まな板の上ごろりと寝かせたピーマンに、ざくり包丁を入れる。
ついさっき裏の畑で収穫されたばかりのその表面は、慣れない手つきであってもざくりと刃を受けると鮮やかな断面を見せ綺麗に割れた。
快晴の空の下、肉厚な断面からは苦み混じりの青々しさがぱっと立ち昇る。洗った時の水滴をそのままにする濃いグリーンの表皮はぴかぴかで、力強い張りに満ちていた。見惚れる程のそれを片手で抑え、たて続けにざくざくと包丁を入れる。形や大きさなんかは適当だ。そんなもの気にした所で誰も見てやいねえしというのが、前任の調理補助であった人物からの助言である。
「ピーマン終わりましたけど、次はどうしたらいいですかコレ?」
渡されたザル一杯のそれらを全て切り終え、斜め後ろの影に振り返り言う。いったい何時から設置されているのか、畑と駐車場が共存する庭の片隅、場違いな感じの存在感を堂々見せつけているのは、ビーチ用と思わしきカラフルな巨大パラソルだった。作られたその陰でクーラーボックスを覗き込むのは、ここの寮夫兼チームマネージャー兼監督の付き人である長門さんだ。皆は休みでもこの人にとってはむしろ、今日こそが繁忙日なのだろう。格好こそはポロシャツに膝下までのハーフパンツというラフなものだが、首にはスポーツタオルが巻かれ、肩までの髪も凛々しく後ろで括られている。
「ああ、終わった?」
「ハイ」
「じゃあ次は人参を短冊に切って、もやしはざっと洗うだけでいいからそこの大きなザルに。しめじは石ずきを切り落して、あとは手で適当な大きさに……」
「イシズキ?」
耳慣れない言葉につい動きを止めると、すぐに察したのだろう。屈めていた腰をゆっくり伸ばし上体を起こすと、長門さんは(…ああ、)と言った様子で微笑んだ。いしずきってのはね、きのこの根っこの部分の名前。いつも切り落してるだろう?にこやかな説明に(あっ、そっかアレのことか)と腑に落ちる。上げ然据え膳だった実家から、ここに来て3か月。少しは手伝いも出来るようになってきたとはいえ、まだまだ知らない言葉の方が断然多い。
『――八月も終わって、いよいよ来週にはシーズン開幕ですね。どう、仕上がりは上々?』
指示に従い同じくまな板横に置かれていた人参を手に取ると、感嘆の言葉と共に、少し離れた場所から女性の声が聴こえてくる。パラソルから数歩の位置、横付けされたワゴン車の後ろ、開け放された荷台でスマートフォン片手に腰掛け肩を寄せ合っているのは、同じホッケーチームの先輩達だ。
「くうぅ、やっぱ小南さん美人だよなあ!」
スマートフォンを覗き込むひとりの声に、うんうんと一同が頷く。もう数限りなくやっている事だから、たいした手間でもないのだろう。チームロゴの描かれたおんぼろワゴン車の手前には、先程この人達が準備したキャンプテーブルとジンギスカン用の鍋が、包丁を握るオレの支度を待っていた。そうして脇ではたっぷりの氷水で冷やされた何十本もの缶ビール。大雑把なブルーのポリバケツの中きんきんに冷やされたそれは、準備万端とばかりにプルタブを開けられるのを待っている。
「これで長門さんと同い年だろ?」
「らしいっスね」
「…奇跡だわ」
「奇跡ですよ。オレまじであの人に『いけない子ね』とか、いっぺん言われてみたいッス」
「わかる、あの目でさ、ちょっと睨まれたりしてなー!」
下世話な話題に、画面に映るその女性について男ばかりのその場はわっと色めき立つ。支度の終わらないオレと違い、慣れた様子でさっさと準備を終えた彼らが見ているのは、今日から配信開始されたインタビュー動画だった。普段からよく取材にきてくれるそのヒトは、東京にある出版社の記者さんだ。監督が昔教えていた大学のホッケーチームで、マネージャーをしていたという彼女。その時チームにいて、なおかつ同級生だったというのが長門さんだ。ふとそういえば後ろにいた気配がないのに気付き、辺りを見渡す。なにかを取りに行ったのか。つい先程までここにいた本人は、いつの間にやら姿を消している。
「おーい木ノ葉丸、手伝うかァ?」
聴こえてくるインタビューの合間、ワゴンに腰掛ける中のひとりから声がかかる。のんびりとした様子のそれに、一瞬顔を上げたオレは「や、大丈夫っす!」と返す。そうして再びまな板上の人参に挑み始めたオレに、ふうんといった様子で先輩は座り直す。テーブルやらコンロやらをセッティングするのは年長者、長門さんの補助をしつつ肉や野菜の準備を担当するのは一番年若い下っ端。それがこのチームでのバーベキューイベントにおける、なんとなくの伝統らしい。
「ホントにいいのか?」
「ホントにいいです」
「喋ってんのはお前の大好きな、ナルトセンパイだぞ?」
「知ってますってばコレ、ここにいても聴こえてるし。それにその動画、後からでも見れるんで」
返事をしつつ、置かれていた皮むき器で慎重に人参の皮を剥く。オレはこのピーラーというやつが苦手だ。するする剥け過ぎて、なんだかずるんとそのまま自分の手の皮までやってしまいそうな気がする。気がするだけで実際は、そんな惨事に陥った事ないんだけど。
『そうっすね、まあ』
『おお、余裕!さすが、脱ルーキー宣言した人は違いますね』
『へ?あっ…や、あれは別に、そーゆー変な意味じゃなくて!……んもう、まーたそうやってすぐに茶化すからな、小南サンは!』
「くっそ~ナルトのやつ、ずりぃよな自分だけ。小南さんとじゃれ合いやがってよ」
明るい笑い声のあがる映像に、ぼそぼそと先輩が溢す。なんであいつばっか美人が寄ってくるんだ。そんな言葉に、うん?と取り囲んでいた一同が発言者の先輩に注目した。
「……美人ってあれですか、前に来てた、あの?」
ひとりが話題を継ぐ。その言葉に(…ああ、)といった感じの感嘆とも納得ともつかない溜め息が、スマートフォンを囲む輪に気だるく漂った。各々の頭に浮かんだのは、たぶん間違いなく同じ記憶だ。いつもの練習場、夜のアイスアリーナに突如現れた、おそろしい程の美形。
研ぎ澄まされたそのまなざしは、まさに氷の女王とでもいうに相応しいもので、すっくと立つ高潔な佇まいは、高嶺で凛として咲く花のようだった。とはいえ、まあ実際は女王ではなくて、『王』と言った方が正確なのだけれど。入団から5年、プレーも振る舞いもすっかり落ち着いてきたうちのエースが、かの氷点下の美人にそれはもう首ったけであるというのは、チーム内では既に周知の事実である。
「アレか」
「アレだ」
「おお、ありゃ確かに凄かった。相当キツそうでもあったけどな」
「つーか完全にナルトのやつ、あの美形に骨抜きにされてんだろ。どーなってんだあれ、結局のところあいつらってやっぱそういう関係なのか?友達だって言い張ってるけどよ、どう見てもただの友達じゃねえだろ」
そこんとこどうなんだよ、木ノ葉丸ー!
いったん抜け出したと思われた話の輪にまた引き戻され、オレは「はっ…はい?」とぎくり顔を上げた。
うっ…やっぱきたかコレ。予想していた通りの状況にピーラーを持ったまま固まるオレに、じいっとワゴンの影で涼みつつスマホを囲む、筋肉質な男達の視線が容赦なく刺さる。
「えっ…な、なんでオレに?」
「いやだってお前、ナルトと今一番つるんでんだろ。引越しン時だって手伝い頼まれてたしさ、どうなんだアレ、お前から見てやっぱあいつらってそうなのか?」
そんな質問に、オレは(…来たな)とばかりにぐっと口を結んだ。指摘された通り、信奉する先輩に頼まれオレがふたりの引越しを手伝ったのは、先々週の事だ。
そうしてその骨抜きにされたうちのエースから、更に「…あのさ」と切り出されたのは、その引越し当日の朝の事である。
やっぱさ、お前には話しておこうと思うんだけど。
どうにもこの人は、『捨てる』という仕事が不得手らしい。借りてきた軽トラックに加え、後部座席まで段ボールでパンパンになった自家用車を駐車場に停め、新居に向かう道の途中、オレ達は市街地の大通り沿いにある全国チェーンのファミリーレストランで、休憩を兼ねた腹ごしらえをしていた。
朝早くからの荷積みを終え、気持ちよくモーニングセットを平らげた碧眼の横顔の向こうウィンドウ越し向かいに見えるのは、だいぶ見慣れてきた鳥のロゴマークだ。本州ではほぼ見掛ける事のないそのコンビニエンスストアのロゴは、八月の朝の光のなか翼を広げ、妙にぴかぴかと誇らしげであったのを覚えている。
「話?」
「ああ、…そうだ」
「なんすかそれ、そんな重い話ですか、コレ」
なにやら思い詰めたような空気に、ふと残っていたキャベツサラダをフォークで掬う手を止める。そんなオレに、こくりとその人は深く頷いた。この人……うずまきナルト先輩は、オレの憧れの人だ。今は昔、オレが高校生だった頃たまたま叔父に連れられ観に行った大学アイスホッケーの試合で、当時選手として出ていたこの人を見たことが、すべての始まりだった。
ぐんぐんと風を切るオレンジ、まるで自分の腕であるかのように操られる、自在なウッドスティック。あっという間に引き込まれた景色の中、爽快な音で放たれる真っ直ぐなシュートがネットに沈んだ瞬間、ぞくぞくとした興奮に全身が粟立った。圧倒的な熱狂に飲み込まれる中、自分もそこに飛び込もうと決めたのはもうその場での事だ。もちろん目指すはその、最初の試合で見たオレンジのユニフォーム一本だ。――とはいえ実際飛び込んでみた時、追いかけたかったその人は故障を理由に、卒業を待たずして既にチームを去っていた訳だけれど。あの時の悔しさは忘れられない。だから今年の春、その彼が在籍するこの北海道のチームが数年ぶりのトライアウトを実施すると聞いた時は、飛び上がるような嬉しさだった。チャンスというのは、タイミングを逃したらもう戻って来ない。そうして渾身のアタックの末、在籍していた関東のチームから、ついに移籍してきたオレである。
「えっ・な、なんでオレに?」
「いや、お前これからオレの新しい部屋に来るし。あいつにも会うからさ、やっぱ先に言っておいた方がいいかなって」
――あのさ、実は。
ふと上がる横顔。遠くをまっすぐに見つめる碧いまなざしに、思わずぎゅうと手に力が入り、持ったサンドウィッチがぐにゃりと形を曲げた。重々しく切られた口火に、な・何?と息を飲む。ふとまた店に響く呑気な来店チャイム。朝のファミレスはモーニングを求める客で、意外なほどに盛況だ。
「その、オレさ」
「は・はい」
「オレ、実は…」
「…? はい」
「実はオレさ、あいつ…サスケのことが、」
「はァ、サスケさんのことが」
「サスケのことが、すっ…す、」
「ス?酢?」
「じゃなくて、サスケのことが、す――好き、なんだってば!!!」
「は?」
………ごめん、知ってます。
「…あの、知ってます、それ」
あんまりにも真剣な雰囲気に、思った通り返す。けれどそれは当人にとっては完全に想定外だったらしい、「エッ?!」と振り向いたその顔は純粋な驚きで満ちていた。「うそっ…なんで?!」というその人に、はあ、と溜め息のような相槌を返す。
いやだって、見ての通りだから。こないだ練習観に来られてた時だって、先輩むちゃくちゃ張りきってたじゃないすか。
つらつらとそう述べると、今度は何故か慌てたかのように、先輩はぶんぶんと手を振り「あっ、違う違うそういうことじゃなくて!」などと言う。違う??
「そ、それは友達としてじゃん!?友達が来てもそうだろ、誰だって張りきるだろ!」
「まあ、そう?ですけど」
「オレが言いたいのはそういうんじゃねえの!その、そういう単なる友情だけの好きじゃなくて。ここだけの話、オレら実は、皆には内緒でこっそり付き合ってるんだってば」
「は…はァ、なるほど」
………すみません、だいたいそれも、知られてます。
「あのそれ、たぶんですけど……薄々みんな、気付いてます、コレ」
再びそう進言したオレに、ぐりんとこちらを向いた先輩はまたもや「エエエ!」と驚愕した。やはり想定外だったのか青い目がまんまるになっている。いや、エエエじゃなくてですね。
「ど、ど、どうして!?」
ぎゅうと手を握るそんな言葉に、いよいよ呆れオレは息をついた。どうしてもなにも、誰でも思うから。あなたあの人の前で、あんまりにも嬉しそうに、顔ゆるみすぎですからコレ。
「そんな、誰にも言わなかったのに…そんなに広まってる?」
「いや広まってるって言っても、チーム内でだけですけど。怪しいなって」
当人としては余程完璧だと思っていたのだろう。愕然とした様子でオレを見る青い目に、そろそろとオレは答えた。話題となっているのはとある男性だ。4月の練習の時招いて以来、月に一度の公開練習日には必ず姿を見せるようになった黒髪の麗人。
先輩の友人だというその人は、いつも忙しい時間を繰って来てくれているのかきちんとしたワイシャツに銀縁の眼鏡という仕事に向かうようなスタイルなのだけれど、彼が来ている時のこの人の張り切りよう・浮かれようときたら、それはもう毎回大変なものなのだった。まあそうでなくとも毎日、ちょっとコールが鳴っただけでいそいそとスマートフォンを手に自室に引き籠る様子を見ているだけでも、相当入れ込んでいるなというのはがんがん伝わってくる。
入団したばかりのオレは直接見ていないが、そもそもこの先輩は彼女が出来た時にも、かつてこれ程までに舞い上がったり熱心になったりする事はなかったらしい。翌日に女の子とのデートがあっても、誘われれば朝までチームの仲間たちの飲み会に付き合う。そういうタイプの男だったのだそうだ。それが今じゃ次の日あいつと約束しているからと、前日は早々九時には就寝する変わりようである。きょうび小学生だってもう少し夜更かしだろう。それに加え、かの麗人のあの美貌。怪しまれるのも当然といえば、当然の流れなのである。
「いっそ公表しちゃったらどうですか?別に誰も、今さら驚かないと思いますけど」
まあ大々的に広めるのはアレでも、チーム内くらいは。かちゃかちゃと食べ終えた朝セットのフォークとナイフを端に片付け、オレは言った。
「そもそもが先輩があの人のこと大好きなのは、知られまくってるわけだし」
「大好きって!――ま、まあ大好きだけど」
「同性だからどうこうってのも、そんな言う人いないんじゃないすかね。なんつーか、わりとこの世界には、少なくないっていうか」
「あー…まあ、それはオレだって聞いた事ないわけじゃねえけどさ……・」
うううん、といった感じで赤くなった顔が悩む。男所帯で四六時中いる事が多いせいか、高校でも大学でも男同士でどうしたという話は、わりにちょいちょい聞くことがあった。しかしそれでもやはり、彼らにとってこの件は、動かせない事案らしい。
――だめ、ぜったい。サスケが許さない。
一瞬きゅっと唇を結んだのち、なんだか標語のような禁止を唱える大真面目な顔に、うーん、そっか、そうなのかなあ、なんてぼんやり思う。まあ大学病院の先生だって言ってたしな、あの人。世間体みたいなのも気にしそうだし、見た目の通り性格の方も、なかなかに厳しいのだろう。
「怒るもんあいつ、即別居とか言い出しかねないし」
「はあ、なるほど」
「だから絶対、秘密にしたいんだってば。オレとサスケは友達。そりゃあ友達ってもなんつーか、ただの友達とかではないけど――でも肩書は一応『友達』で。仲はいいけどチューしたりエッチしたりとかはしないレベルの、そういう友達なんだってば!」
………そもそも友達はレベルに関わらず、チューしたりエッチしたりはしないんじゃないかな。
「ええと、それで……なんでそれを、今オレに話すんです?」
そろそろと言葉を返す。背景ではまた店のベルがピンポンピンポンと立て続けに鳴り、店にどやどやと何かの作業員らしい男たちが流れ込んでくるのが見えた。ふと食べ終えても長々場所を取ってしまい申しわけないなと思う。が、しかし話題が話題だ。すまなく思いつつもそのまま続ける。
「秘密にしたいんでしょ?」
「そう、秘密にしたい」
「ていうか前々から思ってたんですけど、先輩よくあの人落としましたね。普通なかなかいけませんよあんなの、綺麗すぎるし賢そうだしおっかなそうだし、どう考えても無謀だし命知らずでしょ。なにをどうやったら、ああいう人にいいよって言って貰えたんですか、コレ」
「……いやそれ、ちょっと言い過ぎじゃね?」
率直を口にしたオレに、少々気を悪くしたらしい。逆にきかれた質問に、先輩は目を眇めむうっと口を尖らせた。まあ確かに、最初はオレあいつからこてんぱんにされたけどさァ――と、話していた途中何かに気が付いたらしい。「あ、」といった感じで止められた口。それを更に「あ?」と繰り返したオレに、やがてニヤリと先輩は企むような笑いを見せる。な、なんですか、コレ。
「…なんすかその笑い」
「いやー、でもな木ノ葉丸。そうは言ってっけどお前だって、実はオレらの間ではある意味関係者のひとりなんだぜ?」
「関係者??」
「だってオレらの初デート、お前の試合だもん」
「へ?」
「東京に住んでいた頃さ。オレらふたりとも実は学生だったお前を、昔一度、一緒に見てるんだってばよ」
「…ええェ?!」
……な、なんかようやく新出の話キタと思ったら、まったく予測してなかったとこから攻めてきたぞコレェ……!!
驚きに声を無くすオレに、ニヤリと端を上げていた口元がふと緩む。何を思い出したのか先輩はそこで(クク)と眉を下げ、また小さく息を漏らした。
大きな手のひらがテーブルの上に出され、だいぶ冷めてしまったコーヒーカップを包む。中身を温め直すかのようなそんな仕草を前に、あんぐりと口を開けるオレのすぐ脇を、大きな水差しを持ったウェイトレスが一瞥をすることもなくさばさばと通り過ぎた。