第一話

『――午後も全国的にすっきりしない天気でしょう。九州は南部を中心に雨が降る見込みです。中国・四国から東海の雨は次第にやみますが、雲の多い天気が続くでしょう。関東から北海道は太平洋側ほど雲が広がりやすく、所々で雨の降る地域もあるでしょう。6月1日付けの気象庁の発表では、先週梅雨入りした九州に続き明日には関東地方にも梅雨入り宣言が出されるのではないかと――』

(ああ、またこの季節がやってきたか……)
小さな液晶画面に浮かぶウェザーニュースに、雨雲みたいな憂鬱が頭の中に立ち篭めた。
梅雨は嫌いだ。物は黴易いし、洗濯物は生臭くなるし、生まれつき癖のある髪は普段以上に落ち着かない。
兄はあんなに素直な髪をしていたのに、どうしてこうも違うのだろう。
ほんの少しだけ母親を恨めしく思いながら、窓ガラス越しに広がるキャンパスを眺めた。弱い光に打たれて、植え込みの紫陽花が緑を濃くしている。気圧の変化に弱いのは昔からだ。低気圧が接近すると、どうも体全体が重たくて仕方がない。
雨が近い。
湿った大気に早くも痛みを訴え出したこめかみを抑え、サスケは寄せた眉で陰鬱な影を刻んだ。

     ☆
      
「何熱心に読んでんの?」
後ろからスマートフォンを操作する手元を覗き込むようにして掛けられてきた声になんとなく不快を感じながら、開いていた画面を閉じた。素っ気なく「別に」とだけ返して立ち上がると、引き止めるように肩を軽く掴まれる。
今度は間違いなく不快感を感じながら面倒くさそうに振り返ると、「ね、うちは君この後って何か予定入ってる?もしよかったら一緒にお昼とかどうかなー…なんて」とグロスでピカピカした唇が甘えるように言った。綺麗にカールした髪に、確か第二外国語の授業か何かで一緒だった女だろうかとぼんやり思う。だが同じような髪型の女生徒はキャンパス内に山程いるから違うかもなと思い直し、まあそれも含めてどうでもいいかと結論付けた。
「ああ、悪いけどそういうのなら、他をあたって」
俺仕事もあるし、と付け加えてそのまま立ち去ろうとすると、えー?バイトとか?と更に追ってくる声がした。
「なになに、なんのバイトやってんの?私お客さんになって遊びに行っちゃおうかな」
「遊びに来れるような仕事じゃねェし。てか、バイトじゃねェし」
しなを作る女生徒がいよいようっとおしくなってきて邪険な言い方になったが、彼女はそれさえも気に留めていないようだった。なにそれー?と無頓着に尋ねてくる化粧臭い顔に見向きもせず、とっとと大教室の出口に足を向ける。
「ちょっ……ねえ、ひやかしに行ったりしないから、教えてよ!」
にわかに必死な感が滲んできた彼女を軽く無視していこうとしたところで、「あーあ、ダメだってそんなやり方じゃあ」という茶々が入った。少し小柄な人影が、いつの間にか横にきている。
「サスケはそうやってしつこくされんのが一番嫌いなんだよね。ランチはもうボクが先約しちゃってるし。あと、キミもサスケの華麗に働く姿を見たいんだろうけど、きっと部屋に籠ったまま窓に鍵掛けられて完全にシャットアウトされるだけで、行くだけ無駄じゃないかな。まあキミが引越しでもする覚悟まであるようなら、少しは脈があるかもしれないけど」
揶揄するような言葉に明らかに気分を害したらしい女生徒は、軽く膨らんだ頬を隠すことなくこちらを睨んだ。尖った視線の先にいる横槍の主は、丁寧に作り上げられたその顔が台無しになるのを面白そうに観察している。
「何それ、訳わかんない。引越し屋のバイトってこと?」
「残念!まあ、わっかんないだろうなー、仕方ないけど」
「――水月!」
茶化して笑う友人を軽く諌めてサスケはカバンを持ち直すと「いいから、行くぞ」と先に立って階段を降りだした。水月と呼ばれた男子生徒はニヤニヤしながらついてくる。
「なによ、私はうちは君と喋ってたのよ。なんであんたが間に入ってくんのよ」
上段から見下ろすような角度で投げ付けられた怒りに、水月がくるりと振り返った。挑発するような笑顔がその顔に浮かんでいる。
「だって、ボク友達だもん。まあ友達というより、サスケの管理人っていうか……」
「水月!」
有無を言わせない強さで遮られると、男にしては華奢な肩が(わかってるって)というように竦められた。「じゃ、そーゆーコトだから」と嘲るようにひらひらと手を振りながら、憮然としたままの女生徒を残して教室を後にする。
ざわめきが完全に聴こえなくなる程まで回廊を進んだところで、ふと早まっていた歩調を緩めてサスケが言った。
「水月……お前、ああやって俺の仕事を面白可笑しく言うのは止せ」
「だーって、余りにもギャップがあって面白いんだもん。それにあの子結構しつこそうだったし、サスケの肩に触ったでしょ?なんか、ムカついちゃったからさ」
反省の色もなく笑う友人に、サスケは小さく息をついた。
目指していた大学に再挑戦して、無事合格してから丸一年。ストレート合格している水月は年齢こそは下だが、同じ学部の同期生だ。入学してすぐの頃に偶々同じ授業を選択している事が多く、顔見知りになった頃に彼から声を掛けられて親しくなった。
「ね、ボク達同じクラスを選んでる事多いよね?似たようなチョイスが多いって事は、結構気が合うって事じゃないかと思うんだけど」
去年のやはり梅雨入り直前の時期にそう言って話しかけてきた水月は賢そうな目を輝かせて、大抵ひとりで教室の長椅子に席を取っていたサスケの隣に物怖じすることなく座ってきた。水月の指摘通り、確かに何かと符丁のあう事が多い彼とサスケは校内で一緒にいることが多い。が、どういう訳かこの年下の友人はサスケに対して独占欲じみた行動をとることがあり、それにサスケは時折閉口させられるのだった。
「まーいいじゃん。それよりお昼何食べる?」
「あ、俺今日はもう帰るから。他の誰かと行ってくれ」
「えーっ、ボクさっきランチはサスケと食べるって言っちゃったのに!」
さっきの女とまた鉢合わせしちゃったらメンドくさいなーとブツブツ言う水月を置いて、さっさと外門へ向かうサスケに、「あーもう、ボクもサスケのとこに引っ越そうかなぁ」という独り言のような水月の声が追い掛けてきた。
案外、真剣な声だ。
「悪ィな。今、空き部屋はないんだ」
ニヤリと笑って振り返ると、えー!と本気で残念そうな水月がむくれているのが見えた。懐かれ過ぎて困るような一面もないわけではないが、なんやかや言っても自分は結構この友人を気に入っているのだ。こういう裏表のないタイプは嫌いじゃない。
あけすけなその表情にそんな事を思いながら、曇り空のキャンパスを早足で通り抜けた。折り畳み傘は嵩張るから持ち歩かない主義だ。どうにか雨が降り出す前に、アパートまで辿り付けるだろうか。
賭けるような気分で曇天を見上げて、サスケは急ぎ足をほんの少しの小走りに変えた。


「すみません!ちょっと遅くなりました」
古びた蝶番を軋ませて木戸を開けると、クリップボードに挟まれた紙面に落とされていた視線が穏やかにこちらを見た。大丈夫ですよ、と言う声も深く落ち着いている。年上であることには違いないが、確か彼も自分とはそう変わらない年齢だった筈だ。しかし一回り程も上のようにも聴こえるその響きに安堵するように、サスケは後ろ手でドアを閉めた。
「回覧板ですか?」
「ええ、さっき隣の家の方が持ってきてくださって。今回そんなに沢山じゃないんで、もし今目を通していただけるようでしたら帰りがてらオレが隣に持っていきますよ」
「いや、遅くなった上にそれは申し訳ないんで……俺が後で持っていきます」
「ついでだし、今日は別に急ぐ用がある訳じゃないですから」
そう言って笑顔で渡されたクリップボードを受け取りながら、サスケは遠慮がちな微笑みを浮かべた。「すみません、助かります」と小さく言いながら、肩に引っ掛けたカバンもそのままに挟まれた印刷物にざっと目を通す。
「今日のお客さんは三名でした。クリーニングの業者さんと、植木屋さんと、その回覧板を持ってきてくださった隣の奥さん。植木屋さんが裏の植え込みを見て、少し風通しを良くしてやらないと湿気が篭もり過ぎて虫が出やすくなるかもと言ってました」
「あー、それは俺も気になってた。去年放ったらかしてしまったから、今かなり茂り過ぎてますよね。あれって適当に切ったらやっぱダメですか?」
「どうでしょう……オレも植物は詳しくないんで」
ぺらりと紙を捲って書かれた文字を追いながら言った懸念事項に、慣れた様子で青年は曖昧に返事を返した。よいしょ、と立ち上がった姿は、サスケよりも頭一つは大きい。
「あと、チヨばあさんからまた差し入れが。お昼にどうぞって」
言われて目をやると、ラップ掛けされた皿がひとつ、端に寄せてあるデスクに乗っているのに気がついた。中身はたぶん、いつも通りならばおむすびの筈だ。湯気を受けた薄いフィルムが、白く曇っている。
「重吾さんは?よかったら半分食べていきませんか」
「オレの分は、もうさっき頂いてしまいました」
にこりと相好を崩してそう言った彼は、その瞬間だけは年相応の若者に見えた。礼儀正しく思慮深い彼は、今ではすっかりチヨばあのお気に入りだ。甘いものがダメならじゃあ何なら食べられるんだい?と尋ねられて、おかかのおむすびが好きだと答えたら、それ以来差し入れは銘菓から昼時の握り飯に変わった。管理人室にいるときは大体適当な弁当を作ってきていたので、正直これはとても助かっている。なんとなくあの婆さんが作った握り飯には何か一服盛られているのではないかと当初は疑って掛かったりもした事もあったのだが、口にしてみれば絶妙な力加減で握られたチヨばあのおむすびは中々のもので、今では少し楽しみにしている程だった。
「あ、あと二〇九号室の方が、退去日が決まったってさっき連絡しにきてくれましたよ」
解約通知書はデスクの引き出しの中です、との言葉にクリップボードを手にしたまま引き出しを開けると、見覚えのあるフォームが印刷された用紙がすぐに見つかった。先日店子に手渡した通知書には、既にきちんとした文字で退去日が書き込まれている。
「ぴったり、一ヶ月後?」
「梅雨が明けているといいですけど……一ヶ月後じゃあちょっと微妙ですかね」
雨の中の引越しは大変ですしね、と憂慮する青年はサスケが回覧板を読み終えたらしいのを察すると促すように手を出した。すみません、よろしくお願いしますと言いながらその大きな手に回覧板を託す。こういう押し付けがましくない気配りができるところが、彼が店子達からも慕われている理由だろう。
一年前、大学に通うようになりこれまでのように日中ずっと管理人室にいられなくなったサスケのために、代理の管理人として知人の紹介でやってきた重吾は、実年齢こそサスケといくつも違わなかったが不思議な程落ち着きのある人格者だった。午前中はほぼ毎日大学に行かなくてはならないサスケに代わり主に掃除全般を受け持ってくれている重吾は、仕事は丁寧だし物腰も穏やかで言葉に嫌味がない。一緒に仕事をする相手としては申し分のない人物だ。
「――天気、まだあと少しはもちますかね」
昼下がりの時間帯としては暗すぎる表通りをうかがった重吾に、サスケは「傘、持って来てないんですか?」と尋ねた。確か管理人室にも傘が置いてあったはずだ。先程見上げた空はいつ降り出してもおかしくない様子だったし、もし傘がないようだったらここにあるものを遠慮なく持って行って貰えばいい。
「いや、傘は持ってきてるんですけど……雨降ると、鳥達が羽が濡れて飛べなくなってしまうでしょう?この時期、まだ上手く飛べない雛鳥も多いから。飛べないまま猫とかにやられてしまう事もあるし、せめて日が沈むまでもってくれると雛鳥も巣に戻ってるから安心なんですけど」
いつになく饒舌な重吾をちょっと意外に思いながら、「鳥、好きなんですね」と笑うと、ほんのり日に焼けた頬が赤くなったのが見て取れた。照れたように含羞む青年は、自分のリュックと一緒に回覧板を手に持つと、管理人室の木戸を潜る。人一倍上背のある彼は、少し屈まないとここのドアを抜けられない。そうでなくとも、古いアパートの造りはきっと彼には窮屈に感じられる部分が多いだろう。
「じゃあ、すみませんが明日はよろしくお願いします。また明後日に」
そう言って出て行く背中を、穏やかな気分で見送った。
静かになった管理人室にやわらかい会話の余韻を感じながら、サスケはまだかすかに温かい皿に手を伸ばした。


(ふーん、あの人って郷里は北海道だったんだ)
チヨばあからの差し入れを頬張りながらデスクの中に入れられていた解約通知書に目を通して、サスケは数回会話をしただけの隣人を思い浮かべた。少し陰気ではあるが穏やかそうな青年は、サスケよりもずっと前、兄がここに住んでいた時よりももっと以前からのここの住人だ(ということは実は結構年はいってるのだなと、サスケは今更ながらに気がついた)。
結婚を機に実家の稼業を継ぐことになったのでと退去の申し出をしに来た時、転居先は婚約者の実家のすぐ近所なのだと照れくさそうに言っていた。こちらから質問したわけでもないのに勝手にそんな事を語るところから察するに、相当その幼馴染との結婚が嬉しいのだろう。
解約通知書に書かれた転居先の住所は、遠く北海道の住所が記されていた。確か、北海道には梅雨がないのではなかったか。おぼろげな記憶に羨ましげな溜息をついて、サスケは通知書をファイルに綴じた。
彼が退去する日の次の日あたりにハウスクリーニングの業者を予約しておかなくてはと、頭の中で段取りを付けながら指に付いた米粒を啄んで、空になった皿を奥の簡易シンクでさっと濯いだ。ふと備え付けられた小さな水切りに、湯呑が二つ伏せられているのを見つける。どうやら重吾は差し入れをしに来たチヨばあを、昼食にも誘ったらしい。
大柄な重吾と子供程の大きさしかないチヨばあがニコニコと向かい合っておにぎりを頬張る光景を想像したら、あまりの平和さに思わず口許が緩んだ。今は亡き兄も、かつてはそんな画の中にいたのかもしれない。
並べられた湯呑の隣に洗った皿を立てかけて、サスケは大きな伸びをひとつすると管理人室のドアを開けた。湿度の高い表へ出て、ぐるりとアパートの裏手へ回る。
さっき重吾との業務連絡の中にあった植え込みの前に立つと、伸び放題になっているその姿を改めて確認した。木の葉荘などという名前がついているだけあって、歴史の古いこのアパートには、このあたりの集合住宅には珍しく敷地内に沢山の木々が植わっている。確かに、指摘された1階の奥辺りの土は他の場所よりも黒く湿っていて、いかにも風通りが悪そうだ。
かといって植木屋に頼むのもな……と去年出してもらった見積もりを思い出し、サスケは悩ましく腕を組んだ。とにかく賃料の安いうちのアパートでは、管理するための費用も常にギリギリだ。実家の病院経営も順調なようだから金銭面で別に困っているわけではないが、このアパートに関しては全面的に自分に任せてもらっているのだから、できることならば赤字は出さないでやっていきたかった。
イチかバチか、自分で適当に刈り込んでしまおうか。
鬱蒼としてしまっているところに更に蔦まで絡まってしまっている垣根を見て、サスケは思った。まあ植物なんて、とりあえず根っこさえ残ってればまた生えてくるだろう。葉っぱだってこれからまたいくらでも茂るだろうし。見渡してみれば春からずっと放置されていた敷地内には雑草も散々にはびこっていて、元の状態に戻すには相当骨が折れそうだった。時間が経てば経つほどに酷くなっていく一方だろうから、近々本腰を入れて手を入れなければならないだろう。億劫になる気持ちを宥めながら、サスケは荒れ放題になった裏庭を後にした。
そのまま表に回りながら、今度はゴミ集積場をチェックした。几帳面な性格の重吾の手で、今日もここは丁寧に掃き清められている。
場所柄どうしても水を打って掃除するこの場所は、去年の梅雨時は黴が生えてしまい大変だった。今度その旨を重吾に伝えておかなくてはと思いながら通りに目をやると、遠くから並んだランドセルがぶつかり合うようにおしゃべりをしながらこちらへやってくるのが見えた。立っているサスケの姿に気がついた片方が、弾む声で「あっ、管理人さーん!」と叫んで大きく手を振っている。
「おかえり」
近くに来た二人に一言だけ告げると、顔を赤らめた少女達が嬉しそうに「ただいま!」と応えた。一昨年ちょっとしたことから顔見知りになったこの小学生は、勘違いでなければどうも自分に妙な憧れを抱いているようだ。
まああの位の女の子ってのは年上の男に好き勝手な夢を描くものだから、とりあえずニコニコしておいてあげればいいわよ、といういい加減なアドバイスをくれたのは以前手伝いに駆り出されたことのある病院の看護師だ。受診そっちのけで自分について回るようになってしまった少女達に辟易していたサスケに、叔父の幼馴染だというその看護師は苦笑しながら言ったものだった。さすが、美男美女揃いのうちは一族。君の叔父さんも黙ってクールに立ってれば、それなりにカッコよく見えるのにね。
眩そうにこちらを見上げてくる眼には気が付かないフリをして「雨が降ってくる前に早く帰りな」と流すように言うと、「はぁい」と揃った返事が返ってきた。二人組を見送りながら諦めたようにひとつ息をつくと、それに気がついたかのようなタイミングで少女の片割れがちらりと振り返る。取り繕うようにその場しのぎの笑いを浮かべると、どういうわけか急にふいっとショートカットが横を向いた。
横顔が、なんだか不満気だ。
(なんだァ?)
何か、機嫌を損ねるようなところがあったのだろうか?
よくわからないままに遠ざかっていくランドセルにサスケはちょっと首を傾げたが、すぐに気を取り直して共同玄関から再び管理人室へと戻ってきた。
明日は珍しく重吾が休みを取りたいと申し出てきたため、久しぶりに朝から丸一日管理業務に就く事になっていた。都合のいいことに出欠に厳しい教授は出張中で授業は休講だし、他の講義は水月と同じだから後で彼にノートを見せてもらえば事足りるだろう。
気兼ねなく明日は大学に行かず、仕事に精を出せる。水月などは地味だなんだと好き勝手な事を言うが、中々どうして自分はこの仕事を気に入っているのだ。
ぬるく湿った風が、少し開けたドアから入り込んできた。近付いてくる雨の気配に、また頭が重くなる。
(早く梅雨明けしねェかな……)
ああ、まだ梅雨入り宣言も出てないんだっけかと自嘲するように呟いて、サスケはカバンからテキストを出すと狭いデスクに整然と広げた。沈みがちな気分を押し退けるように大きく深呼吸をすると、今日出されたばかりの課題に取り組むべく分厚いテキストに向かった。


たいした事件もなく就業時間を終えて戸締りをし、チヨばあの所へ礼を添えて皿を返却すると、いよいよ空には昼間よりも更に黒い雨雲が立ちこめてきたようだった。外が真っ暗なのは、たぶん夕刻のせいだけではないだろう。夏が近い今時分ならば、本来なら表はまだしばらくは明るい筈だ。
自室に戻って簡単に部屋を掃除していると、携帯にメールがきているのに気がついた。幼馴染からの、これから飲みに行かないかという誘いだ。天気のせいで頭の動きが鈍くなっているためか、予定していた進度まで全く追いつけなかった課題に考慮して明後日ならばと返信すると、少しの間の後にそれを了承する旨が届いた。そういえばいつもならあともうひとり一緒に誘う人物がいるはずなのだが、今日は何故かその第三の人物には連絡をしていないようだ。
あいつは今日夜勤だったのかなと深く気に留めることもなく携帯を充電器に差すと、夕食の献立を考えるべく冷蔵庫のドアを開けて中を検分した。ここのところ買い出しに行っていなかったせいでほぼ空なその状態に小さく溜息をつくと、静かに扉を閉める。
そういえばこの前実家から送ってきてくれた荷物の中に蕎麦があったなとふと思い出し戸棚を探ると、記憶通り未開封の乾麺が見つかった。母さんアリガトウと昼間の恨み節などなかったかのような感謝を述べ、グラグラと煮立つ鍋で蕎麦を茹でて水で締めると、適当に海苔を散らす。
実家のある田舎の方と比べて、こちらの水はなんだか生臭くて気持ちが悪い。湯がいた蕎麦にもそれが移っているような気がして、それを誤魔化すかのようにチューブから出した山葵をたっぷりとつゆの入った椀に入れた。ミネラルウォーターのペットボトルと一緒に蕎麦を盛った皿を持って、去年購入した小さな卓袱台に出来上がった簡素な夕食を並べる。
TVのない部屋でタブレット端末を覗き込みながら蕎麦を啜っていると、ばらばらと屋根を叩く雨音が聴こえてきた。とうとう空の決壊が始まったらしい。
箸を置いて立ち上がり、開けていた窓を閉め溜息をついた。昼間読んだウェザーニュースの通りなら、関東地方もたぶんこのまま梅雨入りだろう。
裏庭の手入れのこともあるし、できれば明日は雨だけでも止んで欲しいなと祈りながら残っている蕎麦を啜り込むと、食器を片付けて壁に寄せた文机に向かった。カバンを引き寄せて、中から再び昼間から格闘しているテキストを取り出す。専門教科ではなく一般教養としてとっている講義のそのテキストは、担当している教授本人の著書だった。出されている課題はその書籍を完全に読破しないと取り組めないようにうまく仕組まれているものだったが、肝心のその本はどうにも分厚くて、しかも著者の趣味なのか変に持って回った書き方が多く非常に読み辛いものだった。ただでさえ頭痛がするってのにと、ミネラルウォーターで口許を湿らせながら気乗りしない頭で難解な文章を読み下す。
あぐらをかいたまま文机に肘をついて羅列された文字に目を落としていると、隣の部屋からゴトゴトという物を動かす音が壁越しに伝わってきた。こんな時間にこんな音が隣から聴こえてくるのは、自分がここに住みだしてから初めての事だ。
おそらく引越しのための準備をしているのだろうと想像し、サスケはそのやむを得ない騒音を鷹揚に受け止める事にした。むしろ隣接する部屋の間にある壁がこんなに薄いのに、これまで隣りから一切喧しい音がしてこなかった方が不思議なのかもしれない。きっと大家である自分に対してかなり気を使ってくれていたのだろうなと少し申し訳ないような気分にもなりながら、サスケは再び分厚い書物に目を落とした。
どうにか最後の一ページまでたどり着くと、すっかり夜は更けていた。思った以上に読破に時間が掛かってしまったのに、僅かな苛立ちを感じる。
重吾のいない明日は、久しぶりに自分が朝の清掃をしなければならない。明日は不燃物の日だからそう量は多くないだろうが、収集車の来る八時までにはここの住人達の出すゴミを纏めあげておかなければ。そのためには、その時間よりも先に起きて仕事に就いておく必要があった。ついでに溜まっている洗濯やら自分の雑事やらを片付けるためにも、明日は早起きをして朝一番から動けるだけ動いておきたい。まだ起きていられないこともないが、有意義な明日を過ごすためにも今夜はもう寝てしまう方が得策だろう。
そう考えるとこのまま課題に取り掛かるのは諦めて、サスケは広げていたレポート用紙を片付けた。シャワーだけの入浴を済まし、寝支度を整えると卓袱台を壁に立て掛け押入れからひと組しかない布団を出す。
まだそんなに眠気を感じていなかった頭も、灯りを消して布団に入ると他愛なくトロトロと緩んでくるのを感じた。
疲労した眼球に、落ち着いた闇が心地よく染み込んでくる。
大きなあくびをひとつして、仰向けになっていた体を反転させると、すぐに本格的な睡魔がやってきたようだった。
外の雨音が段々遠のいていく。
動きの鈍くなった頭が、眠りに落ちる寸前の甘い気怠さにうっとりとした。

「――あのう、サスケ……さん。起きてるかってば?」

――ぬるい闇で満ちた部屋に侵入してきた遠慮がちな訪いに、気持ちよく微睡み始めていたサスケは唐突に揺り起こされた。
半ば無理矢理に覚醒させられた頭が、ぼんやりとした頭痛と共にはっきりしだす。
重々しい仕草で体を起こすと、鈍く痛む首をゆっくりと左右に振った。こんな時間に、こういう事をするような奴の心当たりはひとりしかいない。
ふつふつと湧いてくる怒りを感じながらも夜具から抜け出すと、サスケは玄関を開けた瞬間から向こう側に立つ背の高い影に臆す事なく不愉快さを全開にした顔を見せた。
それでもドアを開けてもらえた事に安堵したのか、不躾な訪問者は「こ、こんばんは~」と照れたような笑いを浮かべている。
振り返って枕元の時計を見れば、午前一時。
寝巻きに自前の枕持参というその出て立ちに嫌な予感をひしひしと感じながらも、サスケは眠気で霞む視界に映る金髪頭を殺気立った目付きで睨みつけた。
自慢じゃないが、自分は寝起きの悪さには定評がある。
しかも寝入りばなの最も幸せな時間を邪魔されたとあっては、相応の理由でもない限りおいそれと許す訳にはいくまい。
「………なんの用だ。返答次第ではブッコロス」
地獄の底から這い出してきたような声でそう告げると、広い肩がびくりと揺れた。でかい図体をしているくせに変に気の弱いところのあるこの男が、サスケの不機嫌に滅法弱いというのも承知の上だ。
「あのさ、あの――ちょっと、のっぴきならない事情により、家に入れなくなってしまいまして」
「ああん?何だ、また鍵落としたのか」
こちらの怒りのボルテージを測るかのように、上目遣いでおどおどと言い訳じみた事を告げる訪問者に、サスケは以前にもあった真夜中の襲撃を思い出した。あの時も管理人室に保管されているマスターキーを取り出すために、うんざりながら寝巻きのまま階下に連行されたのだった。性懲りも無く、この馬鹿はまた同じ失態を繰り返したのだろうか。
「じゃなくて。とうとうヤツが、現れたんだってばよ」
「は?ヤツ?何言ってんだテメエ」
要領を得ない説明に、乾きたての髪をガリガリと掻きながら苛々と訊き返すと、男は枕を両手で抱え直して一瞬息を詰めた。急に真面目な顔になり、抱きしめた枕の端からそっと訴えかけるかのような青い瞳が覗く。
「サスケも見たこと位あるだろ?大昔から人類に戦いを挑み続けてくる、黒くて、テカテカしてて、羽があって」
「黒くて、テカテカ?」
「恐ろしい程の生命力と、驚異の素早さで常に人類を翻弄する、あの……」
「――おい。まさかとは思うが、それってゴキ…」
ズキズキと痛くなってくる頭を抑えながらその名を告げようとすると、「うあぁあ、フルネームで呼ぶなってば、おぞましい!」と掠れるような悲鳴があがった。ぎゅう、と締め上げるように力を込められた枕が無残に潰れる。そういえば昼間見た裏庭の、最も荒れた辺りはコイツの部屋の前だった。植木屋が言っていたように、溜まった湿気は虫を呼びやすい。その招かれざる客が出現した原因も、元を正せばこちらの管理不行き届きがいくらかは関係しているのかもしれない。
そうチラと思えば口には出さないが微かな後ろめたさを感じ、サスケはほんの少しだけ尖らせていた気配を引っ込めた。
「さっき寝ようとしたら、部屋のど真ん中をヤツが横切っていったんだってばよ!オレの、布団の、真上を縦断して!」
「るせェなあ、そんなのもうどっか行っちまっただろ。とっとと寝ろ」
「でもッ、そのままそいつ、オレの布団の中に隠れやがったんだって!ヤツが潜り込んだ布団で寝るなんて、オレってば耐えらンねェよ!」
説明された情景を想像すると、さすがに気分が悪くなった。自らを潔癖症だとは思わないけれど、自分だったとしても、そこに今夜横になれと言われたら結構躊躇うかもしれない。
「……それは確かにちょっと嫌かもな」
うっかり出てしまった憐れむような言葉に、すかさず涙目になっていた碧眼がキラリと光ったような気がした。「だろ!?」と見詰める顔が、聞き取ったかすかな同情に明るくなる。
……しまった。
なんだか、嫌な流れになってきたような。
「そんなわけで、オレってば今夜、寝れる場所がなくて」
えへへ、と恥じらうような笑顔に懇願の色をのせて、小麦色に焼けた人懐こい顔が言った。それに続く言葉が余りにも予想出来すぎて、サスケは思わず片方の手のひらで顔を覆う。

「お願い。今夜一晩だけでいいから、泊めてくれってばよ?」

開けたドアから漏れる乳白色の灯りを受けて、背中を丸めたナルトの輪郭がぼんやりと浮かぶ。
肩越しの夜に、止む気配のない雨が流星群みたいな糸を引きながら延々と落ちていくのが見えた。