第十六話

場違いな着信メロディは止まらない。
硬直したまま何も言わないナルトに、「なあ、もしかしてお前さ」と問いかけた。
その声に弾かれたかのように動き出したナルトは慌てたように鳴り続けている携帯を取り出すと、急いた仕草で通話ボタンを押した。相手は年配の男性だろうか、スピーカーから『良かった、繋がった!』という嗄れた声が漏れ聴こえる。
「ハイ……ハイ。わかりました」
時折頷きながら応答するナルトに少し呆気に取られながらも、切り際に言った一言に彼が何を承諾したのかは察せられた。腹の底の方から、ジリジリとした苛立ちが這い上がってくる。
「……ンだよてめぇ、今俺が訊いてんだろ?それにバイトも……」
叱責じみた声で糾そうとすると、先手を打つような「ゴメン!」に先回りされた。
「ゴメンじゃねェよ」
「でもほら、えっと、なんか――し、しつこかったし!シカマルとかが抜けてから常時人手不足だしさ!夜からのシフト引き受けちまったから、オレもう行くってば!」
打ち切るようにそう言い捨てて踵を返そうとしたナルトの、日に焼けた腕が視界を掠めた。半袖から突き出すように伸びた腕は、たっぷりと初夏の太陽の恩恵を受けて実にいい色になっている。
「待てよ。俺の話はまだ終わってねえ」
そう言って、しなやかな筋が浮かんだ小麦色の腕を掴んだ。大きな広い肩が、ギクリとおかしなくらいに跳ね上がる。
「ナルト、お前――このあいだの夜うちに上がって、俺になんかした……か?」
確かめるのが妙に怖くて、知らず必要以上に静かな口調になった。
ふとしっかりとした首筋に目が行くと、かかる金髪の襟足が、じっとりと浮かび上がった汗を吸って束になっている。
「ごめ……ッ、ホント、知らないってば!」
うつむいたナルトはそう叫ぶとこちらを見ないまま体を捻り、掴まれた腕を思い切り振りかぶった。
ぶん、という太い風切り音に、ついていけなかった自分の手のひらが宙に舞うのが見える。
そのまま乱れた足音を響かせて、走り去っていく背中を呆然と見送った。悲鳴のようなナルトの声の余韻は消え、激しくなっていく雨音だけが鼓膜を打つ。
肩に掛けた、乾燥したての洗濯物が詰め込まれたランドリーバッグだけが、何も考えていないような温かさを伝えてくる。
振りほどかれた手のひらの納めどころがわからなくて、サスケは舌打ちと一緒に行き場のなくなったそれを、ポケットに突っ込んだ。

     ☆

「……ちはさん、うちはさん!」
空々しい追憶に思いを漂わせていると、やわらかな低音に揺り起こされた。いつの間にか、管理人室の小窓が開けられている。
「大丈夫ですか?すみません、随分と呼んでいたんですがお返事がなかったので」
勝手に窓、開けちゃいました。
肩を竦めた痩せぎすな青年は、そう言って申し訳なさそうに小窓から少し身を引いた。普段はざっくばらんに黒髪が伸ばされているその頭には、今日はやる気みなぎる手ぬぐいが巻かれている。それでもどうしても隈の刻まれた目許には陰気さが漂っている彼は、今日を限りにここのアパートを退去するお隣さんだ。
「お疲れなんですか?なんだかぼーっとされていましたけど」
「いえ、大丈夫です、こちらこそすみませんでした」
気遣う言葉に背中を伸ばして、サスケはことさらキビキビと返事をした。
まったく、あんな記憶にぼんやりするだなんて、俺らしくもない。一体どれほどの間放心していたのだろう。
「荷物はもう全部運び出せて、掃除もあと少しで終わるので。そろそろ退去の立会いをお願いしていいですか?」
薄暗いエントランスでそう言ってちょっと腰を屈めた青年に、「あ、掃除はクリーニングも入りますからそんなにされなくてもいいですよ」と慌てて告げたが、青年は穏やかに笑顔を浮かべた。「いえ、そうもいきませんから」と首を振る彼に、座っていた椅子を引いて立ち上がる。
管理人室から出て青年の後ろに従いながら二階に上がると、廊下からここのところすっかりお見限りの太陽が、うすい雲の中で弱い光を丸く映し出しているのが見えた。快晴とは言えないが、引越しの決行日としてはそう悪くない天気だ。
いいタイミングで荷物が出せて良かったですね。前を行く背中にそう言おうとしてやっぱりやめていると、向こうから「今日は雨にならなくて良かったですよ、昨日の土砂降りは酷かったですから」と機嫌の良さそうな話し掛けがきた。「ああ、そうですね」と軽く返すと、かすかに振り返った青年はそれを気にした風もなく、にっこりと笑う。
端から二番目の鍵のかけられていない扉を静かに開けると、中から「あ、ねえハヤテ、ここってゴミ出しは当日の朝だっけ、これって今出してっちゃダメだよね?」という華やいだ声がした。青年の肩ごしに部屋の奥を覗くと、しなやかな長身に、動きやすそうなTシャツとジーンズを張り付かせた女性が、物の無くなった畳の上でガサガサとゴミ袋を覗き込んでいる。
どうしよっか、このまま車に積んでく?と顔を上げた女性はそこでやっと後ろにいるサスケに気が付いたようだった。凛々しく纏め上げた長い髪を恥じるように揺らし、「あっ――えっと、ごめんなさい、こんにちは」と慌てて頭を下げる。
続いて軽く会釈を返したサスケに、婚約者です、と訊いてもいないのに説明した青年は嬉しげに一度笑うと、女性に向かって「夕顔、こちらがうちはさんだよ」と体をずらして手を差し向けた。
「わぁ、これが噂のイケカン」
「は?」
イケカン?
「ゆ……夕顔!」
つるりと口を滑らせた女性ににわかにあたふたとし始めた青年は、たしなめるように恋人の名前を呼ぶと、よく解らないままのサスケと彼女との空間をシャットダウンするように体を割り込ませた。「どうして君はそう口が軽いの」というヒソヒソ声に、女性がちろりと赤い舌をみせている。
なんとなく釈然としないながらも手続き通り(彼が今日退去するというのは午前中の担当だった重吾から引き継ぎの際聞いていたので、退去の立会いについてのマニュアルは先程完璧に覚えておいた)コンセントやブレーカーなどのチェックをしている間にも、結婚間近だという恋人達はあちこち立ち回っているサスケに視線を預けながらも、部屋の隅で並んで立っていた。
寄せ合った肩がつがいの鳥のようだ。隣り合わせになったふたりの手の甲が、つなぎ合うわけでも絡み合うわけでもないが、時折甘えるように触れ合っているのがチラチラ視界に映る。
(あー…お熱いことで)
ちょっとげんなりした気分になりつつも点検事項を全て見終えると、振り返ったサスケは「入居の際お渡しした鍵はお持ちですか?」と尋ねた。あ、はい、持ってます。そう言ってポケットから鍵を2本出した青年は、丁寧な仕草でそれを差し出す。
「確かに。ではこれですべて確認できました。退去していただいて結構です」
受け取った鍵がこちらで作ったオリジナルのものだと確認できると、サスケは微妙に緊張した面持ちの青年に告げた。ホッとした顔のふたりに「このまま行かれます?」と尋ね、頷いた彼らに続いて階下まで降りる。
表に出ると、引越し業者のトラックが手持ち無沙汰な様子でアパートのエントランス前に幅を寄せて駐車していた。お隣さん(いや、今はもう既に元・お隣さんだ)は運転席の男性に何言かしゃべりかけると反対側に回り込み、結局持っていく事に決めたらしいゴミ袋を助手席の足元に乗せる。
「じゃあ。長らくお世話になりました」
助手席のドアを閉めて待っていた彼女の隣に並んだ青年は、最後まで穏やかさを崩さなかったその顔でしみじみとほほえんだ。
すごく好きでした、ここ。
そう言ってほんの少しだけ淋しげに細めた目で、薄曇りに建つアパートを見上げる。
「窓から見える空が広くて、日差しが沢山入って。いつも、エントランスもピカピカで。毎日帰ってくるのが気持ちよかったです」
「……そうですか」
「次に入られる方ってまだ決まってないんですか?」
表看板の横に張り出された張り紙を見た彼は、何気ない風にそう訊いてきた。そうか、そんな風に思ってくれていたんだ、とちょっと胸を温かくしていたサスケは、その言葉に一瞬考える。
「この間まで決まりかけてたんですが、キャンセルになったんです」
出来るだけ力の入らない声でそう告げると、人の良さそうな彼は「そうだったんですか、それは残念でしたね」と眉をしかめた。しかしすぐに頬を緩めて、「でも、きっとまたすぐに決まりますよ。ここ本当に良い物件ですし」とほほえむ。
「きっと次入られる方も、あの部屋なら絶対気にいると思います」
「……そうですかね」
「そうですよ」
普段はもっと陰気で言葉数の少ないイメージだった隣人が思いの外はきはきと発言するのを聞いて、サスケはなんだかひどく意外な気分だった。この人、本当は結構明るい人だったのだろうか。人は見かけによらないものだ。
そしたらうちは先に行かせていただきますねーと開けた窓からひょいと頭を下げてさっさと発進していった引越し業者を見送った青年は、当然のように黒いボストンバッグと女物の旅行かばんを両手に片方づつ持つと、自分で持つよと言う婚約者を制しながらもう一度「じゃあ、」と言った。
まっすぐあちらへ向かわれるんですか?と尋ねたサスケに、「いえ、今日はもう空港近くの宿で一泊して、明日の便で帰ります」と笑顔で答える。
「確か北海道でしたよね。お気を付けて」
「ありがとうございます。うちはさんも」
そう言いながら揃って頭を下げたカップルは姿勢を戻すと、一瞬視線を絡ませ合い、どちらからともなくほんのりとした照れ笑いのようなものを浮かべ駅の方へと向かうべく回れ右をした。すっかり甘い恋人同士の世界にあてられっぱなしだったサスケであったが、ふとさっきから気になっていた事を思い出すと、急いで二人に問いかけた。
「――あの、」
「はい?」
体をひねるようにして振り返った青年は訝しげな顔をすると、それでもきちんと立ち止まってしっかりとサスケの方へ再び体ごと向き直った。「『イケカン』ってなんですか?」と質問すると、途端に困ったように青年は眉を下げる。
「………『イケてる管理人さん』の略です」
じっと見つめていると、白状するかのように青年は気弱に答えた。「ほら、イケメンとか、イケダン、みたいな」という弁解に、イケダンてなんだよと心の中で小さく突っ込む。
「すみません、オレらの間ではそう呼ばせていただいてました……」
泳がせていた視線を気まずそうに漂わせたまま、青年は、あはは、と白々しく笑った。隣で同じ顔した婚約者が肩を小さくしている。なんだかそれ以外にも意味はありそうだったが(もしも『イケ好かない管理人』だったとしたら結構ショックだ)、これ以上追求するのも後味が悪そうだと思い、サスケはそのまま捨ておくことにした。最後の最後に、いじめるような真似をすることもないだろう。
頭を下げながら去っていく恋人達を見届けて顔の向きを変えると、表の表札の隣に貼ったままの『入居者募集』の文字が目に入った。すうっと冷めていくような気分でそれを眺め、再び管理人室の中へと引っ込む。
管理人室の中ではつけたままだったエアコンが、躍起になったように締め切った小部屋の空気を引っ掻き回していた。ここのところ雨続きだったせいで、不憫な旧式のエアコンは、朝から除湿するのに必死だ。
(何が決まりかけてただ――キャンセルさせたのは俺じゃねえか)
デスクの前の回転椅子に腰を落とすと、急な負荷に鉄の合わせ目がみしみし鳴いた。
ふと右手を広げ、視線で浚う。手のひらの上にまざまざと蘇る、咄嗟に掴んだナルトの温度。
腕を振り払われて走り去られてもなお、最初はまだ、あのキスがが現実のものだったのかは半信半疑だった。夢であって欲しいと何度も願った。できることならば向こうから「そんなの夢に決まってるだろ」と笑い飛ばしてもらいたかった。
けれど急に音信不通になったナルトの様子に、その願いがどうやら叶わなさそうだと感じ始めてからは、今度はそうなってしまった理由を後付けするのに散々頭を捻った。なんでだ。なんであいつ、あんな事しやがったんだ。都合のいい答えを探し考えあぐねている時、ふと思い出したのが彼の部屋で見たファミリーポートレイトだった。ああそうか、多分あいつは淋しかっただけなんだ。家族が欠ける苦しみならば、自分もよく知っている。
サスケはそう考え、無理矢理にでも納得しようとした。気を抜くと頭をもたげてくる矛盾点には気がつかない振りをして、それでもまだ彼を説得できると思っていた。
やり込める自信ならば充分にあった。トラブルメイカーのナルトに振り回された自分が、その尻拭いをしてやりながらも笑って謝る彼に散々文句を浴びせかけ、サスケの気が済んだ頃になんとなく仲直りする。それがいつもの自分達のスタイルだった。俺に弱いナルトはきっと今も許しを待っているだろう。ならば今回も、それで通用するに違いない。
そんな甘い推量で、傘を差して交番に向かった昨日の夕方。

『知ってるところ、ぜんぶ好きだ……!』

顎を引いて、挑むようにこちらを見つめていたナルトが思い出されると、今になっても背中にひやりとした緊張が走った。
正直、ビビった。完全に威圧された。
……認めたくはないが、ちょっと、恐怖にも似ていたかもしれない。
あんなにも混じりけのない強さで思いを告げられたのは、多分決して少なくはないであろうこれまでの経験の中でも、初めての事だった。男だからだろうか?と考えたが、サスケはすぐにその考えを捨てる。多分、そうではないのだ。男とか女とかじゃなくて、あれはナルトだから――人好きのする気のいい男の内側にある、彼の本性だ。
なんであんな甘く見ていたのだろう。
真っ向勝負になったらもう逃げを打つような奴なんかじゃないって事、自分は知っていた筈なのに。
それだけじゃダメなのかよ、と言ったナルトの言葉には力があった。
真摯な青の瞳には、強い光があった。
あの瞬間、サスケはほぼ本能的に悟った。ナルトの持つそれの、とてつもない威力とその危険性について。
まっしぐらに打ち込まれてくる、圧倒的な熱意。あれこそまさに、建前や常識といったサスケが当然のように振りかざしてきたもの全てを、一瞬にして蹴散らす力だ。
だからこそ、サスケも本気の構えで対峙した。手加減する余裕なんてまるでなかった。手酷い言い方になったような気もするが、しかし他にどんな事が言えたというのだ。押し寄せてくる青は凄まじく強力で、こちらだって本気で抵抗しなければ、あの勢いにはうっかり流されかねない。
いつもヘラヘラしているくせに、ここぞという時には獰猛な爪を持つ獣のような顔をのぞかせる。
そんなナルトをアイスリンク以外の場所で見るのは、あれが初めての事だった。
(これでいいんだ……俺は、間違ってない。どう考えてもこれがベストな方法だ。あいつにとっても、俺にとっても)
『その先』を尋ねた時、ナルトは心底困ったような顔をして黙りこくった。
まさしくあれが答えだ。今だけの、一時の熱に浮かされて暴走したところで、男同士でたどり着ける場所なんてどうせロクなもんじゃない。
そりゃあ一緒に暮らしたりはできるだろう。デートの真似事のような事もできるだろうし、男同士のためのそういう行為も存在する事くらいは、サスケだって知っている。でも、その後は?二年前のいじけていた彼ならばいざ知らず、あれから吹っ切れたかのように努力を重ねてきたナルトには、これから先その労苦に見合っただけの場所がきっと用意されているはずだ。現にこの間の試合の時、そのきざしは見えていたではないか。
アイスアリーナでの黄色い声を、サスケはまざまざと思い出した。頬を赤くして、大きな声援を送りながらナルトの動きひとつひとつに熱視線を送っていた女の子達。彼女達だけでなく、そういえばナルトが元いた大学チームのマネージャーだったという子(確かヒナタとか呼ばれていたか)も明らかにナルトに好意を寄せているようだった。
先程見送った元お隣さんのように、彼に似合った女性が、いつか必ず現れる。二人だけにしか通用しない言葉で笑い合って、堂々と手を繋いで同じ家に帰れるような相手が。本当ならば今すぐにだって、作ろうと思えば彼女なんてすぐに作れるはずだ。フェミニスト気味なあいつは、恋人に心を尽くす事を惜しまないだろう。俺と違って、彼女と彼女を取り巻く全てを大切に慈しんで生きていける奴だ。
そんな彼が、自分なんかにいつまでも拘っているのは、絶対に良くないと思った。
大体が、自分にはもう誰よりも愛している人がいるのだ。同性だというだけでも問題ありなのに、その上わざわざ一生振り向いてくれない相手を選ぶ事なんかない。これまでのように、ちょっと付き合ってみれば向こうから幻滅して別れて欲しいと言ってくるとも思えなかった。なにしろ相手はあのナルトだ。半端なことでは諦めるような奴ではないし、なあなあでいくにはお互い気心を知り過ぎている。
こうしてすっぱり他人に戻るのが、最良の形だ。
(……それにしてもあの野郎、人のこといい様に言いまくりやがって)
延々と考えながらもあの時言われた事が反芻されると、サスケは再びしてやられたような悔しさに奥歯を噛んだ。
悩むと極論に走りがちとは、母親にも言われたことのある科白だ。
悪かったな極端で。まさかクセ毛のことや着ている服の事まで言われるとは思わなかったが(別に俺はセンスに自信がない訳ではない。ただ単に冒険に打って出るのが面倒なだけだ)、ナルトの言葉たちにある自分はびっくりするほどよく観察されていた。それだけ、熱心に見詰められていたのだろうか――まあ、その点に関しては、サスケとてわかっていなかった訳ではないが。
確かに彼からは、いつだってまっすぐな好意が向けられてきていた。そこに寄りかかって、ちょっと調子に乗っていた自分がいたことは否めない。酔っていたとはいえ、『お前と付き合えたら良かったのに』などという血迷い事まで言っていたと聞いた時は内心驚いたが、一緒にいて心地よかった事だけは確かだ。全部を受けとめてもらえている、あのほどけていくような安らぎ。おかしな話だが、どこか親兄弟といる感覚に近いものだった気がする。
我ながら言い訳じみているしこれを言うのは非常に不本意だが、やはりあいつは本当に些細な箇所で、どこかあの人と似たものを持っていたのではないだろうか。
死んだ、兄に。あの広い心に。帰省の際、母親には偉そうに叱責してしまったが、自分こそ無意識のうちにナルトに兄の影を重ねようとしてしまっていたのかもしれない。
もしも俺があいつに傾斜しかかっていたのだとしたら、きっとそのせいだ。
(クソ……俺としたことが)
うじうじといつまでも考えてしまっている自分に苛立ちつつも、冷静に思い返してみればみるほどナルトに傾いていた自分が思い出されて、サスケは不承不承ながら認めざるを得なかった。
相当、気に入っていたのだ。ナルトの事を。
……多分、『一番親しい友達』と、言える程度には。
だからあんな、柄にもない選択肢なんて用意してしまったのだ。あれじゃまるでナルトに対して未練があるようではないか。まったくもって、みっともない。潔くない自分に頭が痛くなる。
(――間違えるな)
サスケは、慎重に自分に言い聞かせた。
このくすぶりは、未練なんかじゃない。執着でも、ましてや恋なんかでもない。
ちょっと、残念に感じているだけだ。
一緒にいて一番楽しかった友人を、自らの手で切り捨てなければならなかった事が。
(大丈夫だ――俺は、揺らがない。揺らいでなんかいない。俺に必要なのは、兄さんだけだ)
深呼吸をして、気持ちをあらためる。
体内に残る燃えさしのような熱を吐き出すと、いくらか気持ちが軽くなったようだった。閉じていた目蓋を細く開ける。チカチカとした光が消えていき、視界に広がるすりガラスからの淡い薄日。
よし、これでいい。俺は兄さんとの思い出さえあれば、充分生きていける。あいつと出会う前の、元の生活に戻っただけだ。そこになんの、問題がある?
それでもなお治まらない頭痛に、こめかみを押さえながら管理人室のデスクに頬杖をついていると、こんこん、という小さなノックに起こされた。疼く頭をもたげる。
すりガラス越しのシルエットを見るとその見覚えある髪の跳ね具合に一瞬ためらったが、ここで逃げても仕方がないと覚悟を決めて、サスケはロックを外した。
「――香燐」
「よぉ」
観念したかのように名前を呼ぶと、砕けた挨拶を返した香燐は、わずかに表情を固くしたサスケに軽く笑いかけた。すりガラスの小窓をいっぱいに開いて「へえ、ここがサスケの仕事場かあ」と覗きこむ。
シミの浮き出た壁や片付けられたデスクを興味深そうに見回すと、満足したように身を引いて背中を伸ばした。まさか、いきなり直接やってくるとは。この場所や時間は、シカマルにでも聞いたのだろうか。
「……このあいだは、悪かったな」
後に伸ばすのもなんだか嫌で、香燐が口を開くのを先回りするように詫びを言った。じっと見つめてくる視線が居心地悪くて、つい目線を逸らしてしまう。
「……なか」
「?」
「なか、入れて」
ここの管理人室の事を言っているのだと気が付くとその狭さと密閉度に若干怯んだが、先日の一件の事を思えば、ここは耐えるべきだと思った。黙ったまま小窓の横にあるドアを開錠すると、にっこりと笑顔を浮かべた香燐がするりと入り込んでくる。
外回りの仕事が多いとは聞いていたが、その最中に立ち寄ったのだろうか。今日の香燐はまさに、「働く女」を絵に描いたかのような颯爽としたパンツスーツ姿だった。
細いフレームの眼鏡がよく似合っている。白い肌は汗なんてかいてなさそうに見えたが、流石に表の蒸し暑さは堪えるのだろう。薄いグレーのジャケットは脱いで片腕に引っ掛けられ、白いノースリーブのブラウスがとろりと光沢をもって、細い躰にまとわりついていた。
座っていい?と訊いてきた香燐に返事をしようとしたが、見れば彼女は既に、つい先程までサスケが座っていた回転椅子に、余裕のある仕草で腰掛けていたところだった。デスク前に貼られたメモや、ビニールマットに挟まれたレシートなどに気を留めては、しげしげと順繰りに見ている。
――何しに来たんだ、こいつ。
てっきり別れを切り出してくるのだと思っていたのに、それにしては随分と楽しげな彼女に、サスケは無言のまま訝しんだ。おかしい。そろそろもう少し陰鬱な雰囲気になってきてもいいはずなのに。
「今、ここに入って来る時さ」
出し抜けに喋りだした香燐に内心ちょっとどきりとしながらも、そのまま続きを待っていると、「玄関のとこ、張り紙してあるのを見たんだけど」と気負い無く香燐が言った。誰か出てくのか?と相変わらずの男勝りな口調で尋ねる彼女に、戸惑ったまま小さく頷く。
「誰?――ひょっとして、あの、ナルトってやつじゃねえよな?」
「あいつの部屋は一階だ。出てくのは俺の隣の部屋の人」
なんでナルトの事を気にするのだろうと少し引っかかったが、すぐにそれは忘れた。試合を見たばかりだし、一応この前面識を持ったから気になったのだろう。
「ふーん、じゃああの募集の部屋って、サスケんちの隣なんだ?」
もう一度確かめてきた香燐にサスケは「ああ」と答えた。簡易椅子を広げて自分も座ろうかとも思ったが、なんとなく膝を付き合わせるようになるのがためらわれて、そのまま所在なく部屋の隅に立つ。
そんなサスケの顔を、香燐は量るようにじいっと見つめた。赤茶の強い瞳を眇めて何事か考えていた様子だったが、やがて決意したように、うん、とひとつ頷く。
「じゃあ、ウチ、そこに住む」
明るく告げられた宣誓に、思わず喉の奥から変な声が漏れた。
「――はァ!?何言ってんだお前、別れを言いに来たんじゃねえのかよ!」
「誰がそんな事言った?ウチはサスケと別れる気なんて全然ねーよ」
回転椅子の上ですんなりとした細い足を優雅に組んで、赤髪の彼女はしれっと言った。目を丸くするサスケに向かい、不敵な笑みを見せる。
「だってお前――このあいだ俺の事サイテーつってただろうが」
自らをフォローしているのかしていないのかよく判らないような事を慌てて言うと、香燐は落ち着き払った様子で「ああ、あれ?」とうそぶいた。
「あんなの、もう気にしなくていいから」と事も無げに流す彼女が、にわかには信じられない。
「でもあれは間違いなくひどいだろ」
「へー、ひどいっていう自覚はあるんだな」
「いいのかよ……!?」
「いいよ。大体が、サスケが兄貴恋しさに、待ち続けている女の子ひとりをきれいサッパリ忘れちまうろくでなし野郎だってのは、最初からわかってたことだし」
あっけらかんと彼氏の事を『ろくでなし』呼ばわりする香燐に、開いた口が塞がらなかった。
いや待て。俺今結構失礼な事言われてるぞ?
そうは思ったけれども彼女の言い分ももっともで、言い返す言葉が見つからない。
「ろくでなしだと思うんなら、なんでまだくっついてこようとするんだ……別れたらいいだろう」
呻くようにそう言うと、ちょっと考えた香燐は「いや、なんか、ちょっと、そのろくでなしっぷりが段々と快感になってきちまったというか」と、ほんのり頬を染めた。
どうやら嘘ではなさそうなその恥じらい振りに、今度こそ本当に口が開きっぱなしになる。
「公約」
「――はっ?」
「公約、まだちゃんと有効だよな?」
告げられた言葉に叩かれたように意識を取り戻して、サスケは「あ、ああ」と流されるように頷いた。しかしすぐに思い直し、慌てて断りを付け足す。
「で、でもな。悪いがお前の方はどれだけよくても、俺はまたお前がああいう事してきたら拒否しちまうと思う」
「……そう」
正直に告げると、香燐は無表情に頷いた。「そんなんで結婚とか絶対無理だろ。だから――悪い。今更こんな風に言うのは卑怯かもしれないが、公約は、何か別の事で果たさせてくれ」とはっきり言う。
「なんでサスケはキスとかダメなの?普通男だったら、とりあえずもらっとけ、とか思うもんじゃねーの?」
探るような赤茶色の瞳に見つめられて、サスケはしばし黙りこくった。彼女の言う事もまあわかる。事実、高校時代など学校のクラスメート(父親の云うところの家に呼ぶほどの仲でもない友達)などでそんな据え膳的な話で盛り上がっている奴らがいたのも覚えている。
だか彼らは彼ら、自分は自分だ。これまでにもキスを待たれた事はあるが(自分から飛び込んできた猛者は香燐だけだったが)、その先に期待されるものを考えるとどうしても気分が萎えた。そりゃあ本当に唇を重ね合わせたいだけだったら好きにしたらいいと思う。あんなのただの皮膚と皮膚の接触だ。別にだからなんだという感じだ。
だけど彼女達が求めているのは、多分その中身の方なのだ。『キスしたいほど私を求めている彼』が欲しいのだ。どこにもいないそんな存在を、差し出すことなんて出来ない。あの金髪男は『信じられない』などと言いやがったが、長年維持してきたこの考えは間違っていないはずだ。
――サスケって、女に興味ないの?
ついにそんな事まで訊きだしてきた香燐に、なんだか眩暈がしてきた。本当、勘弁してくれ。
「だから――それ、とかってその行為そのものがしたいんじゃないんだろ?気持ちが欲しいんだろ?」
「そりゃまあ、普通は気持ちがないよりはある方がいいんじゃねーの?」
「だったら本当に好きな相手とでなきゃ、俺はできない。……お前と出来なかったのは、そういう事だ」
「ふーん。なら、やっぱサスケの隣に住まわせて。結婚が無理なら、代わりにそれを公約の執行と見做してやるよ」
何が『なら』なんだ、何が!?会話の繋がりがさっぱり理解できなくて、サスケは頭を抱えた。
この女は俺の言った事を聞いてなかったのか?
なんでそれでもまだ隣に住みたいなんて言うんだ。
「隣なんかに越してきて、どうするつもりなんだ。俺はお前をそういう対象としては見れないと言っているんだが」
「それはさっき聞いた」
「好きにはなれないって意味なんだぞ?」
「この先も?絶対に?」
「ああ、絶対に」
しつこく確認してくる香燐につい強く頷いてしまったが、言われた本人は別段気にもしていないようだった。「なんで絶対なんて言えんの?」と目を細め尋ねてくる香燐に、サスケはとうとう最終手段をとることにする。
「なんでって……俺にはもう、心に決めた人がいるからだ」
驚くだろうと身構えながら告げた告白だったが、香燐の反応は「ああ、やっぱそうなんだ?」という実にあっけないものだった。……驚かねえのか?とおそるおそる窺ったサスケに、うん、驚かねえよと赤いルージュの唇がひらひらと答える。
「いいんだ。別にウチは、サスケにはもう何も望んでないし」
そんな事を言い出した香燐に要領を得ない顔をしていると、それを見た彼女はニヤリと笑った。「このあいだサスケに逃げられてからずっと考えてたんだけど、ウチ別にサスケにあれこれしてもらいたかった訳じゃなかったみたい。そりゃショックはショックだったけど、なんかあれはあれでサスケっぽくて悪くないなとか思えてきて」ともったいぶるように言った香燐に、「は?」と疑問符を投げかける。
「ウチ、サスケに何かしてもらいたいんじゃなくて、自分からあれこれしてーの。普通の恋人同士みたいに、イチャイチャしたりチュッチュしたりキャピキャピしたりラブラブしたりもいいけど、それよりウチはサスケに自分からスリスリしたり、ハグハグしたり、ペロペロしたいなって」
「――は!?」
ペロペロってなんだ!?
「逃げようとするのを無理矢理ってのも、結構もえそうだしさ」
嫣然とほほえみながらとんでもないことを言ってのけた香燐に、サスケは顎が外れそうな程がくんと口が開くのを感じた。「やってもいい?」と無邪気な幼子のようにあどけなく尋ねてくる香燐に、「いいわけねェだろが!」と全力で拒否の姿勢をとる。
「だろ?だから、隣で見てるだけで我慢してやるって言ってんの。ウチは毎日サスケが見れればそれだけで充分幸せだし」
「本気で言ってんのか?」
「当然。それにウチの家、会社から遠くて毎日大変だったし。こっからだと乗り換えなしでそのまま一本で通勤できるから、楽だろうなって前から思ってたんだ」
座っている回転椅子をくるりと回しながら愉快げにそう言った香燐は、「――さてと、」と言って立ち上がると脇に置いていた大振りなトートバッグのハンドルを手にした。質実剛健、といった感じの黒い鞄は中々にしっかりとした重さがあるようだったが、日々の事で慣れているのか、華奢な香燐の腕は驚く程しなやかな動作でそれをひょいと肩に掛ける。
「まだ勤務中だしもう戻らないと。入居すんのに必要な書類、今貰ってってもいい?」
差し出された白い手のひらを呆然と見つめながら、サスケは出てこない言葉を必死で探した。混乱の一途を辿る頭をひとつ振って、「……待て、まだ入居を許可した訳じゃねェ」ともつれる舌で言う。
「なんで、ダメなの?」
「ったり前だ、なんでそんなアブナイ事考えてる奴を隣に住まわせなきゃならない!?」
きょとんとして首を傾げる香燐に力いっぱい反論すると、すっと表情を暗くした彼女は「…あー…あん時、誰も探しに来てくんなくてスゲー寂しかったなあ。どんどん公園は暗くなってくし、寒いし、座ってるとこは冷たいし。おっかなくって、そのうちに腰が抜けて立てなくなったんだよなー」と念仏のように呟いた。
思わず口篭ったサスケをちらりと確かめると、「公約、公約」とニヤリと笑う。
「いや!入居はちょっと待ってくれ。もう先に入居したいって人が」
「いるの?」
「……まだいないけど」
でもくるから。たぶん、いや、絶対!
すぐに問い合わせ来るわよと気楽に言っていた母親の言葉に縋るように、サスケは力強く言った。
すまない香燐。だがここでまた受け入れる訳にもいかないんだ。お前ももう俺から離れたほうがいい。というかまずはその異常な嗜好から、早急に離れるべきだ。
「そっか。じゃあ、ひと月だけ待ってやるよ」
そんで入居者決まんなかったら、ウチに住まわせて?
しろい首筋をさらけ出すように小首を傾げた香燐は、婀娜っぽい仕草で髪を掻き上げた。
「でももし誰か決まっちまってダメになったら、さっきウチが言ったやつやらせてくれよな?」と期待じみた声でそう訊いてきた香燐に、「さっきのってあの、変態じみたあれか?」とおそるおそる確認する。
「そ。すっごい不満だけど、それで勘弁してやるよ」
考えといて、と言って回りの悪いキャスターを軋ませながら回転椅子をデスクに押し戻し、香燐は悠然と管理人室のドアから出て行った。湿った空気が押し寄せるようにやってきて、怒ったようにエアコンがぶうんと唸る。
ドアの向こう、気分良く遠ざかっていくヒールの音を聴きながら、サスケは呆然と立ち尽くした。
ペロペロ、と呟こうとして、そのあまりの猥褻さに、最初の一文字だけで心が折れた。



『猶予期間が四分の一消えたな。考えてくれた?』
香燐からの一週間ぶりのメールを目にすると、サスケは深い嘆きのようなため息が出た。できることなら、あのままただの妄言で終わってくれないだろうかと切に祈ってきたのだが。
やはり募り募った十五年来の片思い、そう簡単には問屋が卸さなかったらしい。
大学学舎の軒先からは、傘を差して行き交う学生達が見渡せる。午前中の講義が終わり、ランチタイムに突入したせいか皆表情が楽しげだ。
流行っているのだろうか、女子学生の数人がジョッキーのようなブーツを履いているのが目に留まる。この蒸し暑いのに中が蒸れないのだろうか。あんな大仰なもの履くほどの雨でもねえだろ、という感想がチラとよぎる。長靴は小さい頃から好きじゃなかった。重いし歩きにくいし、それにあのガポガポいう履物の野暮ったさときたら、救いようがない。
携帯を手にしたまま、サスケはじっと植え込みで葉を広げている紫陽花の並びを見下ろした。数段高い位置から見るふっくらとした青や紫の花の集まりは、霧雨で曇るキャンパスに飾られたぼんぼりのようだ。雫を滴らせる葉っぱが緑を濃くしている。こちらとしては頭痛を運んでくるばかりの憂鬱な季節も、彼らにとっては待ちに待ったオンシーズンなのだろう。しかしそれも、間もなく終わりを告げる筈だった。カレンダーは七月に入り、例年通りにいけばまもなく梅雨明け宣言がでる頃だ。
「サ・ス・ケ!」
呼び掛けと共に不意打ちで叩かれた肩が、思わずどきりと飛び跳ねた。
普段に無い珍しい光景に、叩いた側の方がびっくりしたらしい。色素の薄い瞳をまんまるにしてこちらを見ている。
「脅かすな、水月」
「脅かすなって、ボクの方が驚いたよ。何びくついてんの?」
学食行く?と覗き込んできた水月に軽く頷いて、サスケはとりあえず返信を先送りにして携帯をしまった。今日はまだ午後に講義が残っている。
大学の学食は既に飢えた学生達でごった返していた。要領のいい水月はさっと全体を見渡すと、感心するほどの速さで空いている二人席を見つけ出し、素早く持っていたファイルケースを場所取りに置いてくる。ぼおっと立ったままだったサスケのいる所へ戻ってくると、「これでよし、注文しに行こ!」と促した。いつもながら、見事なお手並みだ。サスケは水月のいない時、ランチタイム真っ盛りの学食で、席を無事確保できた試しがない。
言われるがままプラスチックのトレイに注文した和定食を載せサラダバーで即席のトマトサラダを作って席に戻ってみると、丁度水月も同じように注文から帰ってきたところのようだった。遊び心皆無のベージュのお盆の上に、どんぶりになみなみよそわれたカレーうどんがホワホワと湯気をたてている。
「……またカレーかよ……」
「え?ボクこれ食べた事ないんだけど。嫌いなの?」
いや、嫌いじゃない、なんでもない。
一息にそう言って椅子に座ると、首を捻りながらも水月はその真向かいに腰掛けてきた。先に購買で買ってきたのだろう、お気に入りの紙パックのヨーグルトドリンクをカバンから出し、うどんに手を付ける前に嬉しげにそれにストローを突き刺した。その取り合わせって気持ち悪くないか?とモヤリとしたが、よく考えたらカレーにラッシーが付くのはままあることなのだから、そんなにおかしな取合せでもないのかもしれない。許せるギリギリの範囲だ。
「どうしたの、なんかサスケ、弱ってない?」
ようやく箸を持ってうどんに取り掛かり始めた水月は、つるんと白いうどんの端を啜り込むと何気ない様子でそう言った。ぴっと一点だけ、カレー色の出汁がトレイに跳ねる。「なんでそう思うんだ?」と質問で返すと、「見てればわかるよ、そんなの。なんか顔色悪いし」としれっと指摘される。
「……この時期はずっと偏頭痛がするんだ。低気圧が近いと頭が痛くなる」
「ふーん、繊細なんだねー」
さして心配しているわけでもなく気楽な様子で相槌を打った水月は、頬にかかる髪を邪魔っけに耳に掛けながら再び箸で麺を掬った。出汁に警戒しているのだろう、今度はさっきよりも慎重な様子で静かに数本の麺を啜り上げる。
「あれ――お前、満月?満月だよな?」
ちゅる、と白い麺が水月の口の中に消えてしまうその間際、サスケ達の座るテーブルのすぐ脇を通りかかった学生が、少しうつむき気味でうどんに取り掛かっていた水月の斜め上から声を掛けてきた。
満月?と訝しむサスケの前で、ゆっくりと水月が顔を上げる。
「あんた誰?」
「ああほら、中学ン時同じクラスだったさぁ!」
「あっそう。――悪いけど、ボクは弟の方だよ」
そう言っただけで、声を掛けてきた男子学生にはすぐ理解できたらしかった。
「あっ……そっか、じゃあわからねェよな、ゴメンな!」
慌てたように言うと、そそくさとその場を退散する。
特にその会話に質問をぶつける事もなくそのまま昼食をとり続けていると、ようやくうどんを制覇したらしい水月が、「はあ、これちょっと苦手だ。次は頼むのやめよ」と呟きながらヨーグルトドリンクの紙パックを手にした。ホッとしたようにそれを飲んで満足気に目を細めると、焼き魚をつつくサスケに向かい「訊かないの?」と不思議そうに言う。
「何を?」
「さっきの」
「ああ」
「気にならない?」
「別に。木の股から生まれた訳じゃあるまいし、人の子なら兄弟くらいいたっていいんじゃねえの」
素っ気なく答えると、紙パックのストローを口に咥えたままの水月は一瞬キョトンとしたようだった。
次いで、その顔が徐々に緩んでくると、ククク、と漏れ出した笑い声が半開きの唇から聴こえてくる。
「そういう反応を返されたのは初めてだなァ」
「そうか」
「サスケのそういうところ、ボク本当にすごく好きだよ」
好き、という単語にギョッとして隣を向くと、目が合った水月がにっこりと笑った。「キモい事言うな!」と短く叱ると、「あ、もちろん友人としてね。当たり前じゃない」と全くこたえていない様子でヘラヘラしている。
急に上機嫌になった水月をちょっと不気味に思いつつ、学生達の濡れた靴跡が点在している廊下を抜けて行くと、講義のある大教室には早くも効き過ぎる程の空調が、部屋をキンキンに冷やしていた。蒸し暑い廊下との温度差に、ぞわっと鳥肌が立つ。多分教授の好みなのだろうが、こんなに寒くする必要があるのだろうか。確か学校案内のパンフレットには環境に配慮した設備がどうの、とか書いてあった筈だが。
「ねーねーサスケ、前にあの香燐て人のせいでお流れになっちゃってたし、今夜こそ飲みに行かない?安くて結構いい店、見つけたんだ」
流れるような動きで教室のベンチに滑り込んだ水月にそう誘われ、サスケはしばし迷った。アルコールは当分避けていたい気分だ。一旦帰ってからまた出るのも面倒だし。
そう考えて返事を渋っていると、そそのかすように水月が「このあいださ、ちょっと学内バイトした時、上級生で親しくなった人がいて。その人にも声掛けてみるよ。ゼミの話とか、サスケもそろそろ聞きたいでしょ?」と言ってきた。
ゼミか。
そういう話なら、確かにちょっと聞いてみたい。
「……わかった。じゃあ、少しだけな」
了解の旨を伝えると、大袈裟な程水月は嬉しそうな顔をした。
返信をしていないままの携帯がちょっと気になったが、水月の前でそれを出すのもためらわれて、サスケはそっと携帯をマナーモードに切り替えた。


古い壁掛け時計が「チッ」と鳴った。
次いで、安っぽいチャイムが六つ。最後まできっちり聞き届けてから、腰を上げる。
整理していた帳簿を片付けて、ナイロンのリュックから入っていたテキストやノートを出し代わりに財布と携帯だけを放り込むと、すかすかのリュックはなんだか随分と頼り無さそうな風情となった。雨は夕方前に上がったし、今日はもう他に何も持っていく必要はないだろう。間もなく水月との約束の時間だ。
現地集合にしようというサスケの案を取り止めて、アパートまで迎えに行くと言い張った水月は慧眼であった。多分、あまり乗り気でなさそうだったサスケを警戒しての事だったのだろう。先回りした推測に、サスケはふかぶかとため息をついた。いい読みだ。確かに約束はしたものの、いざ行くとなると段々と億劫さが大きくなってきている。
(ゼミの話もなー…よく考えたら、シスイさんに聞いたっていいんだし)
兄の親友であった従兄弟がやはり同じ大学のOBである事を思い出すと、サスケはますます面倒になってきた。
いやしかし、彼らが卒業してからもう随分と経っているわけだし。学内サークルにも入っていない自分にとって、上級生の話を聞けるのは貴重な機会だ。行っておいて損はない筈だ。
よし、とちょっと嫌気が差しつつあった気持ちに喝を入れていると、「サースケェー」と間延びするような呼び掛けが聴こえた。管理人室の薄いドアを開けて見ると、ニヤニヤした水月に出迎えられる。
「……ちょっとめんどくさくなってきちゃってたんでしょ?」
「そんな事ない。行くぞ」
言い当てられたのが癪でガチャガチャと少し乱暴に管理人室のドアの鍵を掛けようとしていると、一階奥の廊下から背の高い男の影が現れた。
「あ、」と向こうが、息を飲むような声を上げて立ち止まる。
意識して感情の出ない声と顔を作り上げ、サスケは彼を一瞥した。
「サス――」
「こんばんは、うずまきさん」
とっさに今まで通りの呼び方をしようとしたナルトに、すかさずお仕着せの挨拶で釘を刺した。
うっ、と一瞬、あちらがたじろいだのがわかる。
これまでみたいに声掛けてくんなって言っただろうが。やっぱりこいつはわかってない。
ナルトはどうやら、これから何処かへ出掛けるところのようだった。見慣れた大きなスポーツバッグとスティックが収納されている長いケース。こんな時間から出るところから鑑みると、遠征試合か何かだろうか。
「………こんばんは、うちはさん」
逡巡がみえる声だった。
この声で『うちはさん』と呼ばれるのは久しぶりだ。
こいつ、こんな声だったか?鼓膜に型押しされたかのように、なんだか耳に残る声。
「あのさ、オレ……」
「どーもォ、こんばんはー」
何かを言いかけたナルトに畳み掛けるように、隣にいた水月が体を捻りながら明るい声で言った。この瞬間までサスケの影に隠れていて見えなかったのだろうか、ようやくその存在に気が付いたかのように、突然声をあげた水月にナルトがちょっと驚いた顔をしている。
「あぁ――ども、」
「サスケェ、鍵閉めれた?もう行ける?」
ついさっきまでは愛想のいい挨拶を自分からしたくせに、小さく会釈を返したナルトをあっさり無視して、水月はまだ鍵の刺さったままのドアノブを見て言った。
水月の態度と何かを言いかけていたナルトが気になって動きを止めていたサスケだったが、「時間に遅れるとまずいよ。結構厳しい先輩だからさ」という水月の声に、急いで施錠途中だった鍵を回す。
「――飲みにでも、行かれるんスか?」
他人行儀な言葉使いを守ったまま、ナルトがそう訊いてきた。途中だった言葉はもう言わない事にしたらしい。
「そう。学部の先輩と約束してるんです」
答えた水月と肩を並べているサスケを見比べて、ナルトはほんのりとした笑みを浮かべた。まっすぐな視線はそのままに、色のない唇だけがやわらかく持ち上がる。
その目に以前と変わりない、澄んだ明るさがたたえられているのを見ると、急に背信を見咎められたかのような後ろめたさにサスケは襲われた。後ろめたさ?どうして俺がそんな事思わなきゃならない?かすかな憤懣を感じたが、それでもこちらに向けられてくる青を、堂々と見返す事が出来ない。
「ね?サスケ」と確かめてきた水月に、サスケは「…ああ」と無表情に答えた。
硬い物同士がぶつかる音がして、ナルトが大きな荷物を肩に背負い直したのだと知る。
「飲み過ぎないよう、気をつけて。……楽しんできてください」
そう言い残すと、ナルトは管理人室の前に立つ二人の横を素早くすり抜け、大股で正面玄関を出て行った。目の前を通り過ぎていく瞬間、りん、とひとつ涼やかな音がする。
音の元を辿ってその後ろ姿を見ると、背中に回したスティックバッグの持ち手に、銀細工の鳥がぶら下がっているのに気が付いた。素材の感じが、いつか見た彼のキーホルダーとよく似ている。さっきの音色は、どうやらあの鳥に付いている銀の鈴から出たものらしい。
「あれもアパートの人?『うずまき』だなんて、変な苗字~」
おかしそうにそんな事を言う水月になんとなくイラッとしながら、サスケは鞄に鍵をしまった。なんなんだこの、後ろめたいような、後味の悪いような、いやな気分。
なんでこんな気分にならなきゃいけないんだ。俺がナルト以外の友人と付き合う事に、なんの負い目があろうか。自分に後暗い所が何もないのをあらためて確かめ、サスケは小さく舌打ちした。あいつもあいつだ、なんでまだあんな目で俺を見やがるんだ。もう他人だって、言っただろうが。
ナルトの事はどうでもよかったのだろう、すぐに違う話題に移った水月に曖昧な相槌を返しながら、サスケはいつまでも日が残る表向かいの路地に出た。夕方になっても蒸し暑い雨上がりの空気が、いつまでたっても気持ちよく乾かないアスファルトの上を、寝そべるようにたゆたっている。
残照の中、遠くで鳴らされたクラクションに、サスケはふと顔を上げた。
路地の果てまで見渡しても、大袈裟な荷物を担いだ背の高い影はとうに先へ行ってしまい、もうどこにも見えなかった。