【1-1】Choose Coffee Beans

最初は空耳かと思った。
だって自家焙煎の挽きたてコーヒーが売りの店だ。いくらなんでも、そりゃないだろう。

「――は?」

ぽかんと口を開けたオレに、そいつはふてぶてしくも「フン」と鼻を鳴らした。糊の利いたまっしろなワイシャツにタイトめな黒のスラックス。男にしては華奢すぎる腰に巻かれているのは、ピシッと角まで気が配られたギャルソンエプロンだ。
「あのさ、今オレ、ブレンドひとつって言ったんだけど」
「はい」
「……コーヒー専門の喫茶店だよな?ここ」
「そうですが」
それが?とすまして返してくるその顔は、いつもながら非の打ち所の無い美形だった。
午前七時十五分、職場の目の前にある古びた喫茶店。
駅前から続く商店街とそこを抜けた先にある住宅街との丁度境い目に位置するここは、ここいらでは唯一早朝から開けている店だった。兄弟と思わしき二十代半ば程の若いマスターと、徹底してその手伝いに立ち回る弟とで切り盛りしている。
こだわりのコーヒーで人を呼んでいるこの店だったけれど、密かに美味いのがここのモーニングだった。淹れたてのコーヒーと共に出される食パンは、同じ地元の商店街に古くからあるパン屋から仕入れているものらしい。
十字の切れ込みごとこんがり焼いたそれに黄色いバターを落としたトーストは絶品で、毎朝ここに立ち寄ってから勤め先に向かうのを、オレはこの街に越してきてから一ヶ月ほぼ日課として続けていた。
今日だっていつも通り、初秋の街を通り抜け出勤前にやって来たここの窓際の席でSNSのチェックをしつつ、いつもと同じようにオーダーを取りにやって来た弟の方にメニューを注文しようとした。
なのに。

「……お受け出来ませんて、どういう意味?」

おそるおそる。オレは再度確かめた。
もしかしたらただの聞き間違いかもしれない、だってなにしろもう三十路も半ばだ。耳だって多少は遠くなっていようというもの、仕方ない事だろう。
テーブルの斜向かいに立つ、ウェイターの少年を見上げる。ぱちりとそのくろぐろとした瞳と目が合うと、小さな顎をつんと傲岸に上げ彼は言った。
「そのまま、ご注文を承れませんという意味です。――てめえのような味音痴に飲ませるコーヒーは、うちにゃ置いてねェって言ってんだこの無神経野郎が!」

………あ、違った。空耳じゃなかったわ。

* * *



丁寧な言葉使いから一転、しょっぱなから喧嘩腰のべらんめえ口調に呆然となったが、一瞬後から湧いてきたのは(なんだと?)という反感だった。
今こいつ、相当失礼な事言ったよな?なんなんだこのガキは、まだ二十歳にも届いていなさそうだってのに。

「サスケ!」

咄嗟に勢いで口を開こうとした瞬間、カウンターの向こうから強い声が飛んできた。長い髪を緩く束ねた兄の方が、膝下までしっかりと丈のあるエプロンを捌きながら足早にこちらへやってくる。
ふてぶてしく顎を上げたままだった弟は近付いてくる兄の姿に「兄さん!」と嬉しげに声をあげようとしたが、その自分とよく似た端麗なつくりに静かな厳しさが湛えられているのを見て取ると、途端に(ヤベ…!)といったような年相応な表情になった。やはり兄の方が上背があるらしい。横に来るやいなや、そろりと見上げる弟の頭に容赦ないゲンコツがごちんと落ちる。
「…痛って…!」
「謝りなさい」
「は!?なんで、だって――!」
「謝りなさい、サスケ」
厳然とした声に、命じられた弟は更に口にしようとしていたらしい雑言をぐっと飲み込んだ。どうやら兄からの言葉はこいつにとって絶対らしい。むぐむぐと開きたそうにしている唇はいかにも不満たらたらだけれど、それでもどうにか堪えて「…スミマセンデシタ」と小さく言う。
「弟が大変失礼いたしました、申し訳ありません」
「……」
「すぐにブレンドお持ちします。お待ちください」
「あ?あー……いや、いいやもう、時間ねェし。仕事行かねえと」
丁寧に頭を下げる兄の姿に、オレは横に置いていた荷物を持った。まあオウム返しにするばかりで憮然としたままの弟には全然反省の色はないけれど、実際時間は無いし。
それにさっきのゲンコツは、なかなかにいい音を立てていたしな。越してきたばかりのこの街で早速ごちゃごちゃ揉めるのも、出来たら避けたいというのも正直なところだ。
「これからお仕事ですか?」
じゃあ、と言い残し出ていこうとすると、長身の青年は優美な眉をひそめ尋ねてきた。鼓膜に沁み入ってくるようなやわらかな低音に、なんとなく急ぎ立ち去りたがっていた足が引き留められる。
「うん、まあ」
「お勤めはこの近くで?」
「近くっていうか、目の前。オレそこの郵便局に勤めててさ」
礼儀正しさを失わない言葉使いと丁寧な物腰についするすると答えると、聡明そうな瞳がウィンドウ越しにちらと表を見た。この街では比較的車の走っている通りの向かい側、小さな写真屋と美容院や薬局などのテナントがいくつか入っている中規模な雑居ビルに挟まれて建つ四角い建物。
赤に白抜きされた「JP」の文字と、その前に二つ並んだ赤いポストに、ああ、と納得したように青年が言う。
「あちらにお勤めでしたか」
「そう」
「では後ほど、ランチと一緒にコーヒーをお持ちします。お昼休みは何時頃でしょうか?」
すっかりもういいやと思っていた所にさらりとそんな事を言われ、さすがに驚いた。
え、お詫びって意味?そこまで?
目をぱちくりさせるも、美麗な青年は大真面目にこちらを見るばかりだ。
「――いやいいってばそんな、そこまでしなくても!」
「いえ、させていただきます。そうでなくてはこちらとしても気持ちが収まりませんから」
固辞しようとするも、きっぱり言い切る兄にオレは呆気なく圧された。若くても一国一城の主である風格だろうか。生意気な弟ではないが、確かにこの青年の言葉には逆らえないものがある。
それでもやはり一回り程は下であるそうな彼に、「でもお昼時はここも忙しいだろ?見たところメニューは全部兄ちゃんが作ってるみたいだし、食事のお客さん待たせるのも…」と一応社会人としての遠慮をみせると、にこりとその目元が親しげに細らんだ。
流れるような仕草で大きな手が動いたかと思うと、「大丈夫です。こいつが伺いますから」と言ってぽんとその大きな手が隣にいる弟の頭に乗せられる。
「…はァ、」
「…はァ!?」
頼りないオレの返しに、心底驚いたといった様子の弟の声が重なった。ワイシャツのすまし顔が一瞬唖然として、そうしてから全力の不満顔に変わる。
「いやだ」
「サスケ」
「なんで、だってランチタイムにオレいなきゃ、兄さんだって――!」
「オレはひとりでも平気だ」
行くんだ、とがんとして命じる兄に、サスケと呼ばれた弟の方はぐうっと言葉を飲み込んだ。手が不要だと言われたのが悔しいのか、それとも純粋にオレの為にコーヒーを届けるという行為自体が許せないのだろうか。いずれにせよその食いしばった口許は、不本意さに歪んでいる。
それでもやがてどうにか気に入らないまでも、自分の中で一応の踏ん切りをつけたのだろう。引き結ばれていた唇からわずかに力が抜けたかと思うと、ぐいとその目がオレを見た。
切れ長の瞳は、兄弟共に澄んだ宵闇色だ。だけど弟の方がほんの少しだけ黒目がちらしく、そこが取り澄ましたようなその美形を、そこはかとなく幼げにみせている。
「――何時だ」
ぼそ、と精一杯な様子の問いかけに「へ?」と抜けた声が出ると、忌々しげにまたその顔が歪んだ。
昼飯。何時からだって訊いてんだろ。
ぶっきらぼうな確かめに、思わずぽかんと口が開く。
「あ……だいたいいつも、十二時半くらい…かな」
あやふやながらも一応答えると、(ちっ)とひとつ、盛大な舌打ちが落とされた。
そういった事情から、オレは思いがけず「うちは珈琲店」のランチを、特別にデリバリーされることになったのである。


世間一般でどれほど知られているかは定かではないか、日本の郵便局の中にはいくつかの会社が同時に存在している。すなわち窓口業務や郵便・物流業務を行う「日本郵便株式会社」、銀行業務を主とする「株式会社ゆうちょ銀行」、そして保険業を担っている「株式会社かんぽ生命保険」である。
そしてあまり気付かれる事もないが、実はそれぞれでコーポレートカラーも違っている。いわゆる「郵便屋さん」からイメージされる『赤』は窓口業務や郵便・物流業務を行う日本郵政の色だけれど、ゆうちょは『緑』でかんぽは『青』。制服のデザインも違っていて、それぞれに決められたコーポレートカラーのラインが入っている。
オレが在籍しているのは日本郵便だ。
だけど着ている制服に入っているラインは赤ではない。

「なんでオレンジなんだ?」

社員用入口を伝えそびれたから、仕方がなかったのだろう。取り敢えず正攻法と云わんばかりに真正面の入口から入ってきた弟がいきなり指摘したのはその微妙な色の違いで、オレにとってそれは物凄く意外な事だった。
すっくと立つその姿は朝と同じ服装だったが、エプロンだけは一応外してきたらしい。曇り空の十月には、一枚きりの白いワイシャツは少し肌寒そうに映る。
エントランスに立つ場違いなお使いスタイルに、慌てて窓口の奥から飛び出してきたオレを一瞥すると、彼はぶっきらぼうにまずそう言った。
言われた意味が一瞬わからず「は?」となるが、すぐに意味に気付く。オレの着ているチャコールグレーのブレザーのラインは「ゆうびんレッド」と呼ばれている一般的な赤ではなく、特徴的なオレンジだ。
「あ――これ?」
「他のヤツと色が違う」
「そうだけど、ってかよく気付いたなあ……!内部の人間でなきゃ殆ど言われる事もないのに」
素直に驚くと、弟はフン、とまた面白くもなさそうに鼻を鳴らした。ネームタグの色と合ってねえから、という言葉に、ああ、と首に下げているタグの赤い紐を見下ろす。
……そういやあいつも、よくそう言ってきたっけな。
聞き覚えのあるフレーズに、ひと月前の大きな別れをふと思い出す。妻は洒落っ気のある女で、服の色合わせに何かと凝るのが好きだった。今はもうそう気軽には、呼べない間柄になってしまったけれど。
「昔さ、郵便局に一時こういう制服が支給された事があって。今は赤だけなんだけど」
微妙な自分のこだわりに気が付いてもらえたのが嬉しくて、つい口許が弛んだ。当時あんまり評判良くなかったけど、オレこれ結構気に入っててさあ。急いで飛び出してきたせいで掛けっぱなしになっていた眼鏡を外しつつ、そんなどうでもいい事をつらつら繋げるオレに、冷めた目がじっと向けられる。
「ホントはちゃんと赤いやつ貰ってるから、自分で切り替えてかなきゃいけないんだけど。けどこの制服、四年半だけしか公式に採用されなかったのもったいねえし」
「……」
「まーでもさ看板もさ、郵便局って今でも赤いとことオレンジのとこがあるじゃん。あれも同じで」
「……」
「順次変えていかなきゃって言われてる割には、案外ルーズに残ってるし」
「……」
「だからまあオレもいいかなって。郵政民営化とか知ってる?もう何年前になるのかなあ、あれは――」
「知らねえ、というか目に付いたから言っただけだ。そういう話はどうでもいい」
段々ノッてきた所をずばり遮って、弟は「ん、」と持ってきていた物を差し出した。埃っぽい大通りを渡る事に配慮してくれたのだろう、きちんとラップで覆われた盆の中にはボリュームたっぷりのホットサンドとサラダ、そして清潔感あるオフホワイトのコーヒーカップに注がれたコーヒーが見える。
丁度みぞおち辺りを突くように勢いよく出されたそれに一瞬怯むも、オレはおずおずとその盆を受け取った。…どうも、と小さく呟いた途端、捧げられていたその手がぱっと離される。
「うぉッと…!」
「お前。今回は折れてやるけどな、この先もずっと同じ事すんなら、マジで他の店行けよ」
言いつけ通り来たはいいけれどまったくもって変化のない言い分に、さすがに反感がムカリと起き上がった。しかしそんなオレにまったく怯むことなく、頭一つ下に見える顔がきりりとオレを睨む。
思いがけず歪みのない真っ直ぐな視線に、射られたオレは(ム、)と反論を堪えた。察するに、兄から叱られようとなんだろうと、どうしてもこれだけは言ってやるぞという決意のもと彼はここに来たらしい。第一ボタンの外された襟口からのぞく細い首には、うっすらと張り詰める緊張が見える。
「おまっ…全然反省してねえじゃん!」
「反省なんてするか。オレは悪くねェ」
悪びれることのない主張に、ワイシャツの胸がぐんと張られた。……なんなのこいつ、兄ちゃんが見てなきゃ結局やりたい放題じゃねえか。天晴れなほどの変化のなさに、最早呆れというより感心する。
「あのな、よく聞けよ。うちのブレンドはな、特別なんだ」
盆を手放した途端再び傲岸に語りだした弟は、あっけに取られるオレを見ると居丈高に言った。
豆の組み合わせや配合、焙煎はもちろん湯の温度に至るまで、その日の天気や気温に合わせて毎日兄さんが丁寧に考えて淹れてるんだぞ。一日だって同じ味ではないんだ。
「へ?ああ…そう、なのか?」
お高くとまっているように見えた唇が語るいやに熱血漢な言葉に、あてられたオレは曖昧に首を傾げた。
そりゃまあ、大変な事だとは思う。思うけど――でもそういった事は、コーヒー専門店ではそんなに珍しい事ではないのでは。
「それをてめえは毎日毎日味見もしないうちから、うちのコーヒーにいきなりどかどか砂糖とミルクをぶち込みやがって」
「へ?」
「あんな事したら風味も香りも全部台無しになるし、だいたいがただひたすらに甘いばっかで味も何もねえだろうか。だったら最初からホットミルクでも飲んでろっての、わざわざ飲めもしないコーヒーなんて頼むんじゃねえよ」
言い切られた言葉に、オレはぽかんと口を開けるばかりだった。――つまり、あれか?大好きな兄ちゃんの淹れた最高のコーヒーを、最高の状態で飲まないオレに腹が立ったという事か?
「……か、勝手だなァ……!」
つい漏れた率直な呟きに、そいつはまたむかっときたようだった。うるせえ、気に入らないもんは気に入らないんだ。華奢な肩をいからせ、分別も何もない子供じみた主張を堂々と吐く。
「だって、毎日、一番のものを出してるんだぞ」
絞し出したかのような声にふと気付かされ、オレは跳ねた黒髪を見下ろした。
簡単な事なんかじゃないんだ。本当に。
そう言ってぶつけられてくる眼差しはなんというか純粋そのもので、知らずどきりと胸が鳴る。
「……あ、そ、そっか、そりゃ悪かっ……」
なんとなく気圧されへどもど言いかけると、そんなオレに見切りを付けるかのように、彼はふいっとその強い視線をオレから外した。「食器はまた後で取りにくる。洗わず盆に戻しとけ」と言い終えると、くるりとその背がオレに向けられる。
ワイシャツ一枚の背中はぴしりと一本線が走ったかのようで、どこまでも潔くまっすぐだった。軽く折って捲り上げられた袖から伸びた肘下が嘘みたいに白くて、やっぱり薄曇りの空の下には寒々しい。
「――あ、なあ!」
つい見蕩れてしまっていたその情景から慌てて立ち戻って声をあげると、自動ドアの手前でぴたりとその足が止まった。皿、取りになんて来なくていいから。仕事終わった帰りにオレの方からそっちに持ってくってば。そう言ったオレに、ほんの僅かだけその顔が振り返る。
「兄ちゃん、ああは言ってたけどお前の手がないとやっぱ大変なんだろ?」
「……」
「店の営業時間、八時までだっけ?仕事終わんなくても、五時には一度ここ抜けてそっちに持っていけるから」
「――勝手にしろ」
言い捨てると、整った横顔はすいっとまた前を見て、細い足はなんら躊躇いを見せることなくさっさとまた来た時と同じルートで店へと戻っていった。
コーヒーカップにかけられたラップはうすく曇って、触るとふにゃりと柔らかな温かさを、手のひらに伝えてきた。
       
         
          

        

気になるヤツがいる。
いい意味では決してない。むしろ悪い意味でだ。
やや寂れつつある商店街の目抜き通り、場違いのように華やかな黄色。短い金髪をふわふわさせながらそこを通り抜け、そいつは毎朝うちの店のドアベルを鳴らす。

「いらっしゃいませ」
「オッス、おはよ!」

カウンターから真っ先に声を掛ける兄に、そいつは毎朝軽く手を上げつつ気軽に返す。そうしてからでかい図体でずかずかと風を切りながら店の一番奥にある窓側の席へと行くと、長年の愛用品らしいこ汚いリュックをするりと肩から外し、どかりと雑な動きで古びたオークの椅子に腰掛けるのだった。
席についたヤツが最初にするのは、メニューを見ることでも着ているチャコールグレーのカーディガン(これまた物凄く年季の入った代物だ)を脱ぐことでもなく、尻のポケットからスマホを出す事だ。「いそいそ」と文字で後ろに書き込んでやりたいような仕草でパネルをタップすると、SNSらしきグリーンの画面を真っ先に立ち上げる。
余程夢中になっているのだろうか。うちの店にいる間、そいつはその画面にずっと釘付けになっているようだった。黙って水を出しに行っても、オレに目を向けない。そうしてセオリーに従い仕方なく「ご注文は?」と尋ねると、そいつはいつもせっかちそうな早口で言うのだ。
「厚切りトースト、あとブレンドな」
よろしく頼むってばよ、とぞんざいにそれだけ言うと、また画面を触り出す。
ここまでだけでも結構オレとしては気に入らないわけだが、しかしこんなのは序の口だ。こいつのムカつく行動のハイライトは注文されたメニューを持っていった時だ。オレが静かにそいつの前にコーヒーのカップを置くやいなや、一瞬の思慮も迷いもなく、まずそいつはテーブルの端に置かれたシュガーポットの蓋を開ける。
(……うァ……やっぱ五杯かよ!)
躊躇なくざくざくと掘っては投入されるシュガーに早くも想像だけで胸焼けを起こしかけると、次にそいつが手にするのは先程添えて出したミルクピッチャーだった。目測も何もなく、いきなりどばっと全投入。
カップの淵ギリギリにまでなったそのブレンドコーヒーに小器用にくるくるとスプーンを立てて、ザクリと一口トーストを齧ると幸せそうな顔でそれを啜る。その間、ずっと視線はスマホの画面の中だ。にやにやと脂下がった顔を惜しげもなく晒しながら、激甘コーヒーを啜ってはパンを食べている。
「人の好みは色々だからな。そういう飲み方だって別にいいだろう」
兄は笑って言う。自動車事故で両親が亡くなり、店を継ぐ前から研究に研究を重ねてきた兄のコーヒーはオレからしたら世界一で、そんなコーヒー本来の味を味わう事なく日々洋風しるこ汁みたいな代物に変えるヤツがオレには信じられなかった。
そうして苛々しながら今日も皿を洗う。あいつの飲み終えたカップは、特に入念に洗う。でもアイツがムカつくのはそこだけじゃない。他にも――

「――…っと、」

洗い終えた食器を水切り籠に入れようとして、また僅かに横に逸れた。ち、と条件反射のような舌打ちが出る。
右手でそっと既に中で立てられている皿達に触れつつ、位置を確かめる。出来ている隙間を慎重に確かめてやれば、今度はきちんと皿は収まった。毎日やっている事であっても、視覚に頼ると途端にこうだ。
ほっとした気分で目を閉じ、伸ばしかけの前髪に隠された左目を思う。
日常生活での動きにはかなり慣れてきたけれど、時折こうしてある不自由さに出会うと、どうにも持っていきようのない苛立ちが湧く。
理不尽さに歯噛みしつつ、目を閉じて裏側の闇を感じた。
数ヶ月前、長距離トラック運転手の睡眠不足が招いた衝突事故に、オレ達家族は沢山のものを奪われた。両親からは命を、たまたま家で留守居をしていた兄からは大学院への進学を。
そうして生き残ったオレからは、光を半分持ち去った。

ランチタイムを終え、喫茶のみの客も帰る四時半過ぎになると、店は急に暇になる。
ホールの仕事がはけて皿洗いも終わると、兄からの目配せがくるのはいつもこのタイミングだ。
濡れた手を手早く拭くと、オレはカウンター端に用意しておいた包みとラップがけの小さな皿を手に取った。大通りから入った路地に面す店の横脇へと出られる勝手口は、キッチンの冷蔵庫脇だ。
一息つきながら腰に巻いたエプロンを外すと、オレはその冷蔵庫脇にあるカウンターワゴンの上に適当に丸めたそれを置いた。鈍く光る銀のノブを回せば、踏み込んだ裏路地に流れるのは日陰を通ってきた風だ。北側に位置するこの路地裏に日が差し込むのは、太陽が真上にくる正午のごく短い時間だけである。

「――クロ、」

いつも通り、午後の配達を終えた隣の店の車の残ったエンジン熱から彼は今日も暖を取っていたのだろう。ひと声掛けると、勝手口の斜め向かい、路地の端に寄せて停められた白い軽自動車のボンネットの下で、ぴょこんと尖った耳がそばだつのが見えた。闇の中、更に真黒なかたまりがすくりと立つ。
大きな瞳がパチリと開くと、なァお、と甘えた声が裏路地にのびた。気持ち良さげなのびをひとつすると、優雅な足取りでしなやかなその体をくねらせつつ、車の下から彼は出てくる。
がりがりと地面を削りながら、ひっくり返して置かれたままの木箱を足で寄せる。するとゆらゆらと長い尾を遊ばせながら、細い体が待ちきれないというように足元に纏わりついてきた。ぱちりと開く両目色違いの瞳は、ブルーとブラウンだ。橙の強いその色は、茶色というより琥珀に近い。
「おい、待てって。今置いてやるから」
待ちきれないのか、ぐるぐるとオレの足周りを回遊していた彼がズボンの裾に爪をたて催促しようとするのを見て、オレは慌ててそれを止めた。上はただの市販の白シャツだけれど、下の黒いスラックスは高校の制服をそのまま流用しているだけなのだ。
爪でボロボロにされるのは大変困る、洗い替えも一枚しかないし。そもそもその一枚だって、兄からのお下がりなのでちょっともう生地の状態が心元ないような代物なのだ。
それでも兄が店用のユニフォームを買おうとしないのは、完全にオレが店の中に入ったきりになってしまうのを防ぐためだろう。もうこのまま退学して、店の手伝いをしていけばいいからとどれだけ伝えても、兄は根気強く高校の休学を取り下げようとしない。
「なーぉ」
鳴く声に、わかったわかったと下を見た。
持ってきた小皿から手応えのない音をたててラップを外すと、待ってましたとばかりに黒い猫はひらりと木箱の上に飛び乗った。きちんと待ち構えるその前に皿を置く。中身はいつもと同じ、自分の間食を拵えるために今朝削った鰹節の、ささやかな余剰分だ。店の都合上どうしたって遅くなってしまう夕飯までの中繋ぎとして、オレはいつもこの時間に軽く腹に何かを入れるようにしている。
休憩時間はきっちり三十分ずつ。
兄は兄で、この貴重な休憩時間の使い方を決めている。
桃色の舌がさりさりと好物を平らげながら、上機嫌に尻尾を揺らすのを見ると、つい口元が柔らかくなるのを感じた。
よいしょ、とひとり呟きながら勝手口前の二段ステップに腰を下ろし、誰も通らない路地裏に足を投げ出した。

――心因性視覚障害。
事故の後、異変に気が付いて検査を重ねたオレに告げられた病名は、そんな聞き慣れないものだった。確かにオレは事故の際、車外に投げ出されアスファルトに全身も強く打ちつけられたが、脳にも角膜にもまったく異常は見つからなかったのだ。
事故が起きた瞬間、後部座席でうたた寝をしていたオレは、衝撃の瞬間の記憶がない。しかしただひとつだけ記憶の中に貼り付いて決して剥がれないのが、うつぶせで転がされた路上で血だまりの中気を失うまで見ていた、両親を閉じ込めたまま赤く燃え盛る自分の家の車の映像、そして割れたガラスの散乱する真夏のアスファルトの濁ったグレーだけだ。
そうして散々燃えたあと、最後に流れ出たガソリンに引火して起こされた爆発は、オレの視力まで焼き尽くしてしまったのだろうか。
何もできないまま一部始終を見届けた左目は、その日を境に何も映さなくなってしまった。
(…やっぱ、狭ェなあ…)
背にある店と、隣りの小さなビルの隙間。申し訳程度に見える夕方の空に、持ってきた握り飯を頬張りながら、オレは苦々しく舌打ちした。左手をかざし、弱々しく残る眩しさを更に避けてみる。それでも半分になった視界は、そのまま変わらない。事故の後、なんとなく伸びるに任せている前髪のせいでも、人工物に挟まれた路地裏の空が開けていないせいでもないのだ。
見た目は以前とまったく変わっていなくとも、オレの目はほんのり光を感じる程度しか見えない。
どれだけ目を凝らしてもガラス玉のようになった表面に、空虚な景色を映すばかりだ。
「あ、おいダメだこっちは。お前の分はもうやっただろ」
はたと食べ掛けの握り飯をじいっと見詰めるオッドアイに気が付き、オレは慌てて体を捻った。小さな顔がターゲットと共に動き、不平そうな声をあげる。
高校を休み、店を手伝うようになってからすっかり仲良くなったこの野良猫は、いつもこうして早々自分の分け前を食べ終えてはオレの昼飯を虎視眈々と狙う。実に嗜好のあう仲間だ。オレが猫寄りなのか、彼――オレは勝手にクロと呼んでいる――が人間寄りなのかは、判別つかないけれど。
退院後、全身に及ぶ打撲と何箇所かの骨折の療養、そして慣れない隻眼の生活に馴染むまではという理由で、オレは高校を休学していた。確かに片目での暮らしは、時折思わぬトラブルや怪我を引き起こす。距離感を掴む事には割と早くに慣れたが、それでも初めて行く場所ではかなり神経を使った。昔に比べたら横にある壁に体が擦れる事が断然増えたし、残った片目も負荷が増える為に酷く疲れる。
本当は、オレが店に立つ事だって兄は反対なのだ。そこをリハビリの為と言い張って、強引に手伝いに入ったのはオレからである。まあそれもこれも、来るのはほぼ常連ばかりといううちの店だからこそ、出来る話ではあるが。子供の頃からずっと手伝いに入っている店の中であれば、オレは目を瞑ったままでも自由に歩き回れる。
ふと黙りこくって物思いに沈んだオレに、きょとんと色違いの目が向けられた。見上げてくる片側のブルーアイに、ふとあの金髪が過ぎる。
……ああ、また嫌なものを思い出してしまった。悩みなんてひとつもなさそうな、能天気そうなニヤケ顔。
仕事もひと段落し、こうしてぽっかりと間ができればまた思い出してしまうのは今朝の出来事だった。
あの金髪。
気に入らない野郎だとは思っていたが、まさかあそこまでとは。

『なあ、それ。音楽でもやってんの?』
二週間程前。ずっとスマートフォンばかり見ていたアイツから初めて話し掛けられたのは、そんな突拍子もないひと言からだった。
会計を終え(金額は毎日変わらない、厚切りトーストとブレンドコーヒーで計五六十円)、無言のままレジスターから出した四十円の釣り銭(これも毎日ほぼ一緒だ、ヤツはいつも支払いの時、五百円玉と百円玉を一枚ずつ出す。毎回五百円硬貨を持ってるなんて、どんだけ集めてんだよと密かにオレは思う)を渡そうと手を出した際、碧眼と目を合わせないままカウンターに視線を落とすオレをしげしげと眺め、アイツは言ったのだった。
その時兄は、キッチンの奥で客のオムレツを作っていた。が、唐突なその質問はボウルに割った卵を掻き回していた耳にも届いたらしい。振り返ったその顔は、興味深そうに眉をあげていたように覚えている。
『は?』
『前髪。そーやって長くしてんのって、オシャレでしてんだろ。バンドでもやってんの?』
いきなりなんの脈絡もなく言われた言葉に、一瞬ぽっかりと空白ができた。思わずゆっくりと顔を上げると、事故のあと少しずつ伸びて今や顔の半分近くを覆うようになりつつある前髪が、さらりと片目の視界の端に映り込む。
『……違いますけど』
ボソ、と答えるも、ヤツは相槌をうつでもなくじっとオレの顔を見詰めていた。何も考えていなさそうな顔。お気楽そうな眉毛が、すっきりと出された広い額の中で、なだらかにひかれている。
『ん?違うってのはオシャレが?バンドが?』
『どちらも』
お返し。四十円です。
うっとおしい上しつこいつっこみを打ち切るべく、アリガトウゴザイマシタ、と機械的に言いながらぐっと釣りを差し出すと、そんなオレの動きにヤツはほんの僅か目を大きくした。
それでもたいして気にもならなかったのだろう。「ん、あんがと」といつも通りの返事と共に大きな手を出すと、押し付けられるかのように出された釣り銭を、何の引っかかりもなくちゃりちゃりと受け取る。
そのままそれをポケットに入れるのを見て、オレは内心でほっとした。やれやれ、やっぱりめんどくせえなあこいつ、とレジスターのキャッシュトレイを戻そうとした時、へらりと笑ったそいつはオマケのように、最後にこう言ったのだ。
『そっかあ、にいちゃんスゲー色男だからさ。後ろはツンツンとんがってるし、なんか、ビジュアル系バンドみたいなやつ?そんなんとか組んでんのかなーなんて、ずっと思ってたってば』

(――ふっざけんなよアイツ、何がビジュアル系だ!)
思い出せば、苛立ちはまた何度でもぶり返すのだった。
広い背中が意気揚々と立ち去った途端、一連のやり取りを見守っていた人々は揃って吹き出したものだ。
「うわ~~ビジュアル系だって。やるなあ彼、誰もが思っていてもつっこめなかった事を」
そんなさりげなく失礼でムカつく事を腹を抱えつつ言ったのは、いつも本を片手にうちのコーヒーを飲みに来るカウンター席の常連だった。だいたいが誰もが思ってたってどういう意味だ。オレが赤ん坊の頃からここに来ているそのからかい好きの男も、あの金髪に負けない位、時折オレを苛立たせる。
それからというもの、毎朝やってくるたびにヤツはちょこちょこオレに話しかけるようになった。
おはよ、いい天気だな。
雨、ぽつぽつしてきたな。この程度ならすぐに止みそうだけど。
なあ、表通りいい匂いだな。どこで咲いてる金木犀だろ。
うわー、さっみいなあ!今朝は布団から出んのめちゃくちゃ辛かったってばよ。
表情ひとつ変わらないままのオレから気のない返事しか返ってこなくても、ヤツはめげるとか、つまらないなと感じたりはしないらしい。勝手に親しげになっていく朝の注文時の一言に、オレは兄からの進言を胸に無心を貫いていたのに。
『――あ、』
小さな呟きと共についに事件が起きたのは、今日の朝の事だった。
普段から挿しっぱなしにしている胸ポケットから取り出そうとした途端、手から滑り(かしん)という華奢な音をたてて床に転がり落ちたボールペン。
慌てて拾おうとしたオレはその場で屈むと、足元に転がる目標物を速やかに拾い上げると、直ぐ様立ち上がろうとした。思わぬ事がまずあったのは、その時だ。転がっていこうとするボールペンにばかり神経を向けていて、尚且つ大嫌いなヤツの目の前で目測を間違う事なくそれを拾えたことに、安心する余りやや気が抜けていた。

――ゴツッ

起き上がろうとしたオレの頭が、見えない左側にあるテーブルの角に当たった時、そんな鈍い音が確かに聴こえた。ギョッとしたように、ヤツがオレを見る。席に着き、大きく目を見張るヤツがその手に持っていたのは、今日も真っ先に取り出したスマートフォンだ。
『うわっ、大丈夫か?スゲー音したけど』
『――だい、じょうぶ…です』
『打ったの頭だな?みせてみろって』
は?余計なお世話だ要らねえよ、と言下に断りたかった所だが遠目に見えた兄の姿にぐっとそれを堪えると、遠慮もなしにグローブみたいな大きな手が伸びてきた。非常に不快ではあったが一応本人としては、コブが出来ていないか確認しているつもりだったのだろうか。ぶつけた辺りの頭を、探る手つきで問答無用に撫で回される。
安い仕草に(なにしやがるオッサン、軽々しく触ってくんなよ…!)といい加減我慢も限界になってきたところで、ふいにヤツはその手を止めた。
青い目がしげしげとオレの顔を眺めると、その顔がにやりとして「ほらな?」と言った。

『カッコつけてそんな頭にしてっから、こんな事になるんだって』
『…あァ?』
『特別なこだわりも別にねェなら、前髪、切ったら?そんなんじゃ、本当は見えてるものも見えねえだろ』

顔、見せたらいいって。オレってばにいちゃんの顔、かなり好みだけど。
――ぷちん、と。
しれっと言われたその歯の浮くようなセリフが、最後の理性を叩き斬った。
そこからはもう勢いのままだ。正直よく覚えてはいないのだが、これまでずっと我慢してきた罵倒を、洗い浚い全部ぶちまけてやった気がする。

「そうムキになって怒るような事でもないだろう、サスケ。悪意があった訳ではないのだから」
ヤツが帰った後、叱られてもまだ怒り心頭なオレに、兄さんはそう窘めた。
そういうところがお前は本当にまだ子供なんだ。だいいち、前髪が伸びすぎなのは本当の事だろう?彼は事実を言っただけじゃないか。
――誰も、何も恨んではいけないと、兄は言う。故意にしてしまった事ではないのだから、赦してやりなさいと。
兄さんは寛大だ。傍から見ていても驚く程色んな事を、ひとりで黙ってのみこんでしまう。
事故を起こした睡眠不足のトラック運転手も、不況の中、従業員に過酷な労働を強いてしまっていた運送会社も。運転をしていた父やうちの車の方には過失はなく、事故はただただ一方的にそのトラックが突っ込んできたというものだった。だから本当ならば、多額の賠償金を請求する事だって出来たのだ。
けれどそれを取り下げたのは、他でもない兄であった。多額の賠償金の代わりに求めたのは、きちんとした心からの謝罪と、二度とこうしたことが起きないようにするための安全管理のためのシステムの配備だ。あとはオレの治療にかかる医療費及び成人するまでの向こう何年間か分だけの、二人で暮らすための必要最低限の生活費のみ。両親の葬儀が終わった一両日中には、あんなに毎日入り浸るようにして通っていた大学にも早々に退学届けを提出してしまい、次の日には父の制服を身に纏い、新しい店の主としてキッチンに立っていた。
両親がかけてくれていた生命保険の保険金は入ってはきたが、それらはすべてこの先の店の運転資金とオレの学費として取っておくのだという。自分が両親からしてもらった分と同じだけのことを、兄はオレに用意したいと考えているらしい。齢二十二歳にして文字通り、オレの親代わりとなった兄だ。

――ニャアン。

木箱の上で、ちょんとかしこまって座る影だまりが鳴くのに、オレははたと目を開いた。向けられた色違いの大きな瞳は、文字通りキャッツアイのような輝きだ。
宝石みたいに澄んだ光をのせ、ぱちくりと見るその小さな額を、オレは指先で撫でた。鼻筋から額への窪み、すべすべした感触のその部分を可愛がってやれば小さな彼は目を細めるが、それでもまだもの欲しげな様子だ。ねだる声が、再び甘く裏路地に響く。
「なんだよ、そんな甘えた声で鳴いたってだめだぞ」
「……」
「こっちには醤油もかかってんだよ。お前にゃ塩分過多だっての」
「――ン、ナァーオ」
渋るオレにももう慣れっこなのだろう。ひと鳴きしてすとんと木箱から降りると、投げ出したままのオレの足に小さなその額がすりすりと擦りつけられてきた。躊躇なく媚びる姿に、う…とつい言葉が詰まる。
仕方ねえな、じゃあ――ちょっとだけ。ほんと、これだけだからな?
言い訳するように念押しし指先にほんのぽっちりのご飯とおかかを取ると、わかっていたかのように黒猫はまたナオンと機嫌よく鳴いた。小さくむしった白飯とおかかはあっという間にまた平らげられてしまうが、ざらざらの舌は名残惜しげにしつこくオレの指先を浚っている。
……兄の行いは確かに素晴らしいし、美しいと思う。
けどそれだけじゃ済まないのが現実だ。確かに兄は名人と云われた父に負けず劣らぬ美味しいコーヒーを淹れる才に長けているが、元々の夢は考古学者になることだった。
店は本当なら、オレが継ぐ筈だったのだ。
近い将来、大学に経営を学びにいこうかそれとも調理系の専門学校にでもいこうかなどと色々考えてはいたけれど、いずれにせよ同時進行でその技を伝授してもらうべく、高校を卒業したら正式にマイスターである父に弟子入りさせて貰うと、きちんと確約もとっていたのに。
「……クソが。オレは、許さねえからな」
ぽつんと呟くと、それは思った以上に切実な感じになった。
昼頃、オレは兄からの言いつけに従い、ヤツの働く郵便局へ行ってきた。時間を指定してきたのは向こうからだから、見計らいつつ待っていたのだろう。少し迷いつつも正面の自動ドアの前に立つと、カウンターの更に奥から大柄なその姿が転がり出るように飛び出してきた。
店の中で見る自由気侭な様子とは違い、職場にいるヤツはやけにしっかりしているように見えた。しかし同時に、なんだか草臥れているように見えたのも本当だ。
着ている制服のためなのか、それとも掛けている事さえ知らなかった(別に興味もなかったが)黒いフレームの眼鏡のせいなのか。溌剌としていた金髪さえもがちょっと落ち着いた色に映ったものだ。

『よっ…よく来た、な』

出張してきたオレに恐縮しているらしいヤツは、なんだか変にどぎまぎしているようだった。
色の合ってない制服の首にぶら下がっていたネームタグには、『主任』の文字。あんなデリカシー皆無の無神経男も、日本の法律では『成人』として見倣され、尚且つ人の上にも立たせて貰えるらしい。
妙に気弱な雰囲気に、内心少しだけ驚いた。しかしそんなのはやはり見せ掛けのものらしい。ちょっとこちらが口を開いた途端、べらべらとまたおしゃべりを始めたあの態度は、やはり店でみていた面倒なオッサンと同じ人物だ。
オレは悪くない、と堂々言ってやれば、あの青い瞳がまんまるになるのが見えた。
兄さんがどう言おうと、やっぱりオレには納得出来ない。他人の都合で、どうしてそんなに自分を曲げなきゃならないのか。あいつの我侭は通るのにこいつの我侭は通らないとか、そんなの不平等以外のなにものでもないじゃないか。 間違っていると思うことに声を上げて何が悪い。
理不尽さと戦わずして、どうするのだとオレは思う。
大人になるというのがそういう事なのだとしたら、オレは大人になんてなりたくない。
「――な、お前もそう思うだろ?」
不意打ちのように訊ねれば、足元でまだ舌を見せている黒猫は、ぴくりとその耳を動かした。味どころか、残り香だってもうないだろうに、彼はまだオレの指に未練があるらしい。笑ってそれを押し止め、座り直した階段で狭い空を仰ぎつつ、じっと瞳を閉じてみる。
裏側にある闇に神経を凝らせば、同時に使い過ぎた右目が僅かに痛むのを感じた。
視力がこんな風にならなければ――オレが、十七歳なんかじゃなければ。
兄さんはきっと、ちゃんと自分の望む生き方が出来ていたのに。なのにあの人は怒りもせず、愚痴も言わず、ただ穏やかに笑って、与えられた人生を送っている。

「サスケ、」

ふと呼ぶ声と共に静かに開けられた勝手口に、オレはゆるりと顔を向けた。もうそろそろ三十分だろうか。顔を出した兄に「ごめん、今行く」と告げる。
「手ェ洗ったらオレ出るから。兄さん休憩入って」
「いや、そうじゃなくて」
「?」
「うずまきさんが来てる」
誰?と思ったのは一瞬で、オレは直ぐ様昼間見たネームタグを思い出した。色の合ってない紐にぶら下がっていたプレートにあった名前。「うずまきナルト」とかいうのが、確かヤツのフルネームだった。
「……いいよ。適当に皿だけ受け取っておいて」
出る気なし、というのを前面に押し出してまた前に向き直ると、後ろで呆れたような溜息が聴こえた。
ダメだ、出なさいというちょっと強くされた声に、ぶすりとしてまた振り返る。
「なんで、いいって」
「お前に会いに来てくださったんだ、自分で出なさい」
「……皿返しに来ただけだろ」
「いや、それだけじゃなく。ちゃんとお前と話がしたいそうだ」
ほら、と催促するように手を差し伸べられて、オレは渋々それを取った。引き上げられるオレを、クロがぽかんとした顔で見上げている。
「すまない、またな?」
首を傾げる黒猫におどけて言って、兄は勝手口の扉を閉めた。進まないオレの足に苦笑しながら、やや強引な力で背中を押してくる。
店の入り口を入ってすぐの辺りに、ヤツはきちんと立っていた。外に出る時にはあの制服は着ないものなのだろうか。チャコールグレーのブレザーは今は脱がれ、上に羽織っているのはいつもの毛玉だらけのニットカーディガンだ。
奥から現れたオレに、ヤツは「あ、」と小さく声を上げた。
終業前に、急いで出てきたのだろうか。首にはまだ赤いネックストラップがぶら下がったままだ。
「ええと、その……こんばんは」
十月に入り、日が落ちるのが早くなったのを受けてだろう。迷った末にヤツが口にしたのは、早々とした夜の挨拶だった。黙ったままむすっとやり過ごそうとすると、後ろから兄が背中を小突く。
仕方なしに「…どうも」と呟くと、ホッとしたようにヤツの肩から僅かに力が抜けたようだった。今はもう眼鏡をかけていないその目が、やわらかく目尻を下げる。
「これ、ありがとう。返しにきたってば」
「…はあ」
「ごちそうさま。美味しかった、です」
ああそう、と内心で思いつつ、チラリと後ろに控えた兄を見た。これ作ったのはオレじゃなくて兄さんだろうが。なんでそんな素知らぬ顔してニコニコしてるんだ。
皿の乗った盆ごと受け取ろうとすると、オレの手がそれを掴んだ途端、何を思ったかヤツはふとその盆を自分に引き寄せた。行きがかり上そのまま一歩距離が縮まってしまい、相変わらず意味のわからないその行動につい小さな舌打ちが出そうになる。
本音を言えば蹴りのひとつでも入れてやりたいところだったが、それを堪えオレはぐっと顔を上げた。兄よりも高い位置にあるその碧眼を、苛立たしい思いで睨みつける。
「てめ、手ェ離せって…!」
「あのさ、ごめん!」
ストレートな謝罪と共に睨んだ目を逆に覗き込まれ、オレは不本意にも口篭らされた。一瞬面食らったところに、すっきりとした額に見える眉が申し訳なさそうにひそめられる。
「にいちゃんの、左の目。オレずっと気が付かなくって」
「……」
「今日の昼、局から帰るとこ見て、ようやくわかった。その目、本当に見えないんだろ?前髪のせいなんかじゃなくて」
突然の謝罪に意味がわからないまま聞いていたオレだったが、語られた事にやっと腑に落ちた。盆を渡してから帰る時、確か左肩がまた自動ドアにぶつかったのだ。それとも事故以降、初めて行く場所では極力左側にあるものを確認しつつ、触れられるものは手で触りつつ距離感を掴みながら動いているところからだろうか。とにかくヤツの目には、オレの動きはどこか不自然で違和感を覚えるものとして映ったらしい。
「……ああ、そう」
低く呟いて、オレは束の間視線を落とした。だから?と再び睨めつけた片目に、澄んだ空色が見える。
「いや、だから」
「……」
「……もし許してもらえるのなら、またここに来させてもらいたいなと、思って」
ぼつぼつと、遠慮がちに言われた言葉に思わず「は?」と呟いた。そんなオレにヤツは(うっ)と僅かに唇を結ぶ。ハの字に落ちた金の眉毛が、なんとも情けなかった。ぎゅっと盆を掴む手に力が入る。上背のある大きな体も、きゅうっと一回り縮んだみたいだ。
「――もう来んなって、さっき言ったはずだけど」
萎縮した様子に、勢いついたオレは言った。ほんの一瞬だけ後ろに控える兄からぴりっとした空気が伝わってくるが、素知らぬふりでやり過ごす。
「うん、だから謝りに」
「それは目の件だろ。オレがさっき言ったのは…」
「でもオレ、甘いコーヒーが好きなんだもん。苦くて濃いコーヒーに好きなだけたっぷり砂糖とミルク入れて、とろっとろになるくらい甘くなったのを、朝は啜りたいの」
気弱な風情はそのままのくせに、ふてぶてしくもヤツはそんな事を言った。カフェオレやコーヒー牛乳じゃだめなんだ、ブレンドみたいな普通に苦いコーヒーでそれをやるのがいいんだってばよ。意味のわからない言い分に、段々と頭が痛くなってくる。
「面倒くせえ、なんだそのこだわり」
「いや、だって飲んでみると全然違うってばよ?」 
「あれだけ砂糖とミルク入れたらその味しかしねえだろ!」
「いや、そうでもない。ベースはやっぱ一番重要で」
「あんな適当にドバドバ放り込んでおいてよくも」
「味見はさ、これからちゃんとするし。先に味わってから調整するってば」
「結局入れンなら同じじゃねえか」
「そりゃあしょうがねえよ、オレの好みだもん。そもそもがひとたび商品として店に出したんだから、そこまで指図してくんのはおかしいんじゃねえの。ミルクも砂糖もそっちから一緒に出してきてんだし」
いい加減なのかと思えば返ってくる答えは意外な程まともで、オレは激しく不本意ではあったが言葉に詰まり、そしてその事実にわずかに動揺した。ムカつく、なんてことだ。このオレがあろうことか、こんなヤツに言い負かされるなんて。
「許して、くれる?」
こいつでも、仕事はやはりそれなりに忙しいのだろうか。やや疲れた様子の二つの瞳が、じっとオレを見た。……クソ、なんなんだこいつは。シャツもよれよれ、ダサい腕まくりのオッサンのくせに、そんな妙な上目遣いをしやがって。
「――…でも、目の事は」
進退窮まって口から出たのは、結局またはじめの事だった。そうだ、そっちが知っていようがいまいが、そんなのは関係ないのだ。「えっ、でもそれはさっき」と言いかけた所に出来る限りの冷ややかさを込めて横目をやれば、今度は向こうがまた詰まる。
「謝りゃなんでも、許してもらえるわけじゃねえだろ」
そのオレの言葉を機に平行線のままの話し合いが途切れると、客のいない店内の静けさは耳に痛い程になった。ちょうど自分の休憩に合わせ淹れていたところだったのだろう、サイフォンの中に残っているらしい兄の分のコーヒーが、深い香りをゆるりと漂わせている。
だったら、とヤツが言った。
ふいに半分だった世界が、更に両側を狭くしたような錯覚に陥る。

「――だったら。他に、どうすりゃいいの」

落ち着いた声が、黙りこくる空間に低く響いた。目眩にも似た感覚に耐え、凝縮された視界のその中心に目を凝らせば、立っているのはばかばかしい程にまっすぐオレを見つめ返す空色だ。
一瞬だけ、怒ったのかと思った。
けれどその肩は相変わらずなだらかなままで、すぐにそうではないのだと気が付く。
途方に暮れたような猫背は丸くなっていてもオレより高くて、ウィンドウ越しに見えるすっかり暗くなった表通りを背景に、寄る辺なく佇んでいた。困る眉と誠実そうなその瞳に、どきりとさせられる。途端になんだか自分の方が落ち着かなくなってきて、思わずそっと外した目線の先に、ぶら下がったままのヤツのネームタグが映った。

「あの~、すみません、入って大丈夫です?」

カラン、というドアベルの音。どうしようもなくなったその場を壊したのは、そんなのどかな訪いだった。
戸惑うように店のドアから顔を出してきているのは、何かの集まりらしい学生っぽいグループだ。ここに来るのは初めてなのだろう。その人数にもリーダーらしい髪色を明るくしている男にも、ちょっと見覚えがない。
ぱっと機転をきかせた兄が、「どうぞ、」と前に進み出た。その声に、情けない位ほっとして張り詰めていた肩の力が抜ける。
「すみませんうずまきさん、ちょっと」
申し訳なさそうに兄が席を外そうとすると、察したらしいヤツが小さく微笑んだ。
「うん、いやオレの方こそごめんな?とりあえずオレはこれで」
俄かに人気の増えた店にそんなどっちつかずな感じの事を言って、くるりと大きな体が後ろを向く。
あ、と思ったが声を掛ける言葉も無くて、オレはそのまま店を出て行くその背を見送った。割り切ったかのように急にそれぞれ自分達の領分に戻っていくふたりに、なんだか取り残されたような気分になる。
サスケ、という声にハッとすれば、兄はすでにその場から動いた後だった。奥の席の方へ雑談をしながら入ってくる学生達をにこやかに案内している姿に、慌てて持っていた盆をキッチンへと片す。既に簡単に洗ってあるのか、ヤツが持っていた食器には汚れは残っていなかった。どうしようかと僅かに迷ったが、一応洗い物用のシンクへそれを置く。
学生達は思った以上に団体だったらしい。ホールの方は、珍しい程に若々しい声で溢れているようだった。急いで戻ろうとして、はたと物足りなさに気付く。……しまった、エプロン。休憩前に外したそれは、今もキッチンワゴンの上だ。
広くはない厨房で慌ててそれを取りにいくと、建付の悪い古い勝手口の隙間から、漏れ聞こえる声がした。
聞き覚えのあるそれにぎくりとしつつ、思わずそろりと扉を開ける。

「――うわ、なんだお前。すっげー慣れてんな」

野良じゃねえの?という声にこそこそと頭だけ外に出してみると、表通りから一歩路地に入ったところに、先程店から立ち去ったばかりの明るい影があった。
続けて聞こえる、なおん、という慣れた声。さっきの今だから、まだ職場に戻る途中だろう。立ったままのヤツの足元に、甘えてまとわりついているらしい小さなシルエット。まさか、あれは。
「ん~、でも首輪付いてねえなあ。やっぱ野良?」
ゆっくりとしゃがみこんでヤツは言った。小さな額をこすりつけて、黒猫がまた小さく鳴く。
「……にしちゃあ、随分と寄ってくんなあ」
「ナーォ」
「おっ、なんだお前両目色違いじゃん!すっげ、かっけえな!」
しかも片っぽはオレと一緒だってば、と妙に嬉しげに言うヤツに、クロはにゃあと応えたようだった。事実だけれど返事なんかしなくていい。なにそんな甘えた声出してんだ、もっとプライドを持て。
「腹減ってんのか?」
さっき食ったばっかだっての。
「あ、やっぱそうなんだろ。野良じゃなかなか好きなもんも食えねえだろうしな。毎日大変だな」
なっ…違うって言いなさい!
チャコールグレーの制服の脚にすりすりと寄っている相棒を見て、オレは心の中でひたすら反論したい気分だった。なのに黒猫はそんなオレの心境も知らず、あっけらかんと腹を見せている。ていうかなんでそんな簡単に尻尾振るんだお前、オレの時は最初全力で警戒してたくせに。うりゃうりゃと大きな手のひらに撫で回されている姿は、すっかり懐柔された飼い猫だ。
ジリジリとした気分で睨んでいたオレだったが、そのうちにその手がふと止まったようだった。
そのまま考え込んでいるヤツを、黒猫がきょとんとした表情でじっと見上げている。

「――なァお前、オレんちの子になる?」

喋らない黒猫が、それにどんな返事を返したのかはわからない。けれどじいっとその目を見詰めていたヤツは、自分でそれなりの答えを読み取ったらしかった。
ひょいとその手が天鵞絨の腹を掬い、抱え上げるようにしてその腕に包まれる。
……え?いやそんな、まさかお前。
まだ仕事中なんだろ?
ダメだろそんなの、本気でそんな事――!?


(クッ、クロ~~~~~!!)


声なき絶叫も虚しくあっさり連れて行かれる相棒に、オレは不覚にも涙が滲みそうだった。
ちくしょうやっぱり絶対アイツ許さねえ……!
再びの決意をするオレの後ろで、兄さんが呼ぶ声がした。