Strawberry on the Shortcake 2

タクシーから降りて眺めるプラタナスの並木通りは、この数日ですっかり馴染んだ道となった。
はらはらと渇いて落ちる、広げた手のひらのような大きな葉を靴先で散らす。
なんとなく横付けするのが後ろめたくて、店の建つ大通りの端で車を降りるようになってから今日で4日。この先にあるその店の事を思うと、何故か不思議な程気分が高揚した。夜の街に秩序と潔癖をたたえて建つ、ぽっかりと明るい空間。無愛想な帝王とそれにかしずく家来達が、一寸の手を抜くことなくそれを造り出している。
ふとこんなに仕事場に行く気分が軽いのは久しぶりな事に気が付くと、オレは急に速まってしまっていた足が恥ずかしくなってきた。……オレってばなんか、変だ。あそこにいるのはオレのプライドをズタズタにしてくれた、いけ好かないスカシ野郎とその手下共のはずなのに。
顎を上げ、等間隔に灯った街燈を見上げる。
吐いた息が淡くけむって、後ろにゆるりと流れていった。

  * * *

「――うずまきさん!」
街中の店舗にしては広めの駐車場(多分この駐車場がここをロケ地選んだ理由なのだろう)を斜めに横切ろうとしていると、後ろから穏やかに低まった声が話しかけてきた。
立ち止まって振り向いたところには、仰ぎ見る程の大きな影。重たそうなダッフルコートに身を包んで、夜を背負った大男が「こんばんは」と笑顔を浮かべている。
「撮影何時からでしたっけ?まだ結構時間ありますよね」
「えぇと、……ごめんなさい、どちら様でしたっけ?」
なんとなく見たことあるような気はするんだけど決定的な何かが足りない感じがして、申し訳なく思いつつ訝しむ目付きをすると、その大男は「ああそうか、俺ここのバイトです。初日にお会いしたんですけど」とちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべた。「あの日以来俺シフト入ってなかったし、夜ここに来てないから憶えてないですよね」と気まずそうに頭を掻く彼に、「いやっ…そんな事ないって、ちゃんと覚えてる!」と慌てて言う。
「ほら、今私服だからさ。制服着てないから、別人みたいに見えただけ」
「そうですか?」
「うん、その格好だとなんか学生サンみたいだってばよ」
「……学生ですよ、俺」
21なんです、これでも。よく言われる事なのだろう、慣れた様子で年齢を明かして苦笑する彼に、オレは更に墓穴を掘ったのを知った。しかし申し訳ないけれど、この落ち着きはとてもハタチそこそこの若者とは思えない。もう立派な三十路です、と言われても多分納得しただろう。
「うわ…!あの、その…す、すんません」
「いえいえ、大丈夫です。いつものことだから」
「……ここのバイトの人達って皆、学生さんなの?鬼灯君も専門に通ってるって言ってたけど」
いつもいる気さくな彼が以前ちらりとそんな事を言っていたのを思い出して尋ねると、その老成した青年はしばらく考えて、「そうですね、一応」となんだか煮え切らない返答をした。「いちおう?」と訊き返すと、高い位置にある双眸がちょっと困ったように細くなる。
「サスケだけは今、ちょっとお休みしてるから」
「何を?」
「学校を」
「…なんで?」
つい突っ込んで訊いてしまった質問に、寛容そうな彼が本格的に困りだしてしまうのを見て、オレはもどかしく思いつつもそれ以上は口を噤んだ。……別にヤツのバックグラウンドなんて、どうでもいいし。そうは思うのだけれど、やっぱりもうちょっとだけ話を掘り下げたかったというのも本当だった。なんでこんなにあんなヤツの事が気になるのだろう。アイツとは腹立たしいやり取りしか記憶にないし、撮影は残すところあと二回だけじゃないか。
明日を最後に、もう会わないのに。会えないのに。
(――『会えないのに』?)
なんだそりゃ、と意識することなく湧き出た言葉に、わずかに鼻白んだ。
おかしいだろそれ、それじゃまるで、オレがヤツに会えなくなるのを惜しんでるみたいじゃねぇか。
アホくせえ、確かに今でもあの初日に起こった事件の事を思うと悔しいけど、長々気にするべき事じゃないだろう。だいいち、撮影毎にある出会いをいちいち気にしていたら、この世界キリがない。
父ちゃんや母ちゃんが言うように、オレはオレだ。オレの良さをわかってくれる人達がいるならそれでいいし、やれることをやっていたらいいじゃないか。
そんな事を思いながら、その大男のバイト君と一緒に自動ドアの前に立った。
レールを引き摺るような音をたてて、今日も曇りひとつないガラス扉が開く。

「……あれっ、もしかして『ナルト』?」

『うずまきナルト』じゃねえ?
すれ違いざま、いきなりの呼び捨てに振り向くと、ジーンズに光沢の強いダウンジャケットというこれまたいかにも遊び慣れている学生然とした若い男が、好奇心混じりの驚きと共に目を見開いていた。有線か何かなのか、店内を流れる軽いBGMと共に、興味深々といった様子の視線がこちらを見る。スニーカーの足先から頭のてっぺんまでをじろじろと遠慮ない目付きで確かめると、男はまた「やっぱそうだ」と納得したように頷いた。
「うわ、マジか。やっべえ、オレ超ついてんじゃん!」
「はあ、…ども」
「えっなに、この辺に住んでるとか?」
「いや、そういう訳じゃないってばよ」
うおー、やったあ『てばよ』いただきましたァ!!
つい口をついて出た口癖に、男は揚げ足をとったかのようにそれをオウム返しにすると、いそいそと嬉しげに上着のポケットを探った。しかし探していたものが見つからなかったのか、あれ?と首をひねりながら、今度はジーンズの後ろポケットを触っている。その様子を気にかけながらも、隣りにいた大男のバイト君は、「…じゃあオレ、交代の時間があるので」と言ってそっと振り返りながらも奥のスタッフルームの方へ消えていった。自動ドアのセンサーの真下に、オレとダウンジャケットの男だけが残される。なにやら物探しを続けていたらしい男は、やがてそれが無駄だと悟ると、悔しげに舌を打った。
「くっそありえねえだろ、こんな時に限って携帯忘れるとか!」
「……えっと」
「あー、じゃあサイン!サイン書いてもらってもいいスか!?」
書くもの書くもの!と小さく喚きながら手ぶらで来ていたらしい男はちょっと辺りを見渡すと、丁度近くのカウンターにいたざんぎりオカッパのバイト君を急いで手招きした。男が店の出入り口を塞ぐように立つせいで、さっきから自動ドアが開けっ放しだ。それを気にする風もなく「あのさ、なんか書くもの貸してくんない?」と言う男に、馴染みのバイト君はうろんな目付きを送っていたが、結局は胸ポケットに指していたボールペンを仕方なさそうに差し出した。雑誌コーナーで立ち読みしている塾帰りの高校生らしき男子生徒が、チラチラとこちらを気にしている。
「ごめん、紙かなんかもない?色紙とか貰えたら嬉しいんだけど」
「差し上げられるようなものはないですねぇ」
「あっそう――あ!じゃあこれに」
この裏に書いてよ、と男が取り出したのは、ダウンジャケットのポケットの中で適当に丸められていたレシートだった。
……多分、というか間違いなく、これはつい今しがた、ここで買い物した際に入手したばかりのものなのだろう。早々に折られた角に、頭上にある看板と同じロゴマークが見えた。くしゃくしゃな紙片に言葉を無くしていると、手のひらの内側でそれをのしてシワを伸ばした男は、「ゴメン、今なんも持ってなくてさ」と悪意のない顔で裏返したそれを差し出した。
(サインくださいっつっても、なあ……この人絶対、別にオレのファンとかではないよな)
気楽な手に最初にこちらを見た時の物珍しいものを発見したかのような単純な視線を思い出すと、なんだか諦めのようなものが押し寄せてきた。多分彼は、『芸能人に会ったぞ!』という証拠を人に見せたいだけなんだろう。サインしたところで、このシワシワのレシートが今後大切にされるとは到底思えなかった。というか、こんなレシートの裏なんかに書かせなくても、まっさらな紙だったら今目の前にあるこの店でいくらでも売ってるじゃないか。まあ要は、金を出してまでは、という事なのだろう。
じゃあ一通り話題の種になった後、オレの名前入りのそれは一体どんな末路を辿るんだろうと考えると、あまり明るい気分はしなかった。
というか、最初にいきなり呼び捨てとか。あれってなあ――なんていうか、いい気分はしないんだよな、どうしても。
「ちっさいけど書けるよね?」
「いや、ちっさいとかってよりもさ…」
「え?ダメなの?」
「……そういう訳じゃ」
「じゃあここに!お願いしまっす!」
調子づいた口調でニコニコしながら裏返したレシートとボールペンを押し付けられて、オレはいよいよ困惑した。
やっぱ、書くべき……なんだろうな。
別にオレってばちょっと名前が知られてるってだけで、大物タレントってわけでもないし。第一『そういうキャラ』でも、断れるほどの威厳があるわけでもない。ここで癇癪を起こして、結果的に損をするのは自分の方ばかりだ。マネージャーや両親といった、周りでオレを支えていてくれている人達にも迷惑が及ぶかもしれない。『芸能一家のワガママ息子』だなんて書かれたら腹立つし。万が一にでも両親の教育方針がどうこうとか言われるのは絶対に嫌だ。
多分彼にも悪気なんてないのだ。――ただ単に、オレが軽く見られてるというだけで。
ちょっと引き攣れる表情筋を励ましながら、オレは感覚の薄まった指先でレシートを受け取った。
大丈夫だ、どうってことない、ちゃんと書ける。そう思いつつも、思考に靄が掛かってくる。
なんだか、モルヒネの海にでも突き落とされたかのようだ。


「―――おい。邪魔だ、そこ」


突然ぼそっと落とされた不機嫌極まる声は、麻痺しかけていた頭に、冴えざえとした感覚を呼び戻した。
不遜な言葉遣いに、男が声の方を振り返る。
遅れてゆっくりと顔を上げたところに、凛と立つまっくろなシルエットがあった。
パーカーにスタジャンを重ね、すらりとした足をジーンズで包んでいる。いつも丁寧で完璧な仕事をする手は、やはり両方共ポケットに突っ込まれたままだ。開けっ放しになっている自動ドアからの寒さのせいだろうか、わずかに丸められた背中が、店を満たすしろじろとした明るさを背負っている。
「あ?…ああ、ゴメン」
「どけよ」
「今どくって。すぐだからさ」
…ンだよ、偉そうに。小さくそう言いながらも、男はオレを見ると「ごめん、なんか言われちゃったしさ、ちゃちゃっと書いてよ」とまた調子よく言った。きっと制服を着ていないせいだろう、男は彼がここの従業員だとは気が付いていないようだ。
感覚が戻った頭で、紙くず同然の紙片に名前を書くには、相当な労力が必要だった。
くそ…カッコ悪ィ…!!よりによってコイツの前で、こんな場面を見せなくてはならないとは。
ペンを持つ手が震える。――手元に視線を落としながらも、頬を射してくる横からのまっすぐな視線が痛くて、書き終えてからもオレはなんだか顔を上げられなかった。
「あっ書けた?悪いね~ありがと!」
動きを止めたボールペンを見て取ると男は満足そうな声をあげ、ひらりとオレの手からレシートをつまみ取った。書かれた文字を確かめる事もなく、再びそのレシートはいい加減にポケットに放り込まれる。目で確認は取れないけれど、ダウンジャケットの中でレシートが折れる『くしゃっ』という音が聴こえた気がした。
……まあね。やっぱそんなもんだよな。
予想はしていたけれど実際目にした適当な扱いに、言いようのない悔しさがじわっと滲み出してきた。我慢だ、我慢、こんなの笑い飛ばせ。自分自身に言い聞かせるかのように、口の両端を無理に上げ、寛容な笑顔を作り上げる。
『証拠品』を手に入れた男は、あとはもう用済みとばかりに機嫌よく手を振って離れて行こうとした。

「待てよ」

ふいに落とされた冷徹そうな声に、心臓がどくんとひとつ、高鳴った。
ゆっくりと、振り返る。呆然と見開いた目線の先に、変わらぬ無表情でいるヤツを見た。
立ち去っていこうとしている男の背中に、怜悧な黒がひたりと狙いを定めている。
「ちゃんとしまってかなくていいのか?」
「はぁ?」
「そんな紙くずに書かせる程、どうしても欲しかったサインなんだろ」
――ならもっと、大事に扱えよ。
素っ気なく言われた言葉に、不覚にも涙が出そうになった。
なにコイツ、オレの事馬鹿にしてたんじゃねえの?想定外の行動に驚きつつその表情をうかがったが、凍ったままのその瞳からは、何を思っているのかまでは読み取れなかった。振り返らされた男が、だんだんと渋い顔になる。そんなオレ達を余所に、ポケットに手を突っ込んだままのヤツだけが、ひとり涼しい顔だ。
なんだよ、さっきからいちいちうるせぇなあ!苛立たしげに言いながらも、男はポケットの中にそろりと手を入れてレシートの状態を確認すると、気が付いたかのようにちょっと顔をしかめた。バツが悪そうにそれを出しちょっとシワを伸ばすと、ジャケットのポケットから取り出した財布の中にしまい直した。
「これでいいんだろ!」
一声唸ると、男は今度こそ力を込めて背を向けた。
足早に去っていく後ろ姿が、どことなく恥ずかしそうだ。
「えっと――その、ありが」
「お前さ。よく笑えんな、あんな事されて」
呆れたように呟くヤツの声が、殊勝な気分になって言いかけたお礼を、ばっさりと切り捨てた。物珍しさで寄ってきただけの奴に愛想振りまくとか。オレだったらありえねえな。
(うわっ…うっかりいいヤツかと思いきや、やっぱコイツすげーキツいってば…!)
言われた容赦無い発言を聞けば、途端に開いていた喉が詰まった。小さくなっていく男の後ろ姿を眇めた目で見るヤツの横顔に、ぎゅっとこぶしを握り締める。
震えるほど嫌なら、断ったらいいんじゃねえの。やりたくないって。
ふとそんな事を言われ、ハッとしてその冷めた横顔を見た。言っている事はキツいままだけれど、その口調は妙に凪いでいる。
「ちが…ッ、そんなんじゃねえし!」
むきになって言い返したが、それもヤツにとってはどうでもいい事のようだった。
「ふぅん」という適当な返事だけで、男が見えなくなった後は、星の瞬く夜空を見上げている。

「イヤとかそんなんじゃなくて、ただッ…」
「……」
「――ただちょっと、悔しい、だけだってば」

ホント、そんだけ!悪かったなァこんちくしょう!!
自棄っぱちのような啖呵を切ると、その勢いに撃ち落とされたかのように、上を見ていたまなざしが、ゆっくりとこちらに降りてきた。
まっくろな瞳が、僅かな光を載せている。


「……別に。悪くなんかねェよ」


――悔しく思わなくなったら、それこそ終わりだろ。
しんと冷えた空気を通して聴こえてきた言葉は、やけに素直な響きで、オレの中に伝わってきた。虚勢を振りかざし踏ん張っていた足から、不思議な程力が抜けていく。
そんなオレの前を、ポケットに両手を突っ込んだままのヤツが、音もなく通り過ぎていった。無造作にあちこちを向いている黒髪が、その横顔を隠している。ちょっと丸まった背中は止まる事なくさっさと遠のいていき、言葉を無くして立ち尽くすオレだけが、自動ドア前で呆然と残された。
「うずまきサンそこどいて、寒いからー」といういつものバイト君の、すっかり緊張感の無くなった声が、カウンターの中から飛んできた。
慌ててセンサーの下から一歩さがって、店の外で大きく息をはく。整った横顔から聴こえた声が今になってから広がってきて、なんだか胸の奥にはじんとした熱が灯ったようだった。
店内からの照明が眩しくて、何度かまばたきを繰り返す。
ふと振り返って先程までのヤツと同じように上を見上げてみると、真っ暗な天球で青白いオリオンが、凍てついた炎を燃やしていた。

「クリスマスケーキ?」
いよいよきた最終日。うっすら抱いていた期待を無視するかのようにヤツは変わらぬ無表情を貫いていたが、肉まんを注文したはずのオレに対して、無言のまま一枚のチラシを差し出した。昨日に引き続き、かつてないヤツからのアクションに思わずそわそわと狼狽える。クリスマスカラーで彩られたカラーのチラシには、いわゆる「生デコ」と呼ばれるようなごくごく無難なホールケーキが印刷されていた。どうやらここのコンビニエンスストアで専売されるクリスマスケーキの、予約が始まっているらしい。
「え?な、なんでオレに?」
「別に。来店者には必ず渡すようにと言いつけられているから、渡しただけだ」
妙に上擦った声になってしまったのを恥ずかしく思いながら訊き返したが、肩透かしのような返答が返ってきただけだった。あっそう。……あっそう!恥ずかしさをもみ消すかのように内心でうじうじ呟くオレに、素知らぬ顔をしたヤツは「一応渡しただけだから、頼む必要なんかねえぞ」などと更に言う。
「なんだそれ、じゃあ渡すなよ!」
「だから渡すのが決まりなんだって言ってンだろが。別にこんなコンビニのケーキなんか食べなくても、お前らみたいな仕事してたら、勝手にどっかのうまいケーキ屋の豪華な奴が、クリスマスには用意されてるだろ」
それにお前らの撮影、今日で終わりだろうが。
そんな事を言いながらちょっと首を傾げたヤツは、本当の本気で悪気があるわけではなさそうだった。ほんの少しだけ、冷たい表情にもいつもより色合いがある気がする……オレの気のせいである可能性が高いけど。でも昨日のやり取りが後を引いているのか、奴の口調からはすっかり店員ぽさが消えていた。何故だかそんな事が、馬鹿みたいに嬉しい。
まあ確かに、コイツの言ってる事も尤もなのだった。クリスマス前から年末年始にかけては各地のイベント会場を巡り、朝から晩まで胸焼けするほどのパーティー料理とケーキ三昧だろう。少なくとも、去年はそうだった。予約したところで、定められた引き取り期間内にここに来れるかはかなり怪しい。
「でもせっかくだし」
「せっかくとか関係ねえよ。ここお前の家の近くってわけでもないんだろ」
「……まあそうだけど」
「だったら無理に注文なんかすんな。付き合いで金使われんのって好きじゃねえんだ」
余計な気ィ使うんじゃねえよ、という言葉に(へ?気を使う??)と違和感を感じていると、後ろから「うわ~、さっむいねえ!」という耳に慣れた声と共に見知った短髪が並んできた。「あ、肉まんもう一個追加で!袋はひとつでいいから」と陽気に出された注文に、すっといつもの無表情に戻ったヤツが、無言のままトングを取り蒸し器の扉を開ける。ふわりと立ちのぼる湯気に、クールな顔の半分が曇った。
「えっ、テンゾウさん?」
「やっぱり、またこんな早くから来て。お仕事の邪魔しちゃダメじゃないか」
すいませんね、と苦笑いを浮かべながらちょっと腰を折ったのは、本来ならばここに来るまでにあと1時間はある筈の人だった。父親からも絶大な信を得ている彼は、ガキの頃からずっとオレに付いていてくれている、事務所きっての敏腕マネージャーだ。
「どうしてこんな早くに?」
出処のわからない落胆を押し潰しながら尋ねると、マネージャーは「今日ね、ここの撮影の前に急遽スタジオのセット使ったシーンを先に撮る事になったって、さっき連絡がきて。携帯鳴らそうかとも思ったんだけど、どうせ行き先はわかってたからね。そのまま迎えにきたんだ」と笑って答えた。「お店の方でも撮影時間遅くなるの聞いてるでしょ?」という問いに、ヤツが「…さあ。オレは今日もうすぐ上がりですし」とつれない返事を返す。
「店長に確認してみますか?」
「いや、いいよ。その辺りは制作会社の仕事だし、僕らが変に入ってしまわない方が混乱しなくていいと思うから」
そんな事を言いながら財布を出そうとしたマネージャーは、ふとカウンターの上に出してあったチラシに目を留めると、「ああ、クリスマスケーキ。もうそんな時期か」と感心したような声を出した。
写真とは別に書き連ねてある注意書きをざっと斜め読みすると、オレを見てちょっと申し訳なさそうに「残念だけど、ナルト」と眉を下げる。
「ちょっとこの引き取り期間だと、仕事が…」
「わかってるってば」
遠慮がちな釘差しにすぐさま承知している事を示すと、ホッとしたようにマネージャーが瞳をゆるませた。コートのポケットから出した財布を開きながら、「オレも多分無理なんだけど、もし手の空いてる人がいたら事務所の誰かに取りに来てもらうよう頼もうか?」などと提案する。
なるほど、その手があったか。一瞬乗りかけたが、すぐにその気持ちも萎えた。それじゃ、オレがここに来ることが出来ないという事には変わりないじゃないか。この無愛想が見れないし、対峙することが出来ない。――い、いや別にコイツにまた会いたいって意味じゃねえんだけどな!もちろんな!
「大丈夫だってば、その時期は事務所の人達もみんな忙しいし」
「そうだね……ごめんな」
君の方も、と言ってカウンターの向こうで黙ったままのヤツを見たマネージャーは、そのまま「悪いね、せっかく声を掛けてくれたみたいなのに」と続けた。いやコイツ全然そんな感じじゃなかったし…!とマネージャーの誤解に内心で言い返しているうちに、店のBGMに消されそうなほどの小さな声でヤツが「はあ、」などと反応するのを聴く。そんなずっと大人しげなヤツに何を思ったのか、マネージャーはどこかゆるんだ感じの苦笑を浮かべると、どこか余裕のある口振りで言った。
「撮影のせいで営業も中断させてるのに。売上に貢献出来なくてごめんね」
「いえ、別に」
「ナルトも。残念だったな、お友達の役に立てなくて」
「はあ!?おッ…お友達って!!」
「友達じゃないです」
急に差し向けられた会話に混ぜられたどこまでも明るい単語に、思わず身じろぎながらドギマギする胸を抑えると、速攻でそれをたたっ斬るかのような否定がずばっと振り下ろされた。だよな…友達じゃねえよな…!!迷いが一切ないそのいい口に、昨夜からうっすらと抱いてしまっていた妙な期待は瞬時に霧散する。じゃあなんだ、『お客様』か?それとも『嫌いな芸能人』か?――わかってるってばよ、見ての通りじゃねえかそんなの。なんか前が曇って見えんのは肉まん蒸し器の蒸気のせいだし。そんだけだし。でもなオマエそこんトコこそ「はあ」とか「別に」とかいい加減な返事で濁すべきとこじゃねえの一般的にさァ!
「――またまたァそんな」
やっぱり厳しいなあ、君は。どこまでも真顔で言い切ったヤツに軽く苦みながら、マネージャーは出しかけたままだった財布を開いた。そんなつれない事言わないで。ここで出会えたのも何かのご縁だろうしね。何をどう勘違いしているのか、無表情のままのヤツを恐ることなく、敏腕マネージャーがにこやかにダメ押しする。さすがだってばよテンゾウさん…海千山千の芸能界を20年近く渡ってきただけのことあるってば。全く動じない様子のマネージャーに感心はしたけれども、そんなマネージャーに反比例するかのように、ざっくりやられたままのオレの居た堪れなさはますます募っていくばかりだ。
「ケーキは残念だったけど、何か機会があればまた是非ここ使わせてもらうね。その時はよろしく、えっと…?」
「――『うちは』です」
胸に付けたネームプレートを覗き込まれる前に、ヤツはその興味をぴしゃりと跳ね除けるような声で、自ら名乗った。鋭い矢尻のようなまなざしが、笑みを浮かべたままのマネージャーを射竦める。……気のせいかもしれないけど、その名を聴いた瞬間、ほんの一瞬だけマネージャーの手が止まったように見えた。やっぱり変わった苗字だからだろうか、なんだか芸名みたいな名前だもんな。
「……そっか、うちは君か」
「お会計は別々で?」
「いや、一緒でいいよ。僕がまとめて払うから」
(あっ、オレの分はオレが出したいのに)と思い咄嗟に手が出たけれども、そんなオレに入り込む隙を持たせない雰囲気で流れるようにして会計を終えたマネージャーは、差し出されたレジ袋を丁寧な手付きで受け取ると、「行くよ、ナルト」と立ち止まったままのオレの背中を押した。
そっか、じゃあコイツ、今夜オレがここに戻ってきた時にはもういないんだ…。
そう思うと、なんだか胸の奥が切なく軋んだ。なんとなく離れがたい足が、縫い留められたかのように動かない。どうしてなのかはわからないけれど、とにかく何かここに残していかなくてはと思った。この際、『お客』だろうが『好きじゃないタレント』でも構うもんか。あの手を掴むまでは、諦めたくない。何を諦めたくないのかと問われると、答えに困るのだけれど。

「あのっ――さ!」

思い切って出した声は、案外ハッキリとした響きでヤツのところにまで伝わったらしかった。
くろぐろとした瞳が長い睫毛を持ち上げながらゆっくりと光を取り戻し、こちらに焦点が合わさっていく。

「その…この店、なんか知んないけど、結構、居心地いいし…っ」
「……」
「だからえっと…またここに、買いに」
「――お客様」

申し訳ありませんが次にお待ちの方もおられますので。
『申し訳ありません』なんてしおらしい言葉を使いつつも、実際は全然そんな謙虚さの欠片もない仕草で、ヤツはふいっと目線を外し、オレの後ろの方で出来ている会計待ちの列に声を掛けた。「お待たせしました、どうぞ」という声に、図らずも長く待たせてしまっていたらしいサラリーマンと思しきスーツの男が、ムスリとした様子で折詰の弁当とペットボトルをカウンターに置く。
「ほら、邪魔しない。もう行くよ」とまたマネージャーに促されて、仕方なくオレは止まっていた足を前に出した。ピッ、ピッという狂いのないバーコードリーダーの電子音と模範店員のようなヤツの受け答えの声が、淡々としたリズムで進んでいく。
完全無欠のアルバイトリーダー、うちはサスケ。謎のバイト店員に完敗したオレは、すごすごと店の出口に向かいマネージャーの車がとまる駐車場に出ると、中身の熱で柔らかくなったレジ袋から包まれた肉まんを取り出した。
真っ白な包み紙を剥いてふわふわの皮にかぶりつくと破れたところから猛烈な熱さの具が顔を出し、夜気の中もわっと湯気が広がった。口の中で崩れるそのアツアツの塊を、半開きの口でほふほふと熱を逃がしながら、ごくんと飲み下す。
あー…ちょっと口ん中火傷したな、これ。
熱い痛みを残す口内に、ぼんやりとそう思っていると、先に運転席に乗り込んだマネージャーから「ほら、食べるのはあと!早く乗って」という催促が飛んできた。ふぁい、と再び肉まんを頬張りながらいい加減に応えて、後部座席の定位置に滑り込む。

「……っあー、もう……!」

後ろのドアが閉まった途端、ハンドルに突っ伏すようにして呻き声を上げたマネージャーにちょっとぎょっとすると、続けて「そっか、そりゃああいう反応になるわけだよな…!」という自答するような呟きが聴こえた。「どしたのテンゾウさん?」と呆気にとられながら首を傾げたオレに、ゆらりと草臥れたかのようなマネージャーの顔が振り返る。
「ナルト。どうしてあの子の事、ちゃんと僕に話してくれなかったの」
「へ?いやだって、仕事とは関係ないとこで買い物してただけだったし」
「そりゃあ軽々しく握手なんて言ったら怒るわけだよ。苗字聞いてすぐに気がつかなかった?」
「なにが?」
さてはまた全然新聞やニュースに目を通してないだろう?時事問題はちゃんと把握しておくようにっていつも言ってるのに、というマネージャーの言葉にバツが悪くなりながらも「それが何でアイツと関係あんの?」とふわふわ尋ねると、重苦しい溜息が冷えた車内に落とされた。手に持っている肉まんだけが、ホカホカと能天気な温もりを発している。
――なに?なんかオレ、悪い事言った?
「あのね、ナルト……あの、うちは君て子。彼多分、去年経営破綻して外資系企業に吸収されちゃった、『うちは製鐵』の関係者だわ。下手したら本家の御曹司かも」
「は?うちはせいてつ??」
「……没落しちゃったとはいえ、元華族のご子息だよ」
教科書の近代史の中にだって『うちは』の名前は出てるよ、ナルト日本史選択してただろ?という言葉に、居眠り過多だった高校生の頃を思い出してみたけれど、やっぱりピンとはこなかった。
うちは製鐵?元華族?御曹司?
聞き慣れない単語ばかりが羅列されて、話がさっぱり要領を得ない。
「『うちは』なんて苗字、滅多にないもんな・・・多分間違いないと思う」
「製鉄って、町工場みたいなんじゃなくて?」
「はじまりは鉄鋼業からだから一応『製鐵』って付いてるけど、それ以外の子会社も沢山持ってた大企業だよ」
「…よくわかんないんだけど、それってばつまり…?」
「――つまりTVの世界ではいざ知らず、場所を変えたらナルトよりも彼の方が、余程有名人だってこと。…まあ、色んな意味でね」
うわー、僕なんか上からな言い方しちゃってたかな、気を悪くしただろうなあ!と頭を抱えるマネージャーの後ろで、告げられた『ゆうめいじん』というワードだけが、やけにハッキリとした強さを持って聴こえた。
話にいまいち付いていけないまま、それでもそっと車の窓越しに明るい店の中を確かめる。
ガラス張りの店内では、いつもどおりのヤツが、いつもどおりの手際の良さで仕事をしているのが見えた。ぴんと伸ばした背中に漂うオーラは悔しいけれども確かにオレ以上で、取り澄ました横顔は威厳と品格とをたたえて、まっすぐに前だけを向いていた。