第二十二話

『うーちはさん』
『ああ、チヨさん。こんにちは』
『ほらこれ、うちはさんにお土産~』
『わ、これってこの前話されてた?』
『そうそう、鶴屋の限定栗羊羹!今日出掛けたついでに店を覗いたら、最後の一本が残ってての』
『いいんですか、ありがとうございます。丁度お八つの時間ですし、よかったら少し上がっていかれませんか?』
『そうかい?じゃあ、甘えさせてもらおうかねぇ』
『どうぞどうぞ。――今、お茶を淹れますね』

     ☆

その日は朝から空気がすごく静まりかえっていて、動かない風に、ひたすら汗が滲み出るような日だった。
腕に巻かれたギプスが痒い。自損事故とはいえ、本気でちょっと体をメンテナンスする事を考えた方がいいだろうかなどとぼんやり考えながら自宅の玄関を開けると、ちょうど廊下の端にある彼の家のドアもカチャリと静かに開けられたところだった。出てきたのは、いつになくなんだかぼおっとした顔。寝不足なのだろうか、跳ねる黒髪にも普段程の艶がない。
「おはようサスケ、どうしたのこんな日曜の朝から。どこか行くの?」
掛けられた挨拶にも面倒そうに眉をしかめ、無愛想な彼は聴こえにくい声色で「町内会の、役で。夏祭りの手伝い」と単語ばかりで構成された返事をした。
「え?ああ、駅前の商店街のお祭りね。そっか今日だっけ、手伝いなんてあるんだ?」
「そう」
「大家さんも大変だねぇ、まあ頑張って」
「そう言うあんたはどこに行くんだ」
多分この質問に、深い意図は無かったのだろう。
相変わらずのぞんざいさでそう尋ねられれば、当て付けのようでも答えざるを得なかった。「ナルトのとこ。引越しのね、荷造りの手伝いに」と言った俺の言葉に、鍵を掛ける手元に視線を落とす横顔が、ほんの少し動く。
「そんな腕で、手伝いなんてできんのかよ」
「ま、いないよりはマシでしょ。小物の整理位はできるしね」
言いながら怪我をしていない方の手をぐるりとひとつ回すと、黒い瞳が胡散臭そうに眇められた。それともお前、手伝ってくれんの?そう言って首を傾げる俺に、通り抜けざまに「だから、町内会だっつってんだろ」という無表情な声が残される。
「あいつ、今夜の飛行機で向こうに行くよ」
「そうか」
「本当にいいの?」
行過ぎた背中にしつこく問うと、ひたりとジーンズの足が止まった。かすかな動きで振り返った顔が「あんた、本当にしつこいな」と低く言う。
しつこいと言われようとも、言わずにはいられなかった。だって、初めての事だったのだ。この意地っ張りで排他的なこの子が、他人にあんなに興味を持つなんて。
彼等が出会ってからのこの二年間、あの繊細なくせにいつも変におちゃらけてしまう元教え子と、この無愛想な頑固者が惹かれあっていくのを側で見ているのは、実にほほえましく楽しいものだった。呆れるほど見事に正反対なこのふたり。そんな彼等がお互いにお互いの価値を見つけあってくれたのが、本当に頼もしく、そして嬉しかった。
だからそんなこの子達が突然『絶交』だとか言い出した時は、純粋に驚いた。しかし同時に、うっすらとそんな日がいつか来るだろうという予感を密かに持っていたのも事実だ。
ナルトの方はともかく、初心な上常識を重んじるこの子の事だ。そう容易く自分の思いを認める訳にはいかないだろうし、生まれた時から、ずっと隣りにいてくれたとてつもなく大きな愛と共に育ったこの子は、他の誰かに心を預けるような事があるなんて、きっと考えた事さえなかっただろう。
「いいって、このあいだも言っただろうが」
少し怒った肩が、ぼそりとそう言い返してきた。少しでも涼しい朝の内に動けるだけ動いておこうという心積りなのだろうか、群れた雀達が向こう側に広がる朝の空を渡っていく。
「でもさあ、やっぱ最後にちゃんと話位した方がいいんじゃないの?こんな変な感じのまま終わるなんて。別れの挨拶位してきなさいよ」
「別れの挨拶?」
我ながらしつこいとは思ったが老婆心からの忠告に、振り返っていた顔がゆっくりと前に直った。
別れの挨拶だったら、もう済ませた。確かに告げられた声に、思わず「へ?」と口が開く。
「え?いつ?」
「あんたには関係無い」
「会ったの?ナルトと、直接?」
「それならもう文句はねえだろ」
言い捨てて、再び彼はさっさと一階エントランスに下りる階段へと足を進めた。体の向きを変えた僅かな間にあらわされた横顔は、淡々としているのみだ。

(……会ってたんだ、あいつら)

いつの間に、と思いつつもなんだか拭えない疎外感がじわりと巡った。
えぇ……なんで、そうだったの?
二年前といい今回といい、なーんかいっつもあいつら俺の見えてないとこで勝手に話を進めちゃってんだよなあ。昔はもっと頼ってくれてたのに、先生はホント淋しいったら……
「おい、」
見送ってややも経った頃になって突然戻ってきた声に、組んだ腕に物思いを載せていた俺はちょっと驚かされた。へ?なに?となんとも締まらない声を返すと、階段を戻ってきたサスケがちらりと顔を出す。
「あのさ、兄さんて昔、ここに住んでた頃」
「は?イタチ?」
「………やっぱいい。なんでもねえ」
それを聞いたところで別に何も変わらねえしな、とかなんとかぼそぼそと続けながらも、跳ねた黒髪は再び階下に消えていった。
なんなんだろうなあ、あの子。
昔の可愛かったあいつが恋しいよ。

     ☆

名前すら知らなかったこの街で仕事を紹介されたのは、まだ冬の名残が多い三月の頭の事だった。
通っている病院で長年患っている心の病を診てくれていた担当の先生から、君にぴったりの仕事があるんだけどと声を掛けられたのが、全ての始まりだ。
「朝は早いけど終業も夕方前だし、パソコンが使えなくても問題ないし、それ以外にも事務的な作業は基本的には大家であるあの子がすると思うから。ちょっと通勤時間はかかるかもしれないけど、働いてみないかい?」
他人には厳しい子だけど、多分重吾くんなら大丈夫だと思うんだよね。
そんな事を最後に付け足されたから、最初の面接の時は著しく緊張した。シスイ先生から病気の事やこれまで仕事にうまく就くことが出来なかった事情についての説明は、先生の従兄弟だというその雇い主の元へあらかじめ届けられていると解っていても、それでも一般的なものよりも圧倒的に余白の多い履歴書を差し出すのは結構勇気が必要だった。

「趣味――バードウォッチング」

黙ったまま、渡された紙に書かれた文字を表情を動かさないまま目で追っていた彼は最後にぽつんとそう呟くと、ふわりとその面を上げた。落とされた言葉にドキドキする。それはあんまりにも書く事がないので仕方なく備考欄に書き込んだ、悪あがきのような一行だった。
「鳥、お詳しいんですか?」
若々しい声に、鼓膜が甘く震えた。話に聞いてはいたが、実際会ってみても彼のその整った容姿と就いている職業からは想像できない若さに、中々感覚が慣れない。
しかし目の覚めるような風貌とは対照的に、お世辞にも愛想がいいとは言えない青年だった。その冷たい空気がまた彼の佳貌を惹きたてているのかもしれないが、どう見ても世渡りなどは下手そうだ。
人より秀でた所が多い人間が必ずしも得する事ばかりではない事を、オレは一緒に暮らす恋人の人生から窺い知っていた。何を隠そう、オレの恋人はオレにはもったいないほどの才気溢れる美人なのだ。しかしやっぱり目立つというだけで、なんの謂れもなく嫌な思いをするような事がそういう人間には時折降りかかってくるというのを、オレはこれまでにも何度か横で見てきた。
「詳しい、という程では、ないかもしれませんが」
不用意な事を言ってしまわないよう慎重になりながらそう答えると、形のいい口許から「ふうん」と興味があるようなないような、微妙な相槌がうたれた。
そういえばうちのアパートの玄関窓に、鳥がぶつかってきた事があって、と半分どうでもよさそうな口調で、彼が昔話を口にする。
「まあ、脳震盪だけだったみたいですぐに飛んでいけたから良かったけど」
「……はぁ」
「窓ガラスが透明過ぎて見えなかったんでしょうね。あれはちょっと、可哀想な事した」
「いや、そうとばかりは限りませんよ?」
得意分野での話につい口を挟むと、わずかに驚いたかのようにまっくろな瞳がきょとんと丸くなった。急変する雰囲気に、思わずうわぁ…と感嘆する。高価な黒硝子のようなその瞳から厳しそうな光が抜け落ちると、そのあどけなさは先程までのクールビューティーが嘘のようだ。突然可愛らしくなるその表情に、オレは完全に釘付けになった。
「そうなんですか?」
「は、…あ、はい、ええと、鳥っていつでも進行方向を見てるわけじゃ、ないですから。餌を探して眼下を見渡す時も多いので、結構、余所見運転してる事もあります」
出過ぎた真似をしてしまっただろうかと不安になりつつも、出来るだけ丁寧に説明をすると、感心したかのようにその目がぱたりとまばたきした。
へえ、とかすかな息を漏らすその口許に見とれていると、ゆったりとした仕草で彼が立ち上がる。
「じゃあ日の余裕もないので、来週から早速仕事内容の確認をしながら引き継ぎをしていくとして。毎朝七時半迄にはここに来ているようにしてください」
「えっ――採用、してくれるって事ですか?」
「そのために来たんじゃないんですか?」
そうですけど、となんだかドギマギしながらうつむくと、履歴書を持ったままの手が軽く腰にあてられるのが目に入った。
かすかなため息におずおずと目線を上げると、しかめつらを拵えた美形が映る。
「あと、もっと堂々としてください。そんな弱腰じゃここの奴らの管理なんてできませんよ」
遠慮なんてもの端から知らないような人達ばっかなんですから、ここのアパートは。
そう言ってニヤリと不敵な笑みを浮かべた彼に、短い面接が終わる頃、オレはすっかりファンになってしまっていた。なんて尊大で可愛らしい若者なんだろう。年下なのに、彼には何故か他人を従えてしまう魅力がある。
管理って人の管理じゃなくて物件の管理なんじゃないのかなと思いつつも、わかりましたと頷いたあの日。
あれからもうすぐ、一年半が経つ。

「――油照り」
「ん?」
「こういう天気って、油照りって言うんだ」

夕方ひと雨くるかもね、と歌うように言いながら、隣りで歩く恋人が空を見上げた。普段よりもかなり人通りの多い商店街の両脇には、各店舗の出している手作り感溢れる出店と、気合の入ったプロの露店がそれぞれに別れ軒を連ねている。
店を冷やかしながらアーケードを抜けて突き当たりにある普段は商店街用の駐車場になっている広間に出ると、ギラギラする太陽の下で慣れない作業の説明を受けている、姿勢のいい立ち姿を見つけた。
「サスケさん!」
声を大きくして呼びかけると、振り返った顔は早くもくったりと疲れているようだった。この人はどうも暑さに弱い気がする。
それならそれで、帽子を被るとかなんとか対策してもよさそうなものなのに、そういう体に何かを身につけるのも嫌いなのだそうだ。以前何かの話の流れで、そんな事を言っていた。
「お手伝いご苦労さまです。朝からここでやってるんですか?」
「重吾さん?」
両手いっぱいに畳まれた提灯を持たされてから体の向きを変えた彼に、大股で近付いた。なんていうか、ものすごく違和感のある取り合わせだ。安っぽいカラフルなおもちゃの提灯には「祭」という文字と「**商店街」という墨字のプリントが入っており、それがまたなんとも軽薄な感じがして持っている人物の雰囲気に合ってない。
「どうしたんですか、今日休みなのに」
「ええ、でも前々からここのお祭りの事はおチヨさんから聞いていて。商店街のお店もすごく安くなるから一度来てみたらいいって」
「へー」
「あと、あいつが一回木の葉荘を見てみたいってずっと言ってたので。思い切って、ちょっと遠出の散歩をしに来ちゃいました」
「『あいつ』って?」
「えーと、その、同居人の」
そう言ってから火照る顔を誤魔化すように少し振り返ると、話題の『同居人』は丁度オレの斜め後ろあたりに悠然と歩いて追い付いてきたところだった。
ぴたりと動きを止める彼に、恋人が会釈をする。
美形同士が向かい合う光景に、これぞまさに眼福だなあとオレはひとりしみじみした。
「はじめまして」
「――はじめ、まして……」
いつもこいつがお世話になってます、と軽く続けてほのかに笑んだ恋人に、彼は驚きを無理矢理丸めて飲み込んだようなぎこちない返事を返した。「重吾、俺ちょっと向こうの方見てくるな」と言ってすぐに離れていく恋人の、背中で揺れる長い髪にうっとりしていると、両手いっぱいの提灯を抱きしめたままの彼が、あの、重吾さん?とひそめた声を出した。
「あの人が同居人?」
「ええ」
「……男性じゃないですか」
「そうですよ?」
それが何か?と首を傾げると、まだ大きくなったままの瞳がまたぱたりと一回まばたきした。イエ…何でもないです、と言って何やら考え込んでいる彼に、遠くから「おおい、そこ!サボってないで早くそれこっちに持ってきてー!」とやや高めのテノールが響く。
じゃあ俺、呼ばれてるんで。回れ右しながらそう言った彼は、数秒黙ってから「ゆっくり楽しんでってください」とそっと付け足した。また催促する声にごくごく小さな舌打ちを落としつつも、呼ぶ声に応え去っていく。
「驚いてたねェ」
急に背中側から掛けられた声にちょっと驚くと、いつの間に戻ってきたのか後ろで君麻呂がニヤニヤしていた。お前また、俺の事あの人にちゃんと言ってなかったんだろ。おかしそうに肩を揺らす恋人に、オレはまたきょとんとする。
同居人という名の恋人がいるのは前に彼には暗に打ち明けた事があったし、それが男だというのはわざわざ言うような事でもないから言ってなかっただけなのだけれど。そんなに驚かせるような事だったのだろうか。

(でも面接の時も、特に訊かれなかったしなあ)

履歴書にも、性指向についての書き込み欄はどこにもなかったし。
ぼんやりとそんな事を考えていると、白くて冷たい手がひやりと腕に触れてきて、君麻呂が「な、向こうで生ビールの露店が出てた。日曜だし、昼酒しちゃうか」と実に魅力的な提案をしてきた。どこからか、背中を押すように香ばしい揚げ物の匂いも流れてくる。
匂いに釣られ足を前に出したオレにニコリと笑いかけると、恋人は先を案内するように歩き出した。
遠目に見える、長身の男性にまたあれこれ言いつけられている様子の彼を眺めながら、やっぱりあの丸くなった目は、フクロウのヒナ鳥みたいで可愛かったなあと、オレはまた思った。

     ☆
      
設定温度をまた一度下げると、白い機体から「こおおん、」と空洞を叩くような音がした。
ベッドの上で足を伸ばし、メタリックブルーのスマートフォンを手のひらで弄ぶ。もたれ掛かった後ろの壁紙から、すんなりとした冷たさが伝わってきた。じわじわと生温い自分の体温が、そこに吸収されていくのを感じる。
夏の太陽がぎらぎらと窓に射してくるのを見て、暗くなるのも構わずボクは部屋のカーテンを閉めた。ああ、昨日に続き今日もまた、昼過ぎまで寝てしまった。怠惰万歳。
昨日から始まった大学二年の夏休みに、ボクは例年通り早々と倦んでいた。サークルとか入ってる奴らは毎日昼間は真っ黒になってテニスコートなどではしゃぎ、夜は夜で誰かの下宿で割り勘で買ってきた発泡酒を飲んでまたはしゃいでいるのだろう。まったく、やかましくて節操のない奴らばっかりだ。ボクのサスケとは大違い。
(サスケ、何してるかなー)
つらつらと液晶画面を流れる大量のネットニュースを斜め読みしながら、つんと澄ました整い顔を思い出した。今日が日曜日なのを思い出しどこかに誘ってみようかとふとひらめくが、外の熱気と最後に会った時のあの妙な迫力を思い出し、踏み止まる。まああの地味な仕事を妙に愛している彼の事だ。夏休みもどうせまたクソ真面目な顔して、毎日あのボロアパートの管理人室で台帳とにらめっこでもしてるんだろう。
そんな事を考えつつ何か飲み物でも下のキッチンから取ってこようかと壁から背中を起こしたその時、ベッドの上に置き去りにしようとしていたスマホの着信メロディが流れ出し、ぱっと液晶画面に光が戻った。届いたメールを、すぐさま開封する。
《From:うちはサスケ Sub:〈件名なし〉 Text:今いいか?》
(サスケからメールくるなんて、めっずらしー…!)
著しく短文なメッセージを読み返して、驚きながらもボクは《いいよ、どうかしたの?》と返信した。
《From:うちはサスケ Sub:Re:なになに~?  Text:男が絡んだ女の喧嘩は修復可能だと思うか?》
すぐにまた来たメールを読むやいなや、ボクはおおよそ彼らしくもない質問内容に目を見張った。
男絡み?修復?
彼といると意表を突かれることが多いけれど、今日のはまた随分と突飛な話題だ。
(どうだろ、女って案外さっぱりしてるしなあ。どっちかがその男と付き合えたりしてる訳じゃないなら、なんとかなるんじゃないの?)
しばし考えた後、頭に浮かんだ事をそのまま文章にして送信する。ちょっと待っていると、そのうちにそっけなく《そうか、ありがとう》とだけ返ってきた。
《To:うちはサスケ Sub:どういたしまして  Text:っていうかなんなのその質問。今何してんの?》
トトトトトッ、と滑らかに文面を打ち込んでまた送信すると、数十秒の間が空いてから《かき氷屋》という単語のみの返事が返ってきた。
これまた想定外の回答だ。何がどうなってそんな事になってるんだ?
《なんかよくわかんないけど夜は暇?夏休み入って会わなくなっちゃったし、夕方ちょっと涼しくなったら遊びに行かない?またアパートまで迎えに行くよ》
ちょっとワクワクしながら送信して待っていると、着信の知らせが画面に現れた。何事にも迷いがない彼は、いつも返信だけは異様に早い。単に文章が短いからってだけかもしれないけど、でもちょっと嬉しい。
《From:うちはサスケ Sub:Re:今夜 Text:無理だ変なオヤジに目をつけられた》
……うーん、やっぱりサスケって面白いなあ。
妙に危機感迫る文面に、彼が今置かれている状況を想像してみた。女の喧嘩。かき氷屋。変なオヤジ?一体どうしたらそれがリンクするのかさっぱり解らなかったけれど、とりあえずものすごく奇抜な取合せだ。 
彼といると、時々こういう全く予測出来ないギャップに出会う。飽きない。魅力的だ。すごく好きだ。
《To:うちはサスケ  Sub:変なオヤジって  Text:なにそれ、意味わかんないし。まあとりあえずがんばって》
(送信、っと)
トン、とディスプレイに触れてしばらく待ってみたが、それきり返事は返ってこなかった。何やら忙しいようだったから、スマホを触る余裕さえもなくなったのか。もしくはもうやり取りを打ち切る頃合だと判断したか。

(ま、どっちでもいいんだけどね)

そんな事を気にしていたら、彼とは付き合っていけないよ。返事を待つのは諦めて、ボクはスマホをまたベッドに放った。ナルトとかいう奴もいるみたいだけど、同じ医者になるボクの方がこの先絶対彼の側にいる機会が多くなるはずだし、大学だってまだあと4年半もあるんだから。焦りは禁物だ。
(ついでに就職先もうちは総合病院で面倒みてくれたら、最高なんだけどなー)
そんな望みを勝手に抱きながら、ボクはベッドから弾むようにして降りた。床に溜まった冷気が足裏に冷たい。
ドアを開けるついでにまたエアコンの温度を一つ下げて、ボクはぬるい空気が広がる廊下に出た。
ああ、始まったばかりの夏休みが終わるのが、本当に待ち遠しい。待ち遠しいよ。

     ☆

不安に思っていた通り、履き慣れない下駄はあっという間に軟弱なあたしの指の股を痛め始め、そのうちにはカラコロという軽快な音さえも聴いていて辛くなってきた。
ぐいぐいと締められた、帯が苦しい。本当はこんな地味な半幅帯じゃなくて、チュールの広がったドレスみたいにふわふわした豪華な作り帯が良かったのに。 
折角今年は浴衣を新調したのに、ママときたらもうあんな大きくなったら使えなくなるような帯はやめなさいよ、どうせ買うならこっちにしなさいと言って、すごく固くて平たい帯を選ばれてしまったのだ。
ママは「やっぱり浴衣にはこういう昔ながらの柄がいいわよね」なんてひとりご満悦な様子だったけれど、あたしにはこれの良さが全然わからない。レースやラメが入ったやつの方が、ぱっと目立って絶対にカワイイのに。大人の女の人用の浴衣にも、今はそういうのがあったりするし。
自分の家から出て、露店の並ぶ商店街に向かうのも気が重かった。大体が、ひとりでお祭りなんて行ったところで全然楽しくなんかない。
けどパパが実行委員をやっているし、当然サクラちゃんと一緒に今年も行くんでしょ?とニコニコしていたママにはなんとなくサクラに無視されているのを言えないままだったから、気が進まないながらもあたしはとりあえずここまで出てきてしまったのだった。
あんまり早くに帰っても変に思われるかもしれないから、どこかで適当に時間潰してりんご飴でも買って帰ろう、そしたらお祭り用にもらったおこずかいも沢山残るし、なんて思いながら痛む足を気にしつつ歩いていると、商店街の奥でなんだか物凄い長蛇の列が出来ているのが見えた。
何の露店なんだろう。張り出した普通の白いテントを見る限りでは、いわゆるプロのテキ屋さんではなく商店街のお店が出した模擬店のようだけれど。

(ええっ、嘘でしょ……!? )

サスケくん?と行列の先で無表情のまま黙々と氷を削っている人物に気が付くと、あたしは思わずあんぐりと口が開いた。既に余程沢山のお客さんをこなしてきたのだろうか。テントの下、ででんと構える旧式の砕氷機を扱う手付きが、すっかり馴れている。
黒のTシャツに頭にもタオルを深く被るようにぎゅっと巻いていて、見た感じはすっかりかき氷屋のお兄ちゃんだ。それでもその寡黙な雰囲気とどうしたって綺麗な顔が相まって、なんとも言えない色気みたいなものがもやもやと醸し出されていた。
さてはと思い行列を確かめてみると、列なしているのは予想通りその殆どは氷というよりそれを作る人物を間近で見たいという、わかりやすい欲求で燃え上がっている女性ばかりだ。でもわかる。あたしもここのかき氷、絶対食べたい。
忙しそうにする彼に声を掛けてもいいものか迷っているうちに、向こうの方が店の前に突っ立っているあたしに気が付いた。
目だけで(お、)と言われたのが嬉しくて恥ずかしくて、思わずニヤけ顔で下を見る。
「いのじゃねえか」
「サ……管理人さん。どうしてこんなとこでかき氷屋さんなんてやってるの?」
胸をトクトク鳴らしながら尋ねると、暗い顔が「町内会の役回りでな」と表情の無い声で答えた。言われてテントを改めて見上げると、確かに前部分に『○○町町内会』と黒々とした文字がレタリングされている。どうやらこのかき氷屋は、町内会から出している模擬店らしい。
「忙しそうだね」
何気なく言うと、彼は忙しそうに手を動かしながら「おー」と気持ち半分みたいな返事をした。白くて長い指がするすると動いては横に重ねられたスチロールのカップを手に持って、轟音と共に削られ落ちてくる澄んだ氷をカップを器用に傾けながら受けていく。 
しなやかに骨ばった手首が、氷が落ちてくる度になめらかにゆらゆらと捻られるその対比に、じっと見てるとなんだかすごく血が熱くなるような気がした。思わず「お手伝いする?」と下心ありありで申し出ようとして顔を上げた時、あたしはようやくその後ろにいる、馴染み深いシルエットに気が付いた。すごく覚えのある肩までの髪。どんどん減っていくシロップを補填していたらしい彼女は、目が合った途端気まずそうに顔を背ける。

(……サクラ……!)

「いや、あと十分もしたら休憩行った人も帰ってくるし。折角来たんだから、ちゃんと遊んでこいよ」
お前ももういいぞ、と背後でうつむくサクラに、しゃらしゃらと落ちてくる氷から目を離さないままサスケくんが言った。「えっ、でも」とかすかに渋ってみせるサクラに、「いいから、もう充分助かった」と付け足す。
「まだ全然露店回ってないんだろ?」
「……うん」
「じゃあ行ってこい。そんな格好して、裏方だけで終わっちまったら勿体無いだろうが」
言われている言葉に改めてサクラの様子を眺めると、あの子もどうやら今年は新しい浴衣を揃えてもらったようだった。去年までの薄桃色ではなく、ちょっと背伸びした茜色の浴衣にあたしと同じ固い半幅帯をきりりと締めている。
「――なんでこんなところで、あんたが手伝いなんかしてんのよ」
随分と迷った割には、するりと出た科白はやたら刺々したものだった。しまった、なんでまたこんな言い方を!悔やんでいる間もなく、うつむきがちになっていた顔がムッとしたように歪む。
すっきりしたおでこがぱっと上がると、頬を赤らめたサクラが負けじと言い返してきた。
「そっちこそ。なに目が合った位で、ニマニマいやらしい笑いを浮かべちゃって」
「なんですって…!」
キリキリとお互い退くに退けない歯ぎしりをたてながらしばらく睨み合っていると、ややあっとしてから火花散るふたりの間に突然ずいっと長い腕が二本差し出された。ぎょっとして、ちょっと身を引く。目の前の大きな手のひらの上には、氷イチゴがひとつずつ。たっぷりかかった赤いシロップの上に、更にトロリと濃厚そうな練乳が乗っている。
「な、なに?」
「なにって、見りゃわかんだろ。イチゴだ」
「そうじゃなくて。――え、奢ってくれるの?管理人さんが?」
「なんだその言い方。要らねえのかよ?」
面白くも無さそうに引っ込められようとする手を同時に掴んで、あたしとサクラは一斉にぶんぶんと首を横に振った。上から見下ろすような目付きでちょっと鼻を鳴らしたサスケくんから、それぞれ一個ずつ水滴の落ちるカップを受け取る。
貰ってはみたものの、これをどこで食べるべきか悩みながら隣を覗うと、向こうも同様だったらしく迷うような目線でこちらを見ているところだった。まっすぐな日差しに、カップの淵の方から氷がどんどん溶けていく。
じっと手に持った氷を見詰めたまま動こうとしないサクラに、もういっそこのまま歩きながら食べてしまおうかと思った頃、待たせていたお客さんに謝りながら再びかき氷屋さんに戻ったサスケくんが「いいから、そこに座って食え。歩き食いなんて行儀の悪い事すんじゃねえぞ」とあたしの心を読んだかのように釘を差してきた。
言われて、仕方なくすぐ後ろの段差にお尻を下ろす。人ひとり開けた位の間を開けて、サクラも隣りに座ってきた。
しゃくしゃく、しゃくしゃく。
スプーンで氷の山を崩す。
「……あんた、ずっとここで手伝ってたの?」
練乳の白とシロップの赤を混ぜ合わせながらそう訊くと、同じくカップの中をサリサリ突き刺しているサクラが「ちがう。あたしもまだ、さっき来たばっかよ」とぽそぽそ答えた。すごい行列出来てる店があるなあって思って見に来たら管理人さんがいて。なんか、急に忙しくなっちゃったみたいで、ひとりで大変そうだったから。
「声かけようかどうしようかって思ってたら、管理人さんの方からあたしを見て『サクラ』って呼んでくれて。――きいたら、いのちゃんからあたしの名前教えて貰ったって」
聞きながら、半分溶けかけのひとすくいを口に入れた。
甘い。喉の奥にじわっと落ちていく甘さに、ほっぺたがひゅっと引っ張られる。
これ、甘いね。サクラが言った。
うん、甘いね。あたしも言った。
氷の山を掘ると、カップの底には更に濃くなったイチゴ味が沈んでいる。流れた練乳が、スプーンで掻き回すとマーブル模様みたいな線をひいた。……やっぱり、これちょっと、シロップかけ過ぎじゃないだろうか。
氷イチゴはすごく冷たくて、甘くて、きっとサービスのつもりだったのだろうけど量もやけに多くて、本当は途中で食べきれないなとちょっと思ったりもしたんだけど、だけど絶対に途中で投げ出したくなかった。あたしと同等のお腹を持つサクラも、多分同じ気分だったはずだ。でも向こうもリタイヤする気はさらさら無いようだった。もうほとんど色水みたいになったかき氷を、ふたりして張り合うようにして、口に啜り込んでいく。

「―― あぁ、帯、くるし」

とうとうカップへ直接口を付け出していたサクラが耐え切れないといった様子で、重い息をついた。「ホント、苦しい」とあたしも相槌を打つ。

「……あのね、うちのおかあさんたらケチだからね、どうせ買うなら大人になっても使える物にしなさいって、こんな渋いのしか買ってくれなかったんだよ?せめてラメが入ってるヤツが良かったのに」
「一緒一緒、うちのママもおんなじ事言ってたよ。若い時なんて今だけなんだから、どうせならその時にしか着れないようなのを買ってくれたらいいのにさあ」
「でもいのちゃん、その紫の浴衣よく似合ってるよ。色っぽい」
「え、そう?サクラもその色いいよ。あんた結構大人っぽい濃い色も似合うわね」
「ほんと?でもねーおかあさんからはもっと子供らしい色にしなさいよって言われちゃった」
「げー、大人でも使える帯買ってみたり子供っぽい浴衣着せたがったり、ママってほんと矛盾しまくりだよね」
「ねー」
「――おいそこ。もうちょい声のトーン下げろ」

やかましいぞ、と後ろ向きのまま呆れたように呟かれた声に、一瞬黙ったあたし達は、次いで同時にちろりと舌を出した。あかんべをした舌べろが、これまたどちらもどぎついピンクで染められている。見合わせたあたし達は湧き出てくる可笑しさに堪えきれず、揃って盛大に吹き出した。お腹が苦しい。こめかみも、食べ過ぎな氷にきんとして痛い。
斜めになってきたお日様が、白いカップの中できらきらしている。
まだまだ列をなすお客さん達を、片っ端から淡々とさばいていくTシャツの背中は、こっちを振り返りもしない。

     ☆

……くるな、と思った時には、もうポツリと頬が濡れるのを感じた。
せり上がってきた雲はあっという間に空を覆い、押し寄せるような音を響かせて雨粒が落ちてくる。
焦ることなくカバンから出した折りたたみ傘を開くと、一緒にいた彼女が猫のように身をすり寄せてきた。膨らんだ胸が、肘にやわらかく押し付けられる。
おい、と声を掛けると、少しつり目のアーモンドアイが悪戯じみた色をのせて見上げてきた。本当に、お前は天気を読むことにかけては天才だな。そんな事を言う彼女に、そりゃどーも、といい加減に返事をする。
薬の研究員なんてやめて気象予報士になったらどうだ、などと言い出す彼女の言葉を受け流しながら、しばらく水の跳ねる路地を寄り添って歩いた。天才だなんて大袈裟な。こういうごく薄い雲が空に広がっていて湿度が高く、無風で息苦しいような夏の日の午後は、午前中温められた地表の熱が上昇気流を生んで夕方積乱雲を作りやすい。なんの難しい事もない、ただ物事があるがままに動いていくのに、こちらが沿っただけの話だ。
そんな事を考えながら足を進め、オレ達は賑やかに彩られた商店街へと入っていった。打ち付ける雨を両脇から滴らせているアーケードを仰いで、おもむろに傘を閉じる。突然の夕立に、今日はただでさえ人の多かったであろう商店街は逃げ込んでくる人達まで受け入れて、軽い興奮状態にあった。アパートを出る前に掛けた電話をもう一度掛けてみるも、依然として彼からの応答は無いままだった。――さてこの中で、一体どうやってあの男を見つけ出したものか。

「あれー?シカマルじゃない」

人でごった返す商店街を見渡して思案していたところに背中を叩かれて、オレはその甲高い声に振り返った。頭二つ分低いところに、両のまなこをきょろりとさせた知り合いの子供が、その友達らしき子と並んで立っている。
「おお、いのか。なんだ、ちょっと見ないうちに随分でかくなったな」
「当然でしょ、もう四年生だもん。どうしたの、パパに何か用?」
大人びた仕草で呆れたように腰に手をあてた子に、耳元で彼女が「知り合いか?」と尋ねてきた。その様子を、(おおっ)と興味津々な様子でいのが身を乗り出してくる。まあな。親父の幼馴染の人の子供。端的にそう説明すると、それを聞いた彼女は「ほー」と少し興味を引かれたように口をすぼめた。
「いや、今日は親父から頼まれたんじゃなくてよ。ツレに用があって」
「ツレ?あ、友達のこと?」
「そーそー、なんか町内会の手伝いでここにいるって聞いてよ。つっても、すンげえ人だな。いのいちおじさんも今日は忙しいんじゃねえの」
「町内会の、お手伝い?」
ねぇいのちゃん、と何かを思いついたかのように横で話を聞いていた子に袖を引かれると、「ん?あ、そっか」とすぐに気がついたかのようにいのが、「それって、サスケくんの事?」と迷う事なく名前を出した。
驚くオレ達に、「サスケくんだったら、今駅前のスタバで休んでるよ」とするっと告げる。
「あ?なんでお前らがサスケの事知ってんだ?」
「いいじゃないそんな事。シカマルには関係ないし」
なんかね、外で休憩してるとやたらあれこれ言いつけられちゃうから、ちょっと雲隠れするんだって。
当然のように彼の極秘情報を口にする子供達に唖然としながらも、隣りの彼女に「行ってみるか?」と尋ねてみた。ちょっとわくわくした様子の彼女が、迷うことなく小さく頷く。
半信半疑のまま向かった駅前のコーヒーショップの二階に上がると、壁側の席にいつになくぐったりと沈んでいる友人の姿が見えた。シックな一人掛けのソファのような椅子に、肩肘だけついて額から目許を覆うように手のひらを置いている。前に置かれたアイスコーヒーは、びっしりと結露したまま手を付けられた様子は無く、テーブルの上に放り出された携帯電話だけがひっそりと点滅していた。なるほど、いくらかけても応答がなかったのはこういう理由か。
「――サスケ。おい、大丈夫か?」
そっとその動かない肩に触れると、余程驚いたのか大袈裟なほど固まっていた体が跳ねて、ついでについていた肘がずるっと肘掛けから外れた。彼にしては珍しく、こんな所で寝かかっていたのだろうか。半分放心したような瞳が触れてきた相手を認識するまでには、まだもう少しかかりそうだ。
「……なんだ、シカマルか……」
ようやく、焦点が定まってきたらしい。掠れた声で確認すると、サスケは大儀そうに落ち込んでいた体を起こした。なに、偶然か?とぼやけた問いを出す彼に、「いや、お前を探してたんだ」と告げる。
聞いているのかいないのか、まだ少し靄がかった瞳を擦りながら、サスケは手付かずのままだったアイスコーヒーに手を伸ばした。コロコロと氷がぶつかり合うプラスティック製のタンブラーから、半分程を一気に吸い上げる。
「大丈夫かよ、すっかりグロッキーだな」
「……いや、ちょっと昨日からあんま寝れてないだけで。どってことねェよ」
へえ、『寝れてない』ね。
続けざまに飲み物に口を付ける男に、思わず口許が緩んだ。ようやくこの天然男にも自覚が出来たか。だがここで何か言ってしまうと相当嫌な顔をするだろう事は容易に予測できるので、オレは敢えて口を噤む。
何よりも、タイミングを見計らないと。面倒な感じになるのは避けたい。
「で、なんの用だ?」
僅かな時間でも休めば幾分かはマシになったのだろう、不安定だった喉をもう一度湿らせて、サスケはぐぐっと背中を伸ばした。実は今ただの休憩中で。もうちょいしたら、またすぐ会場に戻らねえと。
「だからすまないがもし時間が掛かるような話だったら、今度でもいいか?」
「いや、大丈夫だ。話の方はすぐに済むから」
訝しむ彼を余所に、オレはカバンの中を探り、中から剥き出しのままの銀色の物体を見つけ出した。
驚く男の目の前でちょっと見せ、ダークブラウンのコーヒーテーブルの上にぱちりと音を立ててそれを置く。
「……これ、」
「今日の午前中、うちに香燐が来てさ。ほら、うち引越しとかもなくて昔と変わらない場所に住んでんだろ?だからあいつ、オレんちの場所覚えてたんだな。ちょっと迷ったけどすぐに来れたって言ってたよ」
テーブルの上で淡いオレンジの照明を受ける鍵に、サスケはじっと見入っているようだった。「ワリィけど聞いたぞ、香燐から。全部」と伝えると、そうか、と息を漏らす。
「まったく、めんどくせェ事になってんな」
「……」
「だからもっと前に、ハッキリ決めろって言っただろうが」
「あいつ、なんでお前に?」
飲みかけていたアイスコーヒーをテーブルに戻して、サスケが居住まいを正した。投げられた質問に、「さあ。次はもうどういう顔で会ったらいいのか解らなくなったからじゃねえの」と答える。
「そうか」
「ま、とりあえずそれはちゃんと返したからな。後は自分でなんとかしろよ」
「なんとか、な」
オレの言った事をオウム返しにして、サスケはしばらくじっと考えていたようだった。やがて軽く頭を振ると、「――わかった。悪かったな、手間取らせて」と丁寧な手付きでテーブルから鍵を拾う。
戻ってきた鍵をポケットにしまおうとしたサスケだったが、ふと気が付いたかのように「そういやお前、なんでオレがここにいるの知ってんだ?」と不思議そうに言った。
「ん?この店か?」
「店もそうだけど。何で俺が祭りの手伝いに来てんの知ってんだよ」
訝しむサスケにゆるく笑いかけながら、オレは「今ここに来る前に、ナルトんとこ寄ってきてよ」と種明かしをした。予想通り、ほんの一瞬だけ彼の動きが止まる。
「そこであいつの高校の時の先生だとかいう人に会って。この後お前んとこにも用があるっつったら、今日はこっちにいるって教えてくれてさ」
「なんであいつんちに?」
「なんでって、だってもうしばらくあいつの顔も見ることなくなるだろ。あと貸してたもの返してもらったり、あのヒトがナルトに頼んであった北海道土産も受け取りに」
「あのヒト?」
聞き返された言葉に「ん、」と顎を上げると、そこでやっと彼は少し離れた席に座って要件が終わるのを待っている、オレの連れに気が付いたようだった。距離感のある会釈が、ゆっくりと双方で行われる。
「お前、ナルトともなんかこじらせてただろ」
ジーンズのポケットにきちんと鍵が仕舞われるのを見届けて、オレはサスケの前に立ったままそう言って肩をすくめた。再び飲み物に手を伸ばし直したサスケは、今度は動きを止めない。
「あいつからなんか聞いたのか?」
「いーや。でもこのあいだアイツに会った時、なんか様子が変だったからな。お前の話題になったら目が泳ぐし」
「そうか」
「わかりやすすぎんだよな、アイツ。ま、お前だって相当わかりやすかったけどよ」
そう言うと、線の細いサスケの頬の辺りが一瞬ひくりと緊張した。そうか、わかりやすかったか、と呟いたその口の端は、しかしすぐにまた落ち着いてしまう。
「いつから気付いてた?」
「そうだな、もう最初の頃から?でも決定的だと思ったのは、このあいだの試合の時かな」
ひと月ほど前の記憶を蘇らせているのか、じっと虚空を見つめたままでいたサスケは、やがて最後に「……なるほど」とため息をついた。多分、自分でも思い当たる節があったのだろう。やれやれ、ここまでくるのに随分と時間の掛かった事だ。
「確かにこじらせてたっていや、そうだけど。でも大丈夫だ。あいつとはちゃんと、決着ついてる。多分もう二度と、会う事もねえよ」
それでも気を取り直したかのように余裕のポーカーフェイスでアイスコーヒーを啜りだしたサスケに、オレは「へぇ――さすがサスケ。随分あっさりしてんだな」と皮肉んだ。じゃあなんでそんな寝不足なんだよ。そんな草臥れた様子で、よくもまあそんな事言えたもんだ。
「まーオレぁ面倒事に巻き込まれんのは勘弁だからよ。とりあえず後悔だけはしないように適当にやってくれ」
「後悔?」
「そう、後悔」
呟かれた言葉を繰り返すと、サスケは少し気分を害したかのように「なに言ってんだ、後悔しないために、わざわざケリつけたんだろうが」と低く言った。
「俺はこうするのが一番お互いのためだと」
「そんなの、お前だけで決める事じゃねえだろ。何に対して後悔するかなんて、当の本人にしか決められやしねェんだから」
言いかけた科白に上からぴしゃりと被せると、さしものポーカーフェイスもわずかな崩れを見せたようだった。ああ、いかんな。あんまりにも自尊心を突っつきすぎるのも、逆効果か。
「……わり。余計なこと言ったか」
へらりと表情をゆるめてそう言うと、どこかホッとしたようにサスケがゆるりと顔を上げた。いや、…いい、別に。そう答えながら静かに立ち上がる。
「俺、そろそろ行かねえと」
「おお、おつかれさん。雨降ってきたし大変だな」
「雨?――え、今降ってんのか?」
「さっきからな。ま、ただの夕立だろうし、すぐに止むって」
言っているそばから顔色を悪くしていくサスケに「なんだ、どした?」と訝しむと、「やっべ…広場にある機材、テントの下に動かさねえと」と焦るように言った。
また商工会長にどやされるという言葉に、ああ、とようやく納得する。

「そうか、いのがお前の事知ってたのはそっち繋がりか」
「は?いや、なんでお前……え、いの?」
「いや、ここの店でお前が休憩してるって教えてくれたのもいのでさ。あいつ、チビの頃から時々親父さんにくっついてうちに遊びに来てんだよ。うちの親父といのの親父さんてすげぇ仲良くてさ。今の商工会長っていのいちさんだろ?山中生花店の」
「ああ」
「あの人、もう滅茶苦茶娘を溺愛してっからな。お前その顔で、迂闊にいのに惚れられんじゃねえぞ。多分、間違いなくどエライ目に合わされっからな」
「――…言うのがおせェよ、シカマル」

低く嘆く声を残して、タンブラーに残るアイスコーヒーを一気に飲み干した彼は舌打ちをしながら出口のある一階へと消えていった。
忙しない足音が、らせん状になった階段に響く。
「あれっぽちで良かったのか?もっとしっかり背中押してやったほうが確実なのでは」
そんな事をいいながら気が付けば離れた席からこちらに移ってきていた彼女に、オレは今さっきまで彼が座っていたシートに腰をおろした。同じように前に座る彼女に、「んー?いや、いいんだ、あんなもんで」とへらりと笑う。
テーブルの上に残る丸いタンブラーの跡に、つい先ほどまでここにいた友人の姿を思い出した。ふんわりと落ちてくるオレンジ色の照明の中、束の間の休息に体を沈めていた彼。――まあ、多分、あいつらの事は心配ないだろう。いずれ物事というのは、どれだけ遠回りをしようとも万事あるべき姿に整うものなのだから。気を揉むだけ無駄だ。
「それよりもあれだ、お前んとこの親父さんは一体いつになったら俺の事を認めてくれるんだ」
無遅刻無欠勤で四年間バイトやりきって、大学も主席で卒業したらって話じゃなかったのかと詰め寄ると、急に話を向けられた彼女はバツの悪そうな顔で身を引いた。「あー…まあ、私は長女だからな。どうしたって父様も慎重になるんだろう」などと言って苦笑いを浮かべる彼女を、しかめつらで睨む。
なんだよ畜生。らしくない努力までしたのに、話が違うじゃねえか。
どんどん先延ばしにされていく問題に、オレは憤然として腕を組んだ。まったく、ふたりでいるってのはどこまでいっても面倒な事だらけだ。なのに離れていたらいたでどうにも具合が良くないというのだから、本当に始末に負えない。
二階席の窓からは、アーケードを好き勝手に叩く雨粒が面白いようによく見える。
早くあいつらも落ち着くとこに落ち着いて、この果てしなく厄介で面倒な生き方に、絡み取られるといいんだ。

     ☆

以前隣町に住んでいた地主の息子が、二年程前にこちらへ移り住んできたという話は、実は結構前から耳にしていた。
商工会の会長として町内会と連絡を取り合う機会はわりとあって、もう彼がやってきてすぐの頃から町内会では話題になっていたからだ。
それもその筈、なにしろ商工会ならまだしも、町内会ってのは本当に年寄りばかりの集まりだ。そんな中に二十そこそこの青年が放り込まれれば、ゴシップに飢えている老人達は皆こぞって彼の素性を明かそうとするに決まっている。
某国立大の医学生、眉目秀麗、資産家の次男坊――色んな話が入ってきたが、町内会に入ってきた経緯としては、「木の葉荘」という地元に古くからあるアパートの大家兼管理人を彼が担っているというのが関わっているらしかった。どうやらアパートの代表として、町内会に名を連ねているらしい。
そんな理由で、その『うちは君』なる人物は、若い身空でありながら毎月代わり映えのしない町内会の会合に律儀に姿を現しては、老人達にささやかな話題と色めきを提供していた。確かに興味を引く話ではあったけれど、当時のオレは(ほー、爺様達の中にそんな毛色の変わった子がいるんじゃ、そりゃ目立つだろうなあ)と他人事に思っただけだった。
だがそれも、少し前までの話だ。今は違う。

「――作業。全部終わりました」

背後から突然ぼそっと話しかけられた声の低さに、オレは不本意にも背中がぞくりとした。
振り返ると、どこまでも乱れのないままのクールフェイス。
またか。もう終わってしまったのか。なんで何押し付けてもすぐに終わらせてしまうんだこの子は。顔だけじゃなく要領もいいのか。持ってないのは謙虚さだけなのか。
「駐車場の方は」
「さっき歩行者天国になった時全部片してきました」
「足りなくなったクーポンの印刷と配布は」
「全部終わってます」
「貸出した機材のリストは」
「本部のPCの中に作って保存しときました」
「……君町内会の方でも役員だろう。氷屋の手伝いはいいのかね」
「さっき用意してあった氷は全部売り切ってきました」
「えっ、全部?」
「ええ、全部」
あとは?と不遜な態度で顎をあげる若造に、私はぐうっと悔しく唸った。おのれ、『うちはサスケ』め。こんな何でもできるような奴、女にモテない訳が無い。

「なんかね、『管理人さん』て呼んでるみたいなの」

なんだか娘が最近華やかになってきたなあと思っていたある日。妻が『春野さん』なるママ友達から聞き及んできたところによると、娘とその親友である春野さん宅の子女は、ふたり揃ってその『管理人』なる人物に夢中になっているとの事だった。
春野さん曰く、「娘の部屋を掃除している時に出しっぱなしになっていたふたりの交換日記に、彼への思いが綿々と連ねられていた」のだという。少女達の秘密を勝手に暴くのは問題行為だとは思ったが、私はそれを聞いた瞬間すぐにピンときた。あいつだ。あの、数年前から町内会で噂になっていた、あの男だ。彼のいるアパートは、まさしく通学路のど真ん中にある。
けれど最初はオレも、そんなに心配はしていなかったのだ。春野さんの情報によれば、ふたりとも彼とは挨拶を交わし合う程の交流しかなかったようだし、まだいのは小学生だ。しかしその安心が揺らぎだしてきたのは、かれこれふた月程前の事だった。梅雨に入った位から、何故だか娘はやけに深い物思いに耽ってはため息をつくことが多くなった。背もぐんと伸びて肌も白くなり、妙に綺麗になってきたのだ。
一体どうしたのだろうとなんだか焦るような気分で見守っていた所に、娘が妻と一緒に選んできた、かつてないほどに大人びた新しい浴衣が届いたのを見て、オレの男の第六感がビビビときた。そうか。きっと娘は、この夏祭りであの管理人に思いを告げようとしているに違いない。ここのところの物憂げなまなざしは、どうやってその管理人に告白をしようかと悩んでいたのだ。
(いや、でもコレはダメだ。いのにはまだ早すぎる…!)
夏祭りの打ち合わせで初めて目にした、整い過ぎなほど整ったその容姿に、オレはふかぶかとうなだれた。
どう考えてもこいつはモテるだろう。
揃っている条件が良すぎる。
彼女なんて選り取りみどり、まさに入れ食い状態に違いない。光源氏のような色男を前に、オレは暗雲立ち篭める妄想を止めることが出来なかった。どうするんだもしも娘がこの男を祭りに誘ったりなんかして、あのたおやかで初々しい浴衣姿にうっかり惚れ込まれてしまったら。プレイボーイの行き着く果てが紫の上計画だなんて、ありがちな話じゃないか。そんなの絶対駄目だ。問題が起こる前に先手を打って、祭り当日は監視も兼ねて彼を徹底的に裏方に回し、娘との接触の機会がないようにしよう。楽しいデートの時間なんて入り込む隙さえない程忙殺させておけば、とりあえずは安心だろう。
などと、思っていたのだが。

「そうか――じゃあ、君はちょっと休憩行ってきなさい。まだ夜の部も残ってるし、打ち上げ花火の職人さん達が来るまでにもあと一時間程あるから。本部へはそれまでに戻ってきたらいいよ……」

何をやらせても想定していた以上に早く終わらせてしまう彼にお手上げ状態になった私は、仕方なしにそう言った。そもそも、もうかなりの仕事を彼が終わらせてしまった為、やらせることが残ってないのだ。
彼との接触を図ってくるだろうと思っていた娘も何故かこちらに寄ってこない。仲良しの女の子とふたりで、出店を楽しく見て回っているようだ。笑顔も随分と晴れやかになっていて、なんだかオレは拍子抜けしていた。おかしいな……いや、まあ、まさにこうなって欲しいという形ではあるのだから全然問題はないのだが。しかしこうも、何も起こらないとは。
そうですか、と素っ気なく言って涼やかに去っていく彼をぼおっと見送っていると、今度は「どーも、お疲れ様です」という力の抜けた声がした。
横を見れば顔見知りの警官が、締りのない顔で笑っている。
「夏祭り、今年も盛況ですねェ」
「おかげさまで。不知火さんは見廻りですか?」
「やー、見廻りという名の冷やかしです。すんません」
そう言ってぼんのくぼを掻いた警官は、制帽のつばをちょっと弄りながら目尻を下げた。
そうは言っているが、暑い中制服で歩き回ってくれるだけでも防犯の効果はあるものだ。充分ありがたい。
「夜は今年も花火上がるんでしたっけ?」
「ええ。まあ商工会のですから、ほんの一瞬で終わってしまう他愛ないものですが」
「それでも近くで上がるってだけで、毎年結構迫力あって面白いですよ。また夜にもここら辺廻るようにしますね」
「そうしていただけると。ありがとうございます」
「そういやさっきちょっと耳に挟んだんですが。なにやら今年、町内会の出してる氷屋で確変があったそうで?」
彼でしょ、その理由。業務連絡のような会話を断ち切るように、突然遠くなっていく後ろ姿に視線を送りながらニヤニヤした警官に、オレは「え?」と聞き返した。
すると「ほら、うちは君。木の葉荘の」と当然のような返事が返ってくる。
知り合いですか?と尋ねた私に、やっぱり制帽を取る事にしたらしい警官が、「ええ、まあちょっと」とのんびりと答えた。
「いい子ですよねー、愛想こそ無いけど、今時ちょっとないくらい真面目だし」
「えっ、そうなんですか?」
「そうでしょ。じゃなきゃ毎日大学から帰ってきて、管理人室なんかに篭ってらんないですって。巡回で寄るといつもなんか難しそうなテキスト読んでるし。少なくともオレは学生の頃は他の楽しみに忙しくて、そんな事できなかったなァ」
山中さんだってそうでしょ?と突然尋ねられて、オレはまた言葉に詰まった。
そう――かもしれない。
学生時代は幼馴染三人でいつもつるんでいたけれど、なんていうか、そこら辺は今は三人共ちょっとした闇歴史扱いになっている。
「まあでも恋人も同じアパート内にいるから、外になんていく必要もないのかもしれないですけど」
「恋人!いるんですか?」
「いますよ。こっち来てからずっとじゃないかな。浮わついた所もないし、まーちょっと遠恋になっちゃうみたいですけど。でもしっかりした子達ですしね」
あれ、雨降ってきた。
警官に言われた途端、ぼつ、と剥き出しの腕に落ちてきた雫に上を向くと、額から頬からが、あっという間に大粒の雨の受け皿になった。わあわあと散り散りになっていく人達を見渡すオレに、「じゃあ俺はここで。また夜に」と警官が言う。
「夕立だったら、きっとすぐ止むでしょ。雨上がれば花火はそのまま決行されますよね?」
「ええ。その予定です」
よろしくお願いします、と言いながら広場に出したままの機材の事を思い出したオレは、同じように走り去って行こうとしている警官をちらりとうかがってから足を踏み出した。大粒の雨が地面に跳ねて、煙のような飛沫をあげている。

(なんだ、もしかしてオレちょっと、見立て違いしてたか……?)

今更ながら押し寄せてきた罪悪感が、勢いを増してきた夕立にざぶざぶと濡らされた。
恋人がいる?しかも真面目で浮わついていない?
という事は、もし告白したとしてもいのは失恋か。なんだそれかわいそうじゃないか、うちの娘を袖にするなんてけしからん。いやでも、かわいそうだがやっぱりあんな年上の男はまだ早い。あっという間に結婚とか言い出されたりしたら困るし。
矛盾に満ちた思いを抱えながらしばらく慌ただしく作業をしていると、焦った様子でこちらに駆けてくる彼の姿が見えた。
合羽も着ないで、あんなに濡れて。
大体がまだ彼は、休憩しててもいい時間だった筈だ。やっぱり真面目でいい子ってのは、本当なのかもしれない――とりあえずこの作業が終わったら、そろそろここから開放してやったほうがいいだろうか。
雨にも構わず立ち回る彼の肩に、水を吸ったTシャツの生地がぺったりと張り付いている。
洞察力にはちょっと自信があったのに。
娘が絡むと、どうも目が曇っていけないな。

     ☆

せっかくわざわざ設定したのにこれまで一度も鳴らされることが無かったから、最初は自分の携帯が着信を受けていることにすら気がつかなかった。ああそっか、この曲着メロになるとこういう感じで聞こえるんだ。薄まった意識の中でそのメロディを聴きながら、指先で回線を繋ぐ。
手が震えるのは緊張しているからではなく、多分怖いからだ。ここまではなんとなく想定内でこれたけれども、ここから先は見通しがつかない。

『――香燐か?』

何の応答もせずただ黙りこくっていたせいだろう。少し怪しむ声で、発信者である彼が言った。
外を歩きながら話しているのだろうか。少し揺れる声と、遠い背景に聴こえる雑音。
このまま何も言わないでいたらこの人はどうするだろうとちょっと思ったが、そんなウチを余所に携帯からは『さっき、シカマルに会った。鍵、受け取ったから』という声がした。座っている公園のベンチの、磨り減った縁を撫でる。ベンチの上には屋根が付いているけれど、ついさっきまで降っていた夕立のせいで、ささくれた表面はやわらかく湿気ている。
こんな時でもやっぱり彼の声は耳に甘くて、なんだか目の奥がじんとした。思わず慌てて上を仰ぐと、アクリル製の屋根が淡い色の空を透かしている。
『悪かったな。なんか、色々。気が付いてやれなくて』
そうだそうだ、本当だよ!――と、言ってやりたいとずっと思っていたけれど、現実にはうまく声が出せなかった。ようやく出せたのは「…うん。ま、そうだよな。だって、サスケだもん」という、なんだか自分でもよくわからない回答だ。切れ切れになってきた雲の隙間から、遅過ぎる西日が僅かに漏れ始めている。もう間もなく、日は完全に沈むだろう。夜が迫っている。
たまたま仕事で訪れた得意先の研究所で幼馴染のひとりと再会したのは、ふた月程前の事だ。そいつが今でも彼と交流があると聞いたときのあの興奮ときたら、これまで受けた告白や、誰かと付き合った時の昂ぶりなんかを、遥かに凌ぐものだった。
ずっと、ずっと忘れられなかった、初恋の男の子。
小学生の頃、ぶっきらぼうだけどまっすぐな、ちっちゃな騎士みたいだった彼は、十五年ぶりに会ったら想像していた以上の美青年になっていた。かっこいい。色っぽい。
愛想だけは昔以上に悪くなっていたけれど、そんなところさえも美点に思えた。
(最初は冗談半分、だったんだけどなー……)
携帯を耳にあてたまま、ぼんやりと思う。子供の頃にした公約だなんて持ち出したところで、普通のヤツだったら鼻で嗤って一蹴するだけだ。
それを初恋の彼は、大真面目に取り合ってくれた。嘘や詭弁を嫌う彼のことだ、ただ単純に、自分の言葉を覆すのが嫌だっただけだろう。でもそれでも良かった。沢山の視線をその身に集める彼がちゃんと約束を覚えていてくれただけで、『その他大勢』に自分が入れられてない事がわかっただけで、本当に嬉しかった。
憧れてやまない彼に、隣にいてもいいと許されるだけで、なんだか自分の価値がすごく上がったような気がした。その上すぐに振られて終わりになるかと思っていたのに、いつまでたっても向こうからそれを言い出す気配はなくて。 段々と欲が出てきてしまったのは、この頃だ。
こちらに興味がない事なんてのは最初からわかっていたから、それを期待するのははじめから諦めていた。寄り添ってくれないのであればこっちから寄り添えばいいだけの話だ。
あんまりにも離れがたいから、そのうちには寄り添うというより、しがみつくみたいになってしまったけれど。
『今どこだ?外か?』
少し風が出てきたせいで、通話口から雑音が入るのだろう。会話を無理矢理繋ぐような声で、向こうが尋ねてきた。
「そう。外」
『どこ?つーか……会いに行った方が、いいよな?』
「いーよ。そんな、らしくない事しなくても」
わざわざ確かめてくる彼にどこか悲しくなりながら、私は鼻を鳴らした。普通は訊く前に「会いにいくから場所を言え」って言うんだよ。わかってねェなあ、こいつ。

『香燐』
「なに?」
『その、すまなかった。――ごめん』
「…は?」
『ごめん、な』

おそろしく歯切れの悪そうな謝罪が、風に嬲られる電波に乗って流れてきた。
驚愕、だった。
「悪い」とか「すまん」とかはあっても、「ごめん」というのはかつてないんじゃないだろうか。いや、十五年前のかくれんぼの時に言われたような気もするが、あの時でさえこんなにはっきりとした言い方ではなかった。
そもそもがこの人は、人に謝るという事からしてあまり無いのではないだろうか。
「……もう一回」
なんだか嗜虐的な気分がむらむらと立ち上がってきた私は、ちょっと勢い付いて言ってみた。
訪れたたっぷりとした沈黙に、回線の向こうで煩悶しているであろう彼を想像する。
『すまなかった』
「いや、ごめんの方で」
『……ごめん』
「なさい、は?」
『あ?』
「なさい、も付けてよ」
『てめ……いい加減にしろよ』
調子にのる私に本気で怒り出したような声が出されると、なんだか無性に可笑しくなってきた。一体どんな顔して言ってるんだろう。
ああやっぱり会いに来てもらいたかったな。
顔を、見たかった。
『もういい。いいから、お前はとっとと俺のことを忘れろ』
こらえきれなくなった忍び笑いを憮然としたような声色で遮って、彼が言った。
ほんと、簡単に言ってくれるよなァ。
忘れられなかったから今こうなってんのに。

『お前は、忘れろ。――俺は、忘れねェから』
「え?」
『お前転校してからもずっと、俺のこと覚えててくれたんだろ?だから今度は俺が、お前のこと、覚えとくから。そんで、あいこだ』

それでもう、勘弁してくれ。
それだけ言うと、ぷつんと回線は切断された。
なにそれ?あいこって。……ていうか、忘れないってなんだ、そういう意味じゃねえだろ。そんな事言って、本気でウチの方は忘れられると?しんっじらんない。ひとをなんだと思ってるんだ。ごめんななんて、すまなかっただなんて、そんな言葉だけで片付けようとして。
――なんだよ、滅茶苦茶、大真面目な声だったじゃねえか。

(……くそぉ……あの、ろくでなしめ)

木々に囲まれた児童公園に、夕闇が立ち篭めてくる。
かつてはすごく広く感じたここが、今は本当に可愛らしいものに見えた。
眼鏡越しの景色が、ぶよぶよと歪んでいく。ぼたっと白いスキニーの腿に落ちた雫が、黒っぽいシミになって広がった。ちくしょうめ。ウォータープルーフって一体何だ。ひいっく、と一旦引き攣ると、あとはもうなんか色々全部が重力のままに流れ出してきた。きたねーなウチ。これも全部あの男のせいだ。マスカラもファンデーションも全部溶けて、鼻も赤くなって、この後どうやって電車に乗ったらいいのかわからない。まったく、ほんとに、どうしてくれよう。いつか絶対仕返ししてやる。ウチを選ばなかった事、絶対後悔させてやるからな。覚悟しとけよ。

『忘れねェから』

低くて甘い声が耳に甦れば、胸の奥がまだじんじんと痛んだ。馬鹿。くそったれ。会いにこなくていいって言われてホッとした声出してんじゃねえよ。漫画とか映画とかのヒーローだったらなあ、こういう時はどこにいるかくらい尋ねる前に察してさっさと泣いてる女の子を見つけて黙って抱きしめるもんだろが。多分あの金髪ヤローだったら、そんなのあっという間にやってのけるだろ。どうしてテメーはそういつも受け身なんだ。だからウチみたいなのに調子乗られちゃうんじゃねーか。ちったあ押しに弱いのを自覚しろこの天然め――最後の最後で、どでかい爆弾落としてくんじゃねえよ……!
ふやけた月が、暮れなずむ遠くの空にうすぼんやりと浮かんでくる。
ひとりで立ち上がって帰るには、まだもうちょっと、かかりそうだ。

     ☆

疲労困憊な上びしょ濡れな体を引きずるようにして家路につくと、暑さはかなり雨に流されたようだった。
とにかく、盛り沢山な一日だった。
朝からあちこち作業に走らされ、休みなく仕事を言いつけられながら働き続けていると昼過ぎにはいつの間にか面子に入れられていた町内会の模擬店の売り子に駆り出され、ようやく休憩を貰ってもすっかり本部の人間として顔を覚えられてしまったせいかどこに行ってもあれやこれやと人に訊かれ、うんざりして駅前のコーヒーショップに逃げ込んでみてもあっという間に友人に発見されてしまった。
その友人から急な雨と聞いて慌てて会場に戻ってみると予想通り本部は外に置いたままだった機材やら荷物やらの移動でてんやわんやになっており、雨の中荷運びをしてるうちアッサリあがってしまった雨にとんだ無駄骨だったのではとぐったりしていると、件の商工会長から「あとはもう花火の準備だけだから帰っていいよ」と何故だか怖い程すんなり言い渡され、帰り道を歩きながら掛けた少し真面目な電話で更に気力を使い果たし、ようやくアパートの門が見えてきた頃には気力・体力共に限りなくゼロに近くなっていた。重たげに歩くスニーカーも、中まで水浸しだ。周りに漂っていた紫色の夕暮れも掻き消えて、辺りは明るい夜に包まれ始めている。
(これ、マジでもう勘弁だな……)
来年は真面目に他の奉仕作業に参加しよう。
近付きつつある門灯の灯りに、しばし放心した。町内会の翁には、かつてこんな早くに模擬店のかき氷を売り切った人物はいなかったと賞賛されたが、本気でもう二度とやりたくない。
エントランスを抜けようとした時、廊下の奥にある一○二号室の様子がふと気になったが、俺はすぐにそれを打ち消した。見たところでどうなる。明かりが点いていても、いなくても、どちらでもキツい。
もうどっちでもいいだろう。とにかく、目を向けない事だ。帰って、シャワーを浴びて、今夜こそは早いとこ寝ちまおう……朝になれば、全部終わってる。自動的に静かな日々が、また戻ってくる。
上がった二階の廊下からは夜の濃くなった闇空が広がって見えた。街が明るいせいか、星が薄い。日没と共に少し風が出てきたようだ。夕立で高められた湿度が、ゆっくりと夜風に散らされていく。
この分なら花火もちゃんと上がりそうだなと思いつつ自宅前でポケットに手を入れると、自室の鍵と共に指先にもうひとつの感触がした。
しまった、これ――さっき通った時、片付けてくるべきだった。
手のひらの上に乗せた『二○九』のラベルが付いた鍵をじっと見て、後悔と共に再び踵を返す。体はだるいけれど仕方がない。無くしてしまったりしないうちに管理人室のキーボックスの中へ納めておいた方が安心だ。なんだか頭もぼんやりするばかりで、どうにも心許無いし。
ため息をつきながら階下に降りていったところで、エントランスの入口の方から突然「あ!よかった、人がいた!」という声がした。
聞き慣れない声に顔を向けると、すっきりと髪を二つに結分けた、さばけた雰囲気の女性がホッとしたように玄関のステップを上がってくる。親しげな表情をしているが、声にも顔にも覚えがない。うちの住人ではない事は確かだ。
「あの、木の葉荘の管理人室ってここで合ってますよね?」
小窓を指差して言う明るい声に、はあ、そうですがとちょっと警戒しながら答えると、「わー、やっぱり、良かったぁ」と彼女は嬉しげに笑った。一体何の用なのだろう。面倒事だったら勘弁して欲しいと密かにため息をつく。
あれやこれや色々あって、今日はもう店終いの気分なんだ。
「あれっ、でも電気付いてない」
「……」
「管理人さんは今日、お休みですか?」
きょろりとこちらを向いて言われた言葉に、疲労で掠れた頭のまま「は?」と訊き返した。
あっ、いえ、ちょっと私ここの管理人さんに用があって。うちはさんていう方なんですけど。
なんだかワクワクした様子でそう告げられて、俺は一気に暗い気分になる。なんだよ、名指しで俺に用かよ。
「……管理業務は今日休みですけど」
これ以上の面倒事は御免だとばかりに中途半端な居留守を使うと、がっかりとした様子もなくその女は「あ、そうなの?じゃ、いいです。直接本人の部屋に持っていきますから」などと言い出した。「210号室ってどこですか?」と続けて尋ねられ、思わずぐっと詰まる。
しまった……面倒さを先立たせたせいで、事態をますますややこしくしてしまった。
この女が帰るまでここでウロウロしている訳にもいかないし、もう仕方がない。まだ濡れたままの襟足が生乾きのシャツに湿り気を広げるのを不快に思いつつ、俺は観念して「…うちはは俺ですけど」と告げた。
「えっ?なによ、あなたがうちはさんだったの?」
「はァ、まあ」
「どうして先に言ってくれないの」
「管理人に用だと言ってたし、今日は休業日なので」
ふぅーん、と間延びした相槌を打ちながらその女はずいっと近付いて来ると、不躾な程じろじろと俺の頭のてっぺんから足先までを見回した。
ああ、嫌だな。この女、どう考えても面倒臭そうな気配でいっぱいじゃねえか。あまりにも遠慮のない視線に、つい一歩後ろに退く。
「――なるほどね」
一通り審査したら気が済んだのだろうか、彼女は意味はわからないけれど何かに納得したかのように腕を組み大きく息をついた。
ふさふさのまつげが、ぱさりとひとつまたたく。

「厳しそうで、強そうで、文句なしの綺麗系」
「あァん?」
「……そして、何故か濡れている」
「しょうがねえだろが、つーかそれなんか関係あんのか。ほっといてくれ」

ずけずけと言われた不快さのままにそう突っぱねると、その女は何故か妙に嬉しげになって
「わァ、おっかなーい。――へー、やっぱりねえ」と笑った。クソ…意味がわからねえ。とりあえず不愉快なことだけは確実だ。
「用があるならとっとと済ませてくれ。俺は早く家に戻りたいんだ」
「あっ、ごめんなさい!私、お届けものを持ってきただけなの」
はい、これ。そう言われて押し付けるように渡された紙袋はそんなに大きなものではなく、華麗で細かい模様がきっちり入った上質紙で出来たものだった。それ自体がラッピングバッグになっているのだろう、口の部分には封をするように、シックな茶色いリボンがきっちりと結ばれている。
それでも僅かに垣間見える隙間から中をうかがうと、袋の中身は正方形の箱のようだった。大きさの割に、適度な重さがある。丁度貴金属なんかが仕舞われるような、上等そうな箱だ。
「なんだ、これ」
得体のしれない女が持ってきた予測不可な届け物に、俺は不信感で一杯の視線を送った。
そんな俺に、その妙な女は「やだ、そんな顔しないでよ。これすごく用意するの大変だったんだから!」などと口を尖らせる。
「大事にしてね。あとそれの贈り主の事、忘れないでいてあげて」
「贈り主?あんたじゃないのか」
「だから、私はお届けに上がっただけだってば。贈り主は違う人」
「はァ?だから誰だよそれ」
「聞く前にまずは開けてみたら?そうね、ヒントはァ――『カエルの王子様』、かな」
カエル?と突然の意味不明な単語に思わずぽかんと口が開くと、それを見た女が一瞬止まって、次いで「やだァホントだわ、なにこのいきなりの可愛らしさ!」と小さく叫んだ。
なんなんだこの女は……!
やっぱり激しく不愉快だ。

「では、確かにお届けしましたよ。――じゃあね、お姫様」

歌うようにそう言ってくるりと回れ右をしたその女の背中を、俺はただただ呆気に取られて見送った。
なんだありゃ……つーか何だお姫様って。無礼にも程がある。
訳もわからないままに華奢な背中が門の向こうへ消えていったのを確かめてから、俺は少し考えると、丁寧に結ばれた茶色いリボンの端をおもむろに引っ張った。衣擦れのような音と共に、紙袋の口が解ける。
掬いこむように手を差し入れると、俺は立方体のような小箱をおそるおそる取り出した。

    ☆

すごくキレイなヤツなんだ、とその子は言っていた。
あ、見た目のことだけじゃなくてな?
なんつーか、考え方とか心に、曇りがなくて。
「だからさ、アイツの前だと嘘が付けないんだってば。自分のずるいとことか、都合のいい言い訳とかが、全部そのまま映されそうで」
「ふーん、鏡みたいな子だね」
そんな感想を言うと、うーん、ただの鏡というよりも、もっとおっかない感じで。ほら、なんかあるじゃんRPGでさ、そういうアイテム。嘘ついてると映された途端、真っ黒な炎で一気に燃やされちゃう、みたいな。
「でもなんかそれってしんどくない?気が休まらなくて」
彼が告白をする前、暇にあかせて好きな相手の事をしつこく尋ねると、彼ははにかみながらもどこか嬉しそうに語ってくれた。
「んー、しんどいといえばしんどいんだけど、でもそれでもアイツに認めて貰えない事の方がキツいし。それに、」
「それに?」
「……アイツが本当はスゲー優しいのも知ってるから。あと、オレ以上に努力家なのも」
まあ、結局のところは負けず嫌い同士の意地の張り合いみたいなもんなのかもな、とへらりと相好を崩すと、その男の子は照れたように金髪の頭を掻いた。平和なショッピングモールの壁際で、広い肩をやわらかくすぼめていたのが、なんだかすごく可愛らしかったのを覚えている。
最後に会った時、彼に書いてもらった送り先の住所に書かれていたのは、偶然にも友人の工房から程近いある街の名前だった。配送業者さんに頼まず自分で持って行っちゃおうと思いついたのは、その時だ。どうしても、興味があったのだ。たまたま出会えたこの中々に素敵な男の子がこんなに思いを寄せる人というのが、どんな人物なのか。

(――あれ?迷子?)
祝日の昼下がり、いつもどおりの明るいショッピングモール。
品出しをしている最中に、店の前にある休憩用のソファにちまっとひとりで座っている男の子を見つけた時、一瞬私は身構えた。しかしつまらなさそうにブラブラ揺れている半ズボンの足と隣に置かれた買い物袋に、ホッと息をつく。なんだ、親の買い物を待っている子供か。
念願叶ってこのショッピングモールに店を構えてから数年。こうして服や小物の店を見て回っている親と離れて、ベンチでひとり待っている子供を見掛けるのは、そんなに珍しい事では無かった。多分、親としては綺麗なものや繊細なものが沢山ある店に、小さな子供を連れて入るのに抵抗があるのだろう。子供の方も、きっと興味のないものしかない店にいるのは退屈以外の何物でもないから、双方の同意のもとでこういう形になったのだろうというのは、子供のいない私にも理解できた。それはわかる。わかるんだけど。
(……よくこんな色んな人が通る場所に、あんな小さな子供をひとりにしておけるなァ)
ちょっと呆れながら、私は品出しの為に商品棚の下段を引っ張り出した。男の子の剥き出しになった膝小僧はとても小さくて、揺らされている靴もまだ可愛らしいものだ。半分ふてくされたような顔には思い切り(つまんない・つまんない・つまんない)と書いてあって、短く切られた髪からのぞく耳が、小さく纏まった顔に対してやけに大きく映った。
まあ余程の事がなければ、そんな大変な事態なんて起きやしないんだってわかってはいるんだけどさ。
でもさ、ほら――万が一って事も、ないわけじゃ、ないじゃない?
(あー、早くお母さん戻ってきてあげてよー)
思いつつ品出しがてらそれとなく男の子に目を配っていると、とうとう我慢が切れたのか、弾むようにベンチから降りた男の子がふらりと何処かへ行こうとした。ほら、言わんこっちゃない…!とちょっと嫌な汗が出たところで、ふっと顔を上げたその子が突然目をぱちくりとして立ち止まる。
ん?と思いその目線の先を見ると、今日来たばかりの新しい警備員さんがピシッとした姿勢で立ったまま、ちょいちょいと自分の顔を指差して、その子の注意を引いていた。
人好きのしそうな青い瞳が、親しげに笑んでいる。

『なーなー、ほら、こっち見てみ?』

パクパクと口の動きだけでそう言うと、その警備員さんはちょっと辺りを見回してからほんの一瞬だけ制帽を深く下げ、顔を隠した。何をするんだろうと、ちょっとワクワクし始めていた私が観察していると、パッと帽子が退けられる。下から現れたのは、全力の変顔だ。滅多にない大人の、本気の変顔というのを、私はこの日ものすごく久々に目撃した。
折角の渾身の作品にもぽかんとするばかりの子供を見て、その警備員さんは(あれ?ダメか?)と若干悔しげにしていたが、すかさずまた次の顔を器用に作り上げた。ころころ変わるその表情が、金髪碧眼の好男子(そう、彼の容姿は黙っていればかなりの高得点なのだ。愛嬌あるハンサム、といったところか)を見事に台無しにしている。
やがて「うっくく」という漏れ始めた笑い声に気が付いて見ると、彼は丁度両のほっぺたをパンパンに膨らめて、その中の空気を入れたり出したりしている所だった。
わー、カエルみたいと思っているうちに、つまらなさそうにしていた子供がケラケラと笑い出す。
その笑顔に(よっしゃ、オレの勝ち!)とでも言うかのようにニヤッと笑った警備員さんは、しゃんと背中を伸ばすと再び壁際で胸を張った。ようやく向かいの店から出てきた母親に手を引かれ、「ばいばーい!」と叫びながら去っていく子供に、直立不動のままこっそりと『バイバイ』を返している。
銀細工のカエルを手に、彼に話し掛けたのはその数日後だ。
押し売りなんていうのは口実で、本当は私も、彼に笑わせてもらいたかっただけなのかもしれない。

(なーんだ、やっぱりお礼したい相手って、例の好きな子の事だったんじゃないの)
今しがた見てきた黒髪の青年を思い出して、私は小さく鼻から息を抜いた。
大家さんとか管理人してるとかいうからすっかりおじさんか下手したらおじいちゃんかと思ってたけど。でも間違いなくあれでしょ、例の『想い人』って。……まあ、確実に男だったけど。でもあれじゃしょうがないわ。澄ました顔はどんな高飛車なお姉さまより堂々とした美形だったし、一瞬不意打ちのように見せられたあの表情は、そこらの小娘なんかよりずっとあどけない。
(あ、任務完了の報告しとかないと)
思いついて、肩に掛けていたバッグから携帯を出し、もう一度彼に掛けてみた。コール音を聴きながら、この後の段取りを考える。友人の工房から少し早くに仕上がったからと連絡を受けてから、急いで店を抜けて来てしまったから、中途になっている仕事が沢山残っている。仕事を片付けたいから、このまま急いで店に戻って、レジを閉めて。抜ける間他のスタッフに頼んだ仕事も一応確認して、ネット注文のお客さんのオーダーを取りまとめて、ああ、あと品薄になってきている商品のチェックもしないと。
コール音は応答のないまま十回を超えた。店を出てから何度電話を掛けても出る気配がないから、依頼主の青年はきっともう機上の人になっているのだろう。
それともとうに向こうへ着いているか。よく知らないけれど、北海道までは着くまでに随分と時間が掛かるのではないだろうか。もう夜だし、まだこっちにいるというのはないだろう。とりあえず電話は後ですることにして、先にメールで商品がちゃんと届け先に渡った事だけ伝えておけばいいかな。
携帯を耳にあてながら表の道に出ると、小柄なおばあちゃんが沢山の荷物を下げて向こうから歩いてきた。横を抜けていくおばあちゃんをそっと振り返ると、するするとした静かな動きで、小さな背中がアパートの敷地内に入っていく。もう夜だというのに、遠くからお囃子のような、賑やかな音楽が聴こえてきた。ああそうか、今日ここの駅前でお祭りしてるって、さっきネジが言ってたっけ。来る前に立ち寄った工房で、何気なく友人が話していた事を思い出す。
いいなァこのおばあちゃん。あんな麗しい管理人のいるアパートで暮らしてて。
電話を諦めて携帯を閉じた私は、静かに建つ古いアパートを見上げた。しかも引っ越しちゃったとはいえ、うずまき君みたいな陽気なハンサムもここにはいたわけでしょ?あーあ、私もこのままおひとり様でいったら、老後はこういうアパートで楽しく若い子を愛でながら暮らしたいよね。いや、別に結婚したくないわけじゃあないんだけど。相手さえいればいつだっていいのよ?誰に言うわけじゃないんだけどさ。
遠くの夜空が、明るすぎる街の灯りのせいで、もやもやとしたピンクに染まっている。
しまった、ついのんびりし過ぎちゃった。
早く店に戻らなくては。

     ☆

年に一度の楽しみを満喫して、自宅のあるアパートに戻ってきた頃はもうすっかり日が落ちた後だった。
アパート前で、携帯を耳にあてながら歩いてくる若い娘とすれ違う。確か七時過ぎ位から、例年通りであれば商店街が用意したささやかな花火が上がる筈だ。
この娘はそれを見に行くのかもしれない。と、いうことは電話の相手は彼氏だろうか。やれやれ、夏の夜は熱いこと。
門を通り、開けっぱなしになっている共同玄関の奥を見ると、立ち尽くす細い体躯が見えた。いつもぴんしゃんとしている背中が、何かを覗き込むように丸められている。
(……お、『うちは・弟』)
日頃なんだかんだ憎まれ口を言われつつも可愛く思っている青年の姿に、ついにんまりと口元が緩んだ。穏やかで紳士的だった兄の方も大好きだったけれど、この意地っ張りで融通の効かない弟の方も中々に可愛い。
サスケ、と後ろから声を掛けようとした瞬間、弾かれたかのように黒髪の頭が上がった。勢いよく振り返った顔に、思わずぎょっとする。
怒ってるのか?泣きそうなのか?
いつもはしろじろと取り澄ましたその顔が、どうしたわけか今は感情がごちゃまぜになったような、混乱の色に染まっている。
「ど、どうした?なんじゃその顔は」
「おい――何時のだ?」
這うような声とかつてないその子の様子に、何の事を訊かれてるのかが咄嗟にはわからなかった。
何が?と首を僅かに傾けると、その様子は更に彼を苛立たせたらしい。「あいつ!何時の飛行機に乗るんだ!」と重ねて怒鳴られる。
「さあ。最終のとしか聞いてないが」
「最終って何時だ!」
「九時、とかじゃなかったかのぅ」
手の内を覗き込んでサスケがまたひとつ唸った。「クソ、このまま何の説明も無しに行かせるかよ……!」と言う声が、昂ぶった感情に震えて聴こえる。
そのまま何かを振り切るように一階奥の部屋の方へと駆け出した後ろ姿に、儂は呆然としながらもいつかの日の事を思い出した。
あの穏やかな声を。
誰よりも優しかったまなざしを。

『――それでね、チヨさん。あいつどこにでも付いて来たがるんですよ。危ないからとか、お前には早いからとか、いくら言っても聞かなくて』
糖度の高い菓子に舌鼓を打ちながら、弟の話をする彼はいつも甘く眉をひそめたものだった。
日の光が沢山入るあの部屋で。
あの人の淹れてくれるお茶はいつも熱くて、口にやわらかかった。
『いつも強引に付いてきてしまって。そのうちにそれがどうしても無理だとわかると、今度は行かせないよう妨害工作を始めるんです。靴隠したり、鞄隠したり、玄関前を封鎖したり』
『また出た、うちはさんのサスケネタ」
そう言って笑うと、困ったようにはにかんで。
すみません、ダメでしたか?なんて言いながらも、あの孤高の青年が照れたような顔をするのを見てしまえば、それがどんな惚気話であろうとも、ダメだなんて言えるわけがなかった。
『でもそんな事言ってても、本気になればいくらでも置いていけるじゃろう?歳も離れてるし』
『そうなんですけどね。でも、そうやって駄々捏ねてるあいつがまた可愛いんですよ。そのうちに出掛ける事そのものよりも、拗ねるサスケを見る事の方が楽しみになってきてしまって』
『困った兄ちゃんだのう』
『……まったくです』
ゆるく笑いながらお茶を啜って、彼はのんびりと同意した。伸ばされた髪が、素直な流れで肩を滑っていくのを、年甲斐もなくいつもどこか羨ましく思って眺めていたのを思い出す。
『しかしのぅ、いいのか?そんな弟のことにばかりかまけてて』
可愛い男を見るとつい苛めたくなってしまうのがわしの悪い癖だったが、その時もその悪癖がちょろりと顔を出した瞬間だった。
どうするんじゃ、いつか弟が恋人を連れてきたら?
ほんの少しだけ意地悪な気分になって、菓子を咀嚼する彼に問う。
『どうするって、どういう意味ですか?』
『妬けるじゃろう?』
『ああ、そういう事でしたら心配ないです』
俺達には「兄弟」という、絶対に他人には立ち入れない、繋がりがありますから。
きっぱりと胸を張って、彼は言った。どれだけ好きな人ができようとも、俺達の中に流れる血が薄くなる訳じゃないですし。それと同じように、どんなに離れても、誰といても、俺がサスケの事を思う気持ちが薄まる事はないですよ。当たり前じゃないですか。
『だからサスケの方も、恋人ができようがなんだろうが、俺に対する気持ちが変わる事はないと思うし、だから別に妬けたりはしないんですが――ただ、』
『ただ?』
『あの子はなんていうか、ちょっと純粋過ぎる所がありますから。俺を慕い過ぎて、逆に徹底的に他人を排除してしまいそうで。現に今でも、俺や家族さえいればもう満足だと思っている節がありますし。兄としてはそっちの方が心配です』
『結局また惚気けてるだけかの?それは』
呆れた言い分にため息をつくと、彼は『そう聞こえましたか?』と言ってまた笑った。まったく、とんだ相思相愛だ。自分の方だって、弟さえいればいいとどこかで思っているくせに。
『だからね、チヨさん。俺が出てった後、ここにサスケが住むようになったら、というか、絶対そうなると思うんですが。もしここであいつが大切な誰かを見つける事ができたら、ちゃんと前に出られるように、背中を押してやってくれませんか?内弁慶で育ったせいか、あいつはどうもそういうのが不得手で』
『そりゃいいが、変な相手だったらどうするんじゃ?騙されたり、とか』
純粋なんじゃろ?その箱入り息子は。
すっかり甘味を平らげて丁寧に皿を端に寄せる彼を窺うと、ほんのりと和らいだ唇が、『うちの弟は純粋だけど、ただ流されるだけの馬鹿じゃない。ちゃんと、一番大切なものを見つけられるいい目を持っていますよ』とほころんだ。
ほぉ、随分と信用があるんじゃな、などと茶を啜り言うも、いつだってあの人はその胸を張って言うのだ。

『当然です。だってオレの、自慢の弟ですから』

――ドン!という音と共に、表が刹那の明るさに包まれた。花火が始まったのだろう。閃光と音量に驚かされるように、古い記憶から思考が戻る。
視線を直すと、サスケがいた場所に、少しあらたまった雰囲気のかっちりとした紙袋が落ちているのを見つけた。拾い上げて、中を覗く。底に張り付くようにして、メッセージカードだけが残っているのを、爪先で引っ掛けるようにして摘み上げた。

(……『今度は 捨てないで』?)

下手くそだけれど丁寧に書かれたメッセージには、名前は入っていなかった。

     ☆

『しかしまあ、まずは弟の前に兄の方じゃな。このあいだまたアパートに女の子が押しかけてきてたじゃろ?』
『あれ。ご存知でしたか』
『もういっそ誰かと付き合ったらいいのに。そうしたらこんなしょっちゅう呼び出されたりもなくなるんじゃないかのぅ?』
『そういうものですかねぇ。いや、でもそういう訳にもいかないでしょう。彼女達に失礼だ』
『みな綺麗な子ばかりじゃろうが』
『別に選り好みしているわけじゃないですよ。ただなんていいますか……世の中には他にも興味を惹くものが沢山ありすぎるというか。学びたい事が多すぎるんですよね』
『女性から学べる事も沢山あるぞ?』
『……ですよね。父と母を見ていると、本当にその通りだと思うのですが』
『ちなみにわしも今フリーじゃよ?年上は嫌いかの?』
『またまた。俺みたいな若輩者じゃ、チヨさんのお相手には役不足でしょう』
『逃げるのが上手いのぅ』
『とんでもない。――いつかもっと経験を積んでチヨさんに似合うようになったら、改めて申し込ませていただきますよ』