第十五話

そして彼はやって来た。
管理人室を閉めてから来たのだろう、それは定められた業務終了時刻のきっかり十分後だった。
大きな雨傘をたっぷり湿らせて、白いシャツにジーンズ姿の彼は場違いな爽やかさで派出所の軒先に現れると、無表情のままで中で座っている金髪頭をガラス越しに確認した。閉じるために傾けた真っ黒な傘に、まんべんなく散った雫が踊るように転がり落ちていく。
いちいちが全部ドラマティックに見えるその雰囲気に圧倒されていると、ガラリ戸が滑るように引かれ、外の湿った空気と共に彼が入ってきた。
沈澱した雨のにおい。
耳障りなエアコンの稼動音が、一瞬掻き消える。

「すみません。うちの店子がご迷惑おかけしました」

落ち着き払った声でそう言うと、ぬばたま色の瞳がこちらを見た。
冷静で高潔な視線に心臓が凍る。感情の見えないその顔は、しかしとてつもなく綺麗だった。
微動だにできないオレは、まんま蛇に睨まれたカエルだ。射竦められただひたすらに飲み込まれるのを待つ、哀れな生命体。
そんな事を思っていると、死刑宣告でもするように、彼はおもむろに口を開いた。
ああ―――ゲーム・オーバーだ。

「立てよ。帰るぞ、ナルト」

     ☆

存分に雨を吐き出せて満足したような、薄いグレーの雲が広がっている。
表の土砂降りはようやく収まってきたらしい。「ざあざあ」から「しとしと」に変わった雨が、夕暮れの街を青く染めていた。薄暗いせいか、早々と街灯に灯りが点っていく。行儀よく順番待ちをしていたかのように端から点いていく黄味がかったオレンジの光が、水浸しでまだところどころに川を作っている路面に道標のように落ちていた。
派出所を出ても隣を歩くのがどうにもためらわれていると、何も言わないままのサスケは、さっさと傘を開いて歩き出した。慌てて追うように、傘を差して歩くサスケの数歩後ろをすごすごと付いていく。後ろから見るサスケの黒い傘には沢山の雨粒が散らばっていて、小さなプラネタリウムのようだ。
自然な流れで会話のしにくい位置につけた事に、ナルトは気まずさを感じると同時に心底ホッとしてもいた。一体こういう状況の時、一般的にはどんな会話を繰り広げるべきなのだろう。
考えてもどうしてもわからないままに前を行くサスケの足元を見ると、ジーンズの裾がしっとりと色を変えているのに気が付いた。白いキャンバスのスニーカーも、薄く泥水に汚れている。途端、いたたまれないほどの申し訳なさがこみ上げてきた。
きっとこの雨の中、わざわざ出てくるのは億劫だったに違いない。
それも、こんな理由で。

「あの……」

……すみません、でした。
声が震えてしまわないよう細心の注意を払いながら、ナルトは粛々と歩みを進める後ろ姿に言った。
伸ばされた背中は今日もまっすぐだ。
かけられた謝罪に足を止める事もなく、そのままスピードを保ったまま歩くサスケは、しかし前を向いたままだった。聞く気はない、という事だろうか。出端から気持ちを挫かれて、ナルトはちょっと下を向いた。水たまりに幾つもの波紋が重なっている。
「――それは、どちらについての謝罪だ」
振り返らず言われた言葉に、ああ、やっぱりと思った。
あの晩の出来事を、彼は全て思いだしたのだろう。
「えと、両方、というか……ぜんぶ」
心細さを叱咤しながらそう告げて、もう一度「ごめん」と謝った。
続く言葉が見つからなくて、ほんの少し唇を噛む。

「……謝るくらいなら」
「?」
「最初からすんな」

突き放すような口ぶりに、軽い眩暈のような既視感を覚えた。同じようなくだりが、確か彼の実家に行った時にもあった筈だ。なんだかもう、随分と遠い記憶のように思える。
「あのさ……今日の件は、ホント、オレ何にもしてないっていうか、完全に濡れ衣で」
付け足すように言い訳したが、彼は止まって聞く気はないようだった。
澱みなく前を進む、すらりと伸びた脚を見る。
「ほら、あの鳥を見つけた子達いるだろ?ショートカットの方の子。あの子が雨に困ってたから傘に入れてやろうとしただけで」
姿勢のいい後ろ姿は何も言わない。透明な雨粒だけが、傘を滑ってぽたぽたと地面に落ちた。
「そしたらなんか、急にオレの事大嫌いだっつって怒り出しちまって」
無反応。ひとりでしゃべり続けていいものか、なんだか不安になってきた。
「だから、あの、別に、オレ何にも悪い事なんてしてねえし。そんな趣味ねぇから」
「――ああ、そうだろうな」
やっと出された相槌が思いの外救いがありそうで、思わずぱっとあげた顔を、黒いまなざしが振り返った。「ロリコン趣味だったら、男に対してあんな真似しないだろ」というきつい言葉と共に、冷たい視線が突き刺さる。
「男同士だぞ?信じらんねぇ」
「ちが…違うって!オレ本当にオマエの事友達だと思ってて!」
「お前は『友達』に、あんな事すんのかよ」
言い逃れを許さない強さで詰問されれば、もう何も言い返せなかった。
ほら、やっぱり。この目に囚えられてしまったら、もう絶対に逃げ延びることなんて叶わないのだ。
――もう一度だけ、訊くぞ。
最終宣告でもするかのように、厳然たる口調でサスケは言った。足が止まる。
お前、この前の晩、俺に何をした?

「――キス、しました……」

濡れて重さを増した傘の影で、ナルトはうなだれながら白状した。
背中を向けたまま、首だけ回してこちらを見ていたサスケが、束の間その目を眇める。
やっぱ、そうか。
諦めたようにため息をついたサスケに、もう一度ごめん、と呟いた。
お前、いつからそんな趣味持ってたんだ?前からか?と尋ねる彼に、慌てて、そんなんじゃねえってば!と声をあげた。オレってば別に男が好きとか、そんなんじゃなくて。
「オレは、サスケ、が……!」
……言い出したはいいけれど決定的な言葉が続けられなくて、沈んでいくように口を噤んだ。ああどうしてたったひとことが言えないんだろう。意気地のない自分が腹立たしい。
ゆっくりとサスケが体の向きを変えた。真正面から睥睨するように、うつむいた金髪をじっと見詰める。
黙ってしまった時間が、果てしないものに感じられる。
沈黙が、ただただ痛い。
そのうちにこの沈黙が自分が黙っているためなのか、サスケが何も言わないでいるせいなのか、それさえわからなくなってきた。全殺し、という物騒な言葉が思い浮かぶ。確かにこんな居た堪れない時間が永遠に続く位なら、いっそひと思いにバッサリやってもらいたかった。とてもじゃないけれど心臓が苦し過ぎて、もう一刻だってもちそうもない。

「――思い違いだ」

ぽたり、と水滴が落ちるような呟きに、ナルトの耳は、ぴくりと動いた。
おそるおそる上げた目に、静謐さをたたえた佳貌が映る。
「ホモでもないのに男相手にそんな感情を持つなんて、有り得ないだろ――絶対、ただの勘違いだ」
「……勘違い?」
「それ以外の何だってんだ」
無表情だった顔にようやく感情をのせて、かすかに憮然とした様子のサスケは断言した。
くだらねぇ思い込みでトチ狂った事しでかしてんじゃねえよ。頭冷やして、とっとと忘れろ。
「まったく、ちょっと甘い顔したからって間違えやがって」
「……ちょっ、待てよ!くだらない思い込みなんかじゃないってば!」
「んなわけねェだろ。馬鹿も大概にしろよ」
「なんで、だって――そんな」
はなから相手にしようとしない姿勢がわかってくると、ナルトの中にじわじわと反発する思いが沸き上がってきた。勘違いなんて言葉で簡単に片付けられるくらいなら、こんな悩んだりしないのだ。ついさっきまでは確かに全部なかったことにして、元の関係になれたらと願っていた筈なのに、こうも簡単に自分の思いを一蹴されると、なんだかひどく悔しい。
拳を握って反論を考えていると、それを見て取ったサスケがほんの少しだけ、頑なだった表情をほどいた。
「――多分、お前は自分のいなくなった家族に、俺をあてはめようとしているだけだ」
諭すような静かな口ぶりで、サスケは言った。お前のこと気にかけて、心配したり喜んだりしてくれる人が欲しかっただけだ。親や、兄弟みたいに。
「え……?」
考えてもみなかった彼からの言葉に、虚を突かれたナルトは口を開けた。家族?兄弟?
そんなナルトに、サスケは尚も言う。
「側に恋人がいれば、きっとそれで問題がなかったんだろう。でもその時お前に彼女がいなかったから。たまたま近くにいた俺に、その役割を求めてしまっただけだ」
「たまたま?」
「俺でなくともよかった筈だ」
「違う…違うって!」
大きく頭を振りかぶり、ナルトは呻くように言った。
そんなんじゃない。この感情は絶対に、そんなんじゃないんだ。
「だってオレってば初めて出会った時からずっとサスケの事気になって仕方なくって!最初はスゲームカつく奴だと思ったけど、そんなんじゃないってわかってからはサスケの事ばっか考えてて!」
考える前に言葉が口をついて出た。精一杯しゃべっているのに、サスケの表情を全く動かせないのが酷くもどかしい。
「初めて名前呼んでもらえた時は死ぬほど嬉しかったし、逆にオマエの名前呼べた時はマジで幸せ過ぎて空も飛べそうだと思ったし、部屋に泊めてもらったりメシご馳走してくれたり試合見に来てもらえたりする度に本当にどうしようもなく嬉しくて――!」
「だから、それも全部友達の範囲内での事だろ?変な妄想に繋げんな」
大真面目な告白をしかめつらで受け流された上、とどめに零された心無い感想を聞くと、ぱっと顔に朱が散るのを感じた。羞恥というよりも、怒りで体が熱くなる。
どうして。苛立つ胸の奥で、ナルトは歯噛みした。
どうしていつもこうなんだ。いつだってコイツは自分を信じるあまり、人の意見を聞こうとしない。なんでこんなわからず屋好きになっちまったんだ。こんな瞬間にも整っているその顔が憎たらしい。

「――で、でも!サスケだってオレに甘えてきてたじゃねーか!」

振り絞るようにして叩きつけた言葉に、ピク、と黒髪の影にあるこめかみが動いた。
ようやく動かせた顔から向けられる視線がことのほか厳しくて、ついたじろぎそうになる。
「あの晩だってそうだってば!帰ろうとしてたオレを引き留めて、誘うような事言ってきたのはオマエの方だろ!?」
「……へえ……?」
細い眉を片方だけ歪めるように上げて、真正面を向いたサスケが皮肉めいた笑いを浮かべた。
「俺が何を言ったって?聞いてやるから、今ここでハッキリ言ってみろよ」
そう言った薄くてすべらかな白い頬が、今のこの瞬間はおそろしく酷薄に見える。
「も――もっと、一緒にいようとか!」
「……」
「体だけならいくらでもくれてやるとか!」
「……」
「オレと付き合えたら良かったのにとか、言ってきたくせに!」
「……知るかよそんなの。酔っぱらいの言葉を真に受けてんじゃねェよ」
萎縮する喉を必死で広げて訴えた言葉も冷めた声であっさり片付けられれば、悔しさと惨めさでますます頭に血が上ってきた。
そうなのかもしれない。サスケの言う通りなのかもしれない。
けれど、あの時自分に対して彼が誘うように甘えてきていたのも本当なのだ。危ないと思ったからオレは最初帰ろうとした。一歩手前で立ち止まって、戻ろうとした。
必死の努力をやすやすとぶち壊して、そこに無自覚にせよ追い打ちをかけてきたのはそっちじゃねえか。
あまりにも一方的なサスケに、止せばいいとわかっているのに黙っていられない。
「……なら、避けりゃよかったんだ」
ぼそ、と低く呟いた言葉に、「あ?」と短く聞き返す声がした。
もう一度、今度はもう少しはっきりと「自分で避けりゃあよかっただろ」と告げると、静まりかえったサスケの表情が、徐々に剣呑さをまとい始める。
「彼女の時みたいにさ。勝手だとか言うなら、逃げりゃよかったんだ。別にオレだって無理矢理押さえつけてしたわけじゃねえし」
「……なんだと」
「避けるじゃなくても殴るとか蹴るとか、拒否する方法はいくらでもあったってば。オマエいつだって平気でオレの頭はたきまくってんじゃねえか。なんにもしないで受け入れたくせに、こんな時ばっか」
「なんだその言い分。俺が悪いっていうのか」
チリ、と鋭い稲妻のようなものが、彼の周りで弾けたような気がした。怒りのひらめく双眸が、ひたりと碧眼を捉える。
まずいこと言ってるな、という自覚はあった。
こんなの見苦しい言い訳でしかないというのもわかってる。だけど……だけど!
「自分のしでかした事を人のせいにすんのかよ」
圧縮したような怒りを込めて、サスケが言った。「そんなつもりじゃねえけどさ!」と呻くナルトに、地を這うような低音が「なら、どんなつもりなんだよ」と押さえ込む。
苛立ったように髪を掻き上げたサスケは、油断なくさした傘の内側で苛立ちをあらわにした。常から沸点の低い彼だけれど、こんなにも苛立ちをハッキリと出すのは珍しい。

「――ったく、どいつもこいつも好きだの付き合えだの、勝手な事ばかり言いやがって」

処理しきれない不快感を吐き出すように、サスケが言った。
なんでお前らみんな、頼んでもいないのに俺に自分の感情を押し付けてくるんだ。
勝手に俺を見て、見えた部分だけで知った気になって。惚れただの何だのと自分勝手に盛り上がって独りよがりな感情で騒がれても、こっちはいい迷惑なんだよ…!
「だいたいお前だって、俺の何をわかってそんな事思うんだ。たかだか二年ばかし一緒につるんでたってだけのお前に。ただ俺の近くに住んでいて、ちょっと気が合うってだけじゃねェか。兄貴に比べたらお前の知ってる俺なんて、ほんのさわりでしかねェよ!」
張り詰めたような声が、湿った空気をびりびりと震わせた。青く煙る雨粒の残滓が、すっくと立つサスケの足元にまとわりついている。
「はっきり言っておくけどな、ナルト。俺のすべてをちゃんと見て、知って、理解してくれたのは、兄さんただひとりだけだ。俺は今でも兄さんを誰よりも愛しているし、これからもどんな奴が現れてもあの人以上には愛せない。だからどれだけ好意をよせられても、他の奴が入り込む余地なんかねえし入ってきて欲しくも……」
「――そんなの、わかってるってば!」
割り込むようにして叫んだ声は、破れた喉から出た悲鳴のように割れた。薄暗い空に頼りなく浮いている街灯の明かりが、驚いたように一瞬またたく。
「オマエが兄ちゃんの事を一番好きだなんて、とっくに知ってる。オレが知ってるサスケなんて、オマエの兄ちゃんに比べたらほんの僅かでしかないってことも、嫌んなる位わかってるってば!だけど仕方ないじゃんか、オレとお前は元々、赤の他人なんだから。違う場所で生まれ育ってきてんだから!」
――でも……でもさ!
呼吸を付くために言葉を止めたナルトは、深く息を吸い込んで顔を上げた。
勇気を振り絞り、剣呑な瞬きを宿す黒い瞳をまっすぐに見据える。
「たかが二年かもしれねぇけど、オレだってオマエの事少しは知ってんだ!そりゃあ沢山じゃねぇかもしんないし、兄ちゃんには全然敵わねえけど……でも、オレだって見てた!オマエの事、この二年間一生懸命見てたんだ!」
意気地のない足が、みっともなく震えそうになった。
奮い立たせるように傘を持つ手にぐっと力を込めて、腹の底に気合を入れる。

「顔は絶品なのに口が悪いとことか、まっすぐな背筋がすっげえ綺麗なとことか、厳しいけどちょっとだけ優しいとことか、正しいことをちゃんと言ってくれるとことか、不意打ちの笑顔がとんでもなくイイとことか!」

息が切れる。伝えたい事が多すぎて、呼吸が追いつかない。

「すぐに手が出るとことか、酒癖悪いとことか、無愛想なのに密かに笑い上戸なとことか、実はくせ毛を気にしてるとことか、モノトーンばっか着てんのは好みなんじゃなくて本当は自分のセンスに自信がないからだとか!」

黙ったまま主張を聞いていたサスケが忌々しげな舌打ちを落とした。
やっぱ図星か。ざまぁみろ。

「やたら真面目で几帳面なくせに変なとこいい加減なとことか、まっすぐで間違った事が大嫌いなとことか、騙されるのは嫌いなくせに人に悪戯を仕掛けんのは好きなとことか、悩むとやたら極論に走りがちなとことか!」
「おっま……黙って聞いてりゃ色々言いやがって!」
「いいところも悪いところも、どっちも一杯あるってば――でも!」

体中の酸素を使い果たしたかのように、ひどく息苦しかった。
言いたい事はまだまだ沢山ある。
だけど一番言いたかったのは、こんな言葉なんかじゃなくて。


「オレだって、オマエの知ってるところ、ぜんぶ好きだ!」

本当に伝えたかったのはこれだけ。これだけなんだ。

「――それだけじゃ、ダメなのかよ――?」


……サスケが驚いたような顔をしている。
まっくろな瞳をわずかに見開いて。気圧されたように立ち尽くしている。
ああ、ちょっと困ってんな。
呼吸も忘れているようなその様子に申し訳ないような気もしたが、どういうわけかそれよりも先にきたのは妙な爽快感だった。
いつだって高い場所ですましている彼を、ここまで追い詰めた挑戦者はきっとオレが初めてだろう。全てを吐き出した開放感とごちゃまぜになった感覚が、薄い笑いとなって口許に浮かぶ。こんなにも彼を困らせた奴も、オレが初めてだったらいいなとかすかに思った。
ぼんやりとした明かりに照らされた雨が、ほうき星のように長い尾を引いて、天から降り続けている。
引き摺るような音をたてながら、すぐ横を軽自動車が通り抜けた。
青みがかったグレーに塗りつぶされた路地で、赤いテールランプが滲むように色を残していく。何度か点滅したそれは、やがて雨に霞む交差点で左に折れて消えた。佇むサスケの向こう側にある景色は、本人の預かり知らぬところで、その端整な輪郭をくっきりと浮きたたせるのに一役買っていた。車が通り抜ける瞬間に照らされた、傘を持つ手の白さが目に焼きついたまま離れない。

「……お前の言いたい事はわかった」

でも、ダメだ。
長い長い沈黙を経て答えを出したサスケは、揺れのない声で判決を下した。気圧されて驚かされた表情はとうに霧散して、今はもう静まり返った水面のような目をしている。

「ダメ……?」
「ああ。お前の言い分はわかった。だけどやっぱり、それを恋愛感情に繋げるのは理解できない。オレにはお前の言うその『好き』が、『友人』に対する好意が行き過ぎてしまっただけだとしか思えない」

冷静で無慈悲な分析に、一瞬軽くなっていた心が一気に冷やされた。
ふと、サスケが目を逸らす。
「――たぶん、距離が、近すぎたんだ。身内でもないのに、俺達はちょっと近付きすぎてた。だからやたら色んな奴らから、あれこれ訊かれたり言われたりしてたんだ」
言わんとしている事に見当がつかなくて、「なんの事?」と首を傾げてみせたが、その答えは返ってこなかった。代わりのように鳴らされた舌打ちが、びしょ濡れの路地に漂う。
「お前が俺に対して特別な感情を持っているってのは、よくわかった。正直――俺だって、お前といるのは結構気に入ってたんだ。お前といると退屈しねェし、なんか楽で……まあ、楽しいし」
下を向いたままサスケが言う。うつむく口先が、何故だかすごく不本意そうだ。
「気が楽すぎて、確かにちょっと、お前に寄っかかちまってたようなとこがあったのかもしれねェ……それがお前の勘違いを引き起こす原因になったのなら、そこは俺にも反省するべき点があると思う」
「反省って、別にオレは!」
慌てて口を挟もうとしたナルトを制して、サスケが「でもな、」と言った。
「俺がお前といて居心地が良かったのは、そこに恋だのなんだのというような要らん感情が入り込まない関係だったからだ。純粋に、お前となら友達として付き合っていられたから。気を許していられたから。……だから、お前がもし俺に対してそういう目でみてくるのなら、俺はもうお前とは以前のようには付き合えないし、悪いが俺の方もそれなりの距離と節度をもって接せざるを得ない」
「距離と、節度?」
「むしろこれ以上お前が変な思い込みをしないよう、すっぱり縁を切って、他人に戻るべきだと思う」
「……他人?」
突きつけられた単語の仰々しさに、頭がまっしろになっていくのを感じながらオウム返しにした。
そんなナルトを見たサスケが「それに、」と言う。
「お前さ――もし本当に俺とお前が付き合ったとしても、その先に何があるっていうんだ?今は好きだなんだと盛り上がっててもそんな熱は永遠には続かねえだろ。付き合ったら別れることだってあるし、だからっつって結婚できるわけでもねェし。わざわざそんなややこしい関係になる位なら、これまで通り友達としてつるんでいるだけの方がいいだろうが。なんでそれじゃダメなのかが俺にはわからねェ」
「なんで?なんでって」
理詰めだけれど尤もな質問に圧されて、思わず口篭った。確かに今のままでも、彼の近くにいられるのなら幸せだと思っていた。
だけど本音はやっぱり、その「友達の先にあるもの」が欲しかった。それがどんなものなのか、上手く言い表すことは難しい。具体的な言葉でなら言えるようにも思ったが、それを聞けばサスケはきっと嫌悪感を抱くだろう。
答えの返せないナルトを見て、サスケがふかぶかとしたため息をついた。「ほらみろ。説明できねェじゃねえか」と呆れたように呟く。
「そんな事したら、諦めなきゃなんねェ事や問題が、絶対に色々と出てくる。俺はそんなの背負いたくないし、それになにより――お前のためにならない」
長く立ち止まって話しているうちに、濡れた靴がすっかり冷たくなってきた。
サスケの足も、今同じように冷たいだろうか。
真面目な話をされているというのに、ふと、そんな事が気になった。
「酔ってる俺に変な真似しやがったことや、それを隠すために嘘をついて逃げ回ったことは、今でも許せねえ。だがもしそれを引き起こした原因であるその妙な感情を忘れて、まっとうな友人に戻るとお前が誓うなら。一度だけ……今回だけは、特別に水に流してやる」
何かを振り切るように、サスケが顔をあげた。
射抜く視線はまっすぐだ。厳しいそのまなざしの中には、ほんの少し祈りにも似た切実な光が見える。

「――誓え、ナルト」

逃げを許さない厳然さで命令してきたサスケに、怯える心臓がばくばくと動悸を速めた。
今ならば、元の仲に戻れるという事だろうか?
またあの無防備な笑顔を見せてもらえるという事だろうか?
だけどその代わりに、この思いを捨てろと彼は言った。
例えばどう言えばいいのだろう?ゴメン、ほんとゴメンな。オマエの言うとおり、全部オレの勝手な思い込みだった。オレってばオマエの事好きだけどそれは友達の枠の中のもので、この感情はそれ以上でもそれ以下でもない。これを恋と呼ぶだなんて、まったくもって馬鹿げた思い込みだってば。
そう言ってまた、「気のいい友人」の顔をして笑ってみせよう。そうして素知らぬ顔して、この気持ちを全部捨てて、彼の隣に居続ける。
そんな事、本当にオレにできるんだろうか?

「――いやだ」

低く言い終えたと同時に思い切り噛み締めた奥歯が、きり、とかすかに鳴った。
チッ、というサスケの舌打ちが、雨の合間に落とされるのを聴く。
なんでだ、と低く尋ねたサスケは再びかすかな電流をまといだしているようだった。イライラの放電が、らしくないほどその端整な容姿を歪ませる。
「てっめえ、この俺がここまで譲歩してやってンのに……!」
「了解も得ないでキスした事は、謝るってば!家に上がってないって嘘ついた事も、このあいだ腕振り払って逃げた事も」
言い訳を始めたらあとからあとからどんどん出てきてしまい、なんだか止まらなくなってしまった。サスケはまだ、苛立った顔のままだ。
「友達だなんて言って本当はそれ以上のものを望んでた事も、さっきキスしたのをオマエのせいみたいに言ったのも、なんか――嫌味な事、言っちまったのも。それは全部謝るってば。本当、悪かった。ごめん。だけど」
決意と一緒にちょっと息をのんで、そのまま威圧するようにまっすぐに立ったサスケの、強い光をのせた漆黒の瞳を見た。
これを言ったら、多分もう後には戻れない。
それでも、これを否定することは、もっとできない。


「だけど、オマエのこと想うこの気持ちだけは、捨てらんねェ。嘘、つけねェよ……」


「――そうか…わかった」
気が付くと、真正面から威圧するようにこちらを見つめていたサスケは、いつの間にかうつむくように視線を落としていた。野放図に跳ねる黒髪が、しっとりとした艶を載せている。地面を見ていたサスケは長々と沈黙に沈んだ末、しばらくすると、ようやく浮かび上がってきたように口を開いた。
「交渉決裂だ、ナルト。もう、お前とは今までのようにはいられない」
そう言ったサスケのジーンズの足元は、気がつかないうちに路面で跳ね返った雨のせいか、随分と色を重たくしていた。
あーあ、こんなに濡らしちまって。――ほんと、ごめんな。
間違いなく切り捨てられようとしているのは自分の方なのに、どこか脱力したような落胆の滲む声に、そんな外れた事を遠く思う。

「……今この瞬間から、俺達は他人だ。これまでのように、声、かけてくんなよ」

葛藤を振り切るように言い捨てて、サスケは静かな所作で踵を返した。
ぴんと張り詰めたような美しい背筋が、容赦ない拒絶を漂わせている。
雨は弱くなっても、降り止む気配がない。
振り返ることなく離れていく白いスニーカーが、大きな水たまりを避けもせず、ばしゃんと踏み越えていくのが遠くに見えた。



恋ってなんだろう。
上澄みのような思考を集め、とりとめもなく考えた。
人は誰かを好きになる権利を持っているけれど、それは同じ気持ちを返してもらえる権利を持つわけではない。当たり前だけど、結構厳しい現実だ。ちなみにこれまでの経験上、好きになった人が同じように自分を好きになってくれる可能性は、大体において五分五分だ。いや、もしかしたらそれ以下か。どうしてこんなあてもない感情に人は振り回されてしまうのだろう。それも、こんなにも有無をいわせない程の激しさで。抵抗する意思さえ奪うほどの強引さで。
オレはサスケに恋をしたけれども、サスケはオレに恋をしていない。
なんてシンプルでわかりやすい結論。
実のところ、世界は案外、単純に出来ているのかもしれない。
大手ディベロッパーが経営するショッピングモールは今日も明るい。完璧すぎる空調、陰りを許さない証明。何度も聴いている甘ったるい英語詩のラブソングがまた流れてくる。なんでこれいつもかかっているんだ、流行ってるのか?

「……っとに、いい気なもんだよなあ」
「え、なに?」

つい口から出てしまった悪態に、店先で品出しをしていたテンテンが耳敏く顔を上げた。傾げた頭の横で、大きなピアスが揺らめく。
別に、なんでもないス、と無愛想に答えると、榛色の大きな瞳がじいっとこちらを覗き込んできた。遠慮のない視線に、ちょっと背を後ろに逸らす。
「あーっ、わかった、ついに告白したんでしょ?」
少しおいてからのドンピシャな指摘に、寝不足で少し腫れた目許を帽子で隠した。
「なに?昨日?」
「はあ、まあ」
「すごいね、思い立ったらすぐなんだ。オトコだねェ」
「いや、そういうわけではないんスけど」
もごもごと返事をするナルトの浮かない表情に、テンテンは「あ、でもやっぱダメだった……みたいね」と苦笑した。「ダメ元でぶつかってみろって言ったの、テンテンさんだろ」とすこし口を尖らすと、そっかそうだったよね、と眉をハの字にして後ろ頭を掻く。
「それで。ちゃんと、全部伝えられた?」
労うようなまなざしでそう訊かれ、しばし考えた。
全部――では、ないかもしれないけど。でも一番言いたかった事は言えた気がする。
「まあ……スッキリはしたってば」
ふう、と息を吐きながら自分自身に納得するように、ナルトは言った。そっかあ、なら良かったね、とテンテンがほほえむ。
「もっといきなり、一刀両断にされるかと思ったけど」
「うん」
「結構、真面目に悩んでくれてたみたいだったし」
へえ、と思いやるような明るさで相槌を打って、テンテンは商品をストックしている引き出しを仕舞うと、ナルトの隣へとやってきた。ショッピングモールのメインストリートを見ているナルトに合わせて、壁に背を向けて同じように行き交う人々の方を向く。
「真面目に悩んでくれたってことは、それだけその子も君の事、大事に思ってくれてたって事だよね。もしかして、かなりいいとこまでいけてたんじゃない?」
言われた言葉に、頷こうかどうしようか悩んで、結局微かに頷いた。
そうなのだ。あのサスケが。
とびきり厳しくておっかないあの男が、一度だけとはいえ、あの晩の暴挙を見逃してくれるなどと言うなんて。
本当に、あれだけは想定外だった。
「まあそれでも、もう今までみたいに話掛けてくるなって言われちまったけど」
「わー…厳しいね」
「ん、まあ元々そういうタチだってのはよく知ってたし」
他人に戻るぞと言われた時は頭がまっしろになったが、考えてみれば中途半端が嫌いで物事をはっきりさせなければ気がすまない彼であれば、十分に言いそうな事だった。極端だけれど、確かにスッキリはしている。他人に無関心で、嫌いなものや興味のないものにはとことんドライな彼は、これまでも必要ないと思ったものはその場で躊躇なく切り捨ててきたのだろう。
そんなサスケが、オレのために悩んでくれた。
一瞬でも、迷ってくれた。
それだけでもう、充分だという気がした。
「……もしかして、後悔してる?告白したこと」
ごめんね、もしかして私、変にけしかけるような事言っちゃったかな?
急に気遣わしげに尋ねてきたテンテンに、ナルトはほんのり笑ってみせた。「いや、それはないってば」という答えに、彼女はホッとしたような顔を見せる。どのみち、あのまま逃げ続ける事なんて出来なかったのだ。今更どうこう言っても仕方ない。
「そっかあ――じゃあ、ここはひとつ私からおにーさんの新たなる出会いを祈願して、店にある良縁祈願のお守りをあげるよ」
覇気のないナルトの様子を心配してくれたのか、珍しくそんな事を言い出した女性店長は、色石が幾つか組み込まれたチャームを持ってくると、吊り下げるようにしてナルトの前に掲げた。結構凝った造りだしデザインも悪くないけれど、これちゃんと効くのかなあとうっすら思っていると、「あ、もちろんタダであげるわよ?」と付け足すように言われる。
「うーん、良縁というか……恋愛はまあ、とりあえず当分はいいって感じだってば。――あ、でも」
ありがたい気遣いを丁寧に断わろうとしたところで急に思い付いた声をあげると、訝しげにテンテンが首を傾げた。
続きを待つ彼女に「でも代わりに、合格祈願のお守りなら欲しいかも」と告げると、きょとんとした顔が徐々に笑顔になっていく。
「そっか、いいよ!そういう事なら、せっかくだからオリジナルで作ってあげる!」
「えっ……また高いんじゃ」
「だからプレゼントしてあげるって!夢を追う青年には優しいのよ私は!」
なんだか下町のおばちゃんみたいな発言スね、と咄嗟に言おうとしたが、折角の好意を台無しにする事もないかと思い直し、ナルトは黙ったままにっこりと笑ってみせた。「『努力が実る』だったらガーネットとかかな」などと早くもブツブツ言っているテンテンは、なんだかとても嬉しそうだ。
アイスリンクの強いライトの跳ねるまっしろな光景に、先に帰っていくサスケの、凛とした後ろ姿が重なった。
どちらも手に入れようなんて、やはり都合良すぎる話だったのだ。多分これは、生半可な気持ちで全部を手に入れようとしたオレに対する、神様からの試験だったのだろう。甘ったれた事ばっか言ってるんじゃない、とゲンコツを落とされた気分だ。
ねえねえ、どんなモチーフがいい?希望とかある?と話しかけてくるテンテンの言葉にちょっと考えながら、ナルトはゆっくりと口を開いた。長門の話がすんなり進めば、多分ここにいられるのも、そう長くはない筈だ。

「あの、テンテンさん。オレってばもうひとつお願いがあるんだけど――」