【1-2】Choose Coffee Beans

こないねえ。
のんびりと、カカシが言った。時刻は七時四十五分。頬杖をつくその前に伏せて置かれているのは、常時持ち歩いているらしいこいつの愛読書だ。
いつも通りの時間にオープンした店のカウンターには、常連客達が首をそろ表の通りを眺めていた。埋まっているテーブル席はふたつ。ひとつは時折やって来る品のいい小柄な老紳士、もうひとりは初来店らしき若い女性だ。どちらも静かな仕草で、出されたコーヒーとトーストをゆっくり味わっている。
「何時になった?」
「五十分」
「いつもは何時だっけ?」
「半頃にはいたんじゃない」
じゃあ、やっぱ来ないかー。またカカシが言う。相手をしていた方もそうだねえとボンヤリ気味だ。
カウンターの内側では、兄が今朝ローストした豆の具合を確かめている。先程まで真剣だったその顔も、この話になった途端、憂いに沈んだようだ。
「だいたいがさ、」とカカシは説教臭くオレに言った。
サスケは昔から、ちょっと口が悪過ぎるのよ。フガクさんもミコトさんも、イタチだって言葉遣いは綺麗なのに、どこでそんなキツい言い方を教わってきたんだか。
「……るせぇなあ、余計なお世話だ」
言い捨ててシンクで洗われるのを待っているフラスコを手にすれば、カカシは黙って頭の傾げを深くした。まったく、この件に関しては本当に、もううんざりだ。陰で連絡網でもあるのか、店を開けた途端ぞろぞろと朝からこの小煩い常連達は無駄に集結してくるし、さっきから何故かオレばかりがなじられるし。
昨日は昨日で家に帰ってから、兄に呆れられながらもくどくどと長い説教をされたし、それに。
(うっ……クロ……)
丸いガラスの底に、僅かに残る琥珀色を目にすれば思い出すのはあの色違いの大きな瞳だった。
くっそォあのオッサン、オレのささやかな楽しみを。絶対許さねえ、結局昨日の話し合いは交渉決裂のままだったが、このままもうオレの前に顔見せてこないつもりなら、それでもう結構だ。
「……あ?ねえ、」
来た、というカカシの呟きにはたとスポンジを持つ手を止めたのと、店のドアベルがなったのは同時だった。
勢いよく開けられた扉に、吊り下げられたチャイムの音もどこか急いた風になる。
やはりここには寄らず、今朝はそのまま職場に直行していたのだろうか。ワイシャツの首には、赤いネームタグがもうぶら下がっていた。息を切らしやって来た顔がきょろきょろと店を見渡す。何をそんなに慌てているのか、今日は昨日と違い上もオレンジラインのジャケットを着込んだままだ。
そうしていきなり飛び込んできては首を巡らせていたヤツだったが突然ある一点に目を止めると、まっしぐらにそこに向け歩き出した。
どうやら急いでやって来た目的は、テーブル席にいる若い女性らしい。あっけに取られる店内には一切構うことなく大股でカウンター前を横切ったヤツは、同じく黙ったままで立つオレにさえ目もくれることなく、迷うことなく女性の前に立つ。

「おはよう」

ゆるやかに微笑んで、女性が言った。肩口辺りで切り揃えられた髪が、傾げた首にさらりと揺れる。
「すごい。早かったね」
「……」
「横断歩道、渡らなかったでしょう?いくら目の前でも、そこの信号まで行ってたらちょっと早すぎるものね」
「いや、その――信号無視、したから」
汗ばんでいるらしいその顔がぽつりと答えると、女性は僅かに目を大きくした。そうしてから軽く眉をひそめると、あたりをはばかるかのようにそっと低めた声で「…なお悪い」と言う。
「その格好でそれは、ちょっと問題あるんじゃない?」
「…うん」
「時間、大丈夫なの?もうすぐ始業でしょう?」
「大丈夫。言ってきたし」
なんて?という続けられた質問には曖昧に濁し、ヤツはどこか心ここにあらずといった雰囲気で、そのまま(すとん)と女性の前の席に腰を下ろした。
「なに、あれ」
ひそひそと。カウンター席の一群は顔を寄せ合っていた。
なんだろう、彼女ですかね?え、でも彼女にしちゃあなんか妙な感じじゃない?
「――すごい汗」
困り笑いと共に、女性が言った。
その声に、ようやくといった感じでヤツが肩の力を抜く。
「……びっくりした。いきなり写真送ってくるから」
尋ねたヤツに、女性はふふふと悪戯じみた笑いを浮かべた。でもね、実は我慢できなくて、写真取る前にうっかりひとくち齧っちゃった。そんな事を言いながら、質の良さそうなニットの肩が、茶目っ気たっぷりにすくめられる。
「え、そうだった?画像からはみえなかったけど」
「ううん、角のとこ、よく見るとちょっと欠けてるから」
「絶品だったろ?」
「ええ、聞いてた以上にね」
よかった、最後に一度、食べにこれて。
にこやかにそんな事を言う彼女に、ヤツはふいに動きを止めた。
行く日、決まったんだ?と確かめる声は穏やかで、揺るぎがない。
「いつから?」
「来月。全部が希望通りってわけじゃないんだけど、まあ、ここならって所が見つかったから」
「そっか」
「言葉とかはね、これから頑張って覚えなきゃだけど。でも食べ物は美味しいみたいだしね、色々見て回るのも結構楽しみだよ」
「……指輪、してないんだな」
ふと出された厳しい声に、なんだかどきりとした。
アイツ、まだ買ってくんねぇの?
尋ねるヤツに、女性はやわらかく苦笑する。ううん、違うの。買ってきてはくれたんだけど、サイズが合わなくて。
「呆れちゃうわよホント、買ってきたかと思ったらナプキンリングみたいな大きなもので」
「へえ」
「サイズ位、先に確認したらいいのにね。大は小を兼ねるなんて言っちゃってさ」
笑っちゃうでしょ?と言う彼女に、ヤツは相槌をうつように鼻にシワを寄せた。話から察するに、彼女は最近結婚をしたらしい。
それもおそらく、ヤツとも面識のある人物と。
「――ナルトはさ、ちゃんと確認してから、買ってくれたよね」
ぽつりと零されたひと言に、カウンターで聞き耳を立てていた全員が(ん?)となった。
「確認っていうか。あん時は一緒に買いに行ったから」
懐かしむかのように、ヤツが答える。一緒に? 一緒にってことは、もしかして『元カノ』か?
「そうだった。ふたりして、無茶苦茶緊張して」
「だってああいう店行くのなんて初めてだったし。なんかあのVIPルームみたいな部屋?あそこの椅子がまたふっかふかで、座ったらどこまでもケツが」
「……ごめんね。一生、付けていてあげられなくて」
せっかく買ってくれたのに、と話の腰を折って言われたセリフに、また聴衆が(んん??)となった。
まてまて、なんだそれ。
指輪ってただのカップルのペアリングとかじゃなくて、もっと本格的なヤツの事なんじゃ……

「元・妻だ」

真面目くさった顔で、常連のひとりがぼそりと言った。
うわー、そっかあの人結婚してたんだ!?また他のひとりが言う。
「なるほどねー、男やもめか」
「いや、やもめは死別しちゃった場合でしょう?元奥さんピンピンしてるし」
「バツイチっていうべきだな」
「っていうか奥さんめちゃくちゃ美人じゃない!」
「元ね、元」
「やっぱやるなァ、彼」
「いやオレはね?最初からちょっと何か持ってそうな男だなあって、そう気付いてたよ?」
「ウソつけ、日本語上手いよなとしか言ってなかったくせに」
「あー、そっか。連日のモーニングセットも、そういう事なら納得だねえ」
「急に一人でメシ食うようになんの、さびしいもんなァ」
思い思い、小声で密やかに繰り広げられる野次馬会議に呆れつつも、テーブル席のふたりはそんなオレ達の存在も気にすることなく、じっと静かに見つめ合っている。
「いいってば、その話はもう。オレはみんなが幸せになるなら、それで」
やがてふにゃりと表情を崩して、ヤツが言った。掴みどころがないようなその笑顔に、女性は何か一瞬言いたげにしたが、結局それも飲み込んで静かに下を向く。
時刻はもうすぐ八時だ。普段ならばそろそろ常連客の何人かが席を立ち各々慌ただしく仕事へと向かう頃なのだが、今日は誰もが動こうとしなかった。……いいのかお前ら、早く会社行かなきゃまずいんじゃないのか?ぽーん、ぽーんと、店の壁時計が八時を告げる。
と、それに助けられるかのように、女性の頭がすっと上がった。時計のチャイム音が八つ鳴り切ると、それを待ってから、カウンター内でぼやっと洗い物を片付けているオレを見る。
「――あの、」
はっとして、泡立てたスポンジを置く。慌てて濡れた手を拭いつつ厨房を出ると、女性はそんなオレにふと可笑しそうに目を細めた。
「ごめんね、しゃべるばかりで気が付かなくて。この人にも、ブレンドと、厚切りトーストを」
「…え?」
「ああそっか、ごめんなさい。食べていく程の時間はないわね、きっと。じゃあブレンドだけひとつお願いします。お砂糖とミルクもたっぷりめで」
当然のように告げられたその注文に、ぴくりとヤツの肩が動いた。すうっとその穏やかだった目に、困ったような色がはしる。
そろりとオレを見上げてくるそれに、オレの視線が重なった。今朝の空みたいにどこか乾いて澄んだ青に僅かな間を置いてから、ひとまず黙ってオレは目礼と共に厨房へと下がる。
「今朝はまだ、ここのコーヒーを飲んでないんでしょ?」
オレが厨房の方へとさがるのを見計らって、にこやかに女性が言った。新しいルームメイトはどう?朝から大変だったみたいだけど。
「……ああそうなんだってば、なんか朝起きたらいきなりカーテンがさ!」
変えられた話題にほっとしたように、ヤツがしゃべりだした。厚っこい方じゃなくて、あの、薄い方。あれの下の方からもうやりたい放題ガリガリやってくれて、もう散々でさ。
「昨日無理矢理風呂入れたのまだ怒ってんのかな。家来るまでは機嫌良かったのに、そこらへんからなんか愛想がなくなって」
「あらら」
「調べたらやっぱ猫って濡れんの嫌がるものらしくてさ。見てよほら、乾かす時にもスッゲー爪で抵抗されたし」
「ほんとだ。見事な引っかき傷」
半分自慢のように出された手の甲に感心したように言いながら、彼女は自然な仕草でその手を取ろうとして、はたと止まった。こらえるかのようにじっとその大きな手を見つめていたが、ややあっとしてから「あのね、」と顔を上げる。
「すごく酷い事言ってるなって、自分でもよくわかってるんだけど――」
「ん?」
「いつも、ね。別れてからも私達、普通にメッセージのやり取りしてるじゃない?あれ……もう、やめた方がいいなって、思うんだけど」
とつとつと伝えられる言葉に、うまく飲み込めなかったのだろうか、ヤツはぽかんとしているようだった。へ?なんで、だって最初に……という声も、空回りしているかのようにどこか虚ろだ。
「あの時さ、夫婦やめても友達に戻るだけだって言ったじゃん?」
「……言ったけど」
「じゃあなんでダメなんだってば、別に会ったからってやましいことなんて何もしてないし、アイツだって別にそこは」
「――子供がね。できたの」
打ち明けられた瞬間、ヤツは驚くというより、よくわからないというような顔をしていた。
でもそれも一瞬の事だ。長く長く息を溜め込んでいたかと思うとそれを深く吐き出し、やがて僅かに掠れた声で「そう、かあ……」と呟く。
「向こうで、産むの?」
「うん。そうするつもり」
「アイツにはもう?」
「伝えてるわ、もちろん」
ごめんね、ナルト。再び言う女性にはたと気が付くと、ヤツはぶんぶんと首を振った。
「いやっ…そんな。その――おめでとう」
――よかった、な。思い出したかのように急いでそう言うヤツに、女性はどこか困ったような、寂しいような曖昧な微笑みを浮かべていた。細い指が、白いカップをソーサーに置く。
「そ、か…子供かあ」
「……本当、ごめんね」
「なんで、謝るような話じゃないってばよ?」
「うん、けど……メッセージとかもね。こうして続けてたら、きっといつか、色々混乱すると思って」
「混乱て?」
オウム返しで首を捻るヤツに、女性はまたさっきのようなどっちつかずなような微笑みを浮かべた。そうしてから静かに立ち上がり、ほっそりとした体にストールを巻きつける。確かに常連達が言うように、本当に綺麗な女性だった。長いまつげと、さらさらした髪。古ぼけた店内で朝日を受けて立つ姿は、どこか丁寧にブラッシングをされた、育ちのいい家猫を思わせる。
「じゃあ私――そろそろ、行くね」
ほんのりとした笑顔を浮かべ、身支度を整え女性は言った。持ってきた荷物らしき大きな紙袋を、置いていた隣の椅子から「よいしょ」と持ち上げる。
その様子に慌ててヤツもがたんと立ち上がった。
「あ、ちょっ…そんなの持って、大丈夫なの!?」
思わずといった感じで口をついて出た言葉に、女性は一瞬きょとんとしたが、やがてまた困ったようにくすりと吹き出した。

「ほら、やっぱり」
「え?」
「あなた達、正反対なのにこういう時には、ふたりして同じ事言うから。――混乱しちゃうのよ」

元気でね、と言う女性に、ヤツはハッとした様子で姿勢を正した。
そっちも。……体、大事に。
ほんの少しだけ言葉を選びながら青い目を細め、いかにも親しげにじんわりと頬をゆるめながら、ヤツも言う。
そこまで送るってばというヤツを押しとどめ、女性は席をたった。雰囲気に圧倒されもう完全に観客化してしまっている常連客達には見向きもせず、いつの間にかレジ前にいた兄に二人分の会計を渡している。
ごちそうさまでした、とっても美味しかった。
にこりと告げて、女性は出て行った。扉を開けた瞬間すうっと入り込んできた風に、ほんのりとした金木犀が香る。
サスケ。声に振り向くと、兄がこちらを見ていた。
どこかいたわるようなその目が、「ご注文は?」と尋ねてくる。



「――お待たせ致しました」
女性が立ち去ってから、呆けたように再びテーブル席で座り込んでいたヤツの前にそれを置けば、空色は僅かに大きく見開かれたようだった。
え?と訝しんでくるその顔に、むすりとしたまま睨み返す。
「なんで?いいの?」
「いい。好きに飲め」
「……もしかしてオレ、憐れまれてる?」
「ちげえよ。その一杯だけなら、砂糖もミルクも好きなだけ入れていいってんだ」
ぞんざいに答えれば、要領を得ない様子のヤツはきょとりと首を傾げるばかりだった。
「その一杯って、これだけって事?」という気の抜けた声に、「……だから!」と苛々言い返す。

「それは兄さんのコーヒーじゃねえから」
「へ?」
「オレが淹れた、やつだ。だからてめえの好きに、しても……いい」

置かれた熱く揺れる琥珀色の表面に、少し揺れるオレの声に呼び起こされたかのような、金のさざなみが広がるのが見えた。店では本来、店主の淹れたコーヒーしか出さないのが徹底した決まりだ。
客によって味や質の違うコーヒーを飲ませる訳にはいかないし――「うちのコーヒー」を楽しみにしてくる人を、がっかりさせてはいけないから。だから今も、店に出しているのは父からのお墨付きも貰った兄のコーヒーだけだ。毎日練習はしているけれど、オレのコーヒーはまだメニューとして出せる域にまでいけていない。
でも、この一杯だけは特例だった。兄さんからもちゃんと、許可を得たし。
憐れみとか、そういうつもりで出したわけじゃない。ただ、そう――なんとなくだ。なんとなくこの男に、何かその小さく丸まってしまった体をあたためる為の、一杯の飲み物を出してやりたくなっただけで。

「――でも本当、それだけだからな!他のは絶対許さねえからな!」

改めて強く念を押すと、ヤツはぽかんとしてオレを見返した。見上げた顔の、まっさらで素直な視線。
空色の瞳に、むきになったような顔のオレが映っている。
厚みのある唇は開いたままだ。子供じみたその口許は、とてもじゃないがさっきまでの大人びた会話をしていたものと同じに思えない。
「あり……がと」
ぽつりと。ヤツが言った。
かたんと乾いた音をたてて、シュガーポットの蓋が開けられる。さらさらと流し込まれるブラウンシュガーが、音もなく溶かされた。とぷりと華奢なピッチャーの注ぎ口から、ミルクが注がれる。銀のスプーンで掻き回されたそれが、白い渦巻き模様の線をひいた。
「なあ、お前さあ」
悔しく、ねえの?
カップに口を付ける手前。唐突に訊くと、ヤツはふとその手を止めた。ん?とその顔がオレの方を向く。ぱちくりとまたたく青い瞳も、昨日の事件発生時のぶり返しのようだ。
「どうしてそんなに相手を許せるんだ?あの人、確かに美人だけど、お前捨てて他の男に走ったって事だろ?」
「え~~…ずっと聞いてたのかよ」
流石に渋顔になったヤツに居心地悪く黙ると、溜息をついた大きな手ががりがりと頭を掻いた。広い手の甲に、赤い引っ掻き傷がちらちら見える。
「んー、でもその他の男ってのがまたいい男でなあ。オレガキの頃からそいつ知ってっけど、絶対敵わねえの、ホント。彼女は最初っからオレよりあっちのファンだったしさ」
そんな身も蓋もない事をなんでもないように言うヤツに、なぜだか無性に腹がたった。どうしてそんな平気な顔してそんな事が言えるんだ。そんな汗かいて、信号無視して、会社抜け出してくるくらい好きなのに。
「けどだからってそんな、ヘラヘラずっと笑ってる事ねえだろ」
なんで、怒らないんだよ。
強く言えば、そんなオレにちょっとヤツは驚いたようだった。まじまじとオレの顔を見て、それからちょっと「そうだなあ」と考えてから晴れ晴れと笑う。

「もう二度と会えないかもしれない人に、どうせなら笑ってる顔を思い出してもらいたいから、かな」

甘い甘いコーヒーが、やわらかく笑んだ唇にそっと吸い込まれた。
かすかに残るオレンジ色した花の香りが、琥珀のくゆる古い店の中、静かに溶けては沈んでいく。