Strawberry on the Shortcake 6

早朝のダイニングルームにいるオレの存在は、二階から降りてきた彼等を相当驚かせたらしかった。
特にそれが顕著だったのが、短髪の方の人だ。黒々と大きく見張られた瞳は文字通り完全にまばたきを忘れ、閉じられないらしい唇はアワアワとさっきからずっと言葉を出せないでいる。

「……おいカカシ、オレぁ今、夢見てんのか?」

舌がうまく回らないのだろうか。少し籠ったような感じの声でそう言うと、やっぱりこちらも震えが止まらないらしい手で短髪の人は隣にいる銀髪の人の肩を掴んだ。会話から察するに、こっちの人の名前は『カカシ』らしい。という事はこの短髪の人の方が『オビト』なのだろう。
「あそこにいんのって『うずまきナルト』だよな?」
「……うん、たぶんね」
「マジか……!オレの青春のマドンナうずまきクシナちゃんの息子か!?」
「そうなんじゃない?」
うおおおお!やっぱそうかー!!と椅子に座るオレを前に短髪の人は喜色満面な雄叫びをあげたが、何故か突然ハッと気がついたかのように真顔になるとはじかれたかのように横を向き、「おいカカシィ!」という大声と共に再びがしっと横にいる相方の広い肩を両手で抑えるようにして掴んだ。予測不能な動きにギョッとしたオレだったが、カカシと呼ばれた方の人は慣れているのか特に気にした様子もない。寝ぼけたような顔で「ん?」と平静に返すと、ずいっとそこに短髪の方が顔を近ずけた。
「……なによ?」
「お前オレを殴れ」
「はー?」
「もしもこれ夢だったら後で悲しすぎンだろォ!先に夢じゃないって証明してくれ!」
さあ!とオビトとかいう人は相手の肩を掴んだまま頬を突き出し待ち構えたが、「ふうん?」と返したカカシという人が間髪入れず打ち込んだのは何故か差し出された頬ではなく、ノーガードな胴部分への鋭いボディーブローだった。
「ウグ……ッ!!」と本気の呻きを吐きながら目を見開いて、オビトと呼ばれた人は混乱と驚愕が一緒くたになったような表情で体を折る。

「おま……っ……なんっ……!!?」
「ん?だって殴れって」
「顔出してんだから普通頬だろがぁ……なんでわざわざ腹狙うんだよ!」
「見えない場所の方がいいかと思って」

不安なようならもう一発いっとく?としれっと答える相方に、
「バカカシ、おま、まじ、覚えとけよ……!」
というダイイングメッセージのような言葉を残し、短髪の人はずるずると壁にもたれながらそのまま崩れ落ちた。
コーヒーのお代わりを準備してくれていたのだろうか。知らぬ間に火にかけられていたらしいケトルが、舞台終了の合図でも告げるかのように、台所で「ピーッ」とけたたましく笛を鳴らしだした。

  * * *

並んだ二人は、やはり見た目からしてもどうも正反対なタイプのようだった。
片や黒髪、片や銀髪。喜怒哀楽がはっきりしているのは黒髪の方で、銀髪の方の人はとろんとしたタレ目でいかにも穏やかそうだけれど、全体的に飄々としてとらえどころがない。「こちらがオビトさんで、隣の方ははたけカカシさん。オビトさんはオレ達の叔父にあたる人でね、もともとこの家もオビトさんが所有していたものなんだけど、故あって去年からオレ達も一緒に住まわせて貰ってるんだ」
紹介を買って出てくれたのはお兄さんだった。やはり先程ピーピーと人を呼んでいたケトルは、彼が火にかけていたものらしい。人数が増え満員になったダイニングテーブルの上では、先程お兄さんの手で新たに淹れ直されたコーヒーが、人数分のマグに入れられてホカホカと湯気を立てている。
「……はあ、叔父さん、ですか……」
「うん。一昨年他界した、父方のね」
「? じゃあはたけサンてのは……」
「おーっとォ!あのな、最初にいっとくけどなあ、オレらこんな格好してるけどホモじゃねーから!男夫婦とかじゃねーからな!」
先程からついついそのお揃いの格好にオレが気を引かれているのに、向こうも気がついていたのだろう。カーキ色のトレーナーの胸元をぎゅっと握りつつ、オビトさんが言った。「コイツはただの幼馴染!それだけだし!」と必死そうな彼に反して、気だるそうに頬杖をつくカカシさんの方は、やっぱり力の込もる弁明にもどこか他人事のようだ。
「これはアレだ、カカシがうちに住むようになった時、共通の友人から贈られた餞別というか!」
「あ、そうなんすか」
「そーだよ!オレだってコイツとペアルックなんて、ホントは死ぬほどっ……嫌だっ……けど!!でもしょーがねェだろーが、リンがくれたんだから!あの笑顔で『これ着て仲良く暮らしてね(ハアト』とか言われたら、嫌でも着るしかねえだろがこんチクショウがァ……!」
一気にそうまくし立てたオビトさんは、そこまで言い切ると忘れていた息継ぎを取り戻すかのように、大きく肩を上下させて深呼吸をした。……なんだかよくわからないけれど、取り敢えずこのペアルックは仲良しの証拠という訳ではないらしい。でも不本意でもちゃっかり着ている上、同じ屋根の下で暮らしているのならば、たとえ友人だったとしてもかなり親しい間柄だと言ってもいいんじゃないだろうか。
「――ねえでもさァ、考えてみたらリンとは全然違うタイプだよね、お前のマドンナって」話の切れ目を伺っていたのだろうか。一瞬訪れた静けさに投げ込むかのように、息巻くオビトさんの隣でそれまでずっと黙っていたカカシさんが、のんびりと呟いた。
「マドンナって?」
「んー?だから、君のお母さん」
「へ?」
「コイツね、昔から『うずまきクシナ』さんの熱烈なファンなのよ。だからサスケからバイト先に君が来てたって聞いた時、なんで撮影中に教えてくれなかったんだってこの前大騒ぎしてね」
茫洋とした口調で語られた話は、どうやらその、オレが先日出演していた3夜連続のドラマを見ていた時の話らしかった。皆で晩御飯を食べている最中、オレの出演しているシーンの時ヤツがポツリと「こいつ先週までうちの店に来てたぞ」と零したのが発端らしい。
「わざわざ喋るような話でもないからな、別に」
愛想なく、ヤツは言った。綺麗な口先でふうっと吹かれるマグに、ゆらゆらとした湯気が流れていく。
そんな甥を一瞬恨めしげに睨み、オビトさんは言う。
「そりゃタイプ違うけど、それはそれこれはこれなんだって」
「ふーん?」
「そりゃあ見た目だって好きだけど、オレは何より、彼女のあの仕事に対するガッツみたいなのに一番惚れ込んでんの。ドラマもいいけど、やっぱ映画な!やっぱさ、一番好きなのは『あの愛の物語』なんだけど。でも『報道誘拐』も良かったし『道程』もスゲー好きでさ!それから……」
熱心なファンというのはどうやら本当らしく、そこからつらつら続けて出される作品名を聞いていても、その本気度が伺えてきた。どうやらほんのチョイ役でしか出ていないような作品まで網羅しているらしい。オレも母親の出た作品は全て観ているが、そんなオレとしても感服するほどの情報量だ。
「あとなあとな、今のスリム体型もそりゃ綺麗なんだけどさ、もうね、若い頃のクシナちゃんの可愛さときたらさ!」
「はァ」
「あのちょっとふよっとした感じのほっぺたとか、むちっとした脚とか!ホント、目茶苦茶好きでさあ、オレずっと部屋に雑誌の綴じ込みだったピンナップ貼ってたんだぜ!」
うっとりと語られる内容はなんとなく息子としては微妙なものであったけれど、それでも一応「アリガトゴザイマス」とオレは言っといた。まあ……これも時々言われる事だ。今は演技派女優である母は、デビューしたての頃は青年誌のグラビアアイドルだった。オレから見ても当時の母は、中々に肉感的で可愛らしかったと思う。若干複雑だけど。
「いやーでもあれだわ、グラドルだった頃のクシナちゃんも捨てがたいけど、でもやっぱ女優としては結婚してからの方が絶対いいよな!」
そんな感じでオビトさんはまだまだ語るぜといった風に腕組みしつつ、どしりと椅子に構えていたが、ふと語調を変えるとしみじみと言った。
「あのクシナちゃんがあそこまでイイ女になるなんてさァ、あの当時は誰も思わなかったよね」
「そうスか?」
「そーだって!結婚しますって聞いた時はぶっちゃけオレマジ泣きしたもんだけどよ。でもいい縁だったんだな、ホント。デビューからウン十年のクシナちゃんが今もあんだけ女っぷりがいいのも、オメーんとこの親父さんのお陰だろ」
ファンとして礼を言うわ、ありがとな!と突然言われ、ちょっと驚いたオレは慌てて手にしていたマグを置いた。「いやっ……その、父ちゃんに伝えときます」とギクシャク返した答えに、ニカリとオビトさんが破顔する。なんというか……裏表の、ない人だ。ちょっとあけすけ過ぎるような所もあるけれど、話していて気持ちがいい。

「でさ、そのオビトの話はいいんだけど。どうしてその芸能一家の大事な一人息子さんがこんな時間にこんなとこにいるの?サスケのコンビニでの撮影ってもうとっくに終わってるんでしょ?」

永久に続くかと思われていたオビトさんの『オレのマドンナ論』であったが、一区切りを打ったのは横にいるカカシさんからのそんな一言だった。ぼやっとした感じの口調だけど、絶妙なタイミングだ。やっぱりこの人達ってかなりいいコンビなんじゃないだろうか。
そりゃもちろん、サスケがオレの頼みをきいて段取りつけてくれたんだろ?と当然のようにするオビトさんに、答えに窮したオレはちょっと縮こまった。さっきは優しげなお兄さんの雰囲気に飲まれるようにしてスラスラと経緯を語ってしまったが、この人達の前となるとなんとなく恥ずかしさが先に出て言いにくい。
「?……なんだよお前、サスケに頼まれたからここに来たんじゃねえの?」
「まさか。――ああいや、でも連れてきてもらったってのはその通りなんスけど。でもそれは逆にオレが頼んだからで……」
もうひとつ要領を得ない会話になんとなく見つめあったまま口篭ると、助け舟を出してくれたのはやはりお兄さんだった。「オビトさん、彼はサスケの友人としてうちに遊びに来ただけですよ」というにこやかな言葉に、一瞬ドキンとするけれどもすかさすそこにヤツの舌打ちが入る。
「遊びに?ただ単にケーキを食べるのに適した場所が無かっただけだろ」
仕方なくだ、仕方なく。そうでなきゃわざわざ連れてこねえよ。
相変わらずの口ぶりで眉を寄せるヤツは、少し行儀悪く片肘をテーブルについたまま、そっぽを向いた。ゆるく落ちたトレーナーの袖口から、ほんのり静脈の透ける白い手首が見える。縦の尺はぴったりでも、どうにも体型が細すぎるのだろう。風呂上がりから着てきている濃いグレーのルームウェアは傍目にもどうしたってブカブカで、薄い体にちょっと肩が落ちている。
「こいつがどうしてもっていうから」
「うっ……まあそうだけど」
「こんな深夜にカッとなってケーキ1個の為にうろつくとか、場所もないのに一緒に食おうとか。ナリも立場も目立つくせにあまりに無計画だから、行きがかり上保護してやっただけだ」
面倒臭そうに言い捨てると、おもむろにヤツは置かれていたマグ(各々自分のものが決まっているらしく、テーブルに置かれているマグは全て大きさもデザインも全て違うものだったが、例によってペアルックの二人のマグは色だけが違うお揃いのものだった)を両手で持ち、中を覗き込むようにしてふうふうと吹いた。自宅にいることで素が出ているのだろうか、子供じみたその仕草が新鮮で、なんだか見蕩れてしまう。……というか、密かにこいつ実はネコ舌なんじゃないか?さっきから琥珀色の渦を作る黒いマグの中を覗くばかりで、なかなかそれを飲もうとしない。
「へーーーえ、保護?」
にまにま笑いで、オビトさんが言った。「サスケちゃんやっさしー」などという挑発するような口ぶりに、ようやくマグに口を付けたヤツの眉がピクリと動く。

「珍しい事もあるもんだなあ、サスケがそんな事するなんて」
「…………」
「そういやこないだのドラマもいつになく真面目に見てたもんな。知ってんだぜェ~、サスケお前最終話なんて、シフト入ったせいで見れないからって、わざわざ録画までして見てただろ?」
「えっ、マジで!?」
「なっ……ちげェよ!」

予想外の言葉に、驚いたオレとムキになったようなヤツの声が重なった。嘘だろ……さっき店では全然そんな素振りなかったのに。
それって、本当の事なんだろうか。
本当だったらすごい嬉しい。――やばい、どうしよう。むちゃくちゃ嬉しい。
「ありゃ単に話のラストが気になっただけだ!あのドラマ、結構よく出来たシナリオだったし……!」
「ほーォ」
「クソが……勝手なこと言いやがって。大体がなァ、アレ録ったのは兄さんだ!あの日はマーケットが荒れて、ずっとモニターから離れられないからって……」
「マーケット??」
なにそれ?と深く考える事もなく問いかけると、途端に血気の上がっていたその場がしんと静まり返った。何故だか測るような目が、一斉にオレに集まる。
無言のままじっとこちらを見詰めてくる各人に(あ……あれ?もしかしてオレってば、なんかヤベーもん踏んじまったのか?)と冷や汗が背中をたらりと伝った時、静寂を壊すかのように誰かの携帯がSNSの通知ベルを鳴らした。どうやらそれはお兄さんのものだったらしい。立ち上がりキッチンカウンターの端に置かれていた黒のスマートフォンを確かめるお兄さんに、それまでずっと静かにしていたカカシさんが「なに、LINE?」とのんびりと質ねる。
「誰から?」
「シスイから。ちょっと早いけど今からもう来るそうです」
そう行ってる間に、玄関の方でガチャガチャと施錠を解く気配が聞こえてきた。ふと見た時計の針はいつの間にか6時を過ぎている。ドアの開く音と共に「おはよ!」というちょっと急いだ声が、慣れた様子で家に上がり込んできた。飛び込んできたのはまたもや黒髪だ。癖の強い髪を短くした背の高い人が、スリムなジーンズにラフなシャツと極厚のカウチンを羽織った姿で、息を弾ませている。

「大変だよ、今朝の日経読んだ?暁ホールディングスの傘下に雨隠商会が……」

片手に丸めた新聞を持ったまま話しだしたその人は、ダイニングにいるオレに気が付くと漆黒の瞳を大きく見張った。もう聞かなくてもなんとなくわかる。この人も間違いなくうちはの一族に、名を連ねている人だろう。
「ええっ、『うずまきナルト』!?なんで!?」
「えーと……その、色々ありまして」
「すまないシスイ、彼のことはオレが後で説明するから」
本日何度目かのその反応にモソモソと肩身を狭くするオレに代わって、立ったままだったお兄さんがスっとそのシスイと呼ばれた人のもとに近付いた。
「それよりもまずそれを読ませてもらえないか?実は今朝はまだオレ達誰も、新聞はおろか何もチェックしてないんだ」と言いつつ傍に来るお兄さんに対し、同じくらいの背丈のシスイさんが僅かに身を引いてから、すぐに肩を寄せ自分で持ってきたらしい新聞を広げる。ほんの一瞬だったがその動きに、オレは微かな引っ掛かりを感じた。はっきりとした確信は持てない。けどもしかして、この人……――
「オビトさんカカシさん、ちょっと見てください」
びっくりするような早さでその一面の記事に目を通したかと思うと、紙面から顔を上げないままお兄さんが言った。バサリとダイニングテーブルの上に広げられる新聞に、絶妙なタイミングで二人がテーブルの上にあったマグを退かす。ふと見るとさっきまで一心にコーヒーに息を吹きかけていたヤツも、両手でマグを退かしながら真面目な顔でじっとその紙面を覗き込んでいた。慌ててワンテンポ遅れてオレもマグを持つ。なんだかこの人達の完璧なフォーメーションに置いていかれたみたいな気分だ。
「んあー雨隠商会やられたか!これ経営陣丸ごと全部総取っ替えされんな」
記事を一読してすぐ、オビトさんが言った。
そうねェ、と全然緊張感のない声で、カカシさんが答える。
「まあ雨隠商会、経営ガタついてたかんなぁ。ここ一年はどうにか踏ん張ってたけど」
「でも小売の部門は業績良かったのに」
「だから狙われたんだろうな。暁ホールディングスはずっとそっちの業界に参入したがってたけど、ルートもノウハウも全く持ってなかったから」
「まーそうだろうねぇ、雨隠はそっちの分野では古参で安定してるし。喉から手が出るほど欲しかったんだろうなあ」
「つかあれだわ、それも気になるけどコレそのうち暁ホールディングスが今傘下に持ってる滝物産と雨隠商会を合併すんじゃねえの。したら今トップの霧里商事と順位入れ替わっちまうな、これ今日はあちこち結構動くぞ」
――よっしゃ!んじゃオレらも出遅れねえように、9時までに情報集めとくか!
場を締めるかのようなオビトさんの一声で、テーブルを囲んでいた面々が一斉に動き出した。
最後に並んだ二人が飲みかけだったコーヒーを飲み干し、それをテーブルの上に(たん!)と置くと、どやどやと背の高い集団が部屋を出て二階へと上がっていく。

「えっ、えっ、なに、何が起こったの……!?」

嵐のような一連の動きに、付いていけないままのオレはおたおたと意味もなく周りを見回した。ダイニングに残されているのはオレと空になったマグと、それを片付けようと椅子から立ち上がる、ヤツの姿だけだ。
「みんな何しに行ったんだってば?」
「…………」
「情報って……っていうかお兄さん達が話してたのって、どっかの会社の話だよな?なんでそれがそんな一大事なんだよ、お兄さん達上で何してんの?もしかしてお前があのコンビニで働いてるのも関係してんのかってば?」
「ああもう、うるせえ!やたらと人ンちの事情に首突っ込んでくるんじゃねえよ、この……!」
「――サスケ、」
溢れ出るがままに疑問を口にするオレが余程うっとおしかったのだろうか。威嚇するようにこちらを見たヤツだったけれど、そんな苛立った声も間に入ってきた呼び掛けを聞くと、グッと静かに飲み込まれた。振り返ってみると、いつの間にか戻ってきていたらしいお兄さんが、残されて言い合うオレ達に小さく苦笑している。

「ここまで来たのだから、もう彼には話したらどうだ?」
「そんな、だって兄さ……!」
「オビトさんやカカシさんもそうしろって」

きっぱりと一番上からのお達しを告げられると、ヤツはむうっと不機嫌そうなままで黙り込んだ。お兄さんはそんなヤツに、(やれやれ)といった様子で苦笑混じりの溜息をつく。しかし気を取り直したかのようにこちらを見ると、訳が分からず口を開けたままのオレに向け安心させるかのようににっこりと微笑んだ。ヤツよりももう少し大きくて骨ばった白い手で、「大丈夫。ナルト君、こっちにおいで」と手招きをする。
「すまないね、色々と気分の悪い思いをさせてしまって。今案内するから」
「?……二階行っていいんすか?」
困惑するオレに、返事の代わりのようににっこりと微笑んだお兄さんに従っていくと、後ろからヤツもノロノロと付いてきた。それでもまだ納得はしきれていないのだろう。形のいい唇は、隠そうとしない不満にツンと尖らされている。
きしきしと板目を軋ませつつ階段を上っていくと、二階はふたつの部屋で構成されているようだった。開けっぱなしのひとつには、六畳程の畳の部屋に布団が二組、妙な距離感で敷かれている。察するにペアルックのお二人は、多分オレ達に起こされるまではここで休んでいたのだろう。
もう一つの部屋は、和室の方よりも奥に位置しているようだった。まだ暗い廊下に、薄く開けられた扉から中からの灯りが漏れている。どうやら単純な照明器具の灯りだけでない、青みがかった光もそこに混じっているみたいだ。

「はぁぁ!?なんだこれ……!!?」

一歩踏み込んだ途端、口から漏れたのはひっくり返ったような驚きの言葉だった。
目に飛び込んでくる沢山のディスプレイ。隣の和室よりも広いこの洋間には四台のデスクが三方向の壁を使い置かれ、その全てにひしめくようにして何台ものパソコンとその画面とがチカチカとした光を溢れさせている。画面に映し出されているのは殆どが数字の羅列だ。それぞれのデスクには既にオビトさん、カカシさん、シスイさんが付いていて、幾つもの画面に映し出される膨大な情報を、驚きの速さで目で追っている。
……確かこういうの、聞いた事ある。実際見るのはこれが初めてだけれど。でもさっきの話との繋がりからも想像するに、多分この予想で間違ってないような気がする。

「――もしかしてこれってば、デイ・トレードってやつ……?」

聞き齧り程度ではあるが知識としては知っている光景に、オレはおずおずとその単語を口にした。
多分あの画面に出ているグラフや数値は、株価なんかを現したものだろう。
「そう。よく知っていたね」
唖然とするオレに、お兄さんは言った。オビトさんとカカシさんは去年までずっと、証券会社にディーラーとしてお勤めでね。シスイは元々大学で日本経済と経営学について学んでたから。
「えっ、じゃあお兄さんも?」
話の流れのままに重ねて訊ねると、後ろにいたヤツがぼそりと「いや、」と呟いた。
「兄さんの専攻は心理学だけど、卒業してからアメリカでMBA(経営学修士号)取ってきてんだ。その時向こうでアメリカ経済についてもがっつり学んできたし英語にも堪能だから、それで兄さんだけは深夜に開かれる、ニューヨークのマーケットを中心に取引してんだよ」
な、な、なんだそりゃあ~~~と思わず言いかけたが、ハッと気がついたオレは勢い込んで後ろを振り返った。無表情のまま見返してくる、黒い瞳を見詰める。
…………いや、まさかとは思うけど。こいつの借金の理由ってば、もしかして。

「――ンだよ」

ゆるついたスウェットのトレーナーの袖を引き上げつつ、面白くもなさそうにヤツが言った。
「あ、いやっ……その、お前がオーナーから金借りたのって」とおそるおそる質ねるオレに、フン、とひとつその鼻が鳴らされる。
「悪いかよ、大きく稼ぐにはそれなりの元手が必要なんだ」
挑むような視線をオレにぶつけ、ヤツは言い切った。部屋の壁を埋めるディスプレイからの光が、冷たく整ったその顔をちかちかと青白く照らしている。

「買い占められた『うちは製鐵』の株を、今度はオレらで買い戻す。それで必ずあいつらから、経営権を取り返してやる」

――株でやられた事は株でやり返す。目には目を、がうちの家訓だからな。
傲岸そうに顎を上げ、ヤツはそんな事を吐いたが、同じ視界の端ではお兄さんがそっと眉を顰めるのが見えた。……もしかしてこの話には、まだ他にも事情があるのだろうか。気にはなったけど、皆が忙しそうにしている今は、なんとなく聞くのが憚れた。でもやっぱりコイツ、相当危ない橋渡ってるのに違いないじゃないか。そりゃあ話を聞けばこの人達は皆ほぼプロのようなものなのかもしれないけど、でも株で儲けるなんてのがオイシイ話ばかりではない事位オレだって知っている。だいいち会社買い戻す程の額って一体幾ら借りたんだ、コイツも無茶苦茶だけどそんな金を持ってるあのオカマオーナーも実は相当な人物なんじゃないか?
「そういう訳で。すまないねナルト君、これからちょっとオレ達はこちらに掛かりきりになってしまうんだが……」
詫びるような声に、はたと気が付いた。ぱちぱちとしばたいた目に、お兄さんの苦笑が映る。怒涛のような展開とどこか危うい雰囲気のヤツに、いつの間にか声を忘れていたようだ。4つあるデスクの空いているひとつも、既に起動だけはされているらしく全てのディスプレイに光が入っている。多分あれがお兄さんの席なのだろう。
「オレ達はお相手できないが、もしよければ君の時間が許す限り下でゆっくりしていってくれたらいいから。サスケも途中から、ちょっと休ませて貰うかもしれないが」
「あっ、いや……大丈夫です。そういう事なら帰りますから、オレ」
「申し訳ない。タクシーを呼んだ方がいいかな?それとも君のような仕事についている人は、こういう時マネージャーさんのような人に連絡するものなのだろうか……親御さん達は君がここにいる事を、勿論知っているんだろう?」
「へ?――……あ゛ッ!!」
気遣わしげなセリフの中にある単語に、すっかり自分のアレコレの事を忘れていたオレは途端にヤバくなってそうな色々に気がついた。しまった……そういや家には「コンビニ行ってきます」という走り書きだけしか残してなかったんじゃないか?
両親はきっと日付が変わる前には帰宅しているだろうし、あのメモを見てもまさかそのまま朝まで戻らないなんて思わないだろう。いやその前にこれってもしかして『無断外泊』ってヤツになってしまうんじゃないだろうか、マズイぞ……非常にマズイ。たぶん今頃あの良くも悪くも激情型の母親が、心配と苛立ちで猛然と赤毛を逆立てているに違いない。頼みの携帯も見事に家に忘れてきてしまったし。
青ざめていくオレに何かを察したのだろう。
さっと真面目な顔になったお兄さんはオレの後ろに立つ弟に向かって、「サスケ」と短く声を掛けた。「タクシー呼ぶよ、いいね?」という小声の確かめにこくこくと頷くオレを見ると、そんなオレにまたもや呆れ果てているらしいヤツに、タクシー会社へ電話するようてきぱきと指示を出す。

「あっ――なあ、ちょい待ちナルト!」

「車、すぐに来るってさ」という携帯を切ったヤツの言葉にあわを食いつつも部屋を出ていこうとしたオレに、オビトさんが声をあげた。(ぐりん!)と勢いを付けて回る回転椅子。あっけらかんとオレの名を呼び捨てにしたオビトさんが、パチンと音をたてて手を合わせる。
「なあなあ、次来る時はさ、お前かーちゃんに頼んでサイン貰ってきてくんねえかな?」
「は?」
「頼むわ~~~ホント、一生大事にすっから!オレ死ぬ時は棺桶にも入れてもらうからさ!」
「そりゃ勿論いいッスけど……え?次って……」
また来ていいんですかってば?と思わず訊くと、気合を込めてオレを拝んでいたオビトさんの方が、逆にきょとんとしてしまった。
「へ?なにお前、来ねえの?」
寧ろそっちの方が不自然だと言わんばかりの返しに、ふと手を休めたカカシさんとシスイさんもこちらを振り返る。二人共、オレ達の会話に可笑しさを堪えたような顔だ。けれど肩ごしに見える目は、どちらもとても優しい。ヤツのお兄さんは言うまでもなくだ。
「そりゃ、オレは来たいけど……」
言いながらそろりと廊下を見ると、携帯を片手にだるそうに壁に寄りかかるヤツがいた。集まる一同の期待するような視線。普段は綺麗に澄ましたその美形が、今は小さな子供のような明らかな不貞腐れ顔だ。
「――どうせ来んなっつったって、てめえはまたしつこく押しかけてくンだろ」
勝手にしろ、という舌打ち混じりの言葉に、じりついていた気持ちがぱっと晴れた。我慢できないくらい口元が緩む。どうしてコイツの発する言葉のひとつひとつに、オレはこんなにも一喜一憂してしまうんだろう。褒めてもらう事も持て囃される事も、オレの日常には沢山あるのに。大勢の人達からの数え切れないほどの賛辞よりも、この無愛想で口の悪い男からの飾らないたったひと言が、オレには何よりも得難く嬉しい。

「ありがとう、えっと…………」

お礼と共に名前を呼ぼうとして、ふとオレは口篭った。……そういやコイツの事、オレはどう呼んだらいいんだろう。年はほぼ同じ位っぽいけど『さん』付けしなきゃ怒るだろうか……苗字?とも思ったがここにいる人たち皆『うちはさん』なのに、改めてコイツだけ苗字で呼ぶのもなんだかそぐわないような気がするし。というかこれまでオレは、コイツの名前を呼ぶ機会さえ無かったのか。そう考えてみると改めて今ここに自分がいることが、いかに無茶をした結果かを思い知る。
困りきってそろりとヤツを見上げると、壁に寄り掛かったままのヤツは目を閉じたままむすっと口を結ぶばかりだった。それでもオレからの視線は感じるらしい。やがて言葉を継げないでいるオレに深い溜息をつくと、うすく整った赤い唇が諦めたかのようにひとつボソリと言う。


「…………『サスケ』でいい」


……ビッビィ!と表で抑え気味なクラクションが鳴らされるのが聴こえてきた。呼んでくれたタクシーが到着したのだろう。ぼおっとなりかけていたオレの頭が、その音でぱちんと我に返る。
サスケ、と小さく声に出してみると、体中に染み渡るみたいにその響きは広がった。
一体どこから湧き上がってくるのか、期待のような希望のような、とにかく明るくてあたたかな予感がどんどん胸をいっぱいにしていく。
そんなオレに、再び外では催促するようなクラクションが短く鳴らされた。
浮ついた足で軋む階段を降りようとするオレに、優しげな眼差しで一連の対話を見守っていたお兄さんが、そっと現実的な声になって「足元、気をつけて」とオレに言った。