第五話

ある朝目覚めたら、ぼやけた視界の中に隣で眠る、超絶美人を発見してしまった。
漆黒の髪、赤い唇。そして淡雪みたいに侵し難い、しろいしろい肌。

(――キス、とか、したら……)

目覚めちゃったり、するのかな。
正直者で純朴でおまけに働き者の青年である彼がそんな暴挙を思いついてしまったのは、たぶんその眠れる美人が、子供の頃見た絵本のお姫様そのものだったからだ。
毒リンゴだろうが、糸車だろうが、呪いの言葉だろうが、そんなのなんだっていい。
もっと言ってしまえば、その眠り姫が起きても起きなくても、それさえもどうでもいい気がした。
ただ、その、赤く熟れた唇を――味わいたかっただけ、なのだと思う。
ちょっとだけ……ひとくち、だけ。
やがて正直者の青年が禁断の果実から香る甘い誘惑にあっさりと陥落した、その先で。
落とされたキスにそのいとけない瞼はふるりと揺らされ、黒揚羽のごとき睫毛が優美な仕草で、ゆっくりとその羽を開いた。

     ☆

「やらずに後悔するくらいならやって後悔した方がいいに決まってるってばね」というのが、母クシナの持論であった。
幼い頃よりその母に容赦なく鍛えられ、大体にしてその教えに沿った人生を送ってきたナルトであったが、今回ばかりはその向こう見ずな教示を自分に叩き込んだ母をほんの少し恨んでいる。

(――って、なにメルヘンに血迷ってんだ馬鹿かオレはぁァァ!!)

パニックになったまま逃げ込んだ友人の部屋で、隣で眠るお姫様に、つい、キスをしてしまった朝。
口付けの相手が覚醒しだしたのを察し咄嗟に寝たフリを決め込んだナルトは、暴れまわる心臓を必死で押さえ付けながら心の中で絶叫した。
眠り姫はよく見たら友人で、それもとんでもない美人であることには違いないが間違いなく男だった。
更に付け加えるならば寝起きの彼は凄まじく凶悪だ。そこらへんは昨夜ドアを開けてもらった瞬間の第一声で、既に実証済みである。
さすがに微妙な違和感を感じたのだろうか。半目の白い指先が、確かめるように赤い唇に当てられている。
(おわぁアァ、絶対に覚られるなオレ!バレたら確実に今この場で抹殺されるってばよ……!)
人知れず冷や汗をかきながら不断の努力で嘘寝をするナルトの鼻を、やはり大変にご機嫌斜めな様子のお姫様がぎゅうと抓んだ。一瞬、自分の所業が彼にバレてしまったのかと全身に緊張が走る。
しかしそうではないらしい事が鼻先を開放した姫の忍び笑いから伝わってきたので、ナルトはそのまま不断の努力で「太平楽の眠りを貪る友人」の演技を貫いた。無体な仕打ちに、白い指先で触れられた箇所がじんと熱を持つ。
とびっきりの男友達が盛大な関節音を立てている隣で、ナルトはこっそり緩い息を吐いた。背後で着替えをしているらしい衣擦れの音が、これまたさっぱりと潔くて男らしい。
そりゃあコイツは美形だ。超、をひとつ付けても異存はない程の美形だ。もう一個、いや、もう際限なんてつける必要ないのではないかとさえオレは思う。要するにものすごく好みの顔なのだ。ただそれだけなのだ。……別に顔以外は好みじゃないのかといったら、そういう訳じゃ、ないんだけど。
(見ろ。あれはサスケだ。男だ。お姫様でも女神様でも彼女様でもないだろーが!)
寝返りをうつ演技をしながら出て行く背の高い後ろ姿を薄目で見送って、ナルトは軽々にこんな愚かな行為をしてしまった自分を嗤った。よしこれでもうこのオハナシは終わり!メデタシメデタシ!ちょおーっと寝ぼけちまって妙な事しちまったけど、なんかこう、事故みたいなもんだって。言わなきゃバレないだろうしあとはオレの方でも忘れてしまえば、それでもうジ・エンドだってば。
ドアが閉まってからもしばらくの間横になったままで彼が戻って来ないことを確認してから、ナルトは勢いよく体を起こした。まるでご機嫌な朝を演出するかのような鼻歌を奏でながら、ぽんぽんと彼の使っていた羽根枕を叩いて整える。表で可愛らしいソプラノが「かんりにんさーん!」と呼ぶ声が聴こえてきた。あれはきっと、いつぞやの女の子達だろう。なにやら妙に懐かれてしまったようだと、以前酒の席で苦い顔をした彼がこぼしていたような気がする。
(ほら、やっぱアイツにはなーんか人をふらつかせちまうモンがあるんだって。しょーがねェってばよ)
シカマルあたりが聞いたら呆れ返りそうな言い訳をひらつかせながら、ナルトは軽快な動きで布団を畳みだした。
だけどその時、正直者の青年は、まだ知らなかったのだ。
世の中には世界が180度違って見えるようになってしまう、魔法のキスがあるということに。



「――む!そこの青年、オヌシ、今何か悩みを抱えておるな?」
ぼんやりと前を行き交う人々を流し見ていたところで掛けられた声に、既に百はくだらないであろうキスの記憶のリプレイに茫洋としていた頭は現実に引き戻された。澄んだ高音は確かに可愛らしい女性のもので、時代がかった口調にはからかうような色が付いている。制帽の影から斜め下を見下ろすと見知ったお団子頭が目に入り、ナルトは小さく笑った。
「テンテンさん」
「またどっかいっちゃってるような顔になってたわよォ、警備員失格じゃないの」
「……スンマセンってば。ちゃんとします」
背中を伸ばし直して言えば、よしよし、と言うように快活な笑顔が惜しみなく向けられた。平日のショッピングモールは小さな子供連れの母親達と、既にリタイアをしているのだろうという老夫婦、あとは無邪気な学生カップルがのんびりと歩くばかりだ。
「ヒマねー」
商品用のカゴを弄りながら、お団子頭の女性が呟いた。ヒマ過ぎるから、お悩み相談でもしてあげましょうか?押し付けるようにそんな事を言う彼女に、ナルトは苦笑いを浮かべる。
「そうやって、また商品を売りつけるつもりだってば?」
「やあね、人聞きの悪い事言わないでよ」
からからと笑いながら、小柄な彼女はそっと手にしていたカゴを後ろにやった。やっぱり。あの中にはさりげなく、今回もナルトに買わせようとしていた品が入っていたに違いない。先月から日中派遣されているショッピングモールは、今日も物凄く平和だ。しかしたぶんそれは、犯罪抑止のために立たされているナルト達警備員の手柄な訳ではないらしいのがちょっと淋しい。
つまり、客が少ないのだ。派遣されているナルト達が、なんだか申し訳ない気分になるほどに。

『そこのおにいさん、イイモノ見せてたげるからちょっとこっち来なさいよ』

そう言って手招きするお団子頭に、鈴付きのカエルを買わされたのは数週間前の話だ。
シルバー製品の小さな店を経営する若い女性は、何日か前から自分の店舗の脇で立つ金髪の警備員に前もって目をつけていたのだろう。一瞬周りに人影が消えた瞬間を狙ってナルトに近づいてくると、手の内に隠していた銀細工のキーホルダーをそっと披露した。
『なんかすごく、親近感ある顔してますが――このカエル』
『そりゃあそうよ、モデルは君だもの』
あっけらかんとそう言い放った彼女に、ナルトは言葉を失った。「オレ?」と確認するナルトに、悪びれることなくお団子頭がこっくり頷く。彼女の店がオーダーメイドの銀細工を承るサービスもやっているらしいというのは、店の前に出されている張り紙から知ってはいたが、一度も喋ったことのない警備員を勝手にモデルにするというのはどうなのだろう。こういうのって普通、先に本人に許可くらいは取ってもいいんじゃないだろうか。
薄い手のひらの上でちょこんと鎮座するカエルを見下ろすと、ナルトは呆れるやら感心するやらでまた絶句した。青い石を目に入れられたカエルの頭には、ご丁寧な事に金髪の代わりなのか小さな金の冠まで乗っかっている。
『はー……よく出来てンなー、なんか宝石?みたいなのも入ってるし。びっくりしたってば』
『そうでしょう、結構自信作だもの。包んでおいてあげるから、仕事帰りに取りに来てね』
『えっ?あ、なに、これオレにくれんの?』
『そんな訳ないでしょ』
『は?』
『ちゃんとお代はいただくわよ』
『……ちなみに、いかほどで?』
『一万』
『――たっか…!』
『だってちょっといい石使っちゃったし。これでも大マケにマケてんのよ』
渋るナルトに「かわいそうに、この子店に出されても売れないかもね。ずうっと売れ残っちゃうかもね」とダメ押しをすると、女性店長は悪意のない顔でにっこりとほほえんだ。うう、今日の日給が全部消えたってばよ……と涙ぐみながら、それでも帰り際に寄った店で律儀に財布を出したナルトに、お団子店長は青い目のカエルを綺麗な箱に入れて渡してくれた。
レシートに添えられていた店のカードを見てみると、店の直通ダイヤルと共に彼女の名前も記されている。「テンテン」というのは、シルバーアーティストとしての芸名のようなものらしい。「この名前、ちょっと可愛いから気に入ってるんだ」とレジではにかむ彼女を見ると、大枚叩かせた上に本名を名乗る気もないのかよという文句も、なんだかもうどうでも良くなってきてしまったのだった。

「あのカエル、結構評判いいってばよ」

まばらな通行人にそれとなく視線を投げかけながらも、ナルトは隣に立つテンテンに笑いかけた。それはどうも、と榛色の瞳が謝辞を返す。
「ご注文はいつでもどうぞ」
「うん、是非とも次はオーダー入ってから作ってくれってば」
それとなく皮肉を混ぜたつもりだったが、解っているのかいないのかお団子店長はアハハと笑った。これもきっと彼女の作品なのだろう、健康的な色の頬の横でゆらゆらと銀のピアスが揺れる。
「そうねー、指輪とかだとサイズが難しいかもしれないけど、ああいうキーホルダーとか……あとはブレスレット、これからの時期ならアンクレットもいいわね。それならそんなにサイズとか気にしないで贈れるんじゃない?」
「……は?」
「何わかんないような顔してんの、プレゼントでしょ?意中のヒトへの」
片思い、でしょ?想定外の言葉に口が開きっぱなしになるナルトを見上げて、テンテンが全部お見通しよとでもいうような顔をした。慌てて「そんなんじゃないって!」と否定してはみたものの、それを見て呆れたように肩を竦めるテンテンは端からその言葉を信じる気はないらしい。
ニヤニヤする丸顔に観念したかのように口を噤んだナルトに、興味津々といった様子でお団子頭が擦り寄った。
「ね、どんな子?綺麗系?可愛い系?」
「なんで片思いって思うんだってば?彼女かも、とか」
「両思いならあんな溜息ばっかつかないわよ。辛気臭いったらありゃしない」
「ハァ、そうですか」
「どんな子?」
「うー…綺麗系、かな……でもたまーに、ヤバいくらいかわいい時があるってば」
「ふーん、性格は?美人は得てして根性悪よ」
「んー、そうだな。厳しくて、正しくて、熱しやすくて潔いって感じ?」
「へぇ、随分と男前なキャラなのね」
「えッ?えーと…――うん、そう、かな?」
ははは、と乾いた笑い声をあげると、何かを見極めるかのようにじいっとアイラインのびっしり入った瞳が青い目を見つめてきた。気圧されてたじたじになるナルトに「ふ、」と笑うと、気風の良さそうな口許が「ベタ惚れなんだねー」と唆すように言う。
「告白してみればいいのに。おにーさん、結構見掛けもイケてる方だと思うよ?」
冗談めかした推挙の言葉に褒められたナルトは微妙な笑いを浮かべたが、発言者の方は結構真面目に言ったつもりらしかった。「またァ、そうやって褒めてもなんも買わねーってばよ?」と返しても、「ううん、そんなんじゃなくて、マジメに言ってんのよ」と急に真剣になった眼差しが戸惑うナルトを捕える。
「背もあるし、肩幅もあるし、力だってありそうだし、それにその見事な金髪にブルーアイ。人柄だって悪くなさそうだし――実際のところ、君そこそこモテるでしょ?」
「はァ……まあ、人並み程度?には」
制帽の頭を掻き掻き言うと、テンテンは「やっぱりね」というように深く頷いた。なんだか褒め殺しのようで、尻がムズムズする。
「その子も君のこと、悪しからず思ってくれてるんじゃないの?」
「うーん、仲はいいと思うけど……すっげー優しい時とかもあるし」
「なんだ、じゃああっちも君の告白を待ってるのかもしれないじゃない」
「や、それはないってば」
「だめよそんな弱気な事じゃ!欲しいものがあるならしっかり言葉と態度であらわさなきゃ!」
「そ、そうかな」
「そうよ!男ならまずは玉砕してもいいから当たってみるべきよ」
「えー…」
「なによ、試しもしないうちに諦めるなんて、根性ないわね」
「むぅ、ド根性には、結構自信あるってばよ」
「そうこなくっちゃ!これ恋愛成就のお守りなんだけど、おひとついかが?」
力強く背中を押す言葉に僅かに揺れ出したナルトの隙を付いて、テンテンがすかさず先程後ろに隠したショッピングバスケットを差し出した。中を覗くと、ハートをモチーフにした小さな銀細工のクローバーがころんと入っている。
「――…結構デス」
籠を覗いたその顔で小さく呟くと、商魂逞しい女性店長は悪戯を咎められたかのようにチロリと赤い舌先を見せた。
一気に襲ってきた脱力感に、背中が重くなる。
(……女の人って、ホントしたたかだなぁ)
店の奥で鳴る電話の呼び鈴を耳敏く聞きつけては戻っていくしなやかな後ろ姿に、ナルトは感心とも羨望ともつかない眼差しを向けた。香燐といい、テンテンといい。欲しいものを迷わず欲しいと言えるそのエネルギーは、一体どこからくるのだろう。
ショッピングモールには、先程からミディアムテンポの陽気なラブソングが流れている。
甘い恋心を繰り返し歌う女性シンガーの鼻にかかった声は、やはり告白なんて到底できそうにないと改めて思うナルトの鼓膜を、小馬鹿にするように震わせては離れていった。



「よォ、今帰りか?」
「うん――ただいま、サスケ」
丁度業務の終了時間だったのだろう、バイトを終え帰宅したナルトは共同玄関を通り抜けようとしたところで、管理人室の鍵を閉めている彼と鉢合わせになった。
今日も穏やかに投げられる、狂いのない笑顔。
「昨日カカシ先生がさ、田舎から送ってきたとかでまた野菜くれたんだけど」
「ああ、俺ンとこにも来た。ひん曲がったキュウリと山盛りの茗荷だろ?」
「みょーが?」
「ほら、こんくらいの、白に少し赤紫がかった……」
「あぁ、あのカカシセンセーの頭みたいなやつか」
「カカシの頭っ――いや、でも確かにあの頭はねェよな」
打ち返されたナルトの言葉に「くくく」と喉を震わせているサスケを見て、ナルトは最早条件反射となりつつある「いいヤツ」の笑顔をつくった。嘘みたいにいつも通りな日常。あの集中豪雨が残していった特大の水たまりが乾いて消えたのも、もう何日も前の話だ。

「カカシんとこの野菜って、美味いんだけど無農薬だから虫に食われまくってるよな」
「うん(なんでコイツこんなに白いんだろ……)」
「トマトだったらなァ、いくらでも貰いたいんだけど。茗荷なんてのはあんなには要らねえな」
「……そだな(色素が薄いって訳でもないんだよな。頭なんて墨みたいにまっくろだし)」
「あっ、もし今度トマトが来ることがあったら、俺がお前の分まで引き受けてやるぜ?」
「……(あー、あの口、すっげェやーらかいんだよな)」
「まあでも、トマトは来ねェかな、宅急便で送るには傷みやすすぎるもんな」
「……かもなァ(こんなに蒸し暑いのに、なんで全然汗かいてないんだろ。きっとどこもかしこも、すべすべしてんだろうな)」
「――おい!」

出し抜けに叩きつけられた大きな声に、不埒な妄想にうつつを抜かしていた頭は喝を入れられた。いけない。またこの目の前にいるお姫様への邪念に、頭の中は占拠されてしまっていたらしい。
「どうした?なんだかぼんやりしてるぞ」
「あ……そうだった?」
「ああ、なんだか視点が定まってないし。情けねェな、もう夏バテか?」
スポーツマンの風上にも置けねェな、と笑うサスケを先にして、エントランスを横切った。二階へ向かう階段を登りだした彼が、少し上がったところで階下のナルトを見下ろす。

「じゃあな」
「……オゥ」

重さのない別れの言葉を交わして、ナルトは奥にある自室へと向かった。ちりちりと幽き声で鳴くカエルを、ポケットの中で弄ぶ。短い逢瀬が途方もなく嬉しいのに、それを認めるのがどうしようもなく切ない。
一歩踏み込んだ玄関で、ナルトは後ろ手にドアを閉めるとそのままごつんと扉に凭れた。閉じた瞼の裏側をぎゅっと絞ると、じわと広がる熱と共に浮かぶのは隙の無い横顔。そして黒髪に彩られた、白くやわらかな、彼の耳朶。
――あれは魔法のキスなんて可愛らしいものなんかじゃなくて、いっそ呪いの口付けとでも呼ぶべきものだったのかもしれない。今になって向こう見ずな狼藉を働いてしまった自分に気が遠くなりながら、ナルトは暗いままの玄関で天井を仰いだ。
テンテンに指摘されるまでもなく、正直、彼を好ましく思っていたのは、今に始まったことではない。
とびきりきれいで、強くて、正しくて、誰に対しても臆する事なく厳しい人。
冷たくておっかない外面を捲るとその内側では信じられない位の熱っぽさがくらくらと炎を揺らめかせていて、それがまた素晴らしく魅力的だった。知り合った頃から、その印象はずっと変わらない。
その上、距離が近くなればなるほどにごく普通の青年である彼も見えてきて、そのクールビューティーな外見とのギャップが堪らなかった。擦り寄っていっても拒絶されないのがなんだかとても特別な気がして、彼といるとつい尻尾を振る犬のようにじゃれついてしまう。
実際、彼にとって自分は特別な存在なのだろうと、ナルトは密かに己惚れてもいた。
元バイト仲間である彼の幼馴染を別とすれば、サスケが他の友人と遊びに行ったり話題に出したりするのを聞いたことがない。自分が思っているほどではないにせよ、彼もオレを一番の友達だと思ってくれているのかもしれない。そう考えてしまうのは、行き過ぎな事ではない気がした。正直に告白してしまえば、『親友』だなんて気恥ずかしい言葉を思い浮かべてはニヤついてしまったのも、実は一度や二度ではない。
だから、それがこんな風になってしまった契機は、やはりあのほんの出来心からしてしまったキスが原因なのだろう。
一向に薄まる気配のないやわらかな感触の記憶に、ナルトは頭を抱えた。一度知ってしまった甘い唇の味は、ふわふわとその余韻を漂わせては、ナルトをずっと惑わせ続けていた。かき消してもかき消しても、絶えずそれは蘇ってはからかう様にまとわりつく。まるで戸惑うナルトを嗤っているかのようだ。
けれども決定打となったのは、たぶん、それではない。
あの日、誘惑に負けたこの指先が。
清廉で高潔な彼の中にも、甘い吐息を紡がせる箇所があることを――知って、しまったせいだ。

『いい写真だな』

散らかった自分の部屋でそう言った彼は、青みがかった弱々しい光の差す部屋の中でも仄白く輝いて見えた。
幾度となく、ひとりで眺めてきたかつての幸福。
もう永遠に取り戻せない過去を、あの正しくて美しい人が真っ直ぐに肯定してくれたのが嬉しかった。
喜びはひたひたと足元から広がってあっという間に部屋を満たし、狭いワンルームはまるで小さな水槽みたいだった。胸いっぱいにこみ上げる彼への慕わしさは、その微笑みに囚われたナルトに微かな酸欠を引き起こす。
彼の髪に絡まった木の葉を見つけた時、その余録への期待に思わず声が上擦った。指で梳いた髪の隙間に無垢な耳を見つけてしまえば、どうしてもそこへ触れてみずにはいられなかった。
(もういっぺんだけ、触らせてもらえないかな……)
まばたき程の短い接触で引き出された彼の吐息を思い出せば、もっともっとと切望してしまう自分にうんざりとした。硬いんだろうなとずっと思っていた髪は実際は意外な程柔らかくて、深く差し込んだ指先は隠された彼の熱を今もまだ覚えている。
ほんのちょっと触れただけであんな息が出ちゃうんじゃ、全身くまなく撫でたらアイツ一体どうなっちゃうんだろ。
……びんかん、だったり、するのかな。
想像したら、体の真ん中に浅ましい熱が灯るのを感じた。当惑しつつもその波が引くのを待ったが、それはどんどん大きくなるばかりで一向に消えていく気配がなく――しかし彼から受けた拒絶はそれ以上に忘れ難くて、彼に言いつけられた草毟りをしながらも、ナルトはあまりの自分の危うさになんだか空恐ろしくなってきた。
そんな時にバイト先から早目に来て欲しいという連絡があったのは、もしかしたら天からの救済だったのかもしれない。
それなのに。

『――――帰んのかよ?』

……あの夜。
上目遣いで誘ってくる双眸は絖るような黒で、まるでおねだりでもされているような錯覚に下腹部がきゅんきゅんと切なく哭いた。
強烈すぎる媚態だった。あんなコトをする彼は見たことが無い。
――オレにだから、そんな姿を見せちゃうんだ?
そう思ったら恐ろしい程の愉悦が滲み出た。そんなに気を許しちゃって。昨日もあんな不埒な事をしてしまった自分に彼はなんだか物凄く優しくて、特別扱いされている実感にナルトは軽く酩酊し続けていた。これ以上はヤバイなと思いつつも一緒にいたい気持ちに負けて、食事をねだりに行ってしまったのもそのせいだ。
だがその晩はちょっと勝手が違っていた。アルコールが入っていたのもある。元々酒に強いナルトはサスケのように自分を失う程酔う事は殆どなかったが、その時は突然降って湧いた彼の結婚話の衝撃から、ナルトは未だ抜けきれていないままだった。危うさを感じつつも普段よりも接触したがるサスケを振り切れなかった理由は、いきなり現れた彼の幼馴染という女性に妙な焦燥を持たされた為だろう。
そんな馬鹿な話と突っぱねて完膚なきまでに叩き潰してくれるかと思いきや、唖然とするほど彼女と付き合う事に疑問を持っていない彼の様子に、ナルトはなんだか悲しくなった。確かに一度言った事を翻すような事は絶対にしない彼だけれども、それにしたってあれはないんじゃないだろうか。泣くなよとシカマルから先に釘を刺されていなかったら、本気で結構ヤバかったかもしれない。

『……このカラダだけで満足してくれンなら、いくらでもくれてやるんだけどよ……』

――なんっちゅう!なんっちゅう大盤振る舞いな発言をしてくれるんだこのお姫様は!
自分の価値を軽んじ過ぎている彼に涙が出そうだった。
あのな、そのカラダな、欲しがる奴は山程いるっての。
ていうか今ここに物凄く欲しがってる奴がひとりいるんだって…!そんな気前のいい発言されちゃうといい加減正直者の青年だってオオカミさんに変身しちゃうから、マジでそんな軽はずみな事しないで欲しい。あと頼むからそんな破廉恥でエキセントリックでおいし過ぎる発言は、余所では絶対しないでくださいね……!?
目の前で肘をついて可笑しそうにこちらを見ている彼に、ナルトは到底言葉にする訳にはいかない牽制を心密かに喚いた。少し傾げた前髪の隙間から滑らかな額が覗いていて、昨日そこに自分の箇所がくっついたのが嘘のようだ。
至近距離で見た彼の目は、素晴らしく透き通っていて美しかった。邪念だらけの自分はいとも簡単にその眼に見透かされそうな気がして、臆病な心臓が気弱に震えたのを覚えている。
そして放たれた、トドメの一言。

『――ナルト』
『俺は、お前と、付き合えたらよかったのにな――』

……180度変わってしまった世界は、二度目のキスでぐるりと一巡した。
元の場所に戻ってこれるかと思いきや、考えてみればおとぎ話でだってそうそう上手い話はあるわけなくて。目覚めたお姫様は茨の森からさっさと出て行ってしまい、間抜けな男ひとりだけが、ぽっかりと宙に浮いた一夜に夢を見続けている事になっただけだった。
あの夜。
降りしきる雨の彼方で、世界が変わる音を確かに聴いた気がした。
けれどそれを聴いたのは、自分ひとりだけだったのだ。寸分違わずこれまで通りの声を出す彼に、ナルトは嫌というほど現実を思い知らされる。
ふと薄暗い部屋で彼の熱に触れた時、間髪入れず突き放された衝撃をぼんやりと思い出した。
――明らか過ぎる拒絶。悲しいかな、同じ性を持つ人間同士だったら当然の反応だと思う。
「忘れて」と願ったのは、紛れもなく自分自身だ。そしてそれはきっと間違っていない。
もしかしたら、一本気な彼は本当に香燐と結婚するつもりなのかもしれなかった。いや、たとえそうでなくとも、あの美麗な容姿とまっすぐな精神に惹かれる人間は、この先だって後を絶たないだろう。いずれにせよ正しく美しい彼には、これからも淀みなく完成された毎日が用意されているに違いないのだった。そこに割り入っていける程、自分はあの拒絶を軽視できない。
「なかったこと」にしてしまうのが、一番いいのだ。
覚えているのは、自分だけでいい――そうすれば、少なくとも彼の近くにいられる事だけは、この先も保証されている筈なのだ。
今のまま、このままで。
これ以上近付くことはない代わりに、突き放されることもない。
(……まるで、人工衛星だな)
ふと思いついたなぞらえに、ナルトは僅かに天を仰いだ。美しい星に魅せられて、延々と巡る周回軌道上を回ってはただひたすらに星を見つめ続ける小さな人工天体。引力に逆らうことも、逆に惹きつけられるがまま惑星に落ちていくことも許されない彼の生涯に思いを馳せれば、その無限のやるせなさに同情じみた溜息が出た。
吐き出した息と共に、「じゃあな」と見下ろして言った、彼の穏やかなほほえみが蘇る。
いつかこの、果てのないループ運動から自分を引き離してくれるような人が、他に現れるだろうか。
そんな事をちらりと願ったりもしてみたが、あのほほえみ以上に自分を捕えるような笑顔は、世界中探しても到底見つからないような気がした。
烈火のような怒りで顰められた厳しい眉も、不意を打たれたときのきょとんとしたまっくろな瞳も。怒られようが嗤われようが、彼の気を引いていると思えばそれだけでもうどうしようもなくナルトの心は震えてしまうのだった。あの笑顔のためなら、どんな馬鹿だってやってのける自信がある。――自分でも呆れるが、かなりの重症であることは間違いない。
凭れたドアの内側で、手のひらの中のカエルがチリリと鳴く。
吊るし上げるように、彼の手の中でも鳴いたそいつを眼前に晒してぶら下げてみた。あの白い手のひらは、きっとあたたかくて柔らかかっただろう。今はもうその余韻さえも残していない薄情者を、ナルトは指先で弾いた。驚いたかのように、小さなカエルが宙に跳ねる。
(……羨ましいってばよ、オマエ)
ほろ苦く笑うと、ナルトはその鍵付きの果報者を玄関の棚に丁寧に放った。
この恋に、きっと望みはないだろう。
だけど永遠だけは、約束されていると思いたかった。
彼の近く、すぐ傍で。同じように時を過ごしていくことだけは、許されていると信じたい。
――窓の向こう、雲が消えた西の空で、沈みかけた太陽が燃えるような赤に染まっていた。確か赤い夕日を見た次の日は、晴れるのではなかったか。碧眼に茜色の光を混ぜて外を見詰めるナルトの脳裏に、どこで聞いたかも思い出せない俗諺がふいに浮かび上がっては、すぐに消える。
尻ポケットに突っ込んだままの携帯電話がブルブルと震えるのを感じて手に取ると、液晶画面の中でデフォルメされたアニメーションが滑稽な動きでメールの着信を知らせている。
添えられた差し出し人名は、大好きなあの人。
その三文字を見ると、まっしぐらに飼い主に飛びつく犬さながらに、ナルトはすぐさま開封のボタンを押した。