第四話

「……た、頼み?」

聞き返したナルトは、言いながらもすでにその言葉に呑まれかけているのを感じた。
訊き返しに眼差しが頷くように細くなる。出会った時、彼が言おうとしていたのはこれだろうか。

「頼みって、その――なんだってばよ」

妙にそわつく胸を抑え、それでもひとまずナルトは踏みとどまった。いつのまにか手のひらの内側が、汗でじっとりと湿っている。視界の端を、すっかり逃してしまった白い家禽たちが、今のうちとばかりに奥に逃げていった。

「こえを」

ゆるやかに歌うように、少年は打ち明けた。
おれのこえを。とどけてほしいんだ、むこうがわに。
最初からいきなりそんな無理を振られ、うっかり流されかけていた頭が途端に「は?」と戻る。

「向こうって」
「かくりょのせかいにいる、にいさんやとうさんたちに」
「…はあ?!なに言ってんだってばお前、ンな事できるわけ――!」
「どうして?おまえ、きつねだろ?」

慌てふためくナルトに、その言葉は再び矢のようにすとんと深く刺さった。
蒸し暑い夜にも涼やかなその顔は、その不思議を今もまるで疑っていないらしい。無邪気に傾げられた首に言葉を塞がれると、そんなナルトに少年はにこりとする。

「きつねはうつしよとかくりょを、じゆうにいききできるって。そうやってきいた」

むかし、にいさんから。じつにうれしげに、少年は言った。
夢見るような瞳はいかにもまっすぐ信じ込んでいるらしく、あまりに純なその様子は疑う事を微塵も知らないようだ。

「……いやいやいや出来ねえからオレ、無理だって!」

見詰めるまなざしは確かにどこか胸を擽るものがあったが、それでも到底無理な話にナルトは俄かに焦った。かくりょ?とかいわれてももう一つ意味わかんねえし、そもそも狐じゃねえから!急ぎ言い訳するも、少年は取り合う気はないらしい。

「うそだ、きつねのくせに」
「嘘じゃねーって!」
「だっておまえ、しっぽが――…」

そう言ってはするすると組まれた指に、反射するようにギクリと肩がはねた。それこそまるで、なにかの呪いのようだ。固まってしまった身体は一旦その小さな窓に狙いを定められると、でく人形のように動けなくなる――しかし。

「……みえ、ない……?」

呆然とする少年の声に、いよいよこれまでかと構えていたナルトは、はたと目を開いた。動けるようにたなった身体でそろっと竦めた首を伸ばす。
一応とばかりに自分の尻のあたりを見るも、やはり今回もそこには何も見えないようだった。作った窓から覗き見てくる少年はそれでもまだ納得できないらしい。黒目を大きくした美形は息を詰めたまま、まだ窓から必死に目を凝らしている。

「なっ…――な?!違っただろ?」

緊張から一転、思うようにいかなかったらしい少年に向け鬼の首を取ったかのように囃したてれば、彼はしんとしてすっかり肩を落としたようだった。
噤んだ口先がほんのり尖っている。どこか拗ねたようにも見えるその仕草に漂うのは、アンバランスな幼児性だ――ああ、やっぱり。先日の言い当てはただの偶然だったのだ。ホッとした気分で鳥小屋の格子に張り付いては、勢いついて言い返す。

「だから言ったのに、違うって」
「……」
「そういう事だからさ、できねーからオレにはそんなの!かくりょ?とか言われてもよく分かんねえしさ。だいたいが窓とか言われてもオレにはなんにも見えねえもん、お前が見てんのはただの、ま――」

言うつもりはなかったがつい勢いでその単語が飛び出しそうになると、ふとその細く整った眉がぴくりと動いた。次いでそっと曇るそれに、思わず慌てて自分の口を塞ぐ。……いや、別に気遣う必要なんて本当はないのだけれど。けれどどういうわけか、なんとなくこの少年が悲しむ様はナルトにとって見たくない映像なのだった。なんとなく後味が悪いだろうし――それにもしも、その一言が取り返しのつかない事になったら。
この少年の魂をどうにかこの世に繋いでいるのが、その幻だったとしたら。

「そうか――きつね、もしかしておまえも?」

密やかな気遣いに言葉を止めたナルトであったが、そこにぽんと投げ込まれてきたのは、そんな少年の邪気のない発言だった。
おまえも、忘れてしまったのか?
ぽかんとしたところへ更に言われた言葉に、「へ?」と表情が固まる。
なんだって?『忘れてしまった』??…というかおまえ『も』とはなんだろう。

「やっぱり。そうなんだろう?」

――今度はなに言い出したんだこいつ、と話をしていてもますます深まっていく溝に黙っていると、しかしそんなナルトをどう取ったのか、少年はそっと悼むようにほほえんだ。要領は得ないままでもしかしふわりと格子越しに見詰めてくる瞳が親し気な輝きを増すと、不本意にも胸がどきんと高鳴ってしまう。

「おまえ、じぶんがきつねだったこと、わすれてしまっているんだ。そうだろ?」
「…は、はあ?!ちょ、待てってお前、なに言って…?!」
「だいじょうぶだ、おれにはわかっているから。かくすことない、おれもおなじだから」
「いやだから大丈夫じゃねーって!…なんつーかお前、勝手に決めつけんのも大概にしろってばよ!そもそもオレは――」

――ぐうぅぅ。
いよいよ我慢も限界だったのだろう。一人合点のままぐいぐい進められていく話につい大きくなった声で訂正をしかけたところで、再び腹の虫達が黙ってられないとばかりに起きてきた。鳥臭い暗がりにぎゅうぎゅうと、派手な抗議が響く。

「おまえ、いつもはらをすかせているんだな」

間の悪さに思わず赤くなると、そう言っては柵の向こう側でくすりという微かな気配がした。ささくれた木の格子に掛けられた、指の白さが目に焼き付く。どこまでも無垢に見えるそれに対し、笑みに濡れた唇は赤く、そしてどこか淫らだ。

「あぶらげじゃだめか」
「…だから言ってんだろ、オレはキツネじゃねえって。んなもんで喜ぶわけねえっての」
「とりならよろこぶのだな」
「別に――鳥だから、どうってわけじゃねえけど。木の芽や草の根なんか食っててもチカラでねーし……炙った肉は、旨ェから」

尋ねられるがままに、ナルトはいつかの思い出のままにぼそぼそと返した。曲がりなりにも一応は坊主であるくせに、あっさり戒律を破っては焚火の傍で皮を剥いだ兎を食わせてくれたのは山伏だ。獣だった頃だって旨いと思った肉だけれど、火にあてればそれがもっと脂が出て旨くなるというのも、その頃に知った。答えに怯えるかのように抜け羽根と砂埃を舞わせつつ騒いでいた鶏達が、端で固まったまま急に押し黙ったようになる。
ふと濡れた黒に彩られたふたつの瞳が、じいっとこちらを向いた。
「おれじゃだめか?」という唐突な問いかけに、思わず「は?」と抜けた声が出る。

「だめかって、何が」
「とりのかわりに、おれがたべられよう。ひのえたちほどうまくはないだろうが、それでもきつねのはらをいっぱいにするくらいには、きっとなる」
「……はァァ?」

な?だからおれにするといい、きつね。
いっそその時を待ちわびるかのような明るさでもって、少年は告げた。無防備すぎる言葉に頭が混乱しかけるが、しかし確かにそれは、柵の向こう側に見える緋色の唇から出たものだ。
甘く誘い込むような声色に、ぞわりとなにか、捕食者としての本能のようなものが刺激されるようだった。出来た間に重く気だるい熱帯夜の空気が横たわる。生臭い肌着は体温にすり寄るかのように、今もべったりと肌に張り付いたままだ……少年が、返事を促すかのようにほんのり首を傾ける。曝された首筋に浮かぶやわらかな線。
――血が。熱にせり上がる。

「バッ…――な、なに言ってんだってばお前、ンな事出来るわけ…!」
「きつねはいつもどこにいるんだ?やまか?」

咄嗟の衝動に慌てて大きな声が出たが、笑う少年は取り合う気がないらしかった。するりと上手く躱された質問に思わずぐうと唸る。
こいつ。いったいどこまでが、足りていない故のものなのか。

「……山なんかじゃねえし。つかそんなのテメエにゃ関係ねえだろ、もうこれ以上オレに関わってくんじゃねえよ」

もういいだろ、鶏はもう諦めるからあっち行けよ。そう冷たくいなしひとつ息をつくと、ナルトはそう言って柵から離れた。
軽く埃のついたズボンを叩いては腰を伸ばす。この少年が本当は正気ではないのではなどという事は、この際もうどうでもよくなってきていた。それより兎に角もうこれ以上、この狂った世界に引き込まれる方が御免だ――いや、御免というより、危険だ。先程の発言といい、どうにもこの少年といると落ち着かない気分になる。
最後にちらりと雌鶏達のかたまる辺りに目をやれば、その前で仁王立ちするあかつき丸と目が合った。ふぉっ、と羽毛に包まれた彼の身体が一瞬膨らむ。……ハイハイ、こっから出て行けってんだろ?ンなおっかねえ顔しなくても、もう消えてやるっての。

―――――がちゃり。

雄鶏との無言の攻防を打ち切ろうとした途端、いきなり妙に重い音がした。
填まり合うような金属音にぎょっとする。一方雄鶏は愕然とした様子だ、威嚇で金色に爛としていた瞳が衝撃で更にまんまるになっている。

「これでよし」

そもそもこれが目的だったのだろうか。最初から持ってきていたらしい大きな南京錠から手を離すと、少年はひとり夢のように微笑んだ。
――きつね、つかまえた。
そう言った無邪気な喜びに唖然となる。どうやら元々戸口に付いていた古びた鍵は、既に信用を失われていたらしい。

「ばっ…――ふ、ふざけんなってばよお前、なに鍵なんかかけてんだ!!?」

思わず飛び出した身体で柵に張り付くと、少年はきょとんとしたようだった。
だってきつねを、にがしてしまっては、こまるから。
捕獲を果たした少年の一片の罪悪感もないらしい言い分に、いよいよもって言葉が出ない。

「にがさないようにかぎをかけるって、かぶとがいった」
「おお、おま…っ、そりゃお前ンとこの鶏の事だろーが!オレはここのもんじゃねえっての!」
「でもきつね、やまにいるわけではないというし」
「だからなんだってば」
「おまえをさがすのに、どこへいったらいいのかがわからない」
「ンな事知らねーっての、だいたいがオレは別にお前なんかと――…!」
「におい、するな」

勢いのまま格子に取り付き捲し立てていると、突然少年がぽつりと呟いた。くん、と慎ましく整った鼻先が小さく蠢く。会話の脈とは関係なしに落とされた呟きに、思いの外グサリとやられる。
途端、雨水で流しただけの身体がいやに気にかかってきた。一応は身体もそれなりに擦ったつもりではあったが、やはり微妙な生臭さはきっと残っているのだ。それともやはり、獣としてのにおいはどうしようと漂ってしまうものなのだろうか。着たきり雀の学生服(白状すれば、これだって山を出てからすぐの頃どこかの庭先に干されていたのを失敬したものである)だって、正直清潔とは言い難い状態だし。

「うっ…うっせー!うっせー!!余計なお世話だっつーの、悪かったなァ臭って、そんなクセェんだったらとっととお前も離れ――」
「? いきものににおいがあるのは、あたりまえだろ」

居た堪れないような気分からつい威嚇するような大声が出たが、向こうはまったく動じないどころか、むしろ逆に不思議がっているようだった。
すう、と間を隔てる格子の隙間から、少年の手が伸びてくる。月明りに見えるその神々しい程の白さに、思わず幻術にでもかけられているかのような面持ちで、動きを止めさせられる。
やがてその手がふわりと、躊躇いもなく頬に触れてきた。
滑る手のひらが顎を撫で、そっと耳を確かめる。そうしてから器用そうな指が、コリカリと耳裏あたりの髪と地肌を甘く掻きだした。
心地よさに、たまらず放心する口許から(ほぅ、)と息が漏れてしまう。
これは……なかなか。

「きもちいいか?きつね」

どこか満足げな猫なで声にハッとなったのは、迂闊にもうっとり目を閉じそうになった、その一寸前だった。
慌ててその手を強引に払う。ぶるる、と頭を振れば、陶酔に堕ちかけていた思考も幾分戻ったようだ。

「きっ――気持ちよくない!バカ言ってんじゃねーっての、こんなの全然なんでもねーし!自分でできるし!」
「またしてやるぞ」
「え」
「いつだって、またしてやる」

ここにいてくれたら、という笑顔の条件に、つい(うぐ、)と言葉を呑んだ。どうも色々面倒はありそうな予感はするが、しかし状況から察するに、こいつはこの広大な敷地をもつ家の関係者らしいし――こいつの家は、確かに金を持っていそうだし。

「………南京そば」

ぼそりと落とせば、微笑みを止めた少年は(え?)という顔になった。
南京そばも、時々食わせろってばよ。
出来うる限りの憮然顔でそう告げれば、止まっていた少年の顔が、徐々にまた解けていく。

「わかった、そばだな。やくそくする」

晴れやかに少年は、そう請け負った。……なにやら頼みをきけとか、食うとか食われるとか、訳の分からない事を言ってはいたが。しかしまあそのあたりはなんとなく適当な事を言っておけば、この感じであればどうにでもいなせそうな気がした。そもそもが先程わかったように、例の窓云々というのもこいつの妄言だったわけだし――そのうちに少しばかり金を拝借(まあ返す予定は未定だが)して、とんずらを決めるのもアリかもしれない。
「だからいい加減、ここから出せってばよ」と命じれば、少年はすんなりと袖口から小さな鍵を出した。……素直は、素直なのだ、たぶん。ただどうにも歯車が、普通とは噛み合わないだけで。
かちりと音がして錠が外れる。半分傾いだ扉が、ぎぎぃ、と苦し気に呻きながら、ゆっくりと開いていった。
小屋から一歩出て見上げると、南に浮かぶのは先程と同じ上弦の月だ。八月の始まりの夜、東には天の川。ここに忍び込んだ時はまだ残っていた雲は、いつの間にかすっかり晴れたらしい。

「……手ェ離せって。伸びンだろ」

外に出たと同時にきた引っ張られる感覚に、空を仰いだナルトはぼそりと振り返った。逃げねえってば、とはっきり告げれば、今度はそっと彼はその手を離す。薄汚れた白い肌着のシャツの裾は、意外にも用心深くしっかと握る少年の手によって、若干形が変わってしまったようだ。

「あのなァ、そんなにどーしてもってんなら、しょうがねえからここにいてやってもいいってば。けどそん代わりお前ももう少し、こっちの話聞けっての」

ようやく並んで立てたところでここぞとばかりに踏ん反りかえれば、彼はきょとんとしたようだった。じいっと見詰めてくる黒目がちな瞳はやはりどこか幼げだ。宵闇色のその中に、ナルトの金の髪がくっきりと明るく映り込んでいる。

「やまにいるのかって、さっききいた」
「そういう意味じゃなくて…!聞くのはオレの話、意見!」
「いけん?」
「そう。勝手にあれこれ決めつけやがって――言っとくがな、そもそもその頼みをきくとかきかないとかってのも約束はできねーかんな。あと名前も、オレの事きつねって呼ぶのやめろ。ナルト…いや、ナルト様と呼べってばよ」
「なると?」

わざわざ付けた敬称が即呼び捨てに省略されたのが気になったが、それでも少年はきちんと、その名を聴きとったようだった。
なー、るー、と。口の中で確かめるように繰り返すその様子に、なんだか妙にくすぐったい気分になる。

「……お前は?名前、なんていうんだってば」

やけにむずむずと落ち着かないのを誤魔化すかのように尋ねれば、少年はぱちくりとまた目を大きくした。まるで生まれて初めて名を訊かれた子供のようだ。そんなこと考えもしなかったとでもいうかのように、少年は少しだけシャツの背中をぴんとさせる。

「さすけ」
「サスケ?」
「うちは、さすけ」

サスケか、と同じように呟き返すナルトに、晴れた夜空を背にした少年はそっとはにかんだようだった。……正直、この純真そうな少年を利用するのは、少々気が咎めるのだけれど。けれどこちらとしても生きていく為には色々あるのだ、申し訳ないが悪く思わないでくれとしか云いようがない。
白くしなやかな手が、自然な動きで差し出されてきた。
いつかの真昼に見たのと同じ、透明なほほえみと再び月夜に相まみえる。

「いこう、きつね――じゃない、なると」

差し伸べた手はそのままに、少年は言う。
低く響く甘い声は戸惑いを払い飛ばす程の引力で、深くひとつ呼吸するとナルトはそっとその後ろめたさをしまい、その手を取った。