Strawberry on the Shortcake 3

大企業『うちは製鐵』が破綻するきっかけになったのは、古くから親交の深かった同郷の会社が不況の最中、他企業に買収されそうになったところを救うべく、手を差し伸べた事が端を発しているのだという。
「ホワイトナイトを買って出たのに、結果的には自分の首を絞める事になっちゃったんだね」
オレにはよくわからない経済用語のようなものを使いながら、ハンドルを握るマネージャーはそう説明した。要は人助けをしたせいで、逆に自滅してしまったという事なのだろうか。本当なのだとしたら、なんだかやるせない話だ。
「そうこうしてる内に、追い打ちのように当時取締役だったうちはの当主が急に亡くなられてね。社内がごたごたしている隙を狙われるかのようにあっという間に外資に買収されちゃったんだけど、同時に人事も一新されて。それまで経営陣を占めていたうちはの一族は、みんな締め出されちゃったって聞いてるよ」
「じゃあ、アイツも?」
「彼はさすがにまだ会社にはいなかったでしょ、ナルトとそんなに年も変わらなさそうだし」
時折バックミラーで後部座席のオレと目を合わせながら、マネージャーはヤツの背景についてざっとそんな説明をすると、最後に「だからさ。彼に関わろうとするのは、もうやめなよ」という言葉で締めくくった。
「え?」とどこか抜けたような声を出すオレに、鏡越しに気遣うような目線を送ってくる。
「どうして?」
「どうしてって、だってあまりにも取り巻いている環境が違いすぎるでしょ、ナルトとあの子では。それにどう見たって好かれてはいないし。まさかナルト、あれでも彼が自分を歓迎してると思ってるの?まだあの店に行くつもり?」
「……そういうワケじゃ、ないけど」
「本来なら何不自由なく裕福な暮らしが出来ていた筈の彼が、わざわざ割のいい深夜のバイトをしてるってことはさ、やっぱりそれなりの事情があるんだと思うよ?そういう時、横で僕らみたいなのがチョロチョロしてたらうっとおしいって。そっとしておいてあげるのが一番だよ」
納得いくようないかないような、微妙な心持ちでマネージャーの弁に黙ったままでいると、そんなオレを労わるように、「ナルトさ、初日に皆が見てる前であんな面子を潰されるような事を言われちゃったのが悔しくて、だからどうしても彼にも自分のファンになってもらいたかったんだろ?」という声が掛けられた。親身なまなざしが、再びバックミラー越しに微笑んでいる。
「ナルトは人と仲良くなるの得意だし、さっきはなんだか随分慣れた様子であの子とも会話してるみたいだったから、最初は通った甲斐あってあの彼と打ち解けることができたのかと思ったんけど。でもあの様子を見ると、やっぱり無理だったみたいだね。完敗だったんだろ?」
「それは…っ」
「いいって、わかってるから。でも事情がわかれば納得だよ、彼からしたらオレらみたいな派手派手しい仕事してる人間はきっと鼻について仕方なかったんじゃないかな。オレが彼の立場だったら、やっぱり横で華やかな生活送ってる奴がいたら面白くないと思うし。嫌いだって思ってしまう気持ちもわからなくはないよ」
――ま、いい勉強になったと思って。これ以上はもう彼に拘るのは止めにすることだね。
そう言い切って、マネージャーは軽い苦笑いを浮かべると、更に深くアクセルを踏んだ。
緩やかに上がっていくスピードに、なんだか気概の抜けてしまった体が少し持っていかれる。

  * * *

「あ、レスリー・ニールセン!」
暗くした部屋に入ってきたと同時に弾む声でそう言って、コートを着たままの母親はそのままじっとプロジェクターの画面に見入った。白いスクリーンの中、初老の俳優がぶちまけるくだらないギャグシーンに、だははと微妙に呆れ混じりの笑い声を上げる。
「しょーもなー!でもこのくだらなさが好きなんだよねえ」などと言いながらコートを脱ぐ母親に「…おかえり母ちゃん」と今更ながらに伝えると、「ただいま!」とルージュの引かれた唇が、にっと上がった。今日も張りのある気風のいい声。仕事帰りの母ちゃんは、どこかよそ行きのキリリとした匂いが残っている。
「んん?」
「……なに」
「あれっ?ナルト、あんた――なんかあったってばね?」
でしょ?とてらいのない瞳で覗き込まれたけれど、オレは「別に、そうでもねーけど」とちょっと下唇を突き出した。本当に、特別に何かがあったわけではない。ただ、ちょっと…なんというか、気持ちに張りが出ないというか、おもしろくないというか。馬鹿馬鹿しいお笑い映画でも観て腹を抱えたら少しは気分転換にでもなるだろうかとさっきから流し見ているのだけれど、どうやら一向にその効果は現れなさそうだった。
そのままむっつりと口を噤んでいると、「なーに言ってんの、顔見ただけで母ちゃんにはすぐにわかるんだから!」と自信満々に断言した母親は、片足だけ上げて姿勢悪くソファに背中を預けていたオレの横に、ぼすんと腰を落としてきた。長いスカートに包まれた柔らかな腿が、遠慮無しにオレの足に触れてくる。
マネージャーからヤツの話を聞かされた後、普段よりも更に遅い時間になってしまった撮影で、オレは再びあのコンビニに立ち寄った。しかしそこにいたのは眼鏡の店長と例のちょっとくねくねしたオーナーだけで。本人の予告通り、ヤツの姿は既に店内には無かったのだった。その時の気分を言い表すのは、少し難しい。残念というのともちょっと違う気がするし、淋しいというのもピッタリとは言い難い。
とりあえず言えるのは、なんだか妙にあのコンビニに心が残ってしまっているという事だ。
……未練、というのが一番近いかもしれない。
「ナールト、」
ちょっと甘やかすような色を混ぜながら、横に座っていた母親がオレの肩に寄り掛かってきた。いつの間にか、この人のつむじもすっかり見下ろせるようになったな。そんな事を思いながら、ちょっと座りなおす。……決してこのスキンシップ過剰気味な母親がうっとおしいという事ではないのだけれど、最近なんとなく素直にその体温を受け入れるのに葛藤がある。中学生位の頃に一応人並みに経験した、親に対する正体不明の苛立ちとはまた違う感覚だ。
「あっ…逃げた!」
「逃げてねーって」
「おっ、あんたまた大きくなった?座高だけ伸びてるのかな」
「すいませんねェ、足が短いのは母ちゃん譲りですから!」
それもそうだってばね、だっはっは!とまたデリカシーのない笑い声をあげながら、母親は頭に付けていたクリップのようなものを外して、長い髪を開放した。父の愛して止まない素直な赤毛が、滝のように落ちていく。
「―――どうしたの?母ちゃんが聞いてあげるってばね」
揺すった頭を軽く傾ける母親に、オレはしばらく口篭った。どうしたのかと訊かれても、正直困ってしまう。自分でも何がこんなに自分の気を落とさせているのかが、よくわからないのだ。スクリーンに流れている普段だったら笑える筈の下世話なギャグにも、全然気持ちが入らない。
せっかくのシアタールームなのに、こんなんじゃ勿体無いな…。どこか上の空のままの映画鑑賞に、オレはなんだか申し訳ない気分にさえなってきた。この立派すぎるほどの設備が整ったシアタールームだって、映画好きな息子のために父親が用意してくれたものだ。オレってやっぱ、スゲエ恵まれてるんだろうな。そう思うと、また更に腰が落ち着かなくなってくる。慣れ親しんだしなやかなスプリングのその柔らかさが、やけに後ろめたく感じられた。
「ほんと、なんでもねえの。なんつーか…ちょっと、気が抜けたっていうか」
「気が抜けた?」
「……今日で、いっこ仕事が終わったからさ」
「ああ、例のコンビニの撮影?」
そっか、それが残念でそんな気落ちしてるんだ?と苦笑する母の方を向くことないまま、スクリーンで動き回る俳優の驚く顔のアップをぼんやりと眺めた。照明を落としたこの部屋には沢山の色と音楽が溢れ返っているけれど、どれひとつとして自分の中に引っかかっていくものが無い。からっぽじみた頭の中にただひたすらに広がるのは、あの晩に見上げた冴え渡る夜空だ。煌々として輝くオリオンが、ちかちかと記憶の中で瞬いている。
「こないだもそうだったけど、なんかすごく久しぶりだってばね。あんたがそんなわかりやすく落ち込んでんの」
心配しているというよりもどこか嬉しそうな気配を滲ませて、母親がそう言った。
「なんでそんな嬉しそうなんだってば」とちょっとむくれると、頬杖をついた横顔がこちらを向いて、ああ、ゴメンゴメンと表情を崩す。
「だってあんた、最近どの現場でもソツなくさらっとこなしちゃってさ。昔は仕事がひとつ終わる度に、一緒に仕事した人達と別れるのが嫌だってみーみー泣いてたのに」
「まァた、なんっで母ちゃんはすぐそうやって昔の話をしたがるかなあ」
うんざりしたような声を上げたオレに構うことなく、母親は「別にそこまで暗くなる事でもないんじゃないの、そこって24時間営業のコンビニなんでしょ?いつだってまたお客さんとして行ったらいいじゃない」と事も無げに続けた。「…そういう簡単な話でもないんだってば」と歯切れ悪く告げ、オレは横を向く。ヤツに拘るのはもうやめろという、マネージャーの言葉がまた蘇った。確かにマネージャーの言い分は、客観的にはもっともらしい事を言っているのだろう。でもヤツの言葉や佇まいからは、どうしてもマネージャーの言うような日陰に落ちてしまった人間の卑屈さが感じられなかった。むしろ日々スポットライトを浴びているオレなんかよりも、よっぽど偉そうで堂々としているような気がする。
それに……

「ふうん、そんなに好きだったんだ?その店が」

膝についた肘で頬杖をつきながら、しげしげとオレを観察していたらしい母親が興味深そうに言った。
つるりと白い頬が、プロジェクターからスクリーンへと走っている光にほのぼのと照らされている。
「だから好きとかそんなんじゃ」
「でもかなり熱心に通ってたんでしょ?なに、そこで仲良しの子でもできたの?」
「――仲良くなんか」
ないってば、という崩れ落ちるような語尾で唱えた自分の声は、我ながら気落ちしてるのがありありと窺える頼り無さだった。ヤツがどんな事を考えながらあそこで働いていたのかはともかく、オレが最初から最後までヤツの世界からは排除されるべき存在だと見做されているのは、とりあえず間違いないのだろう。最後に思い切って言おうとした「また来てもいい?」という言葉さえも聞こうとしなかったのは、きっとその意思の現れなのだろうと思った。嫌う気持ちもわからなくもないと言ったマネージャーの言葉は、多分的を射ている。大体において、あの敏腕マネージャーの言う事は常識的かつ一般的だ。
なんとなく煮え切らない様子のオレを、見定めるかのように母親がじいっと覗き込んできた。
強い意思の乗った、まっすぐな視線。
この人も、いつだってしっかりと自分の足で立ってる人だ。どれだけ世間で酷評を受けようともハードな仕事を受けようとも、全部笑い飛ばせる強さを持っている。こっそりいちいち気にしているオレとは雲泥の差だ。この鋼の心はいったいどうやって造られたものなのだろうと、小さい頃からずっと働く母を見ては不思議に思っていた。自分の親ながら、まるで別世界の住人だ。

「――ちょっと泣いてみる?」

ふいに尋ねられた言葉がいつになく真剣だったので、そこまでちょっと投げやりになりかけていたオレは急に引き戻されたように体を起こした。そんなオレを、母親は変わらず素直なまなざしで見つめている。

「ばっ…!んな事するわけねえじゃん!!」
「んじゃ、久々に『ぎゅー』してあげるよ。母ちゃんのとこおいで」
「だからしねーって!いいから、そーゆーのは!!」

オレってばもうガキじゃねーし、とぶすりとして呟くと、そんなオレをしげしげと見詰めた母親が、「でもねー、溜め込み過ぎんのは良くないってばね。ちゃんと出すものは出さないと」と何故か急に気楽な様子になってため息をついた。「あんたホントに最近あたしの前で泣かなくなっちゃったわねえ、さびしいなあ」などとまだ言う母親に、「……母ちゃんだって、家で泣いたりすることないだろ」ともそもそ言い返す。
「はー?なに言ってんの、あたしだって泣くわよ」
「いや、見たことねーけど」
「あんた母ちゃんの事なんだと思ってんの、サイボーグじゃあるまいし、辛けりゃ泣くに決まってんでしょ」
「嘘だァ、いつ、どこで?」
眉を寄せて首を傾げると、快活な光をのせた大きな瞳がキョトンと丸くなった。「んー?」とそのまま母親はしばらく考えていた様子だったが、そのうちにニンマリと、意味深な笑みを浮かべて言う。

「――それは、企業秘密だってばね」

あんたにもそういう秘密の場所が早く見つかるといいわねーなどとほろほろ笑いながら頭を撫でてこようとする手を払い除けて、「……とりあえず母ちゃんの前では絶対泣かねーってば」と睨むと、かすかに苦笑した母親は「あっそ。残念だってばね」と長い髪を揺らした。鼻のところに、愛嬌のあるシワが寄る。オレも笑うと同じ場所にシワができるのだと、初めてTVに出た時に担当してくれたカメラマンに言われたのを、なんとなく思い出した。オレやっぱこの人から生まれてるんだよなぁというどこか抜けた感慨が、のろのろと思考を通っていく。
「よし!なら代わりに、元気の出る話をしてあげるってばね!」
ぽん、と膝を打って明るんだ母親に訝しむと、赤い唇の両端がにいっと気持ちよく上がった。
浮かない顔のままそれを眺めているオレに向かい、とっておきを披露するかのように、「昼間お父さんと電話で話した時、教えてもらったんだけど」と母が嬉しげにしゃべり出す。
「今日ね、事務所を通してあんたに映画の仕事が来たんだって」
「…えっ」
「しかも監督は、ナルトの大好きな自来也監督」
「―――マジで!?」
勢い込んで前のめりになると、弾みでそのままソファから転げ落ちそうになってしまった。慌てて足をしっかり着いて、ぐんと体を伸ばすように立ち上がる。
そんなオレにニヤリとした笑いを浮かべる母を見下ろしながら、「ホントに!?マジで自来也監督?」と浮ついた声で確かめた。「マジだってばね。こんな事でウソついてどうすんの」というしっかりとした返答に、沈んでいた気分が一気に浮上する。
「ナルトってば来る仕事はCMやドラマが多かったけど、ずっと映画やりたがってたもんね。演技のレッスンもすごい一生懸命やってたし。よかったじゃない」
「うん……!」
「ね、あんたの頑張りをちゃんと見ててくれる人もいるってばね」
ニッコリ笑った母親はオレに晴れやかにそう告げると、「だから元気だしなさーい!」と言いながら立ち上がり、遠慮のない力でオレの背中をバシッとひとつ叩いた。そうしてから、痛がる俺の横で思い出したかのように「あっ・・・そうだ、でもね」と急いで付け加える。
「この話、お父さんにはあたしから先に聞いちゃったのは内緒だってばね」
「?…なんで?」
「ミナトってばナルトの驚く顔を直接見たいからって、わざわざ昼間言いたかったのを我慢して、夜家に帰ってからあんたに伝えようとしてるみたいだったから。お父さんが帰ってきたら、もう一回その『ビックリ』を再現してあげて?」
そう言って肩をすくめては「エヘヘ」と小さく舌を出す母親に呆れていると、玄関のドアが開く音と共に「ただいまぁ!」という父親の帰宅を告げる声が聴こえてきた。華やいだ声音に、思わずぱっと横を見る。すると、同じ事を思ったらしい母親の目とばちんと視線がぶつかった。見合わせた自分とは色違いのその瞳は、感心する程にお互いそっくりだ。
顔を見合わせたオレ達は、どちらからともなくちょっと弛んだ笑いを浮かべた。
「あれっナルトどこにいるの?すごいニュースがあるよ!」と声をあげながらいつになくそわついた様子の父親がほの暗いシアタールームに顔を出すのと、そんなオレ達がソファから立ち上がったのは、ほぼ同時だった。

『それではうずまきさん、お願い致します。―――3、2、1、点灯!』
マイク越しの号令と共に渡されていたレバースイッチをバチンと弾くと、背後にそびえ立つ大きなモミの木は賑やかな光でその全体を覆われ、一斉にきらきらしく輝きだした。一様に上を見上げていた群衆から、興奮したような歓声が上がる。古くなった建造物を取り壊し、新たに都内の一等地に造られた大型の商業施設はオープンしたてのつやつやとした明るさに溢れ、メインコートの中心に据えられたクリスマスツリーは見るからにその意欲がふんだんに盛り込まれているのがよくわかる豪華なものだった。てっぺんで一際強い光を放っている大きなイミテーションの星が、吹き抜けとなっている天井の夜空を背景に、くっきりと浮かび上がっている。

『――ありがとうございました、このツリーは12月26日、クリスマス翌日までの設置となります。本日はささやかではありますが、ご来場の方々にミニサイズのクリスマスケーキもお配りしておりますので、どうぞお時間ある方は――』

「ナルト!もう降りていいよ、こっちにおいで」
司会の女性がしているアナウンスを耳に抜けさせて、極彩色の電飾をぼやっと見上げているオレに、ステージの下にいたマネージャーから労い混じりの声が掛けられた。言われるがままにステージを降りると、照明の熱が無くなった途端ぶるりと背中を寒気が通っていく。ドレスダウンして着るようにとスタイリストが用意してくれていたちょっと高級なジャケットは、着心地はいいけれど寒空の下では少し薄すぎるようだ。つい二の腕を擦りたくなるのを堪えつつオレは「寒いねー、早く入ろう」と押される背中に頷きながら、控え室のある施設内へと足を向けた。
「ナルトくーん!こっち向いてー!!」
スタッフ用に準備された通路を通り抜けようとしたところで、少し離れた場所から飛んできた揃えた黄色い声に振り返った。声の主はわからなかったけれどなんとなくの方向を見定めて、にっこりと口許に微笑みを浮かべ片手を挙げる。見定めたポイントは大体合っていたのだろう、顔を向けた先で「きゃあああ!!!」という舞い上がったかのような甲高い悲鳴が湧き上がった。顔のはっきりしない彼女たちに向けひらひらと手を振りながら、クリスマスツリーに照らされた会場を後にする。
あのコンビニでの撮影最終日から一週間。
母親のフライング(もちろんその後でもう一度オレは父親の前で『ビックリ』を再現した訳だが、あまりにも全力すぎるその様子を怪しんだ父親によって逆にあっという間に母親のズルはバレたのだった)により知らされた例の映画の話はもちろん本当の事で、昔から憧れていた映画監督からのオファーは、オレに再びのやる気と自信をもたらしていた。あのコンビニやヤツの事を全く考えなくなった訳ではないけれど、自分の夢が近付いた途端、他愛なく気持ちはそちらの方ばかり向く。なんとなく自分が薄情になったような気がしなくもないけれど、別に何もおかしくなんかないし間違ってもいない筈だ。それに多分あちらに至っては、もう爪の先ほどもオレの事なんて思い出したりなんかしてないだろう。……というか、むしろせいせいしたと思ってるだろうし。オレはオレで、これまでの毎日に戻った。ただ、それだけの事だ。
「お疲れ様、今日のスケジュールはこれで終わりだよ」
人でごった返す会場から抜け出して『STAFF ONLY』と書かれた鉄の扉を押して奥の通路に入ると、ホッとした様子のマネージャーが肩を叩いてきた。明日は午後から○テレで撮影だから少しのんびりできるかな。ああでも多分撮影は深夜まで掛かるから、しっかり寝といてね、お昼ごはん食べた頃にマンションまで迎えに行くよ。スラスラと続けられる確認に、「了解だってば」と軽く頷く。
「この後どうする?ちょっと遅くなっちゃったし、お腹空いてるようなら何か食べて帰ろうか」
「ん~、じゃあラーメンで!」
「…ちゃんと野菜炒めもつけてくれるならね」
ナルトが決めるメニューだと全然野菜が足りてないからちゃんと見張るようにって、この前僕クシナさんから叱られたばっかなんだよ、とちょっと情けない顔をするマネージャーに笑いかけながら着替えようとしたオレは、ジャケットを脱いだところでふと違和感を感じた。
あれ?なんだか会場に行く前よりも、頭がすうすうしている気がする。
「あっ…そっか、帽子」
「ん?」
「ごめんテンゾウさん、帽子忘れてきちゃった」
ジャケットに合わせて用意されていた中折れ帽を点灯式の前に脱いだのを思い出して、オレは帰り支度を整えながら椅子に座って待つマネージャーの、少し気の抜けた顔を見下ろした。あっ、ホントだ忘れてるねとやはり今まで気がつかなかった様子で、マネージャーが立ち上がる。
「どこ?ステージ上がる前に脱いでたっけ、僕が取ってくるよ」
「あー…あ、いいってばよ、オレ自分で取りにいくから」
「ダメだよ、まだまだあそこ人で一杯だし。すんなり帰って来れないって」
「へーきへーき、アレ着てくから。頭もフード被っちゃうし」
そう言ってつい今しがた喋りながら見つけた壁に掛けられたままのベンチコートを指差すと、早くも動き出そうとしていたマネージャーが「ああ、なるほど」と納得したような息を漏らした。ハンガーから外して裏返してみると、誰のものかはわからないその真新しいコートは先ほどのモミの木にもよく似た穏やかなグリーンのナイロン生地で出来ていて、背中の所には商業施設のロゴとでかでかとした「STAFF」の文字が白抜きで印字されている。大きめのサイズは、ジャケットを着たままのオレを綺麗に包んでくれそうだ。
「あとオレ実はケーキもちょっと欲しかったんだよね。ついでに貰ってくるってば」
「なんだ、そうだったの?先に言えば良かったのに」
でもやっぱ僕がと尚も言いかけたところで携帯が鳴り出して、マネージャーはようやく口を閉じた。ポケットに手を伸ばす彼を尻目に拝借したベンチコートを羽織り、すっぽりとフードを被る。「じゃあね」と手を振って出ていこうとするオレに、しょうがないなといった様子の顔が「すぐに戻ってくるんだよ」と念を押してきた。まったく、いつまでも子供扱いして。小さい頃からの付き合いのせいか、このマネージャーは今でもどこかオレに対して過保護気味だ。
控え室を出て従業員用通路を歩いていると、まだまだ人で賑わう表の喧騒がコンクリートで両脇を固められた廊下にこだましていた。重たい鉄製の扉に辿り着いて、ぐっとその取っ手に力をこめる。開かれていく隙間から、先程とは比べ物にならない程の音の洪水が一気になだれ込んできた。
(ええと、確かさっきまで立ってたのはあの辺で、帽子を脱いだのはあの椅子の辺りで)
おぼろげな記憶を頼りに、置き去りにしてしまっていた帽子を探して人混みの中を進んでいても、ブカブカのスタッフコートはやはり上手にオレを隠してくれているようだった。ユニフォームというのは不思議なものだ。いい意味にも悪い意味にも、個性を消してくれる。
――そういえばアイツだけは、制服着てる時も着てない時も、雰囲気が殆ど変わらなかったな。
カウンターの内側にいた圧倒的な存在感を思い出して、オレは寒さに痺れた鼻をちょっと擦った。
どこまでも傲岸不遜、怖いものなんて何も無いといった様子のあのすまし顔。着てる物を丸ごと無視して滲み出ていたあれが、もしかしたら例の『オーラ』とかいうやつなのかもしれない。

「うわっ、こんなとこに忘れ物してる奴がいる」

ふいに込み上げてきたなんともいえない感慨に捕われていたオレだったが、ふいに耳が拾った『忘れ物』という単語に呼び戻された。続いて「参ったなーもうこの椅子片付けたいのに」というため息混じりの言葉。ちょっと背伸びして声の方に首を巡らせると、自分と同じスタッフジャケットを着た若い従業員の男が二人、ステージ下に並べられていたパイプ椅子を片付けようとしているのが見えた。手にしているのは間違いなく、オレの探し物だ。
「あれ?それさっき『ナルト』が被ってたやつじゃねえ?」
「あ、そういやそうかも。なんか見覚えあんな」
んじゃ後で持ってけばいいか、などと言いながら男たちは帽子を眺めていたが、そのうちに先にそれを見つけた方がくるりとそれをひっくり返し、ちらりとその内側を確かめた。丁寧に縫い付けられた有名ブランドのラベルを見つけると、「ひゃー、やっぱいいとこのヤツ持ってんなあ」とため息をつく。
「いや、用意してんのはスタイリストだろ?」
「そうかあ?でもコイツんち絶対金あるだろ。コイツも稼いでるし」
「…まあなあ、今人気あるよな。うちのねーちゃんも好きだって言ってたし」
「えっ、マジで?それってどうなの」
「なんで、お前『ナルト』嫌い?」
会話を交わし合う当人達はどこまでも気楽な様子だったが、そっと聞き耳を立てているオレはとてもじゃないけど落ち着いてなんていられなかった。
心臓がずくんずくんと痛みの混じる音を打ち始める。
聞きたくない、聞くべきじゃないという思いが嵐のように体内で渦を巻く……なのに、どうしてもそこから足が動かない。
「んー、別に嫌いって程じゃねえけど、あんまり好きでもないかな」
「なんで?」
「だってあいつ所詮二世タレントだろ?よくテレビ出てるっつったって、親父さんやお袋さんのコネとかもあんじゃねえの。つか事務所の社長が父親とかって、そりゃ力入れてもらえて当然じゃねえ?」
「あー…ま、それはそうかもな」
「いいよなー、土台からしてもう他と違うワケじゃん?最初っからひとりだけ目を引けるっていうかさ。――あ、ほら、ちょうどあれみたいな感じだって」
「『あれ』?」
そう言って男の片割れが顎をしゃくると、示した先には先程司会の女性が説明していた、来場者に配るためのミニサイズのクリスマスケーキが台の上に置かれていた。これもキャンペーン用に雇われて来ているのだろう、サンタクロースのコスチュームに身を包んだ女性達がにこやかにそれを配っている。
「どういう意味?」
「だからさ、あいつみたいなのは真っ白なクリームでデコレーションされたイチゴみたいなもんだってこと。パックで売られてたらただのイチゴだけど、ケーキに乗っかった途端それ一個だけが特別っぽくなるだろ?」
「――おお、なるほどなぁ」
「まあどっちにしろ生モノだから、賞味期限は短いけどな」
うまいなお前、とどこか感心するような相方に「えっ、そう?わはは」などとちょっと得意げにしている男を遠巻きに呆然と眺めながら、オレはようやく動かせるようになった足で少しずつ後ろへと躙っていった。あちこちで起こるさざめきのような笑い声が、強制的に思考を止めた頭の中にわんわんと響く。
男達が何気なくこちらを向いたのを機にぱっと身を翻したオレは、そのまま再び重たい鉄の扉を押し開けて、小走りで廊下を進み控え室へと戻った。ノック無しにドアを開けたオレに椅子に掛けたまま車の鍵を弄んでいたマネージャーはちょっと驚いたようだったが、オレが手ぶらで帰ってきたのを認めるとますます妙な顔つきになった。いつの間にか、コートの内側ではジャケットを着たままの背中が冷たい汗でびっしょり濡れている。
「あれ?帽子見つからなかったの?」
「……うん」
「じゃあ後でここの人に落し物で見つかったら連絡してもらうよう言っとくよ。ケーキは食べられた?」
答えに詰まったまま押し黙ってうつむいていると、「やっぱり。さすがに人が凄くて取りに行けなかったんでしょ」とマネージャーはわかったような笑いを浮かべた。でも大丈夫だよ、さっきイベントの責任者の方とスタッフさんが来て、お前にってこれ置いてってくれたから。
「よかったね、食べたかったんでしょコレ。僕のもあるけど、欲しかったらナルトにあげるよ」
「……」
「これ食べ終えたら行こうか」
ニッコリと差し出された二枚のプレートには、さっき配っていたものと同じ小さなクリスマスケーキがそれぞれ載っていた。
つんと立つ純白の生クリームに飾り立てられた、真っ赤なイチゴ。艶めいたゼリーのようなものが掛かる表面にはぴかぴかとした光が溶け、ケーキの上で燦然と輝いている。

「――ごめんテンゾウさん、やっぱオレいいや」

二つともテンゾウさん食べてくんない?と皿を押し返すと「うそっ、なんで!?」とマネージャーは大袈裟なほどに驚いた。あんまりにも罪のないその顔に、ついするりと嘘が出る。
「実はオレってばさっき向こうで食べてきちゃってさ。もう腹一杯で」
「そうなの?よくあの中で食べれたね」
「…うん、端っこの方はあんま人いなかったから」
だからやっぱラーメンもいいや、このまま帰り道に家の前で降ろして欲しいってば。
笑顔でそう告げると、マネージャーは「えー、そうなの?僕ももう若くないしちょっと食べただけですぐ太っちゃうのに」などとブツブツ言いながらも、添えられていたプラスティックのフォークでその中心をさくりと刺して小さなケーキを平らげた。そのままの勢いで、もうひとつもひょいと口に放り込む。
「んー。ま、美味しいけど無難だね」
むぐむぐと咀嚼しながらそんなコメントを残して、マネージャーは立ち上がった。
返事のしようがないオレは言葉もないままふにゃりとした笑顔を拵えて、既にマネージャーによって帰る準備が終えられている、自分の荷物を手に取った。

――しんとした部屋で、時計の針がコチコチと鳴っている。
都心の渋滞にうんざりさせられながらようやく家に帰るとテーブルの上には書置きがあって、『おかえりナルト、おつかれさま。今日は急にパーティーに出る事になったので遅くなります。先に寝ててね。戸締りはキチンとするように。晩御飯ひとりになっちゃってごめんね、なんでも好きなもの食べていいから。冷凍庫に頂き物のアイスもあるよ』という父親の文字と、紙の端には母親の落書き(多分野菜だと思われる何か)が残っていた。多分夫婦同伴での会なのだろう。うちではそう珍しくない書置きだ。
結局ずっと着たままのジャケットを脱いで、丁寧にハンガーに掛けた。
長々当たった熱いシャワーで冷えた体を温め直して、ふかふかのタオルで体を拭う。
さっぱりと新しいシャツに腕を通し、着慣れたトレーナーを被る。一瞬真っ暗になった後で、すぽんと顔が出て視界が明るくなった。
広いL字型のキッチンでケトルに火を掛けて、カップ麺のラベルをペリリと剥がす。
お湯を注いで3分。コンロの前で立ったまま、先程拾い聞いてしまった会話を思い出した。
100%誰からも好かれる人間なんていない。
絶対に誰からも嫌われない人間なんてのもいない。
そんなのわかってる、当たり前の事だ。そんな事で今更傷ついたりするもんか。それに確かにオレは最初から他の奴らよりも優遇されている。名高いふたりの親の、その大きな腕に守られている。
……だけどオレだってオレの、出来ることをやっている。努力を重ねている。それを見ていてくれる人もいるし、認めてくれている人だっている。
あの両親に負けないように、その名に恥じないように。オレはオレで、ちゃんと、頑張ってる。
だけど。だけど、どれだけ頑張ってても。やっぱり、オレは……


『別に。悪くなんかねェよ』


折れかけた心の中、あの晩素っ気なく言われたヤツの言葉が、ふいにほのかな熱を灯した。
もしかしたらあの完璧そうに見えるヤツにも、オレと同じように、震えるほどの感情に揺さぶられる時があるのだろうか。あの整い過ぎなほど整った顔が、格好の付かない自尊心で歪む瞬間があるのだろうか。
……考え始めたら、どんどん体の中が熱くなってきた。心臓が冗談みたいにどきどきと早まっていき、ワケもわからないまま兎に角動き出したい衝動に駆られる。
悔しく思わなくなったら終わりだと、そう言ったアイツ。
あんなに冷たい佇まいで、乱れのない横顔で。ヤツはその内側で、どんな炎を抱えているのだろう。どんな熱を隠し持っているのだろう。
『悔しい』って。――アイツもそう、思ってる?

(――ちくしょう、こんなんに負けてたまるかってば)

ぐっと堪えた喉の奥、じんと痺れる頭でオレは固く決意した。
食ってやるぜイチゴショート。尖ったフォークでグサリと刺して、大口開けて飲み込んでやる。
そうは思ったものの、もちろん我が家にそう都合よくお誂え向きのケーキが用意されている訳などなく、キッチンで立ったままオレはしばし考えた。すでに時刻は日付を越えそうな時間だし、こんな遅くにまでやっているケーキ屋なんてどこにもないだろう。だけど今は、この勢いを殺したくない気分だ。
ふと真っ暗な闇の中に建つ、明るい看板が頭をよぎった。レジ籠の中に入れられていた、プラスチックのパッケージ。きちんと整えられた陳列棚、清潔な冷気漂う冷蔵コーナー。『年中無休・24H』という、くっきりと看板に書かれた文字がピカリと光る。うちのマンションの徒歩圏内にある店舗は三軒だ。更にそのうちの一軒はヤツがいたのと同じ青い看板。同じ系列店ならば置いてる品だってほぼ同じだろう、まずはそこから攻めてみるか。

3分。オレは待つことが出来なかった。
ふやけていくカップ麺を置きっぱなしにしたままキッチンを飛び出し、いつも着ているダウンジャケットを羽織り財布だけをポケットに突っ込む。
両親の書置きをひっくり返しまだ何も書かれていない面に、ちょっと考えてからたった一行、サインペンで走り書きをした。そのままペンを重し代わりに紙の上に転がして、足早にそこを後にする。
リビングの電気を消す前に、最後に一瞬だけその書置きを見直した。なんだか両親の残した文面に比べると随分と短くて端的なような気もしたが、他に書きようがないのだから仕方ない。


『ちょっとコンビニ行ってきます』


玄関を出てガチャリと回したシリンダーの硬質な音が、妙な高揚感と緊張感とを増幅させた。
理由のわからない焦燥を抱えながら、オレはとりあえずの一歩を踏み出した。