鈍色

大量の書物を乗せた背負子の肩当ては、階段を上がる度に重さを増し容赦なく肩に食い込んでいくようだった。
目的地の最上段まであともう少し。さすがにあがってきた息を軽く整え、ナルトは肩紐をぐいと引き上げる。
昨夜の雪は、この山間にある寺院を見事な雪化粧に仕立て上げたらしい。遠く見上げると、上り詰めた階段の先に、白い綿帽子を被った墨色の山門が見えた。
「やっと見えてきたわね」
隣を行くサクラがほっとしたように言う。重い書物をもつ代わりに、こちらは重さは然程ではなさそうだが中々に大きな葛篭を背負っている。
「……着いたらまず、お茶が一杯欲しいってば」
白い息を吐きながらナルトが言うと、隣を行くシマカルが深く頷いた。ナルト程ではないが、やはりぎっちり巻物を積んだ背負子を背負っている。ここの和尚の点てる茶は美味いからな、期待できるぜと額に汗を滲ませて僅かに口の端を上げた。
「綱手様からのお土産、湖月堂のお饅頭みたいだから、うまくいけば私達もご相伴にあずかれるかもよ?」
悪戯を思いついたような顔でサクラは両脇の二人に笑いかけた。美味いと評判の老舗和菓子店の名前に、自然声が弾んでいる。
朝早くから歩き詰めで来た体に、しっとりと甘い菓子はさぞや美味いだろう。
想像したら、俄かに腹がぐうと鳴った。よっしゃ! と小さく掛け声をあげると、ナルトはぐっと階段に掛かるサンダルの足に力を込めた。

     *

サスケと過ごした夜が明けて。
冷えて凝り固まった首筋の痛みに目を覚ますと、外では白々とした朝の弱い光が広がりつつあるところだった。
そおっとベッドを見上げてみると、既にそこに膨らみはなくなっている。慌てて起き上がって布団を剥いでみるがそこには既にシーツの冷たさがあるばかりで、昨夜在ったはずの温もりは欠片さえも残っていなかった。
(―夜明け前には、もう帰ったみてえだな)
少なからず気を落として、ナルトは冷えたシーツの上に腰を下ろした。一晩眠って落ち着いたら、サスケの機嫌も良くなっているのではないかと淡い期待を持っていたのだけれども。
昨夜のサスケの様子から察したら、顔を合わせる前に引き上げようと考えるのは至極自然な行動だった。それでも実際にそれを確認するとやはり落ち込む。
『俺の視界にも入ってくるな』
手厳しい言葉以上に、弁解や謝罪の一切をも切り捨てるかのような感情のない声に身が竦んだ。
なんでなんだ。最初のうちは、あんなにいい感じだったのに。
……ていうかサスケだってイったって事は、やっぱ悪くなかったって事じゃねえの?
なんでそれをあんなに怒るんだってばよ? 照れ隠しにしては、怒り方が本気なんだよな。
「わっかんねえなあ……」
知らず呟いた声が独りきりになった部屋に漂う。ぐしゃぐしゃと寝癖のついた金髪を掻き毟った。
好きだから、もっと深く知りたいと思った。それのどこがいけなかったのか。
もうやめろ、と譫言のように言っていたサスケの声が蘇る。やめろと言いながらも、ナルトの手に呆気ないほど反応する身体。
頑なだった腕の下から現れた瞳は、目尻が赤く染まって潤んでいた。濡れた唇は白い歯に噛み締められて歪んでいたが、その必死で耐えている様子がひどく扇情的に映った。
今のままで充分だと、サスケは言った。
肉体の関係がなくても、満足しているのだと。
―けれどそんな事をいうのなら、じゃあこの欲望はどうしたらいいのだとナルトは思う。ただ寄り添っているだけでいいのなら、あんな告白なんてしなくてもよかったのではないだろうか。恋人でなくても、そう、たとえば本当に兄弟のような関係であっても、一緒にいるという事だけならそう変わりないではないか。
(―あれ?)
サスケの、求めていた形って。
唐突な思い付きに、しばし髪を掻き乱していた手が止まる。脳裏に黒い長衣を身に纏った静かな男の風貌がよぎった。
穏やかな優しさだけを、それぞれが持ち寄る関係。
家族を持ったことのないナルトには、想像でしかできないけれど―それは、多分。
(いやいやいや、そんな……だって、あいつもオレの事好きだって言ってくれたんだし!)
想像を打ち消すように、ナルトはぶんぶんと頭を振るった。大丈夫。まだきっと、挽回できるチャンスはあるはずだ。
いつの間にか、外は大分明るくなってきたようだ。壁のカレンダーをちらと見遣って、今日の集合時間を確認する。
ピシャピシャと数回頬を叩くと、任務任務! と自分を励ますように言って、ナルトはベッドから腰を上げた。

「木の葉の方々ですね、ご苦労さまです」
頂上までたどり着くと、山門の脇に袈裟を着た僧侶が待っていた。
今日の任務は火の国の外れにある寺院に、医術関係の資料と薬草を届けること。依頼人は火影である綱手自身だ。寺院の住職が古くから綱手と親交のある人物らしく、住職から綱手の手持ちの医術書を寺に貸してもらいたいと頼まれたのだという。
同時に、里で栽培した薬草と寺で収穫した薬草を交換してくるようにとも、綱手から依頼されていた。山間にある寺院では里にいては手に入らない希少な植物も採れるらしく、お互いに有意義な物物交換を定期的にしているのだと、執務室の椅子にゆったりと構えて綱手が話していた。
そんな訳で、今日は綱手の弟子であるサクラと、薬学に長けた奈良家代表としてシカマルが、荷物持ちのナルトを従えて延々と麓から続く山寺への階段を登ってきたのだった。
「雪で足元も悪く大変だったでしょう?」
「いや、全然大丈夫だってばよ!」
気遣う若い僧侶に、ナルトは明るい笑みをこぼす。それにつられるように笑顔を浮かべた僧が、門の中へ入るよう促しながら言った。
「どうぞ、荷はあちらへ。和尚が皆様がいらしたら茶を点てると申しておりますので、どうぞ上がってお待ちください」
僧侶の言葉に、思わず三人で笑みを含んだ顔を見合わせる。ありがとうございます、とサクラが溌剌とした声で答えると、三人は指示された縁側に荷を降ろすと、勧められた通りにすっかり冷たくなったサンダルを脱ぎ座敷に上がった。冷たい板間の廊下を進むと、案内をしていた僧侶が奥の一室前で止まり、素早く襖の前に座ると静かな声で訪いを告げた。
間もなく「お入りなさい」と少し掠れた翁の声が返ってくると、若い僧は音もなく襖を開けた。元々茶会のための部屋なのだろうか、真っ先に部屋の隅に掘られた炉に小ぶりの釜が掛かっているのが目に入る。次いで、部屋の真ん中に置かれた大きな火鉢の傍に、枯れたような身体を縮こませて身を寄せている老人の背中が見えたかと思うと、ひょいとこちらを振り返った。
「ご苦労さまでした、さあこちらで少し温まりなさい」
掠れているが思いやりに溢れた声音で和尚が言った。サクラが手土産の菓子折りを差し出すと、包み紙を見て皺くちゃの顔に更に皺を寄せ破顔する。襖の前で正座したままの若い僧を呼んで菓子折りを渡すと、小さな声でいくつか申し付けた。一礼して僧が部屋から出て行くのを見送ると、和尚は静かな所作で畳に座るナルト達に向き直った。
「たしかお前さんは奈良家の」
「シカマルです。ご無沙汰しております、和尚」
「あれ、じいちゃんシカマルの事知ってんの?」
「ああ、親父と一緒にここには何度か来た事あんだよ。この和尚は漢方医学では火の国一の権威だからな、教えを乞いに時々親父が来るのに付いてきてんだ」
じいちゃんなんて気安く呼ぶんじゃねえよと軽く窘めながら、ナルトに向かいシカマルは説明した。そんな二人を、ナルトの砕けた態度も気にしない様子でにこにこしながら和尚が見守る。
「お前さんが名代で来たということは、シカク殿はそろそろ代替わりを考えているのかの?」
笑顔のまま和尚が問うと、一瞬細い眉を困ったように顰めたシカマルは、やや言いにくそうに返事をした。
「いや、まだそこまでは。ただまあいずれ来る時の為に、今から引き継いでいける事はやっておけと―親父が」
視線を所在なく漂わせながら答えるシカマルを和尚が面白そうに眺める。
次いで隣にいるサクラにお前さんは? と尋ねると、明朗な声でサクラは自分の名と綱手の弟子である事を告げた。
「ほうほう、シカクも綱手姫も頼もしい後継ができて安心じゃのう」
からからと枯れ木のような身体を揺すりながら和尚が笑う。心なしか、言われる二人の顔が赤く染まった。
「……で、お前さんが『うずまきナルト」じゃな?」
皺に隠れた小さな瞳で突然じっと目を覗き込まれ、俄かにナルトは姿勢を正した。視線が合うと、かちあった翁の目が意外な程澄んでいるのに気がついた。
「え? なんでオレの名前知ってんの?」
「お前さんの事を知らない者は、この火の国には今やひとりもおるまいて」
やっと視線を外して和尚が言う。こんな山寺にいる隠居じじいの耳にだって、お前さんの名前は入ってくるんじゃよ。
「お前さんも、そろそろ代替わりのための準備をしなくてはならないのではないかの?」
「代替わり?」
「なんじゃ、姫の後に火影になるのはお前さんだと聞いているぞ?」
「いや、でもオレまだ中忍なんだってば。もうしばらく綱手のばあちゃんにはいてもらわねえと」
照れくさそうに金髪を掻きながら答えると、おやおやと和尚が小さな目を驚いたように見開いた。木の葉の英雄は試験には弱いらしい。勇壮な噂に反し余りにも気さくな雰囲気の青年に、和尚の口許が自然と綻んだ時、先程の案内役の僧侶の控えめな声が廊下から掛けられた。
静かに襖を開けて現れた僧が捧げ持つ盆には、つやつやと膨らんだ饅頭が美しく盛られている。和尚は後ろに控えた茶箱を開けて、慣れた手つきで茶碗を4つ取り出した。
「さあ、まあ今はともかく、一服しようかの」
茶窯の蓋を外しながら、和尚がにっこりと笑う。
この饅頭が一緒に来るから、木の葉からの使者は大切にもてなすようにと皆にも言っておるのじゃよ。
そう冗談交じりに言うと、和尚は皺の奥の目を更に細めた。

「では、綱手姫にもよろしく伝えておくれ」
ご馳走様でした! と三人で声を揃えて山門を後にした時には、すでに冬の日がゆっくりと傾きだしていた頃だった。お茶を頂戴した後も、木の葉から持ってきた薬草を説明しながら仕分けたり、シカマルとサクラが和尚に薬学の質問しているうちに時はどんどん過ぎていき、気が付いたらもう夕刻近くなってしまっていたのだ。
薬学の知識はからきしだったが植物を育てるのが好きなナルトは、二人が和尚に付いて色々と教えてもらっている間に薬草を育てているという寺の植物園の手伝いを買って出たところ、若い僧侶達から大変な歓迎を受けた。出家しているとは言ってもまだ年若い彼等からしたら、「うずまきナルト」が来ているというだけでも結構なイベントだったらしい。雑草を抜いたり枝を払ったりと作業をしている間にも、ひっきりなしにナルトの武勇伝を聞きたがる僧や小坊主がやってきて、植物園には人が絶えることがなかった。
「すっかり長居しちゃったわね。お昼までいただいちゃったし」
「ま、その分はナルトが働いてくれたからいいんじゃねえか?」
「おう! きっちり仕事してきたってばよ!」
空になった背負子に交換で貰ってきた薬草を詰めた葛篭を載せて、ナルトは溌剌と笑った。好きな土弄りが存分にできたせいか、今朝の落ち込んだ気分はかなり晴れて、足運びも軽い。
寺院から延々と続く石の階段を軽快に降りていると、そういえば、とシカマルが話を切り出した。
「次の上忍推薦試験、もうじきだけど、お前今回の受けるんだろ?」
ちゃんと準備してんのかよと、三段飛ばしで階段を降りようと試みていたナルトを横目で眇めつつ、シカマルが言う。
「筆記は上忍試験でもあるんだからな、今度のはカンニング完全禁止のやつが。それ受からねえといくら実力があっても上忍への推薦は貰えねえぞ?」
「げ、そうなの?」
「キバとチョウジは前回の試験、そのペーパーテストで落ちたんだからな。お前は相当頑張らねえとやべえと思うぜ?」
「そうよナルト、真面目にやんなさいよ?」
大戦後の試験で難無く上忍に昇格した二人に言われ、ナルトは急に浮ついた気分が萎んでいくのを感じた。そうか、試験ってことはまた勉強しなきゃなんないのか。
中忍試験の際も相当サクラに絞られて受験したのだが、今回はそれ以上に厳しいという事になるのだろう。果てしなく険しい道程が容易に想像できて、ナルトは早くも気が重くなった。
「どうする? また私が試験勉強に付いてあげる?」
急に無口になったナルトを不安げに覗き込みながら、隣を歩くサクラが申し出たが、突然「あ!」と小さく叫ぶと言った。
「そうだ! サスケ君に勉強教えてもらったらいいじゃない!」
さもいい事思いついた、というような顔で笑うサクラを力なく見遣り、ナルトは「あー…、サスケね」と溜息のような空笑いを返した。
両脇の二人が同時に「ん?」という顔になる。
「どうしたの、サスケ君とケンカでもしてるの?」
「いや、まあ、ケンカ……というか」
「なんだお前ら、ここんとこ結構仲良くしてたんじゃねえのか?」
「んー…なんか、死にたくなければ視界にも入ってくんなって言われたってば」
うわー…それは、それは。痴話喧嘩にしては物騒すぎる発言に、サクラとシカマルは言葉を失った。さすがうちはサスケというか。そこまで言わせるような行動を取ったうずまきナルトの方を、さすがと言うべきか。
「……えっと、ちなみに何をしたらそんな物騒な事言われたのかしら?」
「それは言えないってば」
「いやでも、そこ聞かせてもらわねえとこっちも助言できねえし」
「……いや、まじでほんと、これはムリ!」
顔を赤らめて必死で抵抗する金髪頭を眺めて、聡い二人は同時に思う。ああ、こいつまた暴走してなんかやらかしたんだな。
「いや、でもな春野、サスケに試験勉強手伝わせるってのはどちらにせよ止めといた方がいいんじゃねえか?」
「そうだってばよサクラちゃん、サスケだって試験受けるだろうし、勉強しなきゃなんねえだろ」
「そうじゃなくて。―ナルトお前もしかして、またサスケと一緒に試験受けるつもりでいるのか?」
そうだけど、何か? 不思議そうな顔で青い瞳をしぱしぱと瞬かせるナルトに、シカマルは深い溜息をついた。
この能天気さ。サスケが怒るのも無理はないかもしれない。
「だから。……サスケは上忍にはなれねえって事だよ」
元抜け忍な上、ビンゴブックにも載るS級犯罪者だったんだぞ?
彼にとっても言いたくない事だったのだろう。早口で一気に言い切ると、シカマルは苦々しげに口を歪めた。
「……は?なんで、だって―中忍にはなれたんだし、上忍にだって」
言葉が上滑りしていくのを感じながらも、ナルトは口を開く。しかし言い終わる前に、シカマルがその言葉を遮った。
「中忍と違い、上忍昇格は里の中枢にまで繋がる道だ。機密性の高い任務も多いし。そもそも中忍試験だって、誰かさんが散々ごねたのを綱手様が動き回って下さったお陰でなんとか受験許可が下りただけなんだぞ?本来なら里抜けした忍が受けられるものじゃない」
それじゃあ示しがつかないだろうが、とシカマルは断言した。組織の中で、規律を守れなかった者が簡単に許されてしまうようでは組織としての体裁が守れないし、なによりも次の造反者を生む要因になりかねない。
「……一応、訊くが。お前またサスケが受けられないなら、自分も試験受けないとか言い出すつもりじゃねえだろうな?」
三白眼で睨みつけられ、図星を刺されてナルトはぎくりと肩を強ばらせた。石段を降りる足がつい止まる。つられて残りの二人も、ナルトを振り返るような形で立ち止まった。
中忍試験の時は戦争後すぐだったこともあり、一番の功労者だったナルトの意向が里で通りやすかったのは事実だ。が、サスケと一緒に中忍になりたいという、完全に個人的な我侭を聞き遂げてやることは、いわば里からのナルトへの恩賞のようなものだったのかもしれない。
しかしそのためにあの綱手が懸命に各方面に手回しをして回っていた事を、戦争後綱手の側近として取り立てられたシカマルは知っていた。側近といっても見習いだぞ、と笑いながら任命した綱手の本当の意向は、ナルトが火影になった時にシカマルにサポートを頼みたいからなのだろう。組織に組み込まれるには余りにも破天荒なナルトを支えるためにも、先に火影としての仕事の明と暗の部分を自分に見せておこうと考えたのだろうと、シカマルは拝命しながら察していた。
当時もサスケの受験が受理されないと知って、ならば自分も下忍のままでいると言い張ったナルトは、何故綱手があんなに無理を通してでもナルトを中忍にしようとしていたのか、その理由にまでは気がついていないだろう。
大戦で新しい時代がくるのを身をもって感じた綱手は、すでに自分の代の終わりを見据えている。後を継ぐべき者のために、残りの火影としての時間を費やそうと考えているのだろう。新しい里長の誕生。新しい時代で木の葉が生き残っていくためにも、そう悠長には待っていられないのかもしれない。
「…いいか、綱手様にこれ以上迷惑かけんじゃねえぞ」
「なんだよシカマル、まためんどくせーからとか…!」
「違う。そんなんじゃねえよ」
ナルトに最後まで言わせず、シカマルが言い捨てた。
もう俺達は我侭通してもらうばかりの、ガキじゃいられねえってことだ。
「お前がサスケに特別な思いを持ってるのはよく解ってる。でもな、俺からしたらあいつが忍として復帰出来ただけでも、充分奇跡だと思うぜ?」
「でも、あんなに力があんのに」
「階級がどうだろうと、木の葉の忍として名を連ねていられるだけで、あいつはもうちゃんと救われてる」
これ以上は、サスケ自身が背負っていかなきゃならない問題だ。お前が手出しするような事じゃねえよ。
非情とも聴こえる言葉に動揺の色を隠せない青い瞳を、理知的な黒い瞳がまっすぐに捕らえた。

「上にあがってこいよ、ナルト」

―いつかくる、その時のために。いつまでも甘ったるい夢にしがみついていないで。我武者羅に、てっぺんを目指してこい。
「そんな・・・簡単に諦められっかよ」
珍しく強く言うシカマルを負けじと睨み返して、ナルトは歯噛みした。火影になる事は確かに譲れない夢だ。しかし、昔から憧れてやまなかったサスケに手が届いた時、ナルトはもうひとつの夢を描いてしまった。
火影になった自分の横で、肩を並べて立つ彼。
きっとそれは、素晴らしく完成された未来に繋がっているようにナルトには思えた。
風が炎を煽るように、自分達はいつだって同等の立場で、お互いを高めあっていたいのだ。……なのにサスケを置き去りにしたまま、自分だけが里の中枢に入るなんて。
「……まだ何もしてないのに諦めるなんて、オレにはできねえよ。やれるだけの事は全部やってやる。誰が何と言おうが、何度だって、オレがまたサスケを引っ張り上げてみせるってばよ」
止まっていた足をぐんと前に出して、ナルトは宣戦布告するかのように言い放った。
途端にシカマルは眉根に皺を寄せる。それに気付くが、あえて無言で追い越して足を早めていくナルトの背中は、薄暗さを増していく山道でどんどん遠ざかっていった。
離れていく二人をそれぞれ眺めると、サクラはこれから起こるであろう騒動を覚悟して、重い溜息をついた。

     *

待機所に集まった顔ぶれを一瞥しただけで、サスケは早々と今日が厄日になることを確信した。内心思い切りしかめっ面でもしてやりたい衝動に駆られたが、今日一日を穏便に過ごすためにもなんとか堪える。
「今日はよろしくね、サスケ君」
絵に描いたような笑顔を貼り付けて、サイが右手を差し出した。なんでこいつと握手なんか…と思いしばしその手を眺めていたが、相手が全く引く気がなさそうなのをみて仕方なくグローブの掌を握る。
「おお、友好の印だなコレ!」
オレもやる! と勝手に盛り上がると、木の葉丸は空いているサスケの左手を掴んでぶんぶんと振り始めた。サスケに対して遠慮のないのは、いつもナルトとセットでいる時にしか会ったことがないからだろう。兄貴分としてナルトを慕っているらしいこの少年は、余計な事にナルトのサスケに対する不遠慮さも見習おうとしているらしかった。
(―最悪だ)
両手を取られ、肩ごとがくがくと揺さぶられながら、サスケは遠く思った。

―あの朝。浅い眠りから目覚めると、サスケは夜が明ける前にナルトの家を抜け出してきた。
ベッドから降りて、寒そうに肩を竦めて丸まっている金髪頭を見下ろす。ほんの一瞬、自分が使っていた毛布を掛けてやろうかと考えたが、情けは無用と思い直しそのまま放置してきた。
馬鹿だから風邪なんてひかねえだろ。音を立てないよう慎重に足を運びながら内心で呟く。
脱衣場で着てきた任務服に着替えると、スッキリしたような顔で軽く鼾までかいている男の顔をちらと眺め、静かに玄関のドアノブを回した。しんと冷える里を抜けて自宅に付くと、やっと深く呼吸ができるような気分になる。
しばらく主が不在だった部屋は、ほんの少し余所余所しい空気をサスケに感じさせたが、カーテンを払って窓を開放し、沸かしたての熱い湯で淹れたコーヒーの香りが漂う頃にはそれらは払拭され、落ち着きを取り戻した。マグの中の熱い液体を啜りながら、ぼんやりと反芻する。
闇に浮かぶ金髪。熱に浮かされたような青い瞳。
いつだって主導権を握っていたのはこちらだったはずなのに、気が付いたらナルトに組み伏せられている自分がいた。
……いやいやいや。そうじゃねえだろ。
納得できない思いで、サスケは眉根に皺を寄せる。あの流れからいったら、確実に下にされるのは自分の方ではないか。
女のように扱われるのは真っ平御免だったが、かといって自分がナルトを抱きたいのかと訊かれたら、それはそれで途方も無くサスケには想像がつかないのだった。だからこそ、幼い触れ合いだけで満足できていたのかもしれない。だがナルトにしてみれば、それは物足りない愛情表現に過ぎないのだろう。
あいつの事は好きだけれど、だからといっていいように流されるというのは別の話だ。ナルトの不満に十分気が付いた上でも、サスケは思う。
ドべで、落ちこぼれだったナルト。
勝手に俺に憧れて、必死で手を伸ばしていたあいつ。
自分は、そんなナルトに絆されただけだったはずだ。なのにここのところの自分ときたら、何かとナルトの一喜一憂に振り回され過ぎているのではないだろうかと、冷静さを取り戻した頭で考えてみる。
変に顔色を伺ったり、機嫌をとってみたり。それこそまるで彼女かなにかのようだ。
ナルトの押しが強いのは元々だけれども、それよりも受け入れる自分の方に問題があるのだと思う。ナルトに嫌われたくない、構ってもらいたい。いつの間にかそんな事を考えている自分が空恐ろしくなる。
いかに付き合っていようとも、これまで孤高を保って生きてきたサスケとしては、矜持を守れない程こういった関係にのめり込む事は望むところではなかった。プライドと体裁を保つためにも、こんなにも彼に対して強く出られなくなってしまっている自分は、絶対に知られたくない。きっと身体まで結んでしまえば、それは更に露見されてしまうであろう事を、サスケは薄く予感していた。それなのに。

……目に入るもの全てから逃げ出したいような気分で顔を覆っていた腕が、軽々と纏め上げられた時、サスケはいつの間にか自分よりもずっとナルトの腕が力強くなっている事に気がついた。
微かな敗北感が澱のように漂う。身体が煽られれば、更にその自尊心は脆く崩された。
這わされた指先に、抗えない快楽が紡がれる。
抵抗する力も気力も完全に封じられる程の呪縛。見下ろす蒼はよく見知ったもののはずなのに、欲に色塗られてまるで見たことのないものに見えた。「嫌なことはしないから」などと言いつつ、やめろという嘆願は軽々と流される。
しかしやめられなくなっているのは、いつの間にか自分の方で。不甲斐なさと、ナルトからの圧倒的な熱情に攫われて、力を込めて閉じていた目蓋が熱くなるのを感じた。荒くなっていくお互いの吐息にさえ煽られてしまい、逃げ場のない欲情に追い詰められる。
……やがてやってきた、その瞬間。
高められた先でプライドを手放したその時、屈服させられた事に対しじわりと広がる敗北感とは別に、自分よりも大きな存在に導かれる確かな安堵感があった。許しがたいその感覚を見つけてしまうと、サスケは愕然とする。
ああ、俺はこいつに本当に溺れかけているのだと、切れ端のようになった理性の隅で思う。
矜持が保てないほどナルトに寄りかかりだしている自分を感じた。この自分が、自らを丸ごと捧げてもいいと思い始めている事が、恐ろしくなる。
いけない。これではまるで必死になってるのは、ナルトではなく―……

……いや、しかしまだ大丈夫だ。半分程中身の残るマグを両手を包み、サスケはひとり思う。
陶器からの熱がじんわりと掌に移ってくる。ゆっくりと温くなっていくコーヒーが、カップの中で静かに渦を巻くのをじっと覗いた。
調子にのリ過ぎれば本気で怒るのだと、昨日ナルトは思い知ったはずだ。写輪眼まで見せたのはやりすぎだったかもしれないが、手っ取り早く本気を見せるにはこれが一番確実。
多分これで当分の間はまた穏やかな関係に戻れるだろう。ナルトが俺に平服して謝ってきて、それでまた元通り。
慎重に、慎重に。
今ならばまだ追いかけっこの攻守は、逆転されないはずだ。

「じゃあ、今日の任務の説明をするね」
出来合いの笑顔をやっと引っ込めて、サイが口を開いた。手を離して表情を引き締めた木の葉丸が横に並ぶ。
「里外れの集落に、医者を名乗って住み着いた男が、どうも他里の忍のようだという報告があってね。今のところ特に一般人に危害を加えたりとかはないみたいなんだけど、まあ何か事が起きてからじゃ困るってことで、僕等の任務はこの男の拘束。ただし抵抗があった場合は、その場で抹殺の許可が出ているから」
「は? 抹殺もって他里の忍者であるなら情報を引き出す為にも、一旦尋問部に引き渡すのがセオリーだろう。木の葉に入ってきた目的も解らないままで消してしまってもいいのかよ」
「ていうか抵抗無しで投降する侵入者なんて聞いたことないぞコレ」
「大体そいつは里の結界にどうやって侵入できたんだ?それも尋問しておく必要があるだろうが」
説明を聴き終わると同時に、残りの二人からいくつもの疑問が口をついて出た。やけに気の急いた任務に、引っかかった違和感が拭えない。
「さあ? 僕は上から申し付けられた任務をそのまま伝えてるだけだよ。まずはとにかく、その集落まで行ってその偽医者を見つけないと。あとこのスリーマンセルの隊長はもちろん僕だからね」
「ま、サイ兄ちゃんにサスケ兄ちゃんなら抵抗する前に拘束できちゃうかもな! 最近の任務は工事の手伝いばっかりだったから、楽しみだぞコレ!」
何となく納得いかないままのサスケを尻目に、木の葉丸は取り敢えず疑問はどこかに置いておくと決めたらしい。意気を上げるのをにこにこと眺めていたサイが、ああそうだと思い出したかのように言った。
「サスケ君、君の名前、呼び捨てにしてもいいかな?」
「は?」
「本当はあだ名を付けたかったんだけど、以前その候補をナルトに言ったらすごく怒られたから。だったら名前を呼び捨てさせてもらおうかと思って。その方が親密な感じになれるような気がするし」
青磁器のような肌にほんの少し赤みを差しながら、サイが照れたような笑いを浮かべた。あああ、これだからこのサイって奴は苦手なんだ。うんざりしながらサスケは思う。
確かこの男に初めてあったのはまだ大蛇丸の元にいた頃だった。その時にも実のない笑顔を貼り付けたいけ好かない奴だと思ったが、里に戻ってからは同じ七班の仲間だと言ってやたらと話しかけてきたりする。七班だと言われても一緒に過ごした時間は皆無だったから、サスケからしたら正直サイはただの木の葉の忍者のひとりという認識しか持てなかった。それなのに、時に非常識としか言い様のない程の馴れ馴れしさ(サクラに言わせるとそれらは全てサスケと仲良くなりたいがゆえの行動らしいが)はうっとおしい事この上なかった。
だからこの時も、嫌に決まってんだろ、とサスケは咄嗟に思った。しかし隣にいる木の葉丸が、こそっと「隊長命令だぞ、コレ」と囁いてくる。
……全く、この里はどうしてこうも理不尽な上忍ばかり揃っているのだ。
「……勝手にしろ」
なかば捨て鉢のような気分でサスケはぼそりと言い捨てた。
それを聞いて、サイの形の良い唇が優雅に弧を描いて上がる。しかしそれもまたよくできた贋作のように、サスケの目には映るのだった。

「――いた」
雪の掛かる林を抜けて、ターゲットが潜んでいるという集落にたどり着いたのは夕刻前だった。
集落と呼ぶのさえも躊躇われる程、そこには数件の百姓家が点在するだけだった。そこから更に外れた地に、こじんまりとした古い小屋がぽつりと建っている。少しずつ手入れをしている最中なのだろうか、所々の壁が継ぎ接ぎのように新しい木材と取り替えられていた。何か薬湯でも煎じているのか、北側の小窓から何とも言えない苦味を含んだ匂いの煙が立ちのぼっている。離れた木立に身を潜めた三人は、その小屋の戸口で患者らしき中年の男を見送ると逃げるように素早く小屋の中へ戻る青年を認めると、顔を見合わせた。
「あれか?」
「多分。年格好も報告と差異ないね」
「よし、じゃあ早速捕まえるぞコレ!」
勇んで印を結ぼうとする木の葉丸を制して、サイが言った。
「ちょっと待って、中に一般人がいるかもしれない。巻き添えが出るのはまずいよ」
まずは中を探ってみようと余裕のある口ぶりで言うと、サイは軽やかな音をたてて地面に巻物を広げた。流れるような所作で筆を滑らせると、見る間に一匹の蛇が描かれる。素早く印が結ばれると、瞬く間に薄墨の蛇が現れ紙上でのたうった。
「――行け」
命じられた蛇が、夕闇に紛れて小屋の木戸の隙間をくぐり抜けていく。
へえ、便利なもんだな。
あまり見る機会のなかったサイの術を興味深く眺めると、サスケは蛇の消えた先に視線を移した。小さな住居は侵入者に気付く事もなく、のんびりと小窓からの煙を吐き出し続けている。ややもするとスルスルと墨色の蛇が地べたを泳ぐように戻ってきて、サイに向かい何度かうねりながら頭を擡げたかと思うと開かれたままの巻物に音もなく収まった。
「――まだあの中に二人、患者の一般人が残ってるみたいだね」
閉じていた目を開いてサイが言った。
「どうしようかな、このまま監視し続けて機会をみてもいいんだけど、この寒さじゃ野宿も辛いしなあ」
「……治療といっても、偽医者のする事じゃあ高が知れてるだろ。すぐにそいつも出てくるんじゃないか?」
「うーん、でも見た感じ入院患者っぽいんだよね」
「じゃあまずその一般人の保護と、ターゲットの拘束する方とに分かれるか」
「よし、なら影分身が使える木の葉丸君は二人の保護の方へ。病人なんだから丁寧に保護してね。サスケと僕はターゲットの拘束。僕が退路を断つから、サスケは先鋒でいってくれるかな」
「…了解」
呼び捨てされることに未だ慣れることが出来ず、微妙な間を作りながらも返事をすると、サスケは気配を殺したまま小屋の戸口に張り付いた。すぐに同じように気配をなくしたサイが隣に並ぶ。慎重に木戸を動かして僅かな隙間を作ると、そっと中を伺った。

簡素極まりない小屋の中には、奥の座敷に粗末な布団がふた組と治療用の寝台が一つあるだけだった。
その寝台に、今は若い女が横たわっている。寝台脇に灯る行灯に照らされる草臥れた寝間着と青白く痩けた頬は、その女が長患いを余儀なくさせられていることが伺わせた。
医者の男はその女の横に立つと、慣れた手付きで印を結びだした。印が完成すると、女の胴の上に腕を広げて翳す。次第にザワザワと、何か黒い霧のようなものが男の袖口から這い出して女の体内へ入り込んでいくのが見えた。
「おい、あれって―」
「なるほど、蟲を使って治療をしていたのか」
「あの術って、もしかして」
「そうだよ。蟲を体内に送り込んで病原体そのものを喰らわせる術だと聞いている」
油女一族の秘伝忍術だ。
感情の込められていない声でサイが言った。動揺のないその態度に、サスケはサイが最初からこの任務の正確な内容を知っていたらしいと勘付く。
「どういう事だ、じゃああれは木の葉の同胞ということじゃ」
「違う。彼は一度里を抜けて、他里に情報を売ってる」

抜け忍だよ。どうしてのこのこと木の葉に戻ってきたのかは、知らないけどね。

性急な抹殺許可。その意味がさらりと告白したサイの言葉によって、サスケにもやっと理解できた。
里抜けだけでなく、他里に自里の情報を売り飛ばしたともなれば確かに抹殺されるのは免れない。抜け忍の処分は全て抹殺した地で行うのが慣例だ。ただの任務として巧妙に隠されていたこの命令は、実際は抜け忍の暗殺に他ならなかった。
「なんで―暗部の仕事だろう、これは」
「だから僕が来たんじゃない。暗部も今人手不足なんだよね。それでサスケに手伝ってもらおうかと」
まあ兎に角よろしく頼むね、と言い切るとサイは木戸を勢いよく蹴り抜いた。情報に頭をかき乱されながらも、小さく舌打ちをしてサスケが小屋へ滑り込む。
同時に患者の寝かされている側の壁が破壊されて、影分身とに別れた木の葉丸が寝たままの一般人を抱きかかえて出て行くのを確認した。
「――とうとう来たか」
取り乱す様子もなく男が呟いた。その手にはいつの間にか鋭く光るクナイが握られている。
「なんだ、お前か」
寝台に寝かされたままの女にクナイを突きつけて、男は静かにサスケに視線を移した。その目、その顔。お前うちはの生き残りだろう?
「元抜け忍が、今度は狩る方へ回ったか」
そう言い放つと、男は洗いざらした着物の袖から無数の蟲を一斉に放った。黒い雲霞のようなそれがサスケの方へ襲い掛かってくる。動きが速い。
瞬身で避けながら壁際にまで飛び退ると、男が寝台の下にあった壺を思い切り蹴り飛ばしてきた。乾いた音と共にサスケの横で砕け散ると、中から更に黒々とした一団が現れる―蜂か。
サスケは素早く念じ、その瞳に赤い光を宿らせた。浮かぶ巴紋が閃いて、蟲たちの動きを捉える。
腕を伸ばして点っていた行灯を掴むと、振りかぶりながら中に溜まる油を靄のように漂う蟲たちに撒き散らした。弧を描いて飛び散る油に間を置かず火遁を吹きかけると、引火した炎が帯のように広がり蟲たちを分断する。出来た道を神速で走り抜け、女に翳された刃物を手刀で弾く。流れる動きで男の手首をひねり上げながら後ろに回ると、頚動脈にひたりとクナイを寄せた。
「さすがに速いな」
言葉とは裏腹に、特別感心したわけでもなさそうに男が言う。黒く煙った眼鏡に阻まれて、表情が読めない。
「蟲を収めろ」
「それが写輪眼というやつか。……蟲一匹も見落とさないというわけか?」
「そういう事だ。諦めろ」
わあん、と音を立てて広がっていた蟲達の動きが止まる。羽音が止むと、急に冷めた静けさが小さな小屋を襲う。ひと呼吸置いて深く溜息をつくと、やがて男がゆるゆると口を開いた。
なあ、見逃してくれないか。お前なら俺の気持ちも解るだろう?
「……なんで木の葉に戻ってきた」
急に媚びるような声音を出してきた男の背に油断なく張り付いたまま、サスケは小さく尋ねた。里を裏切った抜け忍がわざわざ苦労して抜けた里に戻って来るなんて、自殺行為だ。
ここに戻れば遅かれ早かれ見つかるのは判っていたはずなのに。何故、何故それでも戻った?
「俺を、待っていてくれた人がいたからだ」
そう言って男は寝台に横たわったままの女を見下ろした。流石にこの修羅場に凍りついているらしく、痩せた頬が強ばっている。
「こいつは俺の幼馴染でな。忍者でもないくせに、俺が里を抜けてからもご苦労な事に一人でずっと、この国境線のあるこの村で俺が戻るのを待ってたんだ」
そのうち、自分の方が病に犯されるまで。ずっと。
「……馬鹿な女だ。戻ったところで里から隠れおおせる訳なんかないのに」
そう言うと、男は丁寧な手付きで女の額に掌を載せた。そのまま長く伸びた髪を櫛るように撫でる。
「なあ、お前なら俺のこと解ってくれるだろう? お前だって誰かが待っていてくれたから、里に戻ってきたんだろう」
「…俺の話は関係ない」
苛立ちを強いて隠して、サスケは言い捨てた。馴れ馴れしく話しかけてくる男に不快感が募る。
「なんだよ、自分だけは時期火影のお気に入りだから、赦されて当たり前だと?」
「――っ、ちが…!」
「その美形だもんな、もしかしてその身体まで開いて、あのうずまきとかいう奴に媚てんじゃないのか?」
あの英雄様ときたら、昔からお前に相当な御執心らしいもんなあ。
徐々に下卑てきた男の口調にささくれた神経を荒く逆撫でされ、サスケはかっと頭に血を登らせた。首筋に構えるクナイが微かに震える。剣呑な光が怒りに支配されて、視界が真っ赤に染まった。
「――黙れ!」
サスケが激昂して叫んだ瞬間。口許に薄ら笑いを浮かべた男は当てられたクナイに首筋を押し付けると、ぐいと半歩前に出た。鋭利な刃物に裂かれた皮膚から、弾けるかのように血飛沫が吹き出す。女を見下ろして、男は愛おしそうに笑うと覆い被さるように崩れ落ちていった。最後に小さく振り返ると、はくはくと微かな吐息のような声で言った一言だけが、サスケの耳に残される。
「…サスケ兄ちゃん!」
空気を切り裂くような木の葉丸の声がしたかと思うと、辺り一面に乱れ散る血の雨に打たれて呆然とするサスケの太腿に、不意を打って鋭い痛みが走った。虚ろな瞳のままゆっくりと痛みの元を見遣ると、寝台に横たわったままだった女が先程男が落としたクナイを拾い、サスケに突き立てている。
急に力が抜けてがくりと片膝をつくと、見下ろした女と視線があった。

「――人でなし!」

鬼女の形相で女が低く言い捨てる。そのまま暴れようとするのを、やっと現れたサイが取り押さえた。
「……ご苦労さま」
ぽつりとサスケにそう言うと、女に何か嗅ぎ薬らしきものを含ませた。急にくたりとなった女を担ぎ上げて立ち上がると、相変わらず感情のない眼で腿に突き刺さったままのクナイを見下ろす。
「処置しようか?」
「…いや、いい」
自分でやる。そう言ってサスケは立ち上がった。素人の、しかも女の力で刺したものだ、大した傷ではない。
「……ここ、あと頼む」
言い残してふらりと戸口へ向かうと、血だまりにズルリとサンダルが滑った。軽くよろけながら、身を投げ出すように外に出る。戸外には既に冴え冴えとした冬の夜が広がり、集落を覆う木々が腕を伸ばすように黒い影で空を切り抜いていた。
先程まで隠れていた木の幹に寄り掛かり、小さく気合を込めて刺さったクナイを引き抜く。
すぐに傷口から血が盛り上がり、裂いた服にじわりと染み広がっていくのを、じっとただ眺める。

『―なあ、俺とお前、どこが違うんだ?』

断末魔に残した男の言葉が、鼓膜から消えない。
呪言のように繰り返しこだまするその言葉に支配されるかのように、サスケは痛む足に思い切り拳を叩き込んだ。染み込んだ血液が小さく飛び散る。
熱い痛みが走る。
……しかし、それさえも胡乱な頭の中では幻のように遠く感じるのだった。

     *

サスケが医務室に行ったようだと教えてくれたのは、待機所にいたチョウジだった。気の優しい彼は、最近の任務では怪我どころか返り血を浴びる事さえなかったサスケが、鉄臭い匂いを漂わせて戻ってきたのが気にかかったらしい。
ついさっきだよ、という言葉を同じく任務を終えて戻ってきたナルトは聞くやいなや、報告書もそこそこに待機所にある医務室へ足を向けた。やはりチョウジと同じように、珍しく怪我をしたというサスケが気になる。
どうしたのだろう、どこか具合でも悪かったのだろうか。早足で廊下を進みながら、確か今日はサクラが当番で居るはずだと頭の隅で思い出す。戦争後、特別な事情のない限り現場に出ることがすっかり減った7班の紅一点は、最近は医師として待機所内にある医務室と木の葉病院とを往復しながら勤務していることが多かった。彼女に処置してもらえるのであれば、まあ大概の事は心配ないのだろうけれど。
「医」の文字が書かれた扉の前に立つと、嵌め込まれた磨硝子越しに人のいる気配が感じ取れた。微かにもれ聴こえる声は確かにサクラと、それにどういう経緯か木の葉丸の声もする。安堵してドアノブに手を掛けようとしたその前に、ナルトははたと気が付いた。
そういえばオレってば、視界に入るなって言われてたんだった……。
伸ばした手をそのままに、しばし逡巡する。あいつ、まだ怒ってんのかな。あれからまた散々考えてみたが、やはりあのプライドの高いサスケ相手に、いきなり事を進め過ぎたのがよくなかったのだろうとナルトは結論付けたのだった。
でもまあ、あれから数日経っている。ケンカなんてこれまでだって数え切れない程してきたんだし、なにしろ自分達は両思いなのだ。きっと素直にこっちから謝ってしまえば、機嫌を直してくれるんじゃないだろうか。
……案外普通に、いつもどおり話しかけたらすんなり元に戻れたりしてな。
浅はかな期待に自分を納得させて、ナルトはノブを回す手に力を込めた。

「あのー…サスケ、来てる?」
恐る恐る中を覗き込むと、不安げな木の葉丸に見守られながら、白熱灯の下でズボンの腿の部分を裂いて、傷をサクラに見せているサスケがちらりとこちらを向いた。
黒い瞳と視線が重なったかと思った瞬間、ふいとそれを逸らされる。
「あんたね、いい加減ノック位覚えなさいよ」
消毒薬のたっぷり染み込んだ脱脂綿をピンセットで摘んだまま、溜息をついてサクラが言った。この2年ですっかり白衣が板に付いている。
「珍しいってばよ、サスケが怪我なんかすんの」
サクラからの注意を軽く聞き流して、ナルトはすたすたと歩み寄ると傷を覗き込んだ。赤く熱が広がりつつある傷口を見て、あー腫れそうだなぁコレ、と呟く。
「えー…と、この間はなんか、悪かったな」
「……」
「オレちょっと勝手だったよな。ホント、以後気をつけます! スンマセン!」
がばりと大きな動きで礼をしながら一気に謝ったナルトを見ることもせず、サスケは俯いたまま微動だにしなかった。サスケの反応がないままなのをどう受け取ったものか、ナルトは少々迷った様子だったが、謝った事で気が済んだらしくすっきりした顔で、後ろにいた木の葉丸に声を掛けた。
「で、なんで木の葉丸がいんの? 今日サスケと一緒のチームだったのか?」
「……そうなんだけど、あとサイ兄ちゃんもいて」
「ふーん、あ、解った。じゃあサスケ木の葉丸でも庇って怪我したんだろ?」
「や、そうじゃないんだけど……クナイで刺されたんだ、非戦闘員だったし、まさかこんな事するなんて」
「――木の葉丸!」
丸椅子に座るサスケの後ろで治療を見守っていた木の葉丸が、思わずといった様子で口を滑らせた。途端、サスケの尖った声がそれを遮る。やはりまだ怒っているのだろうか、普段とはなんだか纏っている空気が違う。妙にオロオロと困ったような顔をしている木の葉丸も気に掛かったが、それよりもナルトは非戦闘員に傷を負わされたという言葉がやけに引っかかった。
「なんで一般人にやられたりすんの?」
「……お前には関係ねぇよ」
目を合わせないまま、サスケが言い捨てる。少し俯いた白い頬が今日はいつにも増して青白く、血の気がない。
伸びた黒髪が覆うそこに、赤黒くこびり付いた斑点を見つけると、ナルトは無意識に手を伸ばした。
「ココ、まだ血が付いてる」
そう言っては指先が触れたかと思われた瞬間、ぱしんと乾いた音をたててその手が容赦なく弾かれた。跳ね除けられた手に呆然としながら、ナルトは表情が隠れたままの横顔を見詰める。
サスケの動きに、むっとした血の匂いが漂い空気を揺らした。
「……さわるな」
冷たく落とされた声が、広くない医務室に響く。宙に浮いたままの掌もそのままに、ナルトがサスケに向かい声を上げようとしたその時、その手を掴んだのは木の葉丸だった。
「ナ・ナルト兄ちゃん、ちょっと!」
「…んだよ木の葉丸、オレはサスケに言いたいことが」
「いいから! ここはもうサクラ姉ちゃんに任せて行くんだな、コレ!」
サクラに目配せをしながら、木の葉丸はいきり立つナルトの背中を力尽くで押しながらドアへ向かった。騒々しい退出劇に見向きもせず、サスケは静かに下を見詰めている。
そんな二人を交互に眺めて、サクラは深く息を吐いた。

「――確かに、サスケ君らしからぬ怪我ね」
洗浄した傷口に視線を落としながら、サクラはそっけない口調で言った。
「クナイの刺し傷は大したことないけど、その後がね」
自分で傷口を更に酷くするような事したでしょう?
ちらりと俯いたままのサスケを見上げて鎌をかけてみる。鋭利な刃物で刺しただけの傷跡にしては、傷口の腫れ方が激しい事から推測したまでだ。
しかし見つめた黒い瞳になんの動きもないのを見てとって、サクラは小さく溜息をついた。
「自傷行為みたいなのは感心しないわね」
「……別に。そんなつもりじゃねえよ」
仕方なく、といった様子でサスケが小さく返す。小さく金属音をたてて脇のトレイにピンセットを置くと、サクラは処置を再開した。一瞬、医療忍術で手早く回復させようかとも思ったが、少し考えてから普通の傷薬と縫合セットを選び出す。軽い痛み止めを使いながら何針か縫うと、そこに傷薬の軟膏を塗った大判のガーゼをふわりと載せた。その上から、慣れた手付きで包帯を巻きつけ始める。
「ナルトと何かあったの?」
何気ない風を装いながら、サクラは視線を包帯を巻く手に注いだまま問いかけた。
「あいつから何か聞いたのか?」
「詳しい話はどうしても口を割らなかったんだけどね。でも視界に入るなって言われたってしょげてたわよ?」
下を向いたまま苦笑いを浮かべて言うと、ああでもさっき視界に入っちゃったわねと独り言のように呟く。それを聞いても、サスケの表情は変わらないままだった。
「どうしたのサスケ君、やっと自分の気持ちに素直になれたと思ってたのに」
「……どういう意味だ」
サクラの一言に、やっとサスケの声に色が付く。巻き終えた包帯の端を留めて顔を上げると、静かに憤懣を抑えている様子のサスケが視界に入った。
アカデミーの頃から憧れてやまなかった彼が、たった一人を見詰めているのに気がついたのは、いつだっただろう。
それは自分ではなかったが、不思議と嫉妬は感じなかった。なぜなら、彼の眼差しを受けている相手は、自分なんかよりもずっと強い覚悟をもって彼を追いかけているのを誰よりも知っていたから。
敵わないと思った。むしろ、叶えてやりたいとさえ思った。だからナルトからサスケにキスをしてしまったという話を聞いた時も、別段驚くこともなかった。やっと気がついたのか、と思っただけだ。
ナルトの「好き」は、良くも悪くもひたすら熾烈だ。
もはや恋というより執着ではないかと、そう思うことさえある。
そんなナルトが恐るべき執念を持って長年求め続けたのは、目の前にいる彼ただひとりだけだった。 強烈な引力を持つ金色の光に誰もがいつの間にか惹かれるが、それが欲しがった相手は必死でその引力に逆らおうとしていた唯一の人間だったのは、皮肉なのか必然だったのか。
それでも、とサクラは思う。
あの晴れた空を映した真っ直ぐな瞳に、容赦なく射抜かれてしまったのだ。
さすがのサスケでもひとたまりもなかっただろうと、微かに同情の念を感じながらサクラは想像する。あれに逆らえるような人間がいるものなら、是非目の前に連れてきて欲しいものだ。
昔からナルトはやたらとサクラに近寄ってきたりもしたが、一度だって本気で口説かれた事なんてなかった。きっと真面目に迫られていたら、自分達の関係は今とは全く違うものになっていただろうと思う。しかし一番近くで二人を見続けていたサクラには、最初からナルトの「本気」がいつだってサスケだけに注がれていたという事にだってとっくに気がついていた。
「一緒に死んでやる」と言えるほど、ナルトが彼に、その全てを捧げている事を―そして、決して自分を曲げないナルトが言ったその言葉の重みを、誰よりも理解しているのがサスケその人であることも。
里に戻ってからは三人ともバラバラの任務に付くようになり、少し距離が出来てしまった事を淋しく思いつつも、二人がこれからどうなっていくかが気掛かりだった。
不器用な彼等なりにお互いの思いを重ねる方法を見い出せたのだろうと、最近は安心していたのに。
「ナルトの事が好きだって、やっと気が付いたんでしょう?」
「誰が…!」
「隠しても無駄よ、これでも私、ずっとサスケ君ばかり見てたんだから」
お生憎様、と歌うようにサクラが言うと、痛い所を突かれたとばかりにぐっとサスケは黙り込んだ。何か言ってやりたいらしいのを必死で抑えている顔を眺めると、ほんの少しだけ胸がすく。気まずそうに目を逸らしたサスケに、ちょっと苛め過ぎちゃったかな? と苦笑を浮かべた。
「わかってるわよ、どーせあのバカの事だろうから、両思いにはしゃいで変な暴走でもしたんでしょ?」
「……」
「でもね、あいつにとってはアカデミーの頃からずっと片思いしてたようなもんだし、多少の暴走は大目に見てあげてもいいんじゃない?」
無言を肯定と受け取って、サクラは言葉を繋げた。ナルトを弁護する科白に苦笑いが混じる。
「好きって気持ちばかりが走り出して、自分でも思いがけないような行動を取ってしまう事は私にも覚えがあるしね」
「……それは俺にも、少し解る」
苦々しい声でサスケが小さく返してきたのを聞いて、サクラは目を丸くした。
あのサスケ君が、こんな事言うなんて。
どうやら自分の想像よりもずっと、この二人は自分に正直になる事を許しあっているようだ。
「じゃあ、このまま仲直りしたらいいじゃない」
「…いや、それは」
「どうして? サスケ君今、ちょっと解るって言ったでしょ?」
口篭るサスケに尚も言い募ると、ややあっとして言いにくそうに彼は口を開いた。口許が微かに震えているせいだろうか、なんだか泣き笑いのような表情だ。
「……サクラ」
「なに?」
「俺はいつから、ナルトに庇ってもらうばかりの男になってしまったんだろう」
絞り出すように出された声に、彼がどれほどそれを言うのに苦痛を伴ったかが窺い知れた。
すぐに、里へ連れ戻してからサスケの処遇を巡って起きた、いくつかの騒動を思い出す。
そんな事ないよ、と気軽に慰めを言える程サクラは無神経ではなく、苦く宙に浮いた言葉を慰撫する術を必死に探したが、生憎それはうまく見つかりそうになかった。
「……今日の任務で、俺は抜け忍をひとり殺した」
「抜け忍って―それ通常の任務じゃないでしょう?」
話の展開に疑問を挟むサクラに構うこと無く、サスケは続けた。そいつが、俺に言ったんだ。
俺とお前、どこが違うんだ?
「……違わねえよ、どこも」
自嘲するような乾いた声でサスケは言い捨てた。
ただ、俺にはナルトっていうやつが付いていたってだけだ。
「――それは違うよ、里にとってもうちはの血を残すのは重要な事だし……!」
「だからって一度犯罪者にまで堕ちた人間が、こんな普通に生活して、中忍にまで昇格して堂々と任務に就いているのは当たり前じゃねえだろうが」
吐き出された言葉の正しさにやり込められて、サクラは口を噤んだ。
里に戻った時、確かに罪人だったサスケには、里から釈放のための司法取引として提示された条件がいくつかあった。大蛇丸の開発した禁術を里に全て教えること、その一切を自分の記憶から抹消すること、万華鏡写輪眼に封印を施す事。それら全てを承諾した上で、サスケは開放されたのだった。
それでも、一度曲がった思想を持った人間を、改心しましたから、などという単純な理屈で復員させるような甘い里はそうそうないはずだ。―うちはの血を残すだけならば、生涯幽閉したって事は足りるのだから。
そうならなかったのはひとえにナルトを慈しみ、その将来に期待をしている綱手の独断によるものだと考えていいだろうと思う。中忍試験の許可が下りたのも同様だ。もちろん愛弟子であるサクラの嘆願もあったが、やはり鍵を握っているのはナルトの方だった。なにしろ、あの里の英雄はとんでもなく諦めが悪い。コレと決めたのなら、通るまで絶対に諦めることはなく何度でも嘆願してくるであろうことを、綱手はよく判っていたのだろう。

どうして今まで、ふてぶてしくいられたのだろう。ナルトに守って貰う事に、慣れてしまっている自分が嫌だった。
甘やかされている事にさえ、気が付かない程に。

「他の誰かから聞いたらもっと不快に思うだろうから、今伝えておくけど」
沈黙を破って、サクラがそっと口火を切った。
「昨日ね、ナルトが綱手様にサスケ君の上忍試験を認めて欲しいって頼みに来たの」
「! あいつ、またそうやって勝手な事を……!」
もちろん無理だったんだろ? とぞんざいに訊くと、申し訳なさそうにサクラは小さく頷いた。
むしろホッとしたような面持ちで、サスケは椅子に座り直す。
「なんでいつも、頼んでもいないお節介をあいつはやりたがるんだ」
「頼んでもいないだなんて、そんな言い方しなくてもいいんじゃない?」
サスケ君だって、本当はナルトと同じ場所にいたいって思ってるくせに。
そう言って、いつになく真剣な翡翠の瞳が、黒い瞳を睨みつけた。予断を許さない様子のその目に、サスケの方が僅かにたじろぐ。
「ナルトが一生懸命なのは当たり前だよ。アイツは誰よりも、サスケ君の力を認めているんだもん。一緒にいて、一番自分を強くしてくれるのがサスケ君だって事をよく解ってる。アイツが必死なのはサスケ君のためというより、自分自身のためなのかもしれないなとも思う」
でもね、ときっぱりとサクラは言う。
「サスケ君だって、ナルトと肩を並べていたいんでしょう? そうなりたいからこそ、ここに戻ってきたんじゃないの?」
「それは―…!」
抗議を口にしようとして、サスケはそれに相応しい言葉が見つからないのに気が付いた。
ずっと暗闇にばかり目を凝らしていた自分。ナルトはそこに射す光そのものだった。
暗闇を抜け出して、あの光のあたる場所に自分は出て行きたかったのだ。
イタチが繋げてくれた命だとか、うちはの名だとか。
そういうものを全部抜きにして、……ただ。
「……でもそれは、ナルトに寄りかかって生きていくという意味じゃない」
暗く落とされた声に、サクラはほんの少しだけほどけてきていた彼の本音が、再び硬いガードに覆われてしまったのを察した。
ああ、まったくこの人は。
諦めたように深く溜息をつくと、包帯の様子を確かめてからその膝をぽんと軽く、揃えた指先で叩いた。
「はい、じゃあ抜糸は一週間後ね。腫れてるとこを縫ったから、今夜は少し痛んで熱が出ると思う。できるだけ安静にしておくように!」
「お前…なんで医療忍術で治してくれなかったんだ?」
「あらだって、サスケ君―看病してくれる人が、ちゃんといるじゃない?」
しれっとサクラが言い放った時、遠くからバタバタを騒々しい足音が近付いてくるのが聞こえた。
まったく、忍なんだから廊下では足音位消して走りなさいと、今度きちんと言わなくては。
そうサクラが考えた時、ばん、と空気を叩くような音をたててドアが開けられた。
「…ね?」
全く悪びれていない様子のサクラに、思わずサスケは頭を抱えた。
風に金髪をくしゃくしゃにしたままのナルトが、肩を怒らせてそこに立っているであろうことは、二人共見ずとも十二分に解っているのだった。