第十八話

最初にその金色を見かけたのは二年と少し前、三月半ばの初春の頃だった。
回覧板を隣のマンションの管理人の所へ持っていった帰り、正面の路上から見上げたアパートの二階廊下部分にいた、見知らぬ異国人。
ヨレヨレのパーカーに、草臥れたジーンズ。どう見ても今まで家で寝てましたといった様子の、寝ぼけた横顔。
踵を潰したスニーカーでぺたぺたと歩く姿はだらしない事この上なかったが、それでも不思議とあまり退んだ風には見えなかったのは、澄んだ光をのせた髪のせいだろうか。
うちにあんな国際的な住人いただろうかと、当時まだ管理人に就任したばかりだったサスケは首を捻りあやしんだ。だが入っていった先が自室のふたつ隣りなのを見て、そういえばつい先日カカシの紹介でひとり入居してきた店子がいた事を思い出す。
早速戻った管理人室で入居者台帳を広げ、入居申込書を検めてみた。
たしか、102号室。3月1日付けで入居。

氏名 うずまきナルト
生年月日 19**年10月10日
本籍地 東京  国籍 日本
配偶者 無し  家族及び同居人 無し
職業 フリーアルバイター
連帯保証人 はたけカカシ

(……なんだ、日本人かよ)
てことは、あれは自分で染めた頭なわけか。
どう読んでも純粋な日本人としか読めない記載に、鼻白みながら合点した。道理で出来すぎな色だと思った。余程マメに色を抜いているのだろう、まったく、ご苦労なことだ。
ぶ厚い台帳を仕舞いながら、サスケはしみじみ思った。
きっと価値観から何から全てにおいて、自分とは相容れない世界に暮らしている奴に違いない。お互いの心穏やかな日々の為にも、できるだけ関わらないようにしていきたいものだ。

     ☆

「なんかね、ちょっと前から話だけは来てたんだって」
舞い散った答案用紙を拾い集めながら、気軽な世間話でもするかのように昨夜のカカシは言った。
「ナルトのお父さんが昔お世話になっていた先生が監督を務めているチームらしくて。小さい頃からあいつの事知っててくれてるし、脚の事も承知した上で誘ってくれたらしいよ。話としては、もう間違いなく好条件なんじゃない」
――ナルトが、もうすぐここからいなくなる。
カカシから聞いた話は、自分でも驚く程の衝撃をサスケに与えた。
ショックだった。彼が出て行くという事そのものよりも、その話にここまでショックを受けている自分自身が、なによりショックだった。
おかしな話だが、縁を切るだのもう他人だのと偉そうに言い放ってきていても、実際にナルトがここからいなくなった時の事はまったく想像できていなかった。しかし冷静に考えてみれば、別に何もおかしなことではない。単に自分のところの店子が、しかるべき理由でもって転居するという、ただそれだけの事だ。あいつはいつまでもここから離れないだろうなんて勝手に思い込んでいた、自分の思い込みの方が余程馬鹿げているのだった。
何をこんな当たり前な事に驚いてるのか。
我ながら呆れる。
「まー絶交だか何だか知らないけど、そんな事言ってるうちにあいついなくなっちゃうよ?いいの、ケンカしたまま別れちゃって。せめて仲直りだけでもしといたら?」
後悔したまま二度と会えなくなってもしらないよ?と割と深刻な事をなんでもなく言うカカシを尻目に、サスケは舌打ちを残し扉を閉めた。
昨日の晩の事だ。

「――と、いうわけでですね。今年は商店街としましても、町内会の方々に夏祭りの開催にご協力いただきたいと思っておりまして」

かすかに上の空になりながら頬杖をついている所へ、唐突にぎゅっと近付いて睨んできた顔に、サスケはぎょっとして身を引いた。「君、今の聞いてたか?」と確かめてくる男性に圧されるように、曖昧に頷く。
夜の町内会館の会議室は気怠い蛍光灯の明かりでしろじろとしている。今日は月に一度の町内会の会合だ。アパートの代表として加盟してから、サスケは毎回嫌々ながらも母親の言い付けに従い(曰く、色んな人間が住まうアパートが嫌われる事なく地域に解け込むためには地域社会への参加が不可欠で云々)仕方なくここに参加している。
会合といいつつもいつも大した話が出るわけでもなく、なんとなく年寄りの世間話を聞かされては帰るだけのこの集会に、今日は見慣れない人物がいた。まさに今、自分の前に仁王立ちしている壮年の男性。上辺だけ聞いていた話の筋から想像するに、多分この人物こそが商工会の会長か。
「木の葉荘の管理人というのは、君か」
不躾なほどじろじろとこちらを睨め回した会長に負けじと視線を合わせると、冷たく響く声で会長は言った。
背が高い。男性にしては珍しく長く伸ばした髪を後ろでひとくくりに縛っているが、長身にそれはしっくりと似合っていた。初見の筈なのに、なかなかの甘いマスクからはどういうわけか確かな敵意を感じる。
「夏祭りの手伝いについて話していたんだが」
「はぁ」
「今言ったように、イベント用ステージとテントの設営、あとは商店街の装飾も。若い男性の労働力はどこも皆助かるだろうから、当日は朝から晩まできりきり働いてもらうよ」
君のようなハンサムには夏祭りに誘いたい子も沢山いるだろうが、今年は我慢してもらおうか。
冷笑しながらそんな事を言われ、流石にちょっと頭にきた。
なんなんだこの人。やけに突っかかってくるけれど、以前どこかで会っていただろうか。
「晩までって、どういう意味ですか。手伝いは昼間の準備だけでしょう」
威嚇じみた低い声で応戦すると、怯む様子もなく会長は「祭りが始まってからも荷物の移動やら交通整理やらで人手はいくらでも欲しいからね。いいだろう?まだ若くて体力もあるだろうし」と突っぱねた。
「聞けば、町内会での奉仕作業を君は一度も請け負っていないらしいじゃないか。せめてこういう時位は働いてみたらどうだい?」
痛いところを突かれて、ぐっと黙る。……確かに、年寄りに囲まれての作業を嫌って、自分は一度も誘われていた作業に参加してこなかった。この男、嫌な情報を持っている。
「とにかく、君は夏祭り自体には参加しないでくれ。誰かに誘われても断れ。裏方に徹するんだ」
「はあ?なんでそんな事決められなきゃならな……」
「いいから!特にかわいい小学生の女の子に誘われても、絶対に受けるな」
「言われなくてもそんなの受けないですよ」
根拠はわからないがとにかく剥き出しのままぶつけられてくる敵意を鼻先であしらうと、気に障ったのか更にムッとした様子の会長は再びぎりりとこちらをひと睨みして、サスケの前から離れていった。後ろで長い髪が、しなる鞭のように揺れている。
何が何だかわからなかったが、とりあえずその日はこれまでないがしろにしてきたご近所付き合いのツケを払わねばならないようだった。仕方がない。長い一日になりそうだったが、これも大家兼管理人としての務めだ。
(どちらにせよ、夏祭りなんて行く気なかったしな)
先日帰省した際、母親に持たされた真新しい浴衣が思い出されると、嬉しげにしていた母親に対しほんの少しだけ詫びるような気分になった。ナルトと一緒に行けばいいと明るく言っていた母親は、彼ともう会うことがないと知ったらさぞや残念がるだろう。
(……というか、会うことがなくなるってのは俺も同じか……)
漠然とその状況を思い描いてみても、やっぱりもうひとつ現実感がなかった。現実感はないくせに、ただ酷く胸に、すうすうと薄寒い風だけが吹く。
それはすごく馴染みのある感覚で、二年前ここに来たばかりの頃の自分が、感じていたのとよく似たものだった。考えてみれば、ナルトがここに越してくる前の状況と同じになる訳だから、似たような感覚に陥るというのは当然なのかもしれない。なんというか……すごく、空っぽな気分だ。埋められていた何かがすぽんと抜けて落ちたような気分。
後悔したままもう二度と会えないかもよ、というカカシの言葉が不意に蘇った。もしかして、この前エントランスで会った時ナルトが言いかけていたのは、この事だったのかもしれない。確かに他人だ何だなんて大騒ぎしなくても、どちらかが出ていってそれきり連絡をしなければ、縁なんて自然に切れる。わざわざ他人行儀な言葉で茶番劇のような事を繰り返さずとも、距離なんて本気を出せば簡単にいくらでも作れるのだった。
それがどうして、こんなに重たく響くのか。
(……なんか変だ。絶対)
名前の付けられないモヤモヤに、サスケは頭を抱えた。
そもそも俺はあいつに対して、恋愛感情なんて持ってないし、持ちたくないと最初に言ったはずだった。
だって、男同士での恋なんて、ありえない。
折角同性だからこそ気楽に付き合っていられるのに、そこに恋だの愛だのといったややこしくなる感情をわざわざ持ち込む意味がわからなかった。先のない未来なんて嫌だと思ったし、だからこそこれまでの関係を消し去ってまで、あいつには普通の恋をして幸せになって欲しいと願ったのだ。なのに、いざいなくなると聞いたらこんなにもショックを受けている自分が確かにいる。こうして距離をとって、縁を切らせるのを望んでいたのは他でもない自分自身ではなかったのか?頭で考えた事と思う感情がちぐはぐ過ぎて、矛盾しまくりの自分についていけない。
そのうえ、似ても似つかないはずの兄さん(そう、冷静になってみればあの素晴らしい兄とウスラトンカチのどこに似通った所があったというのか。カカシでなくともお笑い種だ)にあいつが似てたから、あんなに気に入って傾斜しかかっていたのも仕方がないだろうなんて無理な理屈を捏ねてみたり。
何なんだこのとんだ迷走っぷりは。こんな自分は知らないし、知りたくもない。
(クソ――何なんだこれ。これじゃ、まるで)
納得のいかない感情に名前を付けかねて、歯噛みしながら夜の住宅街を足早に帰った。
認めたくない。認めるわけにはいかない。俺の中にいるのは、最愛の兄ただひとりだけのはずだ。
こんなわけのわからない感情に振り回される自分が、嫌で、嫌で、仕方がない……。



サスケェ!と晴れやかに掛けられた声に振り返ると、大きく手を振りながらこちらへ向け走ってくる水月がいた。
大学の門を潜る手前で、急いでいた足を一瞬止める。
「すまん水月、ちょっと今急いでて」
「あ、交代の時間迫ってんの?いいよじゃあボクも一緒に急ぐから」
そう言って隣に来た水月に「ほら、いいから駅でしょ、行こ行こ」と促されて揃えた早足で進みだすと、ちょっと早まった息の合間から水月が「このあいだはごめんねー」と改めて言ってきた。
「ほら、メールだけで済ませるのも悪かったかなって」
「ああ――そうだな」
同じくちょっと息が短くなりながら答えると、サスケはちらりと携帯のディスプレイを確かめた。交代の時間まであと四十分。電車の所要時間も入れたらギリギリだ。
「まあ別に……もう気にしなくていい。俺の方も、少し言い方がきつ過ぎたかもしれない」
一昨日の晩カカシに言われた事を思い返しながら、サスケもそもそと謝りの言葉を口にした。言葉に関して注意を受けるのは、カカシを入れて二人目だ。確かにちょっと気にしたほうがいいのかもしれない。
それを聞いた水月は一瞬きょとんとした様子だったが、次いで徐々に嬉しそうな顔になると明るい声で「そっか、いいよーボクの方は、別に」と笑った。「だってもう、なんか気が済んじゃったしさ」と言う水月に、足を早めたまま横を見る。
「メールでも言ってたが、何なんだその気が済んだって」
「ん?ああほら、『ナルト』の事だよ。サスケのお友達だった」
だった、という部分に力を入れながらそう言った水月は少し目を見張ったサスケを見て「あ、やっぱり絶交したんだ?」とニヤリとした。「なんで知ってるんだ?」と驚いたサスケに「このあいだ、なんかすっごく他人行儀な会話してたから」と笑う。
「管理人室の前で会ったの。あれが『ナルト』でしょ?」
「そうだが、なんでわかった?」
「ほら、でっかいスポーツバッグ持ってたから、あの人。最初サスケの事名前で呼ぼうとしてたし」
「よく見てんな、お前」
ちょっと感心して言うと、水月は「まーね、サスケに関する事だからね」と何故か誇らしげに胸を張った。 
あんな事があっても、やはりサスケに対しての特別な意識は変わらないらしい。
「あれでしょ?あの人女の子にイタズラしようとして、逆に返り討ちにされちゃったんだって?」
「あァ?なんだそれ」
思わず不穏な空気を醸し出しながら聞き返すと、訳知り顔でニヤついていた水月はきょとんと笑顔を止めた。「え、なに、違うの?」と更に質問で重ねてくる彼に、急いていたのも忘れ思わず歩調を緩める。
「どこでそんな事聞いたんだ」
「どこって、あの人のサイト。っていうか、あの人のファンがやってるサイト?なのかな」
「なんでお前がそんなの見てるんだ」
低く問うと、水月は「いやだって、このあいだサスケ、あの人の事『うずまきさん』って呼んでたでしょ」と悪びれる様子もなく答えた。
なんかあの後サスケちょっと変な顔してたしそのスポーツバッグの事もあったから、あれが『ナルト』なのかなって思って。
「……だから?」
いよいよ歩くのを止め立ち止まったサスケは、尚水月に問い詰めた。改札を目の前にしてパスケースを出しかけていた水月は、止まったサスケから一歩行き過ぎる。
「だから、どんな奴なのかなーってネットで普通にフルネーム入れて検索してみたんだよ。フェイスブックとかやってたら案外出てくるかなと思って」
――そしたら、名前いれただけですぐにそのサイトが出てきて。
急に雰囲気が変わったサスケに気が付いた水月は少し表情を固まらせ始めると、言い訳でもするかのように僅かに後退りした。向けられた剣呑な目から逃げるように、視線を下に逸らす。
「それで、なんでそこからその情報がわかんだよ」
「いやだからそこの掲示板に、その『ナルト』が女の子に逃げられてる写真が掲載されてて。元ネタはオモシロ画像の投稿サイトだったみたいだけど」
「今見れるか?それ」
もはや半分青ざめたような顔になった水月に詰め寄ると、「あっ、うん、今出します!」と聞いたことのない敬語と共にポケットからスマートフォンが取り出された。素早い手付きでパネルを操作すると、待つことなくすぐに「これ、ここのサイトだけど」と液晶画面を見せられる。
「あれ?でももう画像は削除されてるや」
一昨日までは出てたんだけどな、と掲示板のページを開いた水月から端末を奪うように受け取ると、画面には「この画像は管理人により削除されました」の文字があった。随分と長いやり取りがあったのか、他にも沢山のコメントが削除された痕跡がある。
「投稿サイトの方も削除されてんのかな」
「……」
「なに、あれって嘘だったの?なんかの間違い?」
「……ああ」
「なんだ、あれが原因で見損なったナルトと絶交したのかと思ったのに」と首を傾げる水月に、押し寄せる暗い想像にサスケはこめかみを強く抑えた。
乗り損なった電車が、改札の向こう側に広がるホームから発進していくのが見える。
降りてきた乗客達が押し寄せてくる中、自動改札の認識音とアナログな時刻表が数字を切り替えていくパタパタという重みのない音が聴こえてきた。
雑音の中「あれ?なら、なんで絶交になったの?」と尋ねてきた水月に、サスケは黙ったまま端末を押し返した。



――おい、と管理人室の小窓から呼び止めると、茫洋とした顔に疲れを載せたカカシが、ゆっくりと立ち止まった。すっかり夜の気配に満ちたエントランスには、昼間の蒸し暑さの名残がまだ少しだけ残っている。
勤務時間はとうに終わっているが、管理人室の電気は付けたままだった。デスク前に座っていたサスケは立ち上がり、薄くドアを開ける。
「あれえ、サスケ?どしたの、こんな遅くまで」
「別に、ちょっと――帳簿の整理をしていて、遅くなっただけだ」
「ああそう、ご苦労さま。もう上がるの?」
小さく頷くと、「じゃあ、一緒に行く?」とカカシは三角巾の掛けられている方の肩を器用に上げた。急いで小部屋の電気を消し、戸締りを手早く済ませる。
「大家さんも大変だねー、ここ家賃格安だし、儲けなんて全然出ないんじゃないの?」
のんびりとした口調でそんな世間話じみた事を言ってくるカカシに「そんな事はまあ、どうでもいいだろ」と適当に返した。肩に引っ掛けたカバンの肩紐を焦れたようにかけ直すと、言いにくさを無理矢理押し流すように、咳払いをひとつする。
「その――あいつ、さ。なんか、なってないか?」
歯切れ悪く尋ねると、驚いた様子のカカシが「え?」と聞き返してきた。「なんで?どっかで何か聞いた?」と不思議がるカカシに、少しの間だけ口篭る。
「知ってる奴から、あいつの画像がサイトに出てたって」
「あー…」
「どうなってんだよ」
「うーん、それがさあ、今それのせいで、ちょっと困った事になっちゃっててさ」
「ちょっと」と言いつつも珍しく心底困ったような顔をすると、カカシはため息をつきながら、「ナルトが出てくって話、なくなるかも」と端的に告げた。
「あァ?」と階段を上りながら思わず唸るように聞き返してしまったサスケは、疲れた様子のボサボサ頭を見上げる。
「なくなるかも?出て行く話が?」
「というか、入団の話そのものが。まだなくなったわけじゃないけど、結構ヤバイ」
元々半分しか開いていなかった目をますます細めて、カカシは言った。一日掛けてすっかり糊の落ちたワイシャツが、くったりとしたシワを寄せている。
やっぱり。嫌な予感的中だ。
にしても、随分と展開が早いんじゃないだろうか。いきなりもうこんな大事になっているとは。
「サスケ、このあいだナルトを交番まで迎えに行ったんだって?」
誰にも話していなかったはずの情報をすっかりわかっている様子のカカシに告げられて、サスケは諦めたように無言で頷いた。「あいつから聞いたのか?」という問いかけに、「うん。今日の昼間、携帯に電話してきて。全部聞いたよ」とカカシが答える。
説明によると、チームの運営部からナルトが呼び出されたのは昨日の事らしい。例のサイトと掲載された画像を見せられ、一体これはどういう事か、事実であるのかと問われたのだという。
呼び出されたナルトも正直に(またこんなところでバカ正直に洗いざらい全部喋ってしまう所があのウスラトンカチだ)そういった事があったのを話し、その上であれはちょっとした行き違いでと説明したらしいが、やはりそう易々とは(そりゃそうだ)信用してもらえなかった。
困って先日の交番の方へも相談してみたらしいが、通報を受けた履歴がある以上、当然の事ながらナルトが任意同行を受けた事実は消せないらしい。その防犯ブザーの少女自身の言い分も確認できていない以上、あれは間違いでしたと警察から説明する事もできないのだという。
「運営部が知ったって、なんでわかったんだ?あんなしょうもない事件、新聞やニュースで全国へ向けて報道されたわけでもあるまいし。入団テストの時、わざわざあいつのサイトまで確認したのか?」
いきなり一気に進んでいる話に、サスケは横槍を入れた。あの時交番でも、顔見知りとなった警官が「まあ、多分このまま注意だけで終わるでしょ。そんな気にしなくても大丈夫だよ」と請け合っていたのに。
「ニュースになんてなってないよ。運営部の方でもそんながサイトあるってのは把握してなかったみたいだし。なのに、匿名で北海道のチームに、こういう画像が出てるってのを教えてきた奴がいたらしくてさ」
変にやっかむ奴ってのはどこにでもいるもんだからね、と苦虫を潰したような顔のカカシに、サスケは以前、ナルトが『チームの中には自分の事をあまりよく思ってない人もいるから』と言っていたのを思い出した。あまり疑いたくはないが、もしかしたらそういう所から出た話なのかもしれない。
「すぐにその画像は削除してもらったし、そっちはもう片がついたみたいなんだけど、運営部への説明がね。せめてその女の子ともう一度会って、あれは間違いでしたって証言してもらえればいいんだけど。ナルトが言うには、名前も住んでるとこも全然知らない子らしいんだよね」
なんか交番のおまわりさんもいい人みたいで、問い合わせた時も随分親身になって話を聞いてくれたみたいなんだけどね、と困り顔で苦笑いを浮かべたカカシの言葉に、飄々とした長髪を思い出した。多分、またあの人が対応してくれたのだろう。どういう理由か、あの警官は自分とナルトに悪くない印象を持っているらしい。
先日交番から出る時送られてきた親しげなまなざしを思い出し、サスケは僅かに息をついた。
あの人ならば、多分こんな面倒な話にもそう悪い扱いはしなかっただろう。
「で?その当の本人は今どこで何やってんだ?」
問題の中心人物であるくせに全く姿の見えない金髪頭にため息が出た。なんでこう、いつもあいつはトラブルに巻き込まれるのか。立つ鳥後を濁さずという言葉を知らないのか。
「まだ北海道。呼び出された時も丁度メディカルチェックを受けてたとこで――ほら、あいつ脚の事あるから、他の人よりもちょっと丁寧に診てもらってたらしくて。明日いっぱいはかかるみたいなんだよね」
話を一旦区切るように、玄関先のカカシは鞄を持ち直した。だいぶ草臥れてきている仕事鞄は一体何が入っているのか、怪我をしていない方の腕だけで持ち続けているにはちょっと重そうだ。
「ちなみにさあ、サスケ。その女の子に心当たりある?」
ある、とすぐさま思った。確か交番からの帰り道、ナルトは『鳥を見つけた子だ、ショートカットの方の』とか言っていた筈だ。
けれど即答するのは微妙に癪で、つい「あー…たぶん、」とぼやかして答えた。すごく心配しているようには見られたくない。
「でも俺だってどこの子かなんて知らねェよ。たまに会って挨拶されるだけだし」
「名前とかは?」
「……さあ」
なんとなく言い訳じみて聴こえる自分の声に、目線を下げ玄関灯のオレンジがかった光に照らされた廊下を見渡した。一昨日の嵐が持ち込んだ葉っぱが、すっかり乾いてかさこそと何枚か落ちている。
「――重吾さん、ならわかるかも」
朝いつも挨拶してるみたいだし、とようやくぽとりと告げると、カカシは「そっかあ、じゃあ明日の朝訊いてみようかなあ」と言って、やれやれといった風に首筋を掻いた。三角巾の白さが目にしみる。
「じゃあナルトから一通りその子の特徴は聞いてるから、とりあえず重吾さんにあたってみるかな。そのあとどうするかは、重吾さんの答えを聞いてから考えてみるよ」
気持ちを切り替えるように息をついて顔を上げたカカシはいつものぼやけ顔に戻ると、ニッコリと笑顔をひとつ作ってサスケにほほえみかけた。気が付けば、並んで歩いていた足はいつの間にかカカシの部屋の前にまで来ている。
じゃあ、おやすみ、と言って一歩下がり、ドアの鍵を開けるカカシの手元を見詰めながら、長くためらった末にサスケは訊いた。
「――なあ、」
ドアを引く手を見たまま呟いたサスケに、カカシが「ん?」と離れた位置のまま首をかしげた。続きを促すように「なーに?」と言った彼に、しばらく言い淀んでから口を開く。
「あいつ……今、どんな様子だ?元気、なのか?」
歯切れ悪く尋ねると、一瞬だけ見開かれた寝ぼけ眼がふわりとほどけ、「そうね、まあさすがに元気いっぱいって感じではないかな」と苦笑した。
「でも別に泣いたり落ち込んだりもしてないよ」という言葉にちょっと胸をなで下ろしていると、たった今思い出したかのようにカカシが「あ、」と声を出す。
「でも、この話は聞かなかった事にしといてな」
「?」
「ナルトから、サスケにはこの事言わないでくれって言われてたんだった。お前にこれ以上迷惑掛けたくないからって」
「……そーかよ」
ま、いいよね。こっちから言ったんじゃなくて、サスケの方から聞いてきたんだし。
飄々とそんな事を言ったカカシを睨みつけると、小さく肩を竦めた後ろ姿がドアの向こうに消えた。閉められたドアが、よそよそしい音をたてて施錠される。
真円に満たない月が雲のない夜空にぽっかりと浮かんで、明るい月光が古びたドアノブを撫でるように映っていた。
やわらかな黄色い光はここにいない誰かの事を思い出させ、サスケは小さく舌打ちすると奥にある自室に足を向けた。



「すみません、今朝はたけさんにも訊かれたんですが」
いつもの交代時間に管理人室へ向かうと、こちらを見た瞬間、まだサスケが何も言わないうちから重吾は申し訳無さそうに謝ってきた。朝の登校時間に挨拶している子は沢山いるので、一体どの子がそうなのかがちょっとわからなくて。
「ここの前の道って通学路になってるし、通る子には一応みんなに挨拶しているので。近頃は変わった色のランドセルの子も結構多くて」
「――そうですか」
「なんとなくあの子かなあっていう子は、何人かいるんですけど。でも確実に毎朝会うわけでもないですし」
呟いて鞄を下ろすサスケに、重吾が座っていた椅子を引いて場所を空けた。きい、という軋んだ金属音が、虚しい感じに響く。
「あの、聞きました、うずまきさんの事。なんか、その――変な事になっているそうで」
別に彼が気に病む必要なんかないのに随分と言葉を選びながら、重吾が言った。返事を返すわけでもなくちょっと下を見たサスケに、どう取ったのか労わるような視線を向けてくる。
「いいお話だったみたいなのに」
「……そうみたいですね」
「どうなんでしょう、その子が見つからないままだったら、この先もずっとこの事がうずまきさんを困らせるんでしょうか。今回が駄目になっても、また次がありますよね?」
さあ、どうでしょうね、とわざと投げやりに答えつつ、冷蔵庫から買い置きのペットボトルのお茶を出した。冷えた表面が手のひらに気持ちいい。台風が雨雲を全て持ち去ってから、外気温は更にぐんと上がった。梅雨明けまで、あともう一息だろう。
重吾が言っているような事は、昨夜サスケも考えた事だった。
多分またどこかのトライアルに合格したとしても、きっとこの今回の入団取り消しの話は彼について回るだろう。マイナースポーツの世界だ、結構簡単に話も広がってしまうようにも思える。どう考えても、プラスにはならないのは確実だ。
「そうか、けどその子が見つからなかったら、うずまきさんまだここにいてくれるのかな」
俺はそれ嬉しいけど、やっぱりうずまきさんの為には良くないですよね、と苦笑いした重吾は自分の荷物をまとめると、ゆっくりとカバンのファスナーを引いた。ちぃーっ、という軽やかな音をたてて、ナイロン製のカバンが閉じていく。
(ここにいてくれるもなにも、もしそうなったら単にここから動けなくなるというだけの話じゃねえか)
冷たい飲み物を喉に流し込んだサスケは、苛々しながらペットボトルの蓋をきつく締めた。それにしても、姿も見せないままのくせになんであいつはこうやたらこちらの生活に入り込んでくるのか。人がいいのは結構だが後先考えず余計な事にすぐ首を突っ込むから、こういう面倒に巻き込まれるんだ。要らん親切心のせいで、自分の首を絞めてどうするんだ。
「どちらにせよ一度うずまきさんこっちに帰ってくるらしいので、そしたらアパートの前で張り込みしてみるそうです。なんだか大捕物みたいになってきてますけど、本人が見るのが確かに一番確実かもしれないですね」
激しく大雑把な作戦を聞いてサスケは呆れた。その捕獲作戦の方が、余程少女に逃げられそうだ。
大体が無理矢理捕まえたところで、そんな派手に怒らせた彼女を容易に交番まで連れて行けるものだろうか。きっと発案者はあのドベだ。カカシの奴は何をしてるんだ。
「あの……なんか、怒ってるんですか?」
無愛想なままのサスケが気に掛かったのだろう。
カバンを肩に掛けた帰り支度を終えた重吾はペットボトルを再び冷蔵庫にしまおうとしていたサスケに、おずおずと尋ねた。「はァ?」と腰を折ったまま答えた声が、つい険のあるものになる。
「怒ってませんよ」
「そうですか」
「なんでそんな風に思うんですか」
普段穏やかな会話しかした事がない重吾に突っかかるようにそう言うと、おおらかそうな眉を気弱に下げた彼は「ええと、うずまきさんが、遠くに行っちゃうかもしれないから?」と半分問いかけるように言った。あんぐりと口を開けたサスケに、困ったような顔をする。
「違 い ま す よ ……!」
「え、そうなんですか」
「当たり前じゃないですか、なんで俺が」
「いやでも、おふたり凄く仲良かったですし、サスケさんうずまきさんと喋ってる時が一番若者らしく活き活きとしてたから、淋しいのかなって」
若者ってあんただって若者じゃねえか、と突っ込もうとして、はたと気が付いた。今の彼の発言は裏を返せば、自分も普段若者らしく見られていないということではないだろうか。2歳差の壁がグラグラと倒壊の危機に瀕するのを感じる。
「怒ってなかったのならすみませんでした。オレの勘違いです」
すみません、とすんなり謝られてしまえば、熱くなりかけていた頭もぶすぶすと不完全燃焼のまま熱を下げざるを得なかった。こういう所が重吾の人間性に厚みを持たせているのだろうが、なんというか、そう、ちょっと自分には、物足りない。
ああそうだ、そういえば裏庭の事で相談が、と言い出した重吾に曲げたままだった腰を伸ばすと、ぐきりと関節が鳴る音がした。若者らしくないというのは心外だが、朝の清掃業務を重吾に頼むようになってから、確かに若干運動不足気味かもしれない。
「一昨日の台風で、植え込みの木の枝が折れてしまっていたらしくて。俺もさっき裏に回った時まで気がつかなかったんですけど、風で撒き散らされた葉っぱも凄くて」
「なら明日、俺やっときます。確か昼前に交代でしたよね?」
予定の書き込まれた壁のカレンダーを確かめて、サスケは言った。明日は何か用があるとかで、午前中だけで重吾は早退する予定だ。午前中だけでは、多分裏までやる余裕はないだろう。
「じゃあ、折れた場所だけ先にお伝えしておきますね。今ちょっと外まで一緒に来ていただいていいですか?」
軽く頷いて管理人室を出ると、前の通りを歩く子供達のはしゃいだ笑い声に出迎えられた。
案内する重吾を前にエントランスを抜けると、遠くから小学校のチャイムがかすかに聴こえてくる。どんな理由なのか、いつもよりもチャイムの時間が早いような。雲ひとつない空に乾いたチャイムがこだまして、最後はかすかにひびが入ったような余韻を残して消えていった。明るすぎる視界に、思わず目を伏せる。
「あれ、今日はやけに下校開始時間が早いですね。短縮授業なのかな」
普段よりも少し早い時間から前を通り過ぎていく小学生達に目を留めた重吾が、手のひらで額あたりに日除けを作りながら言った。首をひねりながらも、「ああそうか、夏休みが近いから」と自問自答している。
「あんまりのんびりしてたら、夏休みに入って、子供達ここ通らなくなっちゃいますよね」
特に返事をしないままでも、気にした様子もなく重吾はぼつぼつと喋り続けていた。髪の短い女の子って最近そんなにいないから、すぐにわかりそうですけどねえ。話しかけているというより、半分位は独り言のようだ。
子供達はそれぞれが思い思いのスピードで、巫山戯あったり笑い合ったりしながら歩いていた。
あの馬鹿はここでこうして仁王立ちして見張るつもりなのだろうか。というか、そもそも彼女が今でもここを通っているかどうかも甚だ疑問だ。もしも自分であればまたその因縁の相手と会ってしまわないように、特別な理由でもなければそれまでの下校ルートを変えるだろう。
「サスケさんはその女の子ってのがどの子の事を言ってるのか、わかるんですか?」
共同玄関のステップをゆっくりと降りだした重吾にふと尋ねられ、まあ、一応は、と答えると、すぐに「えっ、わかるんですか?」と少し驚いた様子の彼が一瞬だけ振り返った。
「じゃあなんで手伝ってあげないんですか」
「……そういう訳では」
「やっぱりショートカットの、3~4年生位の子です?」
「ショートカットで、いつもオカッパ頭の子といて、紫のランドセルで 」
つらつらとあやふやな記憶を引っ張り出しては、パーツを並べていく。すると突然振り返らないままの重吾が、「えっ?」と呟きぴたりと動きを止めた。
ステップの一段上から太い首筋を見下ろしていたサスケは、急停止にほんの少し首を傾げる。
なにかおかしなことを言っただろうか。
「うずまきさんが言うには、ラベンダー色のランドセルって」
「そうですよ」
「ラベンダーって、くすんだピンクみたいな感じの色ですよね?」
「どっちかっつったら紫でしょう?」
「あの、でしたら、オカッパの子は一緒じゃないですけど」

――あの子、じゃないですか?

ちょうど駆け足で前を通り過ぎようとしていたらしき少女を見た重吾の声は、酷く単純に響いた。
その声に気が付いたのか、ちらりと横を見た少女の視線がサスケのものとかち合う。
ギクリと肩を弾ませた彼女は一瞬竦んだように足を止め、動きを止めた三人に束の間の静寂が漂った。
強い日差しだけがちりちりと、間にあるステップのタイルを熱していく。

「…………えぇと、」

最初に出た重吾の声に、はっと我に返ったらしい少女はすぐさまぎゅっと前を向くと、狼と鉢合わせしてしまった仔ウサギのように一目散に逃げ出した。ぽかんと誰もいなくなった路上に、大きく振れた給食袋の残像だけが残る。
「あっ、ちょっ――待って!」
慌てて声をかけようとした重吾は、それでも駆け出そうとした足を止めた。すぐ後ろから、勢いよく飛び出していった影があったからだ。
いきなりトップスピードで走り出た影はアパートの門に手を掛けて急カーブを決めると、スピードを緩めないまままっしぐらにラベンダーのランドセル目掛け走り去っていった。
「えっ、あのっ――サスケさん!?」
置いてきぼりをくらった重吾の手だけが、虚しく空を掴む。

なにらしくない事やってんだ。
遠くから呆れ返った自分の声が聴こえた。
同感だ、こんな馬鹿げた真似するなんて。まったくもって俺らしくない。自分でも意味がわからない。

(けどもう知るか、しょうがねえだろが……!)

疾走する足で熱く焼けたアスファルトを蹴りながら、サスケは思った。
頭で考えるより先に――体が勝手に、動いちまったんだから。