第二十一話

「……何やってんだ?お前」
掠れそうになる声をどうにか保ちながら尋ねると、手元に視線を落としたままの横顔が、「何って、草むしり」となんでもないような口ぶりで、素っ気なく答えた。
「いいって。俺の仕事なんだから、俺がやる」
なんとなくそのまま流されたくなくて、つい反発した。
すると返ってきたのは、何言ってんだの一言。押し殺したようなそのトーンは、どこか怒ったようにも聴こえる。
「こんな炎天下にひとりでこれ全部やるっての?死ぬってばよ、マジで」
確かにそう言われても仕方の無いほどの強烈な照りつけにむつりと黙ると、ちら、と上げられた碧眼が、なんだか有無をいわせない雰囲気でこちらを見てきた。
逃げの無い視線に、戸惑う心が縫いとめられる。
「いいからオマエ、ちょっと休んどけって。お礼、させてくれってばよ」
「お礼?」
「さっき交番で、おまわりさんから聞いた」

ほんと……助かった。ありがとう。

手を止めないまま一言ずつ丁寧に言われた言葉に、サスケは「ああ」とだけ答えた。気が付けば、いつの間にかうるさかったセミの鳴き声が止まっている。
「なあ、なんで?なんで、助けてくれたんだってば?」
オレってば、『他人』じゃなかったのかよ?
抑えた声で投げかけられた質問に、サスケはすぐに答えることができなかった。
炎天下の下、ナルトの金髪が眩しい。
ためらいに固められた唇がようやく開かれようとしたその時、ナルトの尻ポケットから、くぐもった携帯電話の振動音が聴こえてきた。

    ☆

ヴヴヴヴヴヴ、ヴヴヴヴヴヴ、と繰り返し低く唸る携帯電話に揃って視線を寄せて、しばらくふたりして黙りこくった。いつまでも諦める気配の無いそれに、仕方なく「出ないのか?」とぽそりと言う。
「えっ?――あ、うん。どうしよっか、な」
「いいから、出ろよ。大事な連絡だったら困るだろ」
迷う彼を後押しするように促すと、しぶしぶといった様子で立ち上がったナルトはポケットから携帯電話を引っ張り出した。土で汚れた手から庇うように、指先で器用に回線を繋げる。

『ナルトォ!』

やぶからぼうに飛び出した大音量のコールに、「うっ」と呻いたナルトがちょっと携帯を耳から離した。すごい大声。割れ鐘みたいだ。
「……エロ仙人」
がくりとうなだれながらナルトが呟いた単語に、思わず耳を確かめた。なんだそりゃ、エロ仙人?
『オマエなあ、そっち着いたら連絡しろってゆーただろーが!』
「あー…そうだった、ゴメン。あちこち寄ってたからつい」
バツが悪そうに頬を掻きながらそう言うと、サスケからの視線を避けるかのようにナルトはそそくさと後ろを向いた。何やらこそこそと会話をしているようだけれど、向こうの声量が大きすぎるせいで内容が丸分かりだ。『……の、写真集が』とか、『***劇場限定の』などというどうにもいかがわしい単語が、背中を丸めるナルトの方から流れてくる。
「えーっ、オレそんなの買いに行くのやだってば」
『バカモン、これから世話になるんだからそのくらいの手土産は当然だ!』
「荷造りだってあんのに」
『そんなの適当でいいだろが、どーせすぐこっちで開けるんだから。いいな?これは監督命令だぞ』
一気に脱力した様子で「へーへー、 わかりましたよ」と応えるナルトに呆気に取られていると、ふとその瞳と目があった。
ちょっと狼狽えたような碧眼が、気まずそうに泳いでいる。
『ああそうだ、オマエの部屋にするっつってた例の物置部屋、さっきようやく片付けと掃除が終わったからな』
急に声のトーンを落ち着かせて、電話の相手がついでのように言うのが聞こえた。「え、もう?」と驚くナルトに、『長門がえらく張り切っててのう』と言う、電波越しの声がする。
『オマエ日曜の晩はこっち着くの遅いんだろ?』
「あ、うん」
『なら歓迎会は月曜の入団式の後だな。チームの奴らも全員呼んでバーベキューするぞ。腹が破れる程ジンギスカン食わせてやるから楽しみにしとけ!』
うわっはっは!と豪快な笑い声と共に回線が切られ、ツーッ、ツーッ、というにべもないような電子音が漂った。放心したような顔で手の内の携帯を見詰めていたナルトに、おもむろに声を掛けてみる。
「エロ仙人って」
「へっ!?あ、違う違う、チームの監督だってば」
「……すごいニックネームだな」
そんな呼び方して大丈夫なのか?とちらと見上げると、「あ、みんなの前ではちゃんと『監督!』って呼んでるってばよ」とナルトが答えた。スゲーちっさい頃から知ってる人だから、ついガキの頃から親しんでる名前で呼んじまうんだよな。そう言いながら、苦笑して手にしていた携帯をまたしまう。
豪放そうだが懐も深そうな笑い声に、張っていた緊張がモロモロと崩れていった。多分話の内容から察するに、ナルトはこれから今の人物のところで厄介になるのだろう。
電話の向こうに広がる新しい世界を感じると、なんだかもう何も言えなくなってしまった。
まったく、一体自分は何を言おうとしていたのだ。ほんの一瞬でも、彼を繋ぎ留めようとする言葉を言おうとしてしまっていたのが恐ろしい。
彼を待ち受けている、あたたかな空気。独り住まいのここにはない賑やかで楽しげな雰囲気に、なんだか胸が締め付けられた。
ああ、こいつは本当に、向こうに望まれて行くんだ。
ざっくばらんだけれども底の部分では確かな優しさが感じられた電話の声に、彼が来るのを心待ちにしている人達を想像した。サスケの知らない、当たり前の幸福に包まれていた頃のナルトを見てきている人達。亡くなった彼の両親の事もよく知っているという彼等は、きっと親代わりのような気持ちでナルトを助けてくれるだろう。心から彼の事を思って、陰日向で力になってくれるだろう。
そんな場所に行こうとしている彼を、どうして止められるだろうと思った。
彼の幸せに繋がるもの、そのどれひとつも与えられやしないくせに、それでも自分の元から離れないで欲しいだなんて。
そんな身勝手な望み、言っていい筈がない。

「――合格、おめでとう。よかったな」

凝固していた息をようやく吐き出せたかのように告げると、我に返ったようなナルトがこちらを向いた。先程までの迫る青が退いて、今は力の抜けた表情になっている。
気持ちよく日に焼けた頬を、なだらかな弧を描く眉を見た。少し、痩せただろうか?僅かに削がれた印象は、なんだか彼を前よりも男っぽい顔付きにしているようだ。

「条件もかなりいいんだって?これまで待った甲斐があったじゃねえか」
「うん、……ありがと」
「北海道、どうだった」
「んー、なんか思ってたよりも暑かった。道がやたら長くて、家がでかい」
「そんだけかよ」
「えーと、あ、あと、牛の目はリアルすぎてちょっと怖い」

とんちんかんな感想に「なんだそりゃ」と少し笑うと、向こうからも微かに笑った気配がした。
でも牛乳はすごく濃くてうまかったってば、と言った彼に、「そりゃ、よかったじゃねえか」と伝える。
ニコリと笑ってから再びしゃがみこんで手を動かしだしたナルトを見て、サスケも「やっぱ、オレもやる」と体を起こした。じじじ、とネジが引っかかったような音がどこかでしたかと思うと、鳴き止んでいたセミ達が遠くでまた騒ぎだす。
「オマエの方は?ガッコの友達と、楽しんでこれた?」
大きな手で掬い上げるように、どんどん雑草を毟っていきながら、ナルトがふと尋ねてきた。学校の?とちょっと首を傾げると、「ほら、このあいだ会った。ちょっと髪の長い」とナルトが言う。

「あー…ま、それなりに。あの日は先輩を紹介してもらうために行っただけだし」
「そうだったんだ?」
「ああ。なんか曲者っぽい人だったけどな。それでもまあ、信頼はできそうなタイプだったか」
「へえ。オマエがそう言うんなら、かなりデキル人なんじゃねえの?」
「まあな。連絡先も教えてもらえたし、この先も色々相談できそうな感じだった」

相談?オマエが?
そう言ってちょっとくつくつと揺れた肩に、「なんだよ、俺だってたまには誰かに教えを請いたい時だってあンだよ」と口を尖らせた。少し先をいく後ろ姿が「はいはい、そーですよね」と流すようにあしらう。
まーでも、滅多にない事だってばよ、と付け足された言葉に、反論できないまま鼻を鳴らした。確かに、人に相談しなければならないほど、自分は何かに迷うことは殆どない。この前までの煩悶は、特殊過ぎるケースだ。
そのまましばらく、お互い黙ったままの時間が過ぎた。
休む事なく作業を続ける背中を見ると、汗ばんでところどころ色が変わりだしているTシャツが、長い腕が伸ばされる度に、背中にうっすらと張り付いては剥がれている。
少しずつだけれど確実に進んでいく作業に、惜しいようなホッとするような、奇妙な感慨を抱いた。
もうすぐ終わる。……もうすぐ、終わる。
きっともう、ふたりでこうして話す事もないのだろうと遠く思った。同じ方を向いて、同じ景色を見て。 
そんな呆れるほどに単純な事が、こんなにも貴重に感じられる日が来るとは思わなかった。こんな心地いい無言を、共有できる事ももうないのだろう。いつか現れる他の誰かと共有できたとしても、ナルトと作れるこの空気は、もう二度と味わえない。兄といた時のあの親密さが他の誰かでは成し得ないのと同じように、ナルトの代わりとなる人間も絶対に見つからない。
低く伸びて聴こえるエンジン音に、ふと顎を上げる。
濃い青の空に見えたのは、白のクレヨンでまっすぐに引いたような飛行機雲がするすると引かれていくところだった。鮮やかな太陽が目の端を射す。時折首筋を撫でる風はどこまでも軽やかで、この間の重たい嵐が嘘のようだ。

「最初にさあ、管理人室で、初めてお前と喋った時」

ふいに投げかけられた話題に顔を上げると、無心に手元を見る横顔が、唐突に言った。
すんげえ色男がありえない位感じ悪くて、オレってば絶対に、コイツとは仲良くできねえって思ったってば。
取った草を掻き集め、両手が汚れるのも厭わずにそれらをまとめてゴミ袋に押し込んだナルトを見届けてから、サスケも再び下を向く。
「ああ――俺も。こんな非常識でいい加減そうな奴、絶対に信用できねえって思った」
そう告げると、再びしゃがみこもうとした彼が「うわ、ひっでえ」と小さく呟いた。
「大体が、ノックの仕方からしてなってなかったからな」と皮肉ると、「ああ、まあね。あれ全力でやってやったかんな」と向こうもニヤリとする。
「だって、なかなか出てくんなかったからさ」
「馬鹿か。あんな力任せにドカドカ扉を叩かれて、そう気分よくすぐにハイハイと出られるか」
なるほど、それもそっか。納得したらしい彼は、再びせっせと手を動かし始めた。一度経験しているせいだろうか、すっかり動きが慣れて、サスケよりも随分と作業の要領がいい。
トライアウトの前に散髪にでも行ったのだろうか、普段よりちょっと短くなった髪が汗で先を固めていた。降り注ぐ夏の光が、うつむいた金髪の上で踊っている。初めて彼を見たとき、この髪と目が生まれつきのものだとは容易に信じられなくて、最初管理人室にやってきた彼に対して随分と酷い応酬をしてしまったものだった。後日カカシから彼のルーツを聞かされて、悪い事を言ってしまったという決まりの悪さと同時に、鮮やかな驚きに包まれたのを思い出す。
信じられない程明るく澄んだ、青と金。
本当に本物なのだとしたら、ちょっと、感動モノじゃないかと思ったのだ。

「――あの、さ」

ぼんやりと古い記憶を蘇らせていると、意を決したかのようにナルトが口を開いた。
いつの間にか作業は端にまで到達しており、最後の草を事も無げに引き抜いた彼が、ゆっくりと立ち上がる。
ゴミ袋に草を押し込んでその口を縛り上げるナルトに「なんだ?」と答えながら、サスケは精根尽き果てたといったようにまっさらになった土に腰をおろした。手にはめていた軍手をするりと外し、手のひらを広げる。 
泥だらけになった軍手の中は、土こそ付いていないが汗でベタベタだ。湿った指の間を通り抜けていく、草の匂いで満ちた外気が気持ちいい。
「もう一回だけ、訊いてもいい?」
前に立ち、決意に満ちた口調でそんな風に尋ねてくる彼に、静かに視線を上げた。
「あの子と交番に現れた時、オマエ、すごい汗だくだったって。かなり大変だったんじゃねえかって、あのおまわりさんが言ってた。それに、電話の事も」
「……」
「それってば、なんで?なんでオレなんかのために、そんなにしてくれたの?」
まっすぐに見下ろしてくる視線を受け止めながら、サスケはそっと奥歯を結んだ。ああ、この色、やっぱ綺麗だ。どこまでも真剣な様子の青い瞳に頭の片隅でそんな事を思いながら、言うべき言葉を探す。
大きな影にすっぽりと包まれたまま、広い肩を、つくられた輪郭を目でたどった。
彼が向かう新しい世界。そこはきっとこことは違って、可能性で溢れているだろう。さっきの短い電話からでも、向こう側の景色が明るく広がっているのがありありと感じられた。透明な優しさに満ちた心で彼を慈しんでくれる人たちが、向こうでこいつを待っている。
この狭い世界から、彼が出てくるのを待っている。

「――俺も、見てたからな」

喉が揺れないよう心を砕きながらも、少しうつむいたままサスケは静かにそう言った。
この二年間、お前が頑張ってきたのを、見てたから。
見てるって前に、約束したから。
「何も知らない奴らにそれを無にされんのが、気に食わなかった。……ただ、それだけだ」
その言葉に、ナルトの顔がくしゃりと歪んだ。嬉しさと切なさが半々になったような、奇妙な笑顔だ。
――そっか、と息をはくように言ったナルトはしゃがんだままのサスケに気が付くと、ちょっと自分の土で汚れた手のひらを確かめてから、まっしろなままのサスケの手を見た。苦く笑いながらも「自分で立てる?」と訊いてくるナルトに、「当たり前だ」と鼻を鳴らす。
そうは言ったものの力を込めた足は思った以上に疲労困憊で、サスケはよろけてしまわないよう慎重に立ち上がった。伸ばした腰が鈍く痛む。それでも少し心配げに揺れている視線を感じると、背中がしゃんとした。
きっともう、本当にこれが最後だ。
終わりくらい、格好つけたっていいだろう。

「次に住むところではもっと、丁寧なノックの仕方をしろよ。ちゃんと、すぐに開けてもらえるようにな」

向かい合った彼に餞別のようにそう言うと、明るすぎる程の日差しの中、素直な金の髪が眩しく光を弾いた。
空を溶かした双眸が、ほんの少し滲む。
太陽の恩恵をたっぷりと浴びたその顔はしかし、最後に、はればれとした笑顔を浮かべてみせた。色のない唇がゆっくりと動くその様を、丁寧に心に刻み込む。


「もうドアは開けてもらえたから、いいってばよ。――ありがとな、サスケ」


七月某日。
その日、気象庁から正式に、関東一円に向けて梅雨明け宣言が出された。
雨の季節が終わり、新しい季節が始まる。
ようやく名実共に、夏がやってきたのだ。




『珍しいわね、あんたからかけてくるなんて。どうしたの?』
買い出しに出る前に掛けた着信履歴を見たのだろう、帰り道になって折り返されてきた電話に出ると、初っ端から母親は不思議がるような声を出した。
受話器の向こうでガタガタとあちこちを開け閉めする音がする。向こうも買い物に出ていたと言っていたから、多分冷蔵庫や戸棚に物を仕舞いながら喋っているのだろう。
熱せられた路面を行く靴先に目を落としながら、サスケは片手にぶら下げた重い荷物をちょっと揺すり上げた。左手に引っ掛けたレジ袋がガサガサ鳴る。中身は大きな水のペットボトルが4本だ。重みでくい込む指先が、白く色を変えながら冷たく痺れる。
「いや、別に。まあ、たまには」
『ふぅん、珍しいこともあるもんね。雹でも降ってくるかしら』
微妙に練り込まれた嫌味を舌打ちでいなして、サスケはちょっと言いにくい本題へと向かった。「あのさ、仏間にある兄さんの写真。あれ、こっちにも送ってくんない?」と極力素っ気なく頼む。
『写真?イタチの?』
「そう」
『でもそっち行く時に持ってくかって訊いたら、写真なんかに頼らなくてもイタチの顔はいつだって思い出せるから、要らないって言ったのはあんたでしょ』
うるさかった物音がぴたりと止んで、ちょっと質すような声になった母親の言葉に、二年前のやり取りを思い出した。おっしゃる通り。引越しの荷造りをしている際、「形見の時計もあるし、今更写真なんて要らねえよ」と突っぱねたのは、他でもない自分自身だ。
『――何かあった?』
急に物音が止まって、静かにこちらを測るような声になった母親の目敏さにそっと舌打ちした。兄の写真を送って欲しいというただこれだけで、母親というのはどうしてこんなすぐに異変を察知するのか。
「……なんもねえよ」
全神経を総動員して、普段通りの声を作り上げた。
何もない。何もないけれど、なんとなく兄の気配を近くに感じたくなっただけだ。面影を、目に見える形で傍に置いておきたくなっただけだ。淋しいわけでも不安なわけでもない。
「ほら、兄さんの時計も今はもうないし。深い意味なんてないって」
『……そう?ならいいんだけど』
ようやく納得したような母親の声に、内心でホッと息をつく。
わかった、じゃあ週明けにでも送るわね、と言いながら、再び向こうでパタパタという物音が再開した。どうやらスリッパが板間を叩く音に聴こえる。何事にも手際のいい母だ、もしかしたら早速仏間の方へ向かっているのかもしれない。
『ね、そういえばナルト君は?元気にしてる?』
一転、明るく尋ねてきた母親に、どう返事をすべきか逡巡した。迷いつつも何もかも誤魔化すのはさすがに気が咎めて、仕方なく「まあ、元気なんじゃねえの」とどっちつかずな言い方になる。
『なによまたそんな言い方して。浴衣はもう着た?そっちのお祭りっていつなの?』
「明日。けど、浴衣なんか着れねえよ」
『どうして?』
「町内会の役で、明日は祭りの手伝いを言われてて。午前中からテント設営」
『えーっ、じゃあナルト君とも一緒に行けないってこと?』
大袈裟なほどがっかりした様子の母親に、ついため息が出た。どうやらまだ今回のカカシ通信は母親の元までいっていないらしい。どうしてこういう時に限ってすぐに密告しないのか。
『あのね、母さん考えたんだけど』
ふふ、と楽しげな含み笑いを忍ばせながら、母親は素晴らしい思い付きを披露するかのように少し声をひそめた。電波に乗って、やわらかで少し甘い息遣いがこちらに伝わってくるようだ。
『やっぱりね、母さんナルト君にも浴衣着てもらいたいから、来年の夏までにナルト君の分も作っちゃおうかなあって。サスケだけじゃ淋しいし、どうせならふたり並んでる方が絶対素敵だと思うのよ』
だからお正月にもまたうちに誘いなさい、ナルト君の体のサイズ測りたいから。
華やいだ声でそんな事を告げる母親に、頭が痛くなった。どう言って説明するべきだろう。いずれバレる事なのだろうから、いっそ今ハッキリあいつとはもう会えないという事を伝えた方がいいだろうか。
『サスケが言うように、確かにイタチのはナルト君にはちょっと落ち着き過ぎてるものね。どんな色味がいいかしら、ナルト君て好きな色とかある?サスケ知ってる?』
「あのさ母さん、実は――」
言いにくい口をどうにか開きかけたところで突然噤まれた言葉に、電話の向こうで『え?なに?』と続きを催促する声がした。
アパート前で佇むすらりとしたシルエット。おろした赤毛が、強い日差しに映えている。
「ゴメン母さん。またかけ直す」
そう言って回線を切った携帯電話をポケットに滑り込ませると、サスケはちょっと覚悟するように息を吸ってから、自分を待っていたのであろう彼女をまっすぐに見た。暑い中太陽が眩しかったのだろう、色白な細面は日差しを避けるように少し下を見ていたが、視線に気がついたのか、こちらが声を掛ける前にぱっと顔を上げる。
「よかった、帰ってきた。久しぶりだな、サスケ!」
明るく言う香燐にサスケは、「ああ」とも「おお」ともつかない、捉えどころのない挨拶を返した。今日は眼鏡なし。大きめのカゴバッグを持つ指先には、夏らしい果物のような鮮やかな色がのっている。
「ずっと待ってたのか?」
ほんのり身構えながら尋ねると、ノースリーブのシャツから出た肩をちょっとあげた香燐は「いや、今着たとこ。部屋行ったけどいなかったし電話したら話中だったけど、とりあえずちょっと待っててみようかと思って」とあっけらかんと答えた。
アスファルトから照り返される太陽光線が熱い。来訪の意図が読みきれなくて、注意深く「何か用?」と尋ねると、当然のような顔をした香燐に「なにそれ、用がなきゃダメなの?うちらまだ別れてねーのに」と言われてしまい、じわじわと頭が痛くなってきた。
そうか、やっぱり別れてないのか……なんだか色々ありすぎたせいか、自分の事だというのにまるで現実味がない。
「どう?隣の部屋、入居者決まった?」
ニコニコとそう訊かれると、急に口の中に苦いものが広がっていくようだった。「いや、まだ決まってない」と小さく答えるサスケに、「そっか。じゃあそろそろお願いしてもいいかな」と赤みの強い瞳が細くなる。
「何を?」
「内覧。持ってける家具とかも、中見てからじゃないと決めらんないし」
悪びれない様子でほほ笑まれると、今度こそ本気で頭痛がした。「……まだ早いだろ」と唸ると、「え、だってもう七月も中旬だし。待つのは今月いっぱいだけだって言っただろ」と言い返される。
「うち一人暮らしって初めてでさ。実はそっちもすげー楽しみで」
「待て。まだわかんねえって」
「あいつ。あのナルトってやつ、今度ここ出てくんだって?」
いきなり飛び出した名前に内心で驚いていると、そんなサスケを見透かすかのように切れ長のまなじりが少し絞られた。なんでそれを、と尋ねる前に、「シカマルから聞き出した」とネタばらしされる。
「だからもう、うちの入居も確実だなって。越してくる準備もあるから、一度中見せてもらっておこうかと思ってさ」
片眉をあげそう宣言した香燐は、今度は本気で狼狽えるサスケに、にまりと口の両端を上げた。シカマルの奴め、稀代のめんどくさがりのクセになんで女相手になると妙に弱腰になるんだ。あの勝気そうな彼女に教育されているのだろうか。
「……なんであいつが出てくのとお前が入居すんのが繋がるんだ」
「えっ、だって二部屋空くってことだろ?たとえひとり希望者きたとしても、もう一部屋空いてんじゃん」
それともこんなに決まらなかったものが突然一気に二部屋とも決まると思うの?と畳み掛けられると、ぐっと返事に詰まった。言い返せないサスケを見て、香燐が「だからほら、繰り上げ当選的な?」とからりと笑う。
強引に背中を押されるようにしてアパートのエントランスに入ると、日の入らないそこは幾分落ち着いた空気が流れていた。どうしたものかと悩んでいるうちに、後ろで「サスケの部屋って二階だよな?折角だしそっちも入ってみたいなあ」などと言い出す弾む声が聞こえる。
自宅に上げるくらいならと仕方なく管理人室の部屋の鍵を開けると、休業日で締め切られたままになっていた小部屋から、閉じ込められていた湿気混じりの生ぬるい空気がむわっと流れ出てきた。小窓とドアを開け放って、中の空気を入れ替える。
続いて入ってきた香燐はまた一通り中を見回すと、次の動きをどうするべきか考えあぐねているサスケに向かい「ほら、鍵、鍵」と催促してきた。仕方なく壁に備え付けられた鍵を収納している薄型のボックスに向かい、付いている南京錠を外し扉を開く。
久しぶりに見たその中には、管理人用のアパート全室分の鍵が行儀よく並んでいた。悩みつつ、空き部屋となっている二○九号室の鍵をじっと見詰める。保管用のためほとんど使われていないだけあって、一本ずつフックに掛けられた鍵はどれもぴかぴかで、新品同様の佇まいだ。
「それがサスケん家の隣りの鍵?」
黒い瞳が見詰めている一点に気が付いたのだろう、どうにも手に取る気になれなくて押し黙ったままキーボックスの前で動けなくなっているサスケの横から、するりと白い手が伸びた。
止める間もなく、『二〇九』のラベルが貼られている銀色の鍵がその手に摘まれる。

「あ、」
「あ?」
「……いや、なんでもない」

思わず出してしまった手を気まずく誤魔化しながら下ろしたサスケに、香燐はにまりと赤い唇で愉快そうな曲線を描いた。ぴらぴらと指先で銀色を閃かせ、「これがどうかした?」と見せびらかすようにしながら訊いてくる。
「なに?やっぱウチは住んじゃダメなのかよ?」
「ダメっつーか……」
「なら前言った事やらしてくれるってーの?」
甘えたまなざしで小首を傾げ見上げてきた香燐は、「ふふ」と笑うとわざとらしく舌でそっと赤い唇を濡らした。舌先の桃色ばかりが艶然とした仕草の中異様に幼く見え、妙な背徳感が漂う。
少しずつ間合いを詰めてくる彼女に警戒しつつ、このまま鍵を渡して、香燐が隣人になるのを想像してみた。
自分の事を好きじゃなくてもいいと、驚くべき潔さでハッキリと断言していた香燐。本当に彼女はそれでいいのだろうか。
ふと、キスを避けられて泣きそうになっていた横顔を思い出した。興味なんてまるきりないくせに、わざわざサスケの好みに合わせてアイスホッケーの試合を見に行ったりシカマルとのダブルデートを仕組んだり。
あの涙の浮いたまなじりや食いしばった唇は、嘘だとは思えなかった。あれらは全部、本当にあったことだ。
そんな奴が、『嫌がるのを無理矢理にってのも結構燃えそう』なんて、言うものだろうか。

「……なあ。お前、本当に本気でそんな事したいと思ってんのか?」

ふと浮上した問いかけに、接近してきていた香燐の動きがぴたりと止まった。近くで見ると、実はすごく彼女の肌が綺麗なのに気がつく。どんな仕掛けになっているのだろう、白い肌の上に一枚うすく輝くベールが乗ってるみたいだ。本気に決まってんだろ、と低く擦れたような声で、香燐が囁く。
「……なんでそんな事訊いてくるんだよ」
「いや、だってお前、このあいだ駅で泣きそうになってたの。あれ、嘘じゃなかっただろ?なんでわざわざ、こんな俺に嫌がられるような事するんだ?」
つむじを見下ろせるほど近くにまで接近してきていた香燐の目をまっすぐに覗き込むと、つい先ほど艶めいた仕草で濡らされていた唇が、子供のようにぎゅっと一文字になった。
ぱさりとひとつ、黒々とした長い睫毛が伏せられる。

「――帰る」
「は?」
「今日は、もう帰る」

急にうつむかれた影からちょっと湿った呟きが聴こえた。訳がわからないでいる内に、そっと離れた香燐がいつの間にか手放して脇に置いてあった籠バッグを腕に引っ掛ける。
え……なんで、いきなり?
無言のまま開けっぱなしのドアから出て行った香燐に唖然としていたサスケだったが、キーボックスの中にあるべき鍵が一本欠けたままなのに気が付くと、慌てて外に出て表の路地で目を凝らした。華奢な後ろ姿を探してみるも、それらしき影はおろか陽炎ひとつ立っていない。
しまった――大切な、管理用の鍵なのに。


「……みーちゃった」


背後から突然掛けられた含み笑いの声に、ぞぞぞと背筋に悪寒が走った。
おそるおそる振り返ると、こじんまりとしたシルエット。この暑いのに、普段から愛用している大きなぼんぼりの付いた帽子と、ぞろりとした長衣のようなワンピースを身につけている。
「やれやれ、まったく兄弟揃って女泣かせな子達だねえ。そんな顔して中身はとんでもない鈍感男だなんて」
それでもまあ女の扱いは兄貴の方が上じゃな、と肩を上げる老婆に思わず片手で顔を覆った。どこに行く途中なのか、子供のように小さな手に捧げ持ったお盆には、涼しげな器に入ったみつ豆らしきものがみっつ並んでいる。
「チヨバア……」
「捨てられそうな女がわざと嫌がらせみたいな事する理由なんて、構って欲しいからに決まってるじゃろうが。しかもそれをご丁寧に、本人に確かめるとは。鈍いのもこうなると罪悪じゃのう」
梅干みたいなしわくちゃ顔で同情の欠片もなくそんな事を言うチヨバアを睨みつつも、サスケは内面で深くうなだれた。やっぱそうだったか。すぐに白黒ハッキリ付けようとしてしまう自分が恨めしい。
「じゃあ、どんな風にすれば正解だったんだよ」
口の中で呟くようにボソボソ歯切れ悪くこぼすと、それを聞いた老婆は垂れたまぶたの奥にある目をちょっと見開いた。馬鹿者ォ、それこそ自分で考えるべき事じゃろが。呆れたようにそう言う声が、耳に痛い。
「まあでもお前さんは少し、あの子を見習うべきじゃな」
唐突に言われた進言に「はァ?」としかめつらになると、頬のシワを深くしたチヨバアが「あのくらいなりふり構わず、好いた人を引き留めようとする気概が欲しいとこだの」とニタリとした。言われた言葉の意味がだんだんと飲み込めてくるにつれて、かあっと熱い血が上ってくるのを感じる。
多分、というか間違いなく、ナルトの事を指しているのだろう。まったく、ここに住む人間はどうして揃いも揃って、自分とナルトをくっつけたがるのか。
「どうせお前さんの事だから、また格好付けた別れ方でもして良しとしてるんじゃろ」
「ほっとけ。余計なお世話だ」
「昔は兄貴がどっか行く度に靴隠したりしつこくまとわりついたりして散々困らせてたくせに。なんで今それをやらんのじゃ?」
「なっ…!」
披露されたまさかのエピソードに驚きを隠せずにいると、梅干顔がニンマリと、「前にイタチさんから聞いちゃった」と言ってギャハハと笑った。思わずあんぐりと開いてしまった口に、チヨバアは実に気分良さそうだ。
「――そんなのまだ本当にガキだった頃の話だ!だいたいが兄さん相手ならまだしも、あいつにそんな事出来るわけねえだろが」
羞恥に拳を震わせながら掠れた叫びをあげると、「なんでイタチさんになら出来て、ナルトには出来ないんじゃ?」とカクリと細い首が横に倒された。頭の大きさと首の細さが釣り合わなくて、見ていてなんだか緊張する。
「なんでって」
「そりゃあまあ、確かに兄弟だったら安心して我が儘も言えるわな。好きで当然だし、どれだけ喧嘩しようと何があろうと繋がりが切れる事はないもの。対するナルトは血の繋がりも何もない、所詮は赤の他人。心なんて見えもしないものを、ただ信じるしかないものなあ」
すらっとそんな事を言い切ってほほえむチヨバアに「何が言いたい」と這うような声で低く言い返すと、牽制するようなサスケに動じる事もなく萎びた口先が「別に~?ただワシは、それだからこそ『他人』を好きになる事に、意味があると思うだけじゃよ」などと嘯いた。
古い外国映画に出てくる女優のように細い片眉がくいっとしなって、シワの寄る口許がにっと上がる。
「これからナルトの所でカカシと三人でお八つにするんじゃが。お前も来るか?まだ荷造りの手伝いも残ってるし」
もののついでのように、盆に載せたみつ豆をひけらかしながら誘ってきたチヨバアに、はっと我に返ったサスケはチロリと一瞬だけ視線を落とすと、すぐにふいっと後ろを向いた。「俺はいい」と言い捨てて、二階へ続く階段を目指しちんまりとした白頭の脇を通り抜ける。
そんなサスケを観察するようにじっと動かないでいたチヨバアであったが、仏頂面のサスケが階段を半分程一気に上がったところで、急に思い出したかのように「あ、」と呟いた。
あ?と眉間にシワを寄せ見下ろしてきたサスケに、「そうじゃ、お前さんに訊きたい事があったんじゃ」とシミの浮き出た頬がゆるりと上を仰いだ。
「ここのアパートは、外国人でも入居可能かの?」
いきなりの質問にちょっと面食らったけれども、しばし黙りこくったサスケは管理規約を頭の中で浚った。「可能の筈だけど」と短く答えてから、それがどうした、と慎重に確かめる。
「いや、孫の知り合いなんじゃが、ここの写真を見ていたく気に入ったらしくてな。空き部屋があるなら是非住みたいと言ってるらしいんじゃよ」
「ここの写真を見て?」
随分奇特な奴もいるもんだなと、自分の管理物件であることも棚に上げてサスケは思った。はっきりとは覚えていないが、確かチヨバアの孫という人物はそこそこ有名な画家だか彫刻家だかで、海外を拠点にして芸術活動を行っているのだと以前聞いたことがある。
その知り合いという事は、やはり芸術家仲間なのだろうか。いずれにせよこんな古いアパートのどの部分が、そんな芸術家の琴線を揺らしたのだろう。
「サソリが言うには、日本マニアで言葉もちゃんと喋れるらしいが。ナルトが出て行った後、102号室に先約がなければそやつが入ってもいいかのう?」
「まあ……チヨバアの、紹介なら」
ひとまずそう言ってから再び階段を踏みしめたサスケであったが、ふと先程から妙に引っかかっていた会話の冒頭で聞いた言葉を思い出し、足を止めた。
『兄弟揃って女泣かせ』?
『女の扱いは兄貴の方が上』?

「――おい、」

どうやって移動しているのか、相変わらずするすると妖怪じみた動きでナルトの部屋の方へと行きかけていたチヨバアに声を掛けると、「ん?」とぼんぼり頭が振り返った。「さっき女の扱いは兄貴の方が、とか言ってたな?」と下を覗くと、「そうだっけ?」とすっとぼけた答えが返ってくる。
「そんな事言ったかのぅ」
「言っただろ」
「覚えとらんなあ」
「そんな事はどうでもいい。そうじゃなくて兄さんてここにいた時、彼女いたのか?いや、彼女っていうか……恋人が、いたのか?」
神妙な面持ちで尋ねると、「さー、どうだったかのう」とシワ面が更にしわくちゃになり、小さな瞳はその奥にすっかり隠された。「近頃すっかり昔の事を思い出せなくなってしまって。こりゃとうとう本気でボケてきたかのう」などと言いながら煙に巻こうとする後ろ姿に、そうはいくかと慌てて声をかける。
「嘘だ、あんたがボケる日なんて永遠に来るわけねえだろが!」
「おやまあ、そんなに若く見えるのかのぅ。これでも七十代なんじゃが」
茶目っ気たっぷりのウインク(…だったと思うが肝心の目は垂れたまぶたでほぼ隠されていたので、実際のところはどうかわからない)をばちんと残して、ギャハギャハという高笑いと共に小さな背中は廊下の奥に消えていった。
あっけに取られたまま上を仰ぎ、自分の知らない兄の姿を、おぼろげに想像してみる。
階段を昇りきった先で、澄んだ夏空に欄干の影がくっきりと浮いているのが見えた。
沢山の手のひらに擦られて飴色になった木製の手すりをそっと撫でて、サスケは中途半端な形で止まっていた足を、再び踏み出した。