第三話

ぐう。
組んだ手のひらの下で、腹の虫が鳴いた。
ぐぅ、きゅう。
言い足りないとでもいうかのように、切なげな訴えはまだ続く。
長く仰向けになったまま見上げた壕の天井に、その声は甲斐なく染み込んだ。

「――…っとに、お前ら元気だなあ。飼い主様がこんな状態だってのに」

ちっとは空気読んで静まれってばよ。
鳴り止む様子をみせない腹の虫達に小言を言えば、一応はきく姿勢があるのか彼らはふと音を止めた。しかしその一瞬後、更なる大合唱が始まる。催促するようなその喚きは思わず出た溜め息をも掻き消すほどだ。
から梅雨を追い打ちするような炎天はもう二週間にもなるだろうか。ナルトがここをねぐらに定めた頃はそれでも僅かな流れのあった町外れの小さな支流は、今や完全にそのあるべき姿を忘れていた。干上がった川底には容赦ないひびが入り、こんな状況であっても逞しい雑草が、早くも根を張ろうとしている。

(あー…こんなんになるならせめて、最後にあの南京そば食っておきたかったよなあ)

このままじゃマジ飢え死にだってば。ぺしゃんこになって久しい腹にやや朦朧としてきた頭でそう思うと、同意するかのようにまた腹が鳴った。 食事処の店主に追い返されてから、もう何日が経ったのだろう。空になったままの胃袋は、すでに辛いという感覚が麻痺してくるところにまできていた。
食べ物がないことよりも、切実なのは喉の乾きだ。
生物が生きるために必要なのは、なによりもまず水である。
子狐だったナルトにそれを教えてくれたのは、かつて一緒に暮らしていた妖かしの術の師匠である。


『いかんのぅ、それは。それはいかん』

気が付けばもう、あれはひと昔以上も前の話になるのだろうか。
突然かけられた声は重々しいけれど不思議と威圧感のないもので、差した影は夏山のような大きくむっくりとしたものだった。
次いでうつむいた視界に入り込んできたのは、古びた脚絆に高下駄の足。そうしておずおずと少しずつ上げていった視線に入ってきたのは、薄汚れた丸い房が六つもぶら下がった結袈裟に、腰に下げられた大法螺だ。

『知らんのか子狐。生き物の体はみな、ほとんどが水分で出来ておるのだぞ』
『??』
『そんな小さな体で、そんなに泣いて。体の中の水を出し過ぎだ。今すぐ泣きやまねば、おぬしじきに死んでしまうぞ』
『…??!』

いきなりの忠告にびっくり一気に顔を上げてみれば、目に映ったのは日に焼けた初老と思わしき男性の顔とぼさぼさの白髪の上にぽこんと乗せられた、多角形の黒い小箱のような妙な帽子だった。
珍妙としかいいようのないそれに目を奪われると、思わずひゅっと涙が引っ込む。

『……変なあたま』

つい口を付いて出てしまった言葉に、人間は『うん?』と片眉を曲げた。
失敬な、これは頭襟じゃ。有り難くも大日如来殿の五智の宝冠を示すものぞ。
そんなこちらの目線と言葉とを解したかのような返事に、更に驚かされてしまった今度はどうしたわけかひくりとしゃっくりが飛び出してくる。
ひくっ、ひくっと引き攣るのどに狼狽えつつ目をきょときょと丸くしていると、そんな子狐の様子にその人は愉快げに顎を撫でては相好を崩した。そうしてからあらためて覗き込んできた顔が泣きべその子狐とじっと目を合わすと、端を上げていたいかにも豪胆そうな口許が、感心したように「ほぉ…!」と息を漏らす。

『これはこれは、なんと見事な青天か』

ぱちくりとする濡れたどんぐり眼に感嘆すると、その大きな人はゆったりと笑んだ。
おぬし、佳き窓を持っておるではないか。なにをそんな下を向くのだ。
そう言ってはぽんと置かれた掌は大きく厚く、じんと広がったその温かさは深く胸に沁み込んでくるようで。


(……窓、かあ……)

仰向けで寝そべった壕の中、ふと両腕を差し出すようにして上へと掲げると、ナルトはそっと親指と人差し指で、小さな窓を作った。
長方形の枠の中に見えるのは暗土色の天井だ。明らかに人の手で掘られたらしいこの小さな壕は、どうやら以前はこの辺りで畑でもやっていた者が、農作業のための物置にでもしていたらしい。
端には錆びた鍬と穴だらけになった筵が転がるばかりの場所だったが、それでも日を避け休むには充分だった。街や里を渡り歩くナルトはいつもこうして、使われていない作業小屋や山の洞、忘れられた壕などをねぐらにする。
山を出たのは、その自分を拾ってくれた山伏と別れてからだ(山伏という言葉も修験道も、後にその大きな人間から教わった言葉だった)。
どういった霊験か、山を渡るうちに獣の言葉を解するようになったというその人は他にも不思議の術をいくつか持っており、今とは違う姿になりたいと言ったナルトに、変化の術を教えてくれた人でもある。

『――これ、きつねのまど』

ふと古い思い出に連なるかのように、再びあの声が思い起こされてきた。
これをつくると、ここからかくりょのせかいがみえる。
そう言っては複雑に組まれた指、まっしろな肌とまっくろな目の少年。
妖し気なその言動に対してかけてきた声は、純粋な親しみに満ちていたようだけれど。

(あれってば本当のところ、どっちだったんだろ)

不摂生から力の入らない両の手をパタリと脇へと落とすと、ナルトはまた何度目かになる疑問に、ぼんやり思った。
改めて思い返してみてもあの整い過ぎな程の美形は、短いやり取り中で聴いたどこか足りないしゃべり口調や態度から察しても、単なる『普通』の美しさとは微妙にずれているように感じられる。どうやら彼は、少しばかりその精神(こころ)に不具合を抱えているのは確からしい。
――してみると不思議な言い当てはやはり単なる妄言だろうか。そう考えつつもしかしだからといって、簡単に忘れてしまえるような事でもなかった。
薄い緋の唇を彩っていた、まるでとっておきの秘密を打ち明けるかのような忍び笑い。
おいでと差し出された砂糖菓子みたいに繊細なつくりの指の先は、まるで噛り付きたくなるような、甘やかな誘惑に満ちていて。

(……たとえば、もしも)

なんのてらいもなく、目の前に出された白い手の記憶に、ついそんな事を考えた。
もしもあのまま、あの手を自分が、言われるがままにとっていたら?
『狐』のオレに、彼はいったい何を――

ポツ。

幽かな音が、仰向けのまま考えに耽っていたナルトの耳をふいに打った。
ポポポッ、とそのまま立て続けに音は続く。
決して聴き逃せないそれにハッと起き上がると、ナルトは大急ぎで傍に置いていたアルミの椀を持ち壕の外へとまろび出た。見渡せば先程のかんかん照りから一転、空は重い曇天に変わっている。
あれよという間にくろぐろと濡れた色に変わっていく、乾いて赤茶けていた土の地面。
雨だ。じつに二週間ぶりの、天からのお湿り。

「うひゃあ、あっぶねえ…!助かったってば」

飛び出た外で椀を掲げ、更に待ちきれず天を仰ぎ大きく口を開けば、大粒の雫はぼつぼつと熱くなっていた舌の上にも選ぶことなく降り落ちてきた。
いやはや、あのままじゃ下らねえ事考えてる内にうっかり干からびるとこだったってばよ。
そう思いつつ喉を湿らせていく雨粒をごくりと飲み込めば、ようやく肩の力がふうっと抜ける心地がする。
空腹の中考えてみたその選択肢は、実際は絶対にありえないものであった。
まやかしはまやかし、異界の術の存在が人の世界に広まれば、きっとよくない事になる。
だから決して正体を見破られてはならないし見られたら山へと戻る事、それが術を教えてくれた山伏からの、絶対の条件なのだ。
すべてを納得して、ナルトも術を教わったのだった。山伏の言う理由もなんとなく理解できているし、それに、そもそも。

『いい加減、どこかへ失せろ!』

ばたばたと大袈裟な程の音をたてては落ちてくる雨粒達を、全身で受け止めつつふと耳に甦ったのは、いつか店の店主の方から言われたきついひと言だった。
あっちへ行け――ここから消えろ。
山でひとり暮らしていた頃から幾度となく言われ続けてきた科白は、最早鼓膜に染み付いているもので、今更どうやっても消えることのないそれに、濡れた身体で思わずぎゅうと目を閉じる。
仲間はずれの辛さから、望んで人に変化できる術を手に入れたナルトだったけれど、人になってみてわかったのは、結局のところどこの世界に行こうと、自分の居場所はどちらにもないという事だった。
こちらから見れば人も狐も、あの山伏以外はどちらだって同じだ。
どいつもこいつも自分たちとちょっと違うというだけでやたら線を引きたがり、異端は容赦なくつまはじきにされる。
いや、けれどただ見られたりするだけなら、まだいいのだ。まるで異国人のような様相は距離を取られる一方で、ある種の人々からは不気味な程の執着を見せられる事があった。下手をすれば何を考えているのか、好事の男色家から、妙な真似までされた事もある。

(…くそぉ…やなもん思い出した)

風化されてもまだなお残る不快さに顔を顰めれば、眉間にできたシワを雨粒が伝っては、ぼたぼたと顎から落ちていくのがわかった。
そんなさなか、喉を滑り腹の中へと消えていった水にはずみがついたのか、いっときだけ静かになった腹の虫たちが再びぐうぐうと騒ぎだす。天からの恵みで、喉の渇きこそはどうにかなったけれど、しかし空腹の方はいよいよ限界のようだ。

(よし――水分摂れてちっと身体動くようになったし、いい加減何か食うってばよ)

どうせなら肉、食いてえよなァ。
動き出した胃袋に切実に願うも、もちろん山でもないここで食うための肉なんて、そう都合よく手に入るわけがないのだった。しかしそんな事情はそっちのけで、想像を始めてしまえば口の中には、つい引き出されるかのように唾液が溢れてくる。
……噛みしめる肉の繊維、滴る脂の甘味。
妄想とわかっていても、一旦始めてしまえばそれはとめどなく食への欲を刺激した。空腹からの欲求というよりも、これはたぶん狐という種族の持つ本来の嗜好からくるものだ。

――ぐぅぅ。

徐々に土砂降りになっていく夕立の中、また腹が鳴った。
絞り出されるかのようになってきたそれに、濡れた口許を手の甲でぐいと拭ったナルトは、(…よし、)とひとつ胸に決めた。


  * * *


悠長すぎる夏の入り日は空腹とじれったさをますます増長するようであったが、首尾よく高い鉄柵を乗り越えたナルトは、辛抱強く光が沈むのを待った。チャンスとばかりに夕立で洗った身体は久々にさっぱりしているが、しかしどこかまだ生臭いのも確かである。
まあいい、どうせこの後はもう一度身体を濯がなくてはならないだろうし。
学制服を脱ぎ捨て、袖のない肌着と裾を折り上げた長ズボンの姿になったナルトが淡々と考えつつ眺めた先にあるのは、簡素なつくりの古びた鳥小屋だった。
ねぐらを出てしばらく、街はずれにぽっかり広がる広大な庭はどこの金持ちのものか、裏山ごと全部がひとつの屋敷の領地となっているらしい。

(……やっぱり。思った通りだってば)

夕闇に染まっていくその小屋の中に散らばった白い羽根をみとめ、ナルトはにんまりと頬を緩ませた。久しく手を入れていないのか、屋敷の立派さに比べうっそうとした庭木に隠されていたそれをまんまと見つけたのは、ひとえにナルトの持つ獣の嗅覚によるものだ。
実はねぐらを定める以前、頃合いの場所を探す中この屋敷の前を通った時から、ここに家禽の気配があるのは感じていた。
こそこそと近付いて確かめてみれば古びた扉はだいぶガタがきていると見受けられ、少し押せば腐れかけた蝶番は容易く壊すことができそうだ。

―――ぎぃ。

湿気た木戸を軋ませ、侵入した小屋で奥の暗がりを見れば、気配で既にこちらの正体は察しているのか、数羽の雌鶏達は早くも怯えたように身を寄せ合っていた。
逃げ場を失っては震える羽毛の一団……あれを捕まえて、その羽根を毟ってやれば。
きっとその下にある肉は、さぞや脂がのっていることだろう。

(……いけね。耳出ちまいそう)

丸々肥えた獲物達に思わず期待が高まると、ついじゅるりと出た涎と共に、つられて術まで解けてしまいそうだった。
しかし怯える家禽達を見る碧眼には、すでに人外の印が出てしまっているらしい。丸く見開かれた赤茶の瞳に映って見えるのは、丸い瞳孔ではなく真っ直ぐな縦線だ。
わりいな、ほんと。けどオレだって、食わねえと生きていけねえからさ。
そんな言い訳を口にしつつも躊躇いのない手付きで腕を伸ばし1羽を攫めば、雌鳥たちはにわかに締めたような声で喚きたてる。

「――なんだ。きつねはおあげより、とりがすきなのか」

夕立ちに蒸す、あつくるしい夏の夜。再び割り込んできた声は、今回もまたどこまでも涼しげだった。
動きを止められた手が空を掴む。
逃げ惑う羽ばたきに舞い上がるのは、乾いた糞と中身の抜かれた穀物の殻だ。

(え…――な、なんで――??!)

なんでここに、と驚きに振り返ると、鶏小屋の柵の向こう側、少年は再びゆらりと在った。
あの日と変わらぬ佳貌につい言葉を失うも、深淵を映したかのようなぬば玉色の瞳は、じっと揺れもなくこちらを見詰めるばかりだ。

「けれどすまない、そいつをくらうのは、かんにんしてやってくれないか」

いきなりそんなふうにあやまってくる少年に「…は?」と訊き返せば、整ったその顔は、困ったかのような笑いをちらりと見せた。
「『ひのえ』は『ひのと』と、うまれたときからからいちどもはなれたことがないし――それに、あかつき丸が」
ゆったり語られる言葉はやはり不思議に青みがかっているようで、おそれなのか緊張なのかよく解らない汗が、じっとりと背の筋を伝っていく。

「なんだってばその、あかつき丸、って――…っ?!」

聞き返した途端、両手に1羽の雌鳥を掴んだままだったナルトは、出し抜けに後ろから強く鋭い爪に飛び掛かられた。
ハッとしてふり仰いだところに見える爛とした金の目。
深紅の鶏冠も見事な茶羽の雄鶏が、肉も抉れよとばかりに背中に爪を立ててくる。

「い゛っ…でェェ……!!!」

構えのなかったところにきた痛みと衝撃に、たまらずナルトは迫り上がるがまま呻きをあげた。
緩んだ手から雌鳥が落ちる。たたらを踏んだ足は崩れた体勢を支えきれず、木造の鶏小屋の柵に、斜めになったむき出しの肩がぶつかる。

「……それに、あかつき丸はあしがつよい。だれもかてたことがないんだ、おれのにいさんいがい」

そちらの惨状は察するよ、とでも言わんばかりの遅すぎる忠告に、ナルトは唖然としてその歴戦の雄鶏を眺めた。
たしかに。家禽として暮らすには惜しいほどの、強靭な脚である。
「お前の兄ちゃん?それってば今はもういないっていう――?」
どこか幼げではあるが自然な口調での会話に、先日出会った老人の語りを思い出したナルトはそろりと訊ねてみた。
途端、くろぐろとした瞳はまんまるになる。
しまった、さすがに無神経過ぎる質問だったかと今更に言葉を悔いたが、しかし意外にも少年はそんなナルトに、どういうわけかにこりと無邪気に笑ってみせた。
美麗としかいいようのないその顔が、そうしてみると一挙に幼さを増す。

「だれがそんなことを。にいさんはいまも、ちゃんといるぞ」
「へ?」
「にいさんだけじゃない。とうさんも、かあさんもみんな。いっただろう、おれにはまどがあるって。あのひとたちはすこしさきにいっただけだ、だからおれは、はやくあちらへいかないと」


―――なあ、きつね。


どこか不穏な空気を孕みつつも柵越しに聴かされた言葉は、まるで禁じられた遊びへの誘いのようだった。
黒髪のかかる細く白い首。軽く力を込めるだけで手折れそうなそこが声の度に甘く震えているのを見つけると、なぜだかじんと、重くすこしだるいものが、身体の中心に集まってくるのを感じる。
むせるような草いきれの中、ささくれた鳥小屋の木格子に、そっと少年が手をかけた。
更に近付く距離に、獣の嗅覚はひくりと彼の体臭を拾う。

「おまえに、たのみがあるんだ」

そう言ってはどこか際のほほえみをみせ、少年はそっと、格子の向こうから金の髪に触れてきた。
茂る木々の上には下弦の月がかかり、ほのかな甘さに未成熟な青々しさを混ぜたその匂いはふと一瞬だけ強くなると、やがて荒々しいほどの夏の庭の香りに、ゆるやかに溶けた。