第十四話

場違いな着信メロディは止まらない。
その中で「なあ、もしかしてお前さ」とサスケはなおも問いただそうとしてきた。真剣味を帯びた声に、動悸ばかりが速まっていく。
足よりも先に動きを取り戻したのは手の方で、意識が戻ったナルトがまずしたのは携帯の通話ボタンを押すことだった。『良かった、繋がった!ごめんなうずまき君、今夜ちょっとまた代打を頼みたいんだけど』と急ぎ足で要件をしゃべりだす相手に機械的な相槌を返しながら、最後に「わかりました」と短く返答して、そっと通話を切った。目の前に立つ男から、誤魔化しようもない程の不満気な気配を感じる。
「――ンだよてめぇ、今俺が訊いてんだろ?それにバイトも、」
「ゴメン!でもほら……えっと、なんか、……し、しつこかったし!シカマルとかが抜けてから常時人手不足だしさ!」
夜からのシフト引き受けちまったから、オレもう行くってば!
苦し紛れの不自然さでそう言い捨てて踵を返そうとすると、「待てよ。俺の話はまだ終わってねえ」と、むき出しの肌にひやりと冷たいものが絡まった。
もうすっかり夏の色になった自分の腕を、白いサスケの手のひらが掴んでいる。

「ナルト、お前――このあいだの夜うちに上がって、俺になんかした……か?」

静かすぎる声が、逆に恐ろしかった。
濡れた靴先に落とした視線が上げられない。
尋ねてくるサスケの影が、古い電灯の明かりの中丸くぼやけていた。じじ、と電灯が揺れるのに合わせて、丸い影も身じろぐように震える。終わりのない雨音だけが、遠のいた耳を打つ。
逃げなきゃ、と切実に思った。
目を合わせてはいけない。あの目に見定められたら最後――絶対に、嘘なんかつけない。

「ごめ……ッ、ホント、知らないってば!」

口を挟む余地を持たせない勢いでナルトは最後にそう投げつけるように言うと、目をぎゅっと閉じたまま渾身の力で白い手を振りほどいた。
遁走したエントランスに半べそのような自分の声がこだまする。狼狽えるあまり途中濡れた靴が床に滑って、あやうく転倒しかかるところだった。それをどうにか踏み止まって、格好つかない気まずさを抱えたまま自分の部屋の玄関に飛び込む。そこにきてようやく、さっきからずっと呼吸を忘れているのに気が付いた。
Tシャツの背中が、冷たい汗でびっしょり濡れていた。
サスケがどんな顔してるかなんてこと、もちろん確かめる余裕なんてなかった。

     ☆

最悪だ。
最悪のリアクションだ。
ハァァ、と今日だけでゆうに三十はついているため息に、制帽の影が被さった。
どう考えても、完全に嘘がバレた。しかもどうやら家に上がっただけでなく、その先にあった事まで全部彼の記憶には残っていたらしい――なんということだ。あの酒量であれば、記憶の消失は絶対だと思ったのに。
(……よく考えてみりゃ、あそこであんな狼狽える必要なんてなかったんだよな)
悔やんでも悔やみきれず、ショッピングモールの明るすぎる照明から逃れるように下を向いたナルトは、鬱々とこめかみを抑えた。
もっと自然な態度で乗り切れていれば、今になってこんな悩むこともなかった。サスケの方だって、どうも最初は半信半疑な様子だったし。あれだけ酔っ払っていたのだ、きっと覚えていたとしてもあやふやだっただろうし、これまでずっと奇妙な夢かなにかだとでも思っていたのだろう。
そもそも記憶に残らないだろうと踏んでの所業だった。さらっと「カレー?さあ、知らねェけど?」と流してしまえば良かったのだ。どうしてこう、突発的なアクシデントにオレはうまく乗っかれないんだろう。どんくさい自分にガッカリする。

「しみったれてるなあ、もう」

商売の邪魔だから、あっち行って。
ずけずけとした物言いに胡乱な視線を下ろすと、今日もきちんとまとめ上げられたお団子頭にアイラインをびしっと入れた女性店長が、斜め下からこちらを睨んでいた。
「そんな半分死にかけみたいな顔で前に立たれてちゃ、こっちの商売あがったりなのよ」と尖らせた口に、「ハァ、スンマセン」とのろのろ謝る。
半分死にかけというのは言い得て妙だった。確かに今のオレは、死刑執行までのカウントダウンに入っているようなものなのだから。
サスケと別れてから、既に一週間が経っていた。彼に会ってしまうのが恐ろしくて、ナルトはあれからずっとこそこそと逃げ回るように管理人室の前では息を潜め、気配を殺して通っている。
ゴミ出しは朝早くから辺りを見回して黒髪の長身がいないのを厳重に確認してからダッシュで遂行しているし、バイトの行き帰りでは、この間のコインランドリーの時のようにうっかり最寄りの駅や商店街で鉢合わせしてしまうのを恐れ、わざわざひとつ前の駅で降り遠回りをしながら帰宅している程の念の入れようである。
その間、彼からの携帯への着信は二回。どちらもきちんと最後まで着信音を聞き届けたが、どうしてもまだ、詰問するであろう彼に対峙できるだけの覚悟が持てなかった。メールで簡潔に訊いてこないところにも本気で確かめたい様子が窺えて、ますます気持ちは萎縮する。
……だって、次会ったらきっと、もう逃げることは出来ない。
漠然とだが確信をもって、ナルトはふかぶかとしたため息をまたついた。曖昧さが嫌いな彼は、きっとオレに向かってまっすぐに問い質すだろう。友達だなんて言葉の裏側で邪まな欲望を持っているオレを、迷うことなくあばきたてるだろう。
「なーに、失恋?結局ふられちゃったの?」
あけすけに言われると、思わず首ががくりと折れた。ふられるも何も、告白さえもまだしていないのに独断で実力行使だけはしてしまい、バレそうになった途端怖くなっていきなりログアウトしてしまったのだ。こんな不甲斐ないふられ方があるだろうか。
「……まだ正式にはふられてないってば」
歯切れ悪く言い返すと、榛色の目がきょろりと回って「じゃあ略式にふられたんだ?」とあっさり言われた。
返す言葉が見つからなくて、そのまましょぼしょぼと肩を落とす。
「まァまァ、元気出しなさいよ、世の中恋愛だけが全てじゃないって。他にも打ち込めるものがあるんじゃない?おにーさんてここもバイトなんでしょ。なんか夢みたいなの、持ってないの?」
慰めというよりハッパを掛けるような言葉に、ナルトはもうひとつの課題を思いだした。
長門からもらったエントリーシート。未だ白紙のままのそれは、今日も愛用のボディバッグの中に入ったままだ。
サスケに「隣に越してこないか?」と誘われた時は浮かれてつい了解してしまったが、冷静になってみればそれは長門からの誘いを蹴るという事に他ならないのだった。だがそれに気が付いたのは、サスケの手を振りほどいて転がり込むように自宅に戻り、ようやく呼吸が落ち着いた後だ。
迂闊な上にすぐに調子にのってしまう、自分の阿呆さにちょっと泣けた。我ながら、呆れるほど自分はサスケの誘いに弱い。こんなに簡単に決めるような事では、絶対にないはずなのに。長門の言うように、これは貴重なチャンスだ。やすやすと見逃していいような話ではない。
――それに。ナルトは思った。
もし長門の話を聞いたら、サスケだったら絶対に行けと言うだろう。好きな人の近くにいたいから滅多にない機会を棒に振りましたなんて聞いたら、それこそ軽蔑のまなざしで見られるに違いない。
厳しいけれど、彼のそういうところが好きだった。ここにいると言ったところで、冷静に考えればこのままサスケと対峙するのを怖がったままで、この先もずっといけるなんてどう考えても不可能なのに。遅かれ早かれ、あの鋭利な刃物を思わせる瞳に断罪される日がやってくるだろう。だけどやっぱり、可能な限り側にいたい。会えなくてもいいから、近くにいたい。
……ああ、なんて甘っちょろい矛盾だらけのオレ。
選び取るものが多すぎて、なんだかもうグチャグチャだ。
「そういうテンテンさんは、夢とかあるんスか?つかオレの話ばっか訊いてくるけど、テンテンさんには彼氏とかいないのかってばよ?」
返事を有耶無耶にするように店頭に並べた商品の位置をチェックしながら少し手を入れ直している彼女に声を掛けると、手を動かしたままでテンテンは「彼氏?いないわよ」と素っ気なく答えた。
あたしはこの仕事で食べていくことが夢だったし、今はこのお店をできるだけ長く続ける事が自分の中で一番大事だから。他の事は目に入らないわね。
「で、君の夢は?」
どうでもいい話を打ち切りにするかのように催促してきた彼女に、「アイスホッケーの、」とぼそぼそ呟くと、聞き取れなかったテンテンが「え?」と聞き直した。休むことなく動かし続けていた手を一瞬止めて、お団子頭がこちらを向く。
「オレ、アイスホッケーのプロプレーヤーを目指してるんだってばよ」
気を取り直すようにもう一度告げながら、ナルトは密かに自問した。本当に?それは今でもオレの夢と言えるものなのか?
見つめ直した気持ちに変わらないものを見つけ、ナルトはかすかに安堵の息をついた。
――うん、大丈夫だ。それは今でも揺らいでいない。
サスケへの思いとはまた違うところにある、確かな自分の意思だ。
「へぇ!そうだったの」
ちょっと驚いたように目を大きくしたテンテンは商品の整頓を一旦止めて、店の脇に立つナルトの方へ擦り寄るように近づいてきた。なんだかさっきよりも親しげな表情をしている。
「それってやっぱ難しいの?アイスホッケーにプロなんているんだね、それすらも知らなかった」
「えっと――一応、北海道のチームから、うちに来ないかって話はもらってるんスけど」
おずおずとでも告白すれば、途端にテンテンは「スゴイじゃない!」と大袈裟なほど感心した声をあげた。いつから?もうすぐに行くの!?と興奮気味に質してくる彼女に、「いや……でもまだ、入団テストも受けなきゃなんないし」と歯切れ悪く答える。
「なぁんだ、じゃあまだわかんないのか」
急に落胆した声で肩の力を抜いたテンテンは、それでも再びにっこりと笑顔をつくると「でもそのテストは受けるんでしょ?受かるといいね!」と激励するように言った。
はあ、まあ、と腑抜けに返事をすると、「なによもー、なんだかやる気が見えないなあ」と呆れたようなテンテンが腰に手をあてる。
「あれ、まさかおにーさん」
「はい?」
「もしかして、その好きな子から離れちゃうのが嫌で、そんなやる気ない顔してんの?」
ずばり言い当てられて、ナルトは口篭った。そのとおりだ。顔を合わせるのも恐ろしいと思っている癖に、どこかでまだ案外会えばすんなりと何事もなかったかのように過ごせるんじゃないかという浅はかな希望も捨てきれていなくて、グズグズとトライアウトにエントリーするのをためらっているのだった。
アイスホッケーはどうしたって寒冷地がメインになってしまうスポーツだからプロチームも寒い地方に集まりがちだけれど、都内にだってチームが無いわけではない。――ただ、ものすごく狭き門なだけだ。チームそのものがまず都内にはひとつしかないし、メンバーの募集も定期的に行われているわけではない。余程運が巡ってこなければ、掴めるものではないだろう。
(……だけどもし、サスケが許してくれるなら)
未練がましく弱い光にしがみつくように、ナルトは思った。いつかのオレンジに包まれたサスケの、無防備な笑顔が蘇る。絶対にないだろうけど。到底無理な話だろうけど。それでも万が一そんな奇跡が起きたとしたら。
今まで通り彼の近くで暮らしながら、その『いつか』のチャンスを待てばいい。
「へぇ……なんかずいぶん、余裕あるんだね」
ちょっと不興を買った顔で、商魂たくましき女性店長は言った。
私だったらもう天秤にかける余地もないなー。チャンスってそうそうどこにでも転がってるもんじゃないし、ここぞという時に乗り遅れたら、もうそのまま置いていかれるだけなんじゃないの?
「それにさ、次また同じようないい話がくる確証はないんでしょ?」
「……まあ、そうですけど」
「君が声を掛けてもらったその裏っかわで、声を掛けてもらえなかった人だって確実にいるわけじゃない?そういう人達の事考えたら、そんな上手くいくかどうかも判らない恋に色々賭けちゃって、せっかくの話を無にするのってどうかと思うけどな」
ぐさぐさと容赦なく刺してくる尤もな提言に、返す言葉もなくナルトはすごすごと肩を縮めた。おっしゃるとおりだ。余りにも正論すぎて、耳というよりもなんだか胸が痛い。
ぐうの音も出なくなってしまったナルトに気が付くと、それまで厳しい顔付きだったテンテンは少し目許をほぐして、「あーっと、ゴメンゴメン、ちょっと言いすぎたか!」と苦笑いを浮かべた。ま、これもひとつの意見て事で。決めるのはおにーさんだしね、とカラリと言うと、眩し気に上を見上げる。
「まあでも、どうせ既に半分死にかけてるんだったらちゃんと告白して、全殺しにしてもらうのもいいのかもよ?」
「……全殺しっスか」
「だってほら、トドメがないままずるずる生き延びちゃうのも、それはそれで辛いじゃない?」
表現が物騒だなあと思いつつも、あの闇色の鋭利な輝きをもつ厳しい瞳を思い出せば、それはそれでなんだか妙にしっくりとくる形容だった。
きっとトドメを刺すとなれば、彼だったら半端な情けなど懸けず、狙い定めた心臓をひと突きで仕留めることだろう。優雅な殺戮は、囚われた獲物に痛みを感じる瞬間すら与えないかもしれない。
影のないショッピングモールには、今日も明るいラブソングが流れている。
容赦のない彼に瞬殺される時を思い浮かべれば足が竦む程恐ろしいのに、同時にこのどうしようもない自分から開放してもらえるような奇妙な期待感もあって、ナルトは変にどっちつかずなため息を、またひとつついた。



曇空の中電車に揺られていると、降りようと思っている駅に着く手前で、ざあ、と急な音が鼓膜を襲った。
突然の雨に、窓の中から見える線路沿いの道を行く人々が、蜘蛛の子を散らすように屋根を求めて走り出している。驟雨だ。
ホームに降り立っても、雨音は激しさを増すばかりだった。ここ数日ですっかり見慣れてしまったひとつ前の駅の改札を出て空を見上げてみても、雲は重たく真っ黒で、まだまだその内側には雨を抱き込んでいるように見える。にわか雨かと軽んじていたが、どうやらこのまま本降りとなりそうだ。もう七月に入るというのに、梅雨は一向に終わる気配がない。
こうなってみると遠回りのコースを選んだのは失敗だったかもしれないが、それでもだからといってもう一度電車に乗ってひとつ隣の駅まで乗り継ぐのも馬鹿らしい気がした。それになんの覚悟も出来ていないうちにサスケに遭遇してしまうリスクを考えたら、土砂降りの長途行軍の方が余程マシだ。幸いにも傘は梅雨も佳境なこの時期、常に持ち歩いている。折りたたみ傘は嫌いだけれど、長傘は結構好きだ。
持ってきていた傘を開いて、一歩外へ出た。途端に水滴がナイロンの表面を叩く、力強い音が弾む。水浸しになった道路はところどころでじょぼじょぼと川のような流れができており、上から落ちてくる雨の粒が、地に着くたびに雫を跳ね上げるのが見て取れた。スニーカーが中まで濡れるのは正直困ったが、乾いたままでアパートまで辿り着ける確率はほぼゼロだろう。これはもう、仕方がない。
つま先が冷たくなってきたのに辟易しつつ、途中にある小学校のグランド脇を抜け住宅の立ち並ぶ路地を行く。急な雨に冷やされた大気が、ひんやりと街に漂っていた。雨つぶのかかった腕が冷え冷えする。早く帰って着替えようと思い足を速めていると、先のマンションの軒先で、困ったように佇むラベンダー色のランドセルが目に入った。ざんざんと勢いを増していく雨の筋を見上げては、ため息をついている。確か、あの子は……

(――あ、やっぱり。鳥をみっけてきた子だよな)

掲げた傘の端っこからちょっと覗き見たナルトは、その見覚えのあるランドセルとショートカットに記憶を確かめた。学校から持ち帰るように言われたのだろうか、足元には大きなプラスティックの植木鉢がびしょ濡れになってぼたぼたと雫を落としている。
うーん、どうすっかな。
立ち往生する少女に、ナルトはしばし悩んだ。
植木鉢の中にはまだ開花途中の植物が植わっている。この大雨の中、あれを持って歩くのはかなりの困難だろう。きっと植木鉢の中は水たまりのようになってしまうだろうし、下手したら根っこが浮いてきてしまうかもしれない。多分そう思ったから彼女も今いる場所に逃げ込んだのだろう。
(でもなー、ここで声掛けんのってちょっと怪しいよな。向こうからしたら、オレは全然知らない人なんだし。やっぱここは申し訳ないけど、スルーしといた方が)
そう思いつつもなんとなく後ろめたくて傘で顔を隠しながら前を通り過ぎようとすると、「ぷしゅん!」という握りつぶしたような可愛らしいクシャミが聞こえた。濡れた二の腕をさする、薄い手の甲が頼りない。
やっぱり、このまま見過ごしては、後々まで気になってしまいそうだ。

「――傘、ねぇの?」

突然掛けられた声にびくりとした少女は、雨の中傘を差して立つ金髪の大男を認めると、ことさら警戒心をあらわにした様子で、つんと横を向いた。ぐっしょりと濡れた髪先から、雫が飛ぶ。
細面の容貌はよく見たら切れ長の色っぽい目許をしている。きっと年頃になったら、なかなかの美人さんになるだろう。
「学校帰り?」
「……」
「随分濡れちまったんだな。なんか急に、スゲー降ってきちまったもんな」
「……」
「多分この雨、当分止まねェってばよ。大丈夫か?」
「――ちょっと。勝手に話しかけてこないでくれませんか?」
知らない人からは、話しかけられても答えないようにって言われてるんです。
とりつくしまもない、といった感じでそう突っぱねた少女にナルトは一瞬ムッとしたが、すぐにまあそれもそうか、妥当な反応だなと納得した。こんな世の中だ、いくら平和ボケした国だといわれていようと、きょうびどこでどんな悪漢に嫌な思いをさせられるかわからない。
女の子ならば尚更だ。
「あー…えっと、ああそうだこの先にさ、木の葉荘ってアパートがあんの、知ってるだろ?」
少女を取り巻く警戒心を取り払うべく、ナルトは取り敢えず、共通の知り合いを通じて交流を図ることにした。
つまり、サスケだ。彼女達の憧れの王子様。
「ほら、あのイケメンの管理人がいるさ、」
「……知ってます」
イケメン管理人、の言葉にすべらかなほっぺたをほんのりピンクに染めて答えた彼女に、ナルトは(あー、やっぱりなァ)と思った。ワントーン上がった声からもわかる。二年前のあの時から、彼女はすでに管理人室の王子様に一目惚れ状態だったに違いない。
かわいいなあ、オレら喋ってみたら趣味合うぜきっと、などと気楽なシンパシーを感じながら、「オレ、そのアパートに住んでて。管理人さんの友達なんだってば」と伝えると、しばらく黙っていた少女は探るような目つきで「……そう」と答えた。ツンツンと全身で拒絶するオーラは、消えないままだ。
「だから、何?」
しつこく手を出された子猫のようにイライラの逆毛を立てながら、少女は言った。どうやら共通の好みにシンパシーを感じているのは自分の方だけで、彼女からしたらこの出会いは変なお兄さんとの望まざる邂逅以外の何ものでもないようだ。
それでも一旦声を掛けてしまった以上そのまま見過ごすこともできなくて、ナルトはちょっと参ったなあと思いつつも傘を持つ手を持ち替えた。続く言葉が思いつかなくて、ぽりぽりと頬を掻きながら目を泳がせる。
「だから、サスケがさ――ってこれ、管理人さんの名前な?前にオレに君らのこと話してくれたことがあって。君らいつも朝、サスケに挨拶してくれるんだって?」
「……サスケくんが?」
『サスケくん』というやけに馴れ馴れしい呼び方に一瞬(ん?)となったが、ようやく見えてきた会話の糸口にナルトは胸をなで下ろした。
よかった。やっぱり彼女にとっても「サスケ」は聞き逃せないワードだったようだ。
「サスケくん、あたしのこと話してたりするんだ……」陶酔したようなちょっと上ずった声で、彼女は言った。ぼんやりとした視線は、夢でも見ているかのようだ。
「そうそう、だからオレも、君が困ってんの見たら気になっちまって。帰り道こっちか?同じ方向だし、そこまで送ってって――」
「サスケくん、ほかにどんなこと言ってた?」
表情が緩んだ隙に一気に要件を述べようとしたところ真剣な声に遮られ、ナルトは再び困惑した。
他にと言われても、あとはたいした話題もない。サスケが言ってたのは二人組の小学生に懐かれているというのと、小学生女子は遠慮がない上に変にませてたりして全体的に苦手だ、という事くらいだ――出来合いの相合傘のお供に添える話題としては、いささか不具合が多すぎる。
「えーと、ほか、は。……そんぐらい、かな?」
えへへ、と照れ笑いで誤魔化して、ナルトはこの話題を締めくくることにした。すでに迂闊に彼女へ声を掛けてしまったことを、後悔し始めている。
しまったなァ…こんな浅い知り合い(ですらなかったのだ、実際は)に声なんてかけるんじゃなかった。いっそ誰かこの子を傘に入れてくれる友達でも、偶然通りがかってくれないだろうか。
なァんだ、と擦り切れたような落胆を見せた彼女はつまらなさそうに足元を見ると、もういいよ、オジサン。あっち行って。と投げやりな口調で言った。
オジサン?オジサンっつったかコイツ?と聞き捨てならない単語に頬をヒクつかせながらも、大人の余裕を見せるべく鷹揚に傘を差しのべる。

「まあそう言うなって。傘なくて困ってんだろ?おにーさんの傘にいれてやるってばよ」
「何ムリしてんの?オジサン。余計なお世話よ」
「おにーさんな、おにーさん!おにーさんは優しいから、困ってるガキんちょを見過ごせないんだってばよ」
「あたし子供だけどガキじゃないし。わざわざ突っかかってきて、バカみたい」
「ハハ……そーゆー言い方は、よくないんじゃねーかなァ?」
「なにその年上ぶった態度。そういうとこほんとオッサンくさい」
「オッサンちゃうわ!つかオレってばサスケと同い年だし。オレをオジサンって言うならあいつだってオジサンだってばよ!」
「あんたなんかとサスケくんを一緒にしないでよ。おこがましい」
「おこ…おこがましい!?む、むつかしいコトバ知ってんだなぁオイ……!」
「あんたってホントにバカなのね。オジサンのくせに、頭はそこらの男子と同レベルだわ」
「おーおーおーワリかったなァ男子で!大人の寛容さでちょっと親切にしてやろーと思ったのに、なんだよその態度は。もういい、オマエ濡れて帰れってばよ」
「……うわ、さいってー。女に濡れて帰れだなんて。なんでサスケくんはこんなヤツと……!」

言葉を詰まらせた薄い唇の奥で、きり、とかすかな歯ぎしりの気配がした。言いかけた言葉を飲み込むように、少女はそのままむっつりと黙り込む。
なんなんだこの子。なんかやたらおっかない。
理由はよくわからないけれど、とにかく彼女が自分に対して敵意じみたモノを持っているらしい事だけはビリビリ伝わってきた。どうしてこんなに嫌われなきゃならないのかさっぱり理解できなかったが、とりあえずこの雨が問題だ。
腹立たしいが彼女の言うように、このままびしょ濡れの女の子ひとりを置いていくのは、成人男子としてやはりいかがなものか。濡れたTシャツから出た腕は寒そうに泡立っているようだし、短い髪からはまだポタポタと透明な雫が落ちている。ふと傘だけ置いて行こうかとも思ったが、それはそれでこちらも濡れては困るのだった。
カバンの中に、例のエントリーシートが入っているのだ。この土砂降りでは、いくら慎重に抱えて走っても無傷では済むまい。
どうしようかなと再び煩悶していると、何かを決めたかのような雰囲気の少女が、「その傘、置いていきなさいよ」ときっぱり告げた。
余りにも傲岸な振る舞いに思わず耳を疑いながら、(はい?なんですと?)と口を開ける。

「……おっま……散々人のこと貶しといて、傘だけぶん取る気かよ!」
「だってあたし濡れちゃうじゃない」
「だから入ってけって言ってやっただろ」
「イヤよ。あんたなんかと相合傘したくないもの。傘だけ置いていきなさいよ」
「オレが濡れんだろうが!」
「男なんだからその位我慢しなさいよ。バカだったら風邪もひかないでしょ」
「こっちはこっちで濡れたくない事情があんの!四の五の言わずに濡れたくないなら最初っから人の親切を素直に受けとけってばよ!」

ほら!と少し傘を持つ手を前にだすと、物凄く嫌そうな顔をしながらも少女は植木鉢を両手で抱え、大きな雨傘の落とす影の中に入ってきた。それでも出来るだけナルトから距離を取るつもりなのだろう、雨粒が落ちるギリギリのところで無理矢理収まろうとしている。
華奢な肩が濡れないようちょっと傘の傾斜を調節して、ナルトはゆっくりと前に歩き出した。本音を言えば早足でとっとと彼女を送り届け別れてしまいたいところだったが、仕方がない。身長差によるコンパスの違いか、ナルトの落とした歩調でも小学生の足には結構なスピードのようだった。ちょこちょこと時折小走り気味になるピンクのラメ入りスニーカーは、既にかなりの水を吸っているようだ。
「……よりによって、なんで通りがかるのがあんたなのよ。サスケくんだったらよかったのに。サスケくんだったら子供の言うことにバカみたいに突っかかってこないし、もっとオトナだし、もっとスマートな方法で女の子に優しくできるんだから」
傘に入ってもまだぽそぽそと未練がましくそんなことを言う彼女に、ナルトはうんざりとため息をついた。「そっか?サスケは多分、そういう感じじゃないと思うってばよ?」とばっさり切り捨てると、濡れた寒さに青白くなってきていた横顔がぱっと赤くなる。
「そうだなあ、もしサスケがびしょ濡れの女の子を見つけたとしても、最初に『話かけてこないで』って言われたらすぐに『そうか』っつって、さっさと行っちまうんじゃねェかなぁ」
「そっ…!」
……んなこと、ないもん。
うつむいて言った声は、語尾にいくにつれどんどん自信なさげに窄まっていった。しまった、つい大人げなく言い返してしまったが、彼女の大切にしているサスケのイメージを崩してしまっただろうか。
「……や!でもさ、それも別にアイツが冷たい奴って意味じゃないんだぜ?なんていうか、ほら、サスケってすごく潔いからさ。オレみたいにしつこくないっていうか」
漂う沈黙とひっそりと噤まれた口許になんだか申し訳ない気分になってきてしまい、ナルトは急いで先程自分が言ったばかりの科白を取りなした。
マセていようと生意気だろうと、それでもやはりまだ十に届くか届かないかという子供なのだ。
恋に恋するお年頃、憧れの王子様に夢を抱いていて、どこがいけないというのか。
「まあ、さっぱりした性格なんだよな。男らしいというか。アイツの部屋なんか、あの性格そのまんまでさ。すげぇスッキリ片付いてて、清々しいんだぜ」
そう言ってニシシと笑いかけてやると、それを目の端っこでちょっとだけ見た少女は、「…あんた、サスケくんの家にも行ったことあるんだ…」と低く呟いた。氷の彫刻みたいな横顔に、ナルトはますます途方に暮れる。
これならさっきのような喧嘩腰の方がまだマシだったなァと、ナルトは遠く思った。サスケが小学生位の女の子は厄介だと言ってた意味がなんとなくわかる。子供だと思って話していても実際とんでもなく「女」な感じがして、甘く見てかかれない。
「あんたってさ――サスケくんと、いつから知り合いなの?子供の頃から?」
居た堪れないような沈黙にもようやく慣れてきた頃、表情を変えないまま歩き続けていた少女からぽつんと零された質問に、ナルトは少しだけ驚いた。
いや、違うってばよ?と答えながら、「なんで?」と訊き返す。
「別に。ちょっと、訊いただけ」
そう返す彼女は、前を向いたままだ。
「オレってばここに越してきたの二年前だから。ほら、だからオマエらが落っこちた鳥見っけた時。オレがサスケと知り合ったのもちょうどその頃だってばよ」
「……ああ、そう」
面白くもなさそうな相槌を目処に、彼女からの問いかけはそこで終わりらしかった。
一体何が聞きたかったのか。読めねえなァこの子、と再び沈黙に引きこもった少女に、心の中でため息をつく。
「えーと、――あ、そうだ、オマエもさ、いっつも一緒にいる子いるだろ?あのおかっぱの子」
それでももう一度会話を成り立たせようと、昔の記憶を頼りに話を向けると、濡れたカットソーが張り付いた小さな肩がぴくりと跳ねた。あれ?と思いつつも「あの子、今日は一緒じゃなかったんだな」と続けると、濡れた髪先を少し揺らして、無表情な横顔が下を向く。
「あの子とは幼馴染なのか?……つーか、もしかして、ケンカ中?」
「……っるさいわね、ほっといてよ」
唸るような苛立たしげな声に、予感が的中したのを感じた。
なるほど。それでひとり雨の中傘に入れてくれる友達もいなくて、往生していたのか。
「なんだよ、なんでケンカになったんだ?オマエらスゲー仲良さそうだったじゃん」
傘の傾きを気にしながら覗き込むと、切れ長の目は眇めるようにちょっと細められ、薄い唇が真一文字に結ばれていた。強情そうな鼻筋が、緊張して見える。
「どっちが悪いんだ?オマエの方か?」
「――っ、ちが…っ!」
「じゃあ、おかっぱちゃんの方?」
口篭った様子から察するに、どうやら少女の方にも幾ばくかの引け目があるらしかった。多分、どっちもどっちといったところなのだろう。子供のケンカなんて、大概どちらにも非があるものだ。
「どちらにせよさ。仲直りしたいんなら早いとこ、謝っちまった方がいいってばよ?」
好きな友達と遊べないなんて、毎日つまんねぇだろ。
そう親身になって言ってみたが、少女の表情は硬いままだった。薄暗い道の先、四つ角の一角に、コンビニエンスストアの青い看板が見える。ガラス張りの雑誌コーナーでは、若い主婦のような女性と数人の男性が立ち読みしている。狭い軒先では男子高校生らしき数人が、肩をすり合わせるようにして雨宿りがてらの買い食いをしているのが見えた。何がそんなにおかしいのか、その中のひとりが言った一言に、あぶくのような笑いが起こっている。
「素直に謝れば、きっとまた元に戻れるって。向こうだってきっと同じように仲直りできるタイミングを探してんじゃねぇの?」
高校生達を遠目にしながら、再びナルトは少女に話しかけた。女の友情はもろいなんていうけど、男が絡んでさえいなければ結構固く結ばれてるものだってばねというのは、亡き母の文言だ。
「雨降って地固まるって知ってっか?ケンカして仲直りできれば、前よりもっと仲良くなれるぜきっと。自分から謝んのって癪かもしんねぇけど、それでもまた仲良くなりたいと思ってんなら……」
「――そんなキレイ事で片付けられんなら、最初っから揉めたりなんかしないわよ」
年に見合わない冷静な物言いに、大人目線で軽く諭そうとしていたナルトはふと隣を見下ろした。
植木鉢を持つまっすぐに伸ばされた腕がひどく細い。関節の内側に浮かぶ青い血管の筋が、やけになまめかしく映った。
「あたしとサクラは、赤ちゃんの頃からの付き合いなのよ。あんたとサスケくんなんかよりずっと長いこと一緒にいるだから」
「んじゃ、悩む必要ねーじゃん。ちゃんと話し合えばわかりあえんじゃねぇの?」
「だから、そんな簡単な問題じゃないの!なんにも知らないくせに、わかったような事言わないで」
大人びた言い方をしながらもつんと尖させたくちばしは、それでもやはりどこかかわいらしく、子供じみたものだった。大人と子供の狭間で揺れている横顔。惑うようにゆらぐ長いまつげは、どこかアンバランスな自分を持て余しているようにも見える。
「キレイ事かもしんねーけどさ、それでもやっぱ、『仲良くしたいんだ』って伝えられて、嫌な気がする奴ってのはあんまいないと思うってばよ?」
コンビニを通り過ぎようとすると、笑いに一段落がついたらしい高校生達のひとりと、ふと目が合った。奇妙な二人組に何を想像したのか、ひそひそとなにか隣の友人に耳打ちをしている。
「素直な気持ちを伝えれば、きっとおかっぱちゃんにもちゃんと届……」
「あんたとサスケくんも、そうやって仲良くなったの?」
突然話の帆先を自分に向けられて、ナルトはほんの一瞬ぎくりとして身を竦めた。サスケから逃げ回っていたこの一週間が頭をよぎる。偉そうに言ってしまったが、結局のところ自分だって彼女と似たり寄ったりなのだった。今現在の我が身を省みれば、年長者らしく諭そうとしていた口はつい固まってしまう。
(――だけど、さ)
二年前の春、意地を張りつつもお互いに非のあった事を謝りあったのを思い出してみれば、ナルトはゆるやかな笑みが口許に広がるのを感じた。
今にして思えば、自分はなんとあの謎の管理人に翻弄されていたことか。
つま先ひとつ分の距離を縮める事に、どれほどのドタバタ劇を演じたことか。馬鹿馬鹿しいけれどその根っこにあったのは、たったひとつの感情だけだった。彼と仲良くなりたかった。友達になりたかった。ただ、それだけだ。
あの時振り絞った勇気がもたらしてくれたサスケとの思い出は、こんな状況になってしまった今でも、やはり自分にとっては最高の宝物だと思えた。
この小さな女の子にとっても、大切な友達と一緒にいれた時間というのが、本当はとても貴重でかけがえのないものなのだと気付く時が、いつかきっとやってくるだろう。
「うん――そうだってばよ。オレらだって黙ったまま自然と仲良くなれたわけじゃない。ちゃんと、伝えないと」
言い聞かせるというよりも願掛けでもするような気分でそう伝えると、ナルトは少女を励ますようにニッコリと笑ってみせた。
トモダチ以外の感情が混じってしまった自分達の関係は、もうこのままダメになるのかもしれない。
それでも彼女達の友情には、きっとまだまだ修復の余地はあるはずだ。
「オマエもおかっぱちゃんも、お互い一緒にいて楽しかったんだろ?あの子といるの好きなんだろ?」
「またそうやって言いくるめようったって」
「大丈夫、女の友情は恋愛が絡んでさえいなければ、簡単には壊れないらしいってばよ?」
背中を押すつもりでそう言うと、濡れて重たげになったスニーカーを律儀に運んでいた足が、唐突に止まった。
おや?と見下ろしたナルトに向かって、「……きらい。やっぱりあんたなんて、だいっきらい」という呪詛じみた言葉が擦り付けされる。

「なんだよ嫌いって。オレ今なんか言ったか?オマエなんでさっきからそんなにオレの事、目の敵みたいにすんだってば」
「だってあんた敵だもん。大っ嫌い」
「だからなんで敵なんだよ。オレってばオマエと会うのもしゃべんのも今日が初めてなんだぜ?」
「それが何よ、あたしはあんたの事もっと前から知ってんだから」
「は?なんだそりゃ、どーゆー意味だってばよ」
「どういう意味だっていいでしょ」
「よくねぇよ、そういやサスケの事もなんかいきなり『くん』付けで呼んだりしてるし。なんか妙に馴れ馴れしくねぇか?」
「――い、いいじゃない別に!アンタなんかにそんな事言わる筋合いないわよ」
「そうかもしんねーけどさ。でもほら、オレもサスケもオマエよりずっと年上なんだぜ、もうちょい違う呼び方するべきなんじゃね?サスケはそれ知ってんのか?」
「サスケくんは今関係ないでしょ!」
「関係なくねェよ。なんなんだよオマエ、オマエの方がよっぽどオレに突っかかってきてんだろが」
「……うるさいなァ偉そうに!そんなのこっちの勝手でしょ!仲直りしろとか名前で呼ぶなとか、説教臭いのよオジサン!」
「だッ…から、オジサンじゃねーって言ってんだろ!こンのガキンチョが!」

どんどん大きくなっていく声に「なんですって」と威嚇するような唸りをあげた少女は、大人げないまなざしで頭上から見下ろしてくるナルトをぎゅっと睨みつけると、ドスン!と植木鉢を下に置いた。決意したような顔ですうぅ、と大きく息を吸い込むと、一旦そこで静止する。
へ?と先の読めない行動を間抜けに見守っていると、突然その清楚な唇が大きく開いて、
「キャ―――ッッッ!」
という手加減なしの悲鳴が勢いよく飛び出した。
「エッ!?は?あ、おい、ちょっ…ちょっと!!」と慌てふためくナルトを尻目に、飛びすさるようにして少女は一歩退く。
ちらちらと集まってきた視線を確かめると、彼女は手のひらで口許を覆いながら恐るべき演技力で『怯えるいたいけな少女』をギャラリー達に見せつけた。コンビニ前でたむろっていた高校生達が、興味深そうにこちらを見てる。


「たすけて!このヒト変質者ですぅ―――!!」


そう叫ぶとそのままランドセルの肩紐に括りつけられている防犯ブザーを引きちぎるように取った少女は、垂れ下がった紐をぶつんと引ききるとそのままそれを叩きつけるようにナルトへ押し付けた。
ファン・ファン・ファン・ファン・ファン……!とサイレンのような警報音が、問答無用に受け取らされた手のひらの中でけたたましく鳴り響く。

(――ウソッ…え、なんで?マジで!?)

まっしろになった頭で呆然と立ち尽くしているナルトを放置して、少女は素早く植木鉢を持ち直すと脱兎のごとく傘から飛び出して商店街のある方に向かって走り出した。ええっ、ちょっ、待てって!と慌てて腕を伸ばしたがその手は虚しく空を掴むばかりで、少女はどんどん遠ざかっていく。
コンビニの前にいた高校生達が、ニヤニヤしながら撮る写メのふざけたシャッター音が聴こえた。
警報音を聞きつけたのだろう、店舗の奥から青と白の制服を着た中年の男性が、渋い顔をして出てくるのが見えた。



「だから、違うんですってば。オレは絶対何にもしてないですって!」
先程から繰り返し続けている科白を飽きることなくまた再現すると、うんうん、そうかそうかーといういい加減な相槌がこれまた飽きることなく返ってきた。
座らされたパイプ椅子がキシキシいう。やかましい音をたてて稼働している旧式のエアコンからは、煙草臭い風が送られてきて、正直涼しさよりも不快感の方が上回った。
「オレは雨宿りしてたあの子を傘に入れてあげてただけなの!ホントに!」
「ふーん。なんて子?名前は?」
「それは――…知りませんけど」
「名前も知らない子を家まで送り届けてあげようとしてたの?すっっっごい親切なんだなあキミ」
なまぬるいほほえみを浮かべた警官にうがったような目付きで言われ、ナルトは再び黙りこくった。鳴り止まない防犯ブザーを握らされたまま、コンビニの店員に取り押さえられて十分。駆けつけてきた警官に連れられて近くの交番にまで連行されて三十分。ここまで何度も濡れ衣だと説明しているのに、対応している若い警官はさっきから適当に聞き流すばかりで、いっこうに埒があかない。
「まーね。確かに見てた高校生の子達も、別に君がその子に変な行為をしたりはしてなかったとは言ってたけどね」
「でしょ!?ですよね!」
「でもねえ、その女の子本人がいない事にはねぇー」
やる気のない頬杖に古い傷痕の残る顔を乗せて、警官は間延びした声で結論を先延ばしにした。
君がやってないってのも、あながち嘘ではなさそうな気もするんだけどさあ。でも一応通報受けてるし、このまま帰っていいよって訳にもいかないんだよねー。
「大体さァ、なんで親切で傘入れてもらった子が、そんな警報器鳴らしたりすんのよ?やっぱ君は君でなんかやったんじゃないの?」
「知らないですってば!そりゃ確かにあの子、オレの事嫌いだって言ってましたけど」
「なんだ。じゃあやっぱり君、無理矢理一緒に歩いてたんだ?」
「ちが……!向こうが困ってたの、本当に!つーかアイツ最初傘だけ置いてけとか言ってたんだってばよ!?そっちの方がヒドくないスか」
「えー…それホントの話なの?あ、だから腹いせにイタズラしようとしたってこと?」
「だからなんもしてないんですってばァ!!」
再び話が堂々巡りになるのを感じ、ナルトはふかぶかとため息をついた。
参った――というか、いや、もう、マジでどうしよう。
身の潔白を証明しようにも件のあのおっかない女の子は家はおろか名前さえも聞かずじまいだったし、残された防犯ブザーにも名前は書いてなかった。幸い目撃者の誰もがナルトが少女に妙な行動をとったりするシーンは見てなかった(当然だ、そもそもそんな事一切してないのだから)し被害届が出されたわけでもないから、取り敢えずは今回は注意だけで帰らせてもらえるらしい事はこの警官から聞いたが、それでも一応身元引受人のような人物が必要らしい。
すぐに思い浮かんだのは同じアパートに住む高校時代の恩師であったが、頼みのカカシは間の悪い事に、泊りがけで夏休み明けに行く高校の修学旅行の下見で沖縄に行っているのだという。
学校の授業あんだろがァ、なんでこんな時にそんな遠くへ行くんだよお!と半分泣きたくなりながら、ナルトはうじうじと他に当たれそうな人物がいないか思いを巡らせた。シカマルは仕事中で電話が繋がらないし、悪友のキバは大学を卒業してから地方に移り住んでしまっている。ホッケーのメンバーの事もちょっと思い浮かんだが、なんとなく彼らにはこんな事で手を煩わせたくなかった。

「ただいまァ、町内会の方全部回ってきたよー」

気の抜けた感じの声に顔を向けると、ガラスとアルミで出来たガラリ戸を引いてまたひとり警官が入ってきた。「ああおかえり、お疲れさん」と言ったナルトの前にいる警官と、年は同じ位だろうか。三十は越えているだろうが、ざっくりと伸ばされた髪が若々しい。警察官にしては、随分とくだけた様相だ。
現れた警官はパイプ椅子でしょげている金髪の青年に目を留めると、しげしげとその青い目を覗きこんだ。ややあっとしてからああ、と納得したように頷くと、「君、あれじゃない?木の葉荘のさ」と訊いてくる。
「は?――ああ、はい、そうっスけど」
要領を得ないままに答えると「やっぱりな」と長髪の警官はニヤリと笑った。ほら、オレ、覚えてねぇかな?と謎掛けをするように言うと、制帽を脱いで顔をあらわにする。
「二年くらい前にさ、君んとこのアパートに空き巣が入っただろ?あそこに君いたよな?」
「――あーっ、そっかあん時の!」
やっと理解したナルトが明るい声をあげると、それを見た警官は制帽を壁に掛けながら可笑しそうに笑った。キャスター付きの椅子をコロコロと引っ張ってくると、背もたれの方を前に跨って、ナルトの座るデスクの横に付ける。確かにそのどこか飄々としたクールな佇まいには覚えがある。二年前、サスケの部屋に空き巣が入った時、通報に駆けつけてくれた若い警官だ。
「あれ、オマエ彼のこと知ってんの?」と尋ねた最初の警官に、「ああ、うん、ちょっとな」と目を細める。
「なに、どしたー?今度は君が捕まってんの?」
警官がのんびりとした口調で世間話でもするように尋ねてくると、ナルトが口を開く前に同僚の男が「いや、一応通報受けたんでここまで来てもらったんだけど、本人が言うには、どうも女の子とのケンカが拗れちゃっての事らしくて」と返事をした。なんだか語弊のありそうな表現だなあと思いつつ、まあ大筋は間違っていないかとナルトは口を噤む。
「なにそれ、女の子?彼女?」
「まさか!小学生のガキンチョだってばよ!なんにもしてないし、むしろなんでこんな目に合わされなきゃなんないのか全然解んねってば」
慌てて全力で否定をすると、へー、と実に他人事な感じの相槌が返ってきた。ぎぎぎぃ、と気の抜けた軋み方で、回転椅子が揺らされる。
「小学生の女の子相手にそんなムキになっちゃったんだ?」
「う……そ、そうです」
「まあでも、君ロリコンではなさそうだよなあ。二年前も、空き巣捕まえようと奮闘してくれてたみたいだし」
のんきに見定めるような言葉に「そう、そうでしょ!?」と縋るように飛びついた。良かった。この人はどうやらこちらの味方になってくれそうだ。やる気のなさそうな茶髪の後ろに、後光が差して見える。
「そんで、何にもしてないのになんでそんな困ってんの?身元引受人待ち?」
長髪の警官が、同僚の警官に向かい首を傾げて言った。
この人達も長い付き合いなのだろうか。漂う空気が随分と熟れている。
「ああ、それがさ、彼身内がいないらしくて。連絡してもすぐに来てくれそうな知り合いもいないって言うから、今どうしようかってさ」
そう言って渋顔を作った傷のある警官はふぅ、とだるそうにため息をつくと、「どうしよっか、君、とりあえず今夜ここに泊まっとく?カツ丼とか食べてみたい?」と面倒臭そうに訊いてきた。
食べたくないに決まってる、と心の中で叫びながら「いや、出来たら家に帰りたいッス」と答えようとすると、突然長髪の警官が「あ、なんだそうだ、君引受人になってくれそうな人いるじゃない」と明るい声をあげる。
「は?いませんよ?」と首をかしげると、警官は「いるいる、オレさっき会ってきたもん」とにっこり笑った。

「ほら、あん時空き巣の被害にあった、お友達の色男くん。あれ、君んちの大家さんだろ?」
「へ?」
「若いくせに、管理人もやってるんだよな。オレさっきまで、町内会の人達んとこに防犯のチラシ配りに回っててさ。管理人室にいたし、彼ならすぐ連絡つけられるんじゃない?管理人室の直通番号も、ちょうど今確認してきたとこだし」
「……へ?」

ちょっと待っててなー、と言いながら古い電話機のダイヤルを回す、長い指を呆然と眺めた。
覚悟の何も決まらないままに、受話器から微かに漏れ聴こえる『はい、木の葉荘です』という落ち着いた声だけが、鼓膜にじわじわ染み込んでくる。
あ、さっきはどーもォ**駅前交番の不知火です。
軽い挨拶をした警官は面白がるような視線でチラリとナルトの方を見ると、「あのですね、うちはさんに身元引受人になっていただきたいと言っている人が今うちにおりまして……」と、滔々としゃべりだした。