第十話

気付けば昨夜のサスケと同じ姿勢で鼾をかいていたナルトは、窓から流れ込んでくる脂の焼ける香ばしい匂いに釣られて目が覚めた。日差しがもう強い。外の庭木に鳥が来ているらしく、時折「チュイッ、チュイッ」というさえずりが大気に澄んで響く。
昨夜の夜更かしが祟ってか、少し浮腫んだ瞼を擦りながら隣を見ると、友人は既に起きだした後だった。抜け殻のベッドに、昨夜掛けてやったタオルケットがざっくりと畳んで置かれている。
(まず味噌汁だろ?焼き魚と、炊きたてのゴハンと、えぇっと、それから…――)
くんくんと鼻をヒクつかせて漂ってくる香りを判別していると、半分開けられたドアを通して廊下の向こうで「ジョワァッ」と鉄の肌に何かが焼かれる音がした。窓から注ぐ夏間近の光が、枕と同色のネイビーのカーテンを透かし、部屋をほの明るく染めている。
(――…あと、卵焼き希望)
できたら分厚くて甘いやつだったら最高だってばよと、ホワホワした気分で身体を起こした。
読みかけのまま枕元に置いていた文庫本が、乾いた音をたてて床に落っこちた。

     ☆

「おはよーございまーす……」
何故か会話の聴こえてこない屋内を不思議に思いながら居間を覗くと、大きなテーブルには既に誰も座っておらず、清められた卓上には読み終えて畳まれた朝刊が、端の方できちんと放置されているのみだった。
……しまった、ついいつもの調子で寝すぎたか。
客といえども図々しかったかなと気後れしながらそれを見下ろしていると、出し抜けに後ろから「あら、自分で起きちゃったのね」という声が掛けられた。
「おはようナルト君。ちょうど今起こしに行こうかと思っていたところなのよ」
「おはようございます……あの、スンマセン、オレひとりで寝過ごしちゃったみたいで」
「ああ、違うのよ、お父さんは今朝早くに病院から呼び出しがあって。オビト君も今日は診療があるし、一旦家に戻ってから院の方へ行くからって言って随分と早くに出てったの」
「サスケは?」
「あの子はたぶん、お墓に行ったんじゃないかしら。大体いつも、こっちに戻って来たら一度はお掃除に行ってるみたいだから」
すぐ近くだからじきに戻ってくると思うわ、あの子もまだ朝ごはん食べてないし、とミコトが話しているうちに、玄関の方から「ただいま」という声がした。玄関先ですっかり身支度を整えたサスケが、起き抜けのナルトを見て「お、起きたか」と軽く笑う。
「起こしてくれたら良かったのに」
「お前には今日も運転してもらわなきゃなんねェし。ちょっと片しておきたい野暮用もあったから」
言いながら手洗い場に向かうサスケの背中をボケっと眺めていると、手持ち無沙汰気味な様子に気が付いたミコトに「ナルト君、朝ごはんもう食べれる?サスケも帰ってきたし一緒にごはん食べちゃって」と背中を押された。勧められるがまま卓に座ると、すぐにふっくらと粒の立ったご飯の碗と共に、湯気を昇らせる赤だしの汁椀やらぴかぴかの香の物やらが次々と並べられる。
先程鼻で想像したメニューを凌駕する見事な朝定食に圧倒されながらも、ナルトは昨夜オビトがこの家の朝食を絶賛していた訳が解った。高級旅館のような特別なものは流石にないが、どれもこれもちゃんとひとつずつ手がかけられているのがわかる、心のこもった朝食だ。
「すっげーうまそーだってばよ……!」
「そう?地味なものばかりでごめんなさいね」
「ええッ、全然そんなことないってば!」
「あ、俺も食う。食っていい?母さん」
「もちろん。今お箸出してあげるから、サスケも座りなさい」
戻ってきたサスケと一緒に「いただきます」と並んで手を合わせると、最後に湯呑を三つ載せたお盆を掲げたミコトが、にこにこしながら「はい、どうぞ」と前に座った。
忙しなく動く箸を満足気に眺め、ゆったりとお茶を啜る。
「うっま……!ミコトさんこれうまい!オレこういう朝ゴハンてスゲー憧れてたんだってばよ!」
「そう?ありがと。ナルト君は本当に褒めるのが上手ね」
「――うん、いつもの味だ」
「……サスケはちょっとナルトくんを見習ったほうがいいわね」
それでも黙々と口を動かし続ける我が子に呆れたように笑うと、ミコトは隣り合わせになったふたつの肩に、しみじみと何か感じ入っているようだった。
コチコチと狂い無く時を刻み続けている古時計の音が、食卓に落ちる。
大きな掃き出し窓の向こう側で、また鳥が鳴くのが聴こえた。やはり、甘い匂いがする。庭木の多いこの家は、虫や鳥達にとって格好の遊び場になっているのだろう。強く明るい表と対になるかのような静かさをかたどる屋内で、青みがかった時間がしんしんと過ぎていくようだった。
口を動かすのに夢中で、いつの間にかひどく静かな食事風景になっているのに気が付いて、ナルトは無言でこちらを見続けているミコトにそっと視線を合わせた。どこか遠くを漂っているようなそのまなざしが気に懸かって、小さく「あのう」と話しかける。
「えっと、ミコトさん?」
「――え?あぁ、ごめんなさいね、おかわり?」
「や、そうじゃ……あ、でもお願いしますってば」
即席の笑顔を拵えて立ち上がったミコトがそそくさと台所に消えると、その間を狙ったかのように早々と食べ終えたサスケが「ごちそうさま」と箸を置いた。
微温くなりかけている湯呑に口を付けたサスケに向かい「なぁ」と隙間を繋ぐような声掛けをする。
「なんだ」
「えーと――あ、この花の匂いさ、庭の。なんか仙人みたいな名前だって、オビトさんが言ってたんだけど」
「は?仙人?」
「なんていう花なの?なんちゅーか、こう……甘くて、でもスッキリしてて、すごくいい匂いだってば」
「それ、タイサンボクの事じゃない?」
ふかふかと湯気をあげる飯碗を手に戻ってきたミコトが判じ物でもするかのように言い当てると、腑に落ちた様子のサスケがああ、と納得の声を漏らした。仙人って、相変わらずふわっとした覚え方してんなあいつと茶を啜る彼におかしそうに目を細めたミコトが、オビト君らしい記憶術ねと笑う。今度は急拵えではない笑顔だ。
「六月生まれだったせいかしらね。この匂い、イタチも好きだってよく言ってた」
「へぇ……」
「この甘い香りがし始めると、ああ、梅雨が始まったなあ、もう夏が近いなって思うのよね」
そう言って揺らされた豊かな髪に見蕩れていると、あ、そうそうと気が付いたようにミコトが立ち上がった。一旦奥の間に引っ込んだかと思うと、すぐに何か大きな包みを両手で掲げて戻ってくる。
真っ白のたとう紙に包まれたそれを食卓脇の畳の上に広げると、「よかった、忘れなくて。これ持って帰ってもらおうと思ってたのよ」とこよりのような紐で結ばれた封をするりと解いた。
湯呑を片手にそれを見たサスケが、「あー…これが言ってたやつ?」と言う。
「そう。素敵でしょ?いい綿縮を見つけたものだから、つい作っちゃった」
えへへ、と赤い舌を覗かせたミコトは、閉じられていた包みの中から深い藍色の浴衣を掬い上げるように取り出すと、気のない様子で後ろにいたサスケに「ちょっと、こっち来なさい」と手招きした。へぇへぇ、と面倒臭そうに答えながらも膝立ちで擦り寄ってきた息子を捕まえると、ぴしゃんとお尻をはたいて背中を伸ばさせ、育った肩に真新しい浴衣を流し掛ける。
「……いいじゃない!やっぱりあんたは藍が似合うわね」
「でも着ていく時がないって。これ着るの面倒だし、置いとくのも邪魔だし」
「そんなのいいわよ、送り返してくれたらこっちで洗ってまたしまっておくから。花火大会とか――あ、ほら、今でもあれやってるんじゃない?駅前の商店街が主催してた夏祭り」
「ああ、そういえば去年そんなのやってましたってばよ」
「それでいいわよ、ナルト君と一緒に行ったらいいじゃない。折角作ったんだし、一回位着て頂戴よ」
ね?と甘えるように首を傾げた母親に、仏頂面のままマネキンにされていたサスケは渋々といった感じで頷いた。なんやかや言ったところで、彼もこのやり手の母親には弱いのだ。
まーそうだよな、オレだってかーちゃんには絶対適わなかったもんなと、ナルトは生前の母の勝気な瞳を思い出した。もし彼女が生きていたら、この黒髪の女性と結構いいママ友達になったかもしれない。父親同士は……うーん、どうだろう。ちょっと未知数だ。
「で、そっちは?」
開けられたたとう紙の下に、もう一つ同じような包みが重ねられているのに気が付いたサスケが横目で訊くと、鼻歌混じりに浴衣をしまっていたミコトが「あ、」と顔を上げた。
手早く紐を結び直すと、下から生成りのひと包をひっぱり出す。畳を擦るざらりとした音に、ナルトは食べ終えた茶碗を卓に置いて首を伸ばした。
「サスケだけ浴衣ってのも淋しいかなって。新品じゃなくて申し訳ないけど、もしよかったらナルト君着てみない?」
言いながら開かれていく包みに、「はぁ」と曖昧な返事をする。
現れ出たのは、紫黒色の浴衣だった。サスケのものと同じ、涼しげな縮が入っている。実は結構高価なものではないだろうか、いかにも仕立ての良さそうな一品に驚きを隠せないでいると、隣で足を崩していたサスケが息を詰めた気配がした。
「……それって」
「サスケは覚えてるでしょ?イタチが昔着てたの」
ナルト君、ちょうどイタチと同じ位の背丈かなって。さっき後ろから見た時、そう思ったものだから。
そう言って生地を撫でる笑んだ横顔に返答を迷っていると、横から厳然たる声で「駄目だ」と断じるのが聞こえた。
久しぶりに聞く頑なな雰囲気に、思わず喉が凍りつく。
「――駄目だ。それはこいつにはやれない」
はっきりと、予断を許さない様子で続けたサスケにハッとさせられると、ミコトはゆっくりとその声の主である我が子を見て、それから隣にいる金髪の青年を見た。ちりちりと放電するような気配をまとっているサスケに、「…どうして?」と弁解じみた問いかけをする。
「折角二人分の浴衣があるんだもの、揃って着てたら素敵かなって」
「そうじゃない。間違えんなよ母さん、それは兄さんのだ」
「――間違えてなんか」
「間違えてる。俺はそういうつもりで、こいつを連れてきたんじゃない」
「なによそれ。私だってそんなつもりじゃ」
「そんなつもり、だっただろ?だいたいそれ、色も柄もこいつに全然合ってねぇし。母さんだって、本当はわかってるくせに」
きゅ、と噛まれた赤い唇が、言い返せない悔しさに歪んだ。
濡れ羽色の瞳がほんの少し揺れる。縮の紫黒を撫でる指先が、急に硬くなったように見えた。
「――そう、ね……わかった、ごめん。母さんが悪かったわ」
「わかってんなら最初からすんなよ」
「サスケの言い方って、優しくないなぁ。お父さんみたい」
「フン……仕方ないだろ、親子なんだから」
――俺ら、この後荷造りしたら、昼前にはここ出るから。
有無を云わさない感じで立ち上がったサスケは、手にしていた湯呑をたん、と置くと、振り返りもせずに自室の方へ歩き去っていった。まっすぐな背中が、まだ少し微弱な電流をまとっているようだ。
「はあ…」という溜息に振り返ると、ちょっと草臥れた感じのミコトと目が合った。
切れ長の黒が「あーあ、やっちゃったなぁ」と苦む。
「――ええと、なんか、すみませんってば……」
「え?ううん、違うのよ、確かに私が悪かったの。ナルト君は何もしてないわよ。……でも、ごめんなさいね。これはやっぱり、しまっておくわね」
「うん、その方がいいと思います、オレも」
大真面目にそう言うと、詫びるような微笑と共に開かれていた包みが丁寧にまた閉じられた。まじないでもかけているかのようにきっちりと結んだ封を確かめて、もう一度ミコトが「本当、ごめんなさい」と呟く。
「大丈夫です。オレ、なんとなくどっちの気持ちも、わかるような気がしますから」
「……そっか。ナルト君もご両親、亡くなってらっしゃるんだったわね」
きっと素敵なご両親だったんでしょうね、と思いを込めて言ったミコトに「うーん、でも結構いい加減なとこも多い夫婦だったと思いますってば」と答えると、「いいのよ、それで」と背中を伸ばしたミコトが笑った。「家族なんていい加減な位でないと、ひとところに纏まってなんていられないんだから」などと朗じるように言いながら、再び重ねた二つを端に寄せる。
「サスケはね……そのいい加減なとこのさじ加減が、ちょっと難しいのよね」
ほら、あの子って、何事にも白黒ハッキリつけないと気が済まないとこがあるでしょ?
よいしょ、と小さくこぼしながら立ち上がったミコトは再びナルトの前に座ると、飲みさしのお茶に手を伸ばした。サスケのいた場所に残された、食べ終えて重ねられた皿をぼんやりと見る。ふいに影が差し、外の鳥が、チチチ、と鳴いて飛び立つのが聴こえた。
「めんどくさがりで、どうでもいいと思ってる事には見向きもしないくせに、興味のある事は徹底的に極めようとする凝り性で。鈍いのかと思えば、変なとこで敏感で繊細だし」
「でもそれって大概の男はそうだと思うんですけど」
「そうなのよねぇ、だから男の子って難しいのよねぇ」
そんな事をしみじみ口にしながら、ミコトはふぅー、とふかぶかとした溜息をついた。
頬杖をついた手首が練絹みたいに白い。ほんのちょっとだけ皮膚の寄った細い首が、櫛られた黒髪から優雅に覗いていた。――あ、あそこ、触ったらすごく気持ちよさそうだ。唐突にそんな事を考えてしまい、そのいかがわしさに思わずドキリとする。

「男の子って、単純で、おバカさんで、厄介で、どうしようもなくかわいくて。いつだって無駄なエネルギー持て余してて、それでいて時々、ちょっと、こわくって。……散々手を焼かせておきながら、親の見てないところで、いきなり大きくなっちゃうのよね」

――あーあ、それにしても今日は、完全にやられたなァ。
ぼやきともつかない溜息が、紅も塗っていないのに赤い唇からゆるゆると漏れた。
ピリピリとした痺れに下を見ると、胡座を組んでいたはずの足が、知らぬ間に正座になっていた。



「――じゃあ母さん。また時間出来たら帰ってくるから」
微かな摩擦があってもなんとなく自然と元に戻れるのが、家族というものなのだろう。
先程までの放電はどこへやら、気が付けば普段通りの声に戻っていたサスケがレンタカーの助手席で棘の抜けた声で言うと、これまた何事もなかったかのように彼の母も「ええ、気をつけて。待ってるからね」とにこやかに応じた。
「あ、そうだサスケ、帰り道オビト君とこ寄っていける時間ある?」
エプロン姿のまま表まで出てきていたミコトは、ポケットの膨らみにちょっと触れると思い出したかのように訊いてきた。遠くの空に、大きな雲海が見える。すぐに天気が崩れることはなさそうだが、もしかしたらアパートの方は雨が降っているのかもしれない。
「まあ通り道だし、時間は作ればあるけど。なんで?」
「さっき客間のお掃除してたら、オビト君の携帯が落ちてて。お仕事で使う事もあるだろうし、もし持っていけるようだったら帰りがてら届けてあげてくれない?」
差し出された黒い携帯を「わかった、いいよ」と窓越しに受け取ったサスケは、それをレンタカー屋のファイルが入っているダッシュボードの中に滑り込ませた。俺がナビするから取り敢えず発進して、と運転席に座るナルトに告げて、シートベルトをかちりと嵌める。
「――そういえば今回は言わないんだな、母さん」
にやりと口の端っこを持ち上げてそんな事を言うサスケを不思議に思っていると、すぐにその意味に気が付いたらしいミコトが「…ああ、」とわかったような声をあげた。「へ?」と疑問符だらけの顔でふたりを見比べていると、説明するようにサスケが言う。
「いつもだったら、帰り際に必ず『教習所を嫌がってないで、早く自分で免許取りに行きなさい!』ってせっつくくせに。なに、もしかしてさっきの、まだちょっと気にしてんの?」
「まさか。そんなわけないでしょ」
女王のようなエレガントさで事も無げに否定をしたミコトは、満開のほほえみを広げると運転席でちょっと緊張しているナルトを覗き込んだ。
「本当だったら、サスケが自力で来るべきなんでしょうけど――でも、こうしてまたナルト君を連れて来てくれるなら、あんたは運転できないままでもいいかなぁ、なんて」
そう言って悪戯っぽく肩を竦めたその顔は、逆光で見ると、ますます造りが息子と瓜二つに見えた。
髪を掬い掛けた白い耳先が、初夏の光を浴びて白金の縁飾りをしているようだ。
「来てくれてありがとう、ナルト君。きっとまた、遊びに来てね」
やわらかな目尻に蕩けさせられそうになりながら、ナルトはほんのり汗ばむ手のひらでハンドルを握り直した。パワーウィンドウが上がる間際、「サスケの事、よろしくね」と言うミコトの声が滑り込んでくる。
「よろしくねって、いつも世話してんのは俺の方だっての」
舌打ち混じりにシートへ背中を沈めるサスケを横目に、ナルトはペダルを踏む足に少しずつ力を込めた。ゆっくりと、しかし確実にスピードを増していく車に、バックミラーの中で手を振るミコトが小さくなっていく。
「……けどまあ、お前の方がカカシより、ちっとばかし運転は上手いかもな」とぼそぼそ言ったサスケに苦笑を浮かべると、ちっ、と中途半端な舌打ちが聞こえた。やはりまだまだ母親の方が一枚上手らしい。さっきの言葉は照れ屋で意地っ張りな息子への、餞別代わりでもあったのだろう。
来た道を戻るようにしばらく走ると、田舎道は唐突に途切れて小さなビルや商店の立ち並ぶ街中へと車は進んだ。隣に座るサスケの指示に従い、ハンドルをきっていく。そのうちに景色は賑やかな銀座通りのようなところから、住宅なども立ち並ぶ落ち着いた街並みへと変わっていった。近くに小学校でもあるのだろうか、スポーツ少年団あたりに所属していると思わしき野球少年達が、わあわあ騒ぎながらガードレールに庇われた歩道を走っていく。
「オビトさんのとこって小児科だっけ?」
「そう。もう少ししたらフザけた看板が見えてくっから、そこで右折して」
フザけた看板?と不可解そうに復唱したナルトは、しかしてすぐにその意味を理解した。
道路脇に突如として現れた、巨大なクリーチャー。
怪獣映画にでも出てきそうなその像は、デフォルメされてはいたが明らかにオバケか地球外生命体としか言い様のない造形で、何のためなのか十本もある尻尾は『小児科・オビトクリニック』というポップな文字と、右折のマークが書き込まれた看板を高々と掲げていた。訊くまでもなく、院長の趣味がたぶんに盛り込まれているのが察せられる案内標識だ。
「この病院に行こうと思った人は勇気あるってばよ……」
「だよな。ここ本当は父さんとこの分院のような形で開院したから、最初『うちは小児科』って名前にするつもりだったんだ」
「なんでそうしなかったの?」
「……あの特撮みたいな看板見た父さんが、絶対にうちはの名前を載せるなって」
「ああ……気持ちはわかるってばよ」
(大丈夫かよ、患者さんいるのかなあ)などと他人事ながら不安を募らせつつ言われた通りに道を曲がると、ほんの少し入ったところにやはり一風変わった一戸建てのような建物が見えた。庭木が茂る中に建つ木造ベースの外観は、病院というよりも児童館かなにかのようだ。楽しげな佇まいとは裏腹に、色とりどりのビー玉が埋め込まれた壁の前には駐車場に入りきらない程の来院者の車がきっちりと詰めて停められており、時折開閉する扉からは、満員御礼の待合室が垣間見えた。
「混んでんじゃん……!」
「そうなんだよ、繁盛してんだ、これが」
既に満車状態の駐車場に諦めをつけて仕方なく路肩に車を停めると、ウィンカーを点滅させた車にナルトを残し、忘れ物の携帯だけを持ったサスケが院内へと入っていった。誰かと喋っているのだろうか、入口付近でちょっと身振りを加えながら、パクパクと口を動かしているのが見える。
やがて跳ねた黒髪が軽く頭を下げたかと思うと、回れ右をして戻ってきたサスケは、パンツスタイルのナース服に身を包んだ小柄な女性を引き連れてきた。
全体的に色素が薄いのだろう、肩あたりでサラサラと切り揃えられた髪は自然な栗色で、透明感溢れる白い頬には少女めいたうすピンクがほんのり透けている。
ひえぇ、かっわいいなぁアイドルみたいだってばよ……と今にも折れそうなウエストに溜息をついていると、春の小枝みたいな指が運転席の窓ガラスをノックした。間近に来たふっくらとやわらかそうな唇にぽわわんとなっていたナルトは、リズムを取るようなその音に気が付くと、どぎまぎしながらウィンドウを下げる。

「――こんにちは」

はずんで転げた鈴のようなかわいらしい声に、ナルトは再びぽわわわんとなった。
大きな紅茶色の瞳が、親しげに笑んでいる。
こここ、こんにちはッ!と胡散臭いほど吃りながら挨拶を返すと、ナース服の後ろで黒髪の青年が小さく鼻白んだのがわかった。可憐極まる彼女から見えないのをいいことに、声を殺した口元が『ばーか』と動く。
「はじめまして、のはらといいます。ナルト君、だよね?」
「はい……はい!」
「いつもカカシがお世話になってます。それに昨日はオビトがご迷惑掛けたみたいで。ほんと、大変だったでしょ?ごめんね」
――やっぱり!うわわ、ついにウワサのリンさん登場だってばよ……!と内心ではとめどない感動と興奮に包まれながらも、ナルトは改めてその楚々とした容貌を見詰めた。オビトやカカシの同級生ということは、たぶんもう30は越えている筈だ。
……なのに。なのに!
この清純さと可憐さは一体どういうことなのだ!?さらさらと素直に流れ落ちるクセのない髪。子猫のような、くっきりと際立った大きな瞳。そこにおちゃらけた短髪とやる気の見えないボサボサ頭が重なってくると、ナルトはなんだかカミナリ親父さながらに握り拳を震わせて「けしからァァん!」と叫びたい気分になってきた。オビトがこの女性にぞっこんなのは解る。しかしだ、この清楚の君があの寝ぼけ眼の高校教師に恋しているというのは、一体どうしたことか……!?
「オビトは今診察中だから、携帯はリンさんが代わりに渡しておいてくれるってさ」
白けたような声に「は、」と呼び戻されて、ナルトは慌てて目線を落とした。いつの間にかさっきまで外にいたサスケが、無表情に助手席に収まっている。……不躾なほど見蕩れてしまっていたのに気が付くと、今度はなんだか顔を上げられなくなってしまった。サスケといいミコトといい、そしてこのリンという女性まで加わって、ここ数日で自分は美男美女ばかり見過ぎなのではないだろうか。あまりに幸せ過ぎて、この先が怖いとすらちょっと思う。
「見ての通り、診察待ちの患者さんで駐車場もいっぱいだからよ。俺らはこのままここで失礼するか」
「ん、そだな。わかったってばよ」
「ごめんね、わざわざ届けてくれたのに。オビトには私から――…って、また勝手に飛び出してきちゃったわね、あのバカ」
急にぞんざいになった物言いに「ハイ?」と首を傾げていると、いきなりフロントガラスの真正面にばん!と大きな手のひらが張り付いた。「おおい、なんだお前らこんなとこまで寄ってくれたのかよ!」と嬉しそうな声が聞こえた次の瞬間、ナース服とレンタカーの無機質なドアの間に、喜色満面の惜しいハンサムが割り込んでくる。
てっきり白衣姿で聴診器をあてているのかと思いきや、あっけらかんと笑う長身はキャラクターのプリントが入ったブルーの動きやすそうな上下を着ているのみだ。想像してたよりも随分と気軽そうな格好に、ナルトは驚くのを忘れ拍子抜けした。

「オビト!患者さん待ってるんだから、出てきちゃダメだって!」
「えー、だって折角サスケがさ……それにナルトも。次いつ会えるかわかんねぇし」
「はいはい、言い訳しない。戻った戻った」
「なんだよ、リンだってナルト見たさに出てきちゃったくせに」
「だってカカシいち押しのナルト青年が来てるって聞いたら、つい……!」
「さっきもう受付で渋滞起きてたかンな」
「…~~~っ、わかったわよ、戻りますよーだ!」

口を挟む間もなく「バタバタしちゃってごめんね、またねー!」と賑やかに手を振って戻ろうとした二人に、「あー、オビトせんせ、またサボってらァ!」と揶揄する大きな声がした。さっき道すがら抜いてきた野球少年達が、いつの間にか院の前にまで追いついて来ている。
振り返り誤魔化し笑いを見せたオビトを指差して笑う少年達は、何かあればいつも、この妙に流行っている個人医院で世話になっているのだろう。無遠慮な声掛けの中には、彼らがこの若いかかりつけ医を、随分と近しく感じているのがうかがえた。

「ちがうって!これはそのー……そこで道に迷っていた青年達に、道案内をしてやってだなァ、」
「ハイ、嘘――ッ!」

青々とした木々が影を揺らす駐車場に、子供達の元気な笑い声がこだました。並んで遠ざかっていく背中に目処をつけ、再び車のイグニッションを回す。
すると隣で腕を組んでいたサスケが、突然「ふーん」と小さく鼻で嗤ったのが聞こえた。は?なんだよ?と横を見ると、小馬鹿にするように眇めた瞳と視線がぶつかる。
「――なにお前、ああいうのがタイプ?」
やっぱオビトと同族だなと感動のない声で言われ、思わずペダルを踏む足元が狂った。
ぐん、と急発進した車に、動じることもなく無表情のままのサスケが、「当たりか」と呟く。
「意外と面食いなんだな」
「そんなことないってば」
「鼻の下、伸びきってるぞ」
「うぅ~…いや、だってさ!あれ絶対カワイイってば!?男ならほとんどが好きなタイプだって!」
「……まあ、それは認める」
「だろ?…ってなんだ、サスケもカワイイと思ってんだ?」
「まァな。――なんだよ、悪いかよ?」
普段滅多に自分の好みについて明かさないサスケが意外にもすんなり認めるのを聞いて、驚いたナルトは思わずハンドルを握ったまま、端整なポーカーフェイスをまじまじと見詰めた。「馬鹿、前見ろ、前!」と焦った声に促され、慌てて顔を正面に戻す。
「サスケが女の子褒めんのって珍しいな」
「なんだそりゃ。ああいうタイプ、男ならほとんどが好きだって今お前が言ったんだろ」
「……そうだけど」
そうだよな、こいつれっきとした男だもんなと微妙な落胆を覚えつつ、曲がってきた道をそのまま辿るナルトは「カカシ先生、なんでリンさんと付き合わないのかなァ」と溜息混じりにこぼした。
「好きになるならないってのは、顔の問題じゃないからだろ」と素っ気なく答えたサスケに、「でもあの人、性格も良さそうだってばよ?それにカカシ先生もリンさんの事好きだったって、オビトさん言ってたじゃん」と言い返す。
「三人でいたかったって言っても、あの二人がうまくいったら結局ひとりは残っちゃうってば。あれってどういう意味?」
「さーな、俺だって知るかよ」
「サスケ、カカシ先生に訊いてみてよ」
「なんで俺が。聞きたきゃテメーで訊けよ」
段々と面倒になってきたのだろう。適当になってきた受け答えにちょっとがっかりしながら、つい今しがた見送ったばかりのふたつの背中を思い出した。
歩調の揃った後ろ姿。カカシの事は気になるが、やはり最終的にはあの二人は落ち着くべきところに落ち着くような気がする。
「――サスケも、さ。いつかはこっちで、あんなふうに暮らすように、なるの……かな」
言ってみたらなんだか現実味がどんどん増してきて、語尾にいくにつれて弱気になってしまった言葉は、車体が切る風の音にも打ち負かされそうだった。
「あんなふうって、どんなふうだよ」
皮肉んだ笑いをのせたサスケが、そのままちょっと黙る。
「大学卒業して、お医者さんになって、病院継いで。そしたら流石に、管理人さんと兼業は無理だってば?」
「あー…ま、そうだろな」
「……あの香燐って子が、さっきのリンさんみたいに病院手伝ったりすんのかな」
「は?だから、その前にたぶん別れちまうって」
「そんなのわかんないじゃん。――サスケはさ、ちょっと自分の事、軽んじ過ぎるってば。あと、女の子の事、全的にみくびり過ぎだと思う」
昨夜早々と眠りについてしまった彼に言えなかった事を思い切って打ち明けると、言われたサスケは僅かにムッとしたようだった。「みくびるって何だよ」と口を尖らせ、ドア壁に肘をついたままこちらを睨んでくる。
「俺なりに毎回、ちゃんと付き合ってるつもりだぜ?」
「これまでにさ。ちゃんと好きになって、自分から付き合った子っていたの?」
「そーゆーの苦手なんだよ。よくわかんねぇし」
「……初恋、とか。覚えてねぇの?」
「コイだァ?」
ああ駄目、もうやめようぜこの話題、とうんざりしたようなサスケがそっぽを向くと、狭い車内に気まずい沈黙が立ち篭めた。まずいなオレってば地雷踏んじまったかなと、俄かに不安になる。
それでもこんな機会は滅多にないだろう。嫌がられそうだなと思いつつも、サスケの恋愛観に堂々と踏み込んでいけそうなこの流れを、ナルトは逃したくなかった。
「オビトさんみたいにさ。夢中で誰かを好きになって、愛し愛されたいとか――思ったり、しない?」
「はァ?」
「最愛の人と、心を分かち合いたいなァ……なんて」
「お前よくそんな小っ恥ずかしい事言えんな」
「うっ…わりかったなァ!でも人生において、結構重要なことだと思うってばよ」
呆れたようにちょっと目をしばたいたサスケは、前を向いたままの真剣な横顔に気が付くと、からかって有耶無耶にしようとしていた口を閉じた。
窓越しの景色が、水に溶かした水彩絵の具みたいに流れてく。
「レンアイとか、好きとか嫌いとか。――俺マジで、興味ねぇんだ。よくわかんねェし」
むしろ困り果てているかのようにそう言ったサスケは、それでもちょっと考えると、はっきりと迷いのない仕草で前を見た。先の歩行者用信号が、青色点滅し始める。
「……だけど。俺にもわかってることはあるんだぜ?」
交差点前で静かに止まり、自分自身を確かめるように告げてきた彼を、ナルトはそっとうかがった。
夢見るようなそのまなざしは、遥かな幻影でも見ているかのようだ。
「俺が誰よりも一番愛しているのは、兄さんだ。今も昔も、これから先もずっと。たとえ誰かと結婚しようが付き合う事になろうが、永遠にそれだけは変わらねェし、変える気もねェよ」

――『最愛の人』ってのは、ひとりだけいれば充分だろ?

空調がされていてもまだぬるい車の中、鼓膜を震わす残酷な言葉達が、くっきりと落ちた。
信号が変わる。
るるるるる、と機嫌よく唸っていたエンジンが、赤信号に焦れたように、その身を震わせた。