第九話

散々からかわれながら浸かった湯はいささか長風呂が過ぎたらしく、気にしたサスケ(本物)が様子を見に来た時には、二人共すっかり全身ゆでダコの様相と化していた。
慣れた様子で客間に泊まると言うオビトと別れ、案内をするサスケの後ろにつく。まとわりつくTシャツの襟ぐりさえも暑苦しくてふうふう言いながら付いていくと、ここだけリフォームをしたのだろうか、純日本家屋のこの家では他に見ない洋風の扉の前に着いた。
手を抜くことなく磨かれたドアノブが回されて、比較的新しいフローリングの部屋に通される。
「ここってばお前の部屋?」
「正確には俺と兄貴の部屋、だけどな」
こんなに部屋数多いのにわざわざ二人部屋なんだ?という考えがチラと掠めたが、普段から時折目にする彼の兄への信奉度から鑑みれば、それもまた充分にありうる話だった。
子供部屋にしては贅沢に広い部屋の真正面、大きな窓の下にはベッドがふたつ並んでいる。それを挟んだ壁の両端には、飾りのないシンプルな学習机がそれぞれの位置にきちんと佇んでいた。
「じゃあ俺、風呂行ってくるわ。適当にしてて」
置きっぱなしにしているらしい自分の着替えをクローゼットから取り出しながら、そう言ったサスケは所在無く立つナルトを残し再び入ってきた扉を開けた。そのまま立ち去ろうとした彼だったが、ふと思いついたように動きを止めると、首だけひねって横目の視線を送る。
「あ――っと、適当に座ってていいけど、左側のベッドには入るなよ」
「左?」
「お前が今日寝るのは右側のベッドだ。俺は左で寝る」
丁度左側のベッド脇に立っていたナルトはそう言われてするすると移動をしたが、微妙に要領を得ない顔付きで指示を出した男を見た。そんなナルトには何も応えないまま、言い付け通り右側のベッドに腰掛けた客人を満足気に眺めたサスケは、改めてドアを押す。
「左側がサスケのベッド?」
「いや、今お前がいる方が俺の使ってたやつだ。左側は兄さんの」
そっちには入るなよと後ろ向きのまま言い残しサスケが出て行くと、後ろ手に閉められたドアがパタンと軽めの音をたてた。
腰掛けている丁寧に整えられたベッドが、悪意のないよそよそしさでぎしりと鳴った。

     ☆

(どうしよ、なんか妙に緊張するってばよ……)
残された部屋の中、しんとした空気に怖気づきながらナルトは辺りを見回した。
適当にしてろと言われたものの、TVも何もない部屋で時間を潰すのは結構難易度の高い作業だ。
携帯でもいじって待つかなと思ったところで、尻の下で皺を寄せるシーツに目が行った。洗いざらした白いリネン。隣りに並ぶもう一台のベッドにも、揃いのシーツが掛かっている。
(――マジで仲のいい兄弟だったんだな)
隣り合わせにされたベッドの距離に、改めてそう思った。人ひとりが通るのに丁度いい位の隙間を残しただけの二台のベッドは、眠りにつく前のひと時、兄弟が束の間の会話を交わすのにちょうど良さそうだ。
半分網戸にされた窓から、ジィィィ――という音が入り込んできている。ネジを巻くようなその音は、夜店で買うようなゼンマイ仕掛けの玩具を彷彿させた。都会ではあまり聴き慣れない音だけれど、虫かなにかの鳴き声だろうか。後で戻ってきたサスケに訊けば判るかもしれない。
(……あ、またこの匂い)
ふわりと鼻腔を擽ぐる透明な甘さに、ナルトはうっとりと目を閉じた。
屋敷内に漂うこの澄んだ芳香の正体を教えてくれたのは、さっきまで一緒に湯に浸かっていた剽軽者の青年である。
赤く茹だったその顔を、ナルトはぼんやり思い返した。


「ああ、あの匂いな、庭に大きな白い花を咲かせてる木があっただろ?あれの匂い」
意外にも逞しく保たれている胸板に石鹸の泡を擦りつけながら、上を見上げるようにして考えていたオビトは、なんて木だったっけかなぁ、なんか仙人みたいな名前だったんだよなと、ブツブツと呟きながらその名を思い出そうとしてくれていたようだった。
だがそれは叶わなかったらしく、やがて諦めた彼は「わり、後でサスケに聞いて」とほんの少しバツが悪そうに笑った。そのまま泡に塗れた体をざあっと流すと、ナルトのいる湯船に入ってくる。
「あっ――じゃあオレ、先に失礼します」
決して小柄とは言えない男一人分の嵩を増した湯が、大きな音を立てて檜の縁から溢れ落ちるのを見て、ナルトは慌てて腰を上げた。すでに体は充分に温められている。
「なんだよ、そんな逃げる事ないだろ。傷つくなぁ」
言ってる割には大して傷ついてもいない様子で、オビトは「ま、もうちょい浸かれって」と鷹揚に言った。そう言われてしまうと流石に出にくくて、ナルトは一旦上げた体を再び沈める。
「なぁラーメン」
「……ナルトですってば」
「知ってらァ、わざとに決まってんだろ、バカ」
ふふんと鼻で嗤いながらゆったりと肩をくつろげるオビトに、ナルトは警戒するように身を固くした。
――この笑い。嫌な予感しかしない。
この男にはつい先程さんざん煮え湯を飲まされたばかりであるが、もしかしたらまだまだおちょくりが足りないとでも思っているのかもしれない。
「お前さ、よくぞあの難攻不落のサスケちゃんを、あそこまで落としたもんだよな」
鮮やかな先制攻撃に、ナルトいきなり「うっ」と声を詰まらせた。血の巡りが一気に高まったのは、長風呂のせいだけではない筈だ。
「……落としたって」
「いやいやいや――カカシから聞いてはいたんだけどよ。まさかあの他人に対しては処女みてーに頑ななアイツが、あんな顔見せるとはな」
余裕のある口ぶりで透かし見るような目をこちらに向けていたオビトは、落ち着きがなくなってきたナルトを無表情に眺めていたが、そのうちに口の両端をにまりと上げた。
ほんの少し目尻に集まった笑い皺が、隠されていた大人の貫禄を醸し出す。
「かわいいだろ?」
「……は!?」
「だから、サスケだよ。あいつ、素で笑うとすっげぇかわいいだろ?」
ニヤついた訳知り顔が、(全部お見通しだっつーの、ほれほれ正直に言ってみな)と唆しているようだった。非常に癪ではあったが言ってることに反論の余地はなくて、ナルトは忸怩たる思いを抱えながらも「……そうッスね」と答える。
「あらら、随分と素っ気ないお返事」
「別に、そういうわけじゃ」
「だよな。お前アイツにメロメロだもんな」
――何が言いたいんスか!?とむきになって語気を荒げると、オビトを覆っていた揶揄するような気配はふっと引いて、代わりに至極真剣な顔が表に現れた。
誤魔化しの効かなさそうなその雰囲気に、無力な若造は他愛なく制圧される。
「つまりな?サスケちゃんはちっさい頃から大事に大事に育ててきた、俺らの天使なワケ」
お前だってアイツの背中に生えてる羽が見えんだろ?と真顔で迫られ、ナルトは「ハァ」と頼りない相槌を打った。
天使?どちらかといえば、小悪魔だと思うんですが。
土砂降りの夜に見た彼の誘惑を思えば色々と異論を返したいところでもあったが、ナルトは黙ってそれを握り潰した。どうやらこの人から見たサスケは、未だ「ちっさくてかわいいサスケちゃん」のままらしい。
わざわざナルトと二人きりの時間を作ってまでこんな事を話してくる彼の意図はまだ読めないままであったが、取り敢えずここで言い返すのは得策ではないだろう。
「チビの頃のアイツ、ちっこくてまっしろで目ェばっかでっかくてよ。人見知りで、いっつもイタチの後ろに隠れてばっかで」
「はァ」
「そんなんがオレを見つけると、『オビトくぅん!』なんつってうっれしそうに駆け寄ってくるわけ。そらもう、鼻血噴く程のあいらしさでよ」
「……そうスか」
「そうそうアイツ、抱っこしてやるとものっそいカワイイ声で笑ったんだよな。これがまた、嘘みたいに軽くて頼りなくてさぁ」
だから何なんだよと苛立ちを感じつつ、ナルトは回想に耽るオビトを見やった。そりゃああの素晴らしく整った容姿だ、幼少期の彼はさぞや可愛らしい少年であったに違いない。
現在は随分と様変わりしてしまったツンデレ王子を思い浮かべ、ナルトは密かに憤慨した。なんなんだよこのオッサン、単に甥っ子自慢がしたくてオレを引き留めたってワケか?
「……アイツさァ、あんな風にまた笑えるようになったの、ここ出てお前と出会ってからなんだ」
ふいに変えられた声のトーンに、ナルトは外しかけていた視線を引き戻した。
イタチが死んだ後のサスケ、マジでやばくってさ。
そう言いながらオビトは、持っていたタオルを湯面に広げた。下から突き上げるように指を差し込むと、空気を孕んだ白いタオルがぷかりと湯に浮かぶ。
「後追いとか、そういう物騒なのはまあなかったんだけど、全然表情がなくなっちまって」
「……へえ……」
「そーだな、舞台の上で自分の役回りが上手く掴めなくなっちまった役者みたいな」
「役回り?」
ん、と頷きながらオビトは手の内にあるタオルをぎゅっと引き絞り、漂っていた膨らみをためらう事なく潰した。ぶしゅっという音がして、繊維の隙間から細かくなった泡が吹き出しては消える。
再びタオルを広げながら、オビトは言った。
「サスケはさ、なんやかや言っても『イタチの弟』っていうポジションが一番安心していられる場所だったんだ、きっと。イタチの方もちょっとそういうとこあったし」
あいつらは、それぞれがそれぞれの居場所になっていたんだよな。
そんな事を言うオビトに、ナルトはおぼろ気な既視感を覚えた。いつだったかカカシも同じような事を言っていた気がする。
「そういえば、カカシ先生がサスケに管理人さんを勧めたのはオビトさんだって」
「うん、そう。アイツあのままじゃ、いつまでたっても本来の自分に戻れなさそうだったからさ。一旦外に出て、色々リセットした方がいいんじゃないかなって」
「――じゃあたぶん、家を出てすぐの頃だと思うんですけど。サスケ最初、アパートに住んでるおばあちゃんと、イタチさんのフリして話してた事があって」
「はァ?なに、アイツそんな事までしてたの?」
ハァァ、と下を向いてしまったオビトはやれやれといったように首を振ると「まああの頃のアイツだったら、そんくらいの事したかもな」とひとりごだった。なんだよカカシのヤツ、気が付いてなかったのかよと呟いて、改めてナルトの方を見る。
「んで?その後どうなったの?そんな猿芝居、すぐにバレただろ」
「あぁいや、実は最初っからそのおばあちゃんはサスケの事イタチさんじゃないって解ってたらしくて。オレらの方が逆にその人にまんまと騙されてたっていうか」
「あァん?」
「えーと……とにかく、とんでもなくはっちゃけたばーちゃんなんですってば。異様に元気だし」
「よくわかんねェけど、まあ騙したままよりは騙されてたってオチで済んで良かったンじゃねーの?年寄りは労わるべしってのがうちの家訓だし」
「家訓?」
「家訓っちゅーか、ひいじいさんからの言い付けだけどよ」
――ま、そういうわけでさ。
ぱちゃん、と水玉を跳ねさせて、広げたタオルが水面に揺れた。手遊びするようにそれをゆらゆらと漂わせながら、オビトが話を区切る。
何が「そういうわけでさ」なのか一瞬わからなくなったナルトは、曖昧に「はい?」と首を傾げた。
そんなナルトに苦笑するように「だから、サスケがここを出たって話な」と言うと、年上の青年は濡れてぺしゃんこになった短髪を軽くかきあげた。訝しむ青をまっすぐに見ると、きゅっと真面目な顔をつくって口火を切る。
「オマエみたいな、イタチの事もうちはの家の事もなーんも知らないヤツがサスケの前に現れてくれるのを、オレもカカシも、ずうっと期待してたの。そのまんまのアイツを見つけてくれるヤツが現れないかなって。そんでもう一回、アイツに自分がどういうヤツだったか、思い出させてやってくんねぇかなって」

――ナルト。
アイツの事、好きになってくれて、ありがとな。

そこでようやくニカリと破顔して、オビトは心底嬉しそうな声を揺らして感謝の言葉を述べた。
不意打ちの謝辞に、思わず固くしていた肩の力が抜ける。
どんどん立ち昇っていくばかりでさっぱり尽きる気配のない湯気の中、緩んだ三日月の目尻が、なんだか滲んで見えた。「……別に、礼を言われるような事じゃないってば」と照れ混じりに誤魔化せば、「ん、まーな、そうなんだけどさ」などと男性らしく引き締まった頬がポリポリと掻かれる。
「でも、ありがとな」
もう一度含み込ませるように言うと、オビトはまた膨らめたタオルをぶしゅしゅ、と潰した。炭酸みたいに微細な泡が、さざめきを残しながら弾けてく。
照れ臭さに頬をカッカとさせていると、「アッ、これな、サスケには絶対言うんじゃねェぞ?また機嫌損ねるとめんどくせーからな?」とやはりちょっと顔を赤くしたオビトが人差し指を立てた。遅まきの口止めをまくしたてるオビトに、「わかってるってば」と小さく頷く。
「……まーでもアレだよな!お前ら、どっちも女いなくて良かったよな」
なんだかフワフワしてしまった空気を誤魔化すかのように、突然そんな事を言い出したオビトにナルトは首を捻った。「へ?なんで?」と不可思議な声を上げるナルトに、オビトは呆れたような目を向ける。
「だってさ、お前ら見てるとちょっと仲良すぎだろ。お前なんて特に、無茶苦茶サスケの事好きなオーラ出ちゃってるし」
「――出てませんって!」
「いーや、出てるね。ムンムン出てるね。あれさァ、もし彼女とかが見たらちょっと複雑な気分になると思うぞ」
「複雑?」
「さすがに妬くだろォ、あれじゃ。まあ精々、『アタシと友達どっちが大事なの?』とか言わないタイプを選ぶんだな」
そういやさ、サスケって大学受かったくせにサークルとかコンパとか全然縁無い生活送ってるみたいじゃん?あれってどーなの、彼女とか作る気ないの?なんかお前とかとばっかいるみてェだし、何アイツもしかしてホモ?
――などと詰め寄ってきたオビトになんと返そうか考えあぐねていると、静まり返っていた浴室の扉が出し抜けにガラリと勢いを付けて開けられた。
差し迫る気迫におそるおそる振り返ると、湯けむりの向こう側に氷山みたいにとんがった目をしたサスケが、全てを刺し殺すような眼力で湯船を見下ろしている。
「……ちょっとの間に随分と仲良くなったみたいだなァ?お二人さんよォ……」
威嚇じみた声が、風呂の水面がびりびりと震わせた。
のぼせかかっていた頭が、一気に冷水をぶっかけられたように冷やされる。
「くっだらねェ心配なんかしてんじゃねェよ、このクソオビト!余計なお世話だ!」


(――そうだ。写真だ)
どやされながら上がった風呂場の中で、先に出てったオビトがすれ違い際にこっそり耳打ちしてくれた情報を思い出し、ナルトは身体を起こした。久方ぶりの重みに、シングルベッドがギシリと呻く。咎めるようなその音になんとなく後ろめたくなりながらも、ナルトは「さっき騙した詫び料な」と教えてもらったブツを入手すべく、壁に立つ大きな本棚に足を向けた。
(一番下、一番下……っと)
言われた通りの場所に目当てのモノを見つけると、ナルトは思わず「あった」と口に出しながら、本棚の最下段の更に端に差された皮表紙の分厚いアルバムを抜き出した。
ゴメンなさいね、一応お身内の方からの許可はいただいてるんですよ?
誰に言うでもない言い訳をブツブツと唱え、両手でそれを抱え込む。
ドキドキしながら表表紙を開くと、乾いたフィルムがペリペリと鳴いた。
その下で丁寧に並べられたほんの少し色褪せた写真達に目を落とす。すると初っ端からいきなり視界に飛び込んできたこの世の楽園じみた光景に、ナルトは一撃で腰砕けにされた。

「――ふおぉっ……!!」

かっ……
かわいすぎンだろ、これ……!
思わず鼻から抜け出た感嘆の叫びに慌てて蓋をして、ナルトは改めてその写真に瞠目した。
水色のロンパースに包まれて極上の砂糖菓子みたいな笑顔を見せている赤ん坊。それはまさに純度百%あいくるしさの塊であった。
先程彼の叔父から聞いた通り、まっくろな瞳にまっしろな肌。
マシュマロみたいなほっぺたはふわふわとあどけない曲線を描いているが、黒目がちな大きな瞳を潤ませてはにかむその子の中には、確かに成長した彼の持つ美の萌芽のようなものが見て取れる。
……ヤバい。これマジで天使だわ。背中に羽はえてるわ。
オレにも見えるってばよ…!と変態じみた感動に思わず身悶えながらぶるぶると震える指でページを繰ると、今度はもう少し成長した、少年時代の彼が映る写真があった。恥じらいと未熟なエネルギーがないまぜになったような表情には、少年の持つ独特の色気が刷毛でひいたようにうっすらとのっている。
薄くて繊細な肩は見る者の庇護欲をどうしようもなく掻き立て、少し突っ張ったような口許からはどうにかしてこの少年を笑わせてその初心な笑顔を網膜に納めたいという、切ない願望を否応なく抱かされた。なるほど、確かにこんな子に尻尾を振るように駆け寄って来られたら、どんな強面だろうと偏屈だろうと、まなざしひとつでイチコロであろう。
数々の写真を見るに付け、ナルトは彼の兄や叔父が寄ってたかってこの赤ん坊を甘やかし可愛がり過保護にしてきた理由をようやく理解した。
これは危険だ。
あいらしすぎる。
うっかり無防備に外になんて出していたら、あっという間に誰かに手折られてしまうかもしれない。そんな危うい焦燥感をいやに駆り立てる子供だった。万が一にでもこの子が先日の彼のように「体なんて欲しけりゃくれてやる」などとでも言おうものなら、たぶん嵐のような暴動がその場に巻き起こったに違いない。
(あ――これ撮ってんの、兄ちゃんなのかな)
成長するにつれて無邪気なショットが減っていくアルバムの中で、珍しく全開の笑顔を収めた一枚を見つけると、ナルトはページを捲る指を止めた。
風の強い中で撮られたものなのだろう、ちょっと傾いてしまった画面の端には、撮影者の白い指先と長い髪が僅かに入り込んでしまっている。大きく写るサスケの肩の向こうには、少し先を行く両親の後ろ姿が小さく写っていた。家族でどこかに向かう途中、ふと掛けられた声に笑顔で振り返った瞬間、シャッターを押されたといった風情だ。
不意打ちを狙ったせいかピンボケ寸前の写真ではあったが、表情からはその笑顔の相手である撮影者への全幅の信頼が伝わってきた。あまりにも素直な喜びが映るその写真に思わずドキリとする。
……かなり親しくなれたとちょっと得意になっていたけれども、この笑顔を前にすればその慢心も大層くだらないものに思えた。彼がこんな表情をするなんて知らなかった。これはまだ、自分には向けられた事のない種類の笑顔だ。
ぺり…ぺり…と薄弱な音をたてて剥がれていくページに最後まで目を通し終わると、ナルトは大きく息をはきながら顔を上げた。
掲載されていた赤裸々な日常(ちなみに鼻を垂らしてべそをかくサスケやフルヌードでお庭プールをしている写真まであったが、それはそれで悶絶するかわいらしさだった)を見終え、改めてこっそりとこのアルバムの在処を耳打ちしてくれた、オビトの洞察力に感謝する。エベレスト並のプライドを持つ彼のことだ。こんなレアなサスケばかりが詰まったアルバム、正攻法でいってもきっとおいそれとは拝ませてもらえなかっただろう。
――オジ様オビト様ありがとうございました、慰謝料確かにいただきましたってばよ……!
そう念じながら冊子を閉じると、ナルトは元通りの状態となるようアルバムを丁寧に棚に戻した。よし、これにて証拠隠滅完了。
(……サスケ、まだかなぁ……)
過去の彼を堪能したらなんだかすごく今の彼に会いたくなってしまって、ナルトは屈めていた腰を伸ばすとそのまま本棚の上段に目を向けてみた。兄弟が共用している書架なのだろうか、ぎっしりと書籍の詰まった重厚な本棚には、ナルトが普段好んで読むような類いの軽めの本は一冊もないようだ。
こういうとこはやっぱお堅いよなーなどとこっそり思いつつ、マンガのマの字も見当たらない本棚に諦めたナルトは、最後にもう一度秘密のアルバムの赤茶色の背表紙を見た。最後にもう一回だけ天使の笑顔を見納めさせてもらおっかなー…などと迂闊な事を思い、片付けたばかりのそれに指を伸ばしかけたその時、ガチャリと遠慮のない音がして子供部屋のドアが開けられた。
「わり、つい長湯しちまった」
ふかふかのタオルで頭を拭きながら、「やっぱたまに実家の風呂入ると気持ちいいな。アパートの風呂、足伸ばせねェし」などと言いながら入ってきたサスケは、本棚に手を伸ばしているナルトを見るとはたと動きを止めて、じいっとその手の先に目を凝らした。そして今まさに指を掛けようとしているその物体に気が付くと、ほこほこしていた顔を急にこわばらせ、強い視線を送ってくる。
「……何してんだ?」
予断を許さない声で詰問され、ナルトはギクリと背中を揺らした。
「お前、まさかそれ見たのか……?」
「えッ!?そ、それってどれ?」
「その手の先にある皮のヤツだ」
「み、みみ、見てないってばよ!?オッ、オレってばタマには本でも読もっかな~なんて」
「じゃあその指はなんだ?そこにあんのは文字が書いてある本じゃねェぞ」
「あっ、そ、そーなんだ?いやいやオレが読みたかったのはこここっちのヤツで!」
「ほう……それは詩集なんだが、そんなの読みたいのか?」
「読みっ…たいってばよ、コレ!ちょ、ちょっと借りるな!」
つつっと指を滑らせて触れた先の文庫本を慌てて抜き取ると、ナルトは例のアルバムから距離をとるかのようにさっと立ち上がった。
カバーが外されて肌色の本体が剥き出しになったそれは、随分と読み込まれたものらしく熟れた紙は柔らかくなり角が少し丸くなっている。後付けのようにタイトルへ目を走らせているナルトに、ゆったりとした動作でサスケが近付いてきた。
「春と、しゅ、しゅ……?」
「しゅら。――なァ、お前本当にそれ読みたかったのか?」
覚束無い発音に改めて疑いのまなざしを向けていたサスケであったが、灰がかった黒のインクで印字された剥き出しの表紙をみるとふっと目許を和らげた。「……なつかしーな」という独白が耳のすぐ後ろで甘く響く。風呂上りでいつもよりも高まっている体温が背中にくると、触れるか触れないかというその微妙な隙間が胸に切なくて、ほんの少しだけ心拍数が上がった。
「それ、兄貴がよく読んでた」
「イタチさんが?」
「ああ。ここにある本は殆どが兄さんのだからな」
サスケは読んでねーの?と振り返ると、表紙を見ただけで満足したのかシャンプーの香りを残しながらさっさと離れていったサスケは、ゴシゴシと髪の水分を拭き取りながら兄のベッドの方へ回りボスンと自然に腰を落とした。「読んだけど、俺にはよくわからなかった」と無感動に言ったその声が、バサバサと顔に掛かるタオルのせいで変に籠って聴こえる。
「俺、現国は一番苦手だったからな。詩とか本当にわからん」
「この作者って、童話とか書いてる人じゃなかったっけ?」
「へェ、さすがのドべでもそれは知ってんだな」
「教科書で読んだってばよ」
「なんだ、お前教科書読んだことあったのか」
見下した発言にむうっとすると、タオルを被ったままでクツクツと喉を鳴らすサスケが、ベッドの上からこちらを見ていた。ハーフパンツの足を胡座に組んで、完全に緊張を解いてのびのびとしているその様子は、まるで自分の縄張りで寛ぐ猫みたいだ。
そこには既に先程盗み見た天使の笑顔は失われてしまっていたが、その代わりすんなりと伸びた四肢は健やかさで溢れ、濡れ髪の隙間で笑う黒硝子の目の中には子供じみた明るい光が踊っていた。
――ああ、くそ。天使だろうが悪魔だろうが、結局どっちだって大差ねェじゃんか。
どうしようもなく心を奪うその存在感に、ナルトはいよいよ白旗を上げる。
「そういやお前。さっき風呂場で、オビトに何か訊かれてただろ。まさか、勝手に余計な事言ってねえだろうな?」
生乾きの髪から枕を庇うようにうつぶせでベッドに転がったサスケは、清潔そうなリネンに一度顔を埋めたかと思うと急に思い出したかのように顔を上げ、咎める目付きでこちらを睨んできた。後ろめたさを感じつつも先程しっかり受け取ってしまった侘び料が頭をよぎり、ナルトは慌てて「な、なんも言ってないってばよ!」と首を振る。
「っていうかさ、サスケこそ彼女の事言わなくていいの?」
「彼女って、香燐の事か?」
「結婚、とか――言ってたじゃん?」
「あー…ま、いいだろ別に、まだ言わなくて。大体そこまで付き合いが続くかもわかんねーし」
くうっと気持ちよさそうな伸びをしつつ、口先でそんな気のない事を言うサスケに驚いて目を剥くと、そんなナルトに逆に驚かされたらしいサスケはちょっと息を詰めて「なんだよ?」と訝しんだ。「や、いや、だって…――上手く、いってんじゃねぇの?」と遠慮しいしい尋ねてみれば、「まあ、今んとこはな」という素っ気ない返事が返ってくる。
「……結婚、本気でするんだと思ってたってばよ」
「この先本当にアイツがしたいって言うなら約束は守るけどよ。でもたぶん、そうはならねェだろ」
「?――なんで?」
「どうせアイツが好きなのは俺の顔だろ。見慣れてくりゃそのうちに飽きるって」
「おお……お前ナニゲにスゲー事言ってんな……」
「うっせェよ、だって大体いつもそんな感じだし。待ってりゃたぶん、そのうちにあっちの方から別れてくれって言ってくるって。女が俺みたいなタイプと付き合ってても、つまんねェだけだろ」
「――へ?いや、ちょっ……サ、サスケ?本気で言ってんの?」
「だってこんな面白みなくて無愛想な男と一緒にいたって、全然楽しくないと思うぞ?香燐にしたって、話が弾んだりする事なんて殆どないし」
「楽しく……って」
「自慢じゃねーけど、俺二ヶ月以上同じ彼女と続いた事ないんだ。ま、時間の問題じゃねェの?」
ふああ……とアクビをしながら興味もなさそうにそんな告白をしたサスケは、改めてポスッと顔を枕に埋めると、安心したかのようにとろりと瞼を閉じた。とろとろと早くもまどろみ始めているサスケに、さっきの賑やかな食卓で、普段そんなに量を食べる方ではない彼にしては随分とおかわりを重ねていたのを思い出す。リラックスしているのに加えて、くちくなっている腹が睡魔を呼び込みやすくしているのだろう。
納得いかない事ばかり言っていたような気はしたが、当の本人は当たり前の事しか言っていないつもりらしかった。反論はすぐに浮かんできたが、目の前にある眠りに落ちる寸前のうっとりとしているその顔がやけにかわいらしくて、ナルトはついつい言葉を引っ込める。
「サスケ、もう寝んの?」
「ん……そう、しよ…かな……」
「サスケのベッド、取っちゃってごめんな」
気を利かせたつもりで「オレは構わないから、やっぱこっちで寝るか?自分の使ってたベッドで寝たほうが落ち着くんじゃないの?」と申し出ると、うっすらと睫毛を上げた彼は、ほんのりとしたほほえみを浮かべた。
陶酔しているような気だるさの狭間で、うわごとじみた呟きがそっと漏れる。

「……いいん、だ……こっちの方が、よく…眠れ……」

すう、と吸い込まれるように眠りに入ったサスケに呆気にとられていると、窓の外から再びジィィィ――というネジ巻き音が聴こえてきた。
ああ、これ何の音か、訊くの忘れたな。
ふとそんな事を思い出しながら、ゆっくりと上下するほそらかな背中に、畳んであったタオルケットを広げる。
余りにも簡単に寝落ちしてしまったサスケを見ていたら逆に自分の眠気は引いてしまって、ちょっと考えたナルトは、もう一度手にしていた文庫本を眺めた。
サスケと同じようにベッドに転がり、ネイビーのカバーに包まれた枕を顎の台にしたうつぶせのスタイルを作り上げると、おもむろにその薄い本の表紙を捲った。無骨な指先が奏でる丁寧に頁を繰る音が、安らかな寝息の混じる夜の空気にパラパラと落ちる。
網戸を透かして、月がぽっかりと浮かんでいる。
光に誘われた羽を持つ虫達が、時折ばちんと窓にぶつかっては、撥ね返されるように離れていった。