第十七話

「え?『うちは』って、あの『うちは』?」
水月とは先日知り合ったばかりだという割には砕けた様子でやって来た大学の上級生は、サスケが名乗った途端、急に面倒くさそうだった態度を一変させた。
じっとこちらを見つめると、「もしかして、うちはイタチさんの親族の方……というか、弟さん?」と確かめてくる。
「 あ、はい。兄をご存知ですか?」
明るく染めた髪を軽く耳に掬いながら、彼は聡明そうな目を嬉しげに細めると、自分自身に確かめるようにゆっくりと頷いた。
隣で立つ水月が、ひとりだけ置いていかれたような不可思議な顔をしている。
「うん。高校生だった頃、一度だけだけどね。あの人に会って、俺うちを受験しようって決めたんだ」

     ☆

水月が探してきた店は大学のほど近くにあったが、裏通りに面しているせいかあまり客が入っていなかった。
少し背伸びした雰囲気のせいだろう、他に学生らしい姿も見当たらない。アイリッシュパブのような体裁を整えている店自体は小洒落ていたが、店主がひとり、気だるげにカウンターの奥にいるだけだ。
「あの、兄とはどこで?」
飲む気はなかったが付き合いで一応頼んだビールに口を付けないまま、サスケは少し畏まって訊いた。腰掛けている座面の小さな木製の丸椅子は、雰囲気はあるけれどもどうも尻の座りが悪い。
「ああ、俺が昔参加したオープンキャンパスでね。その時模擬講義をしてくれたのがイタチさんだったんだ」
言いながらジョッキを煽った先輩(水月は彼の事を「シーさん」と紹介してくれたが、果たしてそれが本名なのかニックネームかのかは結局聞けず終いだった)に、水月が「えー?模擬講義って普通教授か、せめて助教授がするんじゃなかったっけ?」と驚きの声をあげた。確かに。去年のオープンキャンパスの時にも同じイベントが組まれていたが、掲示板で見たその時の案内表示には教授の名が記されていた気がする。
「そう。本来なら他の教授が担当するはずだったんだけど、講義の直前に急用ができたとかで。で、急遽ご指名を受けたのが君のお兄さん。後にも先にも、模擬講義とはいえ在校生が教壇に立つなんて俺も他に聞いたことないよ」
『彼』はその時、大学の他の研究室にいたのだそうだ。
たまたま実験のために飼育していたマウスの世話に来ていた彼は教授からの電話に呼び出されると、代理の要請を最初は恐縮して固辞していたが最後は切羽詰った様子の恩師に押し切られるように了承したらしい。後方では物見高い他の学科の教授までもが、面白いものが見れそうだと楽しげに集まってきていた。講義内容の書かれた冊子と教授の用意してきたレジュメを受け取ると、『彼』は「2分待ってください」と言ってざらりとそれに目を通し、宣言通りきっかり2分後には、すっきりした顔で教壇に上がり、後ろニヤニヤしている教授陣に臆する様子もなく聴講生達を見渡して言った。
はじめまして。うちはイタチといいます。
突然の拝命でいたらない点もあるかと思いますが、この時間講師を務めさせていただきますので、よろしくお願いします。
「なんだろうね、俺こう言っちゃあなんだけど、勉強でもなんでもかなりデキる方だったからさ」
ビールに添えて出されたナッツを摘みながらそう苦く笑った先輩は、乾いた口調で言った。
一応親に言われて冷やかし半分にオープンキャンパスには行ってみたけど、実のところ、日本なんかじゃなくて海外の大学に行こうと思ってたわけ。どんだけ偏差値が高いか知らないけど、こんなぬるい国なんかのトップに行ったからって、だからなんなのよって。
「ところがさぁ、その『うちはイタチ』って人を見たら、それが思い上がりだってのが嫌になるほどわかったね」
颯爽と現れた長身の青年は、とにかくその端麗な外見も然ることながら些細な動作のひとつひとつに至るまで、得点をつけるとしたらすべてが間違いなく最高点だった。ついさっき目を通したばかりとは思えないほどの的確さで預かり物のテキストとレジュメを使い、素晴らしく明解かつ流麗な講義を流れるように終えると、学生とは思えない程堂に入った教鞭にポカンとする高校生達に向かい悠然と「何か、質問は?」と告げたのだそうだ。
そうされた途端、はっとしたかのようにわらわらと挙げられた手を片っ端からさしていき、彼は小難しく捻った質問から珍妙な問いかけまで全てを見事に答えきったらしい。
「ほら、うちの学校受ける奴らなんて皆自意識過剰でひねくれててどっかで自分が一番だって思ってる奴らが多いだろ?だからあの人を打ち負かしたくて、わざと嫌味な質問をしたりする奴とかもいたんだけど、綺麗な顔でしれっと返り討ちにしててさ。『己の器を量りたいのならまずは正規の方法でここに入ってきてからにしなさい』なんて言ったりして。格好良かったな」
その時の様子を思い出したのか、にやりとした先輩だったがふと真顔になって、「あ、俺が誰にでも格好いいなんて言うと思ったら大間違いだよ?こんなの滅多にない事なんだぞ?」と念押しした。多分、本当にそうなのだろう。先程から喋っている口ぶりや物腰からも、彼からはある種の『天辺の階層にいる人種』らしさがうかがわれた。先程自分でも言っていた「なんでもかなりデキる方」というのは事実だろうし、人一倍プライドも高いのだろう。。
「入学してからも、お兄さんの話はよく耳にしたよ。教授達なんかは今でも時々あの時の講義をネタにしたりしているし。――まさか亡くなられていたとは知らなかったけど、本当に残念だよ。あんなに凄い人なのにその後の話を聞かないから、ちょっと変だなあとは思っていたんだけど」
「ふーん。サスケってそんなお兄さんがいたんだ」
それまで静かに話を聞いていた水月だったが、先輩の回想が一段落したしたところでようやく出番とばかりに声を挟んだ。まあでも、サスケだって充分スゴイもんね。座学でも実習でも、成績はほぼトップだし。
まるで自分自身を自慢するかのようにそう胸を張った水月をちらりと確かめると、先輩はちょっと困ったように眉尻を下げた。
うん、君も凄いのかもしれないけど、でもあの人はただの「一番」じゃないんだよ。上手く言えないけど、本当、特別な「一番」なんだ。
「 だから、サスケくんだっけ?君は偉いと思うよ」
そう言って再び金色の酒を少し飲んだ先輩は、「はい?」と聞き返したサスケを見るとゆるくほほえんだ。俺だったら、あの人と同じ道を選ぶなんてとても出来ない。そんな比べられ続けて、敵わない事を思い知りながら進み続けるなんて。
「俺みたいな他人は単に憧れるだけで済むけど、兄弟となったら少し事情が変わってくるだろう?ずっと比較され続けるし、他人からの評価は無責任でドライだからね。失礼な言い方になるけれど、亡くなった事で更にお兄さんの過去は美化されていくだろうし。色んな事情があってうちの学校を選んだんだろうけど、俺だったらプライドが邪魔して、とてもじゃないけどお兄さんの辿った道を同じように進もうなんて思えないね。むしろ全く違う方向に進んで、出来るだけ比べられないように生きていくよ」
試すような視線に、サスケは軽く肌を逆撫でされるような感覚を得た。
こちら側に立ったような言い方をしているが、多分、今まさにこの人から自分は値踏みされているのだろう。
こういう視線を送られるのは、初めての事ではなかった。
兄の突出した才に一度でも触れた人物と顔合わせすると、大概がこうなる。そして、この先もきっと幾度となく、同じような場面に自分はぶつかることだろう。
「そうですね――確かに俺はあの人のいた高みには、もしかしたら一生かけても届かないかもしれないです」
ゆっくりと、言葉を選んで話すサスケを、水月が知らない人を見るかのように見つめていた。『シーさん』が、興味深そうに話の続きを待っている。
「俺は天才ではないし、どうやってもあの人と同じようにはなれない。以前は兄のようになりたくて、あの人の真似事ばかりしようとしていた時もありましたけど、でも、同じ高みを目指すにも、俺は俺のやり方でいけばいいって思えるようになったので」
かつて目も眩む程の憧れでもって、兄の形見を後生大事に飾っていた時期があった。
持っていればあの人のようになれるんじゃないだろうかなんて、馬鹿げた事を信じていたわけではない。それでも、あれは確かに自分にとって「こうなるべき姿」を具現化したものだった。
箱の中に収まる銀色の時計はあんまりにも綺麗で、古くて物のない部屋の中では一際輝いて見えた。持ち歩くことなくただひたすらに飾っていただけだったのは、それが時代遅れの懐中時計だったのが理由なのではなく、自分が持つことで純銀製のそれが曇ってしまうような気がしたからだ。実際、生前の兄に初めて見せてもらった時は本物の輝きを放っていたそれは、自分が引き継いで持つようになった途端、うすっぺらな銀メッキのように見えた。
あれを手放すのを決めたのは、二年前の事だ。
ただのメッキだと伝えたのに、「でも、凄く綺麗だ」と言ってもらえた、あの春。
「なるほど。凡人には、凡人のやり方がってとこか」
背中を伸ばしたサスケに向かいそんな風に言った先輩は納得したように笑うと、気持ちよさそうにビールをあおった。「そんな風に思えるなんて、余程ご両親の育て方が良かったんだな」と喉を鳴らすように意見を述べた彼に、「さあ、どうでしょう。普通の兄弟と変わりないと思いますよ」と少し肩を縮める。
「そんな事ない――サスケは凡人なんかじゃないよ」
急に入ってきた水月が、何故だかやけに怒ったような声をあげた。
「水月?」
「なんでそんな事言うんだよ 、 サスケは特別だよ。選ばれた、人間なんだ。お兄さんがどれだけスゴイ人だったか知らないけど、サスケの方が上に決まってる!」
普段になく熱い様子の水月に驚いていると、『シーさん』が「でも君はイタチさんを知らないだろう?もし一度でもあの人に会っていたなら、絶対に君にもわかったと思うよ」と冷静に告げた。悔しげに顔を歪める水月に、サスケも頷く。
「そうだ、水月。兄さんは本当に凄い人だったんだ。俺なんかは今でも生きていた頃の兄さんに、まだまだ及ばない」
「なにそれ。じゃあサスケが負けてるっていうの?」
「……いや、勝ちとか負けとか、そういう事じゃないだろ。そりゃいつか兄さんを超えられたら嬉しいけど、それは勝ち負けとは意味が違わないか?」
そんな風に諌めてみたが、それでも水月は納得がいかないようだった。そういえば昼間の学食で、水月にも兄弟がいるような事を聞いた気がする。あまり、うまくいっていない兄弟なのだろうか。
「前々から言おうと思っていたんだが――水月、お前はちょっと俺の事を決め付けたり、干渉したりし過ぎるぞ。俺を買ってくれてるのはありがたいが、俺はお前が思っている程の天才肌ではないし、出来のいい人間でもない」
少し厳しいかとも思ったが、サスケはこれをいい機会だと思うことにした。ナルトを良く言わない事や、香燐との言い争いなどを見ていても、どうも水月はサスケに対して独占したがる気が強すぎる。まるで友人としてというより、兄を取られたくなくて出しゃばる弟のようだ。
年下という事もありこれまで許してきていたが、この際一度きちんと言っておいた方がいいだろう。
「お前の価値観を、俺に押し付けるな。俺は今の俺の生活や周りにいる人達に対して、別に不満に思ったりする事もないんだから」
「そんな事してないよ」
「してるじゃないか。俺の付き合う人間にまで口出しをして」
その言葉に思い当たる節があったのだろう。水月はムッとしたように頬を膨らめたが、一旦口を噤んだ。
段々と剣呑な雰囲気になっていくテーブルに、カウンターの奥に座る店主が(うるせぇなあ)と顔をしかめこちらに背を向ける。
「お前が兄貴とどんな関係かは知らないが、とにかく俺はどんなに比べられようとも兄貴の事を尊敬しているし、あの人の弟に生まれた事を誇りに思っている。たとえ一生敵わないまま、比較され続けるとしても」
「ボクの事は関係ないでしょ」
「そうだ、関係ない。だから別に話を聞きたい訳でもないし、俺もお前に兄貴の話を聞いて欲しい訳でもない。だからこれまでだってお前には話したりしなかっただろう?」
大きな声にならないよう注意しながら、サスケは続けた。
「友人だといっても俺には俺の世界があるし、入られたくない部分があるんだ。だから、」
「けど、『ナルト』になら、それを許すんだ?」
思いがけない所で出された名前に、サスケはちょっと目を剥いた。つい先程の他人行儀な会話が思い出され、一瞬息がつまる。喉に閊えた息を吐き出すように、慎重に「 あいつこそ関係ないだろ」と言った。
「なんでここでその名前が出るんだ」
「サスケこのあいだ車で帰省してきたって言ってたよね?免許も持ってないのに、誰が運転したのって聞いたら同じアパートにいる奴だって言ってたじゃない。あれって『ナルト』の事でしょ?」
「だとしたらなんだって言うんだ」
しつこい言葉に次第に苛立ちが渦巻くのを感じつつ、サスケは水月をわずかに睨んだ。確かに帰省後、大学の授業で会った水月に実家に帰っていた事を話したが、そんな事まで言っていたのだろうか。今の今まで喋ったことも忘れていた。
「ボクにはお兄さんがいた事すら教えてくれなかったのに、アイツは自分の実家にも連れて行くんだ?ずるいよ、ボクだって行ってみたかった」
「そりゃ今回はたまたまだな、」
「自分の親に紹介するくらいだもんね、お兄さんの話だってもちろん知ってるんでしょ。なんでいつもそいつばっかり誘うの。そんな知性の欠片もなさそうな奴よりも、絶対にボクの方が役に立つし、サスケには合ってるのに……!」
ちょっと。もういい加減、そこまでにしときなよ。
冷たく響く先輩の声に間を割られ、はっと気が付いた。カウンターの店主がいよいようんざりした顔をしている。
身を乗り出していた水月はその牽制におずおずと体を戻し、丸椅子の上で居心地悪そうに身じろいだ。店内に流れる控えめなBGMが、今更のように静まったテーブルの上に漂う。
「まるで痴話喧嘩だな。そんな事聞かせるためにわざわざ俺を呼び出した訳じゃないんだろ?」
呆れ混じりのため息をひとつ落とした先輩は場を仕切り直すようにそう言うと、いつの間にか飲み終えていたビールジョッキを軽く上げ、奥にいる店主に「すみません、これ同じものもうひとつお願いします」と声をあげた。憮然とした店主が、動きの悪い腰を持ち上げる。
ほら、お前らも早くそれあけて、なんか頼め。
そう言われ慌ててびっしょりと結露したグラスを手に取った。早くも生温かくなってきてしまっているビールが、ぬるりと喉を落ちていく。苦いばかりで、全然美味しくない。
飲みきれなくて半分程残してしまった金色の酒が、気泡も立てずにたぷんとグラスの底にたゆたった。ペンダントライトから移った光が、白い満月のようにそこにのっている。
いつかの懐中時計の表面にも似たその丸い光を無理矢理飲み込むように、サスケは一気に残りの酒を飲み干した。



なんとなく微妙な空気のまま別れた水月からようやくメールが来たのは、それから十日程経った夜だった。
大学で会ってもわざわざ離れて座っていたりしていたくせに、突然『このあいだはゴメンネ』とどこまで本気なのかよく解らない軽い文面で謝られほんの少し引っかかったが、まあ水月らしいといえばそうなのかもしれない。『気をつけろよ』と返信すると、『大丈夫、もう気が済んだから』という答えが返ってきた。会話の脈が今ひとつ合っていないような気もしたが、言いたい事を言えて気が済んだという意味だろうか。
(もう少しなぁ……謝るなら、真剣に謝るべきだよな)
メールとかで済ますんじゃなくてさ、とちょっと思いながら携帯を充電器に挿す。この感覚の違いは、年下のせいなのだろうか。比べるつもりではなかったが、あまりに簡単な謝罪につい先日のナルトを思い出した。拒絶したままの背中に届けられた、絞り出したような「すみませんでした」の声。
水月といる時に会って以来、あれからナルトの姿も見なくなった。遠征にしては長すぎるから流石にもう帰ってきているのだろうが、こんなに会わなくなったのは初めてだ。
先日の他人行儀なやり取りに彼は少なからずショックを受けているようだったけれど、縁を切ると決めたからには、最低でもあの位の距離間は保ったまま付き合うべきだろう。
よく考えてみればこれまで顔を見る事が多かったのは、単にナルトがあれこれとサスケに構いたくて周りをウロチョロとしていただけだったのだと、今更ながらに気がついた。認めたくはないがやはりあの目立つ姿を見かけないとなると、それはそれで少し淋しい気もする。
(仕方ねえよな、こうなるのを選んだのはあいつ自身だし。俺の方は、まぁ――慣れんだろ、そのうち。元の暮らしに戻っただけだ)
コーヒーでも淹れようかと立ち上がって台所に立つと、スイッチを入れてもいないのに換気扇のプロペラが猛烈な勢いで旋回しているのに気が付いた。風が強い。台風が近付いているのだと、ニュースでは数日前から何度も警戒を呼びかけていた。巨大な低気圧の塊りに、こちらの偏頭痛も数日前からしっかり被害を被っている。
洗っていなかったカップに気が付いて湯を沸かす前にそちらを濯いでいると、スタンド式の充電器に挿したままだった携帯電話がぶるると震えた。
付き合いのいいプラスティック製の台座がかたかた揺れる。その動きがうっとおしくて、仕方無しに水仕事の手を止めて右手の水滴だけ雑に拭って指先でつまみ上げるように携帯を取ると、発信者の表示に『はたけカカシ』の文字が点滅していた。意味もなく舌打ちを落とし、回線を繋ぐ。
「なんだ」
『わー機嫌悪そうだねぇ』
いきなりの指摘に、特別良くもなかった機嫌が一気に不機嫌に傾いた。もう切ってしまってもいいだろうか。
『あ、台風だから?お前昔っから気圧低いとやたら機嫌悪かったもんな。イライラ解消に掃除でもしてた?』
「うるさい。いいから要件だけを言え」
まだ濡れたままの左手から雫が落ちるのを気にしながらぞんざいに言うと、受話器の向こう側でカカシの苦笑する気配がした。長い付き合いだが、この男の持ついちいち人を見透かしたような態度に、サスケは時折苛立たされる。
嵐が近いせいだろうか。電波に乗ったその声は、なんだかざらざらしていた。日本列島にやってきている小型の台風は、丁度今時分は小田原辺りを通過している筈だ。『小型とはいえ関東を直撃するため、各自警戒を怠らないようご注意ください』。さっき見た最新の天気予報の中で、気象予報士がそう言っていた。
『あのさー、さっきまたうちの実家から野菜が届いてね』
尖ったサスケの言い口を物ともせず、鷹揚に話を始めたカカシは手短に要件を告げた。
自分の実家から自家製の野菜が届いた。
今回の荷物の中にはサスケの好きなトマトも入っている。
だが、やはり送られてくる間に若干傷みが入ってしまったようだ。
それでもよければ進呈するから、これ以上傷みが進まないうちに早目に取りにくるように。
カカシの父親の作る小ぶりだけれど中の果肉がぎっしり詰まった無農薬トマトを思い出し、わかった後で取りに行くと言おうとしたサスケは、しかしすぐ次に続けられた『でね、』という言葉に急停止した。ほらきた。先にいい話をぶら下げて人を釣り上げる手法は、策士であるこの男の常套手段だ。
『その代わりと言ったらなんだけど、ちょっとやって欲しい事があるんだよね』
「なに?」
『テストの採点』
「そりゃまずいんじゃねえの?」
正規の学校教員であるカカシの頼みに、すぐさまサスケは疑問を呈した。個人塾のテストならともかく、私立とはいえきちんとした学校の試験の採点を、部外者である自分にやらせていいものだろうか。
『あー大丈夫。ちょっと事情があってさ。学校側にも了解得てるから』
頼むよー、と真剣味の足りない声でお願いされて、サスケは計るように考えた。天気予報がいうように、台風が接近しているせいで外の風はどんどん強くなってきている。だが、カカシの部屋は先日引っ越したお隣さんを挟んだふたつ隣りだ。嵐の中とはいえ、断る程の距離ではない。
更に付け加えるならば、カカシの家のトマトは美味いのだ。実家に住んでいた頃は時々分けて貰っていたので、よく知っている。
「わかった。五分後に行く」
簡潔に告げると、再び受話器の向こうでカカシが笑う気配がした。『まったく、好物に弱いねえ、お前も』。どこか嬉しげな声に、首をひねる。
お前もって一体なんの事だ?
これだから年寄りの言う事は、時々意味がわからない。



ドアを開けようとしたらいきなり強風に阻まれて、押し戻されたドアが、ごつ、と肩にぶつかった。
慎重に力を込めて外に出ようとすると、半分開いたところで今度は逆にぶわっと煽られる。
風に持っていかれそうになるのを慌てて封じ込めるようにして扉を閉じ施錠をすると、サスケはアパートの廊下から真っ暗な夜の空を見上げた。みっしりとした低気圧に月も星も隠され何一つ明かりのない空だけれど、分厚い雲が黒々と濁流のように流されていくのだけはわかる。
廊下を見渡すと、吹き荒れる風に散らされた木の葉が散々に撒き散らかされているのが見えた。逆側の端から、白いプラスチックの植木鉢が踊るように転がってくる。カカシの部屋に向かう前にそれをはっしと捕まえて、少し迷った末、持ったままカカシの部屋の呼び鈴を押した。持ち主に心当たりがない訳ではないが(多分いつも玄関前に季節の花を植えている端の部屋だ)、今戻しておいてもまた風で飛ばされるがオチだろう。重吾に頼んで、明日にでも返しておいて貰えばいい。
「ごめんねー、すごい風だったでしょ」
先程を教訓に素早くドアの内側に入ってきたサスケを見て、カカシが眉を下げて言った。ごめんねと言いつつ、すまなさそうな雰囲気が全く感じられない。
「雨まで降り出す前にさっさと終わらせるぞ…って、なんだそりゃ?」
首から吊るされた真っ白な三角巾に気が付くと、サスケはちょっと目を見開いた。「折れてんのか?」と尋ねてみると、「まーね。一応ね」と寝ぼけたような顔が事も無げに答える。
「ほら、今俺臨時で水泳部の顧問やってるでしょ。プールサイドでちょっと転んじゃってさ」
「転んだくらいで折れたのか」
「折れたんだよねー、簡単に。ポキッと」
まだまだ若いと思ってたんだけど、流石に今回は自らの老いを感じさせられたなあ。暢気に言うカカシに呆れながら部屋に上がると、片手でどうやって広げたのか畳の上には折りたたみ式のローテーブルが既に出され、未採点の答案用紙が小さな山を作っていた。 
なんだよ結構あるじゃねえか、と文句を言おうかとも思ったが、押し黙ったままセッティングされた座布団に座る。
「これが答えのサンプルね。選択式のや単語を記入するようなのはどんどん丸付けしちゃって。あと最後の文章で解答する問題のとこだけは俺がやるから、そのままにしといて」
「わかった」
渡された正答の書き込まれたサンプルに一通り目を通すと、サスケは背中を伸ばし置かれていた赤ペンのキャップを捻った。キュポン、という気の抜けた音が、ガタガタと窓枠を揺らす風の音に混じる。
出席番号順になっているのだろうか、「あ」行の苗字から始まった生徒の答案用紙にフェルトペンを走らせていると、思いの外丸付け自体は気分のいいものだということにすぐ気が付いた。丸、丸、丸……しゅっ、しゅっと掠れるペンの音さえも中々に気持ちいい。
ところが気分が良かったのはほんの束の間の事だけで、誤解答だらけの答案が続きだすと、サスケは途端に不愉快になってきた。バツ、バツ、バツ、バツ、丸……最後もまたバツ。丸が続くときはいいのだけれど、バツの多い答案の時はなんだかバツの数だけ苛立ちが募る。
「なんだこりゃ、こいつ授業中丸ごと全部寝てたのか?」
最初から最後までバツだらけの解答用紙を睨みながらそう言ったサスケに、隣りで慣れない左手を駆使し時間をかけた採点をしていたカカシが苦笑いを浮かべた。サスケの前に広げられた用紙を覗き込み、「あーこいつね。うん、確かによく寝てる」と腹をたてるわけでもなく鷹揚に答える。
「うち私立だし、運動部に力入れてるからねー。体育会系の子達からしたら授業は睡眠&休養時間だと思ってるんじゃない?」
「叱れよ」
「んー?いやちゃんと叱ってるよ。でもまあ、あいつら本当に体使ってるからねえ。あれはあれで、放課後に授業とは違う勉強をしてると思えばさ」
健全な精神は健全な肉体に宿るらしいからさー、と理由になっているのかいないのかよく解らない事を歌うように言いながら、カカシはぎこちなくボールペンを操り生徒の書き連ねた解答に大きく丸をつけた。確かにこのペースでは、ひとりで全部を採点していたら、夜が明けてしまっていただろう。
「……文章で解答してるとこも、俺がやってもいいならやってやるけど」
たどたどしい左手についそう申し出ると、とろんとしたタレ目が細い三日月になった。「だいじょーぶ、ありがとなサスケ」という声に、大人が子供を褒めそやすような、甘やかした余韻が入る。
「そうか」と呟き小さなため息を落とすと、サスケは再び答案用紙の山に向き直った。とりあえず、自分の割り振り分だけでも早いところ終わらせてしまおう。そう思って淡々とペンを滑らせていると、しばらくしてふいに生徒の解答に視線を走らせていたカカシが、ぷくく、と忍び笑いを漏らすのが聴こえた。
「あ?なに笑ってんだ」と隣を訝しむと、「あー、ゴメンゴメン、こいつの解答があんまりにも可笑しくてさ」とカカシが堪えきれなかった笑いをその口許からほろほろと零す。
「いやー、ほんと子供ってオモシロイよ。発想力が素晴らしすぎて涙出る」
「笑ってる場合かよ」
「だって抜き打ちテストとかした時なんてもう、珍解答の連続よー?一体どうやってあんな答え捻り出せんのかとむしろ感心するよ」
そう言いながらも答案用紙にバツを書き込んだカカシは、ゆっくりと慣れない動きでペンを動かすとその答案に何事かコメントを書き加えた。もう一度ふ、と笑いを落として、次のものに取り掛かる。
「うん、でも俺の中でのベスト・オブ・珍回答は、今でもナルトの書いたやつだなあ」
しみじみと呟かれた名前に、図らずもペンを動かす手が止まりそうになった。スピードが落ちないよう気をつけながら、感情を抑えた声で「ああ、そう」と言う。
「あいつもさ、まぁホント授業中よく寝てくれたよ。成績は散々だったけど、テストやらせると返ってくる答えがもう毎回傑作でさ」
「……ふん」
「なんかさぁ、あいつの回答って、間違える事に全くためらいがないの。あんまり堂々と主張するから、逆にこっちが間違えてるんじゃないかって不安に駆られるくらい、迷いなく誤回答をでかでかと書いてきて」
「ただの馬鹿じゃねェか」
「いーや、清々しいよ。あれだけ悪びれずに間違えられると。いそうでいないんだ、ああいうの」
俺一回だけ、うっかり間違いを丸にしちゃったことあるもん、ナルトのテストで。そんな事を笑って言うカカシに、サスケは鼻白んだ。何いい加減な事言ってやがる、間違いは間違いだろうが。上塗りしてどうすンだ。
「ナルト、お前んとこのおじさんとおばさんにもすごく気に入られたろ?」
答案に目を落としながらもニヤニヤして、カカシが言った。カーテンの向こう、締め切った窓が叩きつける暴風にぴしぴし鳴る。嵐は容赦なくどんどん近付いてきているようだ。
「どうせもうオビトから全部聞いたんだろ。母さんに密告までしやがって。お前らにはもう何も話さねえ」
ハリネズミのようにびっしりと針を逆立てて投げ返した返答も、カカシには全く効果ないようだった。「やだなあ、別にそんなつもりじゃないよー」などと軽々しくいう口は、両端が上がったままだ。
「ナルトの奴、可愛げあるからねー。職員室の妙齢のご婦人方からの支持率が異様に高くてさ。付き合ってた彼女も年上の事多かったなあ」
複数の彼女がいた事を匂わせる発言に、「あいつ、モテてたのか?」とぼそぼそ尋ねると、ちょっと目を見張ったカカシが「モテないと思ってたの?」と逆に訊き返してきた。
そのまま返すのも癪で押し黙ったまま返答を返しあぐねていると、それに絡むわけでもなくカカシが、「人気あったに決まってるじゃない。ホッケーチームのエースで、あのキャラで、あの見た目なら」とスラスラと答える。
「入学した当初は結構派手に遊んでたようだけどねー、でも二年の時あいつのご両親が亡くなっただろ?それからはぱったり。付き合うにしても物凄い厳選してたみたいよ」
「なんで」
「さあ?代わりにそれまで以上にホッケーに打ち込んでたみたいだけど。俺はそういうの疎いし縁無いからよくわからないよ」
そんな事をしれっというカカシに、サスケは内心で(嘘つけ、)と呟いた。あのリンからずっと思いを寄せられていたくせに。オビトはカカシの方も彼女が好きだったと言っていたけれど、実際のところはどうだったのだろう。
聞いてみたい気もしたけれど、ふと『サスケ訊いてみてよ』と言ったナルトの言葉が蘇り、サスケは口に出しかけた質問を取り下げた。今このまま聞くのはなんだかナルトに言われてするみたいで、面白くない。
「ま、それはよくわからないけど、とにかくナルトの方もお前んち行けたのは楽しかったみたいよ。あの後一緒にメシ食いにいったら、延々語ってたし」
ペンを動かす手を休めないままにそう話を戻したカカシに、やはり手を動かしながらサスケは「語るって何を?」と訊いた。
「んー、まあ、レンタカー屋でのジャンケンから始まってあのどでかい家やら鬱蒼とした庭やら旅館みたいな檜風呂やら絶品朝ごはんやらオビトの病院やらなんやら全部」と言うカカシに唖然としつつ、最後に付け加えられた「でも半分以上はただのミコトさん讃歌って感じだった」という笑い混じりの言葉に、思わずこめかみを抑える。
「あいつ、人んちの母親をなんだと思ってるんだ」
「まーしょうがないよー、ミコトさんホント綺麗だし。あ、また連れて来てねって言われたんだって?俺もようやく運転手交代できるなあ」
はーやれやれ、と芝居がかった仕草で肩を回したカカシは、急に静かになった隣りを見て「ん?」と首を傾げた。止まった赤ペンに注視してから、ゆっくりとその横顔に目を移す。
「――いや。あいつとは縁切ったから、今後一切うちには来ない。母さんに情報流すんなら、それもついでに言っとけよ」
静かに告げてから添削を再開すると、答案用紙から顔を上げたカカシはキョトンとした。しかし徐々にわかった顔になっていくと、最後に「あー、」と納得したような声をあげる。
「なんだ、やっぱりお前らケンカしてんだ?」というため息混じりの言葉に、サスケは「ケンカじゃねェよ」とぼそりと落とした。その様子に、カカシがやれやれといったように首を振る。
「なーんかさっきからおかしいと思ったんだよね。ナルトはナルトで、なんか急に動き出したかと思えば、会話しててもサスケの話題になると妙に言葉を濁してたし。なーに?どうせまた、くっだらない事でやりあってんデショ。あのねえ、そりゃ確かにいつも原因はナルトかもしれないけど、サスケの方もいちいち言う事がキツイんだよ。あんな言い方するから些細な事でケンカになっちゃうの。いい加減ちょっと学習しなさいよ、大人なんだから」
『大人なんだから』などと言いつつ、くどくどとそんな子供扱いした小言を言ってくるカカシにイラッとしながら、「そんなんじゃねえ。もう本当にあいつとは縁を切ったんだ」となおも言うと、カカシは呆れたように肩をすくめた。採点の手を止めて、くるりくるりとペンを操っている。利き手ではないというのに、中々の器用さだ。
「なによ、そんな派手なケンカになるような事があったの?」
「だから、ケンカなんかじゃねえって。――とにかくもうあいつとはいられないって思っただけだ。向こうもそれで了解してんだから、別に問題ねェだろ」
しばらくは無表情のままで採点を続けるサスケを探るようにじいっと見ていたカカシだったが、そのうちにその横顔から何を覚ったのか、なーに言ってんだか、この子達は、と生ぬるいため息をひとつついた。「絶縁だなんて。ナルトとそんな事できるわけないでしょ」と素っ気なく言うカカシに、「なんでだよ」とすぐさま反論する。
「だってお前らすごい想い合ってるじゃない。ナルトはもう最初っからお前の事気になって仕方ないって感じだったし、お前だって最近じゃあナルトの事相当好きなくせに」
あっけらかんとそう断言したカカシに一瞬思考が停止しかかったが、サスケはすかさず持ち直した。「…ンなわけねぇだろ」と低く唸ると、「ウソウソ、だってお前ナルトといる時、自分がすっごく嬉しそうな顔してるの知らないだろー?」とカカシが笑う。
「オビトだって言ってたぞ?久々にサスケが可愛くなってんの見たって」
「――…っざけんな!誰が可愛いだ、誰が!」
だん!と赤ペンを握った拳でテーブルを叩けば、振動で山になっていたテストの束が斜めに傾いた。
おっと、倒れる倒れる、と吐いたセリフの割には慌てる素振りもなくちょっとその手を伸ばしたカカシが、傾き掛かった山を元に戻す。
「別に照れなくてもいいじゃない。人付き合いが苦手なお前が嫌がりもせず遊びに行ったり、ミコトさん達に紹介したりするなんて。ナルトを特別気に入ってた事位は、認めるでしょ?」
今度はすぐに言い返すことはできなかった。
確かにそうだ。あんなにも気を許した関係を作れた友人は、これまでにひとりもいなかった、けど。
「でもそれは――あいつ、が」
足掻くようにまだ言うと、茫洋とした瞳が「ん?」とこちらを向いた。「あいつが、ちょっと、似てたから」と歯切れ悪い言葉に、「何に?」とすぐに訊き返される。
「だから、兄さんに」
「イタチ?」
「そう。……なんか、ちょっと似てるだろ?あいつ。だから、ちょっと、気に入ってただけだ」
たっぷり三十秒程、カカシが黙りこくった。
窓の外、ごおごおと風が吹き荒ぶ気配がひっきりない。古い木造のアパートは、荒ぶる風に全体がみしみしと揺さぶられているようだった。
玄関の向こう側、廊下でガランガランと派手な音を奏でてまた何かが転がっていく。今度もまた端の部屋からだろうか。
「………え?なに、今のって、なんか新しい冗談?」
ようやく声が戻ってきたかのように、カカシがおそるおそる囁いた。
「違う。こんな冗談なんか言うか」とムッとすると、ぽかんとしていたその顔が徐々に緩み、耐えられなくなったらしい肩がぷるぷると震えだす。
「てッめえ、なんで笑う!」
「……ッ、くくく、いやだって、お前さ」
「ンだよ、人が真面目に答えてやれば」
「あ、真面目なんだ?へえー」
「――くっそ、元はといえばお前が妙なこと言いやがるから」
「ちなみにどこをどう見たら、ナルトがイタチに似てんのよ?」
「どこって、ちょっとした好みとか、なんつーか、おおらかなとことか……!」
そこまで言うと、とうとうカカシは堪え切れなくなったのか体をふたつに折って、腹を抱えて笑いだした。
「そんなのどんな他人同士でもひとつやふたつ好みが重なる事くらいあるデショ。そりゃ確かにナルトは気のいい奴だけど、それだけじゃないじゃない。怒るし、拗ねるし、文句も言うし。イタチの寛容さとは種類が違うよ」と顔を赤くするサスケを前に、息も絶え絶えに言う。
ひぃひぃと喉を引き攣らせてひとしきり笑うと、カカシは気が済んだかのように「はーなるほどね、まさかこうくるとは。やっぱ子供の発想力って面白いなあ」と、笑いすぎて潤んだ目尻を拭った。
そうして憤然とするサスケに向かい、にっこりと笑う。
「あのねぇ、どうして好きになる事にいちいち理由をこじ付けようとするの。いいじゃないイタチはイタチ、ナルトはナルトで。どっちも好きでさ」
相変わらず難しく考えすぎるねサスケは、などと言うカカシに「よくねェよ」と低く言うと、すぐさま「なんでよくないの?」と質問で返された。首を傾げたカカシに長く言いよどんでから、「だってなんか……それじゃ俺が、揺らいでる、みたいじゃねェか」と口籠りながら伝えると、斜めになっていたキョトン顔が「あー、なるほど」と納得したような声をあげる。
「イタチが好きなのにナルトと仲良くするのは、なんだか自分のお尻が軽いような気がしちゃうんだ?」
「違うし……!あとわざわざそんな言い方すんじゃねえよ!」
「別にいいじゃない、長いこと好きだったのとは違う人を選んだって。相手がそれを受け入れてくれてるんならさ」
「そういう考え方だから、お前はリンさんがオビトとくっついても平気で見てられんだな」
急に向けられた話が意外だったのだろう、少し揶揄するようなニヤけ顔だったカカシは、サスケの言葉を聞くと途端にその緩んだ頬を固まらせた。しかしそれも一瞬の事で、すぐにまたやわらかなほほえみに替わる。
「あれ?もしかして誰かからなんか聞いた?」
「このあいだ、オビトに聞いた。リンさんは、お前の事がずっと好きだって」
なんとなく目を見ていうのがためらわれて、サスケは再び答案用紙に視線を落とした。のろのろとした動きでペンを動かし、ゆっくりと丸をつける。
「まあ、否定はしないけど」
「いいのかよ」
「何が?」
「お前も、その――リンさんの事が、好きだったんだろ?」
「はー…ああ、まあ、そうね。好きだったかな」
今ひとつはっきりしない返答にちょっとイラついて視線をあげると、折れていない方の腕で頬杖をついたカカシが興味深いなあといったような顔でこちらを眺めていた。「ンだよ。こっち見んな」と無愛想に告げると、「いや、ごめんごめん。なんか『好き』とか言うサスケってレアだなあと思って」とへらりと笑う。
「お前嫌いなもんは山程あるくせに、好きなもんは物凄く少ないじゃない?」
「うっせ、黙れ。今はお前の話をしてンだ」
話を上手くすり替えられそうになるのを機敏に察して(これもこの男のよく使う手だ)、そうはいくかと言い返せば、いつも半分しか開いていなかった瞳が更に三日月になった。サスケの退かない構えに、カカシが余裕の笑みを見せる。
「オビトもオビトだ。リンさんがずっと他の奴の事見てたの知ってて、なんで平気でいられるんだ」
「うーん……そうね、平気ではないのかもしれないけど。でもいいんだと思うよ?あいつは俺を好きだった彼女も全部ひっくるめて、リンが好きだって言ってたし」
打ち明けられた壮大な全肯定に唖然とする傍ら、やけに覚えのある言葉に複雑な気分に陥っていると、カカシが追い打ちをかけるように「ああ、そういえばナルトの奴、イタチには似てないけどオビトには似てるかもね」としれっと告げた。「ほら、なんかあんまり先の事考えてなさそうなとことか、あっけらかんとした笑いかたとか」と続けるカカシに、「だからあいつの事は今はほっとけっての!」と低く踏ん張る。
いつもながら、どうもカカシ相手になると上手く主導権が握れない。こいつ本当は全部ナルトから聞いて知ってるんじゃないかという疑念も芽生えたが、ここで下手に乗ってしまってはこの男の思う壺だ。
「そうじゃなくて。お前もリンさんも、なんで付き合わなかったんだって訊いてんだ。好き……あってたん、だろーが」
『好き』という単語にやっぱりニヤリとしたカカシに舌打ちしながら一気に言うと、頬杖をついたままだったカカシが「んー、そうだねえ」と宙を見上げた。「お子様のサスケには大人の事情を話したところでわからないかもしれないけど」などと言う男に、「さっき俺に『もう大人なんだから』って言ったのはどこのどいつだ」と畳み掛ける。
「そうだっけ?」
「そうだ」
尚もはぐらかそうとするカカシに食いつくと、流石に諦めたのかふかぶかとため息をついて、カカシは「だって、もし本当に付き合っちゃったらさ。その先には二択しかなくなっちゃうじゃない」と言った。
「二択?」
訊き返したサスケに、ボサボサ頭がこっくりと頷く。
「そう。恋人になっちゃったら、その先には『ずっと付き合い続ける』か、『いつか別れる』かの、二つしか道はないんだよ」
「それがどうした」
「だから、俺はどっちも選べなかったって事。そんだけ」
淡々とそう言うと、カカシは再びにっこり笑ってから答案用紙に向き直った。下を向いたまま、「あとねー、俺リンの事好きだけど、腹立たしいことにオビトの事も同じ位好きなの。オビトは俺より断然リンの方が大事だろうけどね」と流れるように言った。テーブルの上に乗せられた左手が、ぎこちないながらも丁寧な動きで丸を描く。
「……それのどこが大人の事情なんだ?」
話の終わりがよくわからなくて黙ったまま聞いていたサスケだったが、再開した丸付けにおずおずと訊いてみても「あれ、わからなかった?」とニヤリと笑ったきり、すました横顔はもう何も喋る気はないらしかった。
煙に巻くような鼻歌だけが、かすかに聴こえてくるばかりだ。
(クソ――また誤魔化されたか)
はっきりと明確な答えが示されない事に腹立ちつつも、サスケはこれ以上の追求を諦めた。むっつりと口を閉じたまま、座り直して黙々と採点をこなしていく。
たぶん、あとはもう自分で考えてみなさいね、という意味なのだろう。どうせもう何を言っても、この先はいいようにはぐらかされるだけだ。
答案用紙の山をあらかた片付けて、きちんとクリップで留めてから隣をうかがうと、静まり返っていたカカシは存外楽しげな表情をして採点を続けていた。「終わったぞ」と短く告げると、「ああ、ほんと?流石サスケ、仕事が早いねー」と一瞬上げられた顔が、ふにゃりと笑う。
「約束のものは玄関のとこに置いてあるから。入ってる袋ごと持ってっていいよ」
「わかった」
「あ、ねえ、さっき言ってたナルトと縁切る云々ってやつ。あれって、いつから縁切ってんの?」
玄関に向かったサスケについでのようにそう尋ねてきたカカシは、テストから目線を外さないまま赤ペンを指先でくるりと回すと、んー、どうしよっかなあ、これこのままでも丸にしちゃってもいいかなァと小声でブツブツと呟いた。
玄関のドアノブに手を掛けながら「は?別にいつからだっていいだろ」と面倒臭そうに答えたサスケにちょっと眇めた視線を送って、「あっそ。いやまあ、そりゃあ俺としてはいつからでもいいんだけどさ。もしまだ聞いてないようだったら、せっかくだから教えておいてあげようと思って」と素っ気ない口調で断りを入れる。

「ナルトさ、近々このアパートを出て行くみたいよ?」
「え?」
「北海道にあるプロチームへの入団が決まったんだって。すごいねぇ、いつかとは思ってたけど、とうとう本当にプロになっちゃったねー」

細く開きかけたドアから、びょお、という風切り音が耳を掠った。乱された前髪に、目を瞑らされる。
知らず手から離れてしまっていたドアが暴風に煽られ、勢いよく反対側の壁に打ち付けられた。「うわっ、ちょっ――サスケ、ドア!」と叫んで慌てて紙束を抑えるカカシを背景に、風に飛ばされてきた木の葉っぱが、出鱈目な風と共に室内に侵入してくるのが見える。

『小型とはいえ関東を直撃するため、各自警戒を怠らないようご注意ください』

何故だか先程聞いたウェザーニュースが唐突に思い出され、頭の裏側でがんがんと連呼しだした。訳のわからないリフレインに、とにかく無性に頭が痛くなる。
――直撃するため、各自警戒を怠らないよう、ご注意ください。

ケイカイヲ、オコタラナイヨウ、ゴチュウイクダサイ。