第十一話

実家を出て、叔父の病院を経由してから高速に入った車は例によってサービスエリアに停まる度に間食(兼昼食)を繰り返し、到着地である駅の近くにあるレンタカーショップに車を返しても、厚い雲の隙間から時折思い出したかのように顔を出す六月の太陽は、まだまだ沈む気配がなかった。
場所は辺鄙でも、やはり距離はたいした事ないのだ。
日曜の午後を謳歌する商店街の人群れに、あらためてそう思う。
「あ、そうだナルト、お前次の日曜、試合だって言ってたよな?」
ボディーバッグに小旅行の荷物を詰め込んでゆったりと歩くナルトに確かめると、それまでなんだか妙にとらえどころのない沈黙に陥っていたナルトが、ぱっと顔をあげた。
「そうだってばよ、見に来れそう?」と期待する目に、言い様のない罪悪感が湧いてくる。
「いや――行きたいのは山々なんだけど」
「課題?」
「……週末は予定空けとけってうるさくてよ」
「ああ、香燐、――ちゃん?」
ちょっと悩んでから名前に『ちゃん』を付けたナルトは、言ってからまた少し考えると、区切りを付けるようにニカッと笑った。「気にしなくてもいいってばよ」とすんなり言うその顔にホッとすると同時に着地点のない落胆を覚え、そんな自分に僅かに戸惑う。
「まー試合はまたあるし、オレはいつだって近くにいるからさ。いつでもまた、サスケの気が向いた時にでも来てくれたらいいってばよ」
軽い口調でやけに受身な事を言うナルトに「そーか、わりィな」と返したが、賑わう商店街の中をちょっと猫背になって歩く金髪男は、ヘラヘラと笑っているばかりだった。もう少し残念がるかと思いきやあまりにもさっぱりとした引き際に、奇妙な物足りなさを感じる。
「なんか……」
「ん?」
「あっさりしてんなァ」
「そっか?もっと悔しがってもらいたかった?」
「や、うるさいのは彼女だけで充分」
気怠い口調でそう言って、「お前だと面倒がなくていいな」と笑顔で付け足すと、それを受けたナルトは「そっか」と小さく笑った。足元に視線を落とした横顔の向こう側で、商店街に紛れ込むように一件だけある小さなパチンコ屋の自動ドアが開く。ドアの開閉と共に、店内から大音量のBGMが溢れ出て、すぐにまた封じ込められた。
「…なァ、」
「ぁん?」
「『オレと彼女どっちが大事なんだよ』?」
「はあ?」
「――って、オレが訊いてくるような奴だったら、どうしてた?」
「何だそれ、お前そんな事思ってんのか」
「もしもだってば」
チラと独占欲の強い大学の友人の顔が頭を掠め「そりゃ、ちょっとウゼェな」と毒づくと、それを耳にした気のいい友人は、くしゃりと顔を真ん中に寄せた。鼻の上に、寛容そうな皺ができる。
「はは……ひっでェの」
苦笑混じりのナルトの呟きが、お気楽な休日のざわつきに連れ去られていく。
けばけばしい青のアーケードの下で、明るい金髪が変な色に染まって見えた。

     ☆

顔を見るなり、「楽しかったみたいですね」と言った重吾は、机の上に広げられた管理日誌を閉じながらほほえんだ。
「ええ、まあ」と早足に汗ばんだ背中のリュックを下ろし、サスケも答える。
「今朝うずまきさんにも会いましたよ。サスケさんのお母さんが作ってくれたゴハンが、物凄く美味しかったって」
「ああ――あいつ、動けなくなるまで食ってましたから」
暑さに七分丈の袖を更にたくし上げながら苦笑したサスケに「うん、目に浮かぶようです」と返した重吾は、にこにこしながら管理人室のデスクから席を退いた。向きが変わる刹那、大柄な重吾に回転椅子が大儀そうに呻く。
「おもしろい人ですよね、うずまきさん。雰囲気に華があるというか、なんかいるだけでその場がぱっと明るくなるというか」
見た目すごく派手だから、最初はちょっと近寄りがたい人かと思いましたよ、とこっそりと打ち明けた重吾が恥ずかしそうに頬を掻くと、サスケも「ああ、そうですよね」と頷いた。
「俺はバンド野郎かホストだと思ってました」
「……ホスト!」
「だってアイツ、朝駅から逆流して帰ってきたりするじゃないですか。で、あの頭だし。絶対なんか、のらくらした生活してんだろうなと」
「はー…あ、でも案外ホストでもやっていけそうですね。顔いいし、体格もいいし、なにより優しいですし」
知ってました?彼時々、チヨばあさんの買物とか手伝ってるんですよと聞かされて、ちょっと驚いた。そんなの初耳だ。折しも昨日の帰り道で、サスケは女の子をみくびり過ぎだとかなんとか詰られたばかりだが、なんてことはない、単にあいつがフェミニストだというだけではないだろうか。それか昨日の伸びきった鼻の下から察するに、ただのスケベか。
「先週もたまたま外でコンビニ帰りのうずまきさんと遭遇したらしくて、そのまま駅前まで付き合ってもらったってチヨばあさん言ってましたよ」
「……女好きなだけじゃねェかな」
「えっ、チヨばあさんですよ?」
言ってしまってから失言だと思ったのか、ちょっと口許を隠した重吾は一瞬目を泳がせると、こそりと「それは違うんじゃないですかね」と囁いた。
入道雲みたいな体がすまなさそうに縮こまっている様子が、妙にほほえましい。
「いや、でもやっぱりいい人だと思いますよ。お米とか飲み物とか、いくらチヨばあさんが元気でも重いものはどうしたって重いですから」
「……まあ、そうですね」
不本意ながらそれでも頷いたサスケに帰り支度を始めた重吾だったが、ショルダーバッグの肩紐をくぐったところで「ああ、そうだ」と思い出したかのようにちょっと明るい声を出した。頼まれていたあれ、作ってみたんですけどと言いながら引き出しから取り出したものを、あらためてもう一度見直してから慎重な手付きで差し出してくる。
どうですか?と手渡された張り紙を、サスケは「拝見します」と受け取った。雨風にさらされても傷みが回らないよう気を配ってくれたのだろう、やや厚手の画用紙は『入居者募集』の文字ごとぴっちりとビニール袋で包まれている。
「まだ梅雨明けまでにはありますし、ちょっと工夫してみました」
「――うん、いいと思います。助かりました、俺こういうの作るの苦手で」
予想以上に丁寧な仕事ぶりに、サスケはにっこりとほほえんだ。依頼した時は「雇われの俺なんかが書いていいんでしょうか」などと恐縮していた重吾だったが、やはり頼んだのは正解だったようだ。連絡先の電話番号(管理人室への直通ダイヤルだ)と簡単な賃料と間取り、『二階・南向き・日当たり良好』の記述を丁寧に検めて、サスケはそれを机の上に置く。
重吾に頼んだのは、再来週、件の腰の低い隣人が退去した後の入居者を探すための張り紙だった。住めば都とはよくいったもので、古いけれども駅からも程近く、何より賃料の安いここのアパートは、見た目こそオンボロだけれども一旦入居してみるとその居心地の良さに長く居着く店子が多い。実際のところ自分がここに来てからも入居の手続きを行ったのは件の金髪男の一件だけで、それさえも募集をかける前にカカシからの紹介で最初から入居が決まってしまっていたようなものだった。
したがって、サスケが自分で店子を募集するのは初めてだ。本当ならば不動産屋にでも間に入ってもらうほうが安心なのかもしれないが、正式な大家である両親に伺いをたてたところ、ここのアパートではいつも張り紙一枚で事を澄ませてきているらしい。日当たり良好の文字と格安の賃料を見れば、一・二週間で何人かは必ず問い合わせがくるからというのが母の弁だった。
「いい物件ですよね、これ。この辺りでこんなに日が入る部屋って中々ないですよ」
あたらめて自作の張り紙を見直しながら、重吾は心底羨ましそうに言った。窓の外も視界を遮るようなものが無いし、空が広くて気持ち良さそうだ。
「重吾さんて、どこに住んでるんでしたっけ?」
そういやこの人ちょっと遠くから通ってるんだったか?
うろ覚えだった記憶にあらためて尋ねてみると、果たしてこの出来た大男はここの最寄り駅からだいぶ先の、路線の終点駅の名前をあげた。通うの大変じゃないですか?と少し驚くと、「うーん、でもまあ、急行に乗れたら一時間もかかりませんし、うちは駅の目の前ですし。慣れてしまえばたいした事ないですよ」と事も無げに言う。
「ただね、うちの前も駐車場だったんでこれまでずっと視界が開けたんですが、先月そこにマンションが建ってしまって。急に景色が悪くなってしまったんですよね」
「へぇ」
「遠いのは全然気にならないんです。日が傾く前に帰らせていただけるだけで、俺としては本当にありがたくて。むしろ交通費は全部出していただいちゃってるし、乗車区間が長い分逆にそっちの方が申し訳ないくらいで」
「いやまあ、それは別に構わないんですが」
カバンの肩紐を乗せた肩をすまなさそうに狭くした重吾に、サスケはしみじみ(いい人だよなァ)と感じ入った。人あたりが良くて、仕事も丁寧でよく気がつく人なのに、厄介な持病のせいでこんな好人物が働く事に自由が利かないのは本当に惜しい事だと思う。
重吾が暗所恐怖症であることを聞かされたのは、彼がまだここにくる前の話だ。普段何事もなく過ごしている彼であったが、実は暗がりが、ひいては夜そのものが恐ろしくて、日が沈んでしまうともうひとりでは外を歩けないのだという。
「でも日中、明るいところにいる分は全く問題ないし、むしろ素晴らしい人格者だと思うよ」と彼を推したのは、紹介者である年上の従兄弟だ。兄の親しい友人でもあったその従兄弟(サスケにとっても彼は従兄弟だが、血の繋がりよりも兄の友人という部分で以てサスケは全面的な信頼を彼に預けている)は現在は都内の大学病院で心療内科医として勤めているのだが、大学進学と同時に代理の管理人を探さなくてはならなくなったサスケに、是非一度会ってみて欲しいと言われ、やってきたのが重吾だった。
正直、出勤は早朝だし勤務時間も半端なため、募集をかけても人がくるだろうかとサスケは密かに思い悩んでいたのだが、朝が早い代わりに太陽がまだ燦々としているうちに帰宅できるこの仕事は、重吾にとっては願ったり叶ったりのものだったらしい。
わずかな時間だけでも管理人の仕事を続けていたかったサスケからしても、重吾の存在はありがたいものだった。
(……ていうか、この人ここに住んじゃえば、一番安心なんじゃねェか?)
はたと思いついて、サスケはまじまじと高い位置にある穏やかな顔を見上げた。そうすれば外出せずとも仕事ができるし、自分も何かあった時、交代時間を気にして帰宅を焦らなくても済む。
物言いたげな視線を送っているとそれに気が付いた誠実そうな顔が、訝しげに「なんですか?」と首を傾げた。柔和な口許に、するりと声が出る。
「あの。もしよかったら、重吾さんここに住みます?」
考えてもみなかった申し出だったのだろう、不意を打たれた重吾は、意外と可愛らしい瞳を一旦見開くと、それをパチクリとさせた。
「せっかく作ってもらったばかりでアレなんですけど。もし重吾さんさえよければ、越してきていただいていいですよ」
「え?お隣にですか?」
「ええ。――ほら、そうしたら、あんまり外を出歩かずに済むのかなって。交代の時間は極力守るつもりでいつもいますけど、何かのはずみで俺の帰りが遅くなったり、万が一夜になってしまうといけないかなと」
はー…なるほど、そういやそうですね、としみじみ納得した風な重吾はまたひとつまばたきをすると、口をつぐんで何やら考え込んでいるようだった。
結構妙案だと思ったのだけれど、もしかしたら迷惑だったのだろうか。
「いや、別にちょっと思いついただけですし、そんな深く悩まなくていいですよ。職場も自宅も同じ場所ってのは、気分的には善し悪しでしょうし」
「いえ、違うんです。俺としてはすごくありがたいですし、出して頂いている交通費も必要なくなるので越してこれたらすごくいいんですけど――でも、サスケさんちの横って、六畳半ですもんね?」
それだと、ちょっと間取り的に難しいかな…と独り言じみた呟きをもらした重吾に不思議そうな目を向けると、それを受けた彼は何やらムズムズと口ごもった。やがて照れたように頬を染めながら、「うち、同居人がいるものですから」と恥じ入るように頭を掻く。同居人などと味気ない言葉を使っているが、バラ色に染められた頬はそれ以上何も語らずとも、その相手との仲を如実に物語っているようだ。
「へえ!そうだったんですか」
「いや、まあ……そうだったんです」
あはは、と生ぬるい笑い声をあげた重吾はいつになくそわそわした仕草でカバンを掛け直すと、「そんなわけで、単身者用の部屋にはちょっと」と重ねて言った。向こうは自宅で仕事してるので、いくつか部屋数あるようなとこでないと難しいんです。
「だから、万が一の時は自宅に連絡して、いつも迎えにきてもらってるんです。あいつが一緒にいてくれれば、どうにか夜も歩けるんで」
「なるほど、そういう対応策が一応あるんですね」
感心しているうちに壁に掛けたプラスチック製の時計が二時を指し、安っぽい電子音がポーン、ポーンと二回鳴った。交代の時間だ。
「……じゃあ、今日はこれで失礼します」
几帳面に一礼をして、重吾が管理人室のドアを開けた。
すかさず蒸し暑い風が、むわっと侵入してくる。
ご苦労さまでした、また明日お願いしますと定型文化した返事を聞き届けてから、ちょっとはにかんだ重吾は丁寧に扉を閉じた。



『木の葉荘』と書かれた古い表札の隣に出来立ての募集広告を貼り付けてみると、昭和の趣を色濃く醸し出した古い壁の中、その真新しい一角は当初の予定よりもかなり目立って見える事がわかった。
いい出来だ。これならば誰にも気付かれなくて困るということはないだろう。
やっぱ頼んで良かったなと直張りした粘着テープの具合を確かめて、ひとり頷く。
(また静かで落ち着いた人が来てくんねぇかな)
ここのところ毎晩隣から聞こえてくる、申し訳なさそうな荷造りのを思い出し、サスケは漠然と願った。あそこまでこちらに気を使う事はないと思うが、それでも隣人となる人物に希望をいえるのであれば、こちらの生活スタイルにずかずかと踏み込んでこないにタイプに越したことはないだろう。結構今の生活は気に入っているのだ。これを壊さないような入居者が現れてくれるといいと思う。
(あー…空、見えねェな……)
送電線が横切る曇り空を見上げ、うすく開けた口で湿った空気を吸い込んだ。雲の中に、ぼやけた太陽が見える。実家の上に広がっていた、障害物のないまっさらな青空とは大違いだ。
ふと昨日までの二日間が思い出されて、図らずもクスリと忍び笑いが漏れた。実家の厳つい門構えにビビるナルトは予想通りだったが、両親、とりわけ母親のナルトに対するお気に入り度合いは想像してた以上だ。叔父にからかわれてムキなっていたナルトには大いに楽しませてもらったし、その上普段は厳格さが服を着たような父親に一杯食わせることに成功した。
行き帰りの車内でもどうでもいい事を沢山しゃべって、くだらない事で笑って、同じもの食べて、うまいのまずいの言い合って――まあ、楽しかったと、言ってやってもいい。
『――優しそうなにーちゃんだな』
兄の遺影の前で、やわらかく細らんだ青い瞳がふと蘇った。
ナルトの言葉は不思議だ。なんでもないひとことなのに、あいつが言うと何故だかすごく素直に響く。
母親がナルトは褒め上手だと言っていたが、確かにあの快晴の笑顔から届けられる言葉は、いつも透明な明るさに満ちていた。偽りの影が見当たらないそれは、丁度いい重さと温度でこちらの胸に流れ込んでくる。一度吹かれればついもう一度を願ってしまう、初夏の風みたいだ。
(……今の部屋から隣に越してこいって言ったら、あいつどうすっかな)
一瞬浮かんだ思い付きのあまりのくだらなさに、サスケは自分で自分にちょっと呆れた。
却下だ、却下。我ながら何を考えてんだか。同じアパート内に住んでいるというのに、これ以上近付いてどうするというのだ。
(大体が、ついさっき静かで落ち着きのある隣人がいいって思ったばかりだろうが)
らしくない考えを誤魔化すかのように、サスケはポケットに手を突っ込んだ。もしもあいつが隣にきたら、毎晩のように晩飯時ノックされるか、来なかったとしても安普請をいいことに、夜な夜な壁越しに話しかけてきそうな気がする。というか、たぶんする。絶対する。
確かにナルトといるのは楽しい。時々トラブルを持ってこられてとばっちりを受けることもあるが、一緒にいて気楽だし、心地いい。だけどもソレはソレ、コレはコレだ。望むべくは心安らぐ平穏な日常。いくら親しいといったって、昼も夜も気配を感じられるような距離にいるのは流石にやりすぎだろう。適度な距離があった方が、お互いにきっといい関係でいられるはずだ。
(まぁこんな中途半端な時期だしな。どんな奴がくるか、とりあえず待ってみるか)
息をひとつ、くるりと体を返して管理人室に戻ろうとすると、うつむき加減で近付いてくる薄紫のランドセルに気が付いた。普段は溌剌としているショートカットの毛先まで、今日はなんだか元気がないようだ。
「よぉ、どうした小学生」
普段ならこっそり隠れてしまうところであったが、珍しくひとりで歩いているその様子があまりに覇気がなく見えて、珍しくつい声をかけてしまった。別にナルトにあれこれ言われたせいじゃないからな、と誰に言うわけでもない言い訳を念じながら、萎縮したような小さな肩を見る。向こうもこちらから声を掛けてくるなんて思いもしなかったのだろう、驚いて見開いた瞳がまんまるになっていた。
「珍しいな、ひとりだなんて。相方は今日休みか?」
一瞬の間をおいてからおずおずと頷いた少女に、サスケはやっぱそうかと得心した。この前会った時、学校で風邪が流行ってるとか言ってたもんな。いつも双子みたいにくっついてしゃべくり合っているふたりだ、片割れが休んでしまうと途端につまらなくなってしまうのだろう。
「風邪か?お前らもバラバラになると静かだな」
「……サスケ君、は」
「あぁ、それ。お前さ、なんで俺の名前知ってんだよ。重吾さんに聞いたのか?」
言いかけた言葉に割り込むように問い質すと、少女は途端に表情を固め口を閉ざしてしまった。意図したわけではないが、ちょっと叱責するような口調になってしまったかもしれない。かすかな反省をもって病院ボランティアで鍛えた嫌味のない笑いを浮かべてみると、どういう訳か緊張でかたくなっていた幼い顔は、反対にきゅっとしかめられた。
「あのオジさんからは何も聞いてないよ」
「へぇ、じゃあなんで知ってたんだ?あ、年の離れた兄姉でもいるのか?」
「――だから、ひみつだって言ったでしょ!」
重ねて尋ねられた事が余程気に食わなかったのだろうか、ぱっと駆け出した横顔は赤くむくれているようだった。言い捨てられた科白を拾い上げることもなく、そのままラベンダーのランドセルはガシャガシャと乱雑な音をたてながら走り去っていく。
(――ンだよ、やっぱガキも女も俺は駄目だ。意味わかんねェ)
おざなりな笑顔を引っ込めて辟易しながら小さな後ろ姿を見ていると、遠くでゴロゴロと引き攣るような雷の音が聴こえてきた。雲が厚い。夕方にはひと雨くるのかもしれない。
離れていくランドセルにぶら下げられた給食袋が、不出来な操り人形みたいに上下に弾んでいた。



香燐からのデートの誘いは、大体いつも同じ文面だ。
最初の一文は『どこに行きたい?』。その次は『いつにしよっか?』。
それに返す自分のメールも大概同じだ。
どこに行きたい?に対しては『任せる』。いつにしよっか?には『いつでもいい、適当に合わせるからそっちの都合を言ってくれ』。
(やべ……飽きた)
今日も今日とて代わり映えのしない遣り取りに、サスケはぐったりと液晶画面を見た。凭れたベンチの背もたれがひやりとする。普段エコだなんだと空調をつけたがらない大学の事務課だったが、六月も終わりに近付いていよいよ増していく蒸し暑さに、教授からのクレームでもあったのだろうか。大学の大教室には、先週から効き過ぎる程のクーラーが入っている。
じゃあ今日はここに行ってみようと送られてきた今夜の待ち合わせ場所は、いかにも女の子の好きそうなカジュアルなダイニングバーだった。情報サイトか何かから見つけてきているのだろうか、添付されてきた店の画像には真っ白な壁とグリーンのギンガムチェックが踊っている。
これじゃ晩メシには物足りねェんだよな……
デザートとかいらねェし……
つーか、金かかんだよな、いちいち……
別にわざわざ一緒に食いに行く程美味くもねェし、これ月イチとかで澄ませてくんねェかななどと不遜な事を考えつつ、沈黙に戻った携帯をしまおうとすると、後ろから「ほらね、やっぱりもうイヤになってんじゃん」と楽しげな声がした。階段状になった長机の一段上から、見下ろすように水月が笑っている。
「当ててみよっか?」
「なにが」
「『妙に小洒落た居酒屋にもやたらオーガニックなカフェメシにも飽きた、映画も買物も趣味が合わなさそうだし付き合うのが苦痛、でも一番退屈なのは毎回同じような事ばっか言ってる彼女のおしゃべりかもしれないな』ってとこ?」
「……そこまでは言ってねェよ」
「でも大体合ってるでしょ?」
早いなあ、まだ一ヶ月も経ってないんだよ?と言った声は、内容に反してやけに嬉しげだった。そっち行っていい?と訊いたそばから既に前に移ってきている水月は、了承を得ることなど最初から必要ないと思っているのだろう。
「だから言ったじゃん、早く別れちゃいなよって。僕といた方が楽しいよ、絶対」
「そうもいかないんだよ。約束だったし」
「なんで?いいじゃんそんなの、もう無効でしょ。じゃなくて――あ、そっか、こっちから別れを切り出すのが嫌なんだ?」
こじれたらめんどくさいなーとか考えてるんでしょ?
重ねて言い当てられて、今度は言葉に詰まった。ほぼ当たりだ。昔一度こちらから別れようとしたら逆に向こうの闘志に火をつけてしまったらしく、後後までしつこく追い回され大変な目にあった事がある。
そうでなくとも、こちらから別れたいと言い出すその意欲さえも湧かないというのが正直なところだった。別に今すぐ顔も見たくない程嫌いなわけではない。顔の美醜にこだわる方ではないし(まあ昨今の女の子は皆それぞれ工夫をこらして、それなりに見目良くしていることだし。どんな努力をしているかというところまでは考えが及ばないけれど)、喋ってる内容は全く興味が持てなかったが、母親のお喋り同様、女の話なんて適当にあしらっていれば大体自己完結するものだと思っている。
こちらから決別を切り出す労力を使わずとも、向こうがこっちに飽きてくれるのを待ったほうが数段楽だし、スムーズだ。これが過去の交際から学んだサスケの結論である。
「ねーサスケ、知ってる?」
期待するような顔でこちらを覗き込んできた水月が、からかうように言った。
愛してるの反対は、嫌いじゃなくて、無関心なんだってさ。
「そうしてみると、あの香燐て子は全然サスケに愛されてないんだねー、カワイソウに」
「……愛してるって言葉を、そんな気軽に使うんじゃねェよ」
愉快犯のような面白がる口調になんとなく不快になって突っぱねると、ニヤニヤしていた水月は一瞬きょとんとして笑いを収めたが、すぐにまた口許を緩めた。サスケって真面目だよね、僕そういうとこも好きだなぁなどと冗談めかして言う。
「真顔でそんな事言っちゃうくせに、関心のない女の子と惰性で付き合っちゃってさ。サスケっていい加減なのか真面目なのかよくわかんないよね」
「人をろくでなしみたいに言うな。俺にだって『最愛の人』くらい、ちゃんといらァ」
遠慮のない不躾さに他意なくそう言い返すと、笑っていた水月の頬が急にこわばった。……え?なにそれ、どういう事?と押しつぶしたような早口で質してくる声が、やけに真剣味を帯びている。
「『本命』がいるってこと?」
「まあ、そうだな」
「なんでその人と付き合わないのさ?」
「は?いや、付き合うとか付き合わないとか、そういう次元の話じゃないというか」
「何か事情があって付き合えないんだ?」
「?……まあそんな感じ、かな?」
「もしかして、あの筋肉馬鹿のお友達?」
低く、上目遣いで尋ねられて、サスケはぎょっとした。冗談で言っているつもりにしては、声に余りにもゆらぎがなかったからだ。
「ばッ…んなわけねェだろが、キモイ事言うな!」
突拍子もない発言にかっとなった拍子に、不意に夢で得た唇の感触が蘇った。まやかしのくせに異様にリアルなそれに眩暈を感じながら大袈裟なほど力を込めて否定をすると、水月はそれさえも怪しむ目付きをする。サスケは依然探るようなまなざしを解かない水月に頭を抱えた。
もしかして、本気で疑われているのだろうか。
嘘だろ、勘弁してくれ。
「……なんでナルトが出てくるんだ」
「あ、ナルトって名前なんだ?ふーん、変な名前」
「言ってなかったか?あいつ男だぞ」
「うん、だから付き合えないのかなって」
「いやいやいやいや付き合うとか、マジ無いから。そういう趣味ねェから、俺もあいつも」
「へぇ――じゃあ、サスケは恋人にするなら絶対に女の子なんだ?」
「他にどんな選択肢があるってんだ」
「男はどうしたってお友達止まり?」
「そりゃそうだろ……お前違うのかよ?」
なんだか真摯な様子の水月に気圧されながらもおそるおそる確かめると、また一瞬きょとんとした水月が今度はにっこりとほほえんだ。「ううん、違わないよ」と答えたその顔が、酷く嬉しそうに輝いている。
「じゃあいいよ。僕はそっちで一番を目指すから」
「は?なんだそれ」
「ううん、なんでもない」
ねぇサスケ、君と僕ってホント、気が合うよね。
座った尻をほんのちょっとこちらに寄せながら、意味がわからなくて戸惑うサスケを捕まえた水月が、うたうように言った。
強すぎるエアコンの風が、半袖の腕をゆっくりと撫でて散っていく。
知らぬ間に教壇の上に立っていた初老の教授が、続けざまに二回もしたくしゃみを契機に、ざわめいていた教室がだんだんと静まっていった。



「今日さァ、外回りでシカマルに会ってさ」
オイルで濡れた唇をナプキンで拭うと、赤毛の彼女はとっておきの打ち明け話でもするようにたっぷりタメを作ってから話を切り出した。水が半分になったグラスに、赤い口紅が移っている。ほんのひとくちそれを含んで唇を湿らせた香燐は、ちょっと背中をしならせ身を乗り出すようにすると、とうに食べ終えて手持ち無沙汰にグラスに付いた水滴を観察していたサスケに、ぐぐっと顔を近付けた。
「シカマルの彼女の話、聞き出してきちゃった」
「……へぇ」
僅かに興味を引かれて目線を上げると、まっすぐに向かってきていた香燐の目とあった。きゅん、と一瞬、眩しいものでも見たかのように切れ長のまなざしが細められる。今日も彼女は眼鏡をしていない。
シカマルに長年付き合っている彼女がいることは知っていたが、秘密主義な彼からは彼女がいるという事以上の情報を聞き出せた事がない。あのめんどくさがりな男が長く付き合っている女とはどんな奴だろうと思い、「…それで?」と話を促すと、慌ててうっとりとしていた瞳が元に戻った。
「アイツの彼女って、年上なんだな。しかもスゲーお嬢様らしい」
「ふぅん」
「警備会社の社長令嬢とか。なんか前にサスケと一緒に来た、金髪の奴?アイツのバイト先だとか言ってたぞ」
(なんだ、じゃあシカマルのやつ彼女のツテでバイトしてたのか?)
二年前、偶然再会したシカマルにナルトとはバイト仲間だと聞かされた時、彼らしからぬバイト先だと意外に思ったサスケであったが、香燐からもたらされた情報にようやく腑に落ちた。なるほど、シカマルのような奴でも、好きな女に対しては格好つけたいと思うものらしい。
――それにしても、よくぞあのシカマルからそんな話を聞き出したものだ。
綺麗にまとめ上げられた髪をぼんやりと眺めながら、サスケは少し感心した。この女、意外と手腕家なのかもしれない。
通常のサイクルだったらそろそろこちらの様子を窺いつつ向こうからじりじりと距離を取り出すか、逆に躍起になってやたらベタベタと接触したがるかのどちらかに突入する頃合なのだが、香燐はそのどちらにも傾く気配がなかった。こちらから連絡することは皆無だし、会っていてもそうたいして話が盛り上がるわけでもないままであるにも関わらず、だ。定期的に連絡を寄越し、やっつけ仕事のような相槌しか返さないサスケにも気にする事なく、依然楽しそうにおしゃべりを続けている。
(昔っから、根性だけはあったもんな)
真っ暗な公園で動くことなく鬼に見つけられるのを待ち続けていた少女を思い出せば、この状況にもなんとなく頷けるものがあった。あの頃から、香燐はどういうわけだか自分に随分と傾倒していたのだった。サスケ自身からしたら、こんな俺のどこがそんないいのかと首を傾げるばかりだが、全く気落ちする気配もなく嬉しげに待ち合わせ場所に現れる香燐を見る限り、長年ずっと想い続けていたという言葉は伊達ではないということか。
――でさ、と早くもぼんやりし始めていたサスケは、力強い香燐の声に呼び戻された。
なんだ、まだ続きがあったのか。
「今週末、あいつらも誘って四人で出かけないか?」
「あァん?」
「ダブルデートってやつ?いいだろ、一度くらい」
というか、もう約束してきちゃったし。
いつの間にか置いていかれてた食後のコーヒーにミルクをたっぷり注ぎながら、あっさりとそう言った香燐に、再び「……あァん?」と一段低い声が出た。
なんだそりゃ、ただでさえめんどくさいと思ってるのに。この上更に面倒を連れてきたのかこの女は。
「冗談だろ。今すぐ断ってこい」
真顔で威圧をかけてみたが、幸か不幸か、辛抱強く打たれ強い彼女にはもう随分と耐性が出来てしまっていたらしい。ティースプーンを摘む指先が止まったが、それもほんの一瞬だけの事だった。
「そんな怒ることねーだろ?シカマルなんだし」
「シカマルだけじゃねェだろが」
「心配すんなって、なんかすげーサバサバした彼女らしいしさ。サスケだって見てみたいだろ?アイツの彼女」
「ああ、見るだけならな。一緒に出かけたいとは思わねェ」
憤然と腕を組みアンティーク加工が施された木椅子で舌打ち混じりにふんぞり返れば、一連の行動を見守っていた香燐は余裕綽々な態度で「大丈夫だって」と言った。
何が大丈夫だ、と睨みつけてみたものの、隙の無いアイラインのまなじりにぶつかったそれは軽くいなされる。
「なにも遊園地や水族館みたいなザ・デート!なとこに行こうってんじゃねーから」
「当たり前だ。つか俺行かねェし」
「ちゃんとサスケも楽しめるとこだぜ?」
「信用できるか」
「本当だって。せっかくシカマルと一緒に考えたのに」
「だからなんでシカマルを巻き込んだんだよ。4人でゾロゾロ歩き回るなんてまっぴらだ」
「あっそう。折角だから大人数で行ったほうが、応援になるかと思ったのにさ」
――あーあ。アイスホッケーなんて見たことなかったから、楽しみだったのになー。
歌うような旋律で芝居がかったため息をつきながら漏らされたひとことに、とんがっていた気持ちはぽきんと他愛なく折られた。おもむろにぽってりとしたコーヒーカップに口を付けようとしている、香燐の白い鼻梁を見詰める。見計らっていたかのようにやってきたウェイトレスが、氷だけになったグラスに水を注いで去っていった。
「……あれ?やっぱ、行きたい?」
視線に気が付いた香燐が、してやったりといった顔できゅっと赤く光る唇の片側をあげた。
小さく鼻を鳴らしながら溢れそうなほどなみなみつぎ足されたグラスを慎重に持ち上げると、店のロゴが刻印された白いコースターに、バブルリングみたいなシミがふやけて浮かんでいた。