≪Round 3≫

返されたメールにあった宿は同窓会の会場から程好く離れた場所にあるシティホテルで、経営元が空港会社ゆえか、宿泊している客層もどうやら外国からの客人が多いようだった。
落ち着いたクラシック音楽が流れる一階ラウンジでは、そんな人々の穏やかな歓談が点在している。英語、日本語、中国語……語学に明るくないオレの耳ではどこの国のものとも判らぬ異国の言葉が、場馴れなさに身を固くするオレの緊張をますます高めていく。
場の雰囲気に負けないよう、出来る限り落ち着いた仕草でコーヒーを飲みつつ、オレは先程別れた友人達のことを思い出していた。「ひかえおろう」とばかりに出されたシノのスマートフォンから件のアドレスを転送してもらい、ああだこうだと周囲から茶々を入れられつつどうにかナルトにメールを打ったのが、かれこれ一時間前。
返信されてきたメッセージには、
『ありがとうすぐ行く。***ホテルで待ってて』
という短い文面が表示されていた。
送って即返ってきたその待たせなさも然ることながら、その短いメッセージの中にも彼の気の逸りが見えるようで、両側から興味津々な様子で覗き込んでいたシノとシカマルは「へえ」とか「ほう」とか言いながら、火照るのを必死で抑えるオレの横顔をニヤニヤと眺めてきたものだ。

「わっ……と、Excuse me!」

突然ロビーに響いた通りのいい声に、さあっとラウンジにいる客の目線が集まった。見ればホテルの入口で、勢いよく飛び込んできた大柄な男とこれから出掛けようとしていたと思わしき老婦人がぶつかりかけたらしく、あわあわと立ち往生している。
丁寧だけれど有無を云わさない手付きで老女をどかすと、その大男は慌てた様子で首を振りかぶり、辺りを見渡した。一瞬集まっていた観衆の視線は緩やかに散っていき、ひとり残ったオレの視線の先ではシックなシャンデリアの下で輝く、昔より随分と短くなった金髪が映される。
ややあっとして、ナルトがこちらに気が付く。ぱっとその顔が晴れ渡り、青い瞳が心底嬉しげに細まった。
「サスケェ!」
子供じみた仕草でぶんぶんと振られてくる手に控えめに合図を返せば、ナルトは直ぐ様勢い込むような大股で近付いてきた。もしやここまで全速力で走ってきたのだろうか。近くで見るとわずかにその肩は弾み、男らしくすわりのいい鼻の頭もじんと赤く染まっている。
まるで忠犬だな、なんて自惚れたことを思いつつ目の前に来た彼をじっと見上げると、いきなりにゅっと伸ばされてきた両の手に頬を挟まれた。
突然の行動と今さっきまで外にいた手のひらの冷たさに思わず(ひゃっ)と肩を竦めると、そんなオレにナルトが嬉しそうに告げてくる。
「冷た! てっめ、なにす――…ッ!?」
「……へへ、あったけー」
ああよかった、ちゃんとまた会えた。そんな心底ほっとしたような声音を聞けば、なんだかこちらもぐっと胸に込み上げるものがあった。
本当にサスケだなあ、嘘みてえだなんてしみじみ言うナルトは本気で感動しているらしく、オレの顔を覗き込んでは目を潤ませている。
周りからの目線が気になったが、そこはホテルという場所柄か、皆大人の分別で見て見ぬ振りをしてくれているようだった。それでも気恥かしさは拭えなくて小さく舌打ちだけを返せば、それさえも嬉しいらしくナルトがまた笑み崩れる。
空色の瞳がうっすら濡れていく様は、なんとも言えず綺麗だ。
悔しいことにオレはオレで、その瞳に縛られると、どうしても動けなくなる。

     
華麗な装飾が施されたエレベーターに乗り込めば、締め切られたドアにそれまでの軽口が、ふっつりと打ち切られた。節のある指が行き先フロアのボタンを押す。ペントハウスとはいかないが、高層階の一室にナルトは泊まっているらしい。
ゆっくりと身体が持ち上げられるような感覚。浮遊感と共に、階数を表示するランプがチカチカと変わっていく。
「場所、すぐにわかった?」
なんとなくな気詰まりさを破るかのように、ナルトが訊いてきた。閉じ込められた箱の中、掠れた余韻が漂う。
「ああ」
「ゴメンな、ほんと。もっと早く来たかったんだけど」
「いい、べつに。待ったと言っても、たいした時間じゃないし」
そう言うと、会話はあっけなく終了してしまった。というか、オレとしては正直緊張で、会話どころじゃないというのが実際のところだ。だってそもそも、オレはコイツとこういう関係になりたいと願ってはいたが、まさか自分が抱かれるなんて夢にも思っていなかったのだ。
まあ現実的にそのでかく育った姿を見てしまうと、確かにこんな大男を組み敷くというのは結構大変なのではと思わなくもない。しかしそれでもオレとて男だし、初めてはコイツでと思っていたからこそこれまで我慢をしてきたのだ。十二数年越しに海を渡ってオレに会いに来たナルトだって、きっと同じ気持ちでいたに違いない。
(……とはいえ、最初から痛くないなんてことは絶対ないよな……)
ぱたぱたと回数を上げていくランプを見上げ、心密かにオレは憂いた。
ナルトの満面の笑みと、昔ほんのり勘付いていたくせにナルトからの告白から逃げた負い目(さらに誤解もさせたまま長年放置していた引け目)からひとまずはコイツの願望を受け入れる事にはしたものの、不安がないわけじゃなかった。自慢じゃないがオレは本来ノーマルだ。ナルトは例外として、他の男の体を見てどうこうなんてならない。離れてからようやくはっきりと気が付いたナルトへの想いから女と付き合うことはしなかったが、いわんや男とだなんてこと、一度だってあるわけがないのだ。大体が本来であれば出すべき場所に無理矢理突っ込むんだぞ? 痛いに決まってんじゃねえかなどと先程までの自分の欲望は棚に上げ、鬱々と下を向く。
……というかその前に、コイツは本当にオレなんかでちゃんと勃つのだろうか?
ふとそれを思うと、更に頭の中には雪雲みたいな重いグレーが広がるようだった。オレには女のような柔らかな膨らみも、ナルトのような野性的なセクシーさもない。手は筋と骨が目立つばかりだし、胸にも腰にも、あるのは薄っぺらな硬い肉だけだ。
どうするんだ、いざその場になってやっぱりお前じゃ無理だとなったら。
考えてみればそれが一番、痛々しいオチのような気がする。
沈黙を破るのを恐るかのように急に黙ってしまったナルトに、段々と不安が膨らんでいくばかりだった。やがて(チン)と再びベルが鳴り、最上階のひとつ手前でエレベーターが停止する。シックな絨毯が敷き詰められた廊下を進み一番端の一室で止まると、慣れた仕草でナルトがジャケットの内ポケットからルームキーらしきカードを出した。迷いなくそれがスリットに差し込まれると、ピ、というごく小さな電子音と共に、赤いランプが鮮やかなグリーンに変わる。
するりとそろって部屋に入れば、後ろでゆっくりと閉じたドアが、オートで施錠される気配がした。「カチリ」という理性的な音に、言い様のない緊張と期待と不安がごちゃ混ぜになって、ひたひたと足元を満たしてくる。
「サスケ」
黙ったままだった空気をやぶる声に呼ばれると、いきなり(チュッ!)と唇がひとつ啄まれた。
あまりに突然な早業。思わずポカンとあっけに取られるオレに、顔を戻したナルトは照れて笑う。
「……っ!?」
「う~~ごめん! 我慢出来なかった!」
「……ったく……相変わらずのせっかちだな」
「だっ、だってさあ! だってようやく二人っきりになれたんだと思ったら、なんか、もう、嬉しいのが抑えきれないっつーか!」
あ~~ほんっとゴメン! ゴメンったらゴメン!!
おざなりな言い訳をするナルトだったが、その顔はまたトマトみたいに真っ赤だった。どうしようもない恥ずかしさとじわりと湧き上がる安堵感とに、ついわざとらしい舌打ちをしてしまうオレとふと同時に顔が合う。
視線が絡み合った瞬間、どちらからともなく言葉を飲み込んだ。訪れた静寂の中ナルトの手が控えめに動くと、オレの手を捉え、ゆっくりと唇がまた重ねられてくる。
――ぬるり、と今度は深くあわさった唇の間から、厚い舌が入り込んできた。
蹂躙してくる舌と、深く咥えこんでくる唇。舌による口腔への愛撫も唾液の交換も全てが未経験なもので、息をつく間がよくわからなかった。苦しくてつい絡み取られた手に力が入ると、どうとらえられたのか今度は体ごとがぎゅうと抱きすくめられられる。「ふ、ぅ……!」という押し出されたような息。それごと標本にでもするかのように、両の手が閉じられたばかりの扉に縫い留められた。
再び塞がれた唇の間から、濡れたくぐもりが零れ落ちる。
たっぷりと味わわれていると、そのうちにオレの方にもその興奮がうつってきた。人の唇ってのは、こんなに気持ちがいいものなんだな……。初めての感触と淫靡な水音に、体の芯に火が点っていくのを感じる。
「あの……さ、」
とろけるような舌技と、それによりすっかり熱くなった体にぼおっとしていると、同じく熱っぽい目をしたナルトが、申し訳なさそうにオレを呼んだ。
ホントにこのまま、この先も……いいの?
この期に及んでもまだ不安げな確認と上目遣いに、オレの中にしつこく横たわっていた緊張をほろりと解く。
「なんだ、大喜びしていたくせに」
「や! だってさ、なんか憧れてた時間が長すぎて」
「……」
「いいのかなあ……ホント。オレなんかがサスケを」
ずっと夢みてたんだってばよ、オレ。
ガキの頃からずっと、サスケとこんな風になれたらなって。
うわついた眼差しでそんなことを言いながら、ナルトがゆっくりと指を伸ばしてきた。
かたい指の腹が、ごく丁寧な仕草でオレの頬に触れる。確かめるかのようにそこを滑ると、さっきのキスの間にわずかに乱れ頬にかかっていた、オレの髪をそっとすくった。慎重な仕草でそれを耳にかけ露わになったオレの顔を眺めると、それだけで満足したかのように(ほぉ)と溜息をつく。
「いいも何も。――お前この状態で、今更だろ」
熱のこもった瞳に見詰められながらそう言うと、オレはすこし言葉に詰まった。じんじんと催促するような体の熱に、消しきれない躊躇いを思い切りに変える。
言葉の代わりに短いキスを返せば、そんなオレの拙い唇にもぼおっとなったらしいナルトが、感極まった様子で強く抱きついてきた。
「うん……ごめん、ありがとう」という揺れる声と共に、また唇が重ねられてくる。
ようやく安堵したせいか、ナルトのキスは更に深くなる一方だった。どんどん遠慮がなくなっていく様は、まるで飢えた犬みたいだ。厚い唇に舌を喰まれ、咀嚼するように吸い上げられる。唾液を啜り上げられる感覚と舌の根に感じる尖った歯先の際どさに、他愛無くびくびくと肩が跳ねた。気が付けば扉に縫い留められていた手は既に放されていたが、それはそのまま自分でも自覚のない内に、金髪の掛かる太い首に回してしまっている。肌に触れてくる毛先がこそばゆかったが、それさえもまた妙に腰の辺りをぞくぞくとさせた。
「あー……ヤベェ」
ふと唇を離れ、耳元に寄せられた声が、一段と低くなった。
「ヤベェってなんだよ」と息がきれているのを誤魔化しつつ鼻で嗤えば、ナルトはまた甘く眉をひそめる。
「だって、これ、気持ち良すぎだろ」という感に耐えない様子の声に、何とも言えない満足感がじわりと胸の奥に湧いた。ああ――それは確かに、その通りだ。同意せざるをえない。
「どうしよ、やめらんねぇ。離れらんねぇよ」
そんなふうに言うナルトは参ったなあという感じで、抱きしめたオレに凭れてきた。
ナルトの言いたいことはなんとなくわかる。なんというか、ナルトとのキスには―中毒性が、ある。深い深いところにまで侵入され混ざり合っても、まだ果てがなく欲しくなるような。
いつだったか、キスは経験よりも才能だとどこかで聞いたのを思い出した。だとしたらコイツの才はなかなかのものなんじゃないだろうか……あるいはお互いの相性が、素晴らしくよかったということか。それならばありがたい。
そんなオレの想いも伝わったのだろうか。押し黙ったままじっとその目を見つめると、再び吸い付くようにナルトが顔を寄せてきた。本当にこのまま離れないつもりなのか、唇は相変わらず貪欲にオレを貪っているくせに、一方では器用に着ているジャケットから手を抜いて床に滑り落としている。
どんどん乱れ荒くなっていく呼吸に煽られていると、下の方でするりとナルトの足が絡んできた。
ぐり、と硬くなった熱がオレの腰に押し付けられる。その熱量と質量に思わず腰が怯むと、そんなオレのおよび腰をナルトが悠々と捕らえた。引き寄せられたところに、また硬いものがあてがわられる。いつの間にかオレも、しっかりと快楽の兆しをそこに見せていたらしい。お互いの熱源を擦り合わせるかのように、ナルトがゆっくりと腰を揺らす。
「ぅあ、ちょっ……」
「ん……あ、やべ……これも気持ちいい……」
熱に駆られ擦り切れそうな興奮が、せつなげな動きを通してオレに伝わってきた。
求められている、という感覚。
同性同士でそれをぶつけられるのは奇妙なものではあったが、不思議と不快さは感じなかった。心臓が逸り、競い合うかのようにお互い息が荒れていく。気付けば脇に抱えていたコートが床に落ちたが、それも最早どうでもよかった。もつれ合ったまま雪崩込むようにベッドへと倒れ込む。清潔なリネンで包まれたそこに転がると、首筋あたりに触れてきた唇が欲望の強さを表すかのように、強くオレの皮膚を吸う。やられっぱなしになるのも癪で、仕返しとばかりにオレもナルトの首筋に噛みついてやる。
「うっ、」
オレの髪の匂いを嗅ぐのに専念していたらしいナルトが、小さく呻くのが聴こえた。
「痛ってえ……」という声。
「痛くなるようにしたからな」と返すと、ええ~? と抗議の声があがる。
ナルトが言葉を発するたびに、触れ合っている胸板から響いた振動がオレに伝わってきた。ひでえ、という呟きが耳元に落とされると、ついクククと喉が鳴る。
「はー……もう、マジで幸せ。まさかこんな日がくるなんて。十三の頃のオレに教えてやりてえよ」
向かい合って横になったリネンの上でじっと見つめ合うと、ナルトはそう言ってはまたじんわりと空色を濡らした。
そっと伸ばされてきた手に、頬を撫でられる。
髪を梳く指の気持ちよさに思わず目を細めれば、そんなオレにナルトが困ったように口元を緩めるのが見えた。固く無骨な指先がオレの唇をなぞり、やがて確かめるかのように柔らかくそこを押す。
「ずっとずっと好きだったんだってばよ、オレ。同じ教室にいた頃から、ずっと」
そんな堂々とした告白に、つい緩んでしまいそうになる頬を、舌打ちで誤魔化した。
さっきまでわずかに残っていた逡巡も、夢中になるキスとこのとろけそうな笑顔を前に、今や消え去る寸前だ。
ガキの頃から想っていたのは、オレも同じだ。
脇目もふらず、ずっとたったひとりだけを見つめてきたのも一緒だ……ようやくそれらが報われると思うと、思わずオレの眼もほんのりと潤む。しかし。
「なんか、ホント……気持ちいい。キスだけでこんなに興奮すんのって、初めてだ」
ふと言われた言葉に、潤んでいたオレの眼がわずかに乾いたような気がした。なんとなく引っかかる場所があったような。そう考えつつ、オレはふとその緩みきった笑顔を見詰める。……なんだろうコレ。なんか、出かける直前にボタンの掛け違いに気が付いてしまったような。頬を上気させ晴れ晴れとするナルトとは正反対に、そんな奇妙なモヤモヤが残る。

「オレってば今までは、そんなにキスが好きなわけじゃなかったのにさ」

――うん??

「やっぱ、相手がサスケだからかな……キスでこれだけ違うんなら、抱き合えばもっと違うんだろうな」

―― ゔ ん ??

「……違うってどういう意味だ」
掛け違いの正体はうっすら見えたような気はしたが、そこを敢えて塞いでオレは尋ねた。きょとんとした仕草で、ナルトがこちらを見る。
邪気もなくオレだけを見詰める空色の瞳はやっぱり澄んでいて、どこからどう見ても一途で純情な昔のままのナルトと同じものだった。
お前、これまでずっと、ひとりじゃなかったのか?
ぱちくりと瞬かれるそれを、少しこわばる視線で確かめ恐る恐る口を開く。
「へ? ひとり?」
「そうだ」
「誰かと付き合ってたかってこと?」
「付き合ってたかっつーか……お前、『初めて』じゃねえのか」
一応聞くが、これまで何人と、付き合ったことがあるんだ?
質ねると、目をぱちぱちとさせていたナルトは、ますます唖然としたようだった。
「は? ああ、まあ――こんくらい? かな」という答えと共にこそりと披露された数字に、開いた口が塞がらない。おそろしいことに、その数は両手では収まらないものだ。
「おまっ……オレのことずっと好きだったんじゃなかったのかよ!」
思わず声が大きくなると、ナルトは大真面目な顔で「好きだってばよ。そりゃもう、一時だって忘れたことなんてなかったってば」などとまっすぐ答えた。「それでなんで他の奴と付き合えるんだ……!?」というオレにも、不思議そうな顔で首を傾げるばかりだ。
「え? いやだって、オレってば男だし。ソレとコレは別じゃんか」
サスケだってそうだろ? というしれっとした声に、オレは開いた口が塞がらなかった。なんだこいつ純真そうな顔しやがって、ひと皮剥いてみればとんでもないタラシじゃねえか……! 思わずぎりりと固めた拳の下、すっかり湿り気を無くしたベッドリネンが、白々と広がっている。
甘い空気から一転、閉じ込められた一室の中には不穏なものが漂い始めていた。
いつの間にジャケットから転がり出てしまったのか、床に落ちてしまっていたナルトのスマートフォンだけが、ちかちかと暢気に着信ランプを瞬かせている。
「なんだそれは。つまりお前は、身体目当てにそんな大量の女と付き合ってたってのか?」
異様に多い経験数に叱責を混じえると、ナルトは慌てて「まさか! そんな酷ぇことするわけねえよ!」と弁解した。今のはつまり、オレも男だからって意味で。思春期だったしさ、そーゆー機会があればやっぱ普通に欲は持つっていうか。もにょもにょと歯切れ悪く言い訳をするナルトに、「けど、とっかえひっかえしてたのは事実なんだな?」と念をおす。
「えー……いやだって、しょうがないじゃん。好きだって言われちまったんだもん」
返ってきたのはそんな呆れ果てた返答だった。
なにが「もん」だ。可愛く言ったところでやってることはただのスケコマシじゃねえか。
「しょうがない? 好きだと言われれば、誰とでも付き合うのかテメエは」起き上がった体で低く問えば、ナルトはキョトリとするばかりだった。「まあ……基本的には」などという呆れた答えに、一気に熱が冷めていく。
「ふざけんな、なんだその節操のなさは!」
「え? だって男でも女でも、魅力のない人っていないってば。オレってばちっぽけな存在だけどさ、けどそんなオレとでも付き合うことで、誰かが喜んでくれんのならまあいいかって」
「絶対間違ってんぞ、その博愛主義」
「そっかな、けどオレ彼女がいる時は浮気とか絶対しなかったし。節操はちゃんとあるってばよ?」
「だからってだなァ……!」
「その頃はオレ、まさかサスケとこんな風になるのは絶対に無理だと思ってたからさ。確かに付き合ってる期間は短かったけど、どのコも皆ちゃんと大事にしたってばよ?」
オレの周りは皆そんな感じだったってば、というナルトに説明を求めると、どうやらコイツは高校からフットボールを始めたらしく、頑丈そうな体が作られたのとそのモテ期がやってきたのは、まさにその辺りのことがきっかけとなっていたようだった。フットボールといったらアレか、海外ドラマでよく見かけるアレか。顎のしゃくれたモテ男がやたら美人ばかりが揃ったチアガールをはべらせ、校内を闊歩しているあのハイスクールの花形みたいな連中のことか。
「それにさ、」
ぶつけそこなったイライラを扱いきれず奥歯を噛んでいると、ふとこちらを見たナルトが言った。サスケだって、似たようなものだろ? オレがいなくなってからも中学でスゲーモテてたし、高校とかでも色んなコに告られてたって。
「は!? 誰がそんなこと」
「シノ」
「あいつオレとは高校も大学も全然違うんだぞ!? なんでそんなこと知ってるんだ」
「うーん、虫の知らせってやつじゃねぇの?」
「そりゃそういう使い方する言葉じゃねえよバイリン馬鹿が……!」
遠慮のない罵倒にもナルトは気にした様子もなく、むしろ久々のこのやりとりを喜んでさえいるようだった。一方オレは、とてもそんな状況ではない。いきなり全身から変な汗が出るようだ。
つーかもしかしてアレか?
こいつもしや、オレに対してとんでもない勘違いをしてるんじゃ。
オレとしたことが迂闊にも、巻き起こった動転を顔に出してしまったのがまた悪かった。冷や汗をかくオレを見て、ナルトは「やっぱりな」などと更なる勘違いを広げだす。
「うん……サスケがモテんのは昔からだもんな。わかってたってばよ」
何故かしんみりとした口調で頷くと、ナルトは無理をおしたような顔で微笑んだ。空色の瞳は淡く曇り、明るかった眉は戻せない過去を思ってか、なんともせつなげにその終わりを下げている。――…っていやなんでお前がそんな傷つけられたような顔してんだ、満身創痍なのはこっちの方だぞ!?
「いいんだ、本当。オレ全然気にしねえし」
すっかり置いてきぼりの展開に開いた口を閉じられずにいると、そう言って踏ん切りをつけるかのようにナルトはまた笑った。「むしろお互い様で良かったよな!」などというすがすがしい発言に(いや全然良くねえよ!)と内心つっこんでいると、苦笑したナルトはこうも言う。
「いやー実は昔、サスケ以外とは絶対にするもんかって、意地になってた時もあったんだけどさ」
恥ずかしげに打ち明けだしたナルトに(そうだそれが普通だろ!?)と全力で頷きたかったオレだけれど、その前に続けられた「けどこうなってみると、そういうのもちっとアレだもんな!」との言葉にまた声を飲み込んだ。
「……『アレ』とは、どういう意味だ」と思わず低くなった声で訊ねると、そんなオレの質問にもナルトは、悪意ゼロの笑顔に恥じらいを滲ませる。
「ん? いやだってさぁ、困るだろ?」
「なにが?」
「もしもオレが付き合ってもいないくせに、一方的に十年以上も貞操守っててみろよ。そういうのってちょっと相手からしたら、重いんじゃねえかなってさ!」
「えっ……」

―――グサッ。






重い。
ナルトはそう言った。
……全く考えてもみなかったが確かによくよく思いをめぐらせてみれば、確かにそんな気もする。音信不通であるにも関わらず、十二年も勝手に相手が自分に惚れ込んでいると決め付ける男。考えてみれば結構ヤバい。もしもこれが職場の同僚や他の知り合いの話だったらどうだろうか。たぶんオレもそいつに若干サイコ気味な奴なんだなという烙印を押すだろう。
その上さらにお前の為に貞操をとか。
それだけで相手を縛ってしまうんじゃないだろうか。
(――つってもしょーがねえだろが、オレはてめえみたいな小器用な真似出来ねえんだから――!!)
照れ笑いを浮かべるナルトの変わらぬ明るさを眺め、オレはひとり拳を握り締めるばかりだった。本音をいえば頭を抱えてしまいたい。というかもっと正直に言えばちょっと一人になって、いろいろ自分と向き合いたい気分だ。
「あっ――…そ、そうだオレ風呂に! さきに風呂、借りてもいいか」
はたと思いついてそう言えば、ベッドに横になったままのナルトはぱたりとその目をひとつ瞬いた。
「へ? これから?」という無作為に残念がる声に、こくりと深く頷きで返す。
……まあ考えてみりゃ女じゃないんだから、初めてだろうがそうでなかろうがこちらから打ち明けなければバレることはないわけで。だたちょっとアレだ、仕切り直しの為にも少し一人になって落ち着きたいというか。とりあえず初めてだからといってオドオドしたり、変に挙動不審になってしまったりするのだけは避けなければなるまい。
「いいってばべつに。風呂なんて入んなくて」
「……けど、このままじゃ汚ねえから……!」
「そんなのぜんぜん気にならねえよ」
「や、でも、マ、マナーだし……!」と尚も逃げようとしたオレだったが、長く力強い腕が伸ばされてくると他愛なくがしりと捕まえられた。ぐるりとオレに巻き付けてくる腕は完璧なホールドだ。さすがアメフト部とちらりと感心しつつも、じわりと汗が湧くのがわかった。ちくしょう、やっぱ逃げられねえか……! 観念したところに耳元で、「大丈夫だってば。サスケは、本当―全部、綺麗だし」という溜息のような睦言が吹き込まれる。
含羞む笑顔と熱っぽい瞳に気圧されて、思わず目を逸らしてしまった。問答無用な力と早くも逃げ道を塞がれた焦りと混乱とで、ただひたすらに喉が渇く。
いやしかしこの動揺を悟られてはなるまい。
クールに……クールにだ。大丈夫きっとオレならば出来る。
「サスケ」
ふと耳の後ろ辺りに吐息を感じると、体がぎくりとこわばってしまうのがわかった。
そのまま悪戯のように、緊張する首筋が啄まれる。
耳の近くで聴こえる濡れたリップ音。過敏になりすぎている鼓膜がその音を酷く淫靡なものとして拾う――いちいちそれに大きく跳ね上がりたがる肩。やばい。慣れてる奴はきっと、この程度のことでこんな反応しねえよ絶対。さっきまでは悪ふざけのように楽しめていたことが、急に試練のようになる。
く、と襟元を引かれる感覚に見れば、いつの間にかナルトがオレのタイを解きに掛かっている所だった。節のある人差し指が固められていたノットを易々と崩している。手際よくあっという間に緩められたそれをしゅるりと抜いた手は、迷うことなく次はワイシャツのボタンへと取り掛かった。ぷちんと外された第一ボタンに、思わずはっしと手が伸びる。
(いや待て、まだ心の準備が……!)
止めようとしたオレなのだがナルトは違う意味にとったのか、目が合うと何故だか嬉しそうに笑い「ちゅっ」とひとつ掠めるような口付けをしてきた。そうしてから今度は着ていた自分のパーカーを脱ぎ出したナルトに、ようやく流れを理解する。
ああつまり、自分の服は各々自分で脱ごうぜってことか……。
行き違ったままながらも何故だか着々と進行していってしまっている現状に、空恐ろしくなりつつ後にも引けない。
「――サスケ?」
大雑把に上を脱いでいくナルトに背を向け、仕方なしにのろのろとシャツのボタンを外していると、後ろから甘い声で呼ばれた。振り返る間もなく背中に感じる体温。すっぽりと包み込んでくる温かな素肌に、どきんと心臓が跳ね上がる。
「……な、なんだ」
「まだ?」
「…………せっつくんじゃねえよ、ウスラトンカチ」
震える声で誤魔化すも、ナルトは全く気がつかないらしい。待ちきれないってばよ……と溜息をつくと、そのままオレの項に唇を寄せてきた。骨の窪みを舌がなぞり、尖った歯が甘噛みをする。
かぷかぷと歯列の跡が残るたび、驚きと快感が一緒くたになってぞくりと腰からの線を走り抜けた。思わず止まってしまった手を、回されたナルトの手がそっと除ける。まんじりとして進んでいなかった残りのボタン外しを、無骨な大きな指がすらすらとやってのけるのを茫然と眺めた。呆気なく開いていく前。顔は依然オレの襟足辺りに伏せられたままの癖に、びっくりするほど迷いのない手付きだ。
(ああ、やっぱ慣れてんなあ……)
流れるような指の動きに、なんだかあらためて現実を見せ付けられるようだった。
きっとこれまでにも何度も、こいつはこうして誰かのボタンを外してきたんだろう。
「なあ、サスケはさ。いつだった?」
訊ねながら後ろからまさぐってくる手に、びくりと体がこわばった。開かれた前を見下ろせば、硬い指先がオレの胸を探るように這っている。
「いつ、って……」
「最初に女の子とデートとかしたのってさ。いくつの時?」
サスケはモテてたから早かったんだろうなあと言うナルトに、言葉の返せないオレはぐっと黙った。自分で言うのはやぶさかではないが、モテてたのはまあ事実だ。ただしそれを片っ端から断りまくっていたというのも事実なのだが。
「…………中二、だったかな…………」
苦しみ紛れに絞り出した答えは、一応嘘ではなかった。まあ相手の押しの強さに負けて、たった一度デートしただけなのだが。
ついでに言えばそのデートがオレにとっては面倒だわつまらないわの懲り懲りなもので、好きでもないのにこんなものに付き合うのは二度と御免だと決意するきっかけになっただけなのだが。余談だがその時オレよりもその初デートに盛り上がっていたのは、誰であろうオレの兄と母である。更にそのデートが散々なものだったと聞いて、何故か大喜びしたのもこの二人だ。今思い返してもあれは実に不愉快な出来事だった。
「中二かあ。じゃあオレが越してから、結構すぐ?」
「ああ」
「……もしかして初めての相手も、そのコ?」
「は? ――っあ、やっ……ぁ!」
相変わらず後ろから話しかけてくるナルトに答えようとした途端、小さな電流のような痛みが胸に走った。慌てて下を見ると、硬い指先が薄く色付いたオレの胸の先をきゅっと抓んでいる。オレの目線を感じるとぱっと指は外されたが、今度はくるりくるりとその赤くなった先端を焦らすように嬲りだした。短く切られた爪が、固くなりだしたそこを時折掠めるように引っ掻く。じんとした痛み混じりの快感。女のような膨らみもないくせに、それでもぷっくりと色を持って立ち上がってくるそこが、どうしようもなく恥ずかしい。
「なんか、サスケ――すげえ初々しいな」
ふとそんなことを言われてしまい、オレは半開きで息を乱していた口を急いで閉じた。しまった、経験がないのがバレてしまっただろうか……緊張しつつもナルトの指先ひとつにわけもなく跳ねてしまいそうになる体を、シーツを握りしめて必死で耐える。
「そう、か……?」
「うん。なんか処女相手にしてるみたい」
「……っさ、さすがに男とは、初めてだからな……!」
「あー、なるほど」
「そういうお前は、どうなんだよ」
「へ? オレ?」
「初めてって、いつだったんだ?」
逃げのついでにいきなり話題をふられると、ナルトはきょとりと首を傾げた。
ん~、いや、オレはサスケよりもずっと遅いよ。十七だったし。
照れながらも返された答えに、「……へえ、」と曖昧な笑いで返す。てことはあれか、こいつ十七スタートであれだけの数こなしてきてんのか。頭の中でざっと計算しても、一人頭の期間は極端に短い。やっぱりとっかえひっかえじゃねえか。
「オレさあ、中学で同じクラスになった時から、サスケに本っ当に憧れててさ」
突然しみじみとそう告白すると、ナルトは前をはだけたままのオレに、ぎゅっと抱きついてきた。お前ってばなんでも出来て、そんでもっていつだって毅然としていてさ。あんな風になれたらって、ずっと思っていたんだってばよ?
「だからさ、引っ越してからもずっと、オレの目標はサスケで」
「……」
「お前と並んでも恥ずかしくない位の男になりたくて。その一念で、オレってば向こうで無茶苦茶頑張ったんだってばよ?」
そう打ち明けると、ナルトは晴れ晴れとした笑顔でまたオレを見た。後ろから覗き込んでくる、憧れを湛えた瞳。
……そこにきてようやく、オレはさっきから感じていた奇妙なズレの正体に気が付いた。
こいつ、やっぱりオレのことを買い被りすぎだ。
そしてオレはオレで、昔のチビでドベだった頃のナルトと今現在のナルトとの、新たに生まれた隔たりを飲み込みきれていないのだった。そんなのでこのまま雪崩込むように付き合ってしまって、果たしてうまくいくのだろうか。
理想化したオレに恋しているナルトは、本当のオレを知ったら幻滅するばかりなんじゃないだろうか。場馴れしていると勝手に思われているけれど、現実は真逆だし。……きっと、重い、とか、思われるだろうし……。今ならまだ、引き返すのも間に合うのかもしれない。このまま綺麗で完璧なオレのまま、ナルトの前から去った方がお互い良いのかもしれない。
「……悪ィ。やっぱ、オレ」
言いかけたところで、突然『ピルルルル!』という高い電子音が部屋にこだました。
揃ってそのわかりやすい発信源に目をやる。グリーンのランプを点滅させながら喚いているのは、床に落ちたままだったナルトのスマートフォンだ。
「へ、何?」
「その、……ここまできて、言いにくいんだが……」
「? サスケ、なんか暗い顔してんな。どしたんだってばよ?」
口篭るオレにじっと首を傾げつつ、ナルトはしげしげとオレの表情を窺った。鳴り続けるスマホもほったらかしのまま、うぅーん? と考え込んでいたが、しかしややあっとしてから「あっ!」と声を上げると、ぽんとひとつ手のひらを打ち鳴らす。
「そっかもしかして、サスケってばまだ風呂のこと気にしてる!?」
やっぱ入りたいんだろ? と邪気もなく訊いてくるナルトに「は? いや、その……!」と目を大きくするも、独り合点してしまったナルトにはさっぱり伝わらないようだった。
ゴメンゴメン、そっかサスケってば昔っから結構潔癖なとこあったもんな~などと勝手に納得しつつ、てきぱきと立ち上がると放心するオレの腕をぐいと引っ張る。
「どうせならお湯溜める? せっかく湯船も付いてるんだし」
「や、要らねえからホント……!」
「じゃあシャワーだけでいいか? オレちょっと電話に出てるから、オレのことは気にせずゆっくりお湯浴びてきてくれってばよ」
ごゆっくり、とにんまり言われ、引っ立てられたオレは押し込められるかのように、バスルームの中へと足を踏み込んだ。馬鹿だから怒られてばかりだと言いつつも、ナルトのやつ実は結構、稼ぎもあるんじゃないか……? 真っ白な大理石のタイルで四面を囲まれたバスルームはシングルの部屋にしては、なかなかの高級感を漂わせている。
広々とした洗面カウンターの端に置かれたシックなラタンのバスケットには、真っ白なバスタオルがふかふかと畳まれている。
閉じられた扉の向こうで呼び出しのコールがぷつりと途絶え、再び「Hello!」というナルトの声が聴こえてくると、オレは深々と溜息をついて、その持ち重りのするバスタオルへゆっくりと手を伸ばした。



人の体は、十年毎に生まれ変わる。
バスルームの鏡に映る情けない自分の顔に、オレはふとそんな話を思い出した。
いつか読んだ科学コラム。分裂と死滅を繰り返す細胞で構成された人体は、十年経つとその全てが新しいものと入れ替わるのだと、その文章は語っていた。もしもそれが本当ならば、十二年前教室でナルトの隣の席にいたオレの細胞は、今はもう全て違う細胞に入れ替わっている計算になる。ナルトが好きになったオレは既にない。ここにいるのはナルトの抱いた憧れにみっともなく体裁を取り繕うだけで精一杯の、どうしようもなく格好の悪い男だけだ。
(……とはいえ)
どうしたものか。抱えたままのバスタオルの使いようのなさに、再びオレは溜息が出る思いだった。電話での会話は終わったのだろう、ナルトの話し声は先程から消えている。短かったけれどナルトの喋り声からは、真剣な響きがしっかりと伝わってきた。怒られてばかりだなんて言っていたけれど、ナルトのやつ本当は中々に優秀な売れっ子弁護士なのかもしれない。ただ単に泊まるだけのシングルルームにしてはクラス感の高い浴室に、劣等感にも似た苦味がじんわりと広がる。
……わかっているのだ。こんな風に逃げていたって仕方がない。
ナルトにありのままの現状を伝えれば、全部が片付くのは容易に想像できた。べつにナルトだって、呆れこそすれあざ笑ったり怒ったりするようなことはないだろう―けれど同時にそれだけは、どうにも踏み切ることが出来ないのも本音だった。
言いたくないのは、ナルトに失望されるのが、なにより怖いからだ。
そんなことをするくらいなら、このまま何か理由をつけ立ち去ってしまうことの方が遥かにましだった。昔のままオレに向けてくる、あの澄んだ憧憬がたたえられた瞳。その空色を落胆で曇らせるなんて、オレ自身のプライドが許さない。
「サスケ?」
コンコン、という軽いノックと共に投げかけられた呼び掛けに、ぎくりと体が固まった。顔を向けると同時に、カチャリと扉が開く。
「どうした? なんかやけに静かだけど」
「あっ――いや、その」
「お湯出ない? どっかでなにか設定とかすんのかな」
言いながら、素足になってどんどん入り込んできては浴室のシャワーコックを捻ってみるナルトに、オレは眉を下げ立ち尽くすばかりだった。一度は脱いだ上を電話の最中にでもまた着たのか、再びTシャツとジーンズに戻っている。
しかし磨き上げられたシャワーヘッドから吹き出すお湯に「なんだ、ちゃんとお湯出るじゃん」と呟かれるのを聞けば、ひやりと背中に冷たいものが伝わった。もうこれ以上は無理だ。いよいよ困窮極まって、オレは静かに覚悟する。
「……あのな……ナルト」
深呼吸ひとつ。思い切って口を開けば、ナルトはきょとんとしてこちらを向いた。
体は大きくなってもそこだけは昔とまったく変わっていない、澄んだ青空の瞳が、ぱちくりと大きくまたたく。
「ん? なんだってば」
「その……」
「?」
「……オレ、やっぱ今日、このまま帰るわ」
「は?」
「すまない。期待、持たせちまったのは、本当に申し訳ないと…――!?」
うつむいたまま口にした謝罪は、しかし最後まで言うことが出来なかった。突然勢いよく顔に噴きつけられてくる湯。一瞬にしてずぶ濡れにされた体に茫然となると、静かにシャワーヘッドがフックに掛けられた音がした。そのまま床を叩き続ける水の音。下を見るオレの眼に、ぽたぽたと前髪から滴り落ちる雫が映る。

「―――ワリィワリィ! なんかいきなり手元が狂っちまった」

バスルームに響いた声は、いかにも優しく、思いやりに満ちたものであるようだった。
けれどどこかそこに違和感がある。薄皮一枚を隔て透けて見える『何か』。その『何か』に、オレの中にある本能がチリチリと焦げつき出す。
ひたり、と上げられないままの視界に入ってくる、大きくて厚みのある裸足の足先。
おそるおそる顔を上げると、そこで待っていたのは世にも優しげな、ナルトの微笑みだった。