Strawberry on the Shortcake 4

言い訳のように聞こえるかもしれないが、オレとて最初からここに来ようとしていたワケではないのだ。自宅マンションの周りには三軒ものコンビニが看板を掲げていて、その全てが歩いて行ける範囲内にあった。その中には、ヤツのいるあの店と同じ系列の店舗もある。一応は、その近所のコンビニから回ったんだ。当前じゃないか。
家を飛び出したオレは、まずはあの店と同じ青い看板の店に向かった。まっすぐに冷蔵コーナーに行き中を覗いたけれど、ゼリーやプリンなどのカップに入れられたデザートは残っていてもショートケーキは無くて。早々に見切りをつけて、次に行ったグリーンの看板の店も、冷蔵コーナーはほぼ同じ様相だった。半分寝ぼけたような顔の店員に尋ねても、今ある洋菓子は店に出ているだけだという。最後に行った店に至ってはもうデザートどころかおむすびひとつ残っていない有様で、声を掛けて確認してみても「さー、どうでしょうねえ。発注かけたのオレじゃないんで」というなんとも頼りにならない返事が返ってきただけだった。何か言いたそうな顔でしげしげと、ちょっと血走った青い瞳を覗き込まれただけだ。
だから最終的にタクシーを呼び止めて、行き先にあの店のある街の名前を告げたのは、別にオレがそこに行きたかったからではない。決してヤツに会いたかったワケじゃない。
――ただ、あの店なら。ヤツのいるあそこなら、きっと裏切られる事はないだろう。根拠はないけれど、なんとなくそう思っただけだ。
店の手前で車を降りると、オレは緊張にこわばる指に息を吹きかけ空を仰いだ。吸った空気が冷たくて、満たされた肺がじんと痛む。
雲のない夜空には、今日もオリオンが明るく輝いていた。少し震える足で一歩を踏み出してみると、二歩目は案外自然と前に出た。

  * * *

(なんつって、来てはみたものの……)
撮影もないのにわざわざまた現れるなんて、やっぱあまりにも不自然だよな。衝動的にここまで来てしまった足もふと冷静になった頭で状況を呑み込んでみると、店の看板が見えた途端、呆気なく止まってしまった。この前の最終日、ヤツにまた来ていかと尋ねた時だって軽く流されたし。大体が今何時なんだ?軽く午前2時は回ってるよな。
うう…どうしよう。走り去っていくタクシーのテールランプも見えなくなった大通りで、オレは今更な逡巡にこぶしを握った。今日のバイトってやっぱりアイツだろうか。鬼灯君…それかあの気の良さそうなでっかい人とかだったら、ものすごく気が楽なんだけど。だけどヤツがいなきゃいないで、それじゃあここに来た意味がないような。いや別にアイツに会いに来たわけじゃないんだけど。決してそういうわけじゃないんだけど!
(オレがまた現れたら、やっぱりアイツは嫌な気分になるのかな)
後ろめたさとなんとも説明の付けがたい痛みをウジウジと捏ねくり回しながら、オレはちょっとうつむいた。まあ多分そうだよな、確かに好かれてる気配なんてどこにも見当たらなかったし。テンゾウさんの言う事って、大体正しいからなあ。
(……くそォ、もういいってば!どうせ嫌われてんのは最初っからじゃねえか!!)
半ばヤケクソになりながらセンサーの前に立つと、チャイム音と共にピカピカのガラス扉がもどかしいスピードで横にスライドした。店内に響くその音で来店者に気がついたのだろう、カウンターで静かに上げられようとした顔が、ほんの一瞬だけ動きを止める。跳ねた黒髪が、僅かに揺れた。
(やっぱコイツかあああ…っ!!!)
矛盾に塗れた煩悶を抱えながらも、オレはなんとかそれを無表情で隠し店内に踏み込んだ。
……いやいいんだ、コイツでもいいんだ。スゲー気まずいけど別に気にする事ないってば。
そんな風に自分自身に言い聞かせ、どうにかこうにか胸を張る。だってオレってばお客さんだもん。目的があって来たんだもんね。ちゃんと財布持ってきたし―――あ、携帯家に忘れてきたけど。まあそんなの今は問題じゃない。買い物したい客が店に来て何が悪い。

「……」
「……」
「………」
「………あー…えーと」

……よ、よォ。
がっちり目が合っているというのに一向として何も言おうとしないヤツに耐えかねて、ついそんな中途半端な挨拶をしてしまった。…いや待てなんでオレの方から?と気が付いてガクリとくる。オレお客さんなんだぜ?本来ならオマエの方から先に「いらっしゃいませ」とか言うべきじゃね?あっという間に嵐のようなツッコミが噴き出てきたが、当の本人はまったくもって悪びれた様子がない。今日も完璧に整ったクールフェイス、乱れのない制服。ほんの僅かにいつもよりも瞳が大きいようにも見えるが、気のせいで収まる範囲内だ。
店にはオレ以外、他に誰も客はいないようだった。ひとの気配がないせいか、なんだかいつもと店内の雰囲気が違って見える。
カウンターの中にいるのも、ヤツひとりだけだ。もしかしたら、奥の方で作業しているスタッフもいるのかもしれないが、今のところそういう気配や物音はない。ドリンクコーナーの上に掛けられた時計を見ると、短い針は午前2時を過ぎようとしているところだった。やはり近所のコンビニをぐるぐると回っているうちに、思ったよりも時間をくってしまっていたようだ。
「――なにしに来たんだ?」
こちらから声を出した事で何か納得がいったのだろうか、ようやく向こうも何か言う気になったらしかった。しかし出された科白はやはりどこまでも尊大だ。居丈高な口ぶりに、なんとなくどっちつかずになっていた気持ちは見事に逆撫でされる。くそォ、ほんっとコイツ変わりねえな!そんな事を思いつつ、奥歯を噛む。さっきまではほんの僅かにヤツの空気にも揺れがあったように思えたが、それもすでに静まっているようだ。
「きゃ、客が店に買い物しに来ちゃダメなのかよ」
カウンターの内側から押し寄せてくる威圧感は相変わらずだったけれど、オレはそれにも負けじと口を尖らせ胸を張った。切れ長のまっくろな瞳から突き刺さってくる容赦無い視線を受け止めて、ぐっと力を込めてその目を見返す。
しばらくそうしてまた黙ったまま見つめ合っていたオレ達だったが、そのうちそれにも飽きたかのような「ふうん」という呟きが聞こえると、ヤツはふいっと目線を外した。落とした目で、また何か細かい文字が書かれている書面を追い始める。ホッとしたような残念なような微妙な気分になりつつも、ようやく呪縛から逃れられたかのようにオレの足は再び動き出した。一週間ぶりだけれど店の配置は、まだ全然忘れていない。
オレが来る前に少しは入れ替えがあったのか、それともこのカウンターの帝王の手腕なのか。決して沢山の品は並んでいなかったけれども、やはりここの陳列棚には他の店のようなガランとした淋しさは漂っていなかった。なんとなく内心で(よしよし)と頷きつつ、迷う事なく冷蔵コーナーに向かう。どうにもお互い歩み寄れそうにはないヤツだけれど、やっぱりこの店に来たのは正解だ。以前目にしていた洋菓子が並べられていた列を目で辿り、腰を屈めたオレは、お目当てのイチゴの乗った真っ白なケーキを探した。

「―――えっ…?」

つい声に出てしまった呟きに、下を向いていたヤツが僅かに顔を上げた。
ちょっと気分を損ねたような顔つきで、訝しむ目線がカウンターの向こう側から投げられてくる。
「なにか?」
「ないんだけど……ケーキが」
「そこにあンだろ、よく見ろよ」
「いやこれチーズケーキじゃん!?オレが欲しいのはイチゴのショートケーキで!」
前確かにここにあったのに、とやや掠れた喉でそう言うと、ようやく理解したらしきヤツが「…ああ、」と息をついた。クリップボードをカウンターに置いてちょっと背中を伸ばすと、なんでもない事のように「あれはこの時間置いてない」と告げる。
「置いてない?なんで?」
「なんでって、売れねえから。こんな真夜中にケーキなんて買う奴がそういるわけねえだろ」
「そんな、だって、チーズケーキはあるじゃんか!」
「あれは昨日の夕方の便で入ってきたやつの残りだ」
デザート系はいつも深夜の発注掛けないんだ、そこにあるように昼入ってきた中から売れ残りが出なければ、それでもう無い。素っ気なく言うと、もう会話はここまでと判断したのだろう。ヤツは再びカウンターの内側に置いたクリップボードに興味を移した。奴が紙をめるく乾いた音が、抑えた店内BGMの合間に小さく聴こえる。
「ショートケーキの、売れ残りは?一個も残らなかったの?」
どこか正体の無い声で尚もしつこく尋ねるオレに、下を見たままの口許がうっとおしそうに「ねえよ」と答えた。
明るすぎる照明の下で、まっすぐな鼻梁が、冷たい陰影を作っている。

「――残ってた分は賞味期限が切れたから、オレがさっき廃棄した」

チーズケーキの方がショートケーキよりも持ちがいいんだよ、余計なもん乗ってねえから。
トドメのようにそう言われると、ここまで張ってきた気力が一気に抜けていくようだった。
そんな、だって……ここに来れば絶対って、思ったのに。
(あ―――あれ?)
ぱた、という蝶の羽音程にも満たないようなささやかな音に下を見ると、丁度オレの右足の内側あたりに小さな小さな水たまりが出来たところだった。
ああヤバイ。ダメだこれ。そう思った瞬間、クリアだった視界がどんどんぼやけて、表面張力を超えてしまった雫が、また一粒滑り落ちていく。
勘弁してくれよ、こんな事で。しかも、こんな場所で。そう思いはするのだけれど、自分の意思を置き去りにしたまま、涙は次々と溢れ出てくるようだった。不思議な程頭の中だけは凪いだままで、悲しいとか辛いとかいうような感情は湧いてこない。なのにただ、出てくる水分が止められない。思考と涙腺とが完全に切り離されてるみたいだ。
参ったなあと我ながら途方に暮れて足元を見ていると、なんとなく不穏な気配を感じたのか、黙りこくってしまったオレの様子を探るかのように、ふとヤツが顔を上げた。頬を落ちていく水滴にさすがに驚いたらしい、まっくろな瞳がみるみる大きくなっていく。……驚いてやんの、いい気味だ。とうとう崩された鉄面皮にそんな思いがちらと過ぎったが、しかしそれも一瞬のことだった。まっすぐに送られてくる視線の遠慮の無さとバツの悪さに、思わず口先が尖ってく。

「…ンだよ」
「いや、なんだよって」

―――なに泣いてんだ、お前…。
いつも一ミリのズレもないヤツの声が驚きと戸惑いで色塗られているのを聴いた途端、ぐっと熱いものが込み上げてきた。そっか、これってやっぱ、『泣いてる』んだ。ようやく認めたら、鼻の奥がツキツキと痛みだした。こめかみもじいんと痺れて、視界は更に滲んでいく。
そこから先はもう、重力のままに涙も鼻水も一気に解禁となった。足元に落ちる水滴はどんどん増えていき、真っ白なタイルには透明な水玉模様が出来上がる。
いつになく困った様子のヤツは、立ち尽くしたまま涙を落とし続けるオレに狼狽えている。
「ちょ…ッ!?」という泡を食ったような声に、またひとつ嗚咽が出る。
「な、なんだっていうんだよ、たかがケーキ位で」
困惑の色を濃くしながらそんな風に言うヤツに、「うっせえ、たかがとかゆーな!てかこっち見んなってば…!」と低く唸ると、さすがに気圧されたのか唖然としたヤツは気まずげに口を噤んだ。それでも横を見る気はないらしい。まっくろな双眸は見開かれたまま、依然としてオレを見続けている。まったく、どこまでも失礼なヤツだ。見世物じゃねえってのに。
……久しぶりに出た涙は熱かった。オレの体温が溶けた水。
ああそっか、これって『体液』だもんな。オレの体が作り出したモノなんだ。そんな妙な感慨を抱きつつ、ぱたぱたと落ちていく雫が床で飛び散る様を見る。
熱くなった喉が震えて、戻したような息が唇の隙間から漏れた。一緒に出てこようとする嗚咽を堪えようと、口を引き絞る。食いしばった口許がぎゅっと歪んで、端っこがへの字になって落っこちた。くそォ、だっせェ…!!ホント、コイツの言うように『たかが』じゃねえか。なんでこんな事くらいで涙が出てくんだ。
「お前……もしかして、酔ってんのか?」
ふいに誰もいない店内に落とされた探るような問いかけに、鼻をすすり上げようとしていたオレは一瞬ポカンとして、次いでカッと頭に血が昇るのを感じた。
「ばっ…んなわけあるか!!オレってば未成年なんだぞ!」と噛み付くように言い返すと、憎たらしい程の二枚目が「いや、まあ、一応な。この時間、時々酔っ払いが来て絡んでくる事あるし」などと言葉を濁す。
「だってまさか、ケーキひとつでそこまで泣くとは」
「…う、うっせーうっせー!いいだろ別に!!」
「鼻、すげェ事になってるぞ」
「だからほっとけって!」
「そんな大量の涙出せんなら、役ん中でも格好つけてないでそういう風に演ったらいいんじゃねえの?こないだのみたいな、目薬差したようなお綺麗な泣き方じゃなくてさ」
汚ねえけどそっちの方がいいぞ、という微妙な進言を受けながらも、容赦なく繰り出される無礼千万な言葉の中、ふと落とされた話題は流される事なくオレの耳にしっかりと引っかかった。
―――こないだの?お綺麗な泣き方?
訝しむ目線でそろっと確かめると、「先週やってた、三夜連続のやつ」と表情の無い声が答える。
「あれ…見て、くれてたんだ?」
「全部じゃねえけど。家で、うちの奴らがつけてたから」
「……オレの事、嫌いなんじゃなかったの?」
指摘された特番のドラマは、ついこの間放送されていたオレの出演作品だった。主演ではないけれど一応主要キャストとして参加していたもので、結構出演シーンも多かったものだ。思いがけないヤツの発言におずおずと確かめると、ビスクドールみたいに整った佳貌がきょとんと目を丸くして、静止画みたいに静かになった。「嫌い?」などとオレの言った科白をそのまま繰り返して尋ねてくる声も、妙に幼げで邪気がない。
「嫌いだなんて、いつ言った」
「だってオマエ、最初にオレの事好きじゃねえって…」
「『ファンじゃない』と言ったんだ。嫌いとまでは言ってない」
むしろそれはお前の方だろ?やたらオレを睨んできたり、渡したレシート握り潰したりして。
不意打ちで放たれたヤツの言葉が、色んな感情でぐちゃぐちゃに混ぜっ返されていた頭をスコンと打ち抜いた。思わずぽっかりと口が開くと、それを見たヤツは一瞬迷うように唇を噛む。そのうちにその顔が、噛み潰した苦虫をどうにか飲み込もうとでもしているような、とんでもなく渋いものになった。長いことそのまま言い淀んでいたけれど、そのうちにその唇が「まあその……誤解されてるようだったら、一応訂正しとくが」と不承不承に言葉を紡ぐ。
「初日ン時。オレの言った事はなんつーか、若干、言葉が直接的過ぎたかもしれねえが」
「直接的っつーよりも、破壊的だったってば」
「………あのあと家で、兄貴に、注意されて」
「…兄ちゃん、いんの?」
いつの間にか震えの収まった喉ですぐさま訊き返すと、それを見たヤツが「……おい、まさか今更演技でしたとか言うんじゃねえだろな」と訝しむ目付きになった。気が付いて、目許を拭う。さっきまで拭っても拭ってもとめどなく溢れ出ていた筈の涙は突然その流れを止め、すこしひりつく目の下は、わずかずつだが確実に乾き始めていた。涙の流れた跡が、ちょっとすうすうする。
「なんだよ…あんだけ派手に泣いてたと思ったら、急に泣き止みやがって。一体どうなってんだお前の顔は」
そう言って涙の出なくなったオレに憮然とするヤツに「そんなのどうでもいいってば」と返すと、薄い唇が「『そんなの』かよ」と小さく突っ込むのが聴こえた。それには取り合わず、オレはちょっと態勢を持ち直す。カウンターの向こう側にいるヤツを今度はまっすぐに見ると、「それよりもさ、」と勢いに乗ったまま畳み掛けてみた。ミステリアスなポーカーフェイスに包まれていたヤツの素顔に、更にもう一歩近付きたい。
「なんて言ってたんだ?」
「なにが?」
「オマエの兄ちゃん。なんて?」
「いやだから……オレはいつも、言葉の選び方が拙いって」
「言葉?」
「もっとわかりやすく丁寧に言えって。――それじゃあ真意が、伝わらないって」
渋る口を仕方なく動かしているかのように打ち明けてきたヤツの、気まずげな顔をじっと見た。真意?と首を傾げつつ、幾度となく思い返してきた、あの日の手酷い科白を再び脳内で再生してみる。
『ファンでもないのに、なんで男の手なんて握りたいと思うんだ』?
『見ず知らずの他人なんかと無差別に握手なんてしたい奴なんて、いるわけねえだろ』?
ざんぎりオカッパのバイト君が言い掛けていた、『本当は』の続き。言葉が足りないから誤解されがちだと、あの時彼は言っていた。突っけんどんで愛想ゼロのくせに、何故かバイト仲間からやたら慕われているコイツ。あのオリオンを見上げていた夜の、嬉しかった横槍。
(――…あ?そっか、もしかして)
唐突だけれども妙に確信めいたひらめきが、頭の中でちかりと瞬いた。なんだか夜空で輝く一等星みたいな光だ。もしや例のヤツの言葉は、コイツが男の手を握りたくないとか、他人の手を握るのが嫌だって言ってるんじゃなくて。
あれは、『オレ』が?
あの時撮影を終えたオレが、こっそりと疲れた顔を隠したから――?
「……気、つかってくれてたんだ……?」
おそるおそる、その憮然とした美形を上目遣いでうかがうと、ムスリとした様子のヤツが小さく鼻先を鳴らした。……この「フン、」は、多分肯定の意味として取ればいいんだよな?だんだんとわかってきた彼の仕様に、凝り固まっていた何かが解けていくのを感じる。もしかしてコイツ、本当のところはなんか全然、見た目と中身が釣り合ってないんじゃねえの?わかりにくくて、ややこしい。飾る事を知らない言葉はキツ過ぎるし、付き合うには努力と忍耐が必要そうだ――だけど。

「でもな、オレ間違った事は言ってないぜ?それにお前のファンじゃねえってのも……」
「ありがと」

気まずさを誤魔化そうとしたのだろうか、言い訳のように繋げようとしてたヤツを遮って、今度はオレの方が言葉を被せた。相変わらずヤツの表情はうすい。けどもうビビったりなんかするもんか。
黒々と開かれたヤツの目を、まっすぐに捕える。
この間言えなかった分までも詰め込んで、オレは至極わかりやすい言葉を選んで、丁寧に丁寧に、ありのままの気持ちを伝えた。


「―――ありがとう」


すっかり緊張の解けた頬を緩め、最後に「ニシシ」と笑いかけると、ほんの僅かな間だけヤツは虚を突かれたような表情になった。多分、顔を見られたくなかったのだろう。ほんのり頬を赤らめていったヤツは、慌てたようにオレから視線を外し、急いで下を向く。
そうしてかすかな舌打ちと共に跳ねた頭が後ろを向いたかと思うと、常備されているらしいティッシュが箱ごとぽんと投げて寄越された。「…いいからハナ拭けよ、ハナ」と言ってくる声も、いつもどおりの無愛想さだ。
「……で。なんでショートケーキなんだ?」
泣くほど食いたいって相当だろ、そんなに好きなのか?
受け取ったティッシュで鼻をかんでいると、すっかり緊張を解いた様子で後ろのカウンターに寄りかかっていたヤツがおもむろに訊いてきた。大真面目な顔してそんな微妙にズレた事を言ってくるヤツに、ちょっと慣れてきたオレはスンと鼻を啜り上げる。
「違うって、そりゃショートケーキは好きだけどさ」
「チーズケーキじゃ駄目なのか?甘いもんが欲しいなら、他の菓子でもいいじゃねえか」
「別にケーキが食いたいわけじゃねえってば」
キレの悪い口振りでモソモソ告げると、腕組みした鉄面皮が「ハァ?」と頓着のない聞き返しをしてきた。「なんだそりゃ、じゃあ何のために来たんだよ」と言ってひそめられた眉に、「今日、仕事で行ったクリスマスツリーの点灯式で、クリスマスケーキ貰ったんだけど」と小声で打ち明ける。
「なんだ、じゃあお前もう、ケーキ食べてんのか」
「いや、オレってばそこでソレ、食えなくてさ」
「なんでだよ?」
「そこのイベントスタッフがさ―――オレの事、生クリームで飾られた、イチゴみたいなもんだって」
「ハァ?」
「親っていう真っ白な土台の上に乗ってるから際立って見えるけど、もし他のと同じようにパックに入れられて売られてたらただのイチゴだって。……そう話してるの、こっそり聞いちまって」
「ふぅん」
中々うまいこと言うな、その通りじゃねえか。
ざっくりと言われた配慮も遠慮も全く無い返しにぐっと詰まりながらも、「……わかってるよ!」と言い返すと、そんなオレを見たヤツはあるかなしかの苦笑を浮かべ、眉をやわらかくしならせた。いつもだったらガンガン威圧してくるオーラは鳴りをひそめ、今はなんだか隙だらけだ。そうしてよくよく観察してみると、跳ねた髪はどうもセットではなく単なるクセ毛らしい事や、冷たい美形は意外と幼げな事とかも見えてきた。肩の力は抜けて、普段はピシッと揃えられている足も、ちょっとだらしなく組まれている。
「それでお前、今時分になってから悔しくなって、ショートケーキ探しにわざわざここまで乗り込んで来たのか?」
呆れたようなヤツの声に「…そう、だってば」と頷くと、大きくなっていた瞳が、ぱたんと一度またたいた。あ、やっぱこいつ、童顔じゃん。稚いその仕草にそんな事をぽけっと考えつつ、つるつるのほっぺたをなんとなく目で辿る。
そうして訪れた束の間の沈黙の中、ふいにもたらされた「ふ、」という稀少な音に、空気が甘く揺すられた。顔を上げた先で見つける、明るいまなざし。おかしげにすくめられたユニフォームの肩。

「――…ンだそれ、単純過ぎんだろ」

(……うわわ…わ、わらった……!)
純粋な可笑しみを滲ませ緩やかにほどけた口許に、オレは言葉を返せなかった。
機嫌よく鳴らされる喉が、奥の方で震えている。冷たかった瞳はやわらかい三日月に近付いて、拒絶ばかりを示していると思われた鼻筋には、淡い陰が落ちていた。いやでもこれってば笑ってるというより笑われてるっていう状況じゃね?一瞬そんな冷静さも差し込んできたが、熱を上げていく頭の中、そんなものはあっという間に霧散する。
「でもまあ、そうだよな。そういうのって誰かに言われなくても、自分が一番よくわかってんだよな」
くつくつとひとしきり笑えば気が済んだのだろうか、ようやく笑いを抑えたヤツはそんな独り言じみた呟きを口にすると、再び後ろのカウンターにゆったりと寄りかかった。
だから、お前も『悔しい』んだろ?
そう言ってまっすぐに向けられたまなざしが、相槌を求めるかのように細められる。
……血がどんどん熱くなり、胸がどきどきするのを感じた。蛍光灯からの強すぎる灯りが後ろに寄りかかったままのヤツを覆って、全部の景色がぼんやりと白んで見える。リラックスしきった仕草で伸びをするヤツは、なんだか育ちのいい野良猫みたいだ。
なんだよコイツ、全然、普通じゃん。いや、普通…ではない、か。
だけどもちゃんと話せるし、気を抜く時もある。口は悪いけど心根は悪くないみたいだし、それにさっきの、あの……
「……で?どうするんだ、ケーキ。チーズケーキにしとくか?」
多分この時間は、どの店でもあんまり冷蔵デザートは揃えてないとは思うが。
悔しい程にヤツに見蕩れてしまっていたオレはすっかり戻ったその飾り気のない口調にハッとすると、ちょっとやり場のないティッシュのゴミを丸めながら少し黙った。束の間の笑顔はすでに掻き消え、今はもういつもの無愛想があるだけだ。そんなヤツからの問いかけに、まあもういいか…チーズケーキでも、とオレは少しぐらついた。長持ちするらしいし、美味しいし。クリームたっぷりで甘い甘いショートケーキと比べても、ほんのり塩気があって飽きがこないし。
……でも。
「いや――もうちょい、探してみるってば。来る時も途中で何件か、コンビニの看板見えたし」
ため息混じりにそう言いながら、オレは最後にもう一度鼻をすすり上げた。きっと今諦めたら、この件はズルズルと後を引くような気がする。覚悟を決めつつしゃんと背を伸ばし、借りたティッシュの箱を返そうとオレはカウンターの方へと近付いた。きちんと整えられたカウンターに、コトンとティッシュの箱を置く。
するとなにやらじっと黙りこくって考え込んでいたようだったヤツが唐突に、「お前、腹は強い方か」と訊いてきた。…ホント、どうあってもこんないきなりで説明のない喋り方しか出来ないのかよコイツ…。相変わらずの不親切な切り出しに戸惑いつつも、拭いた鼻の下をちょっと確かめながら「まあ、普通?」とそろりと答える。

「…………そこで待ってろ」

そう言い捨てて、やっぱり何の説明もないままにスタッフルームの奥へと引っ込んでいく跳ねた後ろ頭を呆けたように見送ると、程なくして戻ってきたヤツの手には小さなプラスティック製のパッケージが持たれていた。素っ気なくカウンターの上に置かれたそれに、凝然とする。
真っ白なクリームに包まれたスポンジに載る、ピカピカの赤。
ツンと尖った三角が、白い照明を受けて誇らしげに光っている。

「えっ、ちょっ…!!?」
「騒ぐな。静かにしろ」
「――あ、あるじゃんかショートケーキ!なんで…!?」

探し求めていたその純白の姿にはくはくと言葉も無く口を開け閉めしていると、ヤツはふいっと横を向いて「これは、オレが今日持ち帰ろうとしてた分だ」と告白した。なんとなくあたりを憚るようなその気配に、「お前もケーキ、好きなんだ?」とおそるおそる窺う。しかし冷たい横顔は、その質問をピシャリと打ち落とすかのように「全然」とにべもなく答えた。これをリクエストしてきたのは兄さんだ、オレはこんなもん頼まれたって食いたくねえよ。そんな風に言うヤツのうすい唇が動くのを、なんだか化かされたような気分でぼおっと眺める。
「……オレが貰っても、いいの?」
「いい、持ってけ」
「でもこれ、兄ちゃんからの頼まれモノなんだろ?」
「いいっつってんだろ。なんかこれじゃ、オレが泣かしたみたいだし」
「なっ…ちげーよ!!!」
「このまま持って帰っても、なんかあと味悪ィから。不本意だがお前に譲ってやる」
ただし賞味期限は切れてるからな、帰ったら速やかに食えよ。
無表情でさらりと付け足された補足説明に、「はあ?」とつい素っ頓狂な声が出た。え?じゃあなにこれ、廃棄分のやつってこと?と確かめると、「そうだ。だからタダで持って帰っていい。その代わりに絶対腹壊さないよう、肝に銘じて食え」などという実に乱暴な命令が下される。
「……く、食えんの?」
「食える。余裕だ」
「でも期限切れてんだろ?」
「『賞味』だ、『消費』じゃねえし。大体がたった数時間で、それまで食えてたものが急にダメになるわけねえだろ。クレームを気にして食いもん粗末にしている事の方が、余程どうかしてる」
「食い物を粗末にする奴は目が潰れるって、ガキの頃教わっただろ?」と堂々と主張するヤツに「そうなの?」と相槌を打ってみたが、一応尋ねてみただけで実際のところ、オレの見識はヤツにとってはどうでもいい事のようだった。しかしさしものヤツも、ちょっとは憚りがあると思ったのだろう。急に渋顔になってたかと思うと、「まあ、店には出さねえけどな。従業員特権だ」と終わりを濁す。続けて言われた「こんな真夜中までタダ働きさせられてるんだ、そのくらいの特権はあってもいいだろ」などという言い訳じみた追加事項に、ふと引っ掛かりを感じたオレは、すいっと顔を上げた。
「――タダ働き?なんで?」
どういう事?とさりげなく混ぜられた不自然な言葉に探りを入れると、嫌な質問だったのか元からのしかめつらが更にギュッと真ん中に寄せられた。それでも退かずに、その目を見る。昨日まではこの黒い光がおっかないばかりだったけれど、冷徹さの内側にある熱を知ってしまった今は不思議な程怖いと思わなかった。コイツの事、もっと知りたい。頭の中に浮かぶのは、そんなひたすらに純粋な欲求だけだ。
「どうして無給で働いてんの?」
「どうしてって……どうしてもだ」
「教えてよ」
「お前に教えなきゃならない義理は無い」
「みんなの前で、オレの顔ぺしゃんこにしたくせに」
「それはもう謝っただろ」
「でもさっきオレはお前から聞かれて、ちゃんとイチゴショートの話打ち明けたし。だったらオマエだってひとつ位は、オレに教えてくれてもいいんじゃねえの?」
退かない姿勢を貫いていると、そんなオレに根負けしたかのように、やがて諦めたかのようなしかめつらが、長々とした溜息をついた。「……から」というハッキリしない声に、「え?なに?」と急いで聞き返す。

「――オレ、本当はバイトじゃねえから」
「へ?」
「交換条件なんだ。金を借りるのと引き換えに、完済するまではオレ自身をオーナーに預けるのが。奴の命令でここに来てるんだ」

事も無げにいきなりそんなとんでもない話をするヤツに、思わず「…はァァ!?」とひっくり返った声をあげると、憮然顔が「うるせえな、こんな夜中に大声出すなよ」と機嫌悪く呟いた。
いやだって、お、お前自身を預けるって…!?とついまじまじと華奢に整ったヤツの全身を見渡すと、尖った口先が「…お前、何考えてる」と牽制する。
「馬鹿が。そういう意味じゃねえよ」
「――へっ!?え、あ、そ、そうなの?」
「当たり前だ。オレはまだ掘っても掘られてもいねえ」
ま、まだ?という微妙な不確定要素を気にしながらも収まらない恐慌に動悸を早くしていると、淡々とした様子のヤツは「まあ正直、オレも最初そうなっても仕方ないと思いながら奴んとこ行ったんだけど」と打ち明けた。なんだか妙に自発的な言い回しに「…まさかオマエ、自分からそんな無茶苦茶な条件持ち出したの?」と確かめると、無言の肯定が返ってくる。
「え?じゃあ何、オマエってばあのオーナーと一緒に暮らしてるって事?」
「いや、別にそれはいいらしい。奴自身も、いつもどっか飛び回ってて殆ど家にいないし。代わりにオレがここで働いてる様子を、あのメガネに毎日報告させてるんだ。オレが逃げてないかを確認してるんだろうな」
「そ、そっか…そんなガチガチに縛られてるワケじゃねえんだ…」
「まあな。でも無給だし休みもないし。結構いいようにコキ使われてるぞ」
「借りたお金って、いずれ返さなきゃならないんだろ?返せなかったらどうなんの?」
「さあ?一生タダ働きか文字通り体で返すか。何れにせよオレが決められる事じゃないからな」
「あ、あっぶねー橋渡ってんなあ…!!」
「大丈夫だ。オレには兄さん達がついてるし」
『達』?兄ちゃんて一人じゃねえの?
首を傾げてみたが、これ以上は話す必要は無いと判断したのだろう。無茶苦茶な身の上話は、もうそこで打ち切られたようだった。何でそんな無茶してんの?なんのためにそんな金が必要なの?やっぱ家の方が大変なの?尋ねてみたい気持ちは渦巻いていくばかりなのに、そこはかとなく漂う(これ以上は入ってくんな)というオーラに、なんとなくあと一歩が踏み込めない。
中途半端さにむずがるオレを放っておいたまま、ふと時計を確かめたヤツは、「やべ、もうこんな時間か」と呟くと、優雅な動きで腰を屈めた。カウンター下に収納されたホルダーからレジ袋を一枚引き抜くと、乾いた音を立ててそれを膨らめる。鮮やかな手付きでカウンターに置かれたままだったプラスチックのパッケージを袋の中にきちんと納めると、レジ脇にあるフォークを一本抜き手早く中に放り込んだ。いつも通りのパーフェクトさで流れていく一連の動作に、放置されたオレはただぼおっとするばかりだ。

「おい」
「――はっ?」
「もうじき店長がここに来る。廃棄品を客に渡したのがバレんのはさすがにまずいから、お前これ持ってもう帰れ」

あっさり告げられた退去勧告にちょっとふわふわした気分になっていたオレは、一瞬真っ白になった後、一気に湧き上がってきた焦燥に煽られた。
……あ、あれ?なに?やっぱここでオレとはもうサヨウナラって事?
焦るオレに構うことなく、さっきまでの妙にふわふわした空気を惜しげなくぶち壊した張本人は、しれっとしたまま立っている。
「まあもう会うことは無いだろうけど。お前はお前で適当に頑張れよ」
「えっ――いや、あの」
「なんだ、他にも買うものがあったのか?」
だったら袋閉じる前に言えよ、レジ通すから持ってこい。
オレとの別れに何の未練もなさそうなヤツはそう言って、一旦前に出していたレジ袋を手元に引き戻すと、一度閉めた袋の口を再び開けようとした。留められたテープに指が掛かるのを見て、慌てて「ちがっ…そうじゃ、なくて!」と小さく叫ぶ。止めに入ったオレを、訝しげな視線がゆっくりと見上げてきた。きょとんと丸くなった瞳からは険しさが消え、なんだかやけに可愛らしい。
「違うのか?」
「う、うん、買いたかったのはケーキだけだし…」
「じゃあもういいな。早く行け」
邪気のない顔から繰り出される素っ気ない絶縁の言葉に、(ううう)と内心で唸りつつ無い知恵を絞ったオレは「…で、電車が!この時間もう走ってないし、始発もまだだし!!」と捻り出すように言ってみた。しかしそれを聞いたヤツはさも呆れたように腰に手を当てて、「何言ってんだ、お前いつもタクシーで来てただろ」と切り返す。
「し、知っていましたか…」と歯切れ悪くうなだれると、感情の乗らない声が「まあな」と答えた。ついでのように「あと、わざわざ通りの端で降りてたのもな」とまで言われてしまい、ますますオレは収まりが悪くなる。
「ほんとお前変な奴だな、一体何に気を使ってたんだ?電車とか乗るとまたアレコレ言われたり勝手に撮られたりするから、変なトラブルが起こったりしないよう、わざわざタクシー使ってたんじゃねえの?」
「…は、お察しの通りです…」
「別に今は誰もいないんだから堂々と乗って帰りゃいいじゃねえか。そこの表通りだったら、一台位は多分すぐに捕まるぞ」
「いや、まあ…確かにそれはそうだと思うんだけど」
「じゃあホラ。持ってけ」
ん、と無造作に差し出された白い手に、思わず視線が釘付けになった。
ぶら下がるコンビニのレジ袋。乳白色のビニールが、ささやかな重みにやわらかな襞を寄せている。
冷たそうな指はそれでも爪先にはほんのりとした赤みを差していて、見ているオレにその内側にある熱を、確かに報せてきていた。話していたヤツの声が遠くなり、早く早くなっていく脈に目眩がする。
「じゃあな。もう泣いてンじゃねえぞ、ウスラトンカチ。お前の出てたドラマ、泣きのシーンはともかく他はまあまあ良かったし。また暇があればTV見てやるよ」
ウスラトンカチ?何それ??という些細な疑問も無くはなかったが、斟酌のない別れの言葉も全体的に見れば悪意はなく、一応激励を込めた発言であるらしかった。
しかし今はそんな事よりも目の前にある白い手に、頭の中がみるみる占領されていく。

(―――どどど、どうしよう)

コレ受け取ったら、本当にもうここに居る理由が無くなっちまうってばよ……!
あっさりと差し出されたレジ袋に、焦りはどんどん募っていくばかりだった。やっぱ帰らなきゃダメだよな?つーかコイツ見事な程ここでオレと別れる事に対して未練無いんだ…さっきまでちょっとだけいい雰囲気になってたような気がしてたし、弾んでるというのとは違うかもしれないけどなんか会話も楽しかったのに。でもそう思ったのはオレの方だけで、コイツからしたらやっぱりオレは所詮『ただの客』なのか。ほんの少しだけ自分の事話してくれたけど、あれも話の流れで仕方なく打ち明けてくれただけで、よく考えたら深い部分までは全然教えてくれなかったし。なんか「こっから先は入ってくんなオーラ」が、ぷんぷん漂ってたし。
あれこれ煩悶したけれど、それでも結局望んでいる事は、ただ一点に集中しているようだった。
―――でもオレ、コイツともっと喋ってみたいんだ。
コイツの事もっと知りたいし、オレの事ももっと知ってもらいたいし、それに……


「――あっ…あのさ!」


差し出して勢い余った手のひらが、白い手に重なった瞬間「ぱしん!」と気持ちのいい音をたてた。
柄にもなく油断していたのだろう、驚きで見開かれたまっくろな瞳が、上から自分の手を覆う大きな手を凝視している。
「おい…なんだこの手は。離せ」
「オマエさ、今日ってこの後、なんか用事ある?」
あ?と隠すことなく不機嫌を寄せた眉に、ほんの少しだけ怯みそうになったオレは、自分自身を叱咤するようににぐっと前に身を乗り出した。その動きが気に入らなかったのだろうか、ムッとした様子でヤツがまたこちらを睨む。
「そんな事聞いてどうすんだ?お前に関係ないだろ」
「いやっ、その――こ、このケーキ、一緒に食わねぇ?」
「はァァ?」
なんでオレが、という低まった声には取り合わず、オレは更にその目を覗き込んだ。
真剣すぎるオレにちょっと気圧されたのか、薄い肩がかすかに身じろぐ。どうだアイドルの本気を思い知れ。そんな事を考え目力を込めるも、内心はみっともない程に余裕が無い。必死さに汗ばむ手が恥ずかしい。多分顔も真っ赤だ。さっき泣いたせいで目も充血してる気がするし、もう気の利いた誘い文句なんて出てこない。自分でもこれが相当無茶な挑戦である事はわかってた。マネージャーあたりがこの状況を見たら、その場で卒倒するかもしれない。
でももう構うもんか、ここでこの手を離す方が、絶対後で後悔する。
きっとこの先のオレにとって、取り返しのつかない痛手となる。
「上がりって、何時?オレ待ってるし」
「だからいらねえって。それ期限切れてんだから、さっさと帰ってひとりで食えよ」
「数時間で急にダメになったりしないって言ったじゃん」
「頼まれたって食わないとも言っただろ。甘いモンは苦手なんだよ」
「……全然ダメなの?」
「全然ダメだ」
「…そ、そんなこと言わずに、一口だけでも!たまに食べると意外と美味いって時あんじゃん?」
「ねえよ。余計な事すんな」
「でもさ、このままじゃちょっとオレ、話し足りないっていうか」
「はあ?」
「…オレってば明日の仕事、午後からだし。だからその、えーと…」
「じゃあそれこそ早く帰って寝た方がいいじゃねえか。その顔一応商売道具なんだろ」
精一杯の誘い文句もザクザクと片っ端から切り捨てられ、既に満身創痍な気分のオレは項垂れたまま無念の唸りを上げた。恨みがましくそうしてみても、ヤツからは冷めた目線が淡々と送られてくるだけだ。
「くだらねえ言ってないでこの手を離せ、もうそろそろ店長が来る」という言葉に、オレは最後の一矢とばかりにガバリと顔を上げた。ああでももう本当に何も浮かんでこない。オレってばこれまでどうやって好きな女の子落としたり、ベテラン大御所俳優と仲良くなったりしてきたんだっけ?完璧すぎる絶対防御にいよいよ万事休すかと思った時、突然天啓のようなヒラメキが頭に浮かんだ。
純白のクリームの上で堂々と輝く、ツヤツヤの赤。

「――じゃ、じゃあイチゴ!イチゴお前に、あげっから!!」
「あ?いらねえよ」

とっておきの最終兵器さえも全く歯が立たず、オレはガクリと首を折った。
お前…ほんっと妙な、ウスラトンカチだな。
がっかりするオレをまたそうやって意味のわからない単語で評し、呆れ返ったようなヤツが息をつく。
ガラスの壁の向こう側、店の前の駐車場ではプラタナスの落ち葉が風に巻かれ転がっていくのが見えた。眠る街には他に、猫の鳴き声ひとつ聴こえない。月のない今夜降り注ぐのは、静かにまたたく星あかりだけだ。
冷たいんだろうなとずっと思っていた白い手は掴んでみたら予想に反して、じんわりとした温かさを今もオレに伝えてきていた。あったかい。やわらかい。そんな感動に胸高鳴らせつつも、そろそろ半端な高さで止められている腕が限界に震えだす。けれどもそれをどうにか堪え、澄んだ夜色の瞳をまた懸命に覗き込んだ。こちとらカッコつけんのが仕事なんだ、これしきの事で諦めてたまるか。
北風吹く夜の街の中、ぽっかりと明るんだ表の看板が、気楽そうな佇まいで光っている。
――店の裏手でメガネの店長が乗ってきた自転車の音がするのと、難攻不落のクールフェイスが観念したかのような舌打ちを落とすまでには、あともう、少しだけだ。