Strawberry on the Shortcake 5

「――行くぞ」
掛けられた不機嫌そうな声に、オレは寄りかかっていた店の壁から身を起こした。午前4時、真冬の夜はまだまだ暗い。身を起こした瞬間に出された少し深い息が、白く煙って闇に溶けた。裏口から入ってきた店長と入れ替わりにオレが外に追い出されてからほんの僅かな時間しか経っていないが、むき出しになっている耳先は早くもじんと痛い。
手を掴んだまま必死で食い下がるオレに、観念したヤツが「ああもうわかった!半分貰えばいいんだろ、半分!」と自棄になったかのように言い捨ててから10分。ショートケーキの入ったレジ袋を手に、中にいる店長の目から逃げるように店の外で待っていたオレの前には、眼鏡の店長に引き継ぎを終えすっかり着替えも済ませたヤツが、ムスリとした顔で立っていた。着ているのは先日と同じ、グレーのパーカーに濃いネイビーのスタジアムジャンバーだ。糊のきいたユニフォームとはうって変わるラフなその格好に、なんだか一気に距離が近付いたようで心密かに盛り上がる。
「へ?行くって……」
「…………」
「どこに?」
「早くしろ」
オレの質問には完全無視で、スタジャンのポケットに手を突っ込んだままヤツは言った。
目をぱちくりさせるオレに一瞥だけ投げ捨て、ジーンズの足がさっさと歩き出す。
「えっ……あ、ちょ、待てってば!」
わからないままでも慌てて追いかければ、スラリとした後ろ姿にはすぐに追いつけた。指先に引っ掛けたレジ袋が足を進める度にガサガサいう。微妙に……怒っているのだろうか。一歩先を行くその横顔は足早に前に向かうばかりで、先程から一言も喋らない。
(――やっぱ、嫌だったのかな)
ていうか、そりゃ、嫌だよなあ……と改めてこの状況に至るまでの流れを思い返せば、だんまりを通す後ろ姿にも納得するしかなかった。いきなりやってきて大泣きした挙句、強引な約束まで取り付けて。しかも向こうは仕事明けだ。普段から深夜勤務で昼夜が逆転しているにしたって、心身共に疲れているのは間違いないだろう。
「えーと、その……し、仕事、お疲れさんな!お前ってばいつも、こんな時間まで働いてたんだな」
どうしよう、何か謝罪の言葉でも言った方がいいだろうかと悶々としつつ、宵闇の中スピードを落とさないままどんどん先を行く背中にオレは言った。こちらの歩調なんて全く考えてないのだろう。すんなりと伸びた長い足は、後ろを顧みることなく前にだけ向かっていく。
「なんつーか……やっぱ、悪ィな!ようやく仕事終わったとこなのに」
「……」
「……あの、そんで、これってばどこに向かってんの?」
「オレんちだ」
淡々と返された言葉に「えっ――お前んち!?」と声を高くすると、それにも取り合わないままのヤツが突然ピタリと足を止めた。大通りから少し入ったところにある、住宅街の一軒家。先触れのない行動に、「……ぅおっと!」と声を漏らしつつ慌ててオレも立ち止まる。「えっ、なに?」
「着いた」
「着いたって、ここ?」
「そう」
「あっ……上がっていいのかってば?」
「ああ」
「……ホントに!?」
「だってお前、ソレ今から食うんだろうが。こんな時間にどこで食うつもりだったんだ?」
思いがけずいきなり懐に入れてくれるような彼の行動に、「そ、そっか!それもそうだよな!」とオレはただ舞い上がるばかりだった。逆にそんな風に尋ねてくる向こうは、一緒に食べようと誘ったものの実際はそれをどう実践するかまで考えてなかったオレよりも、ずっと現実的だったらしい。俄かに浮かれ出すオレをほったらかしたまま、グレーのタイルで組まれたささやかな玄関ポーチに踏み込んでいく。
今更ながらに自分の無計画さを思い知りつつ急いでその背を追うと、追い付いた時、彼は丁度その手に持っていた鍵を玄関の鍵穴に差し込んだところだった。
「お前、あんなにしつこく誘ってきた癖に何も考えてなかったのか?」
ふと呆れ混じりに言われた確かめに、「……や!いやいやそんな事ないってばよ!?」とどうにか取り繕う。
「ちゃんとオレも考えてたし!ど、どっか食べんのにいい場所ないかなーって」
「……へえ」
「そ、それにやっぱイチゴお前にやろうとか、フォーク1本しかねえからお前に先食べて貰った方がいいよなとか!ちゃんと考えて……」
「そんな気遣いは必要ない」
――それにそもそもオレはそれ、食わねえし。
あっさりと付け足された一言に、思わずにやけていた頬が固まった。
「ふぇ?」と漏れ出た変な声にも、一糸乱れぬままのクールフェイスは何も言わないまま見ているだけだ。
「へ?食わねえの?」
「食わない」
「……でもさっき半分貰うって」
「だってお前しつこかったから。けど別にオレと分ける必要無いだろ、そもそもオレは頼まれたってそんなの食いたくねえって、最初からずっと言ってるだろうが」
だから、食いたい奴同士で分けあって食えよ。元はといえば、お前の方が譲ってもらった立場なんだから。
興味を失ったかのようにオレから目を離し、鍵を操る手元に視線を落としたヤツは素っ気なくそう告げた。食いたい奴同士?と首を捻ったところで、ガチャリと鍵のシリンダーが回る。
「あぁ、ちなみにオレまだお前にソレ譲ったの、あいつに伝えてねえから」
「は?」
「……ったく、どいつもこいつもケーキケーキって。まあどうせここまで来ちまったんだから、お前自分であいつにしっかり謝れよ」
あいつ??と訳がわからないままでいたオレだけれど、そんなオレを放置したまま彼は鈍く光るドアノブに手を掛けた。焦げ茶色の扉は仰々しくはないが質はいいものを使っているのだろう。重たげな音を軋ませて、ゆっくりとその扉は開かれる。
「――ただいま」
午前四時半という時間を考慮してだろうか。帰宅を報せる彼の声は、低く抑えたものだった。
卵色の玄関灯がタイルにやわらかな影を落とす。扉が開かれると同時に、中からコーヒーの豊かな匂いと共に、穏やかな声が聴こえてくる。

「おかえりサスケ。いいタイミングで帰ってきたな、ちょうど今コーヒーがはいったところだ」

お前も飲むだろう?と言いながら奥から現れたのは、美男美女で溢れかえる芸能界に身を置くオレでも、ちょっと驚く程美麗な若い男の人だった。
痩せた体はすらりと高い。整った顔立ちは知っているものに似通っているが、そこに浮かぶ柔和な表情は、鉄面皮のままカウンターにいつも立っているヤツとは正反対だ。
玄関までやって来たその人物はニコニコしながら「で。頼んだものは?」と訊ねると、そこでようやく後ろの暗がりにいるオレに気が付いたらしかった。
アイツと同じまっくろな瞳が、ぱちくりとしばたく。挨拶しなきゃと咄嗟に思ったのだけれど、時間が時間なだけになんと言ったらいいのかわからなかった。業界ではいつだって、現場は「おはよーございます」で通せてるんだけど……でも流石にここでそれを出すのはやっぱちょっと違うよな、というかこんな時間にこの人は、どうしてこんなにもしっかりと起きているのだろう。
弱りつつも取り敢えず「ど、どうも」と頭を下げると、さらりと長い髪を肩に流したその人は途端に何もかもを了解したかのように、ゆっくりと目をまたたいた。
そうしてからドギマギと恐縮するオレに向け、たった一言、

「……やあ、いらっしゃい」

と微笑んだ。

  * * *

「なんだ、そういう事ならオレはいいよ。君が全部食べたらいい」
ここに至るまでの大まかな事情(勿論オレが泣いた事は省略したが、点灯式の話は行きがかり上せざるを得なかった)を説明すると、コンビニ店員・うちはサスケの兄だと名乗るその人物は、あっさりとケーキを譲る事を快諾してくれた。ヒーターで温められた、小さなダイニングルーム。置かれたマグカップからはたっぷりとした湯気が立ち昇り、テーブルの上にはまだパックに入ったままのショートケーキがすましたように乗っている。
「別にオレはショートケーキに思い入れがあって頼んだわけじゃないし」
「……ハァ、」
「というか、本来ならちゃんと代金を払って買うべき所を、従業員特権に甘えてしまっていたのもいけなかったんだ。廃棄分とはいえこの場合であれば、きちんと財布を持って買いに行った君が食べるべきだろう」
「や、でも先にこれ取り置きしてたのはお兄さんの方だし。……っていうかこんな時間に押し掛けておいて、オレひとりでコレ食うってのもちょっと……」
勧められるがままに椅子に腰掛けて、先程からオレは、正直結構困っていた。そもそもがオレはケーキを分けっこしたかったワケじゃなくて、ただ単にあの謎のコンビニ店員とまだもう少し話してみたかっただけで。しかもその当人であるヤツは家に帰ってきたらすぐに、何の説明もしないままさっさと細い階段を使い二階へと行ってしまった。(えっ、なにそれいきなりオレ置いてくの!?)と衝撃に固まるオレにお兄さんは大変おおらかに接してくれたしケーキも譲ってくれると言うのだけれど、初対面でその上本来だったらその人の食べる筈だったケーキを目の前でひとり平らげるなんて芸当、普通なら誰だってできないだろう。
そんなわけでさっきからオレ達はひとしきり「どうぞどうぞ」とやりあっているのだけれど、決着は一向につきそうもなかった。それにしてもこのお兄さんだという人は、本当に優しそうな人だ。弟である彼よりもワントーン低い声にも、穏やかな人柄がにじみ出ている。「…………なんだ、まだやってんのかよ」
いつの間に戻ってきたのだろう。
不意に掛けられた声に振り向くと、そこには上着だけを脱いであとは先程と同じ格好のままのヤツが、呆れ顔で立っていた。左の手に引っ掛けてるのは畳まれた服だ。どうやら着替えを取りに上へ行っていたらしい。
「馬鹿馬鹿しい。二人共なにかしこまってんだ」
「えっ、いや……あの」
「いいからさっさと分けて食っちまえ」
言いながら、飾らない仕草でオレ達の座るダイニングテーブルの横を通っていったヤツはキッチンに入ると、なにやらカチャカチャと音を立て始めた。目的はすぐに果たせたのだろう、戻ってきた手には使い込まれた包丁がひとつ握られている。
ポカンとしたまま声も出せないでいると、そんなオレ達をよそにヤツはパックされたケーキの蓋を、片手で器用に外してしまった。
そうしてから見守るオレ達に何の断りもなく、ズドンとその甘く白い三角形に包丁の刃が入れられる。

「――ああっ!ちょっ、オマ……!」
「これでいいだろ」
「いいだろって、もうちょい丁寧に切れってば!」

情緒も迷いもないその切り方に思わずあんぐりと口が開いたが、本人は全く気にしてないようだった。「なんだよ、丁寧だろ?綺麗に等分されてんじゃねえか」などといけしゃあしゃあと言い切るその顔にも、余裕こそあれ悪びれる様子は微塵もない。
「じゃあオレ、風呂入ってくるから」
素っ気なく言い残すと、着替えを抱えたヤツはまたさっさと部屋の外へと行ってしまった。
「コーヒー冷めるぞ」というついでのような一言が、静まり返ったダイニングに、適当に転がされる。
(な、なんだそれえ~……やっぱ放置かよ!?)
絶句するオレに、テーブルを挟んだ向かい側から「ぷっ」と小さく吹き出す気配がした。
ハッとして前を向くと、彼とよく似たつくりの美形がいかにも可笑しげにくつくつと笑っている。
「えっ……あ、あの……?」
「――あ?あぁ、すまない……なんだか可笑しくて」
「おかしい?」
「あれ一応あいつなりに、気を利かせたつもりなんだ。わかりにくいかもしれないけど」言いながら、お兄さんはなめらかな動きで椅子から立ち上がると、先程弟がガチャガチャとなにやら引っ掻き回していたキッチンで再び音を立てだした。小皿二つとケーキフォークを手に帰ってきたその顔は、どういう訳かやけに嬉しげだ。
「じゃあ晴れて二等分になったことだし、半分ずついただくとしようか」
歌うように言いながらパックからケーキを小皿に動かすお兄さんに倣い、オレも貸してもらった小皿に自分の取り分をもらった。やり方は雑としか言い様がなかったけれど、確かにきっちり等分だ……さすがに一刀両断されたイチゴはちょっとクリームにめり込んでるけど。
複雑な思いを抱きつつもフォークを手に細くなった三角形を見下ろしていると、向かいに座るお兄さんが「いただきます」と律儀に手を合わせるのが聞こえた。慌ててオレも同じように手を合わせ、「……いただきます!」と急ぎ言う。
そんなオレに、やわらかな瞳がまた楽しげに細められた。半分にされたケーキは、勿体つけても5口もかからず完食出来てしまいそうだ。一番尖った部分をさくりと切り取り、フォークで刺して口に入れる。
(……んん、やっぱこの味だってば)
口いっぱいに広がるミルキーな甘さに、ついほっぺたがふにゃりと落ちた。舌の上でクリームが溶け、ほろろとスポンジが崩れていく。シンプルかつ素直なミルクの風味は、なんといってもこのケーキならではのものだ。日持ちするチーズケーキやお高いガトーショコラには出せない、単純明快なこの美味しさ。
「おいしそうに食べるなあ、君は」
うっとりするオレに、感心したかのようにお兄さんが言った。そうは言っているけれども、この人も多分かなりの甘党の筈だ。だって皿の上のケーキはもう半分以上が無くなっているし、なによりその整った顔に浮かぶシアワセそうな緩みが、言葉以上に嗜好を語っている。
「…………そういえば、」
望んでいた通りの味わいにうっとりしていると、テーブルを挟んだ向かい側から、ふとそんな気遣わしげな声が聞こえてきた。
先日はうちの弟が、失礼をしてしまったようで。
ほんのり眉をひそめ言われた言葉に、ひと月前の初対面を思い出す。
「……ああ、最初の?」
「なにやら大勢の人の前で、君の顔を潰すような事を言ってしまったとか」
先程までの様子から一転してすまなさそうにするその人の声には、どこか同情するような響きがあった。「あー……まあ、そうっすね……」と曖昧に濁すオレに、優美な眉がますますしなる。
「申し訳ない……本人としては、そんな気はまったく無いんだが。どうも男所帯で育ったせいか、あいつは言葉の選び方や気の使い方がもうひとつで」
言われた言葉に「男所帯?」と首を傾げると、お兄さんはゆっくりとまた穏やかな笑顔になった。うちは父子家庭でね。母はサスケがまだ本当に小さかった頃に、病で亡くなっているものだから。
「あっ――そうだったん、です、か……」
意図した訳ではないけれど、なんとなく立ち入ってはいけない部分に入り込んでしまったようで、肩を竦めたオレは椅子の上でモソモソと小さくなった。そんなオレに、お兄さんは本当に何気ない口調で「……ああ、別に隠すような話でもないから。気にしないで」とさらりと言う。
「だからって、それが理由だというわけではないんだが……サスケはどうも小さい頃から、愛想がないというか、やる事がぶっきらぼうというか」
「……はあ、」
「なにしろわかりにくいんだ。本当は相手の事を思っての行動なのに、口から出る言葉は率直過ぎて、結局は全く逆の意味に取られてしまったり」
「や、けどだいじょぶですってば。オレもう、ちゃんと聞いてわかってるし」
笑って答えると、ヤツと同じまっくろな瞳が見張られた。「聞いたって、誰から?」と尋ねてくる声にも半信半疑のような色が滲んでいる。
「?……本人からですけど」
「あいつが?」
「お兄さんから注意されたって、言ってましたってば」
だからもうその件は、と言い足すと、今度こそ本当にお兄さんは驚きつつも納得したらしかった。いつの間にか食べ終えられていた皿にケーキフォークを置くと、「へえ、そうか……あいつがなぁ」感心したような溜息をつく。
「どんな顔して言ってた?」
身を乗り出して訊いてくるお兄さんは、なんだか妙に楽しそうだった。
うーん、と首を傾げ、出されたマグに口を付ける。
何気なく一口啜ってみると、それはちょっと驚く程に美味しいものだった。これ多分、豆からきちんと挽いて、手順を省かず淹れられたものだ。以前何かの番組で喫茶の名店を訪れた時、これとよく似たものを振舞われたのを覚えている。……ああ、だから『コーヒー冷めるぞ』だったのか。もしかしたらさっさと自分だけお風呂に行ってしまったのも、これをオレに譲るためだったのかもしれない。
「…………バツが悪そう、だったかなァ」
先程、蛍光灯の白じろとした灯りの下で見た憮然顔を思い出しつつ、オレは言った。じっとオレを見詰めて聞くお兄さんは、やっぱりどこか楽しげだ。
「へえ、」
「でも全体的にムスッとしてましたってば。あと『オレは間違った事言ってない』とか言ってたし」
「ああ、……いかにも言いそうな事だ」
くつくつとまた喉の奥を鳴らして、お兄さんは言った。黒いセーターに包まれた肩がゆったりと引かれ、椅子の背に凭れる。
「でも凄いぞ、サスケが自分の非を認めるなんて滅多にないからな」
「そうなんスか」
「そうだとも。大体があの店であった事を、家で話したのも初めてだからな。まあたまたま皆で見ていたドラマに君が出ているのを見て、その流れから話を聞くことになって……というか、サスケが君をうちに連れてきたのも、その時出た話のせいだとオレは最初思っていたんだが」
「へ?」
「いや、実はうちにひとり、是非とも君と……」
「――おい、なにヒトの事勝手に話題にしてんだ」
話し込むオレ達の後ろから待ったをかけたのは、他でもない噂の本人だった。濡れた頭にタオルを被ったまま、不機嫌そうな顔がこちらを睨んでいる。湯上りでまだ暑いのだろう、部屋着らしきスウェットは下はしっかりと履かれていたが、上はまだ肌着のような薄いシャツ一枚だった。見たいような、でも見てしまったらもう後に引けないような。濡れ髪の掛かる首筋やいつになく上気する頬に、煽られた奇妙な葛藤がオレの視線を泳がせる。
「湯冷めするぞサスケ、上着を着なさい」
薄着でいる弟が気にかかったのだろう。兄らしい少し上からの物言いに、ヤツは面倒そうに「わかってるって」と返しながら、どすんとお兄さんの隣で空いていた椅子に座ってきた。頭を覆うタオルがわしわしといい加減に使われる度、漂うコーヒーの匂いに柑橘系のシャンプーの香りが混じる。隣からもう一度「サスケ、」と咎めるように言われると、ようやくヤツはちょっと顔をしかめつつも、手に持っていたスウェットの上らしきトレーナーをすぽんと頭から被った。なんだかんだ言いつつも、兄の言う事には一応ちゃんと従うらしい。
「お前なァ、こんなとこまで来て余計な事言ってんじゃねえよ。ケーキだってもう食い終わったんなら、タクシー呼んでとっとと帰れ。今日仕事あるんだろうが」
綺麗になった皿を前に、すっかり緊張も取れて寛ぎ始めていたオレを見ると、トレーナーの袖に腕を通したヤツはいつもの憮然顔で言った。相変わらずのセリフに一瞬グサリときたが、言葉の意味をよくよく吟味してみれば、そんなにももう傷つくことはない。うん……前半はまあ知られたくない事をこっそり告げられた腹いせ混じりであるだろうけれど、後半の方は一応オレのスケジュールを気遣ってくれたのだろう……多分。まあそうであっても、勝手に自分を話題にされていたのが面白くないというのも、偽り無い事実のようだ。よし、オレもだいぶコイツの扱う言語に慣れてきたぞ。コツさえ掴めば結構すんなり変換できるものだ。あのコンビニの他のスタッフ達も、日々こうしながらコイツと接しているのだろう。
「仕事……は、まあ確かにあるけど。でも午後からだし」
せっかくの機会を無駄にしたくなくて、オレはもそもそと言い返した。昼前に出れば充分間に合うから、という言葉に、濡れた前髪の隙間から眇めた目がこちらを見る。
「昼前って、オレだって今日は昼にはまた店行かなきゃなんねえんだよ」
「あっ、じゃあ一緒に……」
「馬鹿、オレは今から寝るんだ。てめえの相手なんかしてられるか」
やはりこの場でも一刀両断な返しに(ぐぬぬ)と奥歯を噛みつつも、オレはそれでもやっぱり帰りたく無かった。だってまだコイツの連絡先とかも全然聞けてないし……聞いたとしても教えてもらえる確率は相当低そうではあるけれど。でもせめて、あともう少し位ユニフォームを着ていないこいつと喋ってみたい。立ち入ってくるなという気配はムンムン感じはするけれど、でもやっぱりなんでこんなプライドの高そうなコイツが、あのオカマのオーナーから借金の担保代わりに身売りなんかしてんのかどうしても気になる。いや本当にオカマかどうかは知らないけど。
「け……けどまだコーヒーも飲み終わってないし!お兄さんとももうちょい話したいし!」当たって砕けろの精神で、オレは再度チャレンジしてみた。
ごしごしといい加減に髪を拭くヤツは、いつにも増してなんだかとても不機嫌そうだ。「どうせ話すったって要らん事喋るだけだろうが。このおしゃべりめ」
「だってお兄さんから聞かれたからさ……」
「人のせいにすんな。それにイタチだってこれからは寝る時間なんだ」
「ええ~……そうなの?せっかく楽しく話せてたのに」
「だからなんだ、用はもう済んだだろうが。つかお前なんなんだよその『お兄さん』て、キモい呼び方すんな」
「へ?お兄さんはお兄さんだろ?」
「イタチはオレの兄貴であって、てめえの兄貴じゃねえよ」
「……は?」
「いいからもう帰れ。これ以上馴れ馴れしくしてくんな」
「……なにお前、もしかして……妬いてんの?」
おそるおそるながらもつい言ってしまった当て推量は、多少なりとも図星を得ていたようだった。途端、髪を拭くタオルに半分隠された白い顔が、パッと赤くなる。……なるほど、こいつかなりのお兄ちゃん子と見た。形だけはつっけんどんとしていても、内心この優しいお兄さんの事が好きで好きで、独り占めしたくて堪らないのだろう。
「ばっ……んなわけねえだろが!お前オレに喧嘩売ってんのかいい加減にしろよ!」というタオルを握りしめての唸り声も、心なしかいつもの傲岸さが薄れているようだった。
ひとり話の中心人物のはずなのに何故か蚊帳の外扱いになっているお兄さんだけが、ニコニコとしたまま悠々とマグに口を付けている。空になった小皿に置かれた銀のケーキフォークが、明るく灯されたダイニングの光を受け、ぴかぴかとその身を輝かせていた


「――…あああもォ、うるっせえっての!!こんな夜明け前から何なんだよお前ら、やかましくて寝てらんねえだろうが!」


ばん!というドアを叩きつけるような音と共に突然二階から降ってきた大音量に、顔を見合わせていたオレ達は、びくりと揃って肩を跳ね上げた。ドッドッドッという明らかに不穏なイメージを漂わせた足音が迷う事なく階段を降りてくる。やがて後ろにあるダイニングルームの扉が勢いよく開けられると、また新たな男性がひとり姿を現した。先ほどの怒声を聞くまでもなく、つい今しがたまで寝ていたのだろう。短く刈り上げられた黒髪は、片側だけが変にぺしゃんこになっている。

「っとによォ、いいかオレは兎も角カカシはなァ、年だからもうただでさえ朝早くから目が覚めちまうんだよ!年寄りの朝は早いんだよ!」

だから静かにしといてやんなきゃ、貴重な睡眠時間が……!と言いかけたところで、ピタリとその人は動きを止めた。まんまるになったふたつの瞳。それはオレの目の前に座る兄弟と、まさしくよく似た切れ長の黒だ。

「……そーよ、それにオビトだって最近血圧高いせいで、朝起きちゃうといきなり目が冴えちゃって二度寝とか出来ないんだから。もちろんオレはまだ全然そんなんじゃないけどね。でもカワイソウでしょ、寝かしてあげなきゃ」

どうやら二階で休んでいたのは、一人ではなかったらしい。
とん、とん、と落ち着いた音と共に降りてきたもうひとりの男の人は、今度は全く違う印象の人だった。プラチナシルバーというのだろうか、色を抜いているのか若白髪なのか、黒髪だらけのこの家の中でその頭は一際目立つ銀髪だ。しゅっと伸びた長身は驚く程高く、普通にしていてもダイニングのドア枠に頭がぶつかりそうだった。やっぱりほんの少し、全体的な色素が薄いのだろうか。とろんと目尻の落ちたその瞳は、横にいる短髪の人のようなぬばたまの黒ではなく、僅かに灰がかった淡い黒だ。
やってきたその人は微動だにしなくなった短髪の人の横に来ると、やっぱりオレを見てぱちくりと目をしばたいた。……よくわからないのだけれど、この人達ってかなりの仲良しなのだろうか?顔立ちや雰囲気は正反対な印象だけれど、着ているのは多分同じ量販店で買ったと思わしき、お揃いのスウェットだ。
全員が静止してしまった部屋に、コチコチという壁時計の音だけがのんきに時を刻んだ。
まだ夜も明けぬ午前5時の街の空に、半分寝ぼけたような犬の遠吠えが、いまいち締まらない余韻を伸ばして長く響くのが聞こえた。