第二話

樋を打つ雨の清かな音に目が覚めたのは、セットした目覚ましのアラームが鳴るよりも先だった。
むくりと起きて隣を見れば、大きな体をイモ虫のように丸め込んで眠りこける男がひとり。狭い一人用の寝具の中でそれなりに遠慮をしたのだろうか、縁いっぱいまで端に寄った体の半分は縮こまった甲斐なく下の畳に落ちている。
幸せそうな寝顔を見下ろしていると無性に腹が立ってきたので、腹いせにその鼻先をぎゅうと指で摘んでやった。安らかな呼吸を乱されて、そのうちに閉じていた口許が「くはあっ」と苦しげに開く。
それでも起きる様子のない男をじとりと睨むと、サスケは布団を抜け出した。
浅い眠りのせいで首筋が、変に疲れている。
ぎしぎしするそこを左右に曲げてみると、伸ばされた骨格から、ばきぼきと信じられない程派手な関節音がした。

     ☆

「あれー、今日は管理人さんだァ」
おはようございまーす、という声に窓ガラスを拭く手を休めれば、朝顔みたいな色鮮やかな傘がふたつ、路地に横並びになっていた。あのオジサンは?と尋ねてくる声に邪気はない。彼女達から見たら、年齢以上に落ち着いている重吾はオジサンに分類されるのだろう。さすがにまだ俺は「おにいさん」だよなとかすかに不安になりながら、サスケはこちらを見上げる二人に挨拶を返した。
「重吾さんのこと?今日は休みなんだ」
「風邪?熱?今学校でも流行ってるんだよ」
「いや、何か今日は用事があるからって。病気とかじゃないよ」
そうなんだァ、と赤いリボンのおかっぱ頭の方が納得したように言った。頷いた拍子に、ピンと立ったリボンの端っこがゆらりと揺れる。利発なウサギの耳みたいだ。
「あのオジサン、重吾さんって言うんですか」
ラベンダー色のランドセルを背負った方の少女が、少しすました敬語で話に入ってきた。昨日、ちょっと怒ったような顔をしていた方だ。
「うん、そう。あとね、彼、まだオジサンじゃないから。俺とそんなに年変わらないから」
重吾の名誉の為にも一応訂正を入れると、ふたつの小さな顔は素直に驚いたようだった。もしかしたら、既に重吾に向かって「オジサン」と呼んでしまっていたのかもしれない。
「ウソォ!管理人さんて何歳なの?」
「二十二……来月、二十三になるけど。重吾さんは俺よりふたつ上なだけだよ」
「ええっ、じゃあやっぱりオジサンで合ってるんじゃない」
顔を見合わせた二人からの発言に、サスケは思わず低く呻いた。そうか、この子達からしたら、二十四はオジサンなんだ。……結構、地味に傷ついたのを自覚する。果たしてこの二才の間に境界線は存在するのだろうか。悪意なく笑い合う彼女達にそこのところを確かめてみたい気もしたが、敢えてそこは聞かないことにした。まったくこれだからガキは嫌いなんだと影でこっそりと舌打ちをしながら、サスケは引きつった笑いを浮かべる。
「管理人さんは、名前、なんていうんですかー?」
含羞みながら尋ねてきたリボンの子が、もじもじと上目遣いでこちらを見た。濃いピンクの傘の下で、ほっぺたが更に赤く染まっている。
久しぶりに朝会ったせいか、今日はやけに話しかけてくるな。先ほどのショックをまだ少し引き摺りながらも「……『うちは』といいます」と少し投げやりに答えると、「下の名前は?」と更に訊かれた。
「秘密」
ちょっと面倒になってきたので適当にそう答え、「さあもう行きな、遅刻するぞ」と後ろを向くと、さっきからあまり喋っていないショートカットの子がぽつりと何か言ったのが聴こえた。
え?何?と隣のリボンが聞き返す。
「サスケくん、でしょ?」
磨かれた窓ガラスに映った瞳が、まっすぐに自分を見ていた。思わずポカンとしてその目を振り返る。
疑問だらけの顔でショートカットの少女の大人びた表情を見つめると、「ふふふ」と妙に臈たけたような微笑がその口許を彩った。
片割れの方は、呆気に取られたままだ。

「……お前、なんで知ってンだ?」
「――ひみつ」

思わず普段の言葉遣いになって尋ねると、謎めいた科白と共にくるりと傘が回った。飴玉みたいな雫がぱっと散る。横目でちょっとだけ視線を残して、傘とお揃いの長靴が軽やかに歩き出した。
「あっ、いのちゃん、待って!」
慌てたようにその背を追いかけていったピンクのランドセルを遠目に見ながら、サスケは驚きの不意打ちに為すすべもなく立ち尽くしていた。なんだか幻術にでもかけられたようだ。
窓ガラスに押し付けられた雑巾が、ふにゃりと手のひらの下で皺を寄せた。
真っ黒だった空は、少しずつ明るくなってきたようだ。



納得いかない気分のまま清掃を終わらせてから一旦自室に戻ると、ようやく起床したナルトが布団を畳んでいるところだった。「ドウモアリガトウゴザイマシタ」と殊勝に言う姿に、少しだけ溜飲を下げる。
「お前、今日バイトは?」
他意もなくそう尋ねると、あ、今日は夜勤なんだと押入れに布団を押し込む背中が答えた。酔った勢いでシカマルと共に何度か泊まっていったことがあるお陰か、すっかりこの部屋の夜具の片付け方まで覚えたらしい。
サスケは滅多に大学の友人とは学外でまで付き合ったりしないが、幼馴染であるシカマルとそのバイト仲間であるナルトを交えて三人で飲みに行くことだけは時折ある。
なんとなく飲み足りないような時、流れ込むのは大概いつも片付いているサスケの家だった。充分量のアルコールに眠くなった頃、顔色ひとつ変えずに飲み続けているナルト(おちゃらけた性格に見合わずザルなのだ、コイツは)は、下の階に降りるだけなんだから自分ちで寝ろよ、とどんなに諭しても「ヤダ!オレも入れてくれってばよ!」と言って狭い部屋に頑固に居座る。
どーしよーもねェ寂しがり屋だな。
そう評したのは、いつも早々に布団を取って寝てしまうシカマルである。
「なので、一宿一飯の恩返しに、今日はなんでもお手伝いさせていただきますってばよ!」
そうして襖を閉めてこちらを向いたナルトは、へらりと笑って敬礼した。一応、迷惑を掛けたという自覚はあるらしい。
「一宿一飯て、別にメシまで振舞った覚えはねェよ」
「……今からいただくつもりでした」
「……どこまで図々しいんだお前は」
大袈裟なほど派手な舌打ちをしてみせたが、一向にナルトは意に介さないようだった。慣れた様子で、ニシシと笑っている。ここのアパートの1階に住むこの気のいい男とサスケが親しくなったのは、2年前の春だ。
最初の出会いは最悪で、この金髪男をサスケはとんでもない非常識人だと思ったものだった。そもそものきっかけは、ゴミの分別についてだ。当時兄を亡くしてからずっとなんだか色々と中途半端になっていた自分が、ここの管理人になってからまだ数ヶ月で、なんだか躍起になって毎日の仕事をこなしていた頃。きちんとルールに沿ってないゴミの分別がやけに許せなくて、ダンボール箱に荷物を放り込んだまま出されていたナルトのゴミを突き返したのが始まりだ。今にして思うと確かに自分のやり方も少々意地が悪かったと反省するところもなくはないのだが、その後共通の知人であるカカシを通じてそのゴミに付随する彼の事情を聞かされると、なんだか妙にナルトの事が気に掛かるようになってしまった。
――どこか、似ているような気がしたのだ。
目指しているものになれなくて、でもなれないことを諦めきることもできなくて。
いつまでもグズグズと、燻っていた自分と。
(たぶん、こいつもそう思ったから、あんな色々とお節介を焼いてきたんだろうな)
あの頃の経緯を説明するとしたら、たぶんそういう事なのだろうとサスケは納得していた。赤の他人、しかも初顔合わせからして酷いもので、当時交わした会話も相当棘のあるものだったと記憶している。そんな関係の中でナルトが自分に見せてきた親切や好意は、サスケにとって最初は想定外としか言い様がないものだった。
しかし、そんなナルトの行動が、今の自分に繋がっていることは紛れもない事実だ。停滞していた時間を、再び揺り動かしてくれたナルトの存在。
そしてそれはきっと、向こうにも同じ事が言えるはずで。
「お前、来週末試合なんだっけ?」
トースターから取り出した食パンを手渡しながら、サスケは思いついたようにナルトに訊いた。そのまま自分の分も出して卓に着くと、先に胡座をかいて座っていたナルトがコーヒーの入ったマグカップを「ん、」と差し出す。
おお、と応えながらそれを受け取ると、やに下がった顔で寝癖の付いた金髪頭が嬉しそうに笑った。
(……こいつ、ほんっとうに俺の事好きだよな……)
剥き出しの好意に触れて、サスケはついそんな風に思う。こういう時、しみじみ感じ入るのだが、どうも自分はこのウスラトンカチに相当好かれているようだ。自意識過剰を加味したとしても、たぶん、間違いないと思う。
まあ水月とは違ってナルトは変な独占欲や対抗心のようなものを見せたりしないし、ごく単純に「特別気に入っている友人」として見られているだけだろうから、ナルトから受けるその好意には別段問題はなかった。
それにサスケ自身もナルトに対しては同じような事が言えなくもないので、こうして偶にトラブルメーカーのナルトに付き合わされる事に文句を言いつつも、最終的にはなんとなく諦めと共に聞き入れてしまう。
「や、再来週だけど――なに、サスケ久しぶりに観に来てくれんの?」
「そうだな、厄介な課題が出てなければ。最近全然観に行けてないから、俺も行けたら行きたいんだが」
2年前、故障していた足の手術をしたナルトは、今は有志が集まって運営しているアマチュアのアイスホッケーチームに参加している。アマチュアといえども元はインカレで活躍していた選手達がメインでやっているそのチームは中々の強豪らしく、練習も熱心に行っているし時折は請われて地方にまで遠征試合に行ったりもしているようだ。
普段はアルバイトをしながら生活費を稼ぎつつ、足の具合を確かめながら技術を磨きゆくゆくは実業団チームの入団試験に挑戦するつもりでいるらしかった。
「……まあ、当然そんな簡単にいく話ではないんだけどさ」
手術を決めたというナルトがそう報告してきた時、つい自分の身内にいる専門医を紹介してやると言ってしまったのはサスケの方だった。これでも優秀さでは中々に定評のある一族なのだ。身内の知り合いとなれば、たぶん手術の時期なども出来る限りこちらの都合を聞いてもらえるだろうし、それに加えて親兄弟がいなくて入院などの手続きを全てひとりで行わなければならない彼の負担が、少しでも軽くなればと思ったのも事実だ。そんな事を思う程度には、自分もこの男に好意を持っている。
手術は無事成功して、再びリンクに立つようになったナルトの試合を、サスケは時々観戦しに行っている。まあどちらかといえばナルトを観に行くというよりも、2年前ナルトに連れて行って貰ったアイスホッケーの試合が面白くてすっかりスポーツ観戦にハマってしまっただけなのだが、それでもサスケが観に行くと言うとこの大男は無邪気に喜ぶのが常だった。
両親が既に他界してしまっている彼にとっては、サスケの応援は身内が来てくれているような感覚なのかもしれない。
なんとなく、そんな風に理解している。
「サスケが観に来てくれると、なんか絶対勝つンだよな。勝利の女神ってやつ?」
だから是非来てくれってば!と食べかけのパンを片手に力強く言うナルトを眺めて、サスケはゆるく笑った。卓袱台にトーストってやっぱりなんか妙な絵面だなと、目の前の光景にちょっと思う。
「勝利の女神って。俺は男だぜ?」
言うなら不敗の神とでも言ってくれと言い返すと、青い目が一瞬きょとんとした。思わぬ反応ににちょっと訝しげな視線を送ると、誤魔化すようにその目が細められる。
「――だよな!そう、サスケは男だもんな。わかってるってばよ」
慌てたように大口を開けてパンに齧りつくナルトに微妙な違和感を感じつつも、サスケはその口許からぽろぽろと落ちる茶色い粉の方に気を取られた。まったく、その不注意さは二年間ずっと変わらずだ。
「おい、パンクズ落とすなよ」
「……サーセン、後で掃除もさせていただきます……」
ぐぐっと一気にマグの中の牛乳を飲みきって、ナルトは何かを吹っ切るように大きく息をついた。
「…っしゃ!」と自分に喝を入れると、卓袱台に手をついて勢いよく立ち上がる。
「ごちそーさま!オレ今日は夜まで時間あるから。なんでも言ってくれってばよ!」
胸を張るナルトの向こう側で、厚い雲の隙間から少しずつ光が差してくるのが見えた。いるだけでなんだか賑々しい気分にさせられるナルトとささやかな朝食を摂っている間に、昨夜から続いていた雨もようやくあがったようだ。
徐々に明るくなってきた空に、昨日から引っかかっていた厄介事を思い出した。雨で下が柔らかくなった今は、まさに作業するにはうってつけなのではないだろうか。
「よしナルト。一宿一飯の恩義、今日はしっかりその体で返してもらうからな」
ほくそ笑んだサスケにつられ曖昧に笑ったナルトが、腑に落ちないままで少し首を傾げた。昨日咄嗟に掴んで持ってきたらしい、彼のジーンズを視界の端で確認する。よし、着替えさせたらすぐに作業開始だ。
「覚悟しろよ」
低く言うと、サスケもマグの中に半分程残っていたコーヒーを飲み干し、気合を込めて腰をあげた。



「――本気?」
見渡した一面の雑草畑に、Tシャツとジーンズに着替えたナルトがたっぷりと溜めた声で確かめてきた。
もちろん、と有無を云わせない強さできっぱりと答えると、目に見えてその肩が落ちる。
「これはかなりの重労働だってばよ……」
「なんでも言ってくれって言ったのは誰だった?」
……オレです、と力なく呟かれた返答は、昨夜からの雨にぬかるんだ大地に沁み落ちた。きっと俯いた金髪の内側は、気安く作業を請け負ってしまった自分を責めている真っ最中だろう。
裏庭の草むしりを言い渡された瞬間、張り切っていたナルトは急に無言になった。そりゃあそうだろう、何しろ彼は毎日その目でこの荒れ放題になっていた風景を目の当たりにしていた筈なのだから。
狭いワンルームといえども横に十部屋が並んでいるアパートの敷地は、広さにしたら結構なものだった。そこにいいように生え放題になった雑草達を全て排除するには、相当な労力と時間が費やされることは必至だろう。
「で?サスケはなんで、ハサミなんて持ってんの?」
「俺は植え込みの枝払いをする。分担して早いとこ終わらせるぞ」
管理人室のロッカーの奥から引っ張り出してきた枝剪刀を持ったサスケに、日に焼けた頬が不満げに膨らんだ。えーなんかソッチの方が絶対楽じゃねーの?と早くも不平が飛び出す。
「なんだよ、じゃあお前剪定とか出来んのかよ」
「あ、オレ結構植物の管理は得意なんだぜ。オレんちのウッキー君なんて超色艶いいだろ?」
ウッキー君?と訊き返すと「オレが端正込めて世話してる観葉植物だってば。オレんちに植木鉢あんの、気がつかなかった?」と逆に問われた。気がつくもなにも、ナルトの家に行ったのは本当に数える程しかない。しかも家の中まで上がったことは、一度もないのではないだろうか。
「そんな家の中にあるちっさい観葉植物とは訳が違うだろ。いいから早く始めろ。ぼやぼやしてたらまた雨が降ってきちまう」
「えぇー、そっちのチョキチョキの方が絶対楽しそうだってばよ」
「文句言ってる間に手を動かせ」
「あ、じゃあさ、ここは公平に、ジャンケンで決めようぜ!」
ウキウキとした様子で思いつきを口にするナルトに少し呆れながらも、ふいにサスケの頭に昨夜読み終えた書籍の中にあった一節が蘇った。文体が読みにくく非常に難儀したテキストだったが、心理学を応用したその難読な本の中で、一箇所だけ興味をひいた記述があったのを思い出す。
丁度いい。今こそその理論を試すいいチャンスかもしれない。
「――いいぜ」
不敵に笑うサスケに、ナルトはよっしゃ!とガッツポーズを取った。オメデタイやつ。負けるかもなんて、露程にも思ってないのだろう。
「じゃ、いくってばよ?じゃーんけーん……」
力んだ様子で身構えるナルトを、薄ら笑いを浮かべたサスケが観察するように眺めた。なんて解り易い被検体だろう。そんな風に思われているなんて全く気が付いていないであろう男が、勢いを込めて手を突き出す。


「―――ぽん!」


………。
…………。
「よし、じゃあこっちの端からどんどん毟ってけ」
握りしめた丸いこぶしを呆然と見つめるナルトに、サスケは無慈悲に告げた。
「……一回勝負?」
「なんだ、男の癖に一発で諦めつかねェのかよ」
未練がましく確かめてくる男を撥ね付けると、悄々とその「グー」のままの手が下げられた。やる気を挫かれた背中が、渋々と背を伸ばした雑草達の中にしゃがみこむ。
「夕方には買い出しにも付き合ってもらうからな。きりきり働いてしっかり終わらせろよ」
いい気分のままでサスケは朗々とそう述べると、作業を始めたナルトの横を抜けて大きく張り出した木々の方へ向かった。
(こいつホンット、わかりやすいな)
微妙な膨れっ面を拵えながらも、律儀に根までしっかり草を引っこ抜いているナルトの様子に、ひそやかな含み笑いをつくりながらサスケは思う。
気の置ける友人に、とりあえず軌道修正できた進路に、気に入っている仕事。
なかなかどうして、上々な毎日ではないだろうか。
昨日より軽くなっている頭痛にも気が付くと、益々やる気も出てきたようだった。肩をぐりぐりと回しながら、腕まくりをする。
昨日ネットで調べておいた剪定法を実践すべく、サスケは野放図になった庭の一角を見上げた。



神様仏様サスケ様お願いですから付いてきてください後生だから!
しつこい程に重ねられた懇願に押し切られるような形で一階にあるナルトの部屋まで連れて来られたのは、未だ厚く広がったままの雲の上で、見えない太陽が天辺に上がっているであろう昼過ぎだった。裏庭に繋がるステップに腰掛けて簡単な昼食を摂りながら、招かれざる客が入り込んだ布団の中を確かめに行きたいんだけどと相方が言い出したのは、つい先程の事だ。
ふき出た汗でしとどに濡れたTシャツの背中にハタハタと風を送り込みながら、食べたおにぎりはそれぞれみっつずつ。サスケはおかかふたつに梅干しをひとつ、ナルトは先程連れ立って行ったコンビニでなにやら面妖な取り合わせのおにぎりを選んでいたようだった。新しいもの好きな彼は、やたら期間限定とかいう文句に弱い。
「ったく、ガキじゃあるめェしゴキブリ程度で部屋に入れなくなるなんて、情けなくないのかよ」
「オレのG恐怖症(正式名称を口にするのは嫌だと言ってナルトはゴキブリをGと呼ぶ。それにどれほどの効果があるんだよとサスケはちょっと鼻白んだ)はかーちゃん譲りだもの。ヤツに恐怖する気持ちに大人も子供も老若男女カンケーねェってばよ」
「そんなんでこれまでどうやってたんだよ。家族全員そんなじゃどうしようもねェだろ」
「あっ、父ちゃんだけはヤツに対峙できたんだってばよ。すごかったんだぜ、父ちゃんのスリッパ捌き。うちでは父ちゃんの事『黄色い閃光』って呼んでたくらいでさ」
「お前もそのド根性で『二代目黄色い閃光』を目指せよ」
「いやー父親の背中ってのは大きくてそう簡単には超えられるもんじゃねってばよ」
無駄口を叩きながら玄関の方へ回りこみ、気乗りしないながらも拝み倒されて仕方なくナルトの部屋の前に立った。ちゃりちゃりと音をたてて、ナルトがジーンズのポケットから鍵を出す。小さなカエルのキーホルダーがぶら下がったそれを鍵穴に差し込むと、慎重すぎるほど慎重な手付きで古びた錠を回した。
「……ごめんください」
「アホか、お前ンちだろが」
細く開けたドアの隙間から怖々様子を伺うナルトを馬鹿にすると、焦れたようにサスケがドアをがばりと開いた。そのままぞんざいに靴を脱ぎ捨てると、許可も取らずにずかずかと部屋に上がっていく。
初めて上がったナルトの部屋は、全体的に雑然としていた。いわゆる『男の一人暮らし』を具現化したような部屋。決して片付いているとは言えないが、不思議と居心地は悪くない。窓際に素焼きの植木鉢に植わった観葉植物が燦々と日を浴びて葉を広げていた。たぶんあれが噂のウッキー君だろう。
サスケは狭い間取りの真ん中でぐしゃぐしゃになったままの万年床に目をやると、「ほら、早くあの中も確認してこいよ」と後ろで警戒心剥き出しの足取りで続いて来たナルトを促した。かなりの逡巡と戦っていた様子のナルトだったが、あまりグズグズしていると苛立ったサスケが噴火して帰ってしまうとでも思ったのだろうか、やがて意を決したように夏掛けの薄い掛け布団に手をやると、「うぉりゃあッ!」と気合と共にそれをひっぺがす。
先日逃げ込んだ布団の中にも敵がいない事を確認すると、深い深い安堵の溜息が部屋の主の口から漏れた。それでも一回は洗わなければ気が済まないのだろう、ムキになったように今度はシーツとカバーを力任せに剥いていく。
リネン類と格闘するナルトに呆れつつ、サスケは改めて部屋を観察してみた。相当慌てて飛び出してきたのだろう、大きなガタイがぶつかったと思わしき痕跡が部屋のあちこちに残っている。壁際に立て掛けてあったらしいアイスホッケーのスティックは横倒しになり、箪笥の上に置かれた写真立てが前のめりに倒れていた。伏せられたままのその状態が気になって、ついその小さな木枠を手に取る。
「――『黄色い閃光』?」
「ははっ、そう。でもってその横にいるのが『赤い血潮のハバネロ』だってばよ」
起こした写真立ての中に嵌め込まれた家族写真を見て言った言葉には、なにやら物騒な印象の通り名が返ってきた。「なんだそりゃ」と笑うと、幾分緊張の解けたらしいナルトが懐かしげな微笑みを浮かべる。シーツを剥がしながらも小さな黒い影を見つけるべく部屋のあちこちに緊張を張り巡らせていたようだったが、どうやら憎き宿敵の姿は見当たらなかったようだ。
「お前、完全に父親似だな。あ、でも目許の印象だけは母親か?」
「小さい頃は髪と目の色以外は丸ごと全部母親似だったんだけど。なんかいつの間にか、父親の方がよく似てるって言われるようになったな」
写真はどこかに旅行にでも行った時に撮られたものなのだろうか、少しだけ他所行きな感じのワンピースを着た母親と、柔和な微笑みにそのハンサムな容姿をとろけさせている父親の真ん中で、小学生位のナルトが顔一杯で笑っている。撮影時にこの少年が相当はしゃいでいたであろう様子が、画面上からだけでもよく伝わってきた。
「すっげぇチビ」
おそらく標準体型よりもかなり華奢で小柄そうな金髪の少年に思わずからかい混じりの声を漏らすと、その背後で現在のその少年がわずかに機嫌を損ねたようだった。「努力と根性でここまででかくなったんだから、もういいんだってば」と言って鼻を鳴らす。
ああ、それでいつも牛乳なのか?未だに続く彼の嗜好の原点が見えると、なんだかそれも可笑しかった。くつくつと喉の奥でちょっと笑う。
写真立てを元あったと思われる場所に立て直し、改めてその家族の景色を眺めた。
いい写真だ、と思う。
色あせない幸福が、このファミリーポートレイトの中には確かに詰まっている。
「いい写真だな」
思った通りのままに伝えると、不意を打たれたかのように青い瞳が一瞬揺れた。次いで、弛緩するような笑顔が顔全部に広がっていく。
「……だろ?」
低く返してきた声には、澄んだ喜びが芯まで染み込んでいるようだった。
「中々よく撮れてる写真だってば?」
「ああ、これだけでもお前が昔から落ち着きのないガキだったのがよくわかるな」
つい出来心でひねくれてしまった回答に、つやつやと日に焼けた頬が微かに膨れた。でもこちらの本意はちゃんと伝わったのが、その本気ではない不興から窺える。
この金髪の少年がとても愛されていたこと。寄り添うように肩を触れ合わせている両親の事が、とても好きだったこと。たとえ肉体は失われてしまったとしても、その思いだけは永遠に不変であるということ。
その事実が、ちゃんとこの三人の笑顔からは伝わってくるということ。
「――サスケ」
不意に呼ばれた声に顔を上げると、なんだか変に顔をしかめたようなナルトがいた。
なんだその顔。腹でも痛いのか?
「なんだ?お前何時にも増してオカシイ顔してるぞ」
「その言い方って、微妙に失礼だってばよ」
そこ、あたま、葉っぱ。単語ばかりを連ねた科白に、耳の上あたりを指で指されてサスケはようやく事情を察した。さっきまでしていた樹木の剪定中に被ってしまった木の葉が、髪に付いて残っているらしい。
「……取る?」
「オウ、頼むわ」
少し屈んで頭を差し出すと、長い腕が伸びてきて指が髪に差し込まれるのを感じた。しつこく残っているだけあって、どうやら髪に絡まってしまっているようだ。
く、とひとたび深く入った指先が、頭皮をやわらかく撫でた。梳くように髪の中を泳いだ指が、そのままその隙間から覗く白い耳朶をゆるくなぞる。
ぞわり、と妙な悪寒が背中に走った。
その甘さと危うさに、直感的に現れた理性が甘やかな動きをする手を払いのける。
「――…ッビった……おっま、妙な動きすンなって!」
ドン!と勢いのままに突き出した腕が、鍛えられた胸板を力任せに押し退けた。
そんなに力は強くなかったと思う。だが午前中いっぱいしゃがみこんでいたせいか、彼の足腰には疲労が溜まっていたのだろう。
ぅわ、と呻きながらよろめいたナルトの足が、一歩後ろに引かれた。呆気なくバランスを崩すナルトの、向こう側に広がる背景が視界に入る。
その中に、こちらに向かい高速移動してくる小さな影を見た、ような気は、……した。

――――ぶちん。

何か中身がパンパンに詰まったモノが押し潰されるような音が、足元でしめやかに聴こえた。
不自然な音に片足を後ろに引いたまま石化したナルトが、ゆっくりとその音源を確かめる。
床面を駆け回るヤツらを警戒して、彼が珍しくスリッパを履いてきていたのは僥倖であった。普段通りの素足だったとしたら、まず間違いなく当分の間は再起不能に陥っただろう。足の裏の皮を一層分剥き捨てるとか、本気で言い出したかもしれない。

「……『ぶちん』?」
「ごっ――ゴメンな、そんな力入れたつもりはなかったんだけどよ!わざとじゃなかったんだぜ?こんなの俺も完全に想定外だったというか」
「……なんか、あしの、うら。ふわふわするってば……」
「いやでも!これで無事ヤツもいなくなったし結果的には問題解決じゃね!?よかったじゃねェかナルトォ!」
「……ねえ、オレの足の下、どーなってる?」
「わかった、メシ、メシな!奢ってやるから!一飯とは言わず好きなもん何でも言えよ!」

狼狽を隠せない様子で柄にもなく宥め賺すような発言を繰り返すサスケを見詰めたまま、恐々としたままのナルトが奇跡の一撃を繰り出した足をソロソロと退けた。
一瞬の空白。
その後、足裏の惨事を確認したナルトによる表記不能な絶叫が、湿気の籠るアパートに響き渡った。