――久しぶりに、夢をみた。
どんな夢だったのかは、眠りから覚めた途端忘れてしまった。忘れてしまったが、多分わりといい夢だったのだと思う。頭の芯に残っている余韻が、なんだかふわふわと気持ちいいからだ。ぬくまったベッドの中、素肌に感じる温度にまた思考が溶ける。
名を呼ばれるのと同時に、肩を揺らす手を感じる。
やわらかく、あたたかく、慈しむ手付きで触れてくる指には、しっかりとした覚えがあった。「なあ、」と呼びかけてくるその合間に、頬に掛かるひと房を掬い上げられ耳に掛けられる。今は大人しいこの手に、昨日は随分と翻弄させられたのだ。不器用だとばかり思っていた彼の指は、どうやらその気になればどうとでも繊細に動けるらしい。意外な発見だ。
サスケ、と尚も呼ぶ声に、まどろんでいた瞼を開いた。
そのまま薄目の視界をゆっくりと広げていくと、至近距離にある空色が、ホッとした様子で「あっ、よかった起きた!」と小さく叫ぶ。
「おはよサスケ!」
「……」
「あの、いきなりで申し訳ないんだけど、ヤバいってばよ。そろそろ起きねえと」
寝過ぎた、という一言にゆるゆると視界をめぐらすと、ヘッドボードに埋め込まれているデジタル時計が既に七時を回っているのが見えた。…なんだ、なに焦ってんだこいつ。今日は不燃物の回収日だからそんなにゴミの量もそんなに多くないし、ああそうか自分が今日は朝からバイトなのか?などと寝ぼけた頭で昔と今がごっちゃになった事を考えつつ、再び浅い眠りに戻ろうと布団を引き上げた瞬間、ふと現在の状況に気がつく。…あれ?そういやこいつ、もうフリーターじゃなかっただろ。ひとつ思い出せば、するすると芋蔓のように他の情報も引き出されてきた。……そうだ、昨日田舎から帰ってきた自分はナルトによって強引にここに連れ込まれ、すったもんだの挙句、結局コトに至って。
なんだかとにかく色々と叫ばされるような事をされて、案じていた通り執拗に快楽を引き出そうとするナルトの手管に融かされて……思い返しつつも、ヘッドボードに残る敗れたパッケージの数に、記憶に残っていない数回を思う。確か最後はあやふやな意識さえも手放してしまい、そのままぐずぐずと寝入ってしまったのだ。
と、言うことはここはホテルの一室で、更に言えば自分達はまだ、空港から自宅へ帰ろうとしていた途中で。もぎ取った連休は昨日ですべて消化済みなのだから、当然今日からは普通に――
(―――仕事!)
思わず跳ね起きると、腰から下に偽りようのない痛みが走った。臀部にはひりつく違和感があるし、股関節も鈍く痛む。…予想はしていたが、最悪だ。昨日散々解されたので多分傷ついてはいないはずだが、それでも昨夜何度も侵入され擦り上げられたそこは、明らかにこれまでとは違った感覚を訴えている。
「だ、大丈夫、高速ぶっとばせば病院までは30分もあれば着けると思うから」と取りなすように言ってくるナルトに振り向くと、やはり素っ裸のままの彼はそんな寝起きのサスケを見た瞬間、ゆらりと目を泳がせた。なんだ、なんでそんな後ろめたそうな顔してやがるんだ?訝しみつつ起こした自らの体を見下ろすと、首から下に刻まれた無数の痕跡に、思わず息を飲み絶句する。なんだこりゃ……いったいどれだけ啄みやがったんだ。一面に広がる花びら模様は、胴体に収まらず腿や肘裏にまで至っている。
「……おっま……!」と唸ると、目を泳がせていたナルトは一転して、あわあわとベッドから抜け出した。そのまましゃがみ込みベッドの影に隠れると、焦った口調で「ご、ごめんってば!サスケの肌ってちょっと吸っただけでスゲエ綺麗に痕が出来るから、ついなんか、沢山付けたくなっちゃって」などと弁明する。
「ふざけんな、どうすんだコレ人に見られたら!」
「だ、だいじょぶだって!なんか言われたら虫に食われたって言っときゃ誤魔化せるってば」
「こんな全身食い散らかす虫があるか!」
「……腹ペコだったんだってばよ」
呆れた言い分に腹を立てていると、慌てた様子のナルトは話題を変えるかのように体を起こし「いやいやそんな事よりもサスケ、風呂入ったほうがいいってばよ!」と言い出した。言われてようやく、部屋の中に漂う特有の匂いに気付く。よく見たら自分の体のあちこちにも、それらしきものがぺっとりとこびりついたままだ。わざわざこいつに言われずとも、今すぐにでも入りたい。
「病院行く前に体流さねえと。オレら相当せーえきクサイってばよ」と進言するナルトに、「阿呆!誰のせいだ!」と叱責しつつベッド下に脱ぎ捨てられたままだったジーンズを拾い上げると、抱え上げた弾みにポケットからころりと、昨日から入れっぱなしになっていた銀の鳥が転がり落ちた。「あ、『2号』」とつい呟くと、それを聞きつけたナルトは居た堪れなさそうな顔で「……お願いそれ折角忘れてきた所だから、もう蒸し返さないで?」などと言う。
「馬鹿め、恥ずかしがる位なら最初からそんな名前付けんじゃねえっつーの」
「うう、ごもっともです」
言いながら、再びポケットに戻そうとしたサスケはしかし、ナルトからの「あっ…ちょい待ち、それ仕舞わないで!」という声に手を止めた。「ゴメン、やっぱそれ一回返してくんない?」という彼に首を傾げると、なんだか随分と色々スッキリしたような顔が、照れくさそうに「へへへ」と笑う。
「なんだ、まだこの先もこんな恥ずかしいものぶら下げるつもりか」
「や、そうじゃなくてさ」
「じゃあいいだろ」
「いやあのさ、えっと……ほら、オレってば今、エロ仙人のとこで世話になってるだろ?」
前置きのない切り出しにちょっと面食らいながらも続きを待っていると、立ち上がりベッドに腰掛けてきたナルトは「近々さ、オレそこ出ようかと思って」と言い出した。「出る?」と訊き返すサスケに、「うん。引っ越して、一人暮らしに戻ろうかなと思って」という言葉が返ってくる。
「一人暮らし?」
「うん」
「どこで?」
「……サスケんちの近く、とか」
照れ笑いと共に告げられると、ようやくその意図が読めてきた。多分彼は、少しでもサスケとの間にある距離を縮めたいのだ。確かに今のままで元の生活に戻ったら、また忙しさで会えない日々が戻ってくるだけだろう。ホッケーのシーズンが始まってしまえば、それはもっと深刻になるのかもしれない。
「まあエロ仙人のとこも、今結構若い奴らが集まって賑やかにやってるしさ。オレ抜けても多分、長門さんもそんな困る事ないと思うんだ」
「ふうん」
「そしたらさ、もうちょい会えるかなって。まあ会社からは遠くなるけど、通えない距離じゃねえし」
「だからさ、それ返してくれたらオレんちの合鍵つけて、またサスケに預けるから。一回オレに戻して?」と笑顔で差し出された手に、サスケはしばし黙った。……成程、要するにまたこんな朝を一緒に迎えたいという事か。すっかりお気に入りな様子で結構な事だな。しかしもう少し加減を覚えて貰わねば、正直こっちの身がもたない。耳なし芳一状態にされんのも、今回だけにして欲しい。
「……なあ、サスケ」
昨夜の記憶から自分と彼の深い体力差に遠く思いを馳せていると、ふいに凪いだ声で名を呼ばれた。
差し出された手から視線を上げる。するとそこには、さっきまでのやにさがった顔から一転して、静かな笑みを浮かべたナルトがいた。急に変わった雰囲気に、なんだかどきりとさせられる。
「あのさ。オマエってば、いつまでここにいてくれる?」
「え?」
「戻るんだろ?いつかは。……それまで、あと何年残ってる?」
すべて承知したかのように落ち着き払ったナルトに、サスケはゆっくりと深い息を吐いた。
なんだ……そうか。それもすっかり、こいつには見通されていたか。
ようやくの再会からずっと、一言もそんな事は伝えていなかったけれど、どうやらナルトには言わずとも全て見通されているらしかった。考えてみれば、彼がわかっていない訳がないのだ。そんな彼だからこそ、自分は彼を選んだのだ。
――そう遠くない未来。間違いなく自分は、この地から離れる。
死んだ兄に代わり父の病院を継ぐのは、サスケの中では絶対に曲げられない決定事項だ。正確にいつになるかはまだわからない。けれど自分たちは、きっとまた離れる事になるだろう。最初からそれはわかっていたし、変える気もなかった。自分勝手な事をしているというのは、重々承知の上だ。…承知の上で、それでも自分はここに来てしまった。
「まだしっかりとは、決めてねえけど」と小さく言うと、サスケは少し口を噤んだ。
「多分――せいぜい頑張っても、五年だと思う。それ以上になったら、父さんもリタイヤする年になってしまうし」抑えた声に、黙って耳を傾けていたナルトが「そっか」と呟く。
「五年かあ」
「……」
「……だったらやっぱ、出来るだけ沢山会えるようにしなきゃな!サスケと同じマンションで空き部屋とかあれば最高なんだけど、あそこ一応病院の寮だし、それだと」
「――ナルト、」
なんでもない事のように話を続けるナルトに、サスケの呼びかけが躊躇なく割り込んだ。途中で遮られたのも気にしない様子で、明るい金髪頭が「ん?」と僅かに傾く。
「怒っていいんだぞ?」
「なにが?」
「勝手に来て散々振り回し、挙句の果てに時間が来たらとっとと自分の巣に帰るなんて。身勝手もいいとこだろ」
俺だったら絶対怒鳴ってる、と妙な自信を込めて言うと、空色の瞳が一瞬ぽっかりと大きく見開いた。
やがて「なんだそれー、怒ったりなんかするわけねーってば」という笑い混じりな返事と共に、ほろりとその頬が崩れる。男らしい筋の通った鼻の上に、嬉しげなシワが細かく寄った。細められた目の奥に、やわらかな光が灯っているのが見える。
「サスケはさ、たった五年しかない自由時間を、オレの為に全部投げ出してくれたんだろ?なんで怒る事があるんだよ、オレってばオマエが会いに来てくれただけで、もう充分奇蹟だと思ってんのに」
そう言うと、身を屈めたナルトはサスケの顔を下から覗き込み、「ありがとな!サスケ」と当たり前のように伝えてきた。着かれた手に、ぎしりとスプリングが軋む。素直な言葉に、意識して保っていたポーカーフェイスがほのかに揺らいだ。どうしてこいつはいつもいつも、欲しい言葉をちゃんと届けてくれるんだろう。そんな事を思いつつ、不覚にもじんとする胸の奥を隠す。
「――やめた」
唐突に言われた短い言葉に、ナルトはきょとんと顔を上げた。
意味がわからなくてぱちくりとしばたく瞳を、どこか怒ったかのような仏頂面がじっと見詰める。
「やめたって、何が?」
「これ……この、小っ恥ずかしいお守り。やっぱりこれはこのまま俺が預かる。合鍵なんて要らん」
「えーっ?なんでなんで、引っ越してきちゃダメなのかってば!?」
銀細工を再びポケットに仕舞い直し立ち上がるサスケに、ひっくり返った声をあげたナルトは慌ててベッドから降り立った。片腕にジーンズを引っ掛け風呂に向かおうとする彼の腕を、後ろから捕まえる。そのまま骨の浮く両肩をしっかりと掴まれると、行きかけた背中は他愛なく引き止められた。
「どうして?ご近所さんになる位いいじゃんか」と尖る口を、肩ごしに投げられてきたぬばたまの視線が、眇めた目で振り返る。
「同じマンションとか、近所とか。一緒にいたいのが目的なら、わざわざそんな面倒な事することないだろ。そんな事する位なら、いっそ」
「へ?」
「……夏まで、待て。その頃には俺の方も、もう少し仕事に慣れてると思うから。そしたら……」
たっぷり迷った末、結局決定的な誘いは言えないままうつ向く彼に、声を失ったナルトはただただ瞳を大きくするばかりだった。下を見る耳が赤い。襟足からのぞく真っ白なうなじも、今は恥ずかしげに縮こまっている。
……やがてハッキリでいない自分自身に業を煮やしたのか、苛立ち紛れに乱暴な舌打ちを落としたサスケは、肩を掴む手をぞんざいに払い除けた。抱えていたジーンズを掴み直し、再びシャワーを浴びるべく一歩足を前に出す。そうして行きかけた華奢な腰を、後ろから伸びてきた手がしっかりと捕らえた。あたたかな腕がするりとまわされ、サスケよりも幾分高い体温が背中にそっと寄り添ってくる。
肩口に、そのなだらかな額が、こつんと軽く乗せられた。
「サスケ、」と呼ぶ素直でやわらかな金の髪が、赤い花びらの散る素肌をふわふわとくすぐる。
「…サスケェ」
「…ンだよ」
「サスケ…さん」
「……」
「サースーケェー」
「…るさい、ボケ」
「サースケちゃん」
「――うぜえ、いい加減にしろ!俺は今急いでんだ」
離せ、としつこい呼び掛けを気恥ずかしくいなすと、抗議するかのようにぐりぐりと、その額が擦りつけられてきた。ぬくまったナルトのにおいが立ちのぼり、ぱさぱさと肩口で踊る金髪がこそばゆい。
「……サスケ、」と最後にひとつ加えられた声に少し体を捻ると、額を離し、こちらを見詰める澄んだ双眸が見えた。ふたつの青空の中に映り込むのは寝癖だらけの自分だ。「なんだよ」とぶっきらぼうに応えるそれも、我ながらどうにも間が抜けている。
「あいしてる」
「…あ?」
「――あいしてます、ってばよ!」
告白と共に花びらの散る細い体躯が、ポカンとしたまま、攫われるかのように後ろからぎゅっと抱き寄せられた。
回されてくる腕が強い。驚きで力の抜けた手からジーンズが滑り、ゆっくりと床に落ちていく。
……うなじに触れてくる唇の熱さに、知らずぞくりとしびれが走る。
弾みで再び転がり落ちた銀の鳥が、密やかな笑いを零すかのように、「チリン」とひとつ囀った。
【END】