第十九話

――思考が。
こんなにも停止したのは、久しぶりだった。
気がついたら体が勝手に動き出していて。駆け出した足が地面を蹴っているのに気が付いたのは随分と後だった。さっきまで道に溢れていた色鮮やかな雑音が消え、ただ体内で脈打つ自分の鼓動だけが聴こえる。 
照りつける日差しが眩しい。眇めた瞳で振り返ってくる物見高い子供達を丸ごと全部無視して、ただひたすらにラベンダーの後ろ姿だけを追いかける。
(ンのやろ、ガキの癖に結構速ェじゃねえか……!)
すぐに追いつけるかと思いきや意外なほどに小学生の足は瞬足で、甘くみていたサスケは想定外の長距離走に息を詰まらせた。ただ頭の中だけが酷くシンプルだ。苦しくなっていく呼吸に反比例して、照りつける太陽に溶かされていくかのように、思考だけはどんどん単純化していく。
もうなんだかあれやこれや考えるのは疲れた。自分はこんなキャラじゃなかったはずだとか、兄さんがどうとか、あいつに対して何を思ってるとか、訳のわからない事ばかりこねくり回す頭に頼るのはもう止めだ。
ただ動かずにいられなかった。今はもうその衝動だけに身を委ねる。
(くっそ――心臓、やべえ――!)
やっぱちょっと運動不足だ。
酸欠の思考回路でサスケは思った。
こんな全力疾走は覚えている限り二年ぶりだ。どうしてあいつはこう毎度毎度、俺を走らせるのか。

     ☆

「離して、離してってば!」
ようやく追いついた脇の路地で背後からガッチリとランドセルを掴まれると、ショートカットの少女はなりふり構わなくなったかのようにじたばたと暴れ、ヒステリックに喚いた。ペンケースに入れられた筆記具だろうか、背中に背負った中の何かが騒々しい音を掻き鳴らす。
ランドセルを掴む手を振りほどくのは無理だと悟ったのか、少女がとうとう太い肩当てから肩を抜こうとしだしたのを見て、すぐさまそうはいくかとサスケはランドセルごと少女を後ろから腕を回しきつく固定した。問答無用で容赦のない対処に腹がたったのだろう、ぎゅんと睨んでくる視線のキツさは、これまでこちらに向けてきていた夢見るような視線とは全く違ったものだ。
「いい加減にして、大声出すわよ!」
「――いいぞ、出してみろよ。元々お前を交番まで連れていかなきゃなんねえとこだったんだ、あっちから来てもらえんのなら、その方が手間が省ける」
やってみろ、と低く言うと、地団駄を踏むように暴れていた細い足が、急に怖気づいたかのようにピタリと動きを止めた。ブロック塀に挟まれ影まった路地で、汗を浮かせ下を向く細いうなじを見下ろす。
「この前、傘に入れてくれた男に警報器押し付けて逃げたのは、お前か?」
整わない息を無理にはいてそう尋ねると、少女は無言のままつんと横を向いた。「お前だよな?」と念を押してみても、だんまりを決め込んだ口先は尖ったままだ。
「なんでそんな事したんだ。困ってるとこ、助けてもらったんだろうが」
少し声音を和らげてそう言うと、それに釣られたのか少女は「別に…!」と小さく唱えた。
ようやく口を開いた彼女に視線を向けると、一瞬上げられた顔は気まずそうにまた下を向く。
「別に、なんだよ?」
続きを促すと、ふてくされたような様子の彼女は「わざわざこっちから助けてって、頼んだわけじゃないもん」と悪あがきじみた言い分をぶつぶつと唱えてきた。「あたしは最初から、話しかけてこないでっていったのに」と言う顔は、変わらぬ憮然顔だ。
「へぇ……そうかよ」
じゃああいつがやったことは迷惑以外の何物でもなかったって事か?全然ありがたくもなんともなかったんだな?畳み掛けるように重ねて訊くと、頬を膨らませた少女はバツが悪そうにそのまま黙った。大きく乱れていた呼吸も、ようやく落ち着いてきたようだ。
「お前なァ、通りかかったのがあのお人好しだったから、そんな事言ってても見捨てられなかったんだぞ?俺だったらそんな生意気言うようなガキ、絶対面倒みねェからな」
そこんとこ、ちゃんとわかってるか?とうつむいた顔を覗き込むと、ふくれつらだった顔はなぜかポカンと呆気に取られたようになって、言われた言葉を反芻しているようだった。
やがて開いてしまった口に気が付いたのかきゅっとそれが結ばれ、今度は泣き怒りのような複雑な表情になる。
「なによ……やっぱりあっちの方が、あってるんじゃない」
「あァン?」
「だからあの人嫌いなのよ。あの、金髪の人」
悔しげに呟かれた言葉に下を見ると、伸ばした前髪の影からうすい桃色の唇が見えた。頑なだった肩が、かすかに震えている。
再び遁走されないよう注意を払いながら、サスケはそろりと抑えていた腕を解いた。少女の足から力が抜けているのを確かめつつ、ゆっくりと彼女の前に立つ。
「お前さ、前に俺の名前言い当ててたよな。もしかして、ナルトの事も前から知ってたのか?」
彼女を刺激しないよう慎重に尋ねると、少し引かれた小さな顎が僅かに縦に揺れた。
いつから?どうしてあいつの事知ってんだ?
併せて訊くと、やがて観念したかのようにか細い声が「……見てた、から」と打ち明ける。
「ずっと前――管理人さんが、朝いつもいた頃。サクラが風邪で学校休んだ日に、ひとりで通学路歩いてたら、アパートの前で、あの金髪の人が管理人さんと喋ってて」
朝いつもいた頃、という言葉に、サスケはぼんやりと思い至った。まだ大学に入る前、重吾が来る以前の話だろう。
あの頃確かに朝の清掃業務から自分がやっていたこともあって、夜勤帰りのナルトと表通りで会う事が多かった。丁度彼の足のリハビリもその頃あって、なおのこと早朝から病院へ行くナルトと喋る機会があったから、もしかしたらその時かもしれない。
「その時、あの人が管理人さんの事『サスケ』って呼んでたのが聴こえて――それで」
落ち着かない気持ちをどうにか誤魔化そうとでもしているのだろうか、組んだ指をもじもじと動かしながらそう告白した少女に、サスケは小さく息をついた。
なるほど。 どうやって調べたのかと勘ぐってみたが、蓋を開けてみればなんということもない。単に立ち聞きされていたというだけだったのか。
「でもなんでそれで、あいつの事そんな嫌う事になるんだ?お前とは別に、これまで接点も無かったんだろ?」
話の繋がりが読み取れなくて少し眉をひそめたサスケに、ぱっと顔を上げた少女は「だって!」と口を尖らせた。だって、あの人、敵だもん。
「敵?」
訳がわからず首をひねったサスケに向かって少女はこっくりと、厳粛そうに頷いた。汗で湿った後れ毛が、すべらかな頬に一筋残る。
「管理人さん、挨拶すると一応返事はしてくれるけど、作ったみたいな笑顔しかしてくれないし、あたしたちに全然興味持ってくんなかったでしょ?いつもすっごい適当にあしらってたし」
つらつらと並べ立てられていく文句に少し耳が痛くなるのを感じつつ、サスケは唖然としながら徐々に尖っていくピンク色の唇を見た。そうか、作り笑いは見破られていたのか。意外と鋭い子供の目に、バツが悪くなる。
「二年も経つのに、いまだに『小学生』って呼ぶし。名前訊いてもくれないし」
確かに今回の件でも、彼女たちの名前は全然サスケの頭の中にはなかった。つまり、一回も尋ねた事もなければ気にもしたことがないという事で。
「こっちが名前訊いた時なんて、面倒だからって適当にはぐらかしたし」
成程、それでこの子はあんな怒ったような顔していたのか。つくづくよく見てたものだなと、ちょっと感心する。いや、感心している場合ではないのはわかっているのだけれど。
「それなのに、あの人とだけは嬉しそうに喋っちゃって。朝からふたりしてイチャイチャしてるし、なんか楽しそうにじゃれあったりしてるし」
「おい待て、イチャイチャはないだろ、イチャイチャは」
あまりにあけすけな表現につい物申すと、ムッとした様子でやわらかそうなほっぺたが膨らんだ。
「イチャイチャだよ!だってあの人、管理人さんを見る目がハートになってたもん!」
躊躇なく子供の口から飛び出した言葉のてらいのなさに、なんだか目眩がするようだ。
「あたしだって『サスケくん』って呼びたかったのに、呼ばせてくれなかったし」
「呼ばせてくれないもなにも、勝手に呼んでたじゃねえか」
「呼んだけど、嫌そうな顔したでしょ!」
「……そんなことない」
「そんなことある!あの人に呼ばれた時は嬉しそうにしてたのに。ずるいよ、そういうのって『えこひいき』っていうんだから!」
耳慣れない言葉に思わず「は?」と聞き返すと、そのポカンとした様子が癇に障ったのか、彼女はますます目を怒らせた。「えこひいきだよ!管理人さんはあの人の事ばっかり、特別扱いしてる!」という科白にますます口が開く。昂ぶった少女の切れ長の瞳の中には強い光が閃いて、まるで星が散っているみたいだ。
「あたしだってずっと管理人さんと仲良くなりたいと思って頑張ってたのに。もっと管理人さんのこと知りたいのに。なのになんであたし達には全然振り向いてくれないの?相手にしてくれないの?」
そう言って悔しげな瞳を向けてきた少女に「いや、だって……しょうがねえだろ」とへどもど返すと、歯切れの悪い言いぶりに苛立ったかのように、小鹿のような脚が再び踏ん張られた。
もう完全に開き直ったらしい。この際訊きたい事は全部訊いてやるという決意が、賢そうな眉間に漲っている。
「しょうがないって、何がしょうがないの?やっぱり、あの人ともう付き合ってるからってこと?」
するりと言われた単語の聞き捨てならなさに、思わず息をするのを忘れた。とうとう言ってやったぞといった様子の少女が、緊張した面持ちでじっと返答を待っている。
付き合ってる?俺とあいつが?
というか『やっぱり』って何だ、いったいどういう意味だ?一気に沸点に達した頭がまっしろになり、わななく唇がうまく言葉を紡げない。

「おまっ、なんっ……!」
「どっち?違うの?」
「当たり前だ!なんでそうなる!?」
「だってふたりして熱い視線で見つめあったりしてたし、管理人さんあの人を自分ちに連れ込んだりしてるし」
「人聞きの悪い事言うな!つかなんでそんな事知ってんだ」
「あの人から聞いたもん。これだから大人って」
「くだらねえ想像してんじゃねえよ……!大体があいつはただのうちの店子だ!同じアパートに住んでるってだけの男だ」
「嘘ばっかり!」
「嘘じゃねえよ!」
「だったらどうしてあんな一生懸命になってあたしのこと追っかけてきたのよ!そんな汗かいちゃって、息切らして。あたしたちには全然見向きもしてくれないのに、どうでもよさそうな顔して素通りしちゃうのに。『ただの』なんて言うなら、ちゃんと納得いくように説明してみてよ!」
「どうして?どうしてって、そりゃ――」

矢継ぎ早の詰問にショート寸前の頭の中、浮かび上がった答えのあり得なさに息が止まった。
握り締めた手のひらの内側で、尋常でない程の汗が吹き出る。いや待て、だってそんなの――冗談だろ?認めたくない一心で、熱くなった頭が何度も自問を繰り返す。
気持ちをぶつけられた時、迷いなく切り捨てる事ができなかった。
似てもいない人に無理矢理重ね合わせて、自分の気持ちに無茶な言い訳をつけたりした。
いなくなる事が馬鹿みたいにショックな癖に、彼の努力や名誉が汚されるのが我慢ならなかった。
訳のわからなかった迷走も、押し寄せられた問いかけへの回答も。それを認めてしまえば驚く程簡単だ。つまるところ、たったひとことで全部、説明できてしまうじゃないか。


嘘だろ、そんなこと――絶対にないと思ってたのに。


……正体不明だった感情に名前が見つかったその瞬間、まっくろな瞳が他に気を取られているのを敏感に察したのか、今がチャンスとばかりにぱっと横を向いた少女は、再びサスケの前からの逃亡を試みた。
はっとして、咄嗟にその振り子のようにぶら下がった給食袋を抜かりなく掴む。
危なかった。まったく、油断も隙もない。図らずも重大な事実に気が付いてしまったところではあるけれども、今はそれよりもこっちの問題の方が先決だ。
「ちょっ……ほんとヤダ、いい加減離してよ!」と足掻く少女に、「るせえ。いいから、ちょっと聞け」と掠れた声で小さく吐く。
「いいか。お前が俺らを見て何をどう思ったのかは知らねえ。知らねェが、少なくともお前のやった事は、決して軽い話で済むような事じゃないだろうが。あいつは今、このあいだお前が起こした騒ぎのせいで、大変な事になってんだぞ」
絡まりそうになる舌を励ましながら低く言うと、少女は「またそんな子供相手だからって、大袈裟な言い方で脅そうったって」と再び足掻いた。諦める様子の無い彼女に向かい、「脅しなんかじゃねえよ。他人の人生がかかってんだ、子供だろうがなんだろうが関係あるか。真面目に聞け!」とぴしゃりと言う。 
その言葉に、足を踏ん張って強情を張っていた少女の力が弱まった。びんと張り詰めていた給食袋の紐が緩んだのを見て、慎重にその手を離してみる。
静かに彼女を再び自分の前に引き戻すと、少し考えてからサスケはゆっくりとしゃがみこみ、アスファルトに片方の膝を着いた。目線を少女にきっちり揃えると、かすかな狼狽にさまよう瞳をじっと覗きこむ。
「もしも。もしも本当にあいつがお前に対して、故意に傷つけるような事をしたのなら。その時は俺が責任を持ってきちんとあいつに反省させるし、お前にも謝罪させる――必ず」
言いながらも、実際はそうではないのだろうと、どこかで確信していた。
そういう事をする奴じゃない。
それは自分が、誰よりもよく知っている。
「でももしそうじゃなくて、俺に対する何かが原因でお前があいつにあんな事をしたのなら。それは、筋違いってやつじゃねえのか?そりゃあ、その……ヤキモチ、ってやつだろ?」
遠慮がちに告げた単語であったが、それを聞いた少女はかあっと一気に頬を赤らめて、すぐさま「ちがうよ!」と声高に叫んだ。ちいさな白い握りこぶしが、全力の否定に力が入りすぎて震えている。
「……ヤキモチじゃないのか?」
「違うよ、そりゃあの人ばっかりいいなあって思ったけど――羨ましかったけど、でもそれだけであんな事しないわよ。そうじゃなくて、サクラが」
サクラ?と聞き返しながら、サスケはいつもセットになっていたピンクのランドセルを思い出した。あのオカッパの方の子の事か?訝しみながら覗き込んだ瞳の中に、真面目な顔をした自分が映りこんでいる。
「そういやお前ら、今日も一緒にいなかったな。それがなんか関係あんのか?」
ふと先日見かけた時にも彼女がひとりで歩いていたのを思い出し、尋ねたサスケに少女はかすかに頷いた。
「このあいだ管理人さんの名前をきいた時、あたしだけ名前知ってたのに秘密にしてたなんてずるいって――こっそり抜けがけするなんて、そんなの友達じゃないって。もう絶交だって、サクラに言われて」
息継ぎと同時に唇を噛み締めた彼女をほうけたように見詰めながら、先日のくだりが蘇ってきた。
確かにサクラとかいう子の方は、純粋にこちらの名前を知りたいがために、あの日はあれこれ喋りかけてきていたようだった。追求に面倒になって『秘密』と誤魔化したサスケに向かい、謎めいた笑いを浮かべ名前を言い当てた友人を、心底驚いたといった様子で眺めていたのを思い出す。
「そりゃずっと黙ってたのは悪かったとは思うけど。でもしょうがないじゃない、あたしだけの秘密にしておきたかったんだから。サクラはそりゃ親友だけど、それとこれとは別だもん」
「なんだそりゃ……そんな事で喧嘩してんのか」
打ち明けられた喧嘩の原因に呆れたような声を出したサスケだったが、間髪いれず「そんな事なんかじゃないよ!好きな人の名前なんだから!」という鋭い目付きで睨まれ、ぐったりしかけた背中を伸ばし直した。
子供じみて見えたり、かと思えばいっぱしの女性のような目付きで睨んできたり。まったく女の子というのは忙しい。
「だったらもう、最後まで秘密にしとけばよかったじゃねえか。なんで俺に名前知ってんのバラしたんだ?それもわざわざあんな、気を引くような事言ってみたりして」
話の核がよくわからなくて少し眉をひそめたサスケに、少女は苛立ったように「だって」と言った。
切り立ったようなブロック塀の影の中、サスケの言葉に、尖っていた唇が一旦きゅっと真横に引かれる。
「……だって、もっと真面目に、あたしのこと見て欲しかったんだもん。『小学生』じゃなくて、ちゃんと、名前で呼んで。あの人の時みたいな顔で、笑って欲しかっただけだったのに……」
言い終えてしばらく食いしばっていた唇は、次第にふにゃふにゃと波打つように乱れ始めていった。
まっすぐにこちらを見上げてくる瞳には、みるみるぶ厚い水の膜が張られていく。
「ほんとに、ただそれだけだったのに――あんなにサクラが怒るなんて。絶交って言ったって、これまでは喧嘩してもサクラの方からやっぱり一緒にいてって言ってくるのに、今回はあの子全然折れてこなくて。会っても無視されちゃうし、朝も帰りも先に行っちゃうから声掛ける隙さえないし。学校にいてもつまんないし、もうどうしたらいいのかわかんないって感じで」
ああ、そうだろうな。先日見た寂しげな後ろ姿に、なんとなく学校での彼女の様子が思い浮かんだ。
仲のいい相方が急にいなくなって、さぞやつまらない毎日だっただろう。居場所がない学校の心許なさは、うっすらとなら想像がつく。
「あの日もサクラは雨が降る前に他の子と先に帰っちゃったから、あたしだけ濡れちゃって。そしたらあの人が通りかかって」
巡り巡ってようやく登場した事件の主人公に、サスケは軽くため息をついた。やっぱり女の話って長ェなあなどと、こっそり不謹慎な事を思う。
「あたしたちが喧嘩してるって聞いたら、なんか、すっごく真面目に、励ましてくれて。大丈夫だからって。ちゃんと気持ちを伝えれば、きっとまた仲良くなれるって。なのに」
「なのに?」
やっと顔を出してきた話の核心らしきものに首を傾げながら先を促すと、最後のひと堪えをみせるかのように少女は短く息を吸った。
ひゅっ、という湿った風切り音がして、やがて震える唇が言葉を紡ぐ。

「あの人、最後になって、『恋愛さえ絡んでなければ』、友情は壊れないって……」

ふ、と鼻の奥で一度引き攣るような呻きを漏らしたかと思うと、そこがもう彼女の限界だった。堰を切ったかのようにぼろぼろと雫が転がり落ちていく、まっかなほっぺたを呆然と眺める。
なるほど。つまり、淋しさと不安とでぐちゃぐちゃになっていたところにナルトが変な追い打ちを掛けてしまい、それが彼女の癇癪を爆発させる要因となってしまったという事か。
(だけどまあ、やっぱ、それだけじゃねえんだろな)
いつだったか水月に言われた、『愛情の反対は無関心』という言葉がふいに思い出された。
確かに関心が持てないという事自体は、別に責められるような事ではないのだろう。だけど好きな相手に自分がどんな人間か知ろうとさえしてもらえないというのは、どれほど彼女にとって残酷な仕打ちだったことか。悪気は無かったとはいえ、自分の無関心が彼女を傷つけていたというのは、紛れもない事実だ。
何度も目許を拭う幼げな細い指にぼんやりとそう思っていると、折れた道の先に繋がる表通りの方から、子供達の賑やかな笑い声が聴こえてきた。
最後のプライドなのか、少女はくぅくぅと声を抑えて泣いている。
好きな人に振り向いてもらえないことよりも、一番仲の良かった友達にそっぽを向かれる方が余程堪えているらしい彼女は、どれだけ大人びた事を言っていても確実にまだ子供なのだった。
ヤキモチなんかじゃないと言い張っていたが、やはりこの行き過ぎとしか思えない行動の根っこにあるのは、ナルトに対する言いようのない嫉妬だ。
多分、どうしようもなく羨ましかったのだろう。
憧れの人も、信頼しあえている友達も、どちらも容易く手に入れているように見えたナルトが。実際はその時彼はその全てを失いかけていて、だからこそ懸命に彼女に仲直りを勧めてきていたのだろうに。
胸の内を吐き出せてスッキリしてきたのか、引き攣れのようなしゃくりあげが少しずつ収まってきたのを見計らって、サスケは落ち着いた声で「なあ、」と呼びかけた。泣きはらして白ウサギのようになった瞳が、とろんとした動きでこちらを向く。
「さっき、俺が言った事覚えてるか?あいつが今、大変な事になってるって」確かめると、少女はためらいながらもこくりと小さく頷いた。
「もしかして、逮捕、とか――されちゃったの?」
まだところどころひくついた声が、かすれがすれに訊いてくる。
「さすがに逮捕はされてねえけど。だけどお前がついた嘘のせいで、あいつのずっと叶えたくて頑張ってきた夢が、駄目になりかかってる。叶うところまで、あともう一歩だったのに。もしかしたら、この先のチャンスも全部なくなるかもしれない」
現実をそのまま突きつけるのは酷かとも思ったが、サスケは敢えてそのままを口にした。
予想通り、少し青ざめた様子の少女が怯えたようにうつむく。
可哀想にも思えたが、慰めを言う気は無かった。どんな理由があったにせよ、彼女がした事はある意味、自分の立場を逆手にとった弱い者苛めだ。子供だからといって許されるような事ではない。
「……お前さ。あいつの事嫌ってたみてえだけど、実際喋ってみてどうだった?嫌な奴だったか?」
黙りこくってしまった彼女をしばらく見守っていたサスケだったが、ふと思いついたように訊いてみた。
その言葉に、ようやく許しが出たかのように顔を上げた少女は言いにくそうに、「イヤな奴じゃ、なかった」と答えた。
「いい人、だと思った――悔しいけど、管理人さんより優しいかもって」
そんな言葉に、ほんのり苦いものがこみ上げる。
「なら、その最後に言った言葉も。あいつに悪意があったと思うか?自分のやったことは正しい事だったと、今でもそう思うか?」
静かな質問に細い首がゆるゆると動いて、小さな頭が儚げな風情で左右に振られた。頼りなげな上目遣いで、糸のように細い声が「……思わ、ない……」と答える。

「――だよな」

ため息混じりにそう呟くと、サスケはほどけたように苦笑した。
それを見てまた急にのぼせたようになった少女をまっすぐに見詰め、息を整える。
「あのな、もし俺がお前達を傷つけていたなら、それは俺が謝る。言いたい事や文句もあるなら、俺が聞くから俺に言え。だから――お前も、ちゃんと謝ってやってくれねぇか?」
片膝を着いたままそう頼むと、「謝る?」とまだどこか上の空な様子の彼女は、オウムのように小首を傾げた。
それに頷き返しながら、「交番まで行って、あれは間違いだったって。ちゃんと言ってやって欲しいんだ」とつとめて丁寧に、確かめながら言う。
「交番、まで、行かなきゃいけないの?」
「ああ。頼む」
「……ひとりで?」
少し間を開けて発せられた問いに、ちょっと黙ったサスケはおもむろに「お前、名前は?」と尋ねた。その問いに、まぶたを腫らしつつも泣きやんだ少女が、またひとつ「ふ、」とその細い咽喉の奥を鳴らす。
しかしやがて意を決したかのように、小さな胸が深呼吸をひとつした。まるでとっておきの秘密を打ち明けるかのように、やわらかな吐息が大切な言葉をそっと紡ぐ。

「――いの。やまなか、いの」

胸の内を全部吐き出せたかのようにほおっと息をついた彼女に、サスケは折っていた膝を伸ばし腰を上げた。
立ち上がった高い位置にある頭を眩し気に見上げてちょっと目を眇めた彼女を見下ろすと、さりげなく汗を拭った手のひらを、静かに差し出す。
「大丈夫だ、俺も一緒に行ってやるから。――行くぞ、いの」



炎天下の逃走劇の、その後の顛末。
泣きはらした顔のいのを連れアパートの前に戻ると、待っていたのは路上でオロオロと佇んでいる重吾の姿だった。まだ興奮冷めやらぬといった様子の彼を帰宅させ、管理人室には不在の札を出したまま駅前の交番までいのを連れて行った後、出迎えた警官たちに頭を下げる彼女を後ろで見守り、最終的には彼女を家の近くまで送り届けたのだった。
いのには「家まで送るぞ?」と申し出たのだけれど、それを彼女は急に青ざめた顔をして固辞した。なにやら、パパに見つかると恐ろしいことになるから家の前までは来ないで欲しいと言う。そんなに厳しい父親なのだろうかと首を捻りながらも、全部終わらせてから管理人室に帰ってきた頃には、壁の時計が指す時刻は、もうすっかり業務時間を過ぎていた。
自室に戻り、ざらりと不快な感触になってきていた体を熱い湯で流す。
汗を吸ったTシャツとジーンズも洗濯機に放り込むと、幾分か気分はスッキリとしたようだった。頭を拭きながら窓の外を見ると、もう充分夜と言ってもいい時間だというのに、空は一向に暗くなってきていない。水気を吸ったタオルをうっちゃって、濡れた髪のまま畳の上で足を伸ばす。部屋着のハーフパンツから伸びたふくらはぎは、疲労のせいか明らかに普段よりこわばっているようだ。
あの程度で筋肉痛なんて冗談じゃないと思いつつ筋を伸ばしていると、カバンの中に放り込んだままの携帯電話が呼び出し音を奏でだした。ピリリリリリ、という面白みのないコール音が、片付いた部屋に鳴り響く。

『あっサスケ?今さあ、ナルトから連絡あって。夕方運営部の方からまた呼び出しがあって、例の事件が誤解だったってのが確認できたから、最初の予定通りこのまま入団してもいいって!』

こちらが何も言わないうちに喋りだしたカカシは一気にそう告げると、息を次ぐためか一瞬だけ静かになった。相槌も待たないで、『なんかね、例の女の子が今日駅前の交番に自分から現れて、嘘ついてごめんなさいって謝ってきたんだって。よかったよ~本当に。流石に今回はどうなることかと思ったよ』と勝手に盛り上がる声がする。
話の切れ目を見計らって、サスケはとりあえずそこで一度、「ふうん」とだけ応えた。良かった。この様子から察するに、どうやら目論んだ通り、昼間の話はこのからかい好きな男には伝わっていないようだ。
昼間起きた一連の話を、サスケはもう誰にも喋るつもりが無かった。カカシへも敢えて連絡しなかった理由はいくつかあるが、一番は既にその必要がなかったからだ。
運営部への連絡は、いのの謝罪のあと交番であの長髪の警官にその場でしてもらったし、彼女へのお仕置きは足を踏み込んだこともなかった交番で、そびえ立つ男三人に取り囲まれた中で「ごめんなさい」を言うという刑だけでもう充分だと思えた。ナルト本人に直接謝罪させられなかった事だけが心残りだが、代わりにいのには交番でみっちりお説教(これは短髪の方の警官がかなりくどくどと熱く説いていた)がされていたし、もうこれ以上彼女を突つき回すのは少し酷だろう。
(それにこいつが昼間の話なんか知ったら、絶対大喜びでなんか言ってくるだろうし)
通話口から聞こえてくる明るい声に、サスケはうんざりとした気分で思った。いのがどうしてナルトにきつく当たったのかを説明されられるのも頭が痛かったし、それにやたらナルトとの事を気に掛けてきていたカカシの事だ。きっとサスケが少女を追って飛び出したなんて言おうものなら、間違いなく「ほらね、やっぱりほっとけないんじゃないの」と、したり顔で食いついてくるに違いない。
こちらの思惑はさておき、カカシの声は明るかった。
弾んだ様子のまま、でね、と繋げる。
『今週末、あいつ一旦こっちに戻って来るって』
「そうか」
『もう、そうかじゃないでしょ。わかってんのサスケ』
素っ気ない返事に号を煮やしたのか、ちょっと呆れ混じりな雰囲気を漂わせ、カカシが言った。「何が?」と聞き返すと、『だから結局、話が元に戻ったってことだよ』と焦れたような声がする。

『ナルトがここを出てくってこと――お前達、まだ仲直りしてないんでしょ?』

(……るせえなあ、しつこく言ってくンじゃねえよ)
茫洋とした寝ぼけ顔を思い浮かべながら、サスケは声には出さず悪態をついた。わざわざ改めて言われなくともわかってる。だから今こうして、柄にもなくちょっと難渋してんじゃねえか。
『最後にちゃんと話くらいしたら?何にも言わずにこのまま別れる気?』
「どうせ引越しの時、一回は会うだろ」
退去の立会いがあるし、とぼそぼそと言い訳するように告げると、ようやくカカシが気がついたかのように『ああ、』と呟いた。電波越しの声が、いやに耳にざらつく。
『言ってなかったっけ?ナルトの入るチームって企業がやってる実業団だから、普段練習のない時はそこの社員として普通に仕事する事になってるんだって。まあそれは来月からでいいみたいだけど、チームの練習にはその前から参加する事になってて。入団式を兼ねたそれの初日が、もう来週の月曜にあるのね』
つらつらと説明される声が鼓膜を擦る。回りくどい話が、うまく頭に入ってこない。
『で、例の画像のせいでゴタゴタしてて、引越し屋さんの手配が間に合わなくてさ。とりあえず今週の土日使って荷造りして、あいつだけ身一つで日曜の晩飛行機でまた向こうに行けばいいよねって事になって。荷物は俺が後から送る事になってんの、あっちの家へ』
規約では退去の立会いは荷物全部出してからでしょ?と急に確かめられて、携帯を持つ指がかすかに滑った。「あ?ああ」と鈍い舌で返事を転がす。
『だからその立会いも俺が代理人になるから。それだけのためにわざわざ北海道から戻ってくるのも大変デショ。往復の渡航費もバカにならないし』
ようやくカカシがこんなにせっついてくる理由がわかった。そうか、つまり。
つまり、このままではもう、ナルトと会う機会は無いという事か。

『……サスケ、サスケー?あれ、聞こえてる?』

一瞬遠のいた意識が、名前を呼ぶ声に引き戻された。
「……うるさい。聞こえてる」と言い捨てると、電話の向こうでかすかな苦笑の気配がする。
『だからね、いい加減他人だ何だなんて馬鹿な事言ってないで、仲直りしちゃいなさいよ。ナルトの荷物を纏めるの手伝ってあげるとかさ』
「なんで俺がそんな事」
『だって、声掛ける理由が欲しいでしょ?仲直りするきっかけが』
こちらを見透かしたかのようなカカシの言葉にだんまりを決め込むと、やれやれ、まったくこの子はといった様子のため息が伝わってきた。顔は見えないけれど、電話の向こうでは多分、カカシの眉毛は完全にハの字になっているはずだ。
『あのねえ、親兄弟じゃないんだから、友達なんて何にもしないでいたら、離れてるうちにどんどん疎遠になっていっちゃうもんなのよ?』
カカシの声が遠い。外を歩きながら喋っているのだろうか、時折音が振れたように弱まる。
『ホントにもう、昨日は俺の事待ち伏せしたりしてたから、珍しくお前の方から折れるのかと思ったのに。なんかちょっとやり過ぎなんじゃない?ナルトはナルトで、いつもだったら喧嘩が長引くとしびれを切らしてソワソワしてたりするのに、今回は全然そんな事も無いし。なにをそんな』
「あいつ、そうなのか?落ち着いてんのか」
滑らかに言い募られた言葉の一端に引っかかってふと問いかけると、喋っている口を遮られたカカシの言葉が少し不満気に止まった。
『――落ち着いてるよ。なんかもう、ただひたすらに前だけ見て進んでるって感じ』
くぐもった声が、通話口から漏れる。

「……なら、別にいい。このまま、会わなくても」

代理人を立てるなら、その同意書も退去願いと一緒に出せってあいつに言っといてくれ。
事務的な事のみを淡々と告げると、電波に乗ってふかぶかとしたため息が届いてきた。……ハイハイ、同意書ね。半分やけになったような復唱が、うんざりしたように響く。
『まったく……強情なんだから。知らないからね、本当に』
「要件はそれだけか」
『それだけかって、ねえちょっと、お前ね 』
ふと真剣になったカカシの声を拒むかのように、携帯の通話回線を打ち切った。腕を伸ばし、文机の上に携帯を滑らせる。
大きく開いて投げ出したままだった脚に気が付くと、サスケは少しそれを閉じて、しげしげとその遠いつま先を眺めてみた。大きな爪、痩せた脛。色こそ白いかもしれないが、間違いなく男の脚だ。
(あいつ。こんなごつごつした男の、どこが好きだっていうんだろな)
――いや、それを言ってしまったら自分だって。
いつかの口付けの記憶が蘇ってくると、今更ながら頬が熱を持つのを感じた。思わず舌打ちと共に、顔を伏せる。考えてみれば、男にキスされたのに一度も嫌だとか気持ち悪いとかいう感想は湧いてこなかった。大体が、本当に嫌だったのならナルトの言うように避ければ良かったのだ。酔っていたとはいえ、やろうと思えば拒否する方法はいくらでもあったはずだ。
(絶対に兄さん以外の奴に、靡くなんて事ないと思ったのに……)
やわらかく尖った骨の形を浮かせているくるぶしに、サスケはぼんやりと視線を流した。影のでき方が、生前の兄のそれとそっくりだ。昔、やっぱり同じように足を投げ出して、隣りにいた兄と一緒にお互いの足を見比べたことがあった。兄弟ってのはどうでもいい所が似てるもんだなと、笑いあったのを思い出す。
兄のことが、この世界で誰よりも好きだった。絶対だった。疑ったこともなかった。
なのに、誰も入り込めないと思っていた場所に、気が付けばいつの間にかあの気のいい男がちゃっかり住み着いていて。どうしても無視できないあの金色に、間違いなく揺さぶられているのを感じた。
どちらの方が比重が多いかと訊かれれば、多分今でも兄の方だ。それは変わりない。そこまで変えられてはいない――それなのに。
(だけど、今頃こんな事考えたところで……)
夕闇に溶けて薄くなっていく部屋の影を、どこか諦観するような気分で見渡した。『ただひたすらに前だけ見て進んでるって感じ』と、彼を評したカカシの声。 
それを聞いた時、早くも何かがひっそりと終わった気がした。ああ、あいつはもう決めたんだな。そう思った。
どれだけ自分がここでひとり勝手な事を考えていようとも、全部『今更』なのだ。多分ナルトの方では既に色々なものに決着が付いていて、だからこそ彼は、ちゃんと前に進み出すことができたのだろう。
だったらあとはもう自分に出来るのは、このまま黙って彼を送り出してやる事だけだと思った。手前勝手な望みで彼の行く手を阻んでしまわないよう、静かに見守ってやるだけだ。
回り回ったけれども、結局出た答えはナルトに告白された時に出したものと同じものだった。あの時よりももっと切実な気持ちで、今はこの結論が間違いではないと思える。
彼の夢が叶えられてよかった。
自覚してしまう前に、先に手を離せてよかった。
きっと今なら、全部間に合う。ここでの日々を過去にして。遠い場所で、他の誰かと幸せになれる。

(そして俺も元の平穏な日々に戻る、と。――万事解決じゃねえか)

ため息と共に、畳に手を付きサスケは立ち上がった。
カーテンを引こうと窓に寄ると、彼方に飛行機の赤いランプが見える。ふいに、親兄弟じゃないんだから、友達なんて何にもしないでいたら、離れてるうちにどんどん疎遠になっていくものだと言った、カカシの言葉が蘇った。
確かにそうなのだろう。実際、たったこの数週間だけで、自分とナルトとの距離は随分と遠くなった。
実質的な距離も、多分、心の距離も。
あいつはもうとっくに、分かれ道を進み始めている。
(クソ――だから俺はこういうの、本当に苦手だって言ったのに)
赤いランプは読めないテンポで、ゆっくりと点滅している。
窓から見渡せる遅い日没を終えた街の低い屋根達は、ゆらゆらとした暗紫色に染まっていく。



「ああ、ちょうど良かった。お待ちください」
次の日、珍しく声の漏れ聞こえてくるドアを開けると、飛び込んできたのは少し困り顔で電話をしている重吾の、丸められた背中だった。
こちらを見た瞬間、救われたかのような目になる。通話口を手のひらで覆い隠してこちらを向くと、大きな体に見合わない密やかな声で「すみません、来ていただいて早々なんなんですが」と早口に言った。
「今、表の張り紙を見たんですがって人が電話してきてて。女性なんですけど、まだ空いてますかって」
「うちの横の部屋?」
「ええ。ひとりで住まわれるらしいんですが、ただ一緒に猫を連れていきたいとおっしゃってて。でもここ、ペットは不可ですよね?」
「あー、猫か……そうですね、それはちょっと」
渋顔で言葉を濁すと、ですよね、と苦笑した重吾はすぐに前に向き直り、古いタイプの受話器に向かい「ごめんなさい、やっぱりうちでは」と落ち着いた声で告げた。丁寧な物言いにすんなり相手も引いたのか、それ以上揉める事もなくすぐに「チン」と音をたてて受話器が置かれる。
ふう、と小さなため息が漏れるのを聴いて「すみません、断っていただいて」と言うと、重吾はちょっと慌てたかのように「いえいえ!全然」とはにかんだ。既に帰る準備も終えて待っていたところだったのだろう、脇にはしっかりと口を閉められたカバンが、肩に掛けられるのをまだかと待っている。
壁時計の針はまだ昼前だ。今日は用があるので昼には退出したいという重吾の希望で、朝からふたコマのみ講義を受けただけで、大学から戻ってきたところである。
「こちらこそすみません、いつも勝手ばかり言ってしまって」
珍しく急いでいる様子の重吾はカバンを手にしながら、ちょっと早口になって「ああ、あと、昨日お話した件なんですが」と続けた。昨日?と聞いてもピンとこない様子のサスケにちょっと申し訳無さそうにしながら、「ええと、裏庭の」と説明する。
「――ああ、」
「昨日はお願いしちゃったんですけど、さっき改めて見たら結構荒れてて時間かかりそうだなって。大変でしょうし、やっぱり俺がやります。そのままにしといてください」
どことなくぼおっとした頭で話を聞いていたサスケであったが、言われた事に気付くと急いで「いや、大丈夫です」と言った。今日は金曜だから、重吾に頼むとなったら土日もそのまま放置しておくことになってしまう。
「今日この後、俺がやりますよ。少し体動かさなきゃいけないなと痛感してたとこだし」
苦笑いと共にそう言うと、重吾は「そうなんですか?あんなに走れてたのに」と僅かに目を大きくした。
昨日いのを連れて戻った時にも重吾には随分と瞬足を感心されたのだけれど、今朝もまだ少し脚は張っているし、現状は手放しでは喜べないといったところだ。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃいますけど。でも本当、裏庭の件は無理のない範囲で。残しておいてくれたら、週明けに俺やりますから」
最後に再び引き継ぎに話を戻してから、お先に失礼します、と最後までこちらを気にかけている様子の重吾が急ぎ足で出て行くと、管理人室は途端にがらんとした空虚な雰囲気に包まれた。聴こえてくるのは壁の時計の秒針が動く音と、エアコンの稼動音。それから部屋に備え付けられている小さな冷蔵庫のモーター音だけだ。
(まいった――思うようにはいかねェもんだな)
デスクの前に張られたメモを読み流しながら、サスケは空いた回転椅子にぎしりと体をもたげた。
すぐに決まるわよ、などと気安く母親は言っていたが、実際のところ空いた部屋への問い合わせははかばかしくなかった。梅雨時という時期も悪かったのかもしれない。傘を差して歩く事の多いこの季節、誰しも注意は足元にいくばかりで、あまり周りの風景にまで目がいかないだろう。ましてや、こんなボロアパートの壁だ。そんな場所に注視するような人物が、そうそういるとは思えない。
そう考えつつもふと、ここのところ連絡が途絶えている香燐との約束の事を思い出した。沈黙が逆に恐ろしいような気もしたが、このままでいくといよいよ隣に彼女が越してくるというのも、現実味を帯びた話になるかもしれない。こっちはこっちで、いずれにせよ近々何らかの覚悟を決めなくてはならないだろう。
(あの時、あのままナルトが隣にきてたら、どうなってたんだろうな)
乾かしたてで熱を孕んだ洗濯物を抱え、一緒に帰ってきたあの日。隣に越してこないかと誘ったのは、自分の方だった。なにしろ本気で思ったのだ、もっと近くに来て欲しいと。思えばあの時既に、自分は彼に陥落されていたのかもしれない。
……だけどきっと、現実はそう思ったように上手くいかなかっただろうな。
冷静になって考えれば考えるほどに、それがいかにお気楽な算段だったかが思い知れた。今彼がここから出て行かなかったとしても、いずれきっと、今度はサスケの方がここを出なければならなかっただろう。
すぐではないにしても、いつかナルトが言っていたように、どのみち自分は実家に戻って父親の病院を継ぐ事になる。そうしたら結局、また離れ離れだ。その時ナルトは、どんな人生を送っているのだろう。彼の夢は叶えられているだろうか。彼らしい生き方ができているだろうか。とてもじゃないが、世の中がそんな都合よく出来ているとは思えない。
遅かれ早かれ、同じ結末だ。それが『今』だというだけで。
(――少し外の空気でも吸ってくるかな)
どうしようもない事を考えるのは諦め、がたがたとレールの悪くなってきているデスクの引き出しを開けて、中から半透明のゴミ袋を一枚引っ張り出した。重吾はああ言ってくれたが、ひと月前にきっちり手入れしたばかりだ。荒れてるといったって、大した事ないだろう。
『巡回中』の札を出してから小窓に鍵を掛けると、サスケは管理人室のドアを開けた。カラリとした風がエントランスを吹き抜けて、強い日差しが表で濃い影を作っている。
台風が去ってから、外はすっかり夏模様になった。
もうそろそろ、梅雨も明けるだろうか。



(うお……なんだこりゃ)
ゴミ袋一枚を持ってのんきに裏へ回ってきたサスケであったが、その荒れ果てた様相に思わず声を失った。
気分転換がてらの散歩くらいに思っていた頭が、一気に覚める。
ひと月前、ナルトが草むしりをした庭は前回程ではないにせよすっかりまた雑草達の楽園となっており、その上から風に撒き散らされた木の葉は、庭一面に好き勝手に広がっていた。植え込みの樹木の枝は一体どれほどの力が掛かったものか数箇所が折られて力なくぶら下がり、折角剪定したばかりだったというのに、なんとも無残な姿になっている。
(枝だけの話じゃねえな、これ。まず葉っぱは片して、折れた枝は外して捨てて)
待てよ葉っぱは草むしりしがてら一緒に拾ってけばいいかと考えたところで、はたと気が付いた。
……そうか。
今度はこれを、ひとりでやらなければならないのか。

(なにこんな当たり前の事にガッカリしてんだ、バッカじゃねえのか、俺は)

ち、と舌打ちをひとつ、ごく短く落とした。
別にナルトがいようといまいと、自分のやるべき事に変わりはない。ただ目の前にある仕事を、ひとつずつ片付けていくだけだ。
(――よし。やるか)
綺麗に折り畳んであったゴミ袋に空気を入れて広げ、ちょっと気合を入れたサスケは尻ポケットに引っ掛けてきていた軍手をはめると、まずは折れた枝の片付けに取り掛かった。ぼきりと折られた若木の枝は、まだ樹皮に瑞々しさがあるせいか表の皮一枚で折れた所から、だらんとぶら下がっている。
まだ細やかなその幹に手のひらを当てて、折れた枝を皮を引き切るようにして引っ張った。びいーっと灰茶色の樹皮が裂け、先にいく程細くなったそれが耐え切れなくなったようにふつんと途切れる。
外した若い枝にまだ青い葉が茂っているのを見ると、サスケはなんだか妙に残念な気がした。多分、ここの部分はこれからがまさに伸び盛りになるところだったのだろう。沢山の雨を受け夏の太陽を思い切り吸い込めていたら、秋冬には綺麗に色付いていたのかもしれない。
まあ、しょうがないか、とそれをそのままゴミ袋に入れて、他の折れた枝も同じように片付けていった。若木だったのはそれだけだったらしく、他のものは樹皮も中の繊維もすでに乾いて、結構簡単にぼきんと取れる。
枝の処理が終わったところで、サスケは大きく息をつきながら、挑むように野趣溢れる庭に首を巡らせた。  
一旦見てしまったからには、このまま放置してはおけないだろう。重吾はああ言ってくれていたが、この状態を知っておきながらこれを人のいい彼に丸投げするのは気が咎めるし、それになんというか、今はひとりでこれを全部やり遂げてみせたい気分だ。
ぐうーっとひとつ伸びをして、肩甲骨を開くように体を捻りながら腕を数回まわすと、サスケは荒々しい生命力で上を向く、雑草達の間にしゃがみこんだ。
温度と湿度の高い地面に近づくと、むせ返る程の草いきれが立ち昇ってくる。
背中を焦がしてくる日差しは容赦が無く、もうすっかり真夏のものだ。一瞬タオル位持ってくれば良かったなと思ったが、一度管理人室に戻ってしまったら再びここに戻る気持ちが挫けそうな気がした。
まあいい。汗なんて後でシャワーを浴びれば済むだけの事だ。どうせあと半日だし。そんな風に思いながら、縦横無尽に広がる雑草に手を伸ばす。
手始めに一番近くに茂るクローバーのような匍匐タイプの草をむしり取ってみた。思ったよりも硬い。多分、長雨を越えた後のこの炎天下で、地面は前回よりもかなり強情になってしまっているのだろう。確かな手応えと共に、根に絡まった土がモロモロと崩れ落ちていった。これは想像していたより更に重労働になるかもしれない。ため息の出そうな口許を引き締め、ちょっと気合を入れ直す。
(雑草ってすげえ。一ヶ月ばかしで本当にあっという間に育っちまうもんなんだな)
先月しっかり根まで抜いた筈の場所にも堂々とした葉が広がっているのを見て、サスケは半ば感心するようなため息をついた。抜いても抜いても、これらはまた何度でも生えてくるのだろう。
このしぶとい命に終わりはないのだろうか。ふとこの果てのない戦いの展望について考えてみると、なんだかあまり先は明るくはなさそうだった。スッキリしたと思うのは今のこの一瞬だけで、ひと月もしたらきっと、またここは元通りになるのだろう。
じゃあ今やってる事は結局のところ、あまり意味がないという事か。そう考えてみると、張っていた気分も他愛なく結構削がれた。
除草剤でも撒き散らして、土から変えるでもしないと駄目だろうか。ひっくり返った黒い土から小さな地虫が逃げ惑うのを見て、ぼんやりと思った。でもその毒性にも耐えられるような気合の入った根がいつか必ず現れて、そのうちにょろりと芽を生やすような気がしてならない。結局は、延々と同じ作業を繰り返すしかないのだろう。短調だけどじわじわ苦しい作業だ。同じ態勢がずっと続くというのも、地味に体に効いてくる。
ひと月前ナルトがやった時には草の量も今より多かったし、もっと大変だった筈だ。よくもまあ投げ出さずにやってくれたものだと思う。自分だったら多分、途中でキレて樹木の剪定をしている相方に交代しろと詰め寄る位はするのではないだろうか。
一体どれほどの間続けているのか、時間の感覚さえも無くなりながら、両手で掴めるだけ掴んだ雑草の束を、力任せに思い切り引き抜いた。ブツブツと根が引きちぎられる感覚が力を込めた手のひらを通して伝わってきて、ぼろぼろと乾いた土の塊りが足元に落ちていく。
(あっちいな……)
さすがにもうかなり進んだんじゃねえのと顔を上げると、あらかた終わったように感じていた作業は、見渡してみると実際にはまだ半分程も終わっていなかった。
まだ手付かずのこの先には、つんつんと伸びた稲っぽい葉がからかうように風に揺れ、横ばいに広がった匍匐タイプの丸い葉はいいようにはびこっている。
(なんだよ……まだこれしか進んでねェのかよ)
まだまだ先の長そうな作業に思わず脱力すると、サスケは土に構わず尻を着いて、曲げていた足を前に伸ばした。汚れた靴先を、茂る草の葉がからかうようにさわさわと撫でる。
あとどれだけやったら終わるのだろう。眼前に広がる草の葉に、麻痺しかかった頭で遠く思った。
やはり見通しが甘過ぎただろうか。結構既にキツいと思うのに、果てが見えてこないのがちょっと辛い。


「――ゴミ袋って、これ一枚だけ?」


もう一枚あったら、オレ反対側からやってくけど。
背後から出し抜けに掛けられた声に、驚かされた心臓が、大きくひとつ跳ねた。
どさりと重たい荷物が降ろされる気配。
次いで、背の高い影が横に差す。
「軍手は、まあいっか。取りにいくのメンドいし」
「……は?」
「あと半分かあ。でもこのあいだ程じゃねえし、多分頑張れば一時間位で終わるってばよ」
そう言って「よいしょ」と呟きながら隣にしゃがみこんできたそのおそろしいまでの自然さに、まばたきもすっかり忘れ、サスケは見入った。Tシャツの半袖から伸びるのは、先日よりもまた更に日に焼けた長い腕だ。
声も出せず唖然としているうちに大きな手のひらは器用に動き出し、当たり前のように草をむしりだした。
黙々と揺れる肩。ここまで来る間にかいたものだろうか、首筋には既に、小さな汗の玉が流れている。

「……なにやってんだ?お前」

うわ言じみたあやふやな声で尋ねると、ほんの一瞬だけ作業の手が止まった。「なにって、草むしり」と素っ気なく答えるその横顔は、いつになく表情が読めない。
頭の天辺を射してくる、日差しが熱い。
無言のままナルトが鷲掴みにした大きな草の根が、ブツリと音を立て途中で切れた。