第五話

「いこう」なんて言われつつも、話はそう簡単ではないだろうなというのは予想していた。

「駄目です。飼えません」

どうやら住まいまで同じくしているらしい、先日通りすがった老紳士に後見人と説明された例の男は現れた金髪に一度はぎょっとしたが、ずれかけた眼鏡にすっと手を添えると直ぐ様そう言い捨てた。様、と付くのは伊達ではないらしく、少年に連れられ入った館は確かに格式の高そうな厳かな雰囲気をそこかしこに湛えている。その奥にある書斎らしき場所で書物に目を落としていた丸眼鏡の男に、サスケと名乗った少年はそれでも掴んだままのナルトのシャツの端を離そうとはしなかった。壁一面にある書物の背表紙は、なにやら難しい外国語の文字も混じっているようだ。

「でもかぶと」
「言い訳は聞きません」
「……ちゃんと、おれがみるから」
「みれるわけがないでしょう、馬鹿な事を言ってないでさっさと元いたところに捨ててきなさい。だいたいがなんですかそいつは、この前の食い逃げでしょうが」

一切口答えを許さないといった様子の男の前、ひとまずは黙って少年の後ろに立っていたナルトだったが、聞いているにつれて男のそのあまりの態度に思わず眉間にしわがよった。
が、男はあえてそれを無視するつもりらしい。いったいどこで――まさか、勝手に外に行ったんですか?訝しみに眼鏡の奥の瞳がじっと眇められる。
しかし言われたサスケの方も、そんな男の言い口にはすっかり慣れているらしかった。
ちがう、そとにはいっていない。とりごやにいたんだ。
するりと返された答えには、気にした様子はない。
……たぶん本当に、サスケからしたらその返しにはなんの意味も無かったのだろうとは思った。しかし丸眼鏡の男の方はそれだけで察するものがあったらしい、そこでようやく酷薄そうな細面が、ナルトの方へ向けられる。

「――へえ、鶏小屋で?」

復唱と共に、向けられた眼鏡の奥の目がじとりと光った。サスケに対するのとは明らかに違う冷たい視線に、思わずひやりと身体が竦む。

「鶏小屋でなにをしていた?」
「……」
「食い逃げもし尽して、とうとう東京中の飲食店から出禁になりましたか。盗っ人の犬ころが、ここで生きていけないのならとっとと都落ちして出て行けばいいものを、田舎者がいつまでも未練たらしくうろうろと……」
「なっ…るせえっての誰が犬ころだ!オレってば――!」
「そうだ、なるとはいぬじゃない。きつねだ」

険悪な睨み合いの中、ぽつり投げ込まれた混ぜっ返しはまさしく場違いな長閑さで、妙に気を削がれるそれに言い合いは中断された。するっと呼ばれた名前にちょっとどぎまぎする。しかしそんなナルトを完全に無視するかのように、カブトと呼ばれた丸眼鏡の男は少年――サスケの方にだけ目を合わせると、威厳を取り戻そうかとでもするかのようにゆっくり向き直った。
――あのね?サスケ君。
軽く膝を折り合わされた視線が不気味な程優し気に、ニコリとする。

「前にも言いましたよね?むやみに拾い物をしてはいけないと」
「おぼえている、けど」
「それもよりによって、こんな小汚い野良を――食うに困り果てて鶏を盗もうとするようなコソ泥を引き込むだなんて。この間だってそうだ、なんだって君はそんなこいつに」
「――けどなるとは、きつねだ」

威圧的なたしなめの中ぽつんと返された声は、委縮の中にあってもどこか確固としたものだった。
きけるんだ、というサスケに「訊く?」と僅かに面倒そうな空気を漂わせはじめた男だったが、くろぐろとした瞳はそれにも負けず、真面目に見つめ返す。

「訊くって何を」
「あのこと、にいさんたちに」
「はあ?」
「……『おれんぢ』の」
「サスケ君!!」

それは余程の事だったのだろうか。あどけない様子だった少年の口から突然飛び出した単語に、丸眼鏡の男は俄かに慌てたようだった。
傲岸そうに組まれていた腕がぱっと外され、サスケの肩を掴む。
(……『おれんぢ』?)
上からな態度から一転、急変した青年の様子に驚かされつつも聞き拾った単語は、山でも街でも耳にしたことのないものだった。頭の中で響かせたそれに首を傾げる。どういった意味の言葉なのだろう、どことなく鼓膜にざらりと跡を残す音だ。

「その言葉をみだりに口にするなというのは、何度も言いましたよね?」

一段と低く重さを増した声に、ハッと考えに沈みかけていた思考が戻された。見ればサスケの肩はまだ丸眼鏡の男に掴まれたままだ。ぐ、と手に込められた力に、小さく少年が呻いた。先程の叱責とは比べ物にならないその様子は、どうやら怒りも含まれているらしい。
言葉面は丁寧でも漂う紛う事なき威圧に、隣にいたナルトまで知らずごくりと喉が鳴った。張り詰めた間を縫って、コチカチと壁際の柱時計が音を刻む。

「――まあまあ、そう責めるのもどうかと思うがの。坊ちゃんだって別に何もわからないじゃなし」

突然、場の緊張をこわすようなのんきなしわがれ声に振り返ると、そこにいたのはまさしく声のままのしわくちゃな老婆だった。こじんまりと立つその姿は幼児のように小さい。生まれつきかはたまた何かで拵えた痣なのか、ほんのり黒ずんだ鼻先が細い目と相まって、どこか猫を彷彿とさせる。

「……猫バア」
「外に出るなといわれても、ここに居るのはおぬしやワシのような年上ばかりじゃ。たまにはそうして、同じ年頃の子と話をしたいじゃろうて」
「いやしかし、そうは言ってもですね――!」
「それに鶏小屋の鍵を見てくるのを坊ちゃんに頼んだのはお前さんじゃろう?おぬし蛇蝎の如くあの鶏たちに嫌われておるからの、騒がれたくないからと坊ちゃんにそんな事をさせて」
「なっ・それは――そ、そうですが…!」

小さな老婆の口からするする出てくる文言に、丸眼鏡の男はぐっと言葉に詰まったようだった。
だいたいがおぬしが小男を解雇しなければ、鶏小屋なんてそんなもので坊ちゃんのお手を煩わせるような事はなかったじゃろうが。
止めのようにそう言われてしまえば、最早何も言い返せないらしい。
着物の雰囲気(老婆はサスケや丸眼鏡の男とは違い、清潔そうだが動きやすそうなもんぺ姿だ)や身に着けている割烹着から察するに、突然現れたこの老婆はたぶんここの使用人のひとりではないかと思われたが、その姿勢はやけに堂々としてまるで丸眼鏡の男に負けてはいなかった。と、たるんだ瞼の奥にある細い猫目がチラとこちらを見た瞬間、その目が(大丈夫)とでもいわんばかりに小さく光る。
なんだろうかと訝しんだ途端、クンと鼻先に感じるにおいがあった。まさか、この人――もしや。ハッとして目を大きくすると、そうだと言うように老婆が笑う。

「ワシももうここに来てから長いがのう、うちはの坊ちゃんを小間使いにする使用人は初めてじゃな」
「そ、そういうつもりでは」
「ちょうどいいではないか、その子新しい小男として迎え入れてやっては」
「なに言っているんですか、そんなの駄目に…!」
「は…働くってば、オレ」

言ってみた声はもうひとつ大きさに欠けるものだったが、それでも老婆の提案を一蹴しようとしていた丸眼鏡の男の口を止めるには充分だった。
――はあ?といかにもうさん臭そうに見つめ返してくる男に、ちょっとムッと思いつつもどうにかそれを堪える。

「なにを急に。どうしてうちが雇わなきゃならないんだ、君のような食い逃げのコソ泥を」
「……食い逃げはしたけど、泥棒はしてねーし」
「未遂というだけだろう。まったく図々しい、よくもまあそんな」
「そうだ、なるとはとりをつかまえるのもうまかった。ひのえもすぐにつかまったんだ、きっとしごともうまく」
「ちょ、出てくんなってばサスケ、余計な事…――!」

助け船のつもりだったのだろうか、また余計な事を言おうとするサスケを抑え気を落ち着かせると、ナルトは割り切るような気分でにひとつ咳払いをした。
確信、という程絶対の予感ではないけれど。でもこの読みが間違っていなければ、ここは自分のような半端者でも仕事が出来る、貴重な場所となるかもしれない。

「――働かせて、くださいってばよ」

自尊心を押し込めて頭を下げれば、丸眼鏡の男は急しおらしくなったナルトに驚いたようだった。対して、こちらは単純に流れが理解できなかっただけだろう。隣ではサスケが(よくわからない)といった感じで目をぱちくりとしている。
根競べのような沈黙が、じりじりと場に溜まっていくようだった。折ったままの腰がグラつきそうになる。やはり無理か、と思いかけた時、懇願の姿勢のままの耳に(ふぅ)と重い溜息が聴こえた。そろりと顔を上げる。けっして快くというものではなかったけれど、それでも(仕方ないな)といった感じで、男はぱたんと読んでいた本を閉じる。

「……先に言っておくけれど、これはあくまで君が自分から言い出した事だ。余計な口答えや、後からの文句は一切聞かないよ」

いいね、と念押しをしつつも返事は待たずに立ち上がると、そのまま部屋を出て行くつもりらしい男はやや苛立った足取りで、一歩前に出た。食事は?もうできているんですかと面白くもなさそうに尋ねる眼鏡の男に、老婆は慣れた様子でうむうむと頷いている。

「ではサスケ君はこちらへ――まったく、本当に君は。食事の前にまずは手を洗わなくては」

そう小言めいた事を口にしつつも差し伸ばされた手に、シャツの端を握りしめていた手の首がぞんざいに掴まれた。あ、と小さくサスケが言う。なにか力加減の技でもあるのだろうか。ぱっと手を広げてしまったサスケはしかし逆らうことなく、そのまま背を押され部屋を出て行く。

「なると」

男に促され従順に連れられて行く間際、サスケが一度振り返った。
なると、よかった。そんなふうに言ってはかすかに見せられた微笑みに、なんとなく目を逸らしては下を見る。……違うんだ、オレはお前の為に我慢をしたわけではなくて。

「――よく我慢したの、お若いの。頑張ったじゃないか」

部屋を出て行った二人の気配が完全に消えると、まだ俯いたままのナルトに老婆はおもむろに言った。感心するというよりもどこか面白がるかのような声色に視線を上げる。ほんのり強くなるそのニオイ――やっぱり。この人――

「猫…も、使えるんだ?」

変化の術、と密やかに尋ねれば、老婆は「ふぉふぉ」と機嫌よく笑った。
黒ずんだ鼻先が機嫌よく動く。しかし気が付いたのは見た目からではない――いちばんにピンときたのはそのニオイだ。人間とは明らかに違う、獣のそれ。
向こうは向こうでナルトに対し同じように感じるものがあったのだろう、しわくちゃの老婆は胸を張ると、「当然じゃ。変化は狐だけの専売特許だと思っておったら大間違いじゃぞ」などと自信満々に言っている。

「とはいえそうしょっちゅうお仲間に遭う事はないがの。ワシも長く生きておるが、せいぜい片手で足りる程度じゃよ」
「…ふうん」
「人の中で暮らすには人の決めた理の中で生きねばならん。見た所お前さん、なかなかうまい事それに乗れなかったようじゃのう」

金に困ったか、とすばり言い当てられたシビアな現状に、ナルトはぐっと唇を結んだ。しかし「……とはいえ、その年とその姿では、このご時世いろいろと悪目立ちしてしまう事もあったじゃろうて」という続けられた言葉に顔を上げれば、そこにあるのは苦笑混じりでもどこか気遣うような、細く引き絞られた猫の目だ。

「ワシもな、もう大昔に当時の御兄弟に拾われてな。行き倒れている所を救われたんじゃよ」
「え」
「その時猫じゃったワシじゃったが、後で人に変化してお礼に行ってみると偶々人手不足でなんとなく手伝っている内に潜り込めてしまってのう――おかしなものものじゃな、どうもこのうちはの家の坊ちゃんというのは、獣を拾うのが皆お好きらしい」

当時の事を思い出しているのか、ゴロゴロと喉の奥をならしていた老婆だったがやがてふとその笑いを引っ込めると、「ところで、」と口にした。
「おぬし、さっき坊っちゃんから狐と呼ばれていたが。まさか本当の事を坊っちゃんに?」辺りを憚る問いかけに、慌てて首を横にする。

「ちが……言ってないってば!」
「ならばなぜ」
「……あの、窓。狐の窓とかいうやつ。あれで前覗かれた時、なんでかわかんねーけどアイツが勝手に」

指で作っただけの覗き窓に、オレの変化が見破られるわけないってば、と不貞たように口を尖らせれば老婆は「ほう」と驚いたような声を漏らしたが、しかし何を思ったか少し考えると、やがて妙に納得したように顔を上げた。
「さもあらん、うちはの家の者であればあながちそれも見間違いではないかもしれんぞ。なにしろ――」
勿体ぶったような口振りに思わず「はあ?なんだってばソレ」と声を上げれば、素早く老婆は「しいっ」と人差し指を立てた。誰もいないというのに何故か先程よりも更に周りを気にした仕草で、要領の得ないままのナルトに(こいこい)と手招きをする。

「――なにしろうちはの祖はかつて海を渡り、辿り着いた常世の国で世にも稀なる神樹の実を食べたという。その直系である坊ちゃんにも、なにかしらの霊験が受け継がれておるのかもしれんのう」

『非時香果(ときじくのかぐのこのみ)』――そっと告げられた単語は、どこか鼓膜に溶けて染み入るような不思議に蠱惑的な響きを持つものだった。
昼夜を問わず輝き香りを放つその果実には、『永遠』を司る力が詰まっているそうな。
まことしやかに語られたそんな話に、思わずゴクリと喉が鳴る。

「……ん?けど待てってばよ婆ちゃん、ここの家の奴ってサスケ以外もういないんだろ。だったらその先祖ってのはじゃあ今どうしてんだよ、永遠てのはずっと変わらねえって意味だろ?」

死んだりいなくなったりとかしたら、そりゃ永遠とは云えないんじゃねーの?
ふと思ったままを言えば、老婆は「ほう、気が付いたかね」と言ってはひょこりとその片眉を上げた。
さあのう、その人がどうなったのか、それはわからんのう。
のんきに返された答えにムッと睨んでみるも、またもや老婆は愉快気に笑う。

「言い伝えじゃよ。ともかくそういった謂れがこの家にはあるという」
「なァんだ」
「おや、信じないのかね」
「信じるわけねーってば。いくらなんでもそんな怪しげな」

――だいたいがオレってば、永遠なんてもの信じねえし。
ぽつり零せば、それを聞き拾った老婆は(おや?)といった様子で眉を動かした。がらんとした屋敷に呟きは空々しく響く。かつてはここにも沢山の大人や子供が暮らしていたのだろうか。少し上がりこんだだけで感じる今はなき大所帯の残像に、ふとそんな事を思う――人も世も、変わらないものなんてこの世界にはひとつもないのだ。かつて暮らしていた緑豊かな故郷の山が今はないように。燃え盛る山火事の炎の中、あの優しかった山伏と自分が二度と会えなくなったように。

「……ま、信じるも信じないも人それぞれじゃ。誰に決められるような事でもなかろうて」

中には強引に決めつける者もおるがのう。
最後にそう小さく付け加えられたぼやきに(?)とはなったが、そんなナルトに老婆はどこか弱ったような笑いを返すのみだった。屈めた身に、ふと強くなる毛皮のニオイ。生きているものがにおうのは当然だと言った先程のサスケの言葉が、何故かまた脳裏を掠めていく。
「誰だってばそれ、決めつけるって」と訊こうとしたところで、気付けば立ち尽くしていたナルトの耳に、屋敷のどこかから猫バアを呼ぶ声が入ってきた。
「はいはい、ただいま」と返事をしつつ声の元へと向かおうとした猫バアだったが、その前にこれだけはというように立ち止まる。

「とはいえ、しかしその前にまずはおぬしの風呂と着替えじゃな」
「へ?」
「臭かろうが汚かろうがそんなものは構いやしないが、ノミだけは厳禁じゃ――あれは本当にいかん。掻き毟りたくて思わず後ろ足が出てしまうからの」

余程の目にあったことがあるのか、そう告げると猫バアは(ふぅ)と重々しい溜息をついた。催促の声がまた聴こえる。出て行く際の口振りから察するにあのふたりは夕食をとろうとしているのか、丸眼鏡の男の神経質そうな声が屋敷に響く。どうやら給仕の手を欲しているらしい。
出て行く老婆の足の運びは、驚くほどに軽く音がない。
さすが、と思いつつふと耳の後ろに痒さを覚えぱちんと手をやると、叩いた手のひらの真ん中に潰れたノミが見えた。