第六話

目覚めた時、怒涛の宿酔と共に鼻についたのは、湿気の籠る部屋に漂ったそこはかとないカレー臭だった。
流しを見ると、一人分の皿とスプーン。鍋には火を入れ直したと思わしき自作のカレーが、底の方にほんの少しだけ残っている。
(……なんか、すげぇ展開の夢だったな……)
集中豪雨の最中。
大きな金色の影に、唇を奪われる夢をみた。
その金色は、実は非常によく見知った顔をしていて。いつもは快晴を映している瞳が、その時は決壊寸前の低気圧みたいに張り詰めていた。ふと違和感を感じて指をやると、唇に微かに残る、香辛料の香り。ぐでぐでに酔っていたにも関わらず、帰宅後に小腹でも空いたのだろうか。漁った冷蔵庫に放り込んであった一昨日のカレーを、自分は真夜中にひとり平らげてから床についたらしかった。
(うう、気持ちわりー…)
ガンガンと頭の中で警鐘を打ち鳴らされているかのような頭痛に、サスケは一旦起こした頭を再び枕に落とした。近日稀に見る程の酷い二日酔いだ。この分じゃ、まだアルコールをたぶんに含んだこの体は夕方位まで使い物にならないだろう。
(それにしても、なんであいつなんだ)
あけっぴろげに笑うその顔を思い浮かべると、更に頭痛が増すようだった。せめて、この前大学で声をかけてきた女とか――ああそうだ、香燐とかもいるじゃないか。
よりによって、あの男。
……そう、男だ。更に付け加えるならば、馬鹿でドべでウスラトンカチなお人好し野郎。
(なんだろ、俺、珍しく溜まってンのか?)
いやいやそれなら益々あいつが出てくんのはおかしいだろと思い直し、サスケは瞼を閉じた。夢とはいえ何故そんな展開になったのかを思い出そうとしてみるが、どうにもその前後があやふやだ。瞼の裏側に透ける、オレンジがかった光が眩しい。いやに日差しがきついと思ったら、どうやら昨日はカーテンまで締め忘れたままで眠ってしまっていたらしい。
起き上がってカーテンを引くのさえ億劫で、サスケはそのままばさりと寝返りを打った。
蒸された空気が重い。
昨夜の豪雨で濡らされたままの屋根が弾いた朝日が、無抵抗な後頭部に容赦なく射した。

     ☆

《お前、この前うちに上がった?》
一昼夜空けて、やっとまともになった頭でごく短いメールを送ると、間を置かずに《上がってない》と更にその上をいく短い返事が返されてきた。考えれば考える程リアルな映像となって蘇るキスシーンに空恐ろしくなり、おそるおそる裏付け確認をとってみたのだが、やはりあれは酔った脳が作り出したくだらない妄想だったらしい。
「誰にメール?」
横から掛けられた声に液晶から目をあげると、水月がどことなく面白くなさそうに大教室のベンチシートの脇に立っていた。自然と少し尻をずらして彼の分の席を作ると、小柄な体が機嫌を直したような顔でいそいそと隣に座ってくる。
「サスケってあんまメールとかもしないよね。誰と?」
もう一度問いかけてきた水月に「んー…同じアパートに住んでるヤツ」と答えると、「ああ、いつものお仲間?」と微かに鼻で笑うような声が返ってきた。水月は去年まで在学していたシカマルとは何度か顔を合わせたことがあるが、ナルトとの面識はない。
プロのスポーツ選手を目指しているフリーターというのは言ったことがあるような気がするが、そんなナルトと自分がつるんでいるのを、水月は余り気に入っていないようだった。
「なんかさ、シカマルさんもそうだけど、社会人になってる人達とボクらって、やっぱ毎日やってることとか生活リズムとか全然違うじゃん?一緒に遊んでて、話とかちゃんと盛り上がれたりすんの?」
「?……別に、あんまり気になった事はないな。普通に喋れてると思うが」
「まーシカマルさんは教養もあるから話してても面白いと思うけど――その、フリーターの人?どうせ中退した大学だってスポーツ推薦とかでしょ。サスケみたいな人がそんな脳味噌が筋肉になっちゃってるようなヤツと一緒にいて、本当に楽しいの?」
会った事がないとはいえそれにしてもあんまりな言い様に、さすがのサスケも一瞬閉口した。不思議な程害された気分のままに心無い言葉を吐いた水月を厳しく咎めようかとも思ったが、よく考えたら自分自身もナルトと会ったばかりの頃は、彼の事をどうしようもなくいい加減な人間だとどこか見下していたのを思い出す。
なんというか……あいつの良さって、社会的地位とか学歴とか、そういうランク付けから逸脱したところにあるんだよな。上・中・下とかに簡単に分けられるような良さではなくて――なんだろう、どんな人間であっても見ればつい「いいな」と思ってしまうような、なにか。
「まあ、馬鹿であることは認めるが……見ず知らずの男にそこまで言われなきゃならない程、ダメなヤツでもないぜ?」
(会った事がないんだから解らなくても仕方ねェか)と必要以上に説明するのを諦めて、サスケは意地の悪い批評に未だニヤニヤしている水月に対しては軽く窘めるに留めた。さして怒らないサスケに気を良くしたのか、年の割に幼さを残すその顔は満足気だ。
「ねー今日さ、サスケの仕事が終わったら、たまには夜二人で飲みに行こーよ」
アパートまで迎えにいくからさ、と誘う言葉の途中で、再び机の上に置かれたままの携帯電話のランプがチカチカと点灯して着信を知らせた。送られてきたメールを開封すると、絵文字がふんだんに盛り込まれた文章が小さな液晶画面にずらりと広がる。
「うわー超盛ってる感じのメールだねー、アッタマ悪そう。誰、これ?」
全体的にピンク色のメールを無遠慮な目で見下して、水月が言った。ちょこちょこと動く絵文字に若干辟易としながらもメッセージを読み終えたサスケが、深いため息をつきながら画面を閉じる。
「悪い、今夜はダメだ。予定が入った」
机上に戻す前にチラと時間を液晶画面で確認すると、サスケは携帯を戻し淡々と机の上にノートとテキストを並べ出した。「えーっ予定って今のメールでしょ?こっちが先だよ」と不服を唱える水月が、その身を寄せてくる。
「またその筋肉馬鹿のオトモダチ?」
「いや、今度付き合う事になった彼女」
――ぇえっ?と驚いた水月が思わずガタンと立ち上がったのと、白髪の教授が大教室に入ってきたのはほぼ同時だった。
あれ、とりあえずは婚約者じゃなくて、彼女でいいんだよな?
草臥れた頭でそんな事を思いつつ、唖然とする水月を見上げてサスケは力無く笑った。



「なにコイツ!」
待ち合わせ場所に立つ『彼氏』の脇にべったりとくっついている男を見て、開口一番叫んだ香燐は盛大に顔を歪めた。これではせっかくつくりあげられた精巧な薄化粧も形無しだ。ショートパンツから伸びたきれいな膝を震わせて、ピンヒールの足が地団駄を踏んだ。
「今日はボクの方が先にサスケと約束したんだもんねー、お邪魔虫はそっちでしょ」
悪びれない様子で赤い舌を出す水月は、アイラインの入った切れ長の瞳に睨まれると茶化すようにサスケの後ろに隠れた。
「君が香燐?なーんだ、全然たいしたことないじゃん。こんなのと付き合う位なら、ボクと遊びに行ったほうが絶対楽しいって」
ね?と背中越しに言われて困り果てているサスケに、怒り心頭な様子の香燐が詰め寄った。赤く塗られた唇が、フルフルと激昂に震えている。
「どーゆー事?サスケェ、うちと結婚するって言ったよな?」
「いや、その――すまない、事情は説明したんだが、こいつがどうしても俺の彼女を見てみたいと言ってきかなくて」
形のいい唇から出た『彼女』という単語に一瞬うっとりとしかけた香燐だったが、待ち人の背中に張り付いた水月のニヤニヤ笑いに気が付くと再びその肩を怒らせた。
なんだコイツ、年下のクセに人を食ったような目をしやがって。やけにこじんまりと整った体型も、妙にかわいらしい童顔も、全部が無性に気に食わない。
「じゃあもう見たから気が済んだよな?ガキはとっとと帰んな!」
「いやだ。サスケはボクと遊びに行くの。ボクの方が先に誘ったんだもん」
そっちこそ帰んなよ、と堂々と言い放つ水月に、サスケは昨日までの強烈な二日酔いが戻ってきたかのような頭痛を感じた。往来の激しい駅前の待ち合わせスポットには、大勢の人が思い思いの姿勢で人を待っている。
辺りを憚らず激しい言い争いを始めた男女と、微妙に蚊帳の外にされているがたぶん間違いなく喧嘩の要因は彼なのだろうと推測される美形の青年には、少し距離をおいた場所から否応無しに好奇の視線が集められた。
(……帰りてェ……)
苛烈さを増していく言い争いを遠い目で眺めつつ落とした肩でそう思えば、視界の端、雑踏の中で動く金髪頭が飛び込んできた。救われたような気分で思わず「ナル…!」と声を掛けようとしたところで、急に声をあげたサスケに気がついた二人が一斉にこちらを向く。
「ちょっと!なに余所見してんだ、サスケからもコイツに言ってやってよ!」
「サスケ、このヒトやっぱ頭悪いって。こんなのと付き合ってたらサスケの品格が下がるよ、早く別れちゃいなって」
人混みに紛れていく後ろ姿は、よく見たら知っている背中よりも随分と線が細かった。
自分でも驚く程の落胆に襲われたサスケに、諍いあう二人が追い打ちを掛ける。
「大体がさぁ、そんな子供の頃の口約束なんかを盾に結婚を迫るなんて非常識極まりない事を本気でしてくるような女が、サスケと一緒にいて釣り合うとでも思ってるわけ?」
「ンだとコラ!てめーみたいなインテリぼっちゃんなんかに男女の機微が解ってたまるか!」
「男女の機微?オネーサンが勝手に舞い上がってるだけでしょ」
「うるせー、ほっとけよ!」
「ははーん、さてはオネーサン、ここまでずっと負け組路線できてたんでしょ?」
「あぁン?」
「だからこんなオイシイ話に必死で食いつくんだ、医大生で顔がよくて実家も金持ちだなんて、女だったら絶対に逃がしたくないもんね」
「――水月!」
「もうよせ、言い過ぎだ」と咎めると、勢い余って半歩出ていた足が渋々と後ろに引かれた。
それでもまだ納得いかない様子で下を向く水月を無視し、赤毛の彼女を気遣うと、悔しげに噛まれた唇は赤く染まり、その頬も興奮が収まらないのか朱を散らしたままだ。
「……連れが無礼な事を言ったな。悪かった」
俯いた顔を覗き込んでそう言えば、勝気な目がほんのり潤んでいるのに気がついた。そういえば、今日は眼鏡してないんだな。今更ながらに気が付いて、サスケはまじまじとその赤茶の混じる瞳を見詰める。
「――サスケも、うちの事、そんなふうに思ってるの?」
一言づつ確認するように区切られた科白に「え?」と訊き返すと、涙を堪え切った顔がぐいっと上げられた。手入れの行き届いた白い頬が、夕闇の中なめらかに輝いている。
容赦のない視線でまっすぐに射抜かれてしまうと、サスケの体は見事なほど竦まされてしまい、指先ひとつ動かせなくなった。
「や、そんなふう、……って?」
「別に、いいけど。どんなふうに思われてたって。――でも約束だけは、守ってくれよな」
今日はもう帰る、とだけ言い残して踵を返した後ろ姿を、ついていけない頭のままで見送った。改札から流れ出てくる人の中に、艶々した赤毛はあっという間に紛れ込む。
「なんか、後味悪いなー。口直しに何か美味しいもの食べに行こ?」
しばらくしてからそう言ってきた水月を少し睨んで、サスケは香燐の消えていった先にもう一度目を凝らした。
一瞬、昔のようにしゃがみこんで泣いているかと思われた赤毛の女の子は最早どこにも見当たらず、思い浮かぶのは人で溢れかえるホームを毅然として歩く大人の女性の姿だけだ。
華奢な踵の響かせる高らかな足音が聴こえたような気がして、サスケは思わず子供のように服の端を引っ張っている水月の手を、そっと払い除けた。



母親というのはどうしてこう忙しい時に限って、どうでもいい話のために電話をしてくるのだろう。
トントンと赤ペンでノートの端を叩きながら、サスケは未だ終わる気配のない母親の無駄話にいい加減な相槌をおくった。「庭の時計草がやっと咲いたのよ」に始まり「お父さんがまた無駄遣いするなと怒った」「車の調子が悪い」「この前の嵐で家の瓦が飛んだ」「オビト君がついにリンちゃんとデートしてもらえる事になったらしい(サスケとしてはむしろこれが一番興味を引く話題だった)」と続いたお喋りは今「夏祭りに婦人会でバザーをやることになったけれどその集まりに顔を出すのが面倒臭いのよね」という話に移っている。
管理人室のデスクの上には先程から広げられたままの分厚い台帳。今日中に今月のアパートの収支を計算してしまいたくてわざわざ就業時間を過ぎてもここに残っていたというのに、これでは折角の時間外勤務もしている意味がない。相変わらずスッキリしない天候に頭痛はうずうずと続いているし、今も漂う管理人室の湿気ときたらここ数日本当に酷いものだった。
「――で、結局何の用で電話してきたの?」
いよいよ電卓と台帳が気になってきて、つい話を区切るようにそう告げると、電話越しに『もう、これだからサスケとは話してても面白くないんだから』と鼻白むような声がした。そんな事を言うならこんなくだらない世間話のために一時間近くも電話してこないでくれとげんなりとしつつ、長電話でバッテリーが少し熱くなってきているスマートフォンを持ち直す。
かつてはこんな何気ない一言にも(ああ、兄さんだったらもっと気持ちよく話を聞いてくれたもんな)などと拗ねた受け取り方をしたものだったが、今はもうそんな事もない。死んだ兄が最後に残してくれた記憶は、サスケにとってはまたとない薬となって、今でも確かな効能を保っている。
『だから、夏祭りよ。帰ってくるでしょ?』
「は?なんで、帰んないよ。ここの仕事もあるし」
当然のように言ってくる母親に素っ気なく返事をすると、電話の向こうで「ええーっ!」と大袈裟なほど残念がる声がした。
どうして、どうせ学校は夏休みなんだから夏祭りに合わせて帰ってきたらいいじゃない!
被せてくるような非難に、思わず携帯を耳から離す。
「丁度その週のあたり、重吾さんも休みたいって言ってんだよ。もう子供でもないんだし、夏祭りなんかに合わせて帰る必要もないだろ?」
『だって、じゃあ、この夏一回も帰って来ないつもり?お母さんもうサスケの夏布団も用意しちゃったし、缶詰とか乾麺とか持って帰ってもらおうと思ってる食料品も集めちゃったし、お祭りで着てもらおうと思って浴衣まで新調しちゃったのよ?』
「いや、うーん……でもさァ」
次々と出される帰省を促すカードに、サスケは言い渋った。うきうきと準備をしている母親の姿を想像すれば、あまりにつれない返事ばかりなのも心が痛む。
一応脇に置いたままの鞄からスケジュール帳を出して開いてみたが、実家までの往復を考えると予定が組めるのは今週末位しかなさそうだった。平日は管理業務があるし、それ以外の週末は『彼女』からのお達しで予定を開けさせられている。
「そっちに行けるとしたら今週末しか……」
『いいわよ、今週だって。こっちはいつだっているんだから』
「いやでも、カカシの都合がさ」
『あんたね、いつだって当たり前みたいな顔してカカシ君に車出させてるけど、彼は一応他人なんだからね?いつまでも子供みたいにあの人に甘えてるんじゃないわよ。電車とバスで来たらいいでしょうが』
「じゃあ行かない」
『……カカシ君にお願いしなさい』
関東圏とはいえ僻地にある実家への交通の便の悪さは、里心を上回る厄介さだった。息子会いたさにあっさりとカカシを使う事を認める母親に、サスケは自分の事を棚に上げて苦笑いを浮かべる。
『いいわね?待ってるんだからね?ちゃんと丁寧にお願いするのよ?いい加減「カカシ」じゃなくてちゃんと「カカシさん」って呼びなさいね?』
しつこいほど念を押して切れた通話回線にやれやれと頭を掻きながら、台帳を閉じた。
いつまでもここに電気が付いていると余計な客が来たりするから、続きは自宅に戻ってから片付ける事にするか。
そう考えて、サスケは昼間に重吾が集めておいてくれた領収書の束とノートを台帳に挟み、その上に電卓を載せて扉を開けた。中々暗くなっていかない表通りに目を遣ると、共同玄関のステップを上がってくる背の高い姿に気がつく。今日の天気もすっきりとしない曇空だが、その中でも明るさを失わない金髪は自然とサスケの目を引いた。
「よォ、今帰りか?」
掛けられた声に開かれた瞳は、例えるならば梅雨の晴れ間のようだった。
ひしめく灰色の空の合間で際立つ、貴重な青。「うん、ただいま」と応える声も、穏やかに届いて耳に心地いい。

「昨日カカシ先生がさ、田舎から送ってきたとかでまた野菜くれたんだけど」
「ああ、俺ンとこにも来た。ひん曲がったキュウリと山盛りの茗荷だろ?(どうして夢とはいえこいつなんかがあんな役回りで登場してきたんだろな)」
「みょーが?」
「ほら、白にちょっと赤紫がかった……(そりゃ確かに喋ってて一番気が楽な相手ではあるけど)」
「あぁ、あのカカシセンセーの頭みたいなやつか」
「カカシの頭って。いやでも確かにあの頭はねェよな(まあけど所詮夢だからな。深い意味なんてないんだろ)」

自然と連なっていく他愛ない会話に、サスケは凝り固まっていた心がゆっくりと解されていくようだった。
水月と香燐が揉めた後、晩には香燐からデートの仕切り直しを申し込むメールが届き、なんとなく軽い食事だけでそのまま別れた水月の方は、その後大学で会ってももう香燐のかの字も口にしない。それでも二人の相性が最悪であるらしい事だけは嫌というほど思い知らされて、サスケはあれ以降、香燐からのメールが届いても水月には悟られないよう、それとなく気をつけて返信している。
……なんだか、微妙に面倒な事になってきてるな。
漠然とではあるが、そんな気がした。
思っていたよりも遥かに真剣な様子の香燐も、攻撃的な独占欲をみせる水月も。ぶつけられてくる感情の強さに、サスケは少し疲れていた。
なんで皆そんなに「自分」を主張するんだ。そしてそれに対してなんで俺がこんなに気を使わなきゃならないんだ。普通に友人として仲良くしている分には楽しく過ごしていられるのに、そこに特別な思いを混ぜられると途端に歯車が狂い出す。
(やっぱこいつといるのが、一番いいな)
弾き出された素直な結論に、喉の奥からくつくつと可笑しさが込み上げてきた。
人好きのする、小麦色の晴れやかな笑顔。
まあ、確かに馬鹿だとは思う。お人好し過ぎるし、後先考えてない所も多々あるし、かと思えばどうしようもなくグズな部分もあったりする。
それでも、このあたたかさは誰にも代え難い。素のままの自分を、そのままで受け入れて貰えているこの安心感。送られてくる澄んだ好意に、疲弊した心がゆるゆると弛緩していく。
ああ、やっぱり。ナルトといるのは、とても気持ちいい。
(――『気持ちいい?』)
妙に覚えのある独白に、サスケはほんの一瞬立ち止まった。なんだろう、なんだか以前にも同じような事を思った気がする。以前?以前って……いつ?
ふと考え込むような動きを見せたサスケに、ナルトが不思議そうに首を傾げた。そういえばまだ会話の途中なのだ。なんだっけ、ああそうだ、カカシの野菜だ。そっと取り繕うような笑いを添えて、サスケは何気なく話題の先を探す。
「カカシんとこの野菜って、美味いんだけど無農薬だから虫に食われまくってるよな」
「……うん」
「トマトだったらなァ、いくらでも貰いたいんだけど。茗荷なんてのはあんなには要らねえな」
「そだな」
「あっ、もし今度トマトが来ることがあったら、俺がお前の分まで引き受けてやるぜ?」
「……」
「まあでも、トマトは来ねェかな、宅急便で送るには傷みやすすぎるもんな」
「……かもなァ」
普段よりも遅れがちな相槌に気が付いて隣りを見ると、日に焼けたその顔はなんだか心此処にあらずといった風情だった。くすみの掛かる碧眼に、思わず「おい!」と声を突き付ける。
はっと気がついた様子のナルトに「大丈夫か?」と問えば、ふにゃふにゃとした覇気のない笑いが返ってきた。蒸し暑い毎日に、早くも夏バテにでも陥っているのだろうか。そういえば確かこいつの部屋にはエアコンもなかった筈だ。
「どうした?なんだかぼんやりしてるぞ」
「あ……そうだった?」
「ああ、なんだか視点が定まってないし。情けねェな、もう夏バテか?そんなんじゃスポーツマンの風上にも置けねェぞ」
笑うサスケを先にして、二人でエントランスを横切った。
二階へ向かう階段を少し登ったところで階下を見下ろすと、青空の双眸がこちらを見上げている。

「じゃあな」
「……オゥ」

重さのない遣り取りが、この上ない心地よさだった。ナルト相手だとどうしてこんなに息が楽になるのだろう。なんだかあいつがいるだけで、周りの酸素濃度が上がるみたいだ。
二階の廊下から空を眺めると、雲に覆われていた空は西の方から徐々に晴れだしているようだった。落ちていく夕日が赤い。時計を見ればもう夜と言ってもいい位の時間なのに、長居する太陽のせいで表はまだ随分と明るかった。
もう帰っているだろうかと二つ隣のカカシの部屋をノックすると、すっかり楽な格好に着替えたひょろ長い痩身が鷹揚にドアを開けた。相変わらず目が半分程しか開いていない茫洋としたその顔に、「よォ」と力の抜けた挨拶をする。
「なに?」
「カカシ……さ、今週末って空いてるか?」
一瞬母親からの言いつけを思い出したが、どうにも拭いきれない違和感に、サスケは結局いつも通りの呼び方でかつての恩師を呼んだ。出し抜けに訊かれた質問に、カカシは「んー?」と間延びした声をあげる。
「なんで?遊んで欲しいの?」
「寝言は寝て言えよ、お前なんかと遊んだところで何が楽しい。そうじゃなくて、あっちの家にさ。ちょっと帰りたいんだけど、暇してるようならまた車出してくんねェか?」
いつもの調子でぞんざいに頼むと、カカシは今度は少し考えるようなトーンで「んー」と呻いた。上に向かってボサボサと伸びた髪を見ると、ついさっきナルトが言った「茗荷?ああ、カカシセンセーの頭みたいな」というフレーズが蘇る。思い出し笑いを堪えつつ返事を待っていると、ようやっと決めたらしいカカシが「ごめん、無理だわー」とのんびり答えた。
「今週末さ、顧問として水泳部の大会に生徒を引率してかなきゃなんないのよ」
「お前顧問なんて大層なものに就いていたのか」
「違うよー正式な顧問の先生が、今産休中でさ。俺はただのしがない代理顧問」
そうか、と渋る事なく退いたサスケだったが、思い出したかのように「あ、」と呟いたカカシに再び顔を上げた。「ナルトに頼んでみたら?」と言ったその目が、にっこりと三日月になる。
「ナルト?」
「そう。あいつ確か、チームの遠征の時も運転手役やらされてるって言ってたし。運転慣れてんじゃない?」
「ああ、そういえば。そんな事言ってたな」
言われて、サスケはしばし思いを巡らせた。実家のある田舎に何の繋がりもないナルトを誘うのは、本来ならばお門違いな話なのだろう。
しかし彼ならきっと、誘えば返事は即答だろうなと思った。振り千切れんばかりに尻尾を振って、「行く!」と目を輝かせる彼が目に浮かぶ。
――結構、楽しい帰省になるかもしれない。
田舎にそびえ立つ旧家の、大きな黒門を怖々潜るであろう金髪頭を想像すれば、サスケの胸にはむくむくと期待じみたものが膨らんできた。
実家の両親は金髪の友人に少々驚くかもしれないが、きっとナルトを気に入るだろう。確かあいつは生まれも育ちもこっちだと言ってたから、生粋の都会っ子の筈だ。田舎特有の無駄に広い風呂ややたら長い廊下に、あのウスラトンカチはどんなリアクションをするだろう。
ゆっくりと閉められたカカシの部屋のドアがカチリと施錠されるのを確認すると、サスケは携帯を取り出してその場でさっき別れたばかりの男にメールを打った。諸々の事情を全部すっ飛ばして、《今週末、うちの実家に来ないか?》と要件だけの文章を送ると、液晶画面を眺めたままアパートの廊下を進む。
着信のランプは、自宅玄関に辿り着くまでにチカチカと瞬きだした。すぐさま開封したメールには、たった一言《行く!》と書かれている。
予想通りの反応に、サスケはついにんまりと口許が緩むのを感じた。
先程まで確かに感じていた頭痛は、いつの間にかどこかに忘れてきたようだった。