつはといった目が、じっとオレを見る。
少し気圧されつつも視線を返すと、サスケは腰にあてていた手をゆっくりと下ろした。力の抜けたその立ち姿は、沈んだ色彩の中その色の白さを際立たせている。


「なーにやってんのお前ら、薄暗い中ふたりして見つめ合っちゃって」


途切れた会話の中、ひょっこり飛び込んできた声にぎょっとすると、その声の主ははどうやら開けっ放しの窓の向こうから話し掛けてきたようだった。雨に濡れてもまだぼさぼさと斜めを向く髪、白地に赤いラインのポンチョ。出で立ちから察するに今帰ってきたのだろう、すっかり濡れ鼠となったカカシ先生が窓からこちらを眺めている。
「あっ、カカシせんせ――…ってえええ!?」
どうやって、とばかりに宙に漂うその光景に驚き窓枠に飛びつけば、なんてことはない、二階の窓下にはそのまま一階部分の軒が張り出しているのだった。
思わずじろりと振り返る。しれっと知らんふりで腕を組んだサスケに、また(むうう)と鼻にしわが寄った。
「まったく。慌て者だね、お前は」
動揺からすぐに今度は不貞腐れたオレに、ここまでの流れは知らずとも先生は「やれやれ」といった様子で苦笑した。ぽんとオレの頭にグローブの手が載せられる。片側だけの目の方は、サスケにニコリと笑いかけたようだ。
「まーたケンカ?」
「……」
「懲りないねえお前らも、どうせ理由だってまたしょうもない事なんでしょ? さっさと仲直りして下に降りといで、設営始めるよ」
この様子なら、明日は朝からやれそうだし。飄々とした口調のまま言われた言葉に、思わず「えっ?」と声が漏れた。
はっとした様子でサスケも外へと目をむける。
うすく光を透かし始めた雲。いつの間にか、雨が上がっている。

「やった! いま行く―…!」
「いや待て、」

ナルト、と呼ぶ声に浮き立つ足を止められれば、振り返った先で待っていたのは先程と同じ腕組のままでいたサスケの無表情だった。
なに、オレってばもう行きたいんだけど! と急いた気持ちで首だけ巡らせたオレに、「窓」とサスケは短く告げる。
「出てく前に窓閉めてこいよ、ちゃんと鍵も」
「へ? なんで、服乾いてねえし開けといたらいいってば」
金も置いたりしてないから別に盗られて困るようなもんないし、と安請け合いしつつリュックから額宛てを取り出そうとするも、それをサスケはまた止める。
「駄目だ、閉めてこい」
「え~?」
「宿にだって迷惑がかかるだろ」
そんなふうにきっぱり命じながらも、サスケは自分では動こうとはしないのだった。自分だけ先にズボンのポケットから額宛てを出すと(短気なカッコつけマンうちはサスケは、その実必ず額宛てだけは常時そのぶかぶかのハーフパンツのポケットに携帯しているお仕事大好き人間である。真実その三)、ちらりと部屋に干された洗濯物に目をやっては、オレに向けフンと鼻を鳴らす。
「――けどまあ確かに入ってみたところで、干されてるてめえのダッセエパンツ見たら、泥棒だって盗る気も失せるだろうけどな」
とっととしろよ。つけつけそう言い捨てると、ズボンのポケットから出した額宛を器用に付けながら、サスケはさっさと先に部屋を出て行った。階段を下りていく足音が軽い。出て行く寸前に見た横顔は、明らかに機嫌が良くなっていたようだ。

(なんだアレ! むっかつく~~!)

感じの悪い置き土産は、明らかに故意のものだった。せっかく一度は収まったムカつきの再びの登場に、気分悪くリュックを閉じむくりと立ちあがる。
癪ではあるがそれでも言いつけに従い窓の方を向くと、突然ひらりと何かが頭にかかった。見上げた色彩からしてどうやらサスケの洗濯物だ。いつもと同じオフホワイトのハーフパンツ、寝る時着ているらしい、黒のタンクトップ。
そうしてその横に並んで干されているのは、先程見えたのと同じ黒のボクサーパンツだ。
(あんにゃろ……なにがダッセエパンツだ。自分は自分で、毎日毎日ほぼ全部同じデザインばっかのくせに)
絶対これただ単に選ぶの面倒なだけだろ、オシャレゴコロのわからん奴め、と毒吐くも、確かにその黒のパンツはやけに大人びて格好良くも見えるのだった。
するんとした生地はいかにもすべすべと肌に馴染みそうで、オレが愛用しているポップでキュートな綿百パーセントのトランクス達とは、一線を画している。

(……まぁ確かにはき心地は、悪くなさそう、だけど)

そっとその黒い生地に触れてみると、ほんの僅かまだ乾ききれていないそれはしっとりと柔らかくオレの指先で形を変えるのだった。ほんのり香るのは柔軟剤などという気の利いたものではなく、ここの共同浴室にある固形石鹸の香りだ。洗濯機が使えない出先ではいつも、オレもサスケも服の洗濯は、もっぱら入浴ついでに風呂場でゴシゴシ派である。
とはいえ、そうやって同じ扱いを受けているにも関わらず、ちょっと光沢のあるその表面はなんだか妙に艶めかしいようだった。
たかだか男の下着のくせに、なんともけしからんことである。

(このへんに、あいつのアレが納まってんのか)

干されたままの状態でも、ピンポイントでそこだけ縫製によってほんの少し余裕を持たせてあるのを見て取ると、ぷくりと先程目撃した隙間からの映像が、再び脳裏に浮き上がった。
すべすべの生地に包まれた、アレ。
ふっくらとした丸みをもったあそこはきっと触れば、ふにふにと温かな弾力でもってこの手に返ってくるのだろうと思った。薄布をそっと盛り上げていたサスケ自身。あんな済ました顔した奴でも、この中でそこを硬くしてしまうような事があるのだろうか。

(………ちょっとはいて、みよっか、な)

自分で思いついてしまうと、そのあまりのヤバさにくらくらした。
前側でふっかりと開いたスペース。普段はサスケのアレが「…よう」ってしてるそこに、オレのナニがINをする。
いわば股間同士による間接キスのようなその儀式は間違いなく変態じみているようであったが、しかし非常な魅力をもってオレを誘うのだった。……いやでも、考えてみたらオレってばキスに関しては間接じゃなく直接もうサスケとはしちゃってるんだった。てことはあれか、こんな洗ったパンツ穿いてみるくらい、それに比べたらどってこともないか。そんなふうにも思いながら、うぬぬとばかりに干されたパンツを睨む。

(いや待て――問題は『前』だけじゃねえ)

『後』だ。迷いながらも、危惧されるのはその一点だった。
穿いてしまったらそのパンツは、その後どうするのか。
一回穿いてみたのち、すぐまたここにぶら下げておけばいいだろうか――そう考えてもみたが、しかしそれはそれで大変に背徳的な事に思えるのだった。仮定として、今オレがここでこのパンツを穿き、その後何食わぬ顔で脱いだそれをまた洗濯ロープに引っかけておこう。そうなったら必然的に、サスケはこのオレの使用済みパンツを穿くことになるんじゃねえか?
……いや。いやいやいやダメだろそりゃ、アウトだろ。
なんというか人道的に問題ありだし、それに万が一バレたら顎キックなんかじゃ絶対済まない。さらにそういった危機感に加え、バレなくてもそれを常に意識しつつ当のサスケ本人とこの先もここで宿泊するというその妙なプレイは、間違いなくオレの脳も股間も容赦なく刺激しまくるに違いない。
あっぶねー……先に気が付いて良かったってばよ。
ふう、と止めてしまっていた息を吐きながら、いつの間にか汗びっしょりで握りしめてしまっていた黒いパンツから手を離そうとした、その時。


「ナルトー?」


出し抜けにかけられた襖越しの呼びかけに、緩んでいた肩がぎくりとして握りしめた手を引いてしまった。
ぶちん! という洗濯ピンチが外れる音。あっ! と思いつつも「まだいるの?」という澄んだ声に、一気に焦りが噴き上がる。返事はなくともこちらの気配を感じたのだろうか、やがて訪いのあった襖はほんの少しの遠慮をみせながらも、「すすす」とゆっくり開かれた。ピンク色した髪と、ちょこんと覗き込んでくる翡翠色の瞳。それが見えた瞬間、咄嗟にその握った手をポケットに突っ込む。

「なっ、なに?」

ひっくり返りそうになる喉を堪え尋ねれば、廊下に立つサクラちゃんは呆れたような溜め息をついた。
「なにじゃないわよ、任務。あんた中々来ないから先生が呼んできてって」
額宛てもきちんと、すっかり身支度を整えたサクラちゃんは仕方ないわねとでもいうような感じでそんな事を言いつつ、ほんの少しだけオレ達の部屋の中に目を泳がす。
その目がふと部屋を横切る洗濯万国旗に留まった途端、ふとその顔がほんのり赤くなった。(?)と振り仰ぎその目線の先を見る。サスケのネイビーのシャツの横に干されているのは、オレの可愛いカエルさんパンツだ。

「そっかぁ……サスケくん、トランクス派かぁ……」

ふうん、と幸せそうに言うサクラちゃんにすぐ「いやそれ、」と一瞬訂正しかけて、はっと思い至ったオレはごめんと心の中で謝った。
ごめんサクラちゃん、ほんとごめん。里に戻ったらまた今度あんみつご馳走するし。そんな秘かな詫びを胸に「早く来なさいよ」なんて急にきっぱり言っては踵を返す彼女の背中を、慌ててポケットから手を抜いては追いかける。
「まったく、遅いわよあんた、サスケくんなんてもうさっさと来て先生と一緒に櫓組みだしてるから」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。なんかずいぶんと張り切ってたみたいだから、ぼんやりしてるとあんた仕事無くなっちゃうわよ」
「えーっ! そんなのやだってば、今行くし!」
駆け足で並びながら声を大きくすれば、そんなオレに桃色の口許はくすりと笑いを零した。
あ~やっぱカワイイなサクラちゃん、額宛て今日も似合ってるな。淡色の砂糖菓子みたいな笑顔にふわふわ釣られつつ、自分も額宛てを付けるべくポケットに手を入れれば、ふと指先に触れる『ソレ』。


(………どうしよ、これ………)


もってきちゃった。
遠く思えば、しでかした事の重大さに眩暈がしそうだった。
サンダルを履いて飛び出した外ではようやくの日光が射し始めていて、雨上がりの地面に跳ねるそれの余りの眩しさに、ポケットを撫でたオレは思わず足をもつれさせた。