雪待人

もう何度目かもわからなくなった溜息をついて、ナルトは眼下に広がる里を眺めた。
暖房のない待機所は、冷たい外気を纏ったままの木の葉の忍達がひっきりなしに出入りするためか、外と変わらない程冷えている。
ぐるりと一面を囲っている窓ガラスに掌を当ててみると、ひやりと張り付くような冷たさが伝わってくる。視線を上げて、遠くの空を見遣ると重苦しそうな薄墨色の雲が山際から立ち込めているのが見えた。
「雪雲だな、ありゃ」
気配に振り返ると、いつの間にか後ろに立ったキバが先程までのナルトと同じようにガラス越しの空を見渡していた。任務帰りなのだろう、防寒のため支給されているポンチョ型の外套を着たままだ。
鼻を鳴らして赤丸がナルトの足にすり寄ってきた。思わず相好を崩して手を伸ばす。密度の高い毛に覆われた獣の確かな温もりを感じ、ガラスに熱を奪われていた指先がほうっと解れた。
「キバは今帰り?」
「そ。さっき報告書出してきたとこ。こりゃあそのうちに降り出してくるかもしんねえな」
初雪だよな。視線を外にやったまま、嬉しそうにキバが言う。よかったなあ、赤丸。
「あ、やっぱ赤丸って雪好きなんだ?」
「おう、もちろん俺も好きだぜ?」
よく知られた童謡を思い起こしながら言ってみると、キバは昔のガキ大将の片鱗を覗かせてにやりと笑った。隣にお座りしていた相棒に向かい、明日積もったら雪合戦だな、赤丸! と声を掛けると、白い大型犬は嬉しげに尾を振りながら「おん!」と一声あげる。
その様子を微笑ましく眺めつつ、ナルトはまたひとつ、そっと胸の内で溜息をついた。
サスケ。今どうしてるかなー……

     *

三日程いないから、とは任務に行く前のサスケから最後に聞いた言葉。ところが待機所や里の中でもサスケを見かけないまま一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。二週間と三日目にしてとうとう痺れを切らしたナルトは、受付にイルカが一人で座っている時を狙って勤務表を見せてもらう事を思いついたのだった。食い入るように文字を追って見つけたサスケの欄には、確かに小さな任務が書き込まれていたが、それが斜線で消されている。イルカに問い合わせてみると、その任務は調査していくうちに他の案件とリンクしている事が判り、そのままもう一方の隊と合流する事になったのだという。ファイルにあるサスケの名前の横からは事務的な横線が黒々と引っ張られており、無情に引かれた線が「完了日未定」の文字で閉じられているのを確認すると、ぐらりと眩暈がした。
それからまた更に、待つこと二週間。
そんなこんなで、累計したらかれこれ一箇月程サスケの顔を見ていない。
「サスケ、まだ帰ってきてない? まだまだかかりそうかってば?」
「……お前な、長期任務の時は何年も掛かるケースもあるんだぞ?」
再び受付に一人でイルカが座っているのを見つけた午後。勤務表を前に崩れ落ちる金髪頭に、まだ一箇月だろうが、しっかりしろよ、と呆れたようにイルカが言った。
まったく、この自慢の教え子はことサスケの事になると昔から見境ないところがあるのだ。しかもナルトの執念が実ったのか、この頃はやけにサスケの方の態度が軟化しているらしい。時折じゃれあうように一緒にいるようになったふたりを微笑ましく思う傍らで、離れた時の寂しさもひとしおなのだろうとイルカはひとり納得した。
「その任務ってそんなに難しいの? オレも行っちゃダメ?」
「難しいというわけじゃなさそうだけど、小さな問題がいくつか絡まってしまっているような感じなのかな。強引に解決に持っていくと後々面倒が残るから、時間かけて一個づつ解決していくようにしたんだろう。そういう時もあるさ」
あとな、お前には他の任務がたっぷり入ってるから。
任務一覧をクリップしたファイルをぱん! と叩きながらイルカが笑う。
よかったなあ、大好きなA任務が目白押しだぞ!
はは、とやや引き攣った笑いを浮かべてナルトはぎっしり予定を書き込まれた自らの勤務表に目を落とした。オレってばまだ中忍だってのに。容赦ねーな、ばあちゃん。
「なあ、ナルト。会いたいって思う気持ちは解らなくもないけどな」
俯くナルトに、急に真面目な声色になってイルカが呼びかけた。
「俺達は忍だ。大切な人と会いたいという願いの前に、忍としての務めがあることを忘れるなよ」
「そんなの、わかってるってば」
「怪我もなく命も落とさず、無事帰ってきてくれるのなら、待つのなんてなんでもないじゃないか」
「……」
「会いたいと願う前に、ただ相手の無事を祈りなさい」
妙に静かな口調で言い切ったイルカに、ナルトはファイルに落としていた視線を上げた。真っ直ぐに伸びた背中が、何故だかいつも温和な雰囲気の彼にしては珍しくやや緊張に固くなっているようだ。
少し伏せた眼差しが書類を読むためだけではないようなのを、ナルトは訝しみながら眺める。
イルカ先生にも、会いたい人がいるのかな。
……きっと、そうなのだろう。そんなに背中を強張らせる程会いたいと思ってるくせに、それよりもまずとにかく無事に帰ってきて欲しいと願っている人が、この心優しい元担任にはいるのだ。
「イルカ先生」
「ん?」
「先生って、オトナだな」
鼻に皺を寄せて笑いながら言ってやると、立ち上がったイルカがナルトが読んでいたファイルをさっと取り上げた。丸めたそれを振りかぶると、軽い力で金髪に向かって振りかぶる。ぽこん、と少し間抜けな音が受付に漂った。
―当たり前だ、バカ。
少しひっくり返ったような声で一言発して、どすん、とパイプ椅子に座りなおしたイルカを見遣る。その顔が耳の先まで赤く染まっているのが判ると、ナルトはなんだかくすぐったい気分になってニシシ、と笑った。

     *

「じゃあな。ぼやぼやしてると降ってきちまうぞ」
「ああ、お疲れだってばよ」
待機所を出たところでキバと別れ、ナルトは急ぐでもない足取りで家路につく。外套を羽織っていても、剥き出しになったサンダルの足先はどうしようもなく冷たい。俯いていた項にひやりと冷たさを感じて空を仰ぐと、曇天の彼方からちらちらと白いものが舞い降りてくるのが見えた。
「おー…!」
吐き出すように感嘆の声をあげれば、それまでもが白く煙っては散っていく。上をふり仰ぎ、顔に落ちてくる冷気の結晶を心地よく受けた。
サスケのとこにも、雪、降ってるかな。
……まあサスケの事だから、きっと任務に掛かりきりになってしまえばオレの事なんて真先に思考の圏外に出されちまってるんだろうけどさ。
知ってるから、いいけどさ。
イルカ先生はああ言ってたけど、やっぱり無事を祈るよりも先に「早く会いたい」と祈ってしまうオレは、まだどうしようもなく子供なんだろう。
(でもやっぱ、会いたいってばよ)
自嘲するように鼻を鳴らすと、ナルトは想う。
風に揺れる黒髪を。
静かな光を湛えた双眸を。
白くしなやかな指を。
オレを好きだと言ってくれた、あの声を。
外套の下で、ナルトはそっと自らの腕で自分自身の二の腕を掴んだ。甘やかな焦燥にじりじりと熱くなる体を、ぎゅうと抑える。
空を仰いだまま目を閉じていると、伏せた睫毛にひとかけらの雪が降りてきた。あっけなく体温で溶けだしたその雪が、雫となって瞼の中に侵入してくる。じんわりと温かくなるそれを軽く拭って、ようやくナルトは再び足を前に出した。
うっすらと、アパートに向かう道にも雪が積もりだしている。
薄いベールを掛けたかのような地面に静かに足跡を付けながら、ナルトはゆっくりと歩みを進める。途中の商店で牛乳と温めるだけのスープを買い求め、慣れたアパートの階段をゆっくりと上がっていくと、ドアの前に白く蹲っている何者かが見えた。
まさか。……本当に?
「おせえんだよ、バカ」
不機嫌そうな顔を全く隠すことなく、その白い人影は言った。
「……それはこっちのセリフだってばよ」
言い返せば、あぁん?と眉間に皺を寄せて睨まれる。
ああ、久しぶりの再会にその表情はちょっとないんじゃないだろうか。
「ったく、とっとと終わらせて帰還しようとしたら急に合同任務になるわ、あっちの隊にカカシがいやがったせいで散々いいようにこき使われるわ、挙句の果てにこのくそ寒い中こんなボロアパートの前で待たされるわ、ムカつくったらありゃしねえよ」
一気に言い切ると、サスケは大げさな程深い溜息をついた。任務用の白い外套の裾が、汚れたままなのが見て取れる。
ああ、帰還したその足でここに来てくれたのか。
気が付いて、無性に嬉しくなる。
「…サスケ、あのさ」
「なんだよ」
「オレってば、すっげーサスケに会いたくってさ」
会いたくて、会いたくて、会いたくて。イルカ先生には、そんな自分の願いよりも相手の無事をまず祈りなさいって言われたんだけど、でもどうしても会いたいなあってまず思っちまって。
「だからさ。今、サスケが帰ってきてすぐオレに会いに来てくれたのって、なんかサスケもオレと同じような気持ちでいてくれたみたいで、すげー嬉しいってばよ」
「……俺とお前を一緒にすんな」
無愛想な声でサスケは呟くと、ふいっと横を向いた。
頬に少し赤みが差しているのは、寒さのせいだけではないはずだ。
そのままぼそぼそと何事が呟くように言っていたが、雪に霞む冷たい空気の中、季節外れの向日葵のように笑うナルトの耳にそれは届かなかった。
……蹲ったまま、サスケがおもむろに手を伸ばした。
慌てて外套から腕を出し、冷たい指先をからめ捕るようにその暖かい掌で包むと、ナルトはぐいとサスケを引き立たせてそのまま胸に抱き留めた。
「おかえり、サスケ」
「……ただいま」
憮然とした顔をしたサスケを見て、思わずくくく、と喉の奥から笑いが漏れる。―その顔、わざと作ってるだけだって、バレバレだってばよ? これが判るようになっただけでも、少しは大人に近づいたと思ってもいいのではないだろうか。ねえ、イルカセンセ?
……抱き締めたサスケの黒い髪に鼻先を埋めて深く息を吸い込むと、乾いた外気の匂いに混じった硝煙の香をかすかに感じた。
まずは風呂を沸かして、この冷たくなった体を温めさせてやらなくては。風呂から出たら、買ってきたスープをふたりで飲もう。メシも炊いた方がいいな。
任務、どうだったんだろ。カカシ先生もどんな様子だったか、聞いてみたいな。お茶…はあいにくないけど。でもホットミルク位なら出せるってば。
「そういやさっき、なんて言ってたんだ?」
「あ?」
「ほら、一緒にすんなって言った後」
「あー…忘れた」
まあどうしても聞きたいってんなら、思い出してやらねえこともないけど。
なんだか歯切れの悪いサスケを抱き締めたまま、少し頭を退かせてその顔を不思議そうに眺めると、サスケが可笑しそうに切れ長の目元を緩ませた。
まあ、まずは家に入れろよ。
ぜんぶはその後で、な?