第十二話

いつもは一括りに引っ詰めている髪を半分だけ下ろしたシカマルは、待ち合わせのアイスアリーナに現れた時、何故だか既にぐったりしていた。会ったらまずは文句を言ってやろうと思っていたのに、こちらを見た瞬間吐き出されたため息があまりに深くて、思わずそのタイミングを逃してしまう。
「なんでお前がそんな顔してんだよ。てめェも企画・発案に関わってんだろが」
「なんでって……オレぁこんなめんどくせーゴタゴタには巻き込まれたくなかったんだよ。つーかそもそもサスケ、お前のせいだっつーの」
「はぁ?」
「香燐がどーしてもっていうから仕方なくだな……」
「あぁーっと!そんな話はどーでもいいって。そんな事よりもシカマル、彼女紹介しろよ」
間に割り込むように会話を遮った香燐が興味津々に見詰める先には、シンプルな白のTシャツにシックな色合いのスキニーパンツを合わせたあでやかな女性がこちらをじっと見つめていた。手に引っ掛けている小ぶりのバッグはサスケでも知っているハイブランドのものだったが、ラフなスタイルに合わせたそれは不思議な程しっくりきている。なんということはないあのシャツも、実はどこか有名なメゾンのものなのかもしれない。
「はぁ……えーと、こちら……」
「いい、シカマル。自分で名乗る」
ブラウンベージュで丁寧に整えられた指先でシカマルを制し、女性が一歩前に出た。退くところが一切ないまなざしに、ほんの少しだけ気圧される。
「こんにちは、テマリと申します」
軽く近付いた彼女から、柑橘にも似た高貴な感じの香りが漂ってきた。ふわりと届けられたそれは決してこちらにまとわりつくことはなく、自然な優雅さでふっとまた離れていく。
「サスケ君と、それから香燐さんですね――お噂は、シカマルの方から……かねがね」
にっこりと笑顔になると、テマリと名乗ったシカマルの彼女は意味ありげな視線を送ってきた。
黒子のように背後に控えたシカマルは、相変わらず渋い顔してこめかみ辺りを抑えている。

     ☆

『絶対防御・砂隠れ警備保障』と書かれた名刺の肩書きには、彼女の名前と共に『人事教育部・教育課長』の文字が堂々と刻まれていた。会社組織の事はよく解らないが、自分達よりも三つしか違わないという彼女の年齢からしたら、この肩書きはかなり早い出世なのではないだろうか。
「サスケ君て、うちは総合病院とご関係のある方ですよね?」
ピシッとした感じの硬派な名刺に見入っていたところで不意に声を掛けられ、少々驚きながら顔を上げると、完璧な笑顔を作り上げたシカマルの彼女が「いつもお世話になっております」と流れるような謝辞を述べた。警備の事なんて気にかけた事もなかったが、そういえば実家の病院のエントランスでこの名刺にあるのと同じロゴを見たような気がする。と、いうことは、この絶対なんとかとかいう謳い文句の警備会社は、それなりの規模を持つ企業ということか。
「いや、でも俺はまだ医者ですらないですから」
「そうだっつーの。まったく、アンタほんと、そーゆーのやめろって」
うんざりしたようなシカマルに肩を竦めた彼女は、それでも「今度ともよろしくお願いします」と言い添えると華やかにほほえんだ。なんというか、経験値に圧倒的な差がありそうで、押し切られたように「ハァ」と頷く。
「――テマリさんはここ来た事あるんですか?」
追いかけるように話題を見つけてきた香燐が質問すると、向き直ったテマリは茶目っ気ある仕草で「いや?」と片眉をあげた。急にくだけた様子の言葉遣いから察するに、とりあえず営業モードは解除されたらしい。
「ナルトは私もあいつが大学生だった頃から知ってるが、こうして観戦に来たのは今日が初めてだ」
「なんでこれまでは来られなかったんですか?」
「どっかの誰かさんが、職場関係者には付き合ってることを隠し通したいってうるさかったんでな。まったく、男ってのはくだらないことを気にする」
「あのなァ……どこの世界におおっぴらに職場恋愛を暴露する管理職がいンだよ」
雑談を交わしながらアリーナのゲートを潜り重たい鉄製のドアを押すと、気温に大きな格差があるせいか中から吹き出すような風がおこった。蒸し暑い外気で汗ばんだ素肌がそれを心地よく感じたのは最初だけで、すぐに冷えすぎる体育館の冷気に鳥肌がたつ。
「うわ、さっむ……!」
袖のないブラウスを着ていた香燐は、アリーナに足を踏み入れた途端むき出しの二の腕を両手で抱え込んだ。ショートパンツから伸びるサンダルの足も、寒々しく震えている。
「お前、なんでよりによってそんな寒そうな格好してきたんだ」
「なんでって、こんな寒いなんて聞いてなかったからに決まってんだろ!」
空いているシートに座りながら自分の分だけ持参した上着と膝掛けを出しかけたサスケは、ふと先に座ったシカマル達に目を遣った。同じような薄着で来ていたテマリはどうしているのかとうかがうと、何度も観戦に来たことのあるシカマルは慣れた様子で、肩に掛けたトートバッグから大判のストールを取り出している。
ん、と差し出されたストールに「あぁ」とだけ言った彼女はふっと綻ぶような笑みを浮かべて受け取ると、女性らしい曲線を描いている躰にくるりとそれを巻きつけた。トラッドなタータンチェックの毛織物は、いかにも軽くて暖かそうだ。
じとりと催促じみた視線に気が付いて横を見ると、白い腕をさすりながらこちらを見上げている香燐と目が合った。「……これ、いるか?」とカバンの口からふたつの防寒アイテムをのぞかせると、すかさず香燐がこくこくと首を縦に振る。
どっちがいい?と訊く前にさっと両方を持っていった香燐は嬉しそうにそれを羽織ると、ストールにくるまったテマリの横に座った。端には抜かりなく自分の分の上着も持ってきていたらしいシカマルが、ぬくぬくと腰掛けている。(くそ…俺だって上着くらいは欲しかったのに)と冷え冷えする半袖の腕に一瞬舌打ちが出そうになったが、いまここでそれをするのは流石に良くないなと、寸でのところで踏み止まった。
「お、いたな」
やっぱり目立つな、あいつ。
笑い混じりにそう言ったテマリの視線の先を見れば、リンクの上で強い照明の光を弾く明るい髪が目に入った。何事かふざけているのだろうか、同じユニフォームを着たチームメイトと共に、変な顔をつくってはなにやらおどけている。
笑い合いながらも時折キョロキョロと観客席を気にしている様子のナルトは、くるりと首をまわすと、立ったままこちらに注視する黒髪の友人に気が付いた。すぐさましゃべっていたチームメイトに軽く拝むような仕草を残し、すいすいとこちらの方へ滑ってくる。
「サスケェ!」
真っ白なリンクの上で満開の笑顔を見せたナルトは、なんだか真冬の向日葵のようだった。既にウォーミングアップ済なのだろう、上気した首元は赤く染まって、湯気でも出そうな雰囲気だ。
「マジで来てくれたんだな、ここまでの道忘れてなかった?」
「馬鹿にすんなよ。俺を誰だと思ってる」
からかうような言葉に威丈高に返すと、ナルトは「へへへ」と嬉しげに鼻を擦った。一旦断わってしまったせいだろうか。昨夜一応「明日観に行くぞ」とメールだけはしておいたが、実際にサスケが現れるかどうかナルトは半信半疑だったようだ。
(だから、俺は嘘はつかねェってのに)と苦笑しながら、サスケは擦られてちょっと赤くなったナルトの鼻先を見た。
一緒に来ている面子はともかく、こんな顔して喜んでくれるなら来た甲斐があったというものだ。
「――おい、うずまきナルト。この私も来てやってるんだから、少しは挨拶位しないか」
横槍を入れるように女性にしては落ち着いた声が差し込まれると、ナルトは傍目にもわかるほど大きく肩をびくつかせた。これ以上ないというほど見開かれた碧眼で、その声の主をゆっくりと見詰める。
「テ マ リ さ ん……!?」
「久しぶりだな。このあいだお前が本社に来た時以来だから、半年位か?」
途端にスケート靴のまま直立不動で敬礼をしたナルトに、テマリは艶々したベージュの口の端をニヤっと上げた。ああ、今日はプライベートなんだからそんな事しなくていいぞとひらひらと手のひらを見せたその人は、さっきまで自分も名刺を出していた事は完全に棚に上げているようだ。
「え?なんでテマリさんが?」
「なんでって、たまにはいつもとは違う趣のデートでもしてみようかと思ってな」
「ウソ……シカマルの彼女って、テマリさんだったのかってば!」
許しが出てほっとしたのか、敬礼を解いたナルトはちょっと赤くなって横を向いたシカマルを見て、リンクを一巡しているフェンスにすがりついた。はー、とか、ひー、とか驚きと感心とが混じったような変なため息を付きながら、あらためて不貞腐れたような顔のシカマルと嫣然と笑うその彼女とを見比べる。長い付き合いなのだからてっきりナルトはシカマルに時々差す女の影の正体に気がついていたのかとも思っていたが、どうやらこの秘密のカップルは二人共相当な完璧主義らしい。
「――んで、今日の調子はどーなんだよ」
ぽかんと口を開けっ放しにしたままのナルトに照れ隠しのように話題を持ってきたシカマルは、上着のポケットに手を突っ込んだまま口先を細くした。「勝てそうか?」と会話と継いだテマリが、ちょっと身を乗り出す。
「んー、チームの総合力的にはちょっと負け気味ってとこかな」
「なんだ、そうなのか」
「まあでも、たぶん今日は勝つってばよ。勝利の女神が来てるし」
「お、嬉しい事いってくれるじゃないか。そうだぞ、負けたらまた鉄拳制裁だからな」
「だからよせって、そーゆーの。ほら見ろ、こいつまだアンタが教官だった新人研修がトラウマになってんだからよ」
ははは、とうつろな笑い声をあげたナルト(一体どんな恐ろしい新人研修が執り行われたのだろう)はふと半袖のままのサスケに気が付くと、あれ?という顔をした。そこにきてやっと、サスケの隣でちょこんと座ったまま会話の行く末を見守っていた香燐に気が付いたらしい。
彼女の来ている男物の上着を見て納得したような目をしたナルトは、慎重な仕草で小さく会釈した。同じような動きで、香燐も会釈を返す。一度居酒屋で顔を合わせているはずなのに、二人共なんだか初見同士みたいだ。
「――サスケ、自分の分の上着は?」
何気なく訊かれた言葉に「俺はいい」とだけ答えると、ナルトは(ははぁん)というように片眉を上げて目を眇めた。ちょっと待ってて、と言い残してベンチに去っていったかと思うと、小脇に見慣れたオレンジのジャケットを抱えて戻ってくる。
ほい、と掛け声と共に投げられたそれを、サスケはフェンス越しに受け取った。
「オレ今日はもうそれ使わねェから、着てていいってばよ」
「そうか。わりィな」
「返すのはいつでもいいかンな」
早速ライトダウンのジャケットに腕を通したサスケを満足気に眺めると、集合を呼びかける声がベンチから届いた。気持ちのいいターンを切って、ナルトは再びベンチへと戻っていく。
自分のものよりも若干サイズの大きいジャケットの前をかき合せながら振り返ると、呆気にとられたような顔のテマリと、複雑そうに口をへの字にしている香燐と、何故か一段と悩ましい顔つきで額を抑えているシカマルが並んでこちらを見上げていた。
「――なに?」
「いや……驚いたな」
「は?」
「キミ、そんな顔、するんだ?」
そんな顔って?と遠慮なくこちらの顔をまじまじと観察してくるテマリに聞き返そうかとした時、冷気を切り裂くようなホイッスルの音が響き渡った。ふたつのチームのメンバー達が、ぞろりと一列に並んで向かい合う。シュートを打つ時が一番気持ちいいとナルトは言うが、見ているサスケは試合が始まる間際のこの瞬間が、一番好きだ。色の違うユニフォームを着た選手達が、整然と並んでお互いに導火線みたいな視線をぶつけ合う。美しくて、刹那的な光景だと思う。
青のユニフォームを着たナルトが、列の中に滑り込んだ。
ここからは、ナルトの表情は見えない。
しかしメットに装着されているアクリルのガードの下で、あの青い眼は今、じっと静かに燃えているはずだ。
「試合開始?」
集中しているところに遠慮なく話しかけられてちょっと気分が削がれた。うるさい。
「まだ」
「これってあのうじゃうじゃいるの全員でやるの?」
「違う。出れるのは六人だけ」
「じゃあ他のは何すんの?」
「試合中にスタメンと交代してく」
「あんなに?」
「そう。――てか今いいとこだから、ちょっと黙っとけよ」
「なんだよその言い方。教えてくれたっていいだろ」
不貞たように横を向いた香燐をほっといて、サスケは審判のホイッスルを待った。ピィィッと高らかに笛が鳴り、一礼をした選手達が一斉に回れ右をして自分達のゴール前で円陣になる。パァン!と胸のすくような音をたてて全員のスティックがひとつ氷を叩くと、鬨の声をあげながらユニフォームの群れが散開していった。リンクの中央でパックの取り合いが行われ、最初の一打が放たれる。試合開始だ。
半分程埋まった観客席から、歓声があがった。
張り詰めていた緊張が一気に決壊して、濁流のような興奮が走りだす。
リンクを削る音とパックが打ち鳴らされる音が絶え間なくこだまして、その中を疾風のように滑り抜けるナルトを見た。唯一むき出しになっている口許は、風を切る嬉しさを隠しきれないような弧を描いている。どこかそれは彼の余裕にも見えて、悠々と相手チームを縫っていくその後ろ姿はメットに収まりきらなかった金の襟足とも相まって、まるで若い牡ライオンだ。普段の大型犬じみた彼とは全然違う。ナルトのこのギャップも、試合観戦の隠れた見所だった。
(嬉しそうな顔してんな、あいつ)
なにしろこの俺が来てやってんだからなとちょっと己惚れて、サスケは機嫌よく鼻を鳴らした。
銀のエッジが削った氷が、白く差す照明を乱反射させて散る。
ナルト本人は「いい先生に看てもらったお陰だってばよ」などと笑うが、今しなやかに動いている彼の足は、ほかならぬ彼自身の努力によって作り上げられたものだというのをサスケは知っている。スポーツ選手のリハビリが、いかに根気と忍耐を必要とするものであるか。本人はあまりその部分を語ろうとしない(そのクセ病院の看護婦長がすごい怖いおばちゃんだとか、受付の女の子が美人だとか、院内購買の焼きそばパンが絶品だとかどうでもいい話は山程聞かされた)が、医学生であるサスケがそれを調べるのは、さして難しくもない事だった。
「へえ、器用に滑るもんだな」
入り乱れる選手たちを眺めて、香燐は僅かに目を眇めた。今日は眼鏡有り。掛けたり掛けてこなかったり、この決定はどこに依るものなのだろう。
「あの金髪のやつ。なんだっけ、名前」
激しくぶつかり合う選手達に目を奪われていると、前を見たままの香燐がリンクの音に負けないよう、少し声を張り上げて訊いてきた。「ナルト」と視線を外さないままで答えたサスケの顔を、ちょっと首を回して香燐が覗き込む。
「そいつ。昔からの知り合いなのか?」
「いや、知り合ったのはあいつが越してきてからだから、二年前か」
「へェ、それにしちゃあ随分と仲良さそうだな」
「なんかそれ、最近やたらよく言われんだけどよ。普通だろ、普通」
「普通、かな……」
「まあ結構気が合うというか。とにかくあいつといると、退屈しねーからな」
「……ふぅん……」
鼻から抜けるような相槌を打った香燐は、まだ微妙に納めきれない何かがあるようだったが、ひとまず今はそれを置いておく事にしたようだった。顔を戻した香燐と入れ替わるように、ちらとサスケが横を見る。
放心気味に前を向く香燐の奥で、シカマルとテマリが何やら耳打ちをしあっているのが見えた。喋っているのはたぶん、アイスホッケーのルールに関してなのだろう。耳元で話しかけられたシカマルが、リンクを指さしたり器用な手振りで何かを説明している。スタンドからの声援に邪魔されないよう、テマリは話しかける時少し傾げられたシカマルの耳元に唇を寄せていた。やわらかくシカマルの耳を囲っている彼女の白い手のひらは、清潔なのにどこか酷く淫靡な雰囲気をさまよわせている。
……あいつらってやっぱもう、普通にヤってんだろうなあ。
自然な態度で近い距離を分かち合っている二人に、捉えどころのない妄想がくゆるように浮かんだ。意味もないのにやけに残るそれは、なんだかシカマルの吸うタバコの煙みたいだ。
「お、ナルトに渡るぞ」
シカマルの呟きにリンクを見ると、まさしく小さなパックがナルトのスティックに引き寄せられるように飛び込んできたところだった。すぐさま前に数人の敵が立ちはだかる。ゴール前のいい場面だ。
(おお、)とサスケが前へかすかに身を乗り出そうとした時、観客席の一角から「キャ――ッッ!」という黄色い声があがった。
見れば、高校生位から大人の30代位までの数十人の女の子達が、一箇所に集まって小さな応援団を形成している。

「いけェ、うずまきくーん!」

甲高い声援に押されるように、ナルトがスティックを振りかぶった。あれはいつかナルト自身が捨てようと四苦八苦していた、彼の愛用品だ。スティックのブレードがパックを弾く音が響く。黒い弾丸が流星のように一直線にゴールへと打ち込まれる。
――ああぁ、と敢え無くキーパーに阻まれたシュートに、女性陣から甘苦しいようなため息が湧いて泡のように消えた。
「………なんだあれ」
なんだか妙に華やかな一団を呆然と眺めて、サスケはひとことポツリと落とした。
彼女達が熱心に見つめる先は全員同じ、金の髪をメットから溢れさせている背の高い後ろ姿だ。
「なんだって――ファンだろ、ナルトの」
驚きに思わずあんぐりと口を開けたサスケに呆れるように、シカマルがあっけらかんと言う。
「ファン?あれ全部?」
「そ」
「……おかしいだろ、そりゃ」
「別におかしくねェだろ」
だって、ナルトだぞ?と確かめると、シカマルは一瞬きょとんとしたが、すぐに全部を理解したというようにため息をひとつふかぶかとついた。半分だけしか纏められていない頭は普段よりもやけにいい具合に力が抜けていて、なんだか一段上から見下ろされているような気分だ。
「やっぱりな。まあお前が知ってるわけねェとは思ってたけどよ」
あいつさ、ちょっと前にテレビ出たんだよ。なんか深夜のバラエティに。
そんな事を言うシカマルが、にわかには信じられなかった。
テレビ?バラエティ?
なんだそれ、全然聞いてねェし。
「ハァ?何がどうなったらそんな事になんだよ」
座ったまま前に身体を折って身を乗り出すと、サスケはしれっと試合を観戦し続けているシカマルに食ってかかるように詰問した。あーもーめんどくせーなー、といった風情で、ゆっくりとシカマルがこちらを向く。間に挟まれた女性陣が、ほんの少し身を引いた。
「別にアイツだけが出たんじゃねェよ、このチームがちょっとだけ紹介される企画があってさ。その中にちょろっとナルトも混じってて」
で?
「ほら、ナルトの奴、見た目からしてどうしたって目立つだろ?」
ああ。
「したら、なんかそれ見た人達の中にナルトの事すげー気に入った人がいたらしくて」
ほぉ。
「その人が中心になってネットでファンサイト?みたいなのが作られたら、これがまた結構メンバーが集まったらしくてよ」
……ぅん?
「んで、最近はああやって応援団みたいなのが練習とか試合とかに来てんだとさ。まー俺も実際この目でみるまでは、あんな沢山いるとは思わなかったけどな。ちょっとビビるよな?」
「ビビるっつーか…――なんで俺に黙ってんだよ」
ついなじるような口調で三白眼を睨みつけると、「しょうがねェだろ、俺だってつい二・三日前に知ったばっかなんだもんよ」とシカマルは肩をすくめた。そのファンサイトとやらを見つけてきたのは、シカマルの彼女の方らしい。
「社の方に、アイツの事で問い合わせの電話があってな、シフトとか派遣先の場所とか。ちょっと変わった感じの電話だったから、こちらで調べてみたんだ」
まあ要は追っかけでもしようと思ったんだろうな、あれは。苦笑いを浮かべて、テマリは言った。
追っかけって。アイドルじゃあるまいし。
「――教えたのか?」
頬杖をつくテマリをひたと見据えて低く問えば、ハイクオリティな薄化粧がきょとんとこちらを見返した。さっきのシカマルとなんだか似ている。長く付き合っていると、他人同士でも似てくるものなのだろうか。
「教えるわけないだろう、うちは警備会社だぞ。わざわざトラブルの元になるような事するものか」
「……そーかよ」
「まあでも、サイトを見る限りでは割と健全な感じのファンばかりみたいだったけどな。純粋にあいつを応援したいと思ってくれているんだろ。電話の子はまあ・・・ちょっと熱を上げすぎて暴走してしまったんだろうな、たぶん。訊いてくる内容が内容だったから丁重にお断りさせてもらったが、言葉遣いとかは丁寧で常識的だったぞ」
見てみるか?とぷらんと吊り下げられたスマホに一瞬ぐらりと来たが、なんだか癪な気もして慇懃にそれを断った。薄ら笑いを浮かべて、テマリはそれをしまう。あいつの名前で検索すればすぐに出てくるぞ、とおまけのように言い添えられたのを耳にした時、わあっとアリーナに歓声が巻き起こった。腕を高く上げてリンクを旋回するナルトが目に入る。……しまった、せっかくの見所を。
「入ったのか?」
背もたれに姿勢を直して隣の香燐に尋ねると、こちらを見たままぼんやりとしていたらしい香燐が「え?」と我に返った。「ごめ……見てなかった」とうわごとのように返された言葉に、今度はそのまま舌打ちが出る。
「なんだよ、ちゃんと見とけよ」
「や…――なんか、サスケ、に、見入っちゃってて」
「俺なんかより、今日は試合観に来たんじゃねえのかよ?きちんと観戦するのが礼儀だろ」
得体の識れない苛立ちを混じらせリンクを見下ろせば、丁度ナルトは声援を送ってくれていたファンの一団に手を振っているところだった。こういう機会を逃さないために、彼女達はしっかりゴール傍を陣取っているのだろう。すかさずチームメイトのひとりが背後から近付いて、からかうようにメットの金髪頭をはたいてきた。罪のない笑顔を浮かべて、それを甘んじて受けているナルトが見える。
隣からぽそぽそと「……サスケだって見てなかったじゃねーか」という香燐からの反論が聞こえた。
それには無視をして、再開するゲームに注目する。
第一ピリオドが終わり、第二ピリオドに突入しても、チリチリとした静電気のような不愉快さは収まらなかった。試合はそれなりに面白い。だがそれ以上に、いちいち大騒ぎをしているファンだという子達の嬌声と、彼女達に毎回きちんと返しているナルトがやたら癇に障る。
なんなんだあいつら。
ちょっと目立つからって、騒ぎ立てやがって。
大体お前ら、ナルトの何を知ってるってんだ。本当のあいつはなあ、馬鹿で、ドべで、ウスラトンカチで、俺が世話してやんなきゃゴキブリひとつ満足に退治できねェヘタレなんだぞ。
つーかナルトもナルトだ。なんでこんな事になってんのを一言も言わないんだ。先週なんて丸二日も一緒にいたのに、馬鹿話ばっかしやがって。
雲霞のようにまとわりついてくる苛立ちの中、不意に(そうか)と気が付いた。最初に試合を見に行けないと言った時やけにあっさり笑って諦めるんだなと思ったが、なるほどこれだけの声援があるなら淋しくなんかないわけだ。
嬉しそうな顔してたのも、実際は鼻の下が伸びてただけなのかもしれない。
クソ……なんだか酷く、裏切られたような気分だ。

「――おい、サスケ」

その顔、ちょっとなんとかしろよと苦言を呈されたのは、第二ピリオドのインターバルに入ったところだった。連れ出された男子トイレでうんざりしつつも厳しい顔したシカマルに言われ、嫌な気分のまま腕組みして鼻を鳴らす。
「面白くねェのはわかるけどよ、ありゃあただのファンだろ?ナルトだってまあ、ああいう子達は無下にはできねえだろうし――それでもお前とは格が違うんだから、相手にすんなよ」
「あァん?ンだよ、誰が面白くねェなんて言ったよ」
諭すような科白に舌打ちが出た。なんだよその言い方、まるで俺が妬いてるみたいじゃねえか。
「別に。あの女共のきんきんする声が耳に障るだけだ」
「……そーか」
「大体なんだよ、格が違うって。はなっから気にしてなんかねぇし」
「ならいいんだけどよ」
――じゃあな、もうちょいその機嫌悪そうな顔引っ込めて、香燐に優しくしてやれよ。
ぎゅっと睨みつけてくる三白眼に、図らずも一瞬毒気を抜かれた。
香燐?――なんで、香燐?
「お前なァ、なんで今日こんな妙ちきりんなダブルデートが決行されてんのか、そのワケ全然わかってねぇだろ」
重い息をはくようにそう言ったシカマルを、要領を得ないままに見詰め返した。背後の白いタイルの壁に、修復されないままのひび割れが入っているのが目に入る。
「あいつさ、お前がいっつもいっつもつまんなさそーにしてっから、わざわざ俺んとこにお前の好きなものとか、楽しめる場所とか聞きに来たんだぞ?」
「なんで。好きなものとかなら、俺に直接訊きゃあいいじゃねぇか」
「――だから!いい加減な返事ばっかでろくすっぽ会話らしい会話もしてもらえてねぇから、俺んとこきたんだろーが!」
苦いものを吐き出すかのように一気に言い切ったシカマルは、突きつけられた言葉にぽかんとしたサスケを見ると、ふかぶかとしたため息をついた。草臥れた横顔には、あーあ、だめだこりゃ、と書いてある。
「俺を引っ張り出したのも、本当は興味もないアイスホッケーの試合観に行こうって誘ってみたりしたのだって、全部お前に楽しんでもらいたいっていうその一念からなんだぞ?それを全部無視して不機嫌そうな顔した上、あいつに八つ当たりまでして」
「八つ当たりなんか」
「してただろ?」
言い訳を許さない強さで断罪されて、サスケは口篭った。
そういえば第一ピリオドのナルトのゴール以降、香燐の声を聴いていない。あの時自分は何を言った?あんな言い方しなければならないような事を香燐はしたか?――言われてみれば、確かに、そう……かもしれない。
不満顔に取って代わって現れたバツの悪そうな口許に、シカマルのため息がまた落ちた。ほんの少しだけ、眉間の緊張が緩んでいる。
「あのな……別に俺ァ、お前が誰と付き合おうが誰を好きになろうが全然かまやしねぇよ。ガキの頃の約束守って、香燐のいう事きくのも結構だと思う。でもな、気持ちもないのに意味もなくだらだら付き合い続けて、無神経に相手傷つけるだけなんだったら、嘘つき呼ばわりされてもちゃんとお前の方から引導渡してやるのも、それはそれで誠意なんじゃねェの?」
「傷――つけてんのか?俺」
「……自覚すらねェ、と」
ふー、と一度天井を仰ぐと、シカマルはそのまま少しの間何か考えているようだった。なんとなく同じように、上を見てみる。アリーナの男子トイレの天井は、変な模様の黒い穴が沢山開いていた。なんだか無数の不格好な覗き穴に、不躾に見下ろされているみたいだ。
「――ま、とにかくだ。どっちか決めろ、お前」
ややあっとしてから首を直したシカマルが言ったのは、そのひとことだけだった。けわしい顔は波のように引いて、いつもの飄々とした空気に戻っている。
「どっちかって?」
「別れんのか、別れないのかに決まってんだろ」
両手をズボンのポケットに突っ込んだシカマルは、ちょっとおどけたような仕草でひょいと肩を上げた。
言っとくけどな、適当にあしらってれば向こうから別れてくれるだろなんてズリぃ考えでまだいるようだったら、早いとこ眼ェ覚ましたほうがいいぞと薄く笑う。
「香燐のやつ、お前に対する気合も覚悟も半端ねェからな。お前が今までどんな女と付き合ってきたかは知らねぇけど、あいつは絶対、簡単には引き下がらねぇよ」
「気合って」
「ありゃあマジで結婚までいくつもりだぞ。約束を最後まで順守するつもりなんだったら、お前の方も覚悟しとけよ」
「や、でもさ……一緒にいて楽しくなけりゃ、向こうだってそのうち嫌になんだろ?」
未練がましく言い訳すると、シカマルは(わかってねぇなあ)というように下を向いた。髪を上げていないうなじをちょっと掻いて、妙に達観したような顔を上げる。

「楽しいとか楽しくないとか、そんなん関係無しにどうしてもくっついていたいって思っちまうのが恋ってやつだろーよ」
「は?」
「お前にゃいねーのかよ、ただ一緒にいられるだけで嬉しくなっちまう相手って」
「……兄さんの事か?」

おそるおそる返した答えに一瞬虚を突かれたかのように固まったシカマルは、やがてゆるゆると再び天を仰いだ。細い顎が上がると、思いの外しっかりとした首筋が顕わになる。
「――んだよ、こっちも自覚なしなのかよ」
まいった……ホント、勘弁してくれよ。
救いを求めるかのように呟かれた言葉は、穴だらけの天井に吸い込まれるように消えていった。試合再開を知らせるホーンの音が、試合会場から聴こえてくる。
身体を捻ると、借り物のオレンジのジャケットが控えめな声でかさこそと鳴った。
「……戻るか」と言って頭を戻したシカマルが、なんだか色々諦めたような顔して、ほのかに笑った。



ナルトの予言通り試合は僅差でナルトのチームが勝ち、シカマルとその彼女はちょっとした興奮に身を任せているようだったが、サスケは無口になったままの香燐の横で会話の糸口も見つけられないままアイスアリーナを後にした。
帰り際、こちらに来たそうにしたナルト(例によって彼は試合後すぐにももいろ応援団に捕まってしまったらしく、あれこれ話しかけられている真っ最中だった)と目が合って、やっぱり物凄く嬉しそうな顔をされたけれども、何故だかそれを素直に受け止めることが出来なかった。
微妙な笑いで応じたサスケにナルトはいぶかしげに首を傾げていたが、やっと女の子達の輪から出ようとしたところで誰かに呼び止められたらしく、ちょっとこちらを気にしながらもナルトはその話しかけてきた人物の方へと行ってしまった。ジャケットを返しそびれたなとちょっと思ったが、そろそろ行くかと言うシカマルに促されるがまま、サスケも席を立った。大体いつも試合後にはチームで打ち上げ&祝勝会をしに行くのが常だと聞かされているので、帰りもナルトを待ったりしたことはない。
勝って気分がいいから今日は私がおごってやろう、と年長者らしい豪語をしたテマリに引っ張られるように街中に出たサスケは、夕闇に染まり始めている繁華街で前を行くシカマル達の背中を見失わないよう気をつけながら、隣を歩く香燐の小さなつむじを見下ろした。
――本当に、傷つけて……いたのだろうか。
再び自問してみたが、やはりその自覚は湧いてこなかった。興味が持てないものに、無理に自分を合わせるのは性に合わない。そこを折ってまで相手の機嫌を取るのは、やはり嫌だった。
ただ、逆にそれを、香燐の方はしてくれていたのだとしたら?
本当はこんなデート望んでいたわけではないのに、自分のために折れてくれていたのだとしたら?
「――香燐」
低く呼ぶと、頑なになっていた薄い肩が僅かに跳ねた。正面を向いたままの横顔に、緊張が走ったのがわかる。
「その……今日、付き合わせちまって、悪かったな」
歯切れ悪くそう言うと、驚いたように眼鏡の奥の瞳が見張られた。おずおずと「ありがとう」と続けると、驚天動地の面持ちが、ゆっくりとこちらを仰ぎ見る。
「見に来れて、よかった?」
囁くように問われた言葉に小さく頷くと、赤い唇がホッとしたように「なら、いい」と呟いた。
薄墨を溶かしたような空気の中で、香燐の白く細い腕がやわらかく揺れている。
覚悟しておけよ、と言ったシカマルの声が頭をよぎった。
覚悟ってなんだよ、と反発するように思いながらも、確かに自分が決めなければ、このまま香燐の想いに流されていってしまいそうなのを感じた。ただ一緒にいるだけで嬉しい相手。香燐にとって、自分はそんな相手なのだろうか。こんなにぞんざいな扱いをされていても、思いやりを踏みにじるような仕打ちを受けても、「なら、いい」なんて簡単な言葉で許せてしまう程に?……やっぱり、自分では理解不能だ。
不意にナルトの、満開の笑顔が浮かんだ。
それからすぐ、ファンだという女の子達に手を振る姿も思い出した。
あいつだったら、こんな中途半端なことは絶対にしないのだろう。なじられようが何だろうが、自分が悪者になってもきちんとした誠意を貫くだろうなと思った。それにもし好きな相手がいたなら、彼女を辛くさせる一切の事柄から大切な人を守り通すような気がする。ドべだろうが馬鹿だろうが、たぶんあいつに惚れられた相手は幸せだ。

「――サスケ」

かわいそうな香燐。
俺なんかじゃなく、ナルトみたいな奴を好きになっとけばよかったのに。

「腕……組んで、いい?」

数歩先を歩くシカマル達の自然に触れ合っている腕を眺めていた香燐が、そっと擦り寄るように乞うてきた。
返事を答える前に、蛇の腹みたいな背徳的な冷たさが、半袖から所在なく出た腕をひやりと襲う。
ちょっとギクリとして隣を見ると、赤茶の強い瞳がゆるりとこちらを見上げてきた。水飴にくるまれたようなとろりとした視線が、流れるようにこちらに漂ってくる。
アスファルトを踏みしめる足を、夜の気配がとりまき始めている。
絡みつく腕を振りほどくだけの言い訳は、まだ、見つからない。