第三話

終了まであと少しという所だったのに、再び陰りだした空からボツボツと落ちてきては背中を叩く雫によって、作業は中断を余儀なくされた。
ナルトはさっきから無言だ。
たぶん先程の足裏の感触を思い出しては、吐き気を抑えるので精一杯なのだと思われる。
先程まで昨夜の雨に蒸されてナルトが引き抜いた雑草の青臭い匂いが立ち上っていたが、新たに天から降り注ぐ雨に封じ込められるように、草いきれは再び地面に吸い込まれていった。
落ちてくる雫は今朝よりも随分と大粒なようだった。これではあっという間に全身びしょ濡れだろう。
「このあたりでもう切り上げるか」
掛けられた声に、俯いていた金髪がゆっくりと顔を上げた。普段は明るい青の瞳が、今はやけにくすんで見える。
(……無理をさせすぎたか)
微かな後悔と共に、雨と混じった汗を拭う。雨の降り出す前に作業を終わらせたい一心で、「だいじょうぶだってばよ」と虚ろな目のままでも健気に言ったナルトの言葉を都合よく受け入れ、結局そのまま働かせてしまった。たかがゴキブリと軽んじていたが、もっと親身になってやるべきだったのかもしれない。思い返してみれば、昼過ぎにナルトの部屋を出てからずっと、どう見ても彼の具合は悪くなっていく一方だったのに。
……どうも、いけないな。
大儀そうに立ち上がりながら腰を伸ばすナルトを見つめていると、サスケはにわかに自責の念に駆られた。どちらかといえば自制心の強い方ではないかと自負しているつもりだが、何故かナルトに対するとそのあたりの規制が緩くなって、気が付くとつい我が儘と言い捨てられても仕方がないような行動を取ってしまうことが多い。コイツの人の良さに甘えているところが多々あるのを、自分はもっと自覚するべきかもしれない。
悔悛を胸に、サスケはうっすらと浮かんできた先人の教えを噛み締めた。
なるほど、たしかに。「親しき仲にも礼儀あり」とは、よく言ったものだ。

     ☆

「大丈夫か?」
身体を拭くために戻った自室の電灯の下でも、色あせた頬に中々赤味が戻ってこないのを見て取ると、サスケは本格的に申し訳ない気分になってきた。少しだが雨に打たれたのも良くなかったのかもしれない。雨水にぺしゃんこになった金の髪に、再び反省がちらついた。仮にも医師を志す者として、こんなのはお世辞にも褒められた行為ではなかっただろう。
「ん、へーき……オレってば、丈夫なのだけが取り柄だからさ」
……でもちょっとだけ、夕方の買い出しまでは横になっとこうかな。
そう青ざめた顔のままでも力なく言うのには、さすがに驚いた。こんな状態でも、まだ手伝いを続けるつもりでいるらしい。
「いや、いいって。買物は俺だけで行くし、今夜は夜勤なんだろ?」
「うん、でもサスケ、もう買い出しするもの考えてあったんだろ?その買い物リストには、オレの手も計算されてるんじゃねえの?」
「そうだけど、別に今日じゃなきゃ困るって訳じゃねェから。気にすんな、いいから寝とけ」
そう言いつつも、ナルトの部屋の布団はさっき家主自身の手によってシーツやらカバーやらが全部剥がされた状態だったのを思い出した。この天気では当分の間は洗っても干すのは難しいだろう。費用はかかるが、コインランドリーで一気に洗って乾かす方がいいかもしれない。
「お前、さっき布団のシーツ全部剥がしてただろ。替えとかあんのか?」
「そーだった。替えなんて持ってないってば」
「じゃあ、またここで寝てていいから。俺は管理人室に戻るけど、ひとりで大丈夫だよな?」
返事を待つ前に押入れの襖を開けると、サスケは手際よく今朝ナルトが仕舞った夜具を再び広げた。呆けたように立ち尽くしているナルトに、昨夜彼が着てきたスウェットの下と一緒に引き出しから引っ張り出した自分のTシャツを渡す。サスケよりも肩幅も胸の厚みもしっかりしているナルトだけれど、手持ちの中でも一番大きなものを選んだし、たぶん入らないことはないだろう。
鍵は俺がもってくからなと言いながらてきぱきと寝床を整えるサスケを、渡された着替えを抱えたナルトが狐に抓まされたかのような顔で見ていた。なんだか急な留守番を言いつけられた子供のようにも見える。
「どうした?その濡れた服も乾かしてきてやるから、早く着替えろよ」
「……優しすぎ、じゃないですか?」
なんか逆に怖い、と呟かれると流石にちょっとムカついた。ああそうかよ、いつも優しくなくて悪かったな。確かに負い目があるから優しくしてるんであって、普段の自分だったら「部屋で寝れないなら外で寝ろ」くらいのこと言っていたかもしれない。
「――そんな事ねェだろ。人として当たり前の事をしてるだけだ」
バツの悪さをもみ消すようにそう流すと、もそもそと着替えたナルトの濡れた服を拾ってランドリーバッグに放り込んだ。拾いあげたついでに、近くにきたナルトの前髪を掬い上げ、現れた額に自分の額を軽く重ねる。
こつん、と篭もるような音が、触れ合った箇所を通して鼓膜にやさしく響いた。驚いたような蒼天の瞳が、大きく見張られるのを間近で見る。
……うん、熱はないようだ。
やはり図らずも抹殺してしまったゴキブリの件と、暑さと湿度の悪条件が重なった中で無理に急がせた作業が体調不良の原因なのだろう。きっと精神的にも肉体的にも、今日は疲弊が重なったのだ。
「――サ、スケッ…!?」
「よし、やっぱり熱はないな。まあ、取り敢えず少し休んでろ」
「………オマエ、他人の熱みる時いっつもこんなやり方すんの?」
「?……どっかおかしかったか」
狼狽えたようなナルトの問いに首を傾げると、青白くなっていた顔にさっと朱が差した。よかった、室内に入ってから、外にいた時よりも随分と顔色は良くなっている気がする。
母親がいつもしてくれたのと同じやり方で熱をみたのだが、何か間違っていたのだろうかと、サスケは少しだけ訝しく思った。人に対してこんなことしたのは亡くなった兄以来で、ついでに言えば身内以外に対してこんなことをしたのは初めてだ。確かにかなり顔が接近したのは事実だが、ナルト相手だと気を許しているためか不思議な程違和感は感じなかった。
「普通は手のひらだけでみるんじゃねェかな……」
「そうなのか?うちではいつもこうしてた」
……たぶん、これ、よそではしないほうがいいってば。
申し訳なさそうにそう告げるナルトに「なんで?」と尋ねると、「心臓に悪いから」とよくわからない回答が返ってきた。心臓に悪いってどういう意味だ?斜め下を向くナルトの顔はほんのり上気してきていて、特に悪影響があったとは思えないのだけれど。
「まあいい。とにかく寝とけ、晩飯前にまた起こしてやるから」
手早く自分も汗と雨で湿った服を脱いで、ナルトの服と一緒にランドリーバックに入れると、サスケはそのままそれを肩に掛けた。何故だかその一連の動作に見蕩れている様子のナルトに手を伸ばし、「鍵」とひとこと催促する。しばらくの間をおいてやっと気がついたナルトが、アワアワと自宅の鍵を差し出した。無言でそれを受け取ったサスケは、眼前にその鍵を掲げる。
ぶらりと揺れるキーホルダーをしばし眺めてから、サスケは小さな金属音をたてて、その小さなカエルをふわりと閉じた手のひらの中に仕舞った。ほんの少し口の端をあげて、刹那の笑みを見せる。
「コイツ、ちょっとお前に似てる」
笑い混じりの声が、ぱたんと閉められたドアの向こう側に転がった。
吹き込んだ雨にしっとりと濡らされた外廊下で、大粒の雫が欄干を打つ音がバタバタと大きな羽音のように聴こえた。



なんか、変だよね。
作成したレポートを事務室に提出した帰り、探るような目付きの水月に言われると、サスケは一瞬きょとんとした。「なにが?」と尋ねると、「なんかいいことでも、あった?」と質問で返される。
「やけに機嫌がよくない?今日は全然、舌打ちもしてないし」
「どういう基準なんだ、それ」
今日は久々に天気がいいからだろと足取りも軽く言えば、ふうん?と腑に落ちないままの水月が後ろから付いてきた。渡り廊下から見下ろしたキャンバスの芝がぴんぴんと光っていて、久しぶりの日光に喜んでいるようだ。
いい事をしたという満足感に、サスケは昨日から上機嫌だった。
勤務時間が終わると預かった鍵でナルトの部屋に入り、隅の方でこんもりと丸められたままのシーツ類を拾うとその足で近所のコインランドリーへと向かった。大きなドラムの中にバッグの中身を押し込んでスタートボタンを押すと、ランドリーマシンが唸りを上げている間に食料の買い出しと片付けたかった雑事を計画的にこなしていく。仕上げの乾燥が終わる時間を見計らって再びコインランドリーに出向いた頃には、構想していた今日の計画の殆どが済まされた後だった。米や水などの重量のある買物こそ出来なかったけれども、気持ちよく片付いていく用事に爽快感さえ感じた程だ。
予定ではそのまま夕食まで完成させてからナルトを起こすつもりだったのだが、その計画は初端から頓挫することとなった。
帰宅した時にはナルトは既に起きており、自分の部屋は今朝と同じように夜具まで片付けられた後だったのだ。
「さっきバイト先から連絡があって。オレの前に入ってる奴が早退したいらしいから、ちょっと早目に来てくれって言われちまってさ」
「なんだ、夕飯まで一緒に食ってくんじゃねェのか」
壁際に背を凭れ、指先で操るスマートフォンから目を上げたナルトの言葉に対してこぼれたのは、微かな落胆だった。どうやら気分よく片付いていく雑事の中で、他人の世話を焼くというのが意外な程楽しかったのだという事にうっすら気付く。
「あっ――ごめんってば、もしかして、もうオレの分まで用意してくれてた?」
「いや、まだ何も作ってないし。材料も特別お前の分まで買ってきたわけでもないから、気にしなくていい」
詫びるナルトにそれ以上言う気も起きず、サスケは抱えたままだった荷物をどさりと下に置いた。ちなみにメニューはなんだったの?と訊かれ「カレー」と答えると、「うわっ!惜っしいなあ、スッゲー食いたかったってば」などと金髪をくしゃくしゃと混ぜ返しながらナルトは悔しがった。サスケだって特別に料理が得意な訳ではないから、振舞うメニューといったって高が知れているのだ。
それでも心底残念そうな姿に、まだ少しだけ残っていた落胆はいいように慰められた。
「具合は――良さそう、だな」
「うん。ありがとな、休ませてもらったら随分と楽になったってば。ちょっと寝不足気味だったのかも」
「寝不足って、お前今朝だってぐうぐう寝てたじゃねェか」
少しズレた発言を揶揄すると、ナルトは曖昧な笑顔をつくった。確かにさっきよりもずっと顔色も良くなってるし、この様子ならもう大丈夫そうだ。
靴を履いたナルトに乾かしてきた洗濯物を渡すと、彼は恐縮しながらそれを受け取った。「この礼はまた改めて」などと言う言葉にも、自分の洗濯物と一緒に洗っただけだからとやんわりと断ったものだ。
(たまにはお節介ってやつも、悪くないかもな)
決められていた交代の時間にアパートに戻り、いつも通り重吾との引き継ぎをした後もその達成感のようなものは続いていた。柄にもなくあれこれ手を出し過ぎてしまったようにも思えたが、見送った時のナルトの感謝の滲んだ顔を思い出せばそれもまた悪い気はしない。
昼間会った水月からは「なんか変」と言われたが、俺にだって親切心位持ち合わせているのだとサスケは小さく鼻を鳴らした。犬や猫などの動物を飼ったことはないのだけれど、この満足感はもしかしたらペットの世話をする喜びというのに近いのかもしれない。
さしずめあの金髪男などはどでかい大型犬といったところだろう。自分はどちらかといえば猫派なのだけれど、一緒にいるうちに妙に愛着が湧いてしまったとでもいったところか。
つらつらとそんな事を思っていると、管理人室の小窓をノックする手に気がついた。
すりガラス越しのよく見知った影にカラリと窓を開けると、照れくさそうに立っていたナルトが「よっ」と片手を上げる。
「なんか用か?」
「あー……特に用って訳でもないんだけど、さ」
言い淀むナルトを不思議がりながら次の言葉を待っていると、ややも経ってから心を決めたかのような顔をしたナルトが「カレー」と一声発した。
「カレー?」
「オレってば昨日、サスケのカレー、食えなかったから。まだ残ってるようだったら欲しいなー…なんて」

――ていうか。
今夜も一緒にゴハン、食べません、か?

語尾にいくに従って気弱になっていく声に、サスケはぼやけた既視感を感じた。なんだか出会ったばかりの、他人行儀が抜けきれなかった頃のナルトに戻ったようだ。二年前の春にも、こうして彼が管理人室の窓を叩いた事があったのをサスケは思い出した。そうだ、確かシカマルからのメモを届けに来てくれた時だ。あの時はまだ、彼は自分の事を「うちはさん」と呼んでいたのだった。徐々に実を結んでいく過去の日の記憶に、思わず懐かしむような笑みがこみ上げる。
「残ってるけど――今夜ってお前、シカマルから連絡きてねェの?」
「シカマル?きてねェけど」
「今日シカマルと晩飯食う約束してんだよ。てっきりお前にも連絡いってると思ってた」
(あいつ最近忙しそうだから、連絡回すの忘れてたのかな)と、一足先に社会人となった幼馴染にサスケは思った。この春大学を卒業したシカマルは、四月から希望していた製薬会社で研究員として働いている。新しい環境で、新入社員にとってはまだまだ会社に馴れるだけで精一杯だろう。
「予定が無いんなら、お前も一緒に行こうぜ」
気軽な思いでそう誘うと、ナルトは一瞬迷うような素振りを見せたがすぐに破顔して「オウ!」と応えた。相手はシカマルだ。連絡もなしに飛び入り参加したところで、特に問題はないだろうと彼も踏んだのだろう。
夜に再び共同玄関で待ち合わせをするのを決めて小窓を閉めると、さっきまで読んでいた管理日誌が目に入った。今日の欄の最後に『夜から各地でゲリラ豪雨の可能性があるそうです。お出掛けになるようでしたら気をつけてくださいね』と丁寧な重吾の文字で書き連ねられている。気遣い屋の彼は、いつも日誌の最後に必ず一言サスケへのメッセージを残すのが常だ。それは「明日は暑くなるらしいです」などという当たり障りのない天気話の時もあれば、チヨばあとの世間話の末端だったりする時もある。夕方まで引き継ぐサスケも、次の朝までになんとなく一言それに対して返事を残すようにしていた。
これじゃなんだか、管理日誌というより重吾との交換日記だな。ほんのり呆れたような気分で口許を緩め、サスケは管理日誌を閉じた。
ゲリラ豪雨だって?
昼間見上げた空には雲なんてどこにも見当たらなかったのを思い出し、サスケは嗤った。
予報はやっぱりどこまでいっても予報だ。
晩になってもきっとこの辺りには、雨なんて降るわけないだろう。



こっちだ、の声に目をやると、酒気で溢れる店内の隅の方で手を挙げる幼馴染はすぐに見つかった。
しかし目があった途端、後ろに従えた金髪に気がついたらしく急激にその表情が重くなる。
慌てて走り寄って来たシカマルに「なんでナルトも連れてきちまったんだ」と素早く囁かれると、サスケは要領を得ない顔で「え?」と訊き返した。今しがたの発言が余りにも普段の幼馴染らしくなくて、水面下にある彼の意図が読み取れない。
「ダメだったのか?」
「ダメじゃねえけどよ――ああもう、知らねェぞ俺は」
めんどくせーなァもう!
深い溜息と共にそう吐くと、シカマルは鎮痛な面持ちで背後にいるナルトの顔を見上げた。サスケ同様意味がわからないままのナルトの顔にも、疑問符が浮き彫りになっているようだ。
「……ナルト」
「シカマル?なんでそんな顔してんだってば」
「いいか、これから何が起きようと、絶対に耐えるんだぞ」
「はァ?」
「暴れるのも、怒るのも、叫ぶのもダメだ。とりあえず家まで我慢しろ」
「なんだそれ。こんなとこでそんな事するわけねーって」
「あとは――泣くなよ?」
「マジで意味わかんねー……って、誰か他にも来てんの?」
さっきまでシカマルが座っていた席の方に他人の気配を感じたナルトが、気がついたようにそう言った。簡単に仕切られたテーブルの衝立の向こうに、艶々した赤毛がチラチラと見え隠れしている。
どこかで見たような、とサスケが思っている内に、その赤毛がぴょんと跳ねた。
衝立の向こう側に突き出したのは、満面の笑みを浮かべた色白の知的美人。

「サスケェェ!」

バラ色に染まった甘ったるい声に、ムズムズとした感覚がサスケの肌をざわめかせた。
この声、あの髪……そして見覚えのある、卵型の顔によく似合った黒縁眼鏡の奥にある、切れ長の瞳。
「お前……香燐、か?」
弾き出された答えが正答であることは、喜びに打ち震える彼女を見れば聞かずともわかった。
眼鏡の奥で輝く視線が、ウルウルと熱情に潤んでいる。
「――ダレ?」
全身からピンクのオーラを発散させている彼女に圧倒されながらも、ようやく口を開いたナルトがぽつんと訊いた。ああもう仕方ねえなあ俺はもうこんなのうんざりなんだけどよ!とでも言いたそうな顔のシカマルが、渋々といった様子で答える。
「香燐っつって、俺らと同じ小学校だった女。こいつも途中で引っ越してっから、今はここらに住んでるわけじゃねェんだけどよ。現在は製薬会社にお勤めの、いちおー俺らの幼馴染」
――でもって、サスケの弱みを握る、たぶんこの世でただひとりの女。
うんざりとした口調でそう告げると、はっと思い出したかのようにサスケが身構えたのがナルトにもわかった。恐る恐るシカマルの方へ首を回すと、幼馴染が草臥れた笑顔でゆっくりと頷く。
意味がわからないままそんな共犯者めいた二人を見守っていたナルトの耳に、「サスケェ、早くこっち来なよォ!」と手招きする声が届いた。急に押し黙ったサスケが、シカマルに促されて気の進まない様子で席に付く。なんとなく入り辛い雰囲気に疎外感を感じつつ立ったままでいたナルトの背中を、シカマルが「ま、お前も座っとけよ」と軽く押した。
「…………久しぶり」
取り敢えず、といった感じで発した一言だったが、それだけでも香燐の感動を誘うには充分だったらしかった。頬をピンクに染めあげて、うっとりと十数年ぶりのサスケの声に酔っている。
「サスケ……会いたかった」
「……そうか」
「うち、引っ越してからもずっと、サスケの事だけを想っていたんだぜ」
「……」
「でもいつか絶対また会えるってうちは信じてた。だって、まだ『公約』を果たしてもらってないもんな」
「やっぱりそれか」
ふーっと深い息をついて、サスケは下を向いた。シカマルの顔色から予想は付いていたが、やはりその件を出してきたのか。謂わば自分の黒歴史ともいえるあの事件を、願うことならば彼女がとうに忘れていてくれれば良かったのにと遠く思ったが、そんな事を言えるような立場でないことは十数年前からとうに思い知っているのだった。
「『公約』。覚えてるよな?」
「ああ、覚えてる」
「『なんでもひとつ、いうこときく』って。あの時、うちに言ったよな?」
「……そう、だったな」
「ちょっ――なんだってばそれ!なんでサスケがそんな約束してんだ?」
妙な成り行きに慌てて口を挟んできたナルトを華麗に無視して、香燐が嫣然と微笑んだ。
制止をかけるように、シカマルが立ち上がりかけたナルトの肩を押し戻す。
不承不承浮かしかけた尻をナルトが戻すのを待っていたかのように、サスケが諦めの境地に至ったような顔で「……覚悟はできてる。言ってみろ」と告げた。その言葉を聞くと、もう感激に耐えられないといった様子で身悶えた香燐がその両手で口許を覆う。
綺麗に整えられた爪先が、テーブルの上から降り注ぐ照明の光に赤く艶めいた。

「いいか?本当に言うぞ?」
「ああ。嘘はつかない」
「じゃあ、じゃあね――うちと、結婚してください」
「……は?」
「けっこん、して」

ぽかんと口を開けたままフリーズしたサスケの隣で、今しがた飛び出した衝撃のプロポーズが空耳ではない事を示すように、頭を抱えたシカマルからのおそろしく深い溜息が聴こえた。
席の端に座るナルトは唖然としたまま、息する事さえ忘れているようだ。
爆弾発言の発信源は、大の男三人を相手に勝ち誇ったような笑顔で悠然とその顔を見回すと、華奢な指で軽々と置かれたビールジョッキを持ち上げ喉を鳴らして金色の液体を飲み干した。
ごとんと音をたて、結露が滴るジョッキが置かれる――惚れ惚れするようないい飲みっぷりだ。
呆気にとられる男性陣を放置したまま、おかわりを呼ぶ香燐の声が、喧騒に溢れる店内で機嫌よく響いた。