最終話



『となり、あいてますか?』



     ☆

(あー…くそォ、間に合わなかったってば)
最後に残った洗面台の掃除をしている最中にカバンの中で震えだした携帯は、慌ててタオルで水滴を拭っているうちに、諦めたかのように振動音を途切れさせてしまった。
ディスプレイに出た名前をちらりと確かめて、少し迷う。彼女は今、仕事中の筈だ。
どうやら気が付かないうちに数時間前にも一度連絡をもらっていたらしい。こちらから折り返しても大丈夫だろうかと一瞬手を止めているうちに、外から聴こえてきた「しゅっ」というマッチを擦るような気配に耳を奪われた。次いで笛のような音が、夜空に高らかと昇っていく。一拍の間を待つと、次の瞬間、雨上がりの夜空に静かな閃光が弾けた。後から押し寄せてくるびりびりと大気を震わせるような爆音が、ダンボール箱だらけの部屋に響き渡る。
メインの電灯を外してしまった部屋は大きな家具を残すばかりで、細かい物はすっかりダンボール箱の中に収められていた。商店街の花火が始まったという事は、そろそろここを出なければならない時間になったという事だ。とりあえず折り返しの電話は後に回し、残っている洗面台と浴室の灯りだけで身支度を整えると、ナルトはそこの電気も消した。途端、部屋に灯りはなくなったけれど、カーテンも既に取り外してしまっているせいで、部屋には外の明るさがそのまま中に飛び込んでくる。
(花火、駅までの道の方がよく見えそうだな)
音と光ばかりで一向に色彩の入ってこない窓に近付いて、そっと表を確かめた。どうやら花火は反対側、アパートの正面玄関方面で打ち上がっているらしい。去年と同じようだから、多分市街地からほんの少し外れた、市民グランドで上げているのだろう。しかしこれじゃまるで雷のようだ。明るさだけは十二分だけれど、やはり花火には色が付いて欲しい。
(……ん?)
続け様の破裂音の合間にかすかに残る花火とは違う音に、窓の施錠を確かめていたナルトはちょっと宙を見詰めた。
漂う静寂。ひゅるる… という音がして、ドン!という地響きじみた爆音の余韻が収まる前に、今度ははっきりと玄関のブザー音がする。
誰だろ、あ、カカシ先生か?
最後見送ってくれんのかな。
そんな風に思いながら玄関に向かい、気負う事なくドアを開けた。「カカシ先生?」と尋ねかけたところで、すぐに人違いに気付く。立っていたのは想定していたボサボサ頭の恩師ではなく、闇色に濡れたまっくろなシルエットだった。夜を裂くように、後ろで花火がはぜる。束の間の明るさの中に、ほの白い頬と、ぬばたまの瞳が見えた。

「てめェ、なんっで……!」
「へ?あ、えっ、サス――ッ!?」

名を呼ぶ前に伸ばされてきた腕に、思わず息が止まった。
内側の白さが目に焼き付く。
ドキドキしながら息もつけずにいると、予想に反してその手のひらがぐっとナルトの胸ぐらを掴んできた。ぐえ、と変な声が漏れるのもお構いなしに、いきなり度突くように押され壁に打ち付けられる。
ごつっとぶつけられた後頭部の痛みがじわりと広がる。堪えながらどうにか前を見ると、胸ぐらを掴んだままのサスケが、激高で赤くなった目尻を釣り上げていた。
「――なんで何度も呼び鈴鳴らしてんのに、すぐに出ねぇんだ!」
低く怒鳴る声が、再び弾けた火薬の音に半分かき消された。
「えっ、呼んでた?」
「呼んでた!」
「ごご、ごめん、花火の音で聴こえなかったってば」
「ふっざけんな、いっぺんで出ろよ……!」
とりあえずの怒りは燃焼できたのだろうか、舌打ちをしながらも一旦ナルトのTシャツを掴んでいた手を外すと、サスケは再びギリリと前を見据えた。荒い仕草の合間に触れた肩が、なぜか濡れている。夕方に一刻ほど酷い雨が降ったから、もしかしてそれに打たれたのかもしれない。
もう会う事もないと思っていたのに、何故いきなりこんな怒れるサスケが飛び込んでくるのだろう。
展開についていけないまま、とりあえず目の前の濡れた美形に釘付けになっていると、何も言わずにサスケが手にしていた小さな箱を突き出した。
開けられた蓋の下、跳ねる銀の光に「あれ?それって」と言いかけると、それを待たずに「さっき変な女が持ってきた」という低い声が被さってくる。
「あっ…?ああ、そっかさっきの着信!」
先程まで鳴っていた携帯に出ていた名前に腑に落ちていると、地を這うような声でサスケが「なんだこれは」と質してきた。
手にした小箱の中にあるのは、懐中時計だ。
シンプルな文字盤を輝く銀で包んだ、やわらかなフォルム。二年前彼の部屋で見たのと同じ、選ばれたただ一人だけが貰える、勲章代わりの時計。
「なんだって、――見ての通りなんだけど」
おずおず答えると、「見ての通りじゃねえだろが!いったいどんな技を使ってこれを見つけてきたのか、説明しろって言ってんだ!」という怒声が、開けっ放しになったままの玄関にこだました。
しかも今度は捨てるなって……どういう意味だ、皮肉か?というちょっと震えた声が、破裂音の合間に流れ込む。
「はァ?皮肉?」
「俺がいつも兄さんの事ばかりだから――だから、それを」
「ちがっ…違うって!つかオマエなんか勘違いしてるだろ?」
そう言って突き出された腕を掴んだ途端、サスケの手から蓋の開いた箱が取り落とされた。控えめな音と共に、革張りの箱がコンクリートの床に落ちる。
台座にしっかりと嵌め込まれていた時計は傷一つ付くことなく、落ちた箱の中で悠然と輝き続けていた。そのガラス面に、また打ち上げられた花火が映り込むのが見える。モノクロの部屋の中、赤や黄の火花の散らされた残像が、ゆらりゆらりと揺れていた。それを見下ろすサスケの握りこぶしが、かすかに震えている。
ようやく彼の怒りや戸惑いの理由が理解できて、ナルトはちょっと胸をなでおろした。
箱を拾い上げ、改めてそれを見る。
ああ、そうか。すごいなテンテンさん。本当に、オーダー通りに作ってくれたんだ。
「サスケ」
「それ俺の部屋にあったやつだろ。昔、兄さんの真似してた頃」
「あのさ、そうじゃなくてな?」
「お前俺がそれを手放そうって決めたの、見てたんじゃねえのかよ。わかってくれてると思ってたのに」
「いや、わかってる、わかってるってば」
「じゃあなんでまた――どこで見つけてきたんだ。オークションか、骨董屋か?被害届も出してないのに、どうやって」
「いやだからさ……ああもう、いいからもっとよく見てくれってば!」
ほら、とまだ顔を歪めている彼に台座から外した時計を渡し、そっと注意を促した。何かまだ言いたそうにしていたサスケだったが、言われた言葉通り手のひらの上の丸いフォルムを確かめる。
「――やっぱり、兄さんの時計じゃねぇか」
何度見直しても記憶の中の物と同じ造形だったのだろう、しげしげと手の内を見たサスケが小さく息をはいた。
静かで透明な輝きをたたえる銀の縁取り。クリアなガラス面、精巧な文字盤。
ナルトの目から見ても、どれもこれも二年前見たものと同じ造りだ。
「そうじゃなくて、裏を」
「裏?」
「そう。そしたら、わかるから」
自分は彼の兄が貰ってきた物を裏までは見たことがないから定かではないが、シカマルが言うには、慣例通りであればそこにはその記念品を授与した大学の学部名と共に、受け取った彼の兄の名前が刻印されていたはずだ。
そう思い彼を促すと、怪しみながらもそっと時計を返したサスケの目が、そこにある文字を確かめた途端、大きく見張られて動かなくなった。
なんで、と驚きを隠せない声で、彼が言う。

「なんでこれ、俺の名前になっているんだ……?」

「な、わかっただろ?それイタチ兄ちゃんのじゃないんだってば」
丁寧に刻印された自分の名前を凝視するサスケに、ナルトはやれやれと肩の力を抜いた。「だってこれ、卒業に合わせて大学が特別に用意する特注品だろ?一般には売られていないものだって、前に兄さんが」とまだも半信半疑な様子のサスケに、ちょっと胸を張る。
「うん、だから作ったの。や、もちろんオレってばこんな器用な事できないから、実際作ったのはオレじゃねえけど。知り合いの銀細工師さんに、そういうの作ってくれる工房紹介してもらって」
「作っただァ?」
「そう。フルオーダーメイドっていうの?文字盤から何から、全部」
本当は、サスケの卒業に合わせて渡したかったんだけどさ。
そう言って「ニシシ、」と歯を見せて笑うと、整った顔からはさっきまでの剣呑さが消え、薄い唇は虚を突かれたかのようにぽっかりと開けっ放しになった。さっきまではどうなるかと思ったけれど、結果としてはまあ上々だ。なんだか悪戯が成功したような、爽快な気分になる。
「どうして、これを……?」
かすかに揺れる声音でそう尋ねられると、ナルトはちょっと黙って考えてから、「どうしてって、お礼、のつもりなんだけど」とそろりと答えた。
お礼?と訝しむ彼に、ん、と小さく頷く。
ずっと考えていたのだ。沢山のものをくれた彼に、いつかお礼がしたいと。返せる何かがないだろうかと。
「二年前の、春にさ。オレってばここに越してきた頃、ホッケーやめようとしてただろ?」
唐突に話が変わったせいだろう、尖っていた目線が少し戸惑いに揺れるのを見て、ナルトはほんのり頬をゆるめた。きっと今向こうの頭の中にも、あのゴミ捨て場に残された大きなダンボール箱が思い浮かんでいるはずだ。長くて邪魔だったスティック。管理人室での攻防。
「あの時さ、大事な物を捨てようとしてたオレに、オマエみせてくれたじゃん?」
「……なにを?」
「捨てる勇気と、もっかい拾う勇気を。――オマエが先にやってみせてくれたから、オレってばあん時、決めることが出来た。目を逸らしてた事から、逃げずに立ち向かえたんだ」
そう言いながら、ちょっと放心したような目をした彼に「オレにもそれ見せて?」と囁くと、ナルトは力の抜けたその手から、握られていた時計を丁寧に取り上げた。
表からの光にかざすようにして掲げると、澄んだ銀の輝きがつやつやとした表面を滑っていく。
よかった、すごく綺麗な仕上がりだ。
思ってた以上だ。
「――で、さ。あれからずっと、オレからもオマエにあげられるものがないかなって考えてて。オマエが一番欲しいものって何かなって、すげー考えたんだけど」
言いながら、上げたままだった腕に気が付いたナルトは、ゆっくりとそれを下ろした。中途半端になっていた姿勢を正して、まっすぐに見つめてくるサスケの視線を受け止める。
「でもさ、考えたけどオマエあんま物欲とかもないし、そもそも何かに執着することなんて滅多にないじゃん?マジでよくわかんなくてさァ。困っちまってたんだけど、そうしたらこのあいだシカマルの卒業祝いで飲みに行った時に、アイツからその銀時計の制度が今年限りでなくなるから、これから先はたとえオマエが兄ちゃんと同じ成績で卒業しても、それは貰えないんだって聞いて」
「それで?」
「それで、……作ったの」
大雑把に結論に結びつけると、苛立ったかのようにサスケが「だから、そこの間の部分を俺は訊いてンだ!」と唸った。
まったく、相変わらず沸点が低い。そこだけは直したほうがいいんじゃないかと、ちょっと思う。
「なんでそれがこんな大掛かりなものになるんだ――恩賜の銀時計だとか言っても、所詮ただの卒業記念品だろうが」
フルオーダーメイドってすげェ手間とか費用とか掛かんじゃねェの?たかがお礼に、そこまでして同じ時計を用意しなくてもというサスケに、ナルトはまたちょっと考えた。
まあ確かに、そうなのかもしれない。
そもそもこの時計だってごくシンプルなもので、デザイン自体はそんなに特別なものでもないのだ。実際、無理にフルオーダーにしなくても既製品で求めれば、同じ金額でもっと絢爛な飾り模様が付いているのや、貴石を組み込んだ豪華な時計も買えるよというのは、依頼した時テンテンにも言われた。
でも、そうじゃないんだ。
真剣に怒っていたさっきの顔を思い返しながら、改めて思った。コイツが欲しいのはきっと、あの時計の上をいくものでも、凌ぐものでもなくて。
「だって、オマエが本当に飾りたかった銀時計って、その時計だろ?」
息を詰めるサスケにそう告げると、黒々とした瞳がまた大きく見張られた。

「世界一の兄ちゃんと揃いの、『自分の』銀時計。これだったら受け取ってくれるかなあって、思ったんだけど」

言われた言葉に、形のいい唇がため息をつくようにぽかんと開かれた。
丸くなった瞳が、黒硝子みたいに澄んでいる。
ああ、やっぱこいつのこの顔、ホントたまんねえよ。
これが見られただけでも、あげた甲斐があったというものだ。
「――サスケ。オレさ、本当にここに越してきて良かった。スゲー色んなものをオマエから貰ったんだ」
どこか心がとんでいるような様子のサスケにそう告げると、ふっとその目に意識が戻ってきたようだった。ちょっと膜を張ったようなその瞳がどうしようもなく綺麗で、これが見れなくなるのかと思えば、やっぱり胸が締め付けられる。
「オレさ、ちょっと――情けない話なんだけど。父ちゃんと母ちゃんが死んでからずっと、家族で撮った写真て見れなくて。なんかどうしても、『今』と比べちまうのが、辛くてさ。ほら、覚えてる?オレの部屋に飾ってた写真」
確かめると、無言のままのサスケが、半乾きの髪をかすかに揺らした。やっぱりこれは、雨なのだろうか。湿った甘い匂いが、ほのかに漂う。
「でも二年前ここでオマエに出会ってから、ようやくあの写真を飾れるようになって。オマエと仲良くなれていくうちにさ、あの中に写ったガキの頃の自分に、今の自分を見せてやりてえなって……自慢してやりてえなって。そう思えるようになった」
だからサスケがあの写真褒めてくれた時は、本当に嬉しかったってば。
そう告げると、結ばれた唇にほんの少しだけ力が入ったのがわかった。徐々にうつむき加減になっていく髪の影から、形のいい鼻先だけがちょっとのぞく。
「オマエの事好きになって――まあ、結構厳しい時もあったけどさ。でも隣に越してこないかって言ってもらえた時は、スゲー嬉しかった。あれ、本気で言ってくれてたんだろ?」
「……ああ」
「ホント、あん時はすぐにでもそっちに移りたいって思ったけど。――でもさ!今にして思えば、あん時あのまま、オマエんちの横に越してなくて良かったなって。多分そうしてたらオレ、ここから動くこと出来なかった。ずっとオマエの隣で、ぐずぐず甘えてるだけだったと思うんだ」

だからオレが好きになったのが、オマエでよかった。
『行かないで』じゃなくて、『早く行け』って言ってくれる奴で、本当によかったってば。

そう言って笑うと、Tシャツの張り付いた薄い肩が、静かに固まるのがわかった。
遠くで立て続けに花火がはぜる音がする。
急に何かが引いていくようなその雰囲気にかすかな違和感を感じたが、冷たそうな白い指先が動かないのを見て、ナルトはそのまま言葉を続けた。
そういう嬉しかった事とか、その後ザックリ振られて凹まされた事とかさ。優しくしてもらった事や厳しくしてもらった事や、とにかくここでオマエから貰ったもの全部に、感謝してるんだ。
だからこれは、この二年間に対する、オレからオマエへの感謝のしるし。
「――つっても、オマエから受け取ったものに比べたら、全然足りてないと思うんだけどさ!」
ちょっと苦く笑って告げると、黙りこくったままこわばっている肩がわずかに身じろいだ。開けっぱなしになったドアがゆっくりと軋んで、煙臭い風が流れ込む。
下を向いた髪の影に入る表情があまりにも隠されたままで、俄かに不安を感じたナルトはそっとその顔を覗きこんでみた。
「あの……もしかしてオレ、なんか間違えた?」
おそるおそる尋ねると、うつむいてくぐもった声が「間違ってねえよ、馬鹿たれが 」と低く呟く。
「お前、よくあんな一瞬しか見てねえのに」
「あっ、そうそうさすがにオレ細部までは覚えてなかったから、実はシカマルにも手伝って貰ったんだ。あいつの銀時計見せてもらって。あいつなにげに一番で卒業してんのな」
「……に、したってこんな……」
「うーん、でもさ。実はそれ、名前以外にもいっこだけ、あん時の時計とは違ってるとこがあるんだって。オマエからしたら、兄ちゃんのと全く同じにした方が嬉しかったのかもしれないけど」
でもどうしてもそこは変えて貰いたくて、オレが頼んだとこがあって。
黙っている事でもないから先に暴露してしまおうと口を開くと、また表で花火の点火音がした。
クライマックスに近付いているのだろう、大きく打ち上がる大輪の花が、続けざまに火花を散らす。
「昔持ってた時計、あれってば銀メッキだったんだろ?」
「――あ?ああ、そう、言ったか――」
「言ったってばよ、オマエ。酔ってたから覚えてねェかもしんないけど」
複雑そうな顔で曖昧に答えるサスケが不思議だったけれど、ナルトは気にせずちょっと足を戻して、背中を伸ばした。
まっすぐにこちらを見つめてくる黒が、どこまでも透明な光をたたえてこちらを映している。
「でも今度のやつは、違うから。『ただのメッキ』なんかじゃねえからさ」
言いながら、彼の体から立ちのぼる甘い雨の匂いに誘われるように、つい、腕が伸びた。
すべらかな光をのせる頬を、手のひらでなぞる。
黒々とした目の淵にそっと指先を沿わせると、触れた先に、ほのかな湿り気を感じた。ああ、なんて明るい夜なんだろう。最後に会えたのが今夜で良かった。 
だってこんなに、彼が綺麗なのがよく見える。


「今度は全部、本物。――正真正銘、混じりっけなしの、純銀製な」


どこまでも満ち足りた気分でそう告げた時、澄んだまなじりから、透明な雫が静かに落ちていくのを見た。
また、花火が上がる。
爆音と共に広がった極彩色の花びらたちが、闇夜の中湿った髪からのぞくしろい耳先を、くっきりと明るく照らしていた。




「どっ……したの……?」
満足気な様子の碧眼が急転したかと思うと、俄かに頬に当てられていた手のひらが外された。
離れていく温もりが淋しい。それでも急に困ったように下げられた眉を見ると、申し訳なさと同時にほんの僅かな喜びが兆した。こんな事で喜びを得てしまう自分が酷く煩わしい。ちくしょう、なんだこれ。こんな筈じゃなかったのに。
「サスケ!えっ…ど、どっか痛い?」
この期に及んでそんな事を訊いてくるあいつが恨めしかった。馬鹿じゃねえかこいつ、どっか痛いかだって?
ふざけんな、こんなの――痛いなんてもんじゃねえよ。
……きっと、もう。
こんなやつには、二度と出会えないだろうと思った。
沢山のものを貰ったのはこっちの方だ。兄がいなくなってからずっと空虚だった毎日を、再び色鮮やかなものにしてくれたのがナルトだった。
あの頃は毎日がひたすらに暗くて長くて、乱れなくやってくる日々に果てが見えず、それが声に出せない程に辛くて。ひとりだと小さく蹲ることしかできない夜が、ふたりだと穏やかでやさしいものになるという事を、ナルトが教えてくれた。
行かないで欲しいと、そう言いたかった。
ここでこのまま隣りにいてもらいたかった。
「行くな」というひとことさえ言えば、それが全部叶うのも知っていた。うぬぼれかもしれないが、確かな予感だ。どうしようもなく俺ばかり見ているこいつは、自分が懇願すれば自分の人生なんてきっと他愛なく全部投げ捨ててしまうだろう。
先など顧みずに、ここにいてくれるだろう。

(……だけど、それじゃ……)

じんとした痛みをこらえて、サスケは気を抜けば漏れてしまいそうになる言葉を噛み殺した。それをしてしまったら最後、彼の夢は潰えてしまうだろう。
いのの事できっとチームの方へは随分と迷惑をかけただろうし、今後他でトライアウトを受けたとしても、こんな土壇場で辞退なんてしたら、それは絶対にナルトの未来に影を落とし続ける。
しかしだからといって、彼に心だけここに残していけというのも言えなかった。
それを言えるだけの覚悟が、自分にはまだ無い。
たとえ付き合ったとしても、きっと今の自分はナルトの大きな思いに甘えてしまうばかりで、彼ほどの真心を見せることはできないだろう。
チヨバアからは兄の時のように素直になってみろと言われたが、行かないでと駄々を捏ねるのも、束縛するような思いを遠い地にまで持っていかせるのも嫌だった。ナルトに対しては、どちらもしたくないのだ。手のかかる弟のように構われるのではなく、彼とは立場も思いも対等でいたかった。彼が大きなものを与えてくれるなら、自分も同じだけのものを返したい。
――好きだと告げて、子供じみた甘えで彼を縛るのは簡単だ。
後悔するぞという周りの言葉を受け入れて、出された手を掴むのも容易い事だろう。
だけどここで中途半端な自分の我が儘を通す事の方が、この先自分にとって確実に後悔になるだろう。返せない程のものを、ただ受け取り続けるだけだなんて許せない。
人がどう思うかなんて、もとより関係ない。
俺が、嫌なんだ。

「サス――!」
「わり……なんでもない。外の煙がちょっとしみた」

おろおろとするばかりのナルトに、ふう、とひとつ息をつくと、幾ばくかは態勢を持ち直せそうだった。
大丈夫――大丈夫。
あともう少しだけは、もちそうだ。
「銀無垢だ」
「え?」
「前の時計も。あれも、銀無垢だったんだ」
ええっ?だって、あれってばオマエが!と目を大きくするナルトにちょっと笑うと、張っていた空気が途端に散らされた。薄暗い玄関でもほのかに明るい青が、表情豊かにくるくると回る。
本当、いい奴だなお前。
お前と出会えて俺もよかった。本当に、よかったよ。

「――おおーいナルト、支度出来た?もうそろそろ行かないと」

突然聴こえてきたいまいち緊張感のない催促に同時に振り向くと、「やっぱ空港まで俺も行くよ」と言いながら、半開きのドアからやる気のない寝ぼけ眼がひょこり顔を出した。そこで佇む黒髪に気が付くと、「あれ?サスケもいたの」とカカシが驚いたような声を出す。
それを適当に受け流し、サスケは黙ったまま前を向いた。そんなサスケにカカシは何か言おうとしたようであったが、引き結ばれた口許に何か思う所があったのだろうか。それを止めて、まだ靴も履いていないナルトの方を見た。
「時間もうギリギリだよ。あっちの人達、空港まで迎えに来てくれるんでしょ?」
その言葉に、ナルトの顔が動く。
「荷物は?もう行ける?」
「あ…うん」
「じゃあ俺タクシー呼んできてあげるから。今日駅前人でごちゃごちゃだし、空港までだったら反対側の道からまわって車で行っちゃった方が早いでしょ」
俺先に外行って車拾ってるから、靴履いたら出てきてね。
そう言ってちょっとこちらを見てから去っていったカカシに、ナルトも持ったままだった銀時計を覗き込んだ。自分で感じるよりも、随分と長い時間ここでナルトと話していたらしい。開かれた手の内で、文字盤の針は確かに先ほどよりぐんと進んでいる。
澄んだ硝子面に、遠くで上がっている背の低い花火が映りこんでいた。まもなく、花火も終わるのだろう。さっきまでの大玉の破裂音はすっかり消えて、今はさざ波のような落ち着いた火花の音が広がっていた。煙の匂いが強くなる。
手のひらの上の時計に寄せられていた金の前髪が、近付いた時さらりと自分の髪と触れ合うのを感じた。 
渇いて素直な金の髪。癖のある自分とは、全然違う。
「な、サスケ、やっぱさ……!」
「時間。無いんだろ?」
なんだかまだ納得のいかなさそうな顔をしていたナルトだったが、促す言葉に文字盤の針の位置を見ると、躊躇しながらも玄関先に置いてあったスポーツバッグを手に取った。金具部分にぶら下がる、銀の細工物がちりりと揺れる。
そういえばこれ、こいつのキーホルダーと造りがよく似てるな。
そんな事を思い出すと、ふとさっきの不躾な配達人から言われた『カエルの王子様』の謎がようやく解けた気がした。なるほど、王子様か。あのお伽話のラストは、どうなっているのだろう。教科書には目を通しても、お伽話なんて無駄なものは一行も読みたいと思った事が無かった。知識の上でのタイトルは知っていても、結末がわからない。

「――サスケ」

尚も呼びかけられる声に、心が震えた。
靴を履きおえて立ち上がった彼と場所を替わり、今度は自分が壁際に立つ。
開けたままだったドアに、大きなスポーツバッグの頭がこつんとぶつかった。スニーカーの紐を結い終えたナルトはしばしの間足元を見ながら逡巡していた様子だったが、やがて思い切ったように顔を上げると、うかがうようにして目の前に立つサスケをじっと見詰めた。

「なんだ?」
「あのさ。オレ、前にオマエに『頑張ったらご褒美ください』ってお願いしたことがあるんだけど……覚えてる?」

おぼろげではあったが確かに耳に覚えのある科白に曖昧に頷くと、真面目な顔をしたナルトはスポーツバッグにちょっと手を添え、わずかに足をにじらせた。 
じゃり、という靴裏が砂をよじるような音と共に、大きな影との距離が近付く。
「オレってば、自分では今回、結構頑張ったかなあって思ってるんだけど」
「ああ」
「サスケから見てどう?合格?」
「まあ、及第点ってとこじゃないか?」
逆光の金髪を見上げながらそう審査すると、やわらかな瞳が「うわ、さすがに厳しいってばよ」と細まった。
「こういうのは厳しくてなんぼだろ」と鼻を鳴らすと、広い肩がおかしげにすくめられる。

「でも、一応合格だろ?」
「まあな」
「じゃあ――ご褒美。貰っても、いいよな?」

そう言ったかと思うと、伸ばされてきた長い腕が壁際で待つ顔の右側を通り抜け、後ろの白茶けた玄関の壁に寄り掛かるように、そっと着地した。
ぼおっとしているうちに金色が近付いてきて、やがて途方もないあたたかさに、ふわりと唇を覆われる。 
味わうようにゆっくりと一度だけ角度を深くすると、紳士的なキスはそれ以上奥へは侵入することなく、静かに後ろへ退いていった。
視界に残る、滲んだ青。
時間の感覚が消え、いつの間にか手の中に戻されてきていた銀時計の秒針だけが、スムーズな音をたてて回っている。


「ごめん……ありがと」


離れ際。小さくそう囁いて、最後に困ったように笑うナルトを見た。
背の高い後ろ姿が出て行った玄関の扉だけが、大きく開け放たれたまま夜風に揺れて、きいきいと鳴いている。
脱力するように壁に凭れたままずるずると座りこむと、ポケットから中途半端に押し込まれていた鍵がぽろりと落ちた。頼りない光、弱い金属音。剥き出しの床に落ちたそれを、緩慢な仕草でのろのろと拾い上げる。

(……ちくしょう……やりやがったな、ドベが)

唇に残された熱が、ひどく、せつなかった。
次第に押し寄せてくる、眩暈がするほどの未練。しゃがんで立てた膝の上で、時を刻み続ける時計と銀の小さな鍵を、組んだ両手の中で握り締めた。
火薬の匂いをたゆたわせた、夏の夜空がうすく煙っている。
見上げた月は半月で、流されていく煙の合間から、はっきりしない天の川が切れ切れに見えた。
落ち込む気なんて、さらさら無かった。
やるべきことならもう、わかってる。
湿っぽいのは勘弁だし、元来、やられっぱなしで終わるのは、性に合わないのだ――でも。

(……『ごめん』なんて、言ってんじゃねえよ……)

半袖から伸びる腕で下を向く顔を囲いながら、鼓膜に染みついた最後の声を思い出した。
今だけ……今だけだ。
ほんの束の間、煙が風に流されきってしまうまでの間だけ。伏せた顔を、誰にも見せたくない。
うなじを湿らせる雨を含んだままの髪が、いつまでたっても乾かない。
遠くで祭りの終わりを報せる、割れた拡声器の声がした。


























――清潔なリノリウムの床は落ち着いたグリーンで統一されていて、ナルトはすっかり見慣れたそれをのんびりと踏みしめ、歩みを進めていた。
羽織っているダウンジャケットがカサカサいう。
4月に入ったとはいえ、まだまだ冬の名残が色濃く残されている北海道では、桜も雪解けも当分先の話だった。今年は寒波も厳しかったから、また更に花見は遠いかもしれない。そんな事を思いながら、手を入れたポケットの中でこちらに来てすぐに買った、軽自動車の鍵を弄んだ。この鍵の感触にも、すっかり慣れっこだ。ローンは去年終わったし、頭金にできる位の蓄えもできたから、今年の車検前にもう少しごつくて遊べる車に買い換えるのもいいかもしれない。
ふと目線を横にやると、渡り廊下の窓から、彼方に広がる遠くのパノラマが見えた。おだやかな日没が、そこだけは春めいて淡くけむっている空を、薔薇色に染めている。
見蕩れてつい立ち止まった後ろを、すらりと背の高い影が通り抜けていった。
ふっと去来した既視感に、慌てて振り返る。
目で追った姿勢のいい後ろ姿は、足早に廊下の角を折れて白衣の端だけをひらめかせて消えていくところだった。どこにいても、誰といても、ついあの後ろ姿を探してしまう癖が抜けない。あれからもう、随分と経つのに。いっこうに色が褪せない残像に、どうしても振り返ってしまう。
北海道にあるプロチームに籍を置いて、もう4年と半分が過ぎた。
東京よりも酸素濃度の高い空気にも、ゆったりとおおらかな生活リズムにもかなり慣れた。というか、自分にはこっちの方が合っている気がする。間違いなくこちらに来たのは正解だと思うのに、飽くことなくあの後ろ姿を求め続けてしまうのは、遠い場所に今も建つ由緒あるボロアパートで過ごした二年間が、余りにも尊い時間だったからだろうか。
失われているからこそ、輝いて見えるだけなのだろうか。
「う・ず・ま・き・くん!」
わっ!と脅かすようにダウンジャケットの背中を叩いてきた声と手に、どきりとして肩を上げた。
頭を戻すと、すっかり馴染みとなった女性看護師が、悪戯じみた笑いを浮かべ立っている。
「なあに、ぼーっとしちゃって。春だから?」
「なんだってば、それ。違うって」
「定期検診、今日だっけ。もう終わったの?」
「いや、これから。今日は練習あったから、予約は一番最後の時間に入れてもらってて」
言いながら、肩に掛けたスポーツバッグをちょっと揺すると、輝きが燻されてきた銀の鳥が変わらぬ声でチリリと鳴いた。柘榴色の瞳は静かに填め込まれたままだ。丁寧に扱っているつもりだけれど、ほぼ毎日持ち歩いているせいか、やはりそのシルエットは全体的になめらかになってきた。
「ユリカさんは?なんか――すごい、大荷物だってば」
看護師の押してきたワゴンの上に山盛りのファイルやら物品やらが載せられているのを見て、ナルトはちょっと目を剥いた。
普段から休みなく動き回っている人だけれど、今日はまた一段と忙しそうだ。
「春だからねー、新人さんやら研修医やら、新しい顔が沢山入ってきてて。今年は私、その子たちの指導員もやることになっちゃってさ」
「へえ」
「もー手がかかっちゃって結局仕事が倍よォ。まいったまいった」
ぼやく看護師に「まあまあ、最初は誰だって『新人』なんだし」と笑って告げると、「うわあ、うずまきくんまでそんなお決まりな事言っちゃって」と薄化粧のほっぺたがぶうっと膨らんだ。
しかし「でもわかってる!だから広い広い心でこうして忙しくしてんじゃない」と潔く自己完結して、すぐに膨らんでいた頬がぷしゅんと萎む。同年代の彼女は、ナースステーションの中ではもう頼れる中堅どころとして扱われているのだろうか。そういえば最近は完全に自分の肩書きからも、『新人』が外されるようになった。もう二十七だもんなあと我ながらしみじみする。
やべえな、四捨五入したらもう三十じゃんか。
変わったような、全然変わってないような。自分ではよくわからない。
「あっ、でもね!ひとりすっごいデキる新人くんもいるのよ。珍しく東京からきた人でね」
途端に色めき立ってそんな事を言ってきた彼女に耳を傾けようとすると、そのポケットからくぐもった振動音が聴こえた。「あっ、ごめんね」とすっと表情を変えてすぐさま震える院内PHSに応答する彼女を、頼もしいような不思議なようなとりとめもない気分で見守る。
診療時間もまもなく終わるせいだろう、いつも人で溢れている大学病院だったが、それに比べると今の時間はかなり人の数が少なかった。ステンレスのワゴンを押していくスタッフが通り抜ける度に、消毒薬のような匂いがつんと鼻をつく。
行き交う人達の中に、さっき見掛けた伸びた背筋を見付けようとしているのに気が付いて、ナルトは慌てて視線を下げた。
馬鹿な事を。彼がこんな所にいるわけがないのに。
それとも彼に似た人で、せめて記憶を宥めようとでも思ったのだろうか。
(バッカみてえ。そんな事したって意味ねえのに)
欲しいのは、あの視線で。あの声で。
厳しくて強くて、誰よりも綺麗なあの人しか、それは持ち得ないものだった。
実際、欠けた思いを他の誰かで埋めようとした事が、この4年でなかったわけではない。けれどあっという間に覆う『この人じゃない』という思いに、虚しい試みを繰り返すのは早々に諦めた。
彼の近況は今でもあのアパートに居を構えている高校時代の恩師から、時折うかがうのみだ。ナルトがいなくなった後も彼は特に変わる事もなく、つつがなく真面目な毎日を過ごし、周囲の期待を裏切ることなく見事な成績を納めて、今年大学を卒業したそうだ。 
当たり前のように国家試験にも合格し、今春からは兄同様、実家の病院で研修医として働き出していると聞く。
なにも、変わらない。
自分も彼も、毎日を普通に生きている。
……ただ、胸が。
ぽっかりと穴を開けられたままの胸だけが、欠けた部分を埋めてくれるただひとりを求めて、時々、ひどく軋む。
(まあそれも、オレの方だけなんですけどね )
ちょっと不貞てた気分でそう思いながら、「ごめんね、呼ばれちゃったから」と話半ばのまま急ぎ足で去っていく看護師を見送った。
そのままいつもの待合室に向かい、受付を済ましベンチに腰を下ろす。
ストラップを肩から外しスポーツバッグを足元に置くと、また銀の鳥が目に入った。ここのところちょっと、くすみも目に付くようになってきた。形も擦れて丸くなってきているし、今度テンテンがこちらに遊びに来た時にでも、相談してみようか。
ふわふわとそんな事を考えていると、そのうちに「うずまきさーん」と呼ばれる声がした。扉を開けて待つ看護師にいざなわれるように、診察室のドアをくぐる。
「こんにちは。どう?調子は」
手術をしてくれた都内の医師から引き継いで、こちらに越してきてからずっとナルトを診てくれている担当医の診察は、寸分違わずいつもどおりの声掛けから始まった。
お陰様で、特に違和感を感じる事はなかったです。
こちらからもいつもどおりの応答でそれに返す。
「じゃあ、ちょっとみせてくれる?」
流れ通り促されてズボンの裾をたくしあげようと屈んだ瞬間、ナルトのいる診察室と奥で続きになっている隣の部屋から、誰かが入ってくる気配を感じた。「ああごめん、持ってってもらいたいのはそこのやつ。ユリカ君に渡して」という、担当医の業務連絡。「わかりました」と簡潔に答える声に、油断しきっていた耳が甘く痺れた。

……目線を、上げる。

目の前に立つ、白衣を着こなした細い体躯に、言葉を失った。
つややかに跳ねた黒髪。
無駄なく伸びた、姿勢のいい佇まい。
すっくと立つその姿は、大人びて少し痩せたようだった。やや彫りの深まった美形に華奢なフレームの眼鏡をかけているが、その奥にある漆黒の双眸は、見間違いようもなく彼のもので。
驚きに呼吸も忘れ、突然動き出したバネ人形のように、椅子から体が跳ね上がる。


「―― サスッ……!?」


硬直したままのナルトを一瞥すると、『彼』は目線だけでかすかな一礼を残し、颯爽とした足取りでナルトの横を通り抜けた。折られた白衣の袖から出るしなやかに骨ばった手首の白さに、また確信が深まる。
担当医のデスクの上に置かれたカルテらしきファイルをいくつか束ねると、『彼』は先ほどナルトが入ってきた診察室の扉から、振り返る事なくさっさと廊下へ出て行った。
なに?なんで?どうしてオマエここにいんの?
置いてきぼりをくらったナルトの思考だけが、からからと空転する。
「……ああああのっ!先生、あの人っ……!」
「あ、そうそう彼ね、今年からうちに来てくれることになった、研修医のうちは先生」
焦りと驚きがごった煮になったような混乱の中、開けっ放しになった口をあわあわと動かすナルトに、中年の担当医はにっこりと告げた。

「東京の大学を卒業したんだけどね」
――知ってる知ってる!
「なんと君の足の手術の執刀をしてくれた、うちは先生のご親戚なんだよ。すごい縁だね~」
――縁っていうか、その人ですからその執刀医紹介してくれた人!

気もそぞろのまま検診を終え、事務員を急かして会計を澄ますと、ナルトは猛ダッシュでナースステーションを目指した。「ちょちょちょっ!ユリカさんってば!」とさっき会話をした顔見知りの看護師を見つけると、カウンターを乗り越えるような勢いで手招きをする。
「あれ、うずまき君?検診だけじゃなかったの?検査もするって?」
「じゃなくて!さっき言ってた東京からの新人てさ!」
「ああ、うちは先生?」
あっけらかんと言われた名前にがくがくと首を縦に振ると、カウンターで書き物をしている最中だった看護師がちょっと片眉を上げた。悩ましげにボールペンをくるくると回しながら、ははあん、といったようにニンマリと笑う。

「…見た?」
「見た!」
「すっっごいかっこいいでしょ、彼。さすが東京産」

――ちっがああうアイツ北関東産だってばよ!東京産はオレだ!
と、叫びたかったけれどそんな余裕はもちろん無かった。イケメンにくっついて一人歩きしている誤解と偏見もそっちのけで、「そいつ今どこにいる!」と訊く。
「ああ、今日はもう帰ったわよ?」
「帰ったァ?」
「うん。もともとが彼、昨日から夜勤だったのよ。本当ならもう昼前に帰ってる筈だったんだもの」
あ、でもさっき出たばっかだから、まだバス停にいるかも。あの人バス通勤だから。
聞くやいなや、ナルトは猛烈な勢いで回れ右して走り出した。リノリウムの廊下でワゴンを押す看護師を押しのけ、松葉杖の入院患者をひらりとかわす。
後ろから追ってくる「あっ、ちょっと、廊下は走らない!」という叱責もお構いなしに既にとっぷりとした闇に包まれている表へ飛び出すと、ロータリーを越えて一般駐車場からやや外れたところにある、こじんまりとしたバス停を目指した。診療時間が既に終了しているためか、外にはもうすっかり人の姿が無い。
その中にぽつんと見える青いベンチに、懐かしい黒髪を発見した。
見覚えのないコートの肩に、どこからともなくやってきた緊張が走る。
(なんで?なんでオマエ、ここにいんの?)
徐々に距離が近くなるシルエットに、心臓がひたすら高鳴った。
どうして?実家の病院にいるんじゃなかったの?
なんでわざわざ北海道に?なんかちょっと痩せた?髪は前より短くなったよね?
眼鏡、似合ってる。白衣すげぇかっこいい。
つーかオマエ前にも増して色男になってんじゃん。なんだよその色気。この四年で何があったの?どんな毎日過ごしてたの?
――もしかして、オレに会いに来てくれたの?
言いたい事や訊きたい事がどんどん湧いてきて、酸欠寸前の頭にひたすらぐるぐると渦を巻いた。
ようやくたどり着いたベンチの背もたれに、息を切らしながら手を掛ける。

「そこっ――…いい?」

容量オーバーになるまで質問が渦巻いた割には、最初の一言はかなり間抜けな感じになった。しかも息せき切って駆けてきたせいで、変なところできれぎれだ。
あまりの締りのなさに、自分で自分にガッカリした。バス停の脇に掻かれた残雪を避けながら、息を整えつつベンチの前に回り込む。
掛けられた言葉に、伏せられていた長いまつげが、ゆっくりと持ち上げられた。
今は、さっき見た眼鏡をかけていない。オンとオフのスイッチ代わりにでもしているのだろうか、仕立ての良さそうなコートの胸にも、細いフレームは挿されていなかった。
黒瑪瑙の瞳がひとつまたたくと、それだけで空気が研ぎ澄まされていくようだ。
目線が、こちらを向く。
かすかにしかめられた優美な眉が、不機嫌そうな影をつくった。


「――どうぞ」


……声、が。
つややかに低く震えて、鼓膜を甘く揺らした。
ああ、そうだ。この声だ。無愛想なくせにどうしようもなくやわらかい、彼の声。
誘い出されるように鼻の奥がつきんとして、じわじわと涙の膜が張るのを感じた。すん、と鼻をすすりあげて、ベンチに座る彼を見下ろす。白い手が脇に置いていた荷物を退かすのを待って、緊張を押し殺しながら、その隣りに腰をおろした。
「えっと――あっ、そ・そうだ!卒業、おめでとう……ゴザイマス」
何から言ったらいいのかわからず軽くパニックになりかけてしまったナルトは、とりあえず一旦落ち着けとばかりに、定型文のような祝いの言葉を口にした。
彫刻みたいにすました横顔が、これまた型通りに「アリガトウゴザイマス」と応える。

「……大変に優秀な成績を修めたそうで」
「おかげさまで」
「……試験も余裕の合格だったそうで」
「当たり前だ」

お互い正面を向いたままのお仕着せみたいな会話の中、ちらりと顔を出した彼らしい不遜さを見ると、ナルトは無性に嬉しさがこみ上げてきた。
そうそう、これこれ。
この誰にも媚びない傲岸さが、たまらない。

「白衣……似合ってマス」
「そりゃ、どうも」
「眼鏡、伊達?度入り?」
「度入り。……ちょっと、視力落ちた」
「そんなコート着るようになったんだな。大人みてえ」
「お前は相変わらずのオレンジだな。成長が無い」
「免許、まだ取ってないの?こっち運転できないと結構キツいってばよ?」
「うっせェ。余計なお世話だ、ドベ」

段々と昔のテンポに近付いてきたやり取りに、どうしようもなく胸が震えた。
なんだよ。
すげー嬉しい。すげー楽しい。
よくもまあこれ無しに四年半もいられたものだと、自分で自分に感心した。
前しか見てない彼をチラリと覗く――横顔が、素晴らしく綺麗だ。口許も、ほっぺたも、切れ長のまなじりも、全部が慕わしい。

「家の病院は?」
「別に。すぐに、継ぐわけじゃねえし」
「実家にいるって聞いてたってば。カカシ先生騙したな」
「あそことオビトには、情報操作しといたからな。あいつら口軽いし」
「ミコトさんは?元気?」
「変わりねえよ」
「木の葉荘の人達は?チヨバアとかどうしてる?」
「あー、バアさんは孫んとこいった。そんで今、その孫の知り合いってのがいる」
「わっ、チヨバアもういないんだ!管理人は誰がやってるの?重吾さんひとりで?」
「そう。あの人今、木の葉荘に住んでっから」
「え?そうなの?」
「ああ。その恋人ってのも一緒に」

へぇ…!と感心したようなため息をついて、ナルトはベンチに座ったまま足を伸ばした。そっかそっか。みんなそれぞれ、勝手に生きてんだな。当たり前だけど。
「そんで……」
世間話じみた会話が途切れると、頭の中にはいよいよ一番訊きたかった質問だけが残された。
はやばやと、心臓がやかまし過ぎる早鐘を打ちだす。
丁寧な夜の気配が、しんしんとあたりに積もっていった。緊張で震える指をしっかりと組んで、伸ばした足を戻しながら、覚悟を決めて声を出す。

「――どうして、ここに来たの?」

じっと溜めるようにしてからようやく出された問いかけが、バス停に頼りなく響いた。
瞳を、捕える。
黒い双眸の中に、映り込んだ自分を見た。
ああ、オレ、すんげぇ恋してんな。みっともないほど真剣なその表情に、かえってくる視線の美しさに、体温がどんどん上昇していくのを感じる。
「そりゃ、決まってんだろ」
凍てついたポーカーフェイスが、静かに答えた。


「褒美が欲しいのは、てめえだけじゃねェからだ」


低音と共に、ぐっとダウンジャケットの胸が掴まれ、隣に引き寄せられた。
ふいによぎる既視感。うすく開いたままの唇に、しっとりとやわらかな熱が重ねられる。
ふかく、あさく、次第にとけあっていく口付けに、ナルトはためらいつつも更にその奥を目指してみた。甘い歯列を、舌先でノックする。ゆるやかに開かれたそこをくぐると、やがて途方もなく熱い口内にとろりと迎え入れられた。自然に伸びた手のひらで、すべらかな頬を包む。角度を変えながら啄み、啄まれると、やさしい雨垂れのような水音が、途切れる事なく鼓膜に滴り落ちていく。
「……どーしてキスがうまくなってんの……!?」
蕩かされるような長い長いキスの後、息をつきながら離れたナルトは濡れた唇のまま、半べそのような声で小さな悲鳴をあげた。
これはちょっと想定外だ。
いや気持ちよかったんだけど――気持ちはよかったんだけどさ!
でもなんか悲しいというか悔しいというか、とにかくすっごく複雑な心境なんですけど……!
その様子に、満足気に鼻を鳴らしたサスケが、ニヤリと意地の悪そうな笑いを浮かべた。切れ長の目が悠然と細められ、薄い唇が酷薄そうにきゅっと上がる。
「聞きたいか?」
「聞きっ…たく、ないです……」
極上のキスに酩酊した頭のまま、ナルトは呂律の怪しくなった口でもごもごと言い返した。
ああやっぱりコイツってば恐ろしく魅惑的な小悪魔だ。というか更に強力に進化して、悪魔を通り越し魔王にでもなってしまったのではないだろうか。
大丈夫かなオレ、契約する魂足りっかな。
早くも完全降伏しそうな勢いで、その赤く熟れた唇に再びかぶりつきたい衝動を必死で抑える。

「いや、やっぱ聞かせてくれってば。まぁ――追々。今日じゃなくていいから」

煩悶しつつもそう言いながら立ち上がると、愉快げに笑んだ黒硝子の瞳が、星を閉じ込めたような光をのせてこちらを見上げてきた。
その明るさに胸をときめかせながら、ダウンジャケットのポケットにしまっていた方の手を出し「ん、」と差しだす。
それを見ると、やはりコートのポケットに手を戻していたサスケは、待っている大きな手のひらに、急がない仕草で自分の手のひらを重ねた。
迎え入れた白い手を、逃がさない強さでしっかりと掴む。座っていた体を引き上げると、ふわりと懐かしい、彼の匂いがした。吐息が白く煙る。伝わってくるほのかな体温が、この上なく頼もしい。
そうして満天の星空の下を、一緒に並んで歩きだす。


「……ったく、来んのがおっせえよお前。待っててもらえるとでも思ったか」
「ひっでえ、オマエがそれ言うか?」
「なに言ってんだ、これが最速・最短ルートだろうが」
「家、どこなの?オレ車だから、送ってくってば」
「お前んちの隣り」
「えっ!」
「ンなわけねェだろ、バーカ」
「……つーかさ、オレに彼女いたらどうしようとか思わなかったワケ?」
「彼女?いんのか」
「いるわけないじゃん」
「なら問題ない」
「いやだから、もしもの話だって」
「お前が俺より他の奴を選べるわけないだろ」
「すげー自信」
「まず負ける気がしねェな」
「…………(ああそうですか)」
                      





【END】


行きたい場所があるのなら、参戦しないとね!

この果てしなく遠回りな恋を応援してくださったすべての方へ、心からの感謝を。
ご愛読ありがとうございました!  (あとがきという名の言い訳はこちら→