第十三話

マイナースポーツの月刊誌は自宅近くの小さな書店では扱いがなくて、バイト先近くにある都心の大きな老舗書店で、その日ナルトは長く愛読している専門誌の表紙を探していた。
お目当てのものを見つけ、整然と立ち並ぶ書架を縫いながらレジに向かうと、沢山あるのに一台しか稼働していないレジの前には、ささやかな行列ができていた。急がない足取りでその末端につくと、すぐ横にある文庫本の山に目が留まる。七月も間近だからなのだろう、夏休みを意識したのぼりが立てられた平台には、いわゆる「名作百選」というような、どこかとっつきにくい感じの書籍タイトルが並んでいる。
そんな文庫本達がつくりだす山岳ジオラマみたいな平台の一角に、ナルトは覚えのあるタイトルを見つけた。手にとってそっとカバーを外してみると、肌色の表装。薄っぺらな文庫本をひっくり返すと、ワンコインでもお釣りがくる値段だ。
「お次でお待ちのお客様、どうぞ」
いつの間にか回ってきていた順番に慌てて前を詰めると、ネイビーブルーのエプロンを着けた店員に大判の雑誌を差し出した。
一瞬怪しむような目付きをした店員が、控えめな口調で「そちらはどうされますか?」と尋ねてくる。言われてみてやっと、ナルトは自分が平台にあった文庫本を手にしたままだったのに気が付いた。外したカバーを気まずく戻しながら、「あ、じゃあ――これも」と台に置かれた大判雑誌の上に乗せる。当然だとでも言いたそうな顔で、店員がスリップを抜いた。カバーをかける手付きが、冗談みたいに速い。
書店のロゴが入ったビニール手提げに二冊の本を入れてもらい、人で蒸れる改札を通った。
帰宅ラッシュの始まる兆しが、気長な夕暮れに待たされているホームに、早くも漂いだしている。
不意にすれ違った女性と肩がぶつかると、わずかに礼をした彼女から澄んで甘い香りがこぼれた。マグノリアにも似たその香りに、あの白く大きな、悠然とした花を思い出す。
幾筋もの透明な雨粒が、線路を黒く濡らしている。
あの濃い緑に囲まれた古い屋敷にも、今日は同じ雨雲からの雨が降っているだろうか。

     ☆

『いつたいそいつはなんのざまだ
 どういふことかわかつてゐるか
 髪がくろくてながく
 しんとくちをつぐむ
 ただそれつきりのことだ』

(これってば、なぁんかやっぱ、サスケなんだよなあ……)
古めかしい語調で書かれた短い詩にしみじみと息をついたナルトは、傷の無いテーブルにここのところ持ち歩いている薄い文庫本を広げた。二階席の窓の向こうには、うすぼんやりとした雨雲が広がっている。
駅前に出来たばかりのコーヒーショップはまだ開店したての初々しさをたたえていて、どこもかしこもつやつやした真新しさだ。時間よりも早く来すぎたせいか、約束の待ち人はまだ現れない。
サスケの実家の本棚にあったものと同じ表紙を軽く撫でて、ナルトは両腕で頭を抱え込むようにしてテーブルに突っ伏した。あらためて読み直してみると、この詩人が書く想い人のイメージは、不思議な程サスケに重なっている。この詩集を愛読していたという彼の兄は、一体どんな思いでこれを読んでいたのだろう。どんな風に、弟の事を想っていたのだろう。
(相思相愛って、たぶんああいうのをいうんだろうな……)
『今も昔も、これから先もずっと。兄を誰よりも愛している』と言った彼に傷付かなかったわけではないけれど、同時にナルトはどこかホッとしていた。何も望まないだなんて大嘘だ。香燐の事を薄情な程軽視しているサスケに呆れながらも、そこには同時にひどく喜んでいる自分が確かにいた。
誰かに彼を奪われてしまうのを見る位なら、今はもういない人に取られている方がずっとマシだ。恋に疎い彼は、期待に満ちた目で迫ってくる女の子達の事もおざなりに扱うばかりで、これから先もたぶん余程の事がない限り相手にしないだろう。実質彼の一番近くにいれるのは、友人である自分だけだ。
(いやー、しっかしあン時のあの顔、あれはマジ反則だってばよ)
放り投げたジャケットを受け取った時に見せた、気を許した彼の表情が蘇ると、ナルトはどうにも頬が緩むのを止められなかった。何の気もなしに、ただ寒々しい半袖が気の毒でやっただけの行為だったが、不意打ちできたあの笑顔が忘れられない。
あれはすごかった。
おそろしくかわいかった。
羽織ったジャケットのオレンジがまた似合ってなくて、どうにも着せられてる感が否めないその雰囲気を、疑問も抱かずに受け入れている彼がたまらなかった。
ちょっと丸めた背中がいとおくて。ポケットに入れられた手のひらの熱を想像しては不埒な想像にドキドキした。隣で彼の上着らしきものを着ていた彼女に一瞬妬けたが、あれはそれを一気に吹っ飛ばす程のビジュアルだ。リンクの上でなかったら地団駄を踏んで叫び出したかったくらいだった。実際インターバルの最中、裏でちょっと悶えたが。
それに……と浅ましい期待をもって、ナルトはうずつく胸を抑えた。
ここのところ、何故だか更にサスケがかわいくなってきている。なんだかすごく安心して甘えてこられているような。もしかしたら、ちょっと位は彼もオレの事を好きでいてくれるんじゃないだろうか。このままいけばいつかは、お兄さんよりもオレを選んでくれるかもしれない。
携帯の着メロが短く流れた。シカマルからだ。送られてきたメールを開封すると、たった一行『ゴメン』と書いてあった。なんだよ気にする事ないってばよ、なんのことだかよくわかんねェけどと半分上の空の頭でメールを消去する。無防備なサスケの笑顔が離れない。
「あれ、漫画かと思ったら結構しっかりした本を読んでるじゃないか。意外だな」
不意に横にさした影に気が付いて慌てて立ち上がると、同じ位の目線になった男性がにっこりと笑顔になった。伸ばした真っ直ぐな髪が肩に掛かっている。
すこし痩せすぎな感はあるがどこまでも優しげなまなざしを弛ませて、男性は「待たせてごめん、傘を買ってたら遅くなってしまって」とはじめに詫びた。「こっちこそスンマセン、わざわざ来ていただいて」と腰を折るナルトの肩を叩くと、「いやいや、今更そんなかしこまらないで。まあ、かけようよ」と椅子を引く。
「昨日も思ったけど、やっぱりちょっと顔つきが変わったな。ミナトさんに随分と似てきたよ」
「そうすか?長門さんは全然変わらないですね。ホント老けないってば」
お世辞ではなく本気でそう感心すれば、「まあ、気楽な独り身だからね。自来也先生程ではないよ」と男性はおだやかな苦笑いをこぼした。男性――長門は、他界した父の旧友である。大学まで選手として所属していたチームの、後輩にあたる。
昨日の試合後に突然声を掛けられたナルトは、この思いもよらぬ来訪者に少々驚いた。大学卒業と共に選手を辞めた父と違い、長門は今でもホッケーに関わっている。
しかし北海道にあるクラブチームの運営に携わっている彼は、普段はそのチームの監督をしているかつての恩師と共に、そのクラブチームのホームがある北海道で暮らしているはずだった。
自来也というのがその恩師の名前であったが、父や長門の所属していた大学チームで長らくコーチをしていたというその豪放快活なじいさんの元へ、ナルトは幼い頃何度か遊びに行った事がある。年に似合わず大柄で太い声を響かせて笑うその老人は、容赦なく飛びついてくるナルトをものともせず全力で遊んでくれる、年寄りの癖に妙に子供じみた不思議な人だった。
いつもそんな自来也に付き人のように寄り添っている長門は、ナルトの知る限り滅多にひとりで上京してくることはない。
それもリーグ戦でもないこんな練習試合に、わざわざ北海道から観戦しに来てくれるなんてかつてない事だった。
「いい試合だったね、昨日。大学を辞めたとか色々聞いたりして心配したりもしたけど、膝の具合も随分と良さそうだ」
「おかげさまで。――…えーと、その節は、大変ご心配おかけしました」
ふふふ、と意味深な感じで笑った長門は、セルフで持ってきたコーヒーの取手をまわすと、ゆったりとした仕草で持ち上げちょっと口をつけた。熱い湯気に、細面が半分隠れる。
二年前、あれこれ詮索されるのが嫌で誰にも相談せずに全部決めてしまった自分を、ナルトは後ろめたさ混じりにぼんやり思い出していた。考えてみれば、両親以外にも遠くできちんと思いを懸けてくれていた人達は確かにいたのだ。今更ながらに自分の不義理さが身につまされて、ナルトはバツの悪い思いで肩を縮こませた。
「……急に来たからびっくりしたってば」
「うん、昨日は普段のナルトの様子が見たかったからね。変に意識して、いつもと違う感じになってしまったら困るなと思って」
はあ、と判然としない頷きと共に首を傾げると、マグカップを置いた長門はそれを見て可笑しそうに目を細めた。それからちょっと背中を伸ばして、真面目になった視線をまっすぐに合わせてくる。

「ナルト」
「はい」
「あんまり時間もないから、単刀直入に言うよ。オレと一緒に、北海道に来ないか?」
「……はい?」

聞き返した間抜け面に気分良く頷いて、長門は再びマグを手にした。痩せた躰に不釣り合いな程、骨ばった手ばかりが大きい。ひとくち飲んで口を湿らせると、長門は「前シーズンのうちの成績があまりはかばかしくなかったのは知ってるよね?」と率直に訊いてきた。
「あ…――はい。残念、でしたよね……」
「で、自来也先生も色々と考えられてね。チームにテコ入れするためにも、新しい戦力を補充しようと言われて。それで、久しぶりにうちで、トライアウト(入団テスト)を開催することになったんだ」
そこまで言うと、長門はかすかに身を乗り出した。昨日のナルトの試合、すごく興味深かったよと囁く。
「昔のミナトさんのプレーにもちょっと似てるけど、きっと君はそれ以上の可能性がある。伸びしろはまだまだ残っているように見えたよ。できることならば是非、その可能性で停滞してきているうちのチームに風穴を開けてもらいたいと思った。これはオレだけの見解じゃなくて、昨日の試合の動画を見た自来也先生の意見でもある」
「……それって」
「うん、つまり君をスカウトしに来たんだ、オレは」
と言っても、まずは正式な入団テストを受けてもらわなきゃいけないけどね、とぽかんとしたナルトに釘を刺すように、長門は条件を幾つか言った。
推薦枠として一次試験の書類選考は免除されるけれど、二次の実技テストからは他の候補者と並んで受験して、他の運営メンバーからもきちんと認めてもらう事。入団したらチームの母体である企業に入社し、練習時以外はそこで勤務する事。一応、一年ごとに更新のされる契約社員扱いになる事。衣食住の問題は寮に入るか、もし嫌でなければ自分と自来也の住まいに間借りしてくれてもいい。
「あと年棒はちょっと正式には出せないんだけど、たぶん会社で働いた分の給料は出るから普通に食っていけるくらいには……」
「――あ、あのっ」
よどみなく羅列されていく条件に口を挟むと、それまでにこにこしていた長門は不思議そうな顔をして言葉を切った。
それってやっぱ、そっちに住むって事ですよね?とこわごわ確かめると、「当たり前だろう?」と事も無げに答えが戻ってくる。
「北海道って、海、渡りますよね?遠いですよね?」
「そうだね。本州じゃないから」
「……ここから通うとか」
「まさか。本気でそんな事できると思ってるの?」
何?脚の事が気になってる?と問われふるふると首を横に振ると、じゃあどうしたの、何が引っかかってんの?と腑に落ちないような声が投げかけられた。
膝の方の病院はもうそうしょっちゅう通う程ではなくなってきているから、たぶん向こうに住んでも問題ないだろう。
そんなことよりも引っかかるのは――…
「ああ、もしかして彼女とか?」
ストレートな指摘に「いやいやいやいや!」と大袈裟なほど首を振ると、それを見た長門は冷やかすように目を眇め、「じゃあ、好きな人か」と笑った。にわかに出た汗がたらりと顎を伝う。
「ナルトだったら一も二もなくすぐに飛びついてくる話だと思ったのに、即決できないなんて。余程好きな子なんだね」
「いやその――…オレの、一方通行なんスけど」
「うーん、まあまだ入団が決まったわけじゃないけど、本決まりになったら告白してみるとか」
「――それは無理!」
「……ダメだったらダメだったでまあいいじゃない、北海道は綺麗な子多いよ?」
自来也先生なんてお好みの色白美人が多くて最高だって毎日喜んでるけど、とそこだけはちょっとげんなりした様子の長門は、疲れたほほえみで持ってきた鞄から書類封筒をひとつ出すと、座ったまままだ冷や汗をかいているナルトにそれを差し出した。
「一応これが、トライアウトのエントリーシート。詳しい事もここに大体書いてあるから、受ける気持ちが固まったら連絡してくれるかい?一次の書類選考を免除してもらうための推薦状を用意するよ」
オレの携帯、知ってたよね?と確かめながら立ち上がった長門に、慌てて自分も腰を上げた。がたたん、と引きずった木の椅子が、湿り気のある音で床をひっかく。
立った拍子に足元に立たせていた大きな紙袋がばたりと倒れ、中のゴミ袋が少し外へ飛び出した。昨日着ていたユニフォームも放り込まれたそれに、くっきりとした瞳が「えっ、なにそれ捨てちゃうの?」と訝しむ。
「あ、いえ、ずっと天気悪くて洗濯物溜まっちゃったから、これからコインランドリー寄って行こうかと思って。雨で濡れないように入れてるだけッス」
「なんだ、そうか」
「本当はここに来る前にも寄ってみたんだけど、洗濯機が一台もあいてなくて」
「ああ、こっちまだ梅雨明けしてないんだっけ。通りで天気予報見ても雨ばっかなわけだ」
向こうには梅雨がないからつい忘れちゃうんだよねと言いながら、長門はこちらで買ったらしいビニール傘を手に取った。「いつまでこっちに?」と尋ねると、「明後日までかな。せっかくだから何人か顔を見ていきたい人もいるし」と柔和な顔が嬉しげに答える。
オレも一緒に出ます、と言ってテーブルの上の文庫本を尻ポケットに突っ込んだナルトを待って、筋ばった手がさり気なく伝票をさらっていった。自然な流れで先を行く、細い体躯を追い掛ける。

「自分でいうのもなんだけど……絶対、悪い話じゃないと思うよ。実際」

恐縮しながらの会計を終え、店先で薄れる気配のない雨雲を見上げながら傘を開こうとすると、不意に強く碧眼を見据えながら長門が言った。言われた言葉が、胸にずしんと響いて声が出ない。
「それにちょっと今のとこ、外野がうるさくなりすぎて居心地悪くなってきてるんじゃないの?」苦笑いに言い当てられると、ますます舌が動かなくなった。
「昔からずっと、君の夢はプロになる事だったんだろう?今でも覚えてるよ、小さかったナルトが自来也先生の前で、自信満々にそう言ってたの」
「そう……でしたっけ」
「選ぶのは君だからこれ以上はもう何も言わないけど、でも、よく考えて。何が一番自分にとって大切なものなのか。あと、プロになれる機会ってのは、そこらへんにいくらでも転がってるもんじゃないってこともね」
じゃあね、と開かれた透明なビニール傘の下で、線の細い横顔が暗示かけるようにほほえんだ。細い足がアメンボのように水たまりを避けながら、駅の方へ歩いていく。
雑踏の中見えなくなったビニール傘にひとつ息をついて、ナルトは持ってきていたジャンプ傘の突起を押した。ぼん、と張った音がして、来る時浴びた雨粒が勢いよくはじけ飛ぶ。
一歩前に出ると「ぱたたたたっ」と雨垂れがナイロンの生地を打つ気配が、鼓膜をやさしく揺さぶった。
手にした紙袋はあっという間に濡れだして、見る間に黒ずんだ色に変わっていった。



「……あ」
「……あ?」
ぱんぱんに膨らんだゴミ袋入りの紙袋を片手に傘を差して歩いて行くと、駅前の繁華街から程よく離れたコインランドリー前で、同じようないで立ちのお仲間に遭遇した。色気も味気もない黒い傘がちょっとずれて、なんだかだるそうな黒の双眸が上がる。サスケだ。
「なんだ、ナルトか」
出された声だけですぐにわかった。――これは相当、機嫌が悪い。険悪な目付きからは、昨日のあのかわいらしさは微塵もうかがえない。
肩から下げたビニール素材のランドリーバッグは大きく張り出していて、反対側の手にぶら下がったコンビニのレジ袋とあわせるとなんだかバランスの悪いやじろべえみたいだった。白いレジ袋から、ミネラルウォーターのキャップが2本突き出ている。
「なんだってなんだよ、っつーかオマエ、なんか酒くさくね?」
訝しむと、「うるせー…ちょ、静かにしろ。まだ頭いてーんだ」という覇気のない悪態が返ってきた。
「こんな時間まで酒くさいって、一体どんだけ飲んだんだよ。昨日のあの後か?シカマルもいたんだろ、ちゃんと帰ってこれたのか?」
「うっせ…ぽんぽん訊いてくんな。外では飲んでねえよ。こんなんになったのは、家に帰ってからだ」
「はあ?なに、ひとりで飲んでたの?」
呼んでくれたらよかったのに、と覇気のない背中を追いかけると、ガガーッとガタのきた機械音と共に自動ドアが開き、轟音を立てて回転する壁一面のランドリーマシンに出迎えられた。先にサスケが中に入っていき、持っていたランドリーバッグをプラスティック製の椅子の上にどすんと置く。
それを見たナルトも隣に同じようにゴミ袋を置くと、色とりどりの洗濯物が回る覗き窓を見渡した。同じような事を考える輩は多いらしく、稼働していない機械は端の一台だけのようだ。
「……あいてんのはあれだけか」
そう言ったかと思うと迷わず先に使おうとするサスケに、慌てて待ったをかけた。洗濯は不可避事項だし、他のランドリーマシンはいつ空くかわからない。しかもこちとら本日二度目のご来店なのだ。不機嫌なのはわかるが、それと手前勝手さは別問題だろう。「来たタイミングは一緒だろ!」と不服を唱えると、仏頂面が黙って右手を出した。
「?」
「おら、手ェ出せ」
言われるがまま拳を出すと、ちょっと涸れた喉が「じゃーん・けーん」とかったるそうに詠じ出した。なんとなく勢いで「ほい!」と出してしまったナルトを見て、サスケの薄い唇がにやっと笑う。
「――お先」
「くっ…そおおお、なんだよソレ!」
悠々とランドリーバッグの中身をドラムに流し込むサスケを、ナルトは恨めしげに睨んだ。前言撤回。やっぱこいつかわいくねェ。
どういうわけか、いつだってサスケは異様にジャンケンに強いのだった。たぶん自分でもわかってて今もジャンケンを仕掛けてきたのだ。そういえば先日レンタカー屋で、借りる車種を選ぶ際にも意見が割れてジャンケンになったが、その時もあっさりとナルトは負けた。なんだかこちらが出すものを先読みされているようだ。後出ししている様子もないのに、どうしてそんな事ができるのだろう。実はなにか、特殊な瞳術でも持っているとか?
訝しむナルトを余所に先取りされたランドリーマシンにはちゃりん、ちゃりんとコインが投下され、起き抜けの呻きみたいな声をあげながらドラムが動きだした。見事なほど彩りの少ない洗濯物が、ゆっくりと回りだす。
「サスケの服って、ホント色味ないよなー」
黒・黒・白・黒・紺・まれにベージュ。中には昨日来てた服もある。なんとなくじっくりと覗き窓を観察しながらその単純な色調に感想を述べると、疲れたように椅子に座り込んだサスケが、片肘をつきながらフン、と鼻を鳴らした。ほっとけ、という意味だろう。
「ファッションに冒険がないってば」
「るせェ、いんだよ別に。それで不都合を感じた事はない」
ああそうですよね、イケメンは何着ててもイケメンですもんねと意趣返しのつもりでジャンケンの腹いせをすると、ぐうっとその美形が黙りこくった。
……あれ?意外な反応。
いつもならすぐに悪態で返してくるのに。
「サスケ?」
「……俺だって好きでこんな顔に生まれた訳じゃねェよ」
「?……なんかあったの?」
ウンウン回るランドリーマシンの前でしゃがみこんだまま振り返ると、憮然としたサスケがあったっつーか、なかったつーか、といつになく半端な返し方をしてきた。頬杖を付いた手がそのまま、なんだか締まりのない口許を覆っている。
その時自動ドアが再び開いて、猫背にダボダボのズボンを腰に引っ掛けた男がだるそうに入ってきた。タンクトップから出た二の腕に、黒いタトゥーが刻まれている。
ナルト達が来る前には終わっていたのだろう、がさがさと持参した袋に完全に停止したランドリーマシンから面倒臭そうに乾燥済の洗濯物を移し終えると、つっかけてきたサンダルをペタンペタン言わせながら男は出て行った。サンダルの歩いたあとに、引きずられたような濡れた足跡が残る。
「……あいたぞ」
素っ気なく促されて、ナルトは「わかってるってばよ!」と言いながら持ってきたゴミ袋から微妙に湿った洗濯物を丸ごとドラムに放り込んだ。洗剤を投入し、コインを落とし込むと唸りを上げてドラムが回転し始める。
回転するドラムを眺めるフリをしながら、いつもよりもあちこちはねた黒髪を盗み見た。不機嫌混じりの横顔は、絶対になにかあったのを匂わせている。
サスケは自分で自分を感情の出にくい奴だと思っているみたいだけど、ナルトから言わせればそれは大きな間違いだ。よく見ていれば、彼がどんな気分でいるかはすぐわかる。むしろ感情がもろに表に出てしまうタイプではないだろうか。我慢が利かない、とも言えるが。
「何があったの?」
「なんもねェよ」
「聞かせてよ」
「だからなんでもないっつってんだろ。――お前、洗濯機回したんならどっか行って時間潰してこいよ。何もここで見張ってなくてもテメエの趣味の悪いパンツなんて誰も盗りゃしねえよ」
しつこく食い下がると感じの悪い雑言で仕返しされて、益々聞き出すための闘争心に火が付いた。「なんだよそれ、なんで教えてくんねえの」と口を尖らせるが、「教える必要なんてないからだ」とにべもない。
「お前だってテレビ出たのとか俺に全然言わなかったじゃねェか。それにあんな、ファンクラブみたいなのが出来てる事も」
淡々と言い返されると、今度はこちらが言葉に詰まる番だった。
自分でもあんなおおごとになるなんて想定外の事だったのだ。
確かに数ヶ月前にチームの先輩が深夜のバラエティ番組に出ることになって、その時に一瞬だけ彼の家族がホームビデオで撮ったチームの練習風景のようなものがテレビに映った。その後その番組を見たという数人の女の子からファンになったと言われ、すごく嬉しかったのも事実だ。
だけどそれがいつの間にか随分と広がっていて、気がついたらあんな団体様のような姿になってしまっていた。まあいいじゃないの、とにかく応援してくれてんだからさと言って今まで通り接してくれるチームメイトが殆どだが、実際まだまだ新入りのナルトばかりが注目される事に、面白くない思いのメンバーもいないわけではない。だからわざわざそれを自慢げに、吹聴するべきでもないと思ったのだ。
「なんで隠してた」
「隠してたわけじゃ……」
「確かに俺なんかが見に行けなくても、あんだけいりゃあ応援は充分だよな。よかったじゃねェか」
口許を歪めて皮肉ったサスケはちゃちな造りのプラスチック椅子に深く座りなおすと、ひとつ掠れた咳をした。アルコールで焼けた喉が辛そうだ。そして嘘みたいだけれど、彼はあのファンの女の子達の存在が面白くないらしかった。無表情に限りなく近いその表面の下に、意固地になっている彼を感じる。
え?これってもしかして、妬いてる……んじゃ、ないだろうか?
待て待て、あのサスケさんですよ?と慌てて期待に蓋をかける。しかしそれでも吹きこぼれたうれしさが、ぼたぼたと下に広がっていった。意地っ張りな彼が見せるひねくれた独占欲が、かわいくて仕方ない。
「なんだその顔は。にやにやしてんじゃねえよ」
「……してません」
「してる」
「してないってば」
苛立ちを隠さないサスケは憮然とすると、かすかに尖った口先を手のひらで隠すようにして横を向いた。
長い足が組み直される。……しまった、火に油を注いだ予感。この場合、リカバリーは早目にが鉄則だ。
「えっと――テレビの事は、出たのは他の人で本当に一瞬だけ練習してんのが映っただけで。オレは関わってなかったし、実際そんなのが出るってのも知らなかったんだってば、マジで。同じチーム内でも、そんなに特別親しい人じゃなかったからさ。あの子達の方は、なんていうか……同じチームの中でも、あんまりいい思いで見てる人ばっかでもなくて」
ちら、と鉄面皮の横顔を盗み見る。
だんまり。まだまだ押しが足りないようだ。
「だから、あんまり自分からは言いたくなかったというか」
「……」
「自分で言いふらすようなことでもないかな、なんて」
「……」
効果なし。――そっか、順番を間違えた。

「――試合。見に来てくれて、ありがとうな」

丁寧に、心を込めて素直な思いを伝えれば、頑なになっていた頬がぴくりとするのがわかった。そのまま畳み掛けるように、「うれしかった」と重ねる。
「サスケが見ててくれたから、なんかいつもよりもいいプレーが出来た気がする。やっぱオマエ、勝利の女神かも」
「……だから、男だって言ってんだろ」
ち、と舌をうちながらも僅かにほころびをみせてきた声の端に笑顔を見せると、ようやく立ち込めていた不穏な空気に晴れ間が見えてきた。
よし、作戦成功。やっぱかわいいなあ、コイツ。
「なんかやな事でも、あった?」
機を逃さず一日掛けてもまだ残っている酒気に察しをつけると、再び忌々しそうにちっと舌が打たれた。アタリだ。でもまだ話す気にはなれないらしい。
「ナルト」
「ん?」
「お前さ……好きなやつ、いるか?」
話が唐突過ぎて、しゃがみこんでいた体が思わずぐらりと前に揺れた。ごん、とくぐもった音をたてて、ドラムの扉に頭を打つ。
「すッ――!?」
「声がでけェ、頭に響く」
「――きなやつ、ですか?」
なんで敬語?と変にかしこまった口調のナルトに胡散臭そうな目を向けながら、サスケが小さく鼻を鳴らした。コインランドリーの無駄に煌々とした灯りが、整った顔を浮き上げる。変に顔色が優れない。
え、ええと…それは、なんで?
注意深く訊き返すと、薄い唇が覆った手のひらの下で「昨日、さ」と不明瞭に動いた。実に彼らしくない動きだ。

「試合の後、そのまま4人でメシ食いに行って」
「うん」
「土曜だしちょっと酒も飲んで」
「うん」
「まあ適当なとこで店を出たら、いつの間にかシカマル達が消えてたから、香燐と一緒に駅まで歩いて」
「うん」
「あいつとは乗る方向反対だから、改札入ったとこで別れようとして」
「うん」
「いつもどおりそのまま帰ろうとしたら引き留められて」
「…うん?」
「キスしてくれって言われた」
「――だっ…」

ダメだってばよォそれはァァァ!
……と叫びたかったが、渾身の力でナルトはそれをねじ伏せた。相変わらずサスケは、プラスティックの肘掛けに頬杖をついて、ぼんやりと横を向いている。
「しっ…――した、の?」
食い入る様な視線になるのを必死で抑え、できるだけ自然な口調になるよう努力した。それでも声が震える。それに気付いているのかいないのか、青白い横顔は動かないままだ。

「してない」
「――そ、」
「けど、あっちからしてきた」

――さ、されちゃったのかよォォサスケちゃんよぉォォ!
不可抗力の涙がじわじわ滲みだし、頭がくらくらしてきた。油断していた自分が恨めしい。
ああオレのバカ暢気に祝勝会なんて行ってんじゃねえよ!としゃがんだ膝の間に顔を埋めてしまおうとしたその時、
「……から、よけた」
という付け足しがぽろりともたらされた。へ?よけた?

「……よけたの?」
「ん」
「どーやって?」
「どーやってって――こう、ちょっと、下がって」

頬杖の腕を外して前を向いたサスケは、椅子に座ったままでほんのちょっと体を後ろに引いた。前から迫ってきた彼女を、バックして避けた、ということなのだろうか。いやしかし、それって。
「彼女……泣かなかった?」
おずおずと訊くと、斜め下を見ていたサスケが「泣いては、いなかった」ともそもそ言った。「……でもかなり、泣きそうだった」という言葉に(だろうなァ)と思う。
「シカマルにさ。俺は無神経に香燐の事、傷つけてるって言われて。んで、昨日はちょっと気をつけてみたんだけど。あいつ結構、いいやつ、だし」
「……うん」
観客席で、サスケの横に座っていた彼女を思い出した。
ぼんやりとしたその様子からして、どう考えてもスポーツ観戦は、彼女の好みではないはずだ。仲のいいシカマルを連れ出したのも含め、きっとサスケが出来るだけ楽しめるようにと、必死で考えた末のデートプランだったのだろう。彼女は彼女なりに一生懸命なのだ。
「メシ食ってる間も、あいつのしゃべってんのとかちゃんと聞いてたし、腕組んだりとかすんのはまあできたんだけどよ――でも」
「でも?」
「なんかキス、とか、言われたら。体が勝手に、動いちまったというか」
「勝手に?」
「……本能による危機回避能力、的な」
「ほ、本能?」
うん、と頷いた頭に、図らずも「ひっでェ」と声が漏れた。
ちょっと優しくしてくれるようになったのかと舞い上がって仕掛けたところで、その仕打ち。しかもたぶん、公衆の面前だったのだろう。男にキスを後ずさりされた女。・・・敵ながら、同情を禁じえない。
「やっぱそうか」とうなだれたサスケはそれでもなんだかいつになくいじらしく見えて、ひどい事すんなぁと思いつつもついつい胸がきゅんとした。これも惚れた弱みというやつだろうか。
「付き合ったりとかはさ、別にちゃんと好きな奴でなくてもそれなりにできンだけど、やっぱキスとかヤったりとかはなー…」
「――え?ちょっ、待った!」
押し寄せてきた予感に、ナルトはらしくない程に歯切れの悪い言い訳を続けようとしたサスケの言葉を切った。「サスケ、今までちゃんと好きになって付き合った子はいないんじゃねーの?」と確かめると、無言の肯定が返ってくる。
「まさかとは、思いますが――」
「なんだよ」
「サスケってもしかして……キス、さえ、したことない?」
たっぷり十秒以上間をあけてから落とされたキレのない舌打ちを、信じられない思いで聞き届けた。驚くナルトを心底うっとおしそうな視線で流し、またサスケが舌打ちをする。さっきからもう何度舌打ちしてるだろう。いやいやそんなことは今どうでもいい。
「嘘だろ、その顔とそのモテで!?」
「悪かったな」
「イケメンの無駄遣いだ……!」
「うるせェよ」
オビトよりはマシだ、というコメントに、もうひとりの惜しい美形が脳裏に浮かんだ。一途すぎるあのハンサムも、もしや自分の初恋にずっと操を捧げているのだろうか……だ、だいじょうぶだろうかうちは一族。真面目すぎてなんだか心配だ。
そんな思いの裏側で、ざあっと血の気が引いていくのも感じた。というかあれだ、これってヤバい。その栄えあるファーストキス、ついでになし崩し的にセカンドキスまでもが無断で奪われていた事を、万が一にでも彼が知ってしまったら。……想像するだに恐ろしい。骨の欠片ひとつ残さず、怒りの黒い劫火で燃やし尽くされるかもしれない。
――キスとか、アレ、とかさ。
ぽつぽつと千切り落とすように話し出したサスケは、うなだれた頭をちょっと揺らして、目にかかった前髪を邪魔そうに払った。ビイーッ、というブザー音がして、目の前のランドリーマシンの回転が止まる。コココココ…という掠れるような音がして、排水らしきものが始まった。
「そういう男の欲望絡みの事さえしなければ、まあ付き合ってても別に傷付けるような事はないと思ってたんだ。一回付き合ってみてつまんなければ、相手も諦めるだろうって。でも」
「……でも?」
打ち切りのような形で黙ってしまったサスケは、そのまましばらく言葉を探していたようだったがやがてそれも諦めたのか、ひっそりと口を噤んだ。放心したような黒い瞳が、壁際で乱回転している色とりどりの渦巻きを見渡す。
その沈黙に付き合い続けていたナルトが、流石にそろそろ何か言ったほうがいいだろうかと思いだした頃、出し抜けにサスケが「昨日、シカマルがさ」と言い出した。話がとぶなァと思う。さっきから話題が始まっては半端に終わっていて、支離滅裂だ。優秀なオツムも二日酔いの最中は、普段通りの仕事ができないのだろうか。
「シカマル?」
「あいつが、楽しくなくてもどうしても一緒にいたいってのが、恋ってもんだって言ってて」
「……なるほど」
「お前には一緒にいるだけで嬉しい相手っていないのかよって訊かれた」
へ、へえ?と曖昧な感じで相槌を打つと、それを気にも留めない風でサスケは変わらず視線を壁に泳がせていた。綺麗な横顔。綺麗だけど、なんだか現実感のない横顔。
「えっと……いた、の?」
「いた。兄さんだと思った」
「ああ――そう…」
変に期待してしまった胸が急速にしぼむのを感じ、ナルトは再び新しい水が注入され始めたドラムを覗きこんだ。実に想定内の答えだ。想定内ではあるが、実際聞くとなるとやはり厳しいものがある。
またしばらく黙ってしまったサスケに、「そんで?彼女、それからどうしたの?」とため息ながらに話を戻すと、思い出したかのようにサスケが「ああ、」と言った。
「『サイテー』っつって、帰ってった」
独白のような回答が、白けて劣化した安っぽいタイルの床に落ちる。

「あぁ……兄さんに会いてェな……」

唐突な訴えと共に、がたん、と回転していたドラムが急停止した。店の外に張り出した幌のような日よけに、バラバラと雨粒が当たる音がする。
「イタチ兄ちゃん?」と尋ねると、甘えたような声が「ん、」と答えた。
「家帰ってもなんとなく眠れなくてさ――ちょっと酒でも飲みたい気分だったけど、シカマルは彼女といるだろうしお前はチームの奴らと飲んでるだろうし。んで、しょうがねえからひとりで家で飲んでたら、スゲェ兄さんに会いたくなって」
「うん」
「スゲェ……スゲェ会いたくて」
「そっか」
「でも会えないんだなと思ったら、なんかどうしようもない気分になってきて」
「……ん」
「――久々に、ちょっと、キツかった」
はは、と湿った感じの笑い声が、ゴロゴロと再び動き出したドラムの音に巻き込まれた。
青白い頬が、明るすぎる蛍光灯の光で痛々しく照らされている。
力なく開いた彼の褪せた唇を見つめながら、ナルトは切ない思いを断ち切るように理解した。どれだけ親しくなろうとも、弱さを見せてもらえても、もういない兄の存在と比べたら自分の価値なんて酷くちっぽけなものなのだ。爪の先、髪の一本一本に至るまで、確かに彼は今でも兄の事を愛しているのだった。太刀打ちなんて、最初からできるわけがなかったのだ。欠けたところは欠けたままで。そこを誰かに埋めて欲しいだなんて、一度だって彼は望んだ事はないはずだ。
(……でも、もし、ほんの少しでも)
オレンジのダウンジャケットに包まれた、無防備な笑顔を思いだした。心の内側に入る事はできなくても、現実世界で彼の一番近くにいる事を、もしも自分がゆるしてもらえているならば。
そんな彼を時折襲う癒えない痛みに、ゆるい吐息を吹きかけてやる事くらいはできるだろうか。
冷たい唇を温めることはできなくても、隣に座って馬鹿話でもして、彼の笑顔をつくりだす事くらいはできるだろうか。

「――『なんべんさびしくないと云つたとこで またさびしくなるのはきまつてゐる』」

不安定な音律で諳んじた一篇に、顔をあげたサスケは「は?」と訳のわからない顔できょとんとした。後を詠じようとしたが続きがあやふやで、慌てて尻ポケットから出した剥き出しの文庫本を取り出す。
格好つかないけれど仕方ない。きっと彼の兄だったらこの続きもすらすらと暗誦できるのだろうなと思えばちょっと情けなくもあったが、自分にはこれが精一杯だった。
予想外の行動に、まっくろな瞳が呆気にとられたように見つめている。


『なんべんさびしくないと云ったとこで
 またさびしくなるのはきまつてゐる
 けれどもここはこれでいいのだ
 すべてさびしさと悲傷とを焚いて
 ひとは透明な軌道をすすむ
 ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
 雲はますます縮れてひかり
 わたくしはかつきりみちをまがる』


「……お前それ、自分で買ったの?」
頼りなく読み上げた一節がうち消えると、おもむろにちょっと驚いたようなサスケが目を見張った。気恥かしさに耐えながら、「ええと――このあいだサスケんちで貸してもらった時、途中で寝ちゃって読み終われなかったから」と言い訳すると、「なんだ、本当に読んでたのかよ」とこの前先に寝入ってしまった彼が、意外そうに呟く。
貸して、と言って薄い手が差し伸べられた。薄っぺらな文庫本が少し自分の尻の形にたわんでしまったのを気まずく思いながら渡すと、長い指がぱらぱらと丁寧にページをめくる。
「新編て書いてあるから昔イタチさんの買った時とたぶん中身全く同じではないんだけど」と取り繕うように言って頭を掻くと、「ふーん」とそんな事どうでもいいとでもいうような返事が返ってきた。うつむいた横顔が、しな垂れた髪に隠される。
「あのさ――そういう、時はさ」
オレのこと、呼んでよ。
祈るように、せがむように。心からの願いを込めた声に、ページを繰る指がぴたりと止まった。下を向いた頭に、しろじろとしたうなじが襟足からのぞく。
どこにいても、誰といても、絶対に駆けつけるから。
ひとりでヤケ酒なんて暗い事すんなって。どうせなら一緒に飲もう?兄ちゃんの話、オレに聞かせてよ。オレもお前の大事な人の話、聞きたいってば。
「お前……なんでいっつも俺なんかの事で、そんな必死になれるんだ?」
熱意溢れる説得に半ば呆れたようにそう言ったサスケは、それでもどこかほだされたような穏やかさに包まれ始めていた。暗闇色の瞳にほのかな光が戻ってきている。
……よかった、これでいい。
オレのするべき事は、やっぱりこれであっている。

「だって――オレってば、オマエの、友達だから」

そっと囁いた告白に、戸惑いながらもゆっくりとほほえむサスケを見た。
まるでそそのかしているかのような罪悪感が、ほんの少し胸を刺す。
ランドリーマシンがごうごうと熱風を巻き起こしている。ビニールの日よけを叩く雨の音を聴きながら、戻された文庫本を再び尻のポケットに仕舞った。端のところがちょっと折れた気配がしたが、直さずそのまま奥に押し込む。
「――ところで、シカマルの彼女の新人研修って、どんなんだったんだ?」
弱気だったさっきまでを打ち消すように、ニヤリといつもの笑いを拵えながら、おどけるようにサスケが訊いてきた。大袈裟な程顔をしかめてみせると、ほのじろかった顔に笑いがさす。
大きく手を振りながら「……あぁ、もーあの人ほんとおっかねェ人でさァ!」としゃべりだしたナルトに、黒瑪瑙の瞳が向けられた。いつの間にか気の抜けたように伸ばされた脚が、不自然な程ぴかぴかした床にうすぼんやりとした影を落とす。
収まりのつかない雨音が、明るすぎるコインランドリーをすっぽりと包んでいる。
その中でしんから安心したように瞳をゆるませている彼が、ただ狂おしいほどいとしかった。



同じ位のタイミングで止まったランドリーマシンから熱々の洗濯物を大騒ぎしながら取り出して、アパートまでの帰り道をサスケと並んで歩いた。抜けてきた商店街にある花屋の店先で、気の早い向日葵がもう出されている。もうじきに七月だ。本格的な夏がくる。
たどり着いたアパートの前で、「木の葉荘」の表札の隣に貼られたびしょ濡れの張り紙が目に留まった。「そういえば、サスケんちの横が空くんだな」と先日から気になっていた事を告げて、「次どんな人くんのかなー、ここのアパートあんま出入りないからちょっと楽しみだってばよ!」とニシシと笑う。
「……お前、隣に越してくるか?」
しばらく考えていたサスケに落ち着いた目で問われて、ナルトは急速に心拍数が上がるのを感じた。
「へ?同じアパート内で?」と狼狽えを隠しながらサスケに問い返すと、「そう。んで、お前んとこを空き部屋にして、募集をかける」と返事がくる。
「え……なんで?」
一風変わった申し出にそろそろと尋ねると、ちょっと目を逸したサスケが「なんでって――もし隣にウルサイ奴とかが入居したら嫌だし。どうせなら気兼ねなくいられる奴がいてくれた方が、生活しやすいだろ」と素っ気なく言った。そういうもんかなと思いつつも素直に嬉しくて、「そっか!なら、お隣が引っ越したらすぐにそっち移るってば!」と笑って答える。
「へへへ、オレ本当はずっと二階に住みたいと思ってたんだ」
「そうなのか?」
「だってGは地面に近い方が出やすいんだぜ。高層階になる程出現率が下がるんだってばよ」
「……そーか。そりゃよかったな」
共同玄関の軒先でぐっしょり濡れた傘を畳み、滴る水を切りながら二階へと上がる階段前へと進んだ。なんとなく別れ難くて、その場で足が止まる。それに気が付いたサスケの足も、階段の一段目を踏んだまま動かないようだった。振り返った彼とまだ一緒にいるための理由を探して、必死で無い知恵を絞る。
「――あの、さ!」
晩メシ、一緒に食わねェ?と思い切って誘うと、鞄の中の携帯から場違いな着信メロディが流れ出した。いい雰囲気がぶち壊しだ。発信元を確認してから保留ボタンを押し、再び鞄に放り込む。
「出なくていいのか?」
「いい。バイト先からだったし、どうせまた代打の依頼だと思う」
「お前バイト先からの着メロがダースベイダーのテーマって、完全にテマリさんのイメージ引き摺ってんだろ」
「だってマジおっかなかったんだってばよォ、さっき話しただろ!?」
可笑しそうに目を細めたサスケはくつくつと喉の奥で笑うと、ランドリーバッグを担ぎ直してこちらに体を向けた。カレーでよけりゃ、うちに食いに来てもいいぞと階段の手すりに寄りかかって言った彼に、満面の笑みが自然と溢れ出す。

「マジで?食う食う!」
「なんの変哲もない、ただのカレーだぞ」
「なに言ってんだ、このあいだ食わせてもらったのだって、スゲーうまかったし!」
「は?」
「サスケの『正しいカレー』、オレ大好きだってばよ!」

――正しいカレー?と戸惑いのあらわになった声で、ようやくナルトは自分の失態に気付いた。
「お前、俺の作ったカレーなんていつ食ったんだ?」といううわごとのような質問が、訪れた間抜けな沈黙に寄る辺なくさまよう。
ダーンダーンダーン・ダーダダーン・ダーダダーンと場の空気を読まない着信音が、腹を立てたかのようにしつこくまた鳴りだした。雨に閉じ込められたエントランスに、馬鹿馬鹿しいほどよく響く。
冷たい汗が全身に吹き出し、ひりついた喉が声を忘れた。
思考が停止寸前にまで追い込まれ、指先ひとつ動かせない。
ただ、頼む足よ動けとそれだけを念じ、ナルトはその願いが聞き届けられるのを待った。




作中詩・宮沢賢治作「春光呪詛」「小岩井農場」
(新潮文庫・新編宮沢賢治詩集・天沢退二郎編)より抜粋