【Ⅱ】



「――…さま、火影様!」
控えめだけれど確かな声で、突然揺り起こされた。
見慣れない部屋に一瞬、どこにいるのかわからなくなる。
「ご用意ができましたが――もしやどこかお加減がすぐれませんか?」
覗き込まれる顔にも、あまり見覚えがなかった。ずれかけていた眼鏡を戻し見直してみても、やはりいつもの若い付き人ではない。初老の男だ。
「お加減などよろしくないに決まっているだろう、七代目に軽々しく触れるな、無礼者!」
ようやく耳慣れた声が割り込んできたかと思えば、先程までそっとオレを揺らしていた腕に触れられていた手は、若い付き人の手によってぞんざいに払われた。気遣いを弾き返すようなその態度に、除けられた男は気の毒な程萎縮している。
この若者は忍として非常に優秀だし、こんな老人にも骨身を惜しまず尽くしてくれる忠義者だが、その責任感の強さからか少々自分ひとりの意向で全てを仕切りたがるきらいがある。出自が里の名家である事も手伝っているのだろう。高慢な態度は何度注意しても時折出てきてしまう、彼の悪癖だ。
「いい、大丈夫だ。ありがとな」
そう言ってにこりと笑うと、オレは振り払われた男の肩に、今度は自分の方から手を触れた。……ようやく思い出した。彼は火舎の番男だ。
「心配かけちまって悪かったな。ここのところあまり頭を使う事もなかったから、なんだか文字を追っていたら妙に眠くなっちまったみてえだ」
かけっぱなしだった眼鏡を外しゆるゆると伝えれば、すかさず付き人がさっと手を差し伸べてきた。すっかり必需品になってしまった老眼鏡をその手に渡し、大振りなその椅子からゆっくりと立ち上がる。
甲斐甲斐しく手を貸そうとしてくる付き人を断って長年着古してきた羽織の裾を払うと、若者の視線が一瞬、テーブルに広げられたメモにさっとめぐらされた。さりげなく振った袖で、それを遮る。散らされているのはどれも他愛ない小さな紙片だったが、全てが彼の手によるものだった。毎回単語のような手紙しか寄越さなかったサスケだけれど、それでも数十年もかけて集めればそれも中々の量だ。
「これも一緒に。全て燃してくれ」
集めた紙片を収めていた小さな行李に戻し言えば、渡された火舎の男は恭しい仕草でそれを受け取った。黒い長衣を揺らし丁寧に礼をすると、こちらへと先に立ちドアの外を勧めてくる。
案内をされ行き着いた地下室にの台の上には、華美ではないが繊細な細工のされた白磁の盆と、そうして先程高台で感じたのとは違う強く香りを立ち上らせる香炉がひとつあった。周りには彼の娘とかつての同期でもある里の重鎮、そして彼の最後をその家族と一緒に看取った、たったひとりの愛弟子が静かに立っている。
「七代目様……」
オレの姿を見た途端、美しく成長した彼の忘れ形見は、さっと力なく掛けていた椅子から立ち上がった。きっともう、散々に泣き尽くしたのだろう。彼と同じ瞳を真っ赤に腫らし言うその背中を、オレの息子が静かに支えている。
鎮痛な面持ちではあるが優雅な佇まいで腰を折るその仕草に、背中まで長く伸びた黒髪がさらさらと流れた。幼い頃から知る勝気なくせに繊細だったこの少女。彼女も年を経てみれば、本当に誰もが息をのむほどの美女になった。子供の頃からの賢さはそのままに、小さく整った細面やほっそりして華奢なその体つきにも、全てに彼から受け継いた美質がしっかりと備わっている。
サクラちゃんは? 小さく尋ねると、ゆっくりとその人形のような顔が首を横にした。彼の体が炎に巻かれるという事実に、心が耐え切れなかったのだろう。葬儀のあと、限界だとばかりに気を失ってしまった彼の妻は、いまだ起き上がってこれないらしい。
どこかの土地で石を枕にのたれ死にだろ。いつか笑ってそう予言していた彼だけれど、結局はオレの宣言通り、里でやわらかな寝床に身を置いての最後となった。しかしそこにオレは関係していない。この黒髪の娘をはじめとした彼の家族が、それを許さなかったのだ。里で最も強く美しいふたりのくの一の手に掛かれば、流石の彼でも病床のベッドから抜け出す事は叶わなかったのだろう。
(ほらみろ、やっぱりぬくい布団の上で大往生じゃねえか)
肩を寄せ合い悲しみを持ち合うその人々に、彼がもう決して孤独なんかじゃない事を改めて思った。まあ、大往生というには少し違うかもしれないが。老年を迎えてから兄と同じ病をサスケが抱えたのは、それでも十二分に世界を歩き尽くした後である。
「どうする、術は親父が発動させるか?」
様々な感情は既に乗り越えたらしい。割り切った目でそう尋ねてくる息子に、オレは「ん、」と目を向けた。
こいつはこいつで、まるでオレの壮年時代の生き写しだ。無造作に伸ばされた髪(これはきっと師匠へのリスペクトに依るものだろう。息子は今でも根っからのサスケ信奉者である)すっかり旅に焼け小麦色になった肌だけは、デスクワークばかりに忙殺されていたオレとは違うところだけれど。
「いや、お前に頼む。お前の方が狙いが正確だろうし」
そう言って懐に持っていた小さなカートリッジタイプの巻物を渡す。指先程のそれはやはり息子にとっても懐かしいものらしく、ほんの僅かな苦笑いと共に置かれていた小手を腕に巻き、先ほどの巻物を装填した。まさかこれが、こんなところで役にたつ日がやってくるとは。あの頃のオレには到底想像していなかった事だ。

『骨まで全て、灰も残す事なく焼き尽くしてくれ』

最後の最後、最早死期が訪れるのはもう逃れられないという時に彼が望んだのは、自分の遺体を完全に消滅させる事だった。特に、その類まれなる左の目。クローンの技術が進む世界で、自分の体の情報が悪用される事だけは絶対に防がなくてはならないと、晩年の彼は考えたらしい。
灰まで? と困惑するオレに、あっけらかんと案を出したのはサスケ自身だった。
あれ、あの時の。術を封印できる装置。
あれ今でもひとつ位はどこかに残ってるだろ、あの中にオレの天照を仕込んでおけばいい。
「――よし。いつでも動かせるってばさ」
すっかり遠いものになっている記憶を辿りつつ装置を確かめると、息子は覚悟を決めるかのように深く息を吸った。
先程の火舎の男が、慎重な手付きで白磁の盆に掛けられていた覆い布を外す。
下から現れたのは、先程炎で一度焼き尽くされた彼その人の、小さく変わり果てた姿だった。わざわざ一度焼いて、骨の状態にしたのは、その肝心な黒い炎が、大変に小さいものしか用意できなかったからだ。サスケ自身のチャクラがかなり弱まっていたのもあるが、そもそも装置に対し術があまりに高度過ぎたのも、理由のひとつである。世の全てのものを昇華させられる黒炎は、人ひとりを焼く程のものになると逆にその小さな器に納まりきらず、器ごと焼いてしまったのだ。
何度やっても燃えてしまう巻物に、苦笑いを浮かべつつも、どこか愉快そうにしていた彼をまた思い出した。
その頃はまだなんとか外に出る事が叶った彼と、ボルトと三人で。どうにかその黒炎を小さな無機物の中へと納めようと、執務室の外の庭で大騒ぎしつつ、ああでもないこうでもないとやってみたのだった。
よくよく考えてみれば彼は自分で自分の身を焼く炎を準備していたわけだが、あまりにうまくいかない状況に振り回されるオレ達親子が笑えたのだろう。さらにオレ達はオレ達で大真面目な様子で瞬きで炎の微調整をする彼と、火傷と焦げ付きをいくつも作っては騒ぐ自分達が妙に可笑しくなってきてしまって、三人して馬鹿みたいに笑いながら、何枚もの上着を焼いては駄目にした。
去年の、終わり頃の話だ。
「それも? 燃やしちまうのか」
たぶん火影室でオレがいつも見ていたのを覚えているだろう。掛けられていた布を盆の中に丁寧に畳んで置き、次に行李の蓋を開けた番男に、中身に気がついた様子のシカマルが言った。きちんと手入れされ、糊がきかされた喪服は、老いて枯れた身体を威厳あるものに見せている。
ここの夫婦もまだまだ健在だ。木の葉きっての優秀な参謀であったシカマルも流石にだいぶ老いが見えてきたが、よく出来た女房の丁寧な気配りが行き届いている為か、老いてなおその佇まいにはピリリと背を張ったものがある。
「……一言だけでも、流石に三十年ともなれば量があるな」
行李の中で、かさかさと膨らむメモの集まり。それを見たシカマルは、ふと苦笑して言った。鷹の足に付けられてきたサスケからの書簡は、いつだってごく短かいものだった。どれだけ言っても、最後まで機械とは馴染まなかったのだ。
「いいのか、とっておかなくても」
そう尋ねてくるシカマルに、オレは「ああ、」と頷いた。一緒に燃やすまでもないようなこれをわざわざ持ってきたのは、或る事を実行するためだった。
正直、この状況下では簡単な事ではない。けれどたぶん、うまくやれるはずだ。
「――随分と、香がきついな」
ふと言って、漂う強い香りに何気なく咳き込みめば、え、と火舎の男が首を傾げた。少し、焚きすぎじゃねえか? 控え目にそう言ったオレに、はっとした様子の若人がまた火舎の男へ顔を向け、「窓は?」と質す。
「え? いえ、あの」
「少し部屋の空気を換えたい。換気口のようなものはないのか」
「ある事はありますが、でも今は――」
問われるがままに答えるも、おろおろと自分を制してくる火舎の男を無視して、若者は迷う事なく足を踏み出した。確かに、光を入れるためというよりも換気の為だけに存在しているのだろう。部屋の隅に小さく設けられた撥ね上げ式の鎧戸に、誰に断ることもなく善意の手が掛けられる。
ぎしりとそれが動かされれば、どこをどう通されているのか外からの冷たい空気が、地下にあるその床に静かに流れこんだ。
同時にさあっと沈黙する間を浚うように一迅の風が抜け、行李の中からつられるようにしてふわりと舞ってしまったてっぺんの小さな紙片に、ほんの一瞬、全員の目が釘付けになる。
「……馬鹿! なにしてんだお前は、わざわざ締め切っている意味がわからないのか!」
途端、シカマルの一喝が飛べば、驚いたかのように若者の手はぱっと引っ込められた。バタン! と自らの重みでそのまま落ちる窓。気不味い沈黙が漂う中、乗ろうとしていた風を失いひらひらと落ちていく紙片を、息子の手が宙にあるままにくしゃりと掴み取った。オレより僅かに青の濃い瞳が、じっとこちらを見る。
ふわ、と小さくそれに笑いかえしてやれば、黙ったままの息子は結局最後まで何も言わず、その手にあるものをオレに返してきた。
「あのなァ、秘密裏にやるって事の意味をだな……!」
そうやって説教を始めたシカマルに、じっと立ち尽くしている付き人は悔しげな様子だった。オレの妻の一族でもあり、オレの姻戚でもある彼は、シカマルに対してさえもその出自に自信をもっているのだ。そこに苦笑しつつ、まあまあ、と割って入る。

「――なあ、ちょっと」
 
なんとなくぬるい感じで事が終わりかけた中、ふと声を上げたのはオレの息子だった。これさ、やっぱり一緒には燃やさない方がいいかも。唐突にそんな事を言い出した我が子に、ちょっと(へえ、)と思いつつも素知らぬ振りで視線を向ける。
「なんでだってば?」
「いや、この忍具、術を出すとき結構勢いあるからさ」
「……」
「今みたいに燃やす時あちこちに紙が飛んじまうと、よくねえかなって」
一応それ、親父達のヒミツの手紙だしな! などとへらりと揶揄するような口調で言う息子に思わず口許が緩んだが、それをとどめオレは「じゃあ、」と振り返った。
「こちらはこちらで、別に燃やしてもらうか」
そう言って置かれていた行李を手に「サラダ、」と呼びかければ、すぐに理解したらしい彼の娘が何も問い返す事なく進み出る。
白く細い、彼によく似た指が滑らかに印を結び、ぷくりとそのほほが小さく膨らんだ。彼よりも幾分ふっくらとした唇は、紅も塗っていないのにやはりさえざえとした緋色だ。そこからふうっとごく静かな火焔が吹かれると、行李の中かさかさと積み重なっている紙の山に、鮮やかな炎がさあっと燃え広がる。
「――やっぱ、綺麗なもんだな。うちはの炎は」
ぱっと一度踊るように舞い上がってから、再びゆっくりと落下していく焔の粉に、感じ入った様子でシカマルが呟いた。見守る一同は、黙ってそれを聴いていた。サラダの創る炎も繊細で美しいけれど、サスケのそれはまた違うものだ。極めて赤く、純度の高い熱さをもっていたあの炎。
きっとオレと同じ事を考えているのだろう、忍具を構える彼の愛弟子も、何か想うような表情だ。
「じゃあ――いくってばさ」
そうして行李の中に残った、いくばくかの灰を白い盆に移すと、いよいよ息子の腕からカチリという装填の音がした。次いでごおっという押し殺したような唸りと共に、その手元から漆黒の炎が吹き出る。
狙いを外さずその盆の上に留まったそれは、あっという間にその白い骨に燃え移り、ちりちりとその形を失っていった。覆っていた絹の布も、灰になった紙片の残骸も、すべてが焼き尽くされる。
あっけないほど簡単に淡々と全てを燃やし終えると、黒炎は主の意志を継いでいるかのように、やがて静かにしぼんでは消えていった。
後に残ったのはまっしろなままの盆と、ものが燃えたあとのなんともいえない匂い。そうしてうっすらと燻る、穏やかな煙だけだ。
……パパ、と震える声で、黒髪の娘が小さく囁いた。
先程の鎮魂の香は、もしかしたらこの娘が焚いたものだったのかもしれない。
同じく黙ったまま唇を噛み締めるオレの息子の肩に、静かに吸い寄せられていくかのようにその白いかんばせが伏せられると、流れるその髪からは、また匂い紫が香った。


そうしてオレの世界は

 静かに

  ゆっくりと壊れだした。