Golden!!!!! 中編

霊園の真ん中に建つうちはの墓は漆黒の御影石で出来ており、建てられてからもう数世紀を越えてきているそれは厳然たる威厳と共に、静かな風化をその身に纏っていた。
周りに生えた草をむしり取り、柵内に侵入する小石を丁寧に手で取り払う。
水場に備え置かれていた雑巾を借りてきて手桶に溜めた水に浸し、緩くしぼっては御影石を磨くことを繰り返していくと、曇りの取り払われた表面には細やかな光が蘇り始めた。持ってきた花を活け、仕上げとばかりに最後にまた雑巾を濯ぎ、固く絞ったそれでしっかりと石を拭いていく。この後雨が降れば全部無駄になってしまうかもしれない。だがこういう事というのは多分、手入れをする事自体に意義があるのだろう。
それでもどんどん色を重くしていく雲を見上げながら、さて線香はどうしようかと迷った時、鉛色の空から落ちてきた大きな雨粒がひとつ、天を仰ぐ俺の頬をぽたりと濡らした。

  * * *

冷たさを感じた途端、時を同じくして辺りを包む木立達が「ざあっ」と一斉に声を上げた。灰色の砂利が敷き詰められた境内はあっという間に大粒の雨によって、黒々とした濡れ色に塗り替えられる。慌てて借りた道具を手に、すぐ横に建つ廃寺の軒先に走り込む。この小さな無人の寺は、かつてはうちの一族の弔いを全て執り行っていた菩提寺だった。廃寺になってしまってからはいいように古くなるばかりで、中にあった仏像もどこかの資料館かなにかに寄付をしてしまってからというもの、中はガランとしてただの空き家のようになっている。それでも時折母が来ては簡単な手入れを行っていることもあり、寂れてはいたけれども荒れ放題というわけではなかった。周りを一巡している縁側の一角には、昔煎餅が入っていたと思わしきアルミ製の大きな角缶が置いてある。中身は線香やらハサミやらといった、墓参り用の道具だ。この墓地に訪れる人なら誰でも使えるようにと、常日頃から出しっぱなしになっているそれの管理も、掃除に来た時の母の役目だ。
勢いを増していく雨が、水のカーテンのように逃げ込んだ軒先からの視界を覆う。
(まあこれはこれで、丁度いい時間潰しになるか)
遠くの空が早くも明るんできているのを見て取って、雨宿りを決めた俺はそのまま缶の置かれている縁側に回り込んだ。腰を下ろす際に一瞬だけ着いた、手の裏がザラザラする。たまに掃除をしているとはいえ誰も住まないまま外回りで野ざらしになっている縁側は、どうしたって砂埃だらけだ。
(……クソ。それにしても、まだアレが残っていたなんて)
午前中、思いがけず再び目にした在りし日の自分を思い出せば、やり場のない憂鬱さがまたグズグズとわだかまっていった。もうとっくに処分されたと思っていたのに。あの野郎、退去の時は持って帰るなんて言ってたくせに、結局ずっと部屋に隠し持っていやがったのか。
重々しい溜息をひとつ吐いてみても、すっかり湿気てしまった胸の内は、一向に晴れる気配が無かった。
腰掛けた所からぶらりと膝下を垂らし、俺はまたぼんやりと、雨に濡れる5月の木々を眺めた。

――絵が出来たから見に来てくれという誘いを受けたのは、修行のような5日間を終えそこからまた3日ほど経った、8月の終わりの事だった。
再び上がった102号室の中は相変わらずの混沌で満ちていて、本当にこれで明後日にはちゃんとここを引き払えるのかと心配になる程だった。壁にはまだ一面、破り取られたスケッチブックがベタベタと貼られている。これを現状復帰させるのは難しそうだがまあ壁紙は一応張り替える予定でいるし、退去日に間に合わなければもうこのまま出て行ってもらってもいいのかもしれない。この後起きる事をまだ知らなかった俺は、その時ふわふわとそんな事を思っていた。
完成した絵の中にいる自分と、その周りに描かれた真っ黒な鳥を眺めながらちょっと『無』のような状態になっていると、「どーよこれ、最高傑作だろ、うん!」と実に満足げな様子のデイダラが隣に並んできた。まあ…確かに。思ったよりも絵の出来は悪く無かったが、黒ずくめの自分の姿にはなんとも返事のしようがなくて、結局黙ったまま絵を見続ける事になる。
そんな時に、唐突にそれは言われたのだ。
読んだぞ、と。
「……は?」
何を?と前置きの全く無視された言葉に訝しむと、なんだか作業の初日からすると随分と目が落ち窪んだ様子のデイダラが、「これ!」と笑いながら後ろに持っていた物を見せた。手にしていたのは例の、重吾さんの『私物』だ。モスグリーンのユニフォームが、大判の表紙の中つやつやと光って見える。
思いがけない場所でのその登場に、驚かされた俺は一瞬声を失った。……なんでこれがここに。つかなんでコイツがこれを読んでるんだ。
「どうしたんだ、それ」と僅かに声を掠らせながらも尋ねると、今日も頭のてっぺんできりりと結ばれている、金の髷がゆらりと揺れた。「これか?重吾さんに借りたんだな、うん!」という想定内の答えに、ちょっと頭が痛くなる。
「昨日さ、管理人室で一緒に昼飯食っててよ!そん時聞いたんだよ」
「何を?」
「この雑誌。これって『うずまきナルト』が出てるヤツなんだってな!なんだよもう、オマエ『いつか』とか『わかんねえ』とか冷たい事言っちゃってたけど、やっぱそいつの事気に掛かってんじゃねえか。そうならそうと言ったらいいのに、恥ずかしがり屋だなあ、うん!」
一息に言いながら、あっけらかんと笑うデイダラに唖然としながらも「違う」とぼそりと呟くと、なんだかまだニマニマしているヤツに「なーに言ってんだ、ふたり揃って同じような事言ってるくせによー」などと言われた。「どう言う意味だ?」と尋ねる俺に、ようやく話のすれ違いに気が付いたらしい。俺の横でキャンバスを見下ろしていた顔がふいに上がり、きょとんと目を丸くする。
「なにオマエ、まだ読んでねえの?」
「あァん?」
「今月号。あいつのインタビューの記事が載ってただろ?」
インタビューだァ?と首を傾げる俺にようやく得心がいった様子のデイダラは、「…なんだ、そっか。こないだオマエこれ眺めたから、オイラてっきり中読んでると思ったんだけど。やっぱ重吾さんの読みの方が当たってたな」と言って苦笑した。何の事かはわからないまでも、どことなくこちらの分が悪いような空気は察せられて、とりあえず俺は口を噤む。
「オマエさ、ずっと管理人室に置いてあるこの雑誌、さてはまだ一回も読んだ事ねえだろ?」
「……そんな事、」
「嘘つけ、重吾さんとっくに気がついてんぞ。なんで読まねーの、せっかく置いてくれてんのに」
贔屓の管理人がそっと敷いている親切が無下にされているのが腹立たしいのか、腰に手をあて仁王立ちでいるデイダラは少しむくれているようだった。あれか?仲良かったそいつが、自分置いて遠くに行っちまったから、ガキみたいに拗ねてんのか?ズケズケとそんな事まで言ってくる様子に、段々とムカッ腹がたってくる。
「……違う」
「違わねー。重吾さんスゲー心配してんだぞ。最後ケンカ別れでもしちまったんじゃねえかって」
「そんなんじゃねえよ」
「じゃあありがたく読ませてもらったらいいじゃねえか。オマエいっつもつんけんしてっけど、他人からの厚意はもっと素直に受けるべきだぞ、うん」
いいから、一回位は読んでみろって!
押し切るような強引さでそう言うと、デイダラは持っていた雑誌を止める間もなくガバっと開いて半折りにする(借り物だというのに、こういう無神経さは相変わらずだ)と、問答無用で俺に押し付けた。胸元に突きつけられた雑誌の上辺には、重吾さんが貼ったと思わしき付箋がぴらりと頭を覗かせている。気のいい仕事仲間からの厚意を盾にここまで言われてしまうと流石に突っぱねにくくて、渋々ながらも俺は付箋のある箇所辺りに目を落とした。いきなり目に飛び込んでくる明るい黄色に、初っ端から気持ちが挫ける。
「……」
「なにしてんだ、早く読んでみろって」
「……うるせえ。黙ってろ」
「なんだよオメー男のクセにうじうじしやがって。やっぱそいつがあっちで楽しそうにしてんの見んのが面白くないんだろ」
「あァん?」
「ホントくだらねーとこでガキくせえんだな。大人だった兄貴とは大違いだ、うん」
ひけらかされた兄の名に、引き気味になっていた頭が一気に着火した。なんだとコラ、てめえが俺の兄貴を語るんじゃねえよ。まったく、こいつモデルの話が片付いたら急に遠慮しなくなってきやがって。イライラとそう思いながら、ぎっとひとつヤツを睨む。
それでもここで大声を出すのはまた更にこいつの見解を助長するだけだろうと、俺は湧き上がる反発心をどうにか堪えた。上等だ、こんなもん見るのなんて本当は屁でもねえよとばかりに鼻を鳴らし、ひとつ息をして雑誌を受け取る。
見開きのページを使ったそのインタビューは、どうやらこの雑誌では毎号組まれている連載のようだった。記事のタイトルと共にある数字は連載が回を重ねてきた事を示し、その横には太字で印刷された、彼の名前がある。
『CLOSE UP 第17回    うずまきナルト選手 (東洋製紙フロッグス) 』
ツヤのある光沢紙にくっきりと記された活字は、以前管理台帳で見たボールペンの文字と比べると酷くよそよそしいものに感じられた。その下にあるのはインタビュアーによる彼の簡単な紹介と、ページの縦半分を使って写る、ほのかに笑うあいつの姿だ。多分撮影用に用意されたものなのだろう。どう考えても本人の趣味ではなさそうな、襟のある白いシャツにベージュのコットンパンツという、妙に爽やかな格好をしている。…昔ここでよれよれのパーカーを羽織って穴の開いたジーンズを履いていた彼が嘘のようだ。夢を叶えた事が自信に繋がっているのだろう、背の高いスツールに軽く腰掛けている姿には無駄な力みは感じられず、短くなった金髪は精悍さを増した顔によく似合っている。
長くこのスポーツに関わっている人物なのだろうか。インタビューをしているのはその雑誌の記者らしく、冒頭で「お久しぶりです」などと言い合っている二人はどうやら古くからの知り合いらしかった。言葉使いは敬語を使いあっているが、砕けた様子で会話している行間からは、リラックスした空気が伝わってくる。クレジットにある『小南』という名前から鑑みるにインタビュアーである編集者はどうも女性のように思えたが、もしかしたらそれはただの苗字で、実際は男性なのかもしれなかった。「ほらァ、開いちまえば大したことねえだろ?ちゃんと読めよ、うん!」などとお仕着せがましく言ってくるデイダラをちょっと煩く思いつつ、そっと折り曲げられた雑誌に目を落とす。

前シーズンではいきなりのゴールランキング入りでしたね。おめでとうございます。
「ありがとうございます。けど、オレだけの力で得たものではないので。一緒にやってきた仲間達や、サポーターの方々の応援のお陰で……」

……冒頭から続けられていく言葉達には、例の口癖はもう混じっていなかった。活字になったコメントはなんだか随分と大人びてこちらに届く。質問は一問一答のような形式を取りながらそのままあれこれと前シーズンの成績について続き、やがて話題はチーム内での交友関係についてに繋がっていった。内輪ネタのような話題がしばし続く。彼が間借りしている家には、他にも今数名のチームメイトがいるらしい。本人は「むさくるしくてもう」などと言っているが、男ばかりの大所帯はそれはそれで結構楽しそうだ。

楽しそうですが、それはそれとしてやはり、女性と過ごされる事もあるんですよね?
「そりゃまあ、時々は」
・そのルックスだったらさぞやモテるでしょう?
「や、全然。普通ッスよ(笑)」

「……なァんか、余裕ありそうだよなー、コイツ」
読むのは二度目になるのだろう。隣から紙面を覗き込んできたデイダラは文字を辿る俺の目の動きを見て取ったのか、一瞬動かなくなった俺に向かいのんびりと呟いた。楽しげな質問から急転させるその質問の仕方には、元々知り合いであるせいだろうか、どこか悪戯じみた茶目っ気が滲んでいる。
彼女は?という続けられた問いに対し、彼は「うーん、ちょっと前まではいたんですけど。今はそういうのはいいかな――ひとりを楽しみたいって気分です」などとぬけぬけと答えているようだった。……なんだその発言。一体いつからお前はそんな色男じみた事言うようになったんだ。

・そういえば先程恋人はいないとおっしゃっていましたが、チーム内では『うずまきさんには純銀製の恋人がいる』と、もっぱらの噂だと聞きましたが。
「へっ!?」
・いつも試合開始前、その彼女を大切に握りしめているとか。
「……あっ!?ああそっか、それはオレのお守りの事ですね!知り合いの銀細工師さんに作って貰った銀で出来た鳥のモチーフを、いつも持ち歩いているんです」

(……知り合いの銀細工師?)
プライベートを掘り返していた質問から急に出された言葉に、ふと自室にある銀時計が思い浮かんだ。銀細工師って、もしやあの無礼な配達人の事か。そういえば確かに、トライアウトに向かう彼のスポーツバッグには、あの頃から見慣れない銀の鳥がぶら下がるようになっていた。そうか、あれはお守りだったのか。あまりそういった雰囲気のものではなかったから、ただのキーホルダーかと思っていた。

・お守りとしては、ちょっと変わったモチーフですね。
「そうですか?けどコイツは今のチームに入る前からずっと、オレの事見守ってくれてて。なんていうか、プレー中だけじゃなくて普段の生活の中でも、コイツが見てる前ではみっともない事は出来ないなって思えるんです。一年前、落ち着いてトライアウトに臨む事ができたのも、コイツがいてくれたお陰ですね」

(ふーん、あれってそんなに大事なもんだったのか)
聞いたことのなかった彼の話に、ちょっと意外に思った俺は再びスポーツバッグで揺れていた銀細工を頭に描いた。そう、確か目に赤い石の入った猛禽だ。家の鍵に付けていたカエルに比べ、あまりあいつらしくないデザインだったから、最初に見た時からなんとなく目に付いたのだった。
インタビュアーの質問はまだ続く。彼女はやけにこの話題に対し、興味を持っているようだ。

・うずまきさんは昔、脚の故障で一度ホッケーから離れていた時期がありますよね?当時もそのお守りが復帰への支えとなっていたんですか?
「いえ、その時にはまだこれはオレの手元には無くて。当時オレの一番の支えになってくれていたのは、その頃知り合った同じアパートに住む友人ですね」

「あっ、これこれ!これオマエの事だろ!?」
そこにくると、横に張り付いたままのデイダラは華やいだ声と共にをの箇所を指で指し、何故か鬼の首でも取ったかのような顔で自慢げに笑った。……まあ、多分そうだろな。ちょっとくすぐったいような気分でそう思ったが言葉は返さないまま、黙々と誌面に目を落とす。

・どんな方なんですか?
「すっげえ厳しいんですけど、誰よりもその人自身が、自分の目標に向けて努力を惜しまない人で。見た目はね、なんつーか冷たそうに見えるんですけど、中身は滅茶苦茶熱いっていうか。その人が言ってくれたんです、オレの事を見ててくれるって。見ててやるから、頑張れって。もう会えない人なんですけど、今でもオレにとって、とても大切な人です」

「ほらァ、こいつオマエの事超褒めてんじゃねえか。どっかの誰かは『いいやつ』としか言わなかったのによー」
そう言って、批難がましく口を尖らせたデイダラは、雑誌を見下ろしたままの俺を見上げてきた。うるせえなあこいつ、さっきからなんでこんなあいつの肩ばっか持ってるんだ。青い目の中に、憮然顔でそんな事を思う俺が見える。

・もう会えないというのは…?
「あっ、いやいやちゃんと生きてますよ!?ただちょっと…色々とありまして。今はもう、完全に縁が切れちゃってるんです」
・うずまきさんの方からは連絡しないんですか?
「うーん…まあ、やろうと思えば多分、いくらでもやりようはあるとは思うんですけど。でもそれをしてしまったら、彼の誠意を無駄にしてしまうようで。向こうは向こうでちゃんとやってるみたいですし、オレはオレの世界を作っていくべきかなって。オレが夢が叶えられたのも、一年前、彼が背中を押してくれたおかげですしね」
・そうなんですか。
「ええ。あの頃彼がオレにしてくれた事、今でも本当に感謝しているんです。出会いから見送ってくれた事まで、全部が大切なオレの思い出で…今オレがここにいられるのも、彼のおかげで。会えなくてもいつだって、彼の幸せを祈ってますよ」

「――読んだぞ」
彼の口から出たのであろう昇華された言葉達に、嬉しさと同時に言いようのないさみしさを感じた。やっぱり、あいつの中ではもう全部が綺麗な過去になってんだな。ちょっとすうすうしてきた胸の寒さを押し殺し、俺は開いたままのその雑誌を隣に突き返した。脇に刺されるようにして返されたそれに、ちょっとニヤニヤしていたデイダラが「うっ」と呻く。
「え?もう?」
「もういいだろ。満足したか?」
「いやいや、早過ぎだろ?まだこれ裏面にも続いてるんだぞ?」
「充分だ」
「ちょっ…待てって!」
言い捨てて、そのまま立ち去ろうとした俺のシャツの裾を、絵描きの絵がはっしと掴んだ。うんざりした気分で振り返ると、なんだか妙に真面目な顔したデイダラが「逃げんなよ」と低く言う。
「ハァ?逃げるってなんだよ」
「ちゃんと最後まで読めって」
「もうだいたいわかった」
「実際読んでもいねえクセにわかった気になるなっての。そうやってまた『いつかは』とか『さあな』とかみたいなあやふやな事言うんだろ。…オマエさ、モデルん時もそうだったけど、やる前に頭で考え過ぎだ。嫌だとか恥ずかしいとか思ってても実際着てみたらすぐ慣れたし、言うほど悪くはなかっただろーが」
――こういうのは『案ずるより産むが易し』だぞ、いいから読んでみろって、うん!
堂々宣言すると、決して高くはない背丈をぐんと張って、金髪の絵師は居丈高に雑誌を俺に差し向けた。あまりに熱心なその気迫に、ちょっと圧倒された俺は気が進まないながらも再び受け取る。
折り曲げられたもう半分をそろりと伸ばし、残されていた残りの会話に目を走らせた。浮かない表情を続ける俺を、腕組みしたデイダラが横で見張っている。

・なるほど…そんな出会いがあったんですね。
「ええ。オレきっとその人の事、一生忘れないと思います」
・ちなみに先程から『彼』とおっしゃってますが、もしかしてその方実は女性なんじゃないですか?
「は?いやいや、間違いなく男性ですよ」
・そうかしら?なんだか随分と熱っぽい顔して話されてるので、かつての恋人かと。
「…………そんな事ないですよ。オレってばこういう顔です、元々」

知己の間柄であるせいだろうか、続けられている会話は先程よりもまた更に一歩踏み込まれたような、斟酌のないものになりつつあるようだった。どうやらやはり『小南』という編集者は女性らしい。発言の語尾もだが、質問の仕方になんとなく女性ならではの好奇心がほの見える。

・今その方はどちらに?
「彼はまだ学生なので。東京で今も暮らしていますよ」
・もしかしたらいつか、向こうから会いに来てくれるかもしれないですよね。
「いやーそれはないスね。そんな事が起きたらホント奇蹟だってば」
・そこまで言わなくても(笑)。
「や、そのくらいありえない事なんですって!アイツ絶対そーゆーキャラじゃねえし」
・でももしもまた会える事があったら、どうします?どんなこと伝えたいですか?
「うーん、伝えたい事とかはもう、あんま無いですね。最後会えた時にちゃんと全部言えたので」
・なるほど。じゃあもう、後悔はないわけですね。
「あー…だけど。えっと、その――彼に、お願いしたい事ならあって」
・お願いですか?
「ええ。もしも許して貰えるなら、ご褒美を。もう一度だけでも、貰えたらなって」

「あのさァ、ここンとこ、昨日辞書引きながら読んだ時もよくわかんなかったんだけど」
いきなり横から無作為に話しかけられた声に、ぎょっとした俺は思わずピシャリと雑誌を閉じた。首から上が異様に熱い。変な力まで入ってしまっていたのだろう、ビクリと跳ねた肩が落ちた途端、重たい脱力感がどっと襲ってくる。…あの馬鹿、こんな公共の場でなんつー事ぬかしてんだ…!ただ読むだけではきっと誰にも覚られないと理解しつつも、恥ずかしさに体中をぎゅるぎゅると血が巡る。
……なんだ?と短く答えたが、不覚にも喉が掠れた。まだ鼓動は落ち着かない。
「このな、この漢字。これって『ゴホウビ』って読むんだよな?prizeって意味?rewardの方?」
「……どっちでもいい」
「えぇー?ますますよくわかんねえんだけど」
「好きな方で解釈したらいいだろ」
「なんだよ、オマエがコイツにやったんだろ?」
「知らん。忘れた」
「ウソだあ、何くれてやったんだ、うん?教えろよ~」
「――…るせえ、ノーコメントだ!」
尋ねてくる声に詰まりつつ言い返すと、その剣幕に圧されたデイダラはぱちくりとその目を丸くした。一拍の間を置いてからくしゃりと顔を寄せると、やがて(ぶぶぶ)とその膨らんだ頬が震えだす。堪えきれない笑いに体を折るヤツに、腹を立てるのも忘れ俺は呆気に取られた。…なんだそれ。俺何かおかしな事言ったか?
「……なんだよ。何がそんな可笑しい」
ひゃらひゃら笑い出したヤツに低く問うと、涙を拭いつつデイダラは未だオレの手にある雑誌を引き取った。終わりかけだったインタビューのラスト部分を指差し、俺に目配せをする。何のことやら全く意味がわからなかったが、仕方なく俺はそこに頭を寄せた。読み残していた最後の数行に、面白くない気分のままざっと目を通す。

・ご褒美、ですか。
「そう。ご褒美」
・具体的に言うと、それは何なんですか?
「ん?……ノーコメント(笑)」

(……なにが(笑)だ、ヘラヘラ喋ってんじゃねえよこのウスラトンカチが……!!)
書かれていたコメントに、今度こそ一気に力が抜けた。なんかもうダメだ。もう完全に気力を使い果たしたようだ。多分ニヤけて話していたであろうその間抜け面が脳裏に浮かぶと、くらくらとした眩暈まで覚えだすようだった。そうだ思い出した、あの馬鹿はこういうヤツだった。諦めが悪くて、何も捨てられなくて、見返りなんてなくても自分の気持ちにやたら素直で。
――ちくしょう。ひとりだけですげえ真剣に悩んでた俺が、馬鹿みたいじゃねえか。
「ほらな、実際見てみたら思ってたより全然良かっただろ?うん」
しれっとそんな事を言ってきたデイダラを睨みつけると、そんな俺にもめげる事なくヤツはにいっと笑った。そうしてくるりと後ろを向き、積まれた荷物の上に雑誌を置いてきたヤツは、山というより崖のようになった荷物の中から、ひょいと代わりにまた何か持ってくる。
「どーだ、会いに行く気になったか?」
「…………うっせェ」
「うん、行く気になったみてえだな!」
嬉しげに覗き込んできたデイダラに悪態で返したが、まだ火照りの残る顔ではどうにも威嚇が足りないようだった。そんな俺によしよしと頷くと、張り切った様子でヤツが後ろから何かを出す。
「ん!」
「ん?」
「これモデルやって貰ったお礼な!オマエにやるよ、うん」
「……ちょっと待て、なんだこれは……!」
木枠に貼られた白いキャンバスには、いつの間に描かれたものか後ろ向きでどこかを見ている自分の姿が描かれていた。モノクロで描かれたその背中はなぜか裸だ。やけに生々しく丁寧に描かれたその後ろ姿に、再びかあっと頬が熱くなる。なんだこりゃ、どういう事だ?どうしてこんなものが存在してるんだ?
「……どういう事だ、こんなポーズとってねえだろが!?」
「あ、これな、休憩中のオマエ。ほら、暑いからっていつも上脱いでただろ?」
「……か っ て に 描 く な よ……!!!」
「えー、だってオマエの背中すげえキレイだったからさ。いいだろこれ、なんつーか切ない感じ超出てて。オマエ前から見るとホント愛想ねえし冷たいけど、背中はやけに色っぽいのな。ちょっと意外だったぞ、うん」
ほら、お礼したかったけどオイラ金ねえし、そしたら現物支給しかねえかなってさ!…などと悪びれない様子のデイダラに、苛立ちを抑えられないまま改めてその絵を見下ろした。後ろ向きの顔は全く描かれていないけれど、物思いに耽っている様子だけがありありとその背中に映し出されている。……ていうかなんだこれ、俺こんな風に見えてんのか。子供の頃、録音された自分の声を聴いた時にも複雑な気分になったものだが、これはその時の複雑さを遥かに上回る衝撃だ。
「あのさァ、この絵。これオマエがそいつンとこ行く時の『テミヤゲ』にしたらどうかな、うん」
出し抜けにそんな恐ろしい事を言い出したヤツに、おれは即座に「は!?何言ってるそんなのダメに決まってんだろ!」と言い捨てた。なにがどうなってそういう事になるんだ…!?相変わらずの受け入れがたい発想に、ついていけない俺はただ嫌な汗をかくばかりだ。
「意味わかんねえよお前、なんでそんな事しなきゃならない!?」
「だって日本人て他人んちとかに行く時、なんか持ってかなきゃいけないんだろ?なんだっけ、『オクリモノ文化』ってーの?欧州人には理解し難い文化だけどよ」
「だからってなんでわざわざコレを見せなきゃなんねえんだ……!?」
「うん?いやだって、これ丁度、そいつの事考えてる時のオマエだろ?口じゃあ『さあな』とか『わかんねえ』とか冷たい事言ってたけどよ、後ろ姿には本心がありありと出てるじゃねえか」
悪意なくしれっと押し切るように言われると、途端に腹の底からかあっと熱がこみ上げてきた。即座に渾身の威嚇を込めて睨みつけたが、ひょろりと立つヤツは憤然とする俺にもめげない。元々しぶとい男だったが、この一年ですっかり俺の怒りにも慣れてしまったらしい。むしろいっそう茶化すように、「なんだよもー、ホント恥ずかしがり屋だなァ」などとうそぶき余裕の笑いさえ見せているヤツに、爆発寸前の堪忍袋をどうにか抑えながら「…いい加減にしろよ」と凄んで言う。
「何が本心だ。そんなもん俺がいつ教えた」
「そりゃあ口に出しては言ってないけどよ。見てたらすぐわかるって」
「何が」
「『会いたい』ってさ。背中に思い切り書いてあんだろ、うん」
言われた言葉に一瞬頭がまっしろになりかけたが寸でのところで堪えきり、奥歯を噛んだ俺はもう一度キャンバスを見下ろした。リアルな線が、どこを見てるのかもわからない後ろ頭がどうしようもなく物憂げだ。先に言われてしまった先入観もあるのかもしれないが、それを差し引いても繊細なタッチで描かれた背中には確かにどうしようもない切なさが滲んで見えるようだった。クソ…!なんなんだこれ、こんな恥ずかしいもの手元になんて置いておけるわけねえだろが。手土産云々の前に、俺を知る他の誰にも見られたくない。
結果、ずいっと無言で先程のヤツ同様その絵を差し出すと、受け取らされたキャンバスに画家はきょとんと目を丸くした。不思議そうな顔でヤツが首を傾げる。そんなデイダラに向かい、俺は「要らん。返す」ときびきびと言い渡した。やけに渇いて張り付いた喉が、苛立ちを更に刺激する。
「――うん!?」
「礼も手土産も要らん。捨てるか、国へ持って帰れ。そして永久に封印しろ」
正直今すぐ抹消してしまいたい絵ではあったが最低限の礼儀としてそれを堪え、拒絶を示すかのように俺は両手をズボンのポケットにしまった。「えええええ、なんでだよ折角描いたのに!」と喚くデイダラに、「…知るか。描くなら描くで、ちゃんと許可を取らないのが悪いんだろ」と冷たく告げる。
「絵を描く許可は取っただろ!?」
「こんなとこ描いていいなんて、誰も言ってねえ」
「いいじゃねえか、自分で言うのもなんだけどこっちの絵もかなりの傑作だぞ!?残しておいて絶対損はねえって、うん!」
「……うるさい。傑作だろうが何だろうが、こんなの自分で持ってられるか」
お前も要らないなら俺が自分で処分する、と冷たく宣言すると、俄かに慌てた様子のデイダラが「わああ、待て待てそんならオイラが持ってるからさ、うん!!」と喚いてキャンバスを抱え込んだ。「絶っ対に誰にも見せるなよ?」という言葉に、渋々ながらも明るい頭が頷く。しかしどうにも諦めきれないのだろう。なんだよもう、あの衣装嫌がってたから着てる服が入らないよう、折角構図とかも工夫したのにさー。改めてその絵を眺めつつ、諦めたかのように後ろの荷の山の中へそれを片すその口から出る文句は、未だ止まる事がない。
「まったく、なんだよもーホント日本人てのは恥ずかしがり屋で…」
「――もういいだろ、帰るからな」
そう言って、まだまだ終わらなさそうな苦言を断ち切るように、俺はそのキャンバスの前から踵を返した。どうせ明後日にはまた退去の立会いがあるし、もうこれ以上ここにいる必要はないだろう。用の無くなった部屋を出て行べく玄関で履いてきた靴に足を入れたところで、「あっちょっ…待てって!」という慌てた様子の声に後ろから呼び止められた。何かを手にしたデイダラが、急ぎ足で追ってくる。
「なんだ」
「オマエさ、このまま管理人室に戻るんだろ?」
これ棚に返しといてくんねえかな?と見せられたのは、例の大判の雑誌だった。本当は今日の昼までに読めたら良かったんだけど、オイラ喋んのは得意でも読むのはまだ結構時間かかっちまって。頭を掻き掻きそう言って、その光沢のある表紙を差し出す。
「重吾さんが、返す時はオマエに渡すのでもいいって言ってたんだけど」
「……わかった、よこせ」
「つーか、ホント…まあ、あの絵はもうしょうがないけどさ…。けど会いたいヤツがいるなら、我慢してねえで早く会いに行くべきだって。『いつか』なんてあてのない事言ってねえでさ。向こうだって待ってんだし」
ぞんざいに受け取ってからさっさとドアを開けた玄関で、最後に話しかけてきた声に俺は僅かに足を止めた。言ってくる声が存外に真面目で、釣られるようにして小さく振り返る。夏の終わりの西日が、狭いワンルームの中に急勾配の影を作っているのが見えた。裏で鳴くヒグラシは、7日目が近いのかもう声に勢いがない。
「そんな事より、ちゃんと荷造り進めろよ。荷物出てないと退去の立会い出来ねえからな」
「まーた、そんな言い方してさあ…」
「なんでさっきからそうお節介を焼きたがるんだ。お前には関係ない話だろ、もうほっといてくれ」
まだ何か言いたげなデイダラに、またちょっと苛立ってきた俺がそう突っぱねると、玄関の上がり口に立ったヤツは(しょうがねーなあ、もう)というように緩く苦んだ。「だってさあ、見ていてほんと、もったいねえんだもんよ」などという声には、どこか羨ましげな色が滲んでいる。急に年長者めいた笑いを浮かべるヤツの影が、廊下に出た俺のところにまで長く伸びていた。「……何が?」と応じた俺の脇を、開けた窓からの湿気た風が通っていく。

「だって折角オマエもそいつもちゃんと今、生きてんじゃねえか。気持ちひとつで会いに行けるんだ、迷ってなんかいないで、どんどん行ったらいいんだって」

――生きてる時でなきゃ、『会いたかった』って事さえ伝えらんねーんだからな、うん!
ドアを閉めようとした瞬間、区切りを付けるようにそう付け足して笑うデイダラの輪郭を、橙色した夏の光がすっぽりと包んでいた。なんとなく黙ったまま102号室を後にすると、廊下の横、目の前に細く広がる前庭で重吾さんが植えた向日葵が、大きくなりすぎた頭を重たげにうつむかせているのが見えた。

軒を叩く雨音は、ややもすると少しばかり引いてきたようだった。
暑さは雨に流され、ぼおっと眺めているグレーの景色は、徐々に夕方の暗さを滲ませ始めている。
日が隠されればそこはやはりまだ5月の初旬で、あたりは湿り気を含んだ涼しさに包まれていた。昼間のままの半袖が少し冷える。早いところ帰って体を温めたいところではあったが、帰宅後の気詰まりな時間を考えれば、出来たらもう少しここで粘りたいところだった。
――春の道内で、ナルトと再会してから1ヶ月。
積年の恨みを晴らすが如く、唇に会心の一撃を決めたはいいけれど、研修医となった俺のその後は、相変わらず余裕のない毎日が続くばかりだった。忙しさは知識として充分にわかっていたつもりだったのだけれど、実際になってみるとその多忙さは想像を遥かに超えていて。その上ナルトはナルトでスポーツ選手としての立場上色々とあるらしく、ようやくこちらが週末休みになっても今度は向こうがやれ練習試合だとか地域のスポーツイベントに出席しなくてはならないだとかで、結局ゆっくりとふたりで過ごす時間もないまま、時間だけが過ぎていったのだった。
だから正直、この連休は心待ちにしていたのだ。この休みを取るために、結構な無理もおしてきた。
(あー…これで半日、無駄に終わったな…)
もったいねェ、とぼやっと思いつつ、また空を仰いだ。
予定では、こんな筈じゃなかった。何をしようか特別な計画をたてていたわけではなかったが、何をするわけでなくともとりあえず一緒に休日を過ごしたかった。あの絵さえ出てこなければ、あのままカカシのところでナルトに田植えを体験させるのもアリだななどとも思っていたのだ。温かくぬるついた泥の中に素足を突っ込むあのなんとも言えない気味の悪さを、多分あいつはひゃあひゃあ騒いで面白がるだろう。涼しい場所からそれを眺めるだけでも、結構楽しい催しになるような気がした。…もっと言えば、本当はただのドライブだけでも良かったのだ。5月の田舎はどこも新緑で満ちていてあてもなく走り回るだけで充分気持ちよかったし、それにナルトの運転は中々に快適で、昔から気に入りのものだった。…・・なのに。
『なんで、服着てないの……?』
あばかれた絵を前にした時。最初、俺にはあいつがショックを受けている意味がよくわからなかったのだ。どう考えたってあの絵描きと自分がどうこうなるなんて可能性は1ミクロンたりともないだろうと思うのに、どうしてなのかナルトにはそれが不自然な事とは思わないようだった。…ただまあ、そこは俺にも、若干誤解を招くような事をしたところがある。例の妙な扮装の事を隠したいが為に、絵を引き受けた経緯を中途半端に隠そうとしてしまったのだ。
多分ナルトが変に勘ぐる元になったのは、あそこで俺が下手を打ったせいだろう。…そう思ったけれども、まさか本気であいつが俺とデイダラに特別な関係をみているとは到底信じられなかった。だってそれじゃあ俺は、ただの男好きじゃないか。いくらなんでもナルトがそんな事真剣に思ったりしないだろうと思ったし、折角の連休をこんなことでフイにしたくはなかったから、俺にしては結構頑張って軌道修正を試みたのだった。この俺が、馬鹿げたショックから抜け出させないでいるらしいナルトに向かい、会話を弾ませようという気遣いまでみせたのだ。自分でいうのもなんだが、こんなの滅多にある事ではない。
なのにそんな俺の努力を無視するかのように、ナルトはいつまでも疑念に囚われているようだった。見かねて仕方なく説明の場を作ろうとしても、そうすればするほど彼が本気でデイダラと俺が『そういう関係』だったと思っているのがわかってきて。じわじわ広がる情けなさはやがて、言いようのない落胆へと変わっていった。俺は別に、男が好きなわけではない。キスにしてもなんにしても、ナルトが相手だから不快でないのだ。だからあの絵を見た途端、すぐにそれを他の男との性的なものへと繋げた彼の思考が、俺には理解出来なかった。呆れたし、かなり…がっかり、した。更に理解不能な事に、あいつは俺があの絵描きとそういう関係だった事を前提にした上で、何故か俺の今の気持ちまで量ろうとしてきたのだった。どうして今更そんな事をしたいのか。本当に意味がわからない。
――だが、一番の問題はそこではない。
馬鹿げた妄想力も、それを元に勝手に走り出してしまう無駄な行動力も、あいつには昔から備わっていたものだ。俺が引っかかっているのは、そこではなくて。
『別れねえからな――オレ。絶対、そんなの認めねえから』
……肩を掴む手が重かった。食い込んでくる指が、圧をかけてくる手のひらが。全部が自分よりもあいつの方が、肉体的な優位性がある事を示していた。その気を出せばきっと、ナルトは俺の肩骨位簡単に砕けるのだろう。圧倒的な力の差に、刺してくる視線に、悔しい事に身が竦んだ。…なんだこれ。どうして俺が、こんないいように扱われなきゃならない?以前は見せられる事のなかった剥き出しの独占欲に、一瞬感じた恐れと反発が染み付いて離れない。
今朝ベッドに引き込まれた時も思ったが、スポーツ選手であるナルトの腕力は、多分間違いなく一般的な男性のものよりも優れているようだった。少なくとも、俺の体を簡単に抑えこめる程には強い。木の葉荘にいた頃は体を触れ合わせるような機会は殆どなかったし、その性格がうまいことその部分を包んでしまっているのであまり気にしたことはなかったが、彼が本気になれば大概の者は、その力でねじ伏せる事が出来るのではないだろうか。…いや、しかしそれでも別に、力だけならそう困る事でもないのだ。柔よく剛を制すではないが、身体的なものだけなら頭を使えばいくらでもやり返す事が出来る。問題なのはそこではなくて、むしろその内側だ。普段は隠されているが時折その青い瞳を通してあらわされる、厳しく強いもの。触れた瞬間、嵐のように全てを巻き込む、強力で容赦ない力。
(クソ……それにしたってあの野郎、よりによってあんなところであんな事しやがって)
張り詰めた車内で顔を寄せられた時、俺は近付いてくる彼を拒否する事が出来なかった。力に圧されただけではない。あの視線に、真剣さに、完全にあてられたのだ。あそこでオビトが窓を叩かなければ、俺はきっとあのままナルトの唇を受け止めていただろう。まずい状況だと頭でわかっていても、あの熱にあてられると体は何故か抗えなくなってしまうのだった。今朝のベッドでの一件でもそうだったが、どれだけ禁止を言い渡していても、向こうの意思次第で実はいくらでも好きにされてしまう。そんな悔しい事実に、ここにきて俺はようやく気がつかされたのだった。猛獣を飼い慣らしたと思っていたのは自分だけで、本当のところは向こうの思惑ひとつで、いつ喰い殺されても不思議じゃないのだ。鞭を怖がっている風なのは見せかけで、実は向こうからしたら、そんなものいつでも振り払えるのかもしれない。……だけど本当は、少し自分でも気が付いているのだ。抵抗できないのは向こうのせいばかりではない事に。跳ね除けられないのは多分、俺の方も熱が上がってしまっているからだ。悔しくも猛獣に喰いつかれるのを、どこか望んでしまっているからだ。
……正直、こういうのは全然、想像していなかった。
昔は無かったこの微妙な力関係に、自分のプライドがうまく付いていかない。
(……とはいえ、流石にもうそろそろ限界だな……)
暗さを増していく境内に、俺はふかぶかと溜息をついた。折りよく連絡してきた水月の誘いにそのまま乗って出てきてしまったが、いい加減にもう帰らねばならないだろう。やたら彼を気に入っている母や剽軽な叔父(あれはあれで、結構ナルトの事を気に入っているのだ)もいたから、まあ多分ナルトが退屈しきっているという事はないとは思う。だがやはり、俺があそこにいないで彼だけが残っているというこの状況は不自然だろう。出てきてしまった分、更に気まずさがいや増しただけという感もなくはないが、ここまできてしまったのだからもう仕方がない。
……憂鬱さをどう振り切ろうかと考えていると、ふと、以前この墓地についてナルトに話したのを思い出した。確か、前回ナルトを実家に招いた時だ。行きの車内で、高速道路でアクセルを踏むナルトに、自分の兄はまだ墓に入っていないのだという事を話したのだった。遺骨を家の仏間に置いているのは実は本人の遺言によるもので、出来ることならば両親の死後に、一緒にうちはの墓へ納めて欲しいというのが兄の最後の望みだった。だから、ここの墓地には兄はいない。眠っているのは写真や家系図でしか見たことのない、先祖達だけだ。
正直、気味悪がられてしまうだろうかと危惧しつつ(どうも彼には幽霊談義が苦手な気が見られたし)それを話した時、思いがけずナルトは「羨ましい」と言ったのだった。飛行機事故で亡くなった彼の両親の亡骸は、炎上した機体と共に見つからず終いで終わってしまったらしい。「どんな形でも、大好きな人にはずっと傍にいてもらいたいもんな」と言った彼の横顔は、珍しく寂しげなものだった。それに、兄ちゃんの方も。大好きな人達とは、ずっと一緒にいたいもんな。そう言って「ニシシ」と笑ったその笑顔が、いつになく大人びたものだったのを思い出す。
――パワーバランスが変わろうと、彼が昔の事をあれこれ詮索しようと。どうあろうと、別れようなんてこれっぽちも考えたりはしなかった。そんな半端な覚悟で北海道くんだりまで行ったりなんかするものか。どんなに毎日充実してようとどうしても満たされない何かがあったからこそ、エゴであることを飲み込んで会いに行ったのに。怒りと苛立ちに任せて「勝手に帰れ」などと言ってしまったが、本当はそんな事されたら一番困るのは多分自分自身だ。それはわかっているのだけれど、折られたくないプライドが邪魔して、事の引き際が見つからない。何食わぬ顔で普段通りに戻ってしまえば一番楽なのかもしれないが、一度傷つけられた自尊心をそのままにしておくのはやっぱり悔しかった。友達のままだったらこんな面倒な喧嘩しなくて済んだのに。そう思いつつもやっぱりもう元には戻れないのは自分自身でもよくわかっていて、勢いでキツい事を言ってしまった自分にもうんざりしてくる。
だけど、この雨が引けたら――とさっきよりもまた鎮まってきた雨音に覚悟を決めていると、細い参道に続く欠けた石段の向こうに、ひょっこりと黒い雨傘が頭の先を出した。
何段飛ばしで登っていているのか、ぐんぐんと上がってくるその姿に思わず口が開く。
短い金髪が見えて、その青い目がこちらを見つけた瞬間、勢いよく近づいてきていたその動きがぴたりと止まった。距離のある沈黙。やがて意を決するように、ジーンズの足が石段をぎゅっと蹴る。
「なんか……すげえってばよ、ここ。ケモノ道みたいなとこから、いきなり開けんのな」
ぬかるみを飛び越えながらあっという間に間合いを詰めてきた彼は俺の目の前に立った途端、雨傘の内側でぐるりと首を巡らせそう言った。周りを取り囲む鬱蒼と茂った木立と寺の脇に立つ巨大な古木に、「アレみたい、トトロの森みたいだってばよ」などと溜息混じりにそうも言う。
軒のある縁側で呆けたように座る俺を前に、佇むナルトは静かにこちらを見下ろしていた。多分、父のものを借りてきたのだろう。彼の持つしっとりと重たそうな柄の傘の端から、ひたひたと透明な雫が絶え間なく落ちていく。
「ちょっと、冷えてきたな。半袖失敗だったってば」
そう言って、ほんのりとした苦笑いを浮かべるナルトからは先程垣間見せられた獰猛さは見る影もなく、ただ落ち着いた和らぎが漂うのみだった。お互いそれ以上の言葉は無く、まるで我慢比べのように黙りこくる。
「……どうしてここがわかったんだ?」
諦めたように尋ねると、ひらべったい声をしたナルトが訥々と、「病院で……フガクさんが、あの水月って人から聞いて、連絡くれて。雨降る前にうちはのお墓前でお前を降ろしたけど、その後ちゃんと家に帰ってきたかって」と回答した。成程。それでこの『雨のお迎え』になったわけか。ナルトの腕に引っ掛けられた自分の傘に、青いフォルクスワーゲンの運転席で前を見たまま手を振っていた水月の後ろ姿が重なる。
「あの…さ。さっきまでオマエんちで、カカシ先生と話してて。先生はオマエにお詫びって、トマト持ってきてくれたんだけど」
――聞いたってば、あの絵の事。その絵描きの人が、休憩中に涼んでるサスケを、勝手に描いたものだって。
言いにくそうに言われた言葉に僅かに目を大きくすると、それを見て取ったナルトが「先生が、その描いた人に電話してくれたんだってば」とぽそぽそと説明した。決まりの悪そうなその顔が、きゅうっと一度、真ん中に寄せられる。
うつむきがちになっていたナルトと目が合うと、そこで彼は初めてほんの少しだけ視線を泳がせた。濡れた足元に顎を引き、少ししてまた顔を上げる。そうしてから傘を持っていない方の手をズボンのポケットに突っ込むと、ごそごそと何かを探りだした。やがて目当ての物を見つけたのかポケットからその手は取り出され、迷いを振り切るような仕草でぎゅっと一度目を絞り閉じる。何を思っているのかしばしそのまま目を閉じていたが、ようやく思いが固まったらしいナルトはこちらを見ると、まっすぐその手を俺に向け突き出した。
「……サスケ、手」
「?」
「いいから、手ぇ、出して」
ぽつぽつと区切るように言われた声は、雨音にすぐ流された。バツの悪さを必死で堪えようとしているのだろうか、引き結んだ唇は静かな緊張に固くなっている。
不可解な行動に訝しみつつ、俺は出されたナルトの握りこぶしの下に、自らの手のひらを差し伸べた。傘から出されていいように雨粒を受けてしまっている彼の腕を、なんとはなしにぼやっと眺める。
やがてそろりと開かれた彼の手から、ポトリと小さな塊が落とされた。受け止めた俺の手のひらで、いつかの銀の鳥が鈍い光をその嘴に乗せている。
「?これって」
「――これな。友達のシルバーアーティスト――あ、ほら、オマエんとこに時計届けてくれた人。あの人が昔作ってくれたやつで、オレがいつも持ち歩いているものなんだけど……」
思い違いではなく、やはりそれは以前雑誌で彼が話していた、銀細工のお守りのようだった。持ち歩いているというのは本当らしく、以前よりもその形はなめらかなものになっている気がする。そういやこいつ、試合前とかにコレを握り締めてるとか言ってたっけななどとうっすら思い出しつつ、その細らかな顔つきに目が留まった。目に嵌め込まれたのは赤い石だ。柘榴色したその瞳は、さえざえと輝くその白銀の体にとてもよく映えている。
持ち歩いているものなんだけど、と言ったきり黙ってしまったナルトに顔を上げると、鍛えられたその体は目が合った途端、(うっ)と一度たじろいだようだった。…特に睨んだわけでもないのに、なにそんなビクついてやがるんだ。挙動不審な男に、だんだんと眉根にしわが寄る。
だから何だ?とばかりに目線で促すと、まんじりとした様子で言い淀んでいた彼が「すう、」とひとつ息を吸った。冷えてきたと言いつつも、日に焼けた頬はいつもより、更に血色を良くしている。
「……なんだけど!これってば実は昔オマエに振られちまった時悄気てたオレを見て、景気づけにってその人が俺のリクエストを元に作ってくれたものでさ、」
早く言い終えてしまおうとばかりに一息にそう言って、ナルトは息継ぎをするために言葉を切った。成程そうか、道理でエントランスで会った時、これに見覚えが無かったわけだ。そんな事を思いつつ、(だから、それがどうしたっていうんだ?)と内心で訝しむ。
「チームの人達からはコイツ、『純銀製の恋人』なんて呼ばれてんだけど。えーと、その……ほんとう、は。コイツには最初っから、オレん中で違う名前がついていて……」
そこまで言うと、ナルトはまた口を噤んだ。
赤く染まった首筋が緊張している。脇に落ちた手のひらが、ぎゅう、と強く握られ爪が食い込むのが見えた。
「コイツの、名前。本当は『サスケ』っていうんだ」
「はァ?」
「………………正確にはオレってば、『サスケ2号』って、呼んでるんだけど」
突然のカミングアウトに、理由も解らないまま唖然となった俺は、思わず息も忘れぽかんと口が開いた。そんな俺にくうっと唇を噛み締めたナルトが、熱したヤカンのようになった顔を隠すように再びうつむいてしまう。
――破れ寺の瓦を打つ雨粒達の、あとの絶えない呟きが頭上で聞こえる。
それらが騒ぐその上で、雨雲を揺すっていた低い雷鳴は、大きくなる前に掻き消えた。