第二十話

(ええと、テマリさんの生チョコは買っただろ、チヨばあのバターサンドにカカシ先生のじゃがポックルに、あと……)
ひっきりなしにアナウンスが流れる白い構内を、大股で足早に突っ切った。飛び去っていく轟音が近い。外国人のツアー客だろうか、国内線の空港なのにざわめきの中には時折異国の言葉が飛び交う。行き交う人達の表情は皆それぞれだ。子供みたいに旅の高揚感に包まれている人もいれば、完全にワーカホリックな様子の隈の濃い顔もある。
よし、頼まれたものは全部買えたなと確かめながら、ナルトは肩に下げた大きなスポーツバッグをかけ直した。トライアウトのために北海道へ行ってきますと伝えた途端、目を輝かせてあれこれオーダーしてきた面々の顔が浮かぶ。
まだ合格すると決まっていた訳でもないのに、こういう時って普通もう少し遠慮するというか、相手の負担とか考えたりするものではないだろうか。まったく、揃いも揃って誰ひとりとして、もし不合格だったら気まずかろうなどという気遣いを、微塵も持っていない所が凄い。
近未来的なデザインの通路を闊歩して、モノレールの改札を通り抜ける。ホームに上がると、ようやくお出ましとなる濃い青空。出発した時には延々と灰色が広がる梅雨空だったのに、いつの間にかこちらもすっかり夏の景色になったらしい。
強い日差しに手をかざした拍子に、不意に鼻先を潮の気配が掠めた。
生々しくて、とろりと重い――都会の海の匂いだ。

     ☆

ほい、と軽い口調で差し出した箱を見ると、榛色の瞳は現金にも急にキラキラと輝きを増した。
え、ホントに?ホントに買ってきてくれたの?
何度も確かめつつも早くも包装紙を開けようとしている手は、細かい細工物を扱うには都合の良さそうな、細くて長い指をしている。
「うわああ嬉しい、これすっごい美味しいの!大好きなのよー!」
「……喜んで貰えたのは嬉しいんだけど、それスゲー重かったってばよ」
頼まれたものの中では、ダントツ。
そう言ったナルトにしかし申し訳なさそうな顔をするわけでもなく、テンテンは心底嬉しそうな顔で「ありがとう!」と笑った。蓋を開けた化粧箱の中には、大きなオレンジ色の水菓子が整然と並んでいる。
「こっちに着くのは夜だって聞いてたのに。予定が早まったの?」
急に現れたからびっくりしたよと言うテンテンに、ナルトは「ああ、それはさ」と笑いながらカウンターに寄りかかった。
「新千歳からだと夜の便しか取れなかったんだけど、他の空港からだともっと早い時間のが空いてて。お世話になってる人が丁度そっちに出掛ける用があるからって、ついでに送ってくれたんだってば」
へー、とちょっと目をしばたいたテンテンは、「そうなんだ?私北海道に空港って、ひとつしかないと思ってた」と感心したように言った。それは自分も同じくだ。物知り顔で説明してはいるけれど、実はナルト自身それを知ったのはごく最近で。勝手に新千歳が道内唯一の空港だと思い込んでいたところに、呆れ顔の長門に「北海道には十以上の空港があるんだよ」と教えられたのは昨夜の出来事だ。
「あっ、そーだそーだ、これいくらだった?」
頼んで買ってきて貰ったんだしお金払うよ、と言ってスタッフルームの鍵を手に後ろを向こうとしたテンテンに、ナルトは「ああ、そんなんはいいってばよ」と急いで告げた。
「お土産だし、それにコレのお礼もしてなかったから」
言いながらちょっと体を捻ってスポーツバッグを前に出すと、ファスナーの金具にぶら下がる銀の鳥を誇らしげに揺らした。勇壮な翼の猛禽を象ったそれの瞳には、濃い暗赤色の石が嵌め込まれている。
「効いた?」と訊いてきたテンテンに、「ん、バッチリ」とニヤリと返した。そっかあ、よかったぁとニコニコする彼女は、今日もきちんと結い上げたお団子頭だ。
「それにしても、なんで鳥にしたの?しかも強くて速そうなのがいいなんて」
まあとりあえず『タカ』で作ってみたけどさあ、と改めて仕上がりを確かめるかのようにその銀細工を眺めたテンテンは首を傾げると、「かっこいいけど、あんまりキミのイメージじゃないよね」とストレートに言った。
そりゃあそうだ。
はなから違う人を思って、頼んだのだから。
「ん?そ、そう?」
「うん、なんかおにーさんだったら『タカ』より『ハト』って感じ」
「……なんか随分とお気楽そうなイメージに聞こえるんだけど」
いいじゃん、ほら、自分に無いものに憧れるっつーかさ、と誤魔化し笑いを浮かべながらそう答えたナルトに、テンテンはなんとなく探るような視線で「ふうん」と呟いた。オレンジ色のゼリーを脇に寄せて、カウンターに肘をつく。
合格を祈ってお守り作ってあげるよと言われてすぐに考えたのは、彼を思い出すようなものがいいなという事だった。『鳥』がすぐに思い浮かんだのは、出会った頃落ちた鳥を介抱してやっていた彼の姿が、やけに印象的に残っているからかもしれない。
(サスケ、どうしてっかな)
優美な嘴をつんとさせた表情の鳥に、立ち姿の美しい彼を思い出した。実際、テンテンの作ってくれた『お守り』の効果は中々のものだ。
トライアウトの時はもちろん、その後勃発したまさかの騒動の時も。どれほど不安に揺れていても、静かにじっとこちらを見詰める柘榴色の瞳を前にすると、恥ずかしい姿は見せられないと思った。背中がしゃんと伸びた。彼の好きなところを数え上げたらきりがないけれども、離れてみるとどうしてこんなにも彼を望んだのかがよくわかる。
多分、あの折れるのを許さない、強いまなざしが欲しかったのだ――オレは、あんまり、強くないから。
(しっかしこんなんでこれだけ効果あるんなら、オレってばこの先ずっとひとりでも結構大丈夫なんじゃねーの?)
我ながら恥ずかしい事してんなァ、と少し呆れながらも、ナルトは後ろ頭をがりりと掻いた。憧れの君を象ったキーホルダーを、お守り代わりに持ち歩くだなんて。少女趣味もいいとこだ。ちょっと誰にも教えられない。
「――あ、そんでさ。例のやつ、どうなってる?」
恥ずかしい気持ちを切り替えるように尋ねると、再びもらったお土産を眺めてニヤニヤしていたテンテンははたと気が付いた様子で、「ごめん、それがまだなのよ」と眉をひそめた。
「あっちも今忙しいらしくて。来週には多分あがってくると思うんだけど」
「えっ、そうなの?」
ごめんねえ、結構無理言って急かしてるんだけどね、ともう一度申し訳無さそうに謝る彼女に、ナルトは落胆の色を隠せなかった。じゃあ、手渡しするのはもう難しいだろうか。出来たら最後にこれまでのお礼を兼ねて、直接渡したかったのだけれど。
(つーか、単に最後に顔を見に行く理由が欲しいだけだし。なーに言い訳探してんだか)
短く息をついて、ちょっと下を見た。情けない。いちいち理由を作らなくても、出て行く店子が大家に「お世話になりました」と言いに行くくらい、どこも変なところはないはずなのに。
改めて、最後に喋った時言われた、『うずまきさん』という距離のある呼び掛けが蘇る。たったひとことだけれども、アレは効いた。結構、後を引く辛さだ。
「どうしよっか、仕上がったらとりあえずまた連絡するけど、取りに来れそう?宅配で送る?」
思案げに確かめてきたテンテンに「んー…じゃあ、直接本人に送ってもらおっかな。オレってばもう日曜には向こうに行っちゃって、多分もう当分こっちには来ること無いし」と言うと、大きな瞳が更にぱちりと見開いた。「日曜って今度の日曜?じゃあホントに一瞬しかこっちにいないんじゃない!」という高い声が、丁度客足の切れた店内に響く。
「え、もうそのまま戻ってこないってこと?」
「まあ、そうなるかな?」
「そんな貴重な時間を使って、わざわざ来てくれたの?うわ、なんか本当にごめん。あたしがこんなゼリーなんて頼んじゃったから」
「や、別にそんな貴重っていうようなもんでもないってば」
それに最後にテンテンさんには会ってお礼言いたかったし、とレジカウンターの向こうで手を合わせるテンテンにへらりと笑うと、その言葉はどこか彼女に響いたのか大きな目がじんわりと細くなった。
ええー?何、そう?嬉しいこと言ってくれるねえ、などと照れながら、カウンターの下から宅配便の伝票を取り出す。
「わかった、じゃあ私から責任持って送っとくね。そしたらここに送り先の住所と、君の連絡先を書いてくれる?」
言われるがまま伝票にアパートの住所を記入していると、ふむふむと頷きながらそれを見守っていたテンテンが、「ふうん、**市ね」と何気なく呟いた。 
観察されながら文字を書かされるのが、なんだか酷くやりにくい。
「ね、そろそろ教えてくんない?その『うちはサスケ』って、一体何者なの?」
最後に丁寧に書き込んだ名前を見て、ふさふさとしたまつげが詰問するように上げられた。カウンターに乗せられた細い腕の先で、指先がトントンとリズムを刻んでいる。
投げられた問いの答えに(うっ)と詰まると、ナルトはしばらくしてから「……アパートの、管理人さん。というか、大家さんだってば」とぼそぼそ明かした。それを聞いたテンテンが、驚いたように「ええっ大家さん!」と目を開く。
「大家さんだったの?」
「うん」
「そんな人にこんな手間をかけたプレゼントを?」
「そう、……ダメ?」
「だって大家さんてどっかのオジサンさんとか、おじいちゃんでしょ?」
普通大家さんへのお礼でここまでする?そんなにお世話になってたの?
白いカウンターに頬杖を付きながら訝しむ目で見上げてきたテンテンに、ちょっとギクリとしながらも「へ?う、うん、まあ。オレ鍵無くしたりとか、結構色々やらかしてたから」とあわあわと言い訳した。
なんだ、あんまり君が頼むから私てっきり、と言いかけたテンテンは、つと顔をあげたナルトに気が付くと「アハハ」と笑いながら口元を抑える。
「いやいや、でも単に年上好みなだけという可能性も…」
「何ブツブツ言ってんだってば?」
考え込むテンテンを余所に送り伝票を書き上げたナルトは、書いた物を差し出しながら借りていたボールペンをカチリと鳴らした。
じゃあこれ、頼んますってばよ。
そう言うナルトの声に立ち戻ったかのように大きな瞳がぱちりとまたたき、「あ、はいはい」と書かれた文字を確かめる。
「おっ、新住所!これなんて読むの?」
「『とまこまい』だって。北海道の地名ってむっつかしいのが多くって」
「ふーん、いいねえ、北の大地!憧れちゃうな」
「いつか遊びに来なって。案内するってばよ」
気負う事なくそう言うと、下を向いていたお団子頭がぱっとあがって「ホント?いいの!?」と華やいだ声がした。にかっと笑って応えれば、「うわあ嬉しい!行くよ絶対!」とカウンターの向こう側で細い足が、パタパタと喜びの地団駄を踏む。
ふいにまた、あの何度もかかっていたゆるいテンポのラブソングが流れてきた。甘えた声で繰り返すサビを、口の中で繰り返す。やはり流行っていたのだろうか、何度もかかるせいですっかりメロディーを覚えてしまった。しかしここでこれを聴くのも、きっと今回が最後だろう。
「――この曲、」
「ん?」
「なんかこの、鼻声みたいな声の曲。ここ一、二ヶ月やたらよくかかってたってば」
なんとなく斜め上にあるスピーカーを見上げながら呟くようにそう言うと、同じように見上げたテンテンが「ああ、『ラブフール』?古いけど最近映画で使われたから、またリバイバルしてるよね」とさらりと曲名を告げた。すぐに曲名が出てくるところをみると、どうやら有名な曲だったらしい。
「なんかすごく甘ったるくてラブラブな感じの歌だよな、これってば」
何気なく呟くと、「は?何言ってんの、この曲ものすっごい失恋ソングじゃない」とはしゃいでいたテンテンが急に呆れたように言った。
ぽかんと口を開けたナルトに、「『騙してるだけでいいから私を愛して』って歌ってんのよ、これ」と肩をすくめて腰に手をあてる。
「え?両思いの歌じゃないの?」
「逆よ、逆。世の中甘ったるいラブソングよりも、失恋ソングの方が圧倒的に多いのよ」
「……なんかまったりとして明るいから、そんな風に聴こえなかったってば」
なんとなく申し訳ないような気分でそう言うと、やれやれといったようにテンテンが苦笑した。ま、何事も表面からだけじゃ、本当の気持ちなんてわかりゃしないって事ね。そんな風に言いながら、受け取った伝票をきちんと整え引き出しにしまう。
「では。ご注文の品は確実に、出来上がり次第お届けしておきますので」
にっこりしながらそう約束するテンテンに、ナルトは同じように親しみを込めた笑顔を返した。
頼んだものは目にすることができなかったけれど、仕事熱心な彼女の事だ。きっとこちらのオーダー通りのものを用意してくれるに違いない。
「元気でね、おにーさん……じゃなかった、うずまき君。ホントに、いつかまた会おうね」
そう言ってスッと挙げられた手をきょとんと見つめていると、ほらァ君も手を出して、とちょっと照れたような彼女に催促された。
そろそろと出した手のひらに、小さいけれど日々の仕事でしっかりとした力のある手が、パチンと音をたてて合わされる。
大きな音に少し驚いて手を引っ込めると、その様子にテンテンが「ふふ、」と鼻にシワを寄せた。
カウンターの上でオレンジ色のゼリーが、強い照明を受け新鮮な明るさで輝いて見えた。



ゆっくりと停止していく電車の揺れをドアに凭れたままやり過ごすと、止まった位置に見覚えのある人物が立っているのが見えた。気の優しそうな顔が、並んでいる人の列から頭一つ飛び出している――重吾だ。
驚いたように窓越しに指差すと、あっと気が付いたかのように向こうもこちらを見た。プシー、と空気が漏れるような音と共にドアが開き、急いでホームに降りる。
そんなナルトを見た重吾は嬉しげな驚きを込め、相好を崩しながら「うずまきさん!」と一歩前に出た。
「おかえりなさい、空港からですか?」
「うん、そうなんだけど……重吾さんこそなんでこんな時間に?早くないスか?」
「ああ、そうなんですよ。今日はオレちょっと用事があって」
どやどやと人が乗り降りしていく脇でちょっと立ち話していると、にこにこしていた重吾は「ああそうだ」と言ってちょっとかしこまり、「この度は合格おめでとうございます」とひとつお辞儀をした。
突然のあらたまった言葉に「はっ…ありがとございます!」とギクシャク返すと、その様子を横を通る乗客が不思議そうに見ていく。
「良かったですね、一時はどうなることかと」
「あぁー、ホント、その節は重吾さんにも色々訊いてしまって。スミマセンでした」
後ろ頭を掻きながらそう苦く笑うと、「いえいえ、オレは何も」と気の優しい重吾は慌てたように謙遜した。
「お礼を言うのならサスケさんに。オレはホント、ただ見てるばかりだったので」
そんな返しに、「はい?」と思わず聞き返す。
「サスケ?」
「ええ」
「なんで、サスケ?」
「あれ、聞いてないんですか?」
「聞いてないって――何を?」
噛み合わない会話に首を傾げあった時、プルルルル、とホームに発車のベルが鳴り響いた。しまった、遅れる遅れる、と急いで電車に乗り込む重吾を、ポカンとしたまま停止線の内側から見上げる。
「ごめんなさい、ちょっと今日はこれ乗り過ごすとマズイので」
「え?あ、……え?」
「本当、決まって良かったです。うずまきさんが居なくなっちゃうのは淋しいですけどね」
じゃあまた、と重吾が言い終えないうちに、電車のドアは問答無用だというようにぴたりと閉められた。だんだんと離れていく窓の内側で、小さく重吾が会釈する。

(……どういう事だってばよ?)

電車が完全に見えなくなっても立ち尽くしたまま、ナルトは要領を得ない頭の中でぐるぐると重吾の言葉を再生した。お礼を言うならば、サスケに?
昨日チームの方から説明を受けた時にはただ「警察から連絡がきて、疑いが晴れたので」としか言われなかったし、昨日の朝の時点ではカカシから重吾に訊いてもらった時もどの子か解らないという話だった。その後もアパートの方では何の動きもないようだったから勝手に自首だと思っていたけれど、そうではなかったのだろうか?
だけどカカシには、あの画像で巻き起こされたトラブルの事は、サスケに言わないようにと頼んだおいたはずだ。昨夜カカシと電話で話した時も「俺からは言ってないよ」と言っていたのに。
首を傾げながらもすっかり通い慣れた駅を出て少し行くと、お世辞にも手入れが行き届いているとは言えないであろう薄汚れた白い壁が見えてきた。そこだけはマメに手入れされているのだろうか、真正面に突き出した、真っ赤なランプだけが妙につやつやだ。
「こんちわー……」
一見無人の室内に頼りない声で呼びかけると、奥の方から「 ぅあーい」というあくび混じりのような返事が戻ってきた。すこし緊張しながら、のんびりした足音を待つ。
「はいはいどーしました……っておお、君かあ」
伸びた髪が乱れるのもそのままに、だるそうな風情で頭を掻きながら奥から顔を出した人物に、ナルトはきちんと足を揃えて「ども」と頭を下げた。もうひとりの方は今日はいないのだろうか。小さな交番の中には、一人分の気配しかない。
「なに、もしかしてわざわざ挨拶しに来てくれたの?」
「はい。今回は本当に、ありがとうございました」
ふかぶかとお辞儀をすると、長髪の警官は「よせって、いいよ」と照れたようにはにかんだ。「どう?問題解決した?」とのんびりした様子で訊いてきた警官に、「おかげさまで」と破顔する。
するとそれを見た彼も「そうか、よかったな」と嬉しそうに頬を緩めた。丁度昼食をとっている時に訪ねてしまったのだろうか、口の端に細い楊枝がピンと咥えられている。
「すみません、ゴハン中でした?」
「ん?ああ、いいっていいって。もう食べ終わったとこだし」
丁度今お茶を淹れようとしてたとこなんだけど、折角だから君も飲んでく?と訊かれ、ナルトは「あ、じゃあ、いただきます」と戸惑いつつも頷いた。にこりとした警官が、ゆらゆらと肩を揺らしながら奥に戻っていく。
いただきますとは言ったものの、どうもこの独特の空間にいるのは気分的に落ち着かなかった。なんだかちょっと、トラウマになってるみたいだ。
「あ、ごめんごめん、立ったままだったか。どうぞ、そこ掛けなよ」
あんまり見回すのも良くないかなと思いつつ所在無く立ち尽くしていると、両手に湯呑をひとつずつ持って戻って来た警官に気安い感じでそう勧められた。なんとなく引け目を感じながら、前に座った警官の様子を気にしつつ、先日と同じ椅子に腰掛ける。
「冷たいのでいいよな?今日も外暑いし」
「あ、ハイ」
「北海道だっけ?あっちは涼しかっただろ。いいよなあ」
ネクタイをしていなくてもカッチリとした制服は暑さが堪えるのだろう、クーラーが効いているのに更に団扇で首元を扇ぎながら、警官は羨ましげにぼやいた。中は麦茶だろうか、横向きのまま椅子に座り足を組んでゆったりとお茶を啜る彼に倣い、「いただきます」と冷たく冷えた湯呑に口を付ける。
「あっ、そうだ。すみません、これホント気持ちばかりなんスけど」
お茶を振舞われた拍子に本来の目的を思い出して、ナルトはゴソゴソとバッグを探り、中から綺麗に包装された包みを取り出した。
白と青のロゴを見た警官が「おー、ザ・北海道土産だねえ」と笑う。
「白い恋人かあ」
「すんません、ベタで」
「いやいや、オレぁこーゆーベタなのが好きだよ。――好ききなんだけどさ、ごめんな、こういうの受け取るのって、規則上禁止されてんだよね」
残念そうに眉を寄せると、警官は「ほんと、申し訳ない」と言って差し出した菓子折りを丁寧に押し戻した。うわ、そうでしたかってば…!と逆に恐縮すると、力の抜けた顔が「警察が一般市民の為に働くのは、当たり前の事デスから」と苦笑する。
「だからこれは持って帰って、あの色男クンにあげてくれよ」
「サス……うちはさんの事ですか?」
「そうそう、今回一番の功労者は彼でしょ。ここに来た時、女の子もだけど彼も汗だくになっててさ。あれ連れてくるまでに絶対にひと悶着あったんだと思うよ。あの子の顔泣いたばっかって感じで、ぱんぱんに腫れてたし」
伝えられたシチュエーションがあまりにも普段の彼とはかけ離れたイメージで、思わず手に戻された菓子折りを取り落としそうになった。心臓が高鳴る。
さっき別れの間際に重吾が言っていたのは、きっとこの事だ。そう思いつつも信じ難くて、つい体が前のめりになってしまう。
「あのっ、 」
「ん?」
「――その時の事、もう少し詳しく教えてもらえませんか?あの子見つけてきたのって、アイツなんですか?どうやって?」
懇願するようなまなざしに、ちょっと驚いた様子の警官は「は?なに、彼から聞いてないの?」と呆気に取られたように言った。こくこくと頷くと、ふうん?と気の抜けた声をあげながらヒゲのない顎の辺りをつるりと撫でる。
「どうやって見つけてきたのかは知らねえけど。えーとな、まずとりあえずここに来た時は、もうふたりでいて。突然やって来たと思ったら、初っ端から『このあいだのうちの店子が関わった件についてなんですが』って言いながら隣で手ェつないでた女の子を前に出してきて」
「は?手をつないで?」
「そう。ちっさい手をしっかり握っててさ。女の子の方はぽーっとなってたみたいだから気付いてないだろうけど、あれ多分、半分は逃げないように手錠かけてたつもりなんじゃない?」
こんなちっさい交番だけど、小学生の女の子が警察に出向くなんてやっぱおっかねえだろうしなあ。
しみじみとした口調で、顎から外した手を腕組みに変えながら、警官は言った。それでもあのサスケが子供と手をつないでくるなんて、まず見られない絵だ。
「あの子が謝るのを後ろで見届けてから『これでもうこの件は無しになりますよね』って訊かれたからまあそうなるかなって答えたら、今この場で北海道の実業団の方へも電話してくれって頼まれて。正直、こっちからそこまでするのってどうかなとも思ったんだけど、まあ君この件では本当に災難だったみたいだし」
「はァ」
「それにあんな色男にあそこまで真剣に迫られたらさ。断れなかったというか、つい引き受けちゃったというか」
なんか俺ちょっとドキドキしちゃったよー、などとヘラヘラしながらまたお茶を啜る警官に、場面を想像したナルトは膝の上のこぶしを握り締めた。人にそんな頼み事を迫るサスケなんて、これまで見たことない。
なんだよそれ――なんだよ、それ。
そんなの全然聞いてねえし。つかアイツ、他人だって言ってこのあいだもあんな冷たい態度とってたくせに。
なんでそんな色々してくれてんの?
なんでそんな、らしくない事を?

「まあそういうわけだからさ。頑張ったのはほとんど彼だよ。いい友達持ったね、君ら」

飲み終わった湯呑を持って立ち上がった警官についでのように肩を叩かれて、ナルトは慌てて下を向いていた顔を上げた。「いえ、『君ら』っていうか……オレ、は、ですけど」としどもど答えると、少しタレ目のハンサムが「何言ってんの」と笑う
「君だって二年前、怪我した彼の後ろで自分の事のようにさんざん彼の心配してたくせに」
「え?」
「大人になってからああいう友達ができることって、案外ないもんなんだぜー?」
はあ、と頼りなく答えると、そんな様子にちょっと可笑しそうな顔をした警官が「大事にしなさいね、ホントに」と言って目を細めた。ナルトの抱えている湯呑が空になっているのに気が付くと、横からひょいとそれを取り上げる。
おかわり要る?とのんびり尋ねてくる彼に、ぽかんとしたままだった頭が我に返ると、ナルトはふるふると首を横に振った。
「引越しの、荷造りもあるんで。そろそろ失礼します」
「あ、そっか。君向こうに行っちゃうんだっけね」
じゃあ彼も淋しいだろうなあ、と少し残念そうに言われた言葉が漂って、じわじわと胸に染み込んだ。
淋しく…… 思って、くれるだろうか。
ほんの少しくらいは。オレの百分の一、千分の一くらいは。
「――ま、とにかく元気で。その箱の人にも、よろしく伝えておいてよ」
そう言ってナルトの前に置かれたままの菓子折りを指差した警官は、は?と解らない顔をしたナルトを面白そうに見詰めた。
どのヒト?と繰り返すナルトに、ちょっと片眉を上げてみせる。
「だから、その箱の」
「?」
「し・ろ・い・こ・い・び・と」
「――!」
日に焼けた顔がかあっと赤くなるのを見て、測るような目をした警官は「あーなんだ、やっぱ友達じゃなくてそっちかあ」とニヤリとした。「まあどっちも兼ねてるんだからいっか」と飄々とする警官に、慌てて立ち上がり「兼ねてませんって!」と声をひっくり返す。
「違いますから!ホント、マジで」
「え?そうなの?」
「そうですってば……そんなわけ、絶対にないですから」
ふうん?とうつむくナルトを興味深げに警官は眺めていたが、それ以上はもう突っ込むのは止めたようだった。微妙な空気流れる中、突然中断を入れるように、「うあああ、あっつい…!失敗した、オレも出前にすればよかった!」と言いながらガララと交番のガラス扉が開けられる。
くぐるようにそこから現れた短髪の警官が、開襟シャツの首元をハンカチで拭いながら入ってきた。暑い暑いと喚くように言っていた警官は振り返ったナルトと目が合うと、途端にぎょっとして固まった。
「うわっ、また君!?」
「あ、…ちわス」
「ええー?今度は何に巻き込まれたの?痴漢?強盗?」
違う違う、と苦む長髪の横で、ナルトはまだ下がりきらない熱さで火照る顔を抑えた。
しかめつらの警官の向こうで、表の熱射を受けた網入りガラスが、中途半端に開けられたままゆらゆらと陽炎のようなひなたをつくっていた。



ようやく暇乞いをして交番を出ると、高い位置にある太陽がほんの少しだけ動き出したところだった。
朝顔の蔓が伝う住宅街の壁を横に眺めながら、熱に揺らめく道路を行く。もう小学校は半日になっているのだろうか、プールバッグを振り回しながら後ろから走って追い抜いていった野球帽が、珍しいものをみるようにちらりと背の高い金髪を振り返った。真っ黒に日焼けしたどんぐり眼にちょっと笑いかけてやると、驚いたような少年がどぎまぎとぎこちない笑顔を返してくる。
そのまま照れて逃げるように走り去っていく半ズボンの後ろ姿を、ナルトはぼんやりと見送った。

サスケが、オレのことを、助けてくれていた。

交番で聞かされた話をまた脳内で再現して、うすい笑顔を引っ込めたナルトは大きく息をはいた。
あのサスケが。プライドが高くて、面倒が嫌いで、他人にも自分にもどこまでも厳しいアイツが。
こんな厄介事に、首を突っ込んでくれた。
世話を焼いてくれていた。

(――でも、なんで?)

なんでそんな事してくれたんだろう?
最後に会った時の冷たい横顔を思い出しながら、ナルトはずり落ちてきたスポーツバッグのベルトに親指を差し込んだ。他人だって言ったくせに。距離を取るって言ったくせに。あの晩も、彼はどうやら大学の友達とどこかに出掛けるようだった。気易く彼を呼んでいた、見知らぬ友人の親しげな声。自分が勝手に誰ともつるんでなどいないと思い込んでいただけで、本当は彼にも大学の友達との交流がちゃんとあったのを、あの晩初めて知った。自分だけが特別だと思っていたのは、とんだ思い上がりだったわけだ。
なのにそんな彼が、どうしてまだオレなんかに関わってくれたんだろう。
すっぱり縁を切るんじゃ、なかったのだろうか。
ぐるぐると逡巡しながらもついしがみついてしまうのは、ただひとつの可能性だ。
もしかしたらサスケもオレの事、まだ大事に思ってくれてるのかも。絶対にありえないと思っていたけれど、本当はオレの事、好き……だったり、して。
(ん?でも待てよ。好きなんだったら逆に、引き留めようとするんじゃねえの)
むしろ早くオレを追い出す為に、仕方なく手を出してくれただけだったとしたら――?
ポロリと転がり出た思い付きではあったが、一度考えてしまうと何だかどんどんそれが真相のような気がしてきた。確かにサスケも、自分といる事に対して『結構気に入っていた』と言ってくれていた。
これまで迷惑かけても最後にはやれやれといったように笑ってくれたし、さりげない優しさを見せてくれた事だって思い返せば沢山ある。だけどそれらは全部、『友達』としての好意からだったのだろう。『俺がお前といて居心地が良かったのは、そこに恋だのなんだのというような要らん感情が入り込まない関係だったからだ』と、あの日まっすぐに言われたじゃないか。すっぱりと縁を切るのがお互いのためだと、そう言ってたじゃないか。
慣れた曲がり角を折れて、日陰のない路面を進んだ。
熱されたアルファルトにゆらめきが立ち、どこで鳴いているものか、ミンミンゼミの鳴き声が遠く近くなる。
少ししか離れていなかったはずなのに、出戻った街は急に真夏の様相と化していた。なんだかまるで、浦島にでもなったようだ。
空調無しではもうきついのだろう、前を通っていく家々の窓はどこもぴしゃりと閉めきられていた。時折セミの鳴き声に混じって、「ぶー…ん」という室外機の旋回音がする。
徐々に景色がアパート近くのものになってくると、心音が高まっていくのを感じた。
照りつける日差しに、首筋を汗が流れていく。
さっき重吾と会ったということは、今管理人室にいるのは多分彼のはずで。テンテンに頼んでおいた『お礼』は間に合わなかったけれど、女の子の件の礼を言うくらいは。彼がどんな思いでそんな行動を取ってくれたのかは解らないままだけれど、感謝の言葉を伝えるくらい、ただの大家と店子の関係だったとしても、別におかしな事じゃないはずだ。
ドキドキしながらゆっくりと木の葉荘の門を抜け、共同玄関のステップを踏んだ。締め切られた小窓を、視界に映るギリギリの距離からおそるおそるうかがう。
(あれ?)
なんだ――いないってば。
窓の前に出された『巡回中』の札を見て、ナルトは安堵と落胆がごちゃまぜになったような、複雑な息をついた。ホッとしたような、残念なような。いや、でもやっぱり『残念』の方がやや多いか。
(巡回って、どこ行ってんだろ。二階?)
そう思いながら一度表に出て、アパートを取り囲む塀の内側から二階の廊下を見上げた。鉄製の欄干が伸びるむき出しの廊下には、人の影は見当たらない。
また集積所の掃除でもしてんのかなと思い立ち、塀を巡りゴミ集積所のある裏手に回ってみると、ブロック塀の裏側でガサガサというビニールの音がするのに気が付いた。つま先立ちでそっと塀越しに裏庭を伺うと、植え込みの木々の合間に、よく知った黒髪が見える。
寡黙に動く、確かな気配。
後ろには大きなゴミ袋が、口を広げたままどかりと置かれている。

(うわっ、こんなとこにいた……!)

思わず声が出そうになるのを慌てて抑え、ナルトは急いで頭を引っ込めた。それでももう一度そろりと頭を出すと、痩せた背中がしゃがみこみ、黙々と白い軍手が動いている。
いつの間にかまた野放図な姿に戻っている裏庭で、白のTシャツにジーンズ姿のサスケが、ひとりで淡々と草むしりをしていた。ゴミ袋の中には折れた枝と大量の草。ここまでずっとひとりでやっていたのだろうか、屈むように曲げられたTシャツの背中は、既に汗で張り付いている。
働く彼の後ろには、きれいに雑草が引き抜かれた黒い土が広がっていた。自分がやった時よりも、なんだか落ちている草の根が少ない気がする。やっぱり彼の方が、仕事が丁寧だ。きびきびと動く腕が、ペースを落とすことなくどんどん草をむしっていく。
うつむいた髪から時折見える、横顔が綺麗だった。
くっきりとした鼻梁が、少し伏せ気味の目許が。自棄になるわけでもいい加減になるわけでもなく、ただひたすらに目の前の仕事に向かっている。
(あっ――うなじ、が)
ふと下を向く彼の襟足を割って見えているうなじが赤く火照っているのに気が付くと、なんだか胸がぎゅっとするようだった。
いつもだったらそこは、まっしろな筈なのに。一体彼はいつからここで作業しているのだろう。こんな強い日差しの中、せめて帽子くらい被って欲しい。
(…………どうしよう)
壁に張り付いたまま、悩みに悩みながら作業をする彼を見詰めた。
手伝いたいな、と思った。
彼の前に、まだ手をつけていない雑草地帯は悠々と広がっている。太陽はカンカン照りだし、一番草の群れている奥の部分(前回自分がやったからよくわかる。アパートの奥ちょっと手前、102号室の部屋の前辺りはどういうわけか雑草達にとって一番根を張りやすい場所らしい)は残ったままだ――だけど。

『今この瞬間から、俺達は他人だ。これまでのように、声、かけてくんなよ』

……交番からの帰り道に言われた、冷たい言葉が脳裏をよぎった。
親しげに彼の名前を呼んでいた、大学の友人だという男と並ぶ彼を。『うずまきさん』と自分を呼んだ時の、無機質な声を思い出す。とてつもない距離を示す、逸らされた瞳。
やるとなったら徹底的にという彼だ、あの晩も偶然とはいえ折角会えたのだから、トライアウトの事だけでも伝えようと声を掛けたのに、見せられたのは容赦ない拒否だった。手を伸ばしたとしても、また、ああなるのだろうか。お前なんかはお呼びじゃないと、跳ね除けられてしまうだろうか。
迷いでうず巻く胸を抑えながら、ナルトはそっと覗いていた壁から離れた。静かに荷物を肩に掛け直し、ゆっくりと来た道を戻りだす。
もうやめようと、思った。これ以上、彼に関わろうとするべきじゃない。
彼は彼の、やるべき仕事をやっているだけだ。冷静に状況だけを見れば、アパートの管理人が、管理業務のひとつを行っているというだけじゃないか。それ以上でも以下でもない。管理費だってきちんと支払っているのだから、ただの店子であるオレがそれを手伝わなくてはならない義理はない。向こうだって、ここでオレなんかに手出しされる事は、望んでいないだろう。
(だってもうオレは………他人、なんだし)
自分で思った事にひんやりと心を冷やされながら、ナルトはゆっくりと進む自分の足先を見た。
一緒に食事に行ったり、馬鹿話で笑い合ったり。向こうも楽しんでいると思い込んでいたのは自分だけで、サスケからしたらそんなの別にどうという事でもなかったのかもしれない。そもそも彼があまり他の友達とつるんだりしていなかったのも、きっとただ単にオレが周りでちょろちょろ邪魔をしていたせいで。本当ならばサスケだって、もっと大学での友達と遊んだりしたかったのかもしれない。というか、それが普通だ。
共同玄関を入ると、急に暗転したような視界にくらりとした眩暈に襲われた。
玄関のガラス扉に、肩から下げていた大きなスポーツバッグがぼすんとぶつかる。「リン、」とひとつ響いた澄んだ鈴の音に鼓膜が震わされ、その音に知らず視線がいった。
バッグにぶら下がる赤い目をした銀の鳥が、こちらをじっと見詰めている。

(でも――でも、もしも)

ふわりと舞い降りた小さな望みに、ナルトは行きかけた足を止めた。
出会ったばかりの頃にようやく彼が見せてくれた、澄んだほほえみがふと蘇る。チヨバアにしてやられふたりで馬鹿笑いした事や、もたれあうようにして眠りこけた春の夜。シカマルも混じえて飲んで騒いだ晩や、延々くだらない話を繋げたお気楽なドライブを思い出した。
出会ってからこれまで、彼からは貰うことばかりだった。助けられる事ばかりだった。
だけど本当に、それだけだったのだろうか。僅かでもオレからも、彼に渡せているものがあったとしたら?彼の方でもオレと一緒にいることで、なにか得るものがあったと思っていてくれたとしたら?
躊躇する気持ちを一旦鎮め、絞るようにぎゅっと目を閉じた。先程警官から聞いた嘘のような話に、祈るように全力で思いを賭ける。
自分を早く追い出すためだとか、完全に関係を断ち切るためだとか。そんな事、今こうして地味な作業にも手を抜かず熱心に向かっている彼を見れば、どうでもいい事だと思った。
どんな理由だろうと、彼がしてくれたことは確かにオレを救ってくれた。
気にするべきは、ただその事実のみ。
それだけで充分だ。


(――…よし!)


ひとつ気合を入れるとナルトは目を開き、バッグの肩紐を握り締めて、大きく回れ右をした。
迷いを振り切るように共同玄関のステップを駆け降りて、前庭を大股で横切る。緊張で心臓がはちきれそうだ。容赦なく射してくる太陽の光が、前髪の掛かる視界でチカチカと躍る。
裏庭に出ると一息入れているところなのだろうか、くったりとした様子で足を伸ばす背中があった。硬く乾いた土からこれだけの草を引き抜くのはかなり骨が折れた事だろう。珍しく草臥れたような後ろ姿は、体を支えるように突っ張られた腕にも力がない。
怖じ気付きそうになる心を叱咤して、ふかくふかく深呼吸をした。
嫌がられるかもしれない。冷たく拒否されるかもしれない。だけど、それでもいいと思った。どんな言葉を返されたって構わない。もう一度だけ、手を伸ばす事ができるなら。
少しでも彼の力に、なれるなら。

「ゴミ袋って、これ一枚だけ?もう一枚あったら、オレ反対側からやってくけど」

スポーツバッグの肩紐を滑らせながら思い切って声を掛けると、突然の声に驚いたのか、ぎくりと彼の肩がこわばった。
前に出ようとしない足を強引に進める。向こうからの返事を待つのが恐ろしくて、気が付けば先回りするように、自分からベラベラと唇を動かしていた。チリチリと直射日光が肌を焼く。落ち着かない体が持て余されて、なんとなく芝居掛かった仕草で無い袖をめくってみた。
「軍手は、まあいっか。取りにいくのメンドいし」
「は?」
「あと半分かあ。でもこのあいだ程じゃねえし、多分頑張れば一時間位で終わるってばよ」
「……何やってんだ?お前」
思い切って隣にしゃがみこんだ途端、あげられた唖然としたような声に、握り絞められた心臓がぎゅっと縮こまった。
緊張で、喉が詰まる。
上手く出ない言葉を弁護するように、ぴくりと一瞬止まっていた手がやっと動き出した。ちくしょう、オレってば完全にビビってる。ただもう弱気な顔を隠すだけで、今はいっぱいいっぱいだ。

「……何って、草むしり」

ようやく出た返答はどうにも格好がつかなくて、思わず掴んでいた草をぶちりと引きちぎってしまった。
下を向いたままの横顔にじっと見てきているらしい彼のまなざしを感じてはいるけれど、それが一体どんな表情を浮かべているのかが確かめられない。
頭の天辺を射してくる、日差しが熱い。
やかましかったセミの鳴き声がふいに止んで、ますますどうしたらいいのかわからない沈黙が、草の匂いでむせ返る裏庭に漂った。