Golden!!!!! 中編

「今日は夕方からのシフトなんだ」という水月に合わせファミレスを出ると、昼までは晴天だった空にはどこから集まってきたのかもわからない、灰色の雲がうっすらと広がっていた。
まだ新車のにおいが残るフォルクスワーゲンに揺られ、市街地を抜けていく。その間にも雲はどんどん厚みを増していくようだったが、指定した実家のほど近くにある小さな辻で降ろして貰う頃には、遠くでかすかな雷鳴まで聴こえてくる迄になっていた。
「これ雨確実だって。こんな時に無理して墓参りなんて行かなくてもいいんじゃないの?」
ドアを閉めようとする俺に向かい、運転席でハンドルを握った水月が言った。
それには特に答えずに、「いいんだ。仕事前に寄り道させて悪かったな」とだけ告げる。
「まだもう少しなら時間あるし、お参りだけなら僕ここで待ってよっか?」
「いや、いい。少し掃除もしていきたいし、お前はもう行け」
「……ずぶ濡れになって、熱でも出さないようにね。明日帰って、明後日にはもう仕事なんでしょ?」
でもいいよな~ちゃんと連休貰えて。そう言った水月は眇めた目付きになると、僕なんてこのゴールデンウィーク、2連休さえも取れなかったんだよ?とぼやいた。「ちょっと人使い荒いんじゃないの、うちは病院」と言いながら口を突き出す水月に、ゆるい苦笑いと共に「父さんに言っとく」と応える。
「あっ、ウソウソ!ていうかマジでよろしく伝えといてよ、今度院長の手術で、僕第二助手でつかせてもらう事になってるんだから」
「へえ……そうなのか」
「院長ってさ、やっぱサスケみたいにあんま笑ったりしないけど、堂々としてカッコイイよね。さすがサスケのお父さんって感じ」
家でもあんな感じなの?という問いには曖昧な感じで応じて、ドアを締めたオレは一歩下がって、青いフォルクスワーゲンが遠ざかって行くのを見送った。辻に立つ石地蔵にちょっと目をやってから、細く続いている寂れた参道を見渡す。
ちょっと目を凝らせば、今しがた水月が走り去っていった道の果てに、慣れ親しんだ自分の家が見えた。どんよりと曇る空の下、茂る庭木が家を取り囲む塀からこんもりと盛り上がっている。
鼻先を撫でる風に遠くの雨のにおいを感じながら、石地蔵の前を通り過ぎ俺は参道の奥へと足を向けた。草を刈っただけの両脇には、白い花を咲かせたハルジオンが頼りなくうつむいている。この先にあるのは戦時中に廃寺となってしまったかつてのうちはの菩提寺と、一族が眠るその墓地だ。
雷鳴が、遠くの空で低く唸っている。
手にした花束を逆さにして、雨雲が集まる勢いに負けないよう俺は少し足を急いだ。

  * * *

狭い室内では熱気の揺らめく夏の空気を追いやるように、エアコンが今日もごうごうと大仰な音を立てその職務を完うしようとしていた。
盆も過ぎたというのに、都会の夏は暑さに緩みが見えない。手加減なしの猛暑に少し疲れを感じつつも、借り物の雑誌をデスクの上に置いた時、不意打ちのように窓を叩く軽やかなノック音が鼓膜に飛び込んできた。コンコン、という音に混じり、クスクスという密やかな笑い声の気配を感じる。「サースケくーん!」という上機嫌な声が、エントランスに明るく響いた。共にすりガラスに映るのは、同じ位の高さにある小さなふたつの頭だ。
表を見せていた雑誌を裏返してから、相手の目処をつけながらカラリと小窓を開けると、そこには顔見知りの少女がふたり、はにかむような微笑みを浮かべ立っていた。片方はポニーテール、片方は緩く二つに分けた結び髪。偶然なのか揃えているのか、姉妹のようによく似た白のワンピースが、膝の辺りでふわふわと揺れている。
何か用か?と口に出す前に、「こんにちは!」と揃えた声が言った。…彼女達に名前で呼ばれるようになったのは、つい先月からだ。町内会の翁に拝み倒され結局また引き受けるようになったかき氷屋で、今度は二人して手伝いを買って出てくれた際、「私とサクラを呼び捨てにしてるんだから、あたしたちだって管理人さんの事『サスケくん』て呼んでもいいと思う」と言われ、なんとなく勢いに押されその場で了承してしまったのだった。
「どうした?まだ学校は夏休みだろう?」
「うん、あのね、あたしたち今日、お料理教室に行ってきてね」
何処かへ出かけてきたような手提げ袋に尋ねると、まだちょっと興奮が残っているような顔でいのが言った。料理教室?と聞き返すと、「夏休みの間だけ、児童館でやってるんだよ」と今度は横にいるサクラが答える。
「へー、そんなのやってんのか」
「うん。それでね、今日はみんなで色んなクッキーを焼いたんだけど、あたしたちが焼いたのサスケくんに食べてもらいたいなと思って」
そう言ってそれぞれから差し出された可愛らしい包みに、見詰めた俺は一瞬言葉に詰まった。クッキーか。…まあ、甘いんだろうな。口には出さなかったが俺の表情には、その躊躇がしっかり出てしまっていたらしい。眉を寄せる俺にいのが、「あっ、だいじょうぶだよ、甘くないようにしたから!」とハキハキと前置きを入れた。
「バレンタインの時、サスケくん甘いの苦手って言ってたから。今度はちゃんと甘くないの作ったよ」
「……本当か?」
「こっちがチーズクッキーで、サクラのは塩サブレ。どっちもお砂糖は殆ど入ってないから」
ね?と横を見ると、隣でもじもじとしていたサクラが動きを止め、「うん!」と力強く頷いた。
「チーズクッキーの方にはね、黒胡椒も入ってるんだよ」という声もしっかりしている。
だから、はい!と言って渡された包みを「そうか、そりゃどうも」と片手でまとめて受け取って目線を上げると、目的を達成できた二人は嬉しげにまた顔を見合わせた。そうして小窓の内側で、包みを持ったまま中腰で椅子から立つ俺をじっと見詰める。きゅっと結ばれた口、期待に満ちた眼。用が済んだというのに一向に帰ろうとしない彼女達に首をかしげようとして、ようやく気がつく。
……あ、そうか。これ、今ここで食べてみろって事か。
「うん、甘くないな」
そのままデスクの上で広げた包みから現れたぽってりと丸いクッキーをひとつずつ摘み、続けざまに試食した俺は、率直な感想を述べた。ちょっとパサつきはあるけれど、確かにどちらも甘くない。チーズの方は黒胡椒の辛味が効いて味が濃く、サブレの方もバターの風味がしっかりと漂う、ちょっとあと引く味だった。そのコメントにぱっと一瞬喜んだ二人は揃って「ホント!?」と顔を輝かせる。その確かめに「ん、」と応えながらモソモソと咀嚼していると、小窓の向こう側にいる彼女達はまだ何か足りないかのように、口を動かす俺の前でじっと足を踏ん張った。それから?他にもまだ何か言うことない?と待ちわびる顔に、またもや俺は、足りなかった言葉に気がつく。
「――あー…その、うまいよ。ありがとな」
そう告げると、日焼け顔いっぱいの笑顔を濃いピンクに上気させて、いのとサクラは「えへへぇ」と顔をまた見合わせた。全部あげるから食べてね!という言葉を残し、ようやく満足したように管理人室の前から立ち去っていく。
またねー!とはしゃぐような声をハモらせながら手を振る彼女達が窓から見えなくなると、俺はゆっくりとまた椅子に腰掛けた。年季の入りすぎた回転椅子が、引っかかるような音をたてる。
なんとなくそのまま物の置かれたデスクの上をぼんやり眺めていた俺だったが、壁の時計が四時を告げると重い息をひとつついて立ち上がり、先程裏返した雑誌を丁寧に元あった棚の端に戻した。重吾さんが私物置き場に使っているそのスペースには、同じ雑誌のバックナンバーが何冊か重ねられている。今置いたばかりの今月号の表紙に写っているのは、モスグリーンのユニフォームの選手達だ。くっきりとレタリングされた雑誌タイトルの下の文字は、そのチームの特集記事が、今回組まれていることを告知している。
気遣い屋の重吾さんが私物をここに置かせて欲しいと言いだしたのは、去年の9月頃の事だ。最初、ロッカーを空けてちゃんとしまえるようにしましょうかと俺は打診したのだけれど、彼はそれを頑なに固辞したのだった。その時の彼の言い分はこうだ。端っこの方に置かせていただくだけでいいんです。そこに置いておいた方がサスケさんも、お暇な時とかに読んでいただけると思うので。わざわざオレに断っていただかなくても、本当に、全然いいので。
(お暇な時に、か)
彼らしい遠回しなおせっかいに、なんだか頭が下がる思いだった。多分彼は、俺がわざわざこういったものを買ってきたりしないであろうことを、敏感に察しているのだろう。暇潰しなどというような理由でもなければ、これを開く事さえできない俺に気が付いているのだろう。最初不思議だった申し出も、置かれた物を見た瞬間すぐにその意図がわかった。近所の小さな書店では扱っていないそのマイナースポーツの雑誌を、重吾さんは毎月律儀に都心まで出て買ってきている。そうしてある人物が登場した号に限って重吾さんの『私物』は管理人室に置かれ、そっと管理日誌の連絡欄に『また私物を置かせていただきました、すいません』という控えめな報告が書かれるのだった。……本当に、彼は優しい。そして意図していないのかもしれないが、案外周到だ。
しかしそんな彼の親切を裏切るように、俺はまだこの積み重ねられていく雑誌を、一度も開いた事がなかった。一番上にある、写真刷りの表紙をただ眺めるだけだ。きっと中を見ればもっと沢山の今の彼を知る事ができるだろうと解ってはいたが、どうしてもその一歩が踏み出せないでいた。
読んでしまえばきっと、もっと知りたくなる。
ようやく落ち着かせられている衝動が、また疼きだしてしまう。
(――ったく、うっれしそうな顔しやがって)
それでも光沢のある表紙を見つめ直して、俺は改めて苦笑した。今月号の表紙に使われているのは、試合終了直後らしい活気ある写真だ。ゴール前のリンクで、モスグリーンのユニフォームの選手達がわらわらと沢山集まっている。その中心にいる選手のメットから溢れる髪は金色だ。あけっぴろげな喜びで顔をくしゃくしゃにして、仲間からの愛あるゲンコツを笑顔で受けている。表紙に彼が写るのはこれで二度目だった。『私物』の冊数が増えていく度に、置かれる間隔が短くなっていく度に。中は読まずとも彼が向こうでしっかりと自分の道を進めているのを、俺はひっそりと感じ取っている。
(よかったな……幸せそうだな、お前)
嬉しげに細められた青い目に、しみじみとそう思った。こうして少しずつキャリアを積んでいく彼を見る度に、あの日の自分の選択の正しさを実感する。
しかしこうやって活躍している姿を見て安心する半面、胸の内にはじくじくと、塞がらない傷跡がまた疼き出すのを感じた。――やっぱり俺がいなくても、お前はちゃんと、やっていけるんだな。今更な事実にふとそんな拗ねた事を思ってしまう自分も確かにいて、それが酷く煩わしい。
表で鳴いていたヒグラシがふいに鳴き止んで、儚い余韻を残してどこかに飛んでいく。
もうじき彼がここを出て行ってから、二度目の夏が終わる。

「サースケー!!」

再び聴こえてきた明るいコールと共にいきなり開けられたドアに、俺はハッとして棚を見下ろしていた顔を上げた。つい先ほど聞いたのとやけに似せたイントネーションにイラッとする。……こいつ。了解を出した途端、どんどん前の遠慮のなさに戻ってきてやがるな。由々しき問題に舌打ちしつつ、ニコニコとして立つ金髪の小男を睨む。
「よっ!迎えにきてやったぞ、うん!」
「……わざわざここまで来なくても、今更逃げやしねえよ」
本当は今すぐにでも走って逃げたい気分ではあったが、それを抑えて俺は言った。うう…嫌だ。嫌だがここでまた引き伸ばしにするのは、流石にみっともないだろう。
「別に疑ってるわけじゃねえんだけどよ」と笑うヤツに「フン」と鼻先で返事して、俺は既に纏めてあった自分の荷物を持った。その中に、デスクの上に置かれたままのクッキーもしまう。
そうしながらウキウキして待ち構えるデイダラに続き管理人室の外へ足を向ける。
去年の8月の終わりにあった歓迎会で披露された扮装グッズに啖呵を切って以来、ずっと保留になっていたモデルの約束を、俺は今日、果たす事になっているのだ。

『――ジャポニスム?』
一年前。
意外な相手からの電話(母親からはしょっちゅう電話が掛かってくるが、父親が俺に電話を掛けてくるのは稀な事だ)を切って部屋に戻ると、その高説は始まったばかりのようだった。
管理しているアパートに久しぶりの入居者を迎えた夜、歓迎会という名目で集められた面々は誰もが軽い興奮に包まれている。それもそのはずで、一同はつい先程その新たな入居者が披露した来日の理由と、その時兄から受け取ったという古い手紙を見せられたばかりなのだった。軽く回りだしたアルコールの効果も相まって、皆ほんのり上気した顔をしている。そんな中、ひとり複雑な気分になっていたのは俺だけだった。彼がここから出て行った事はもっと早くに密告者達の所から両親に伝わるものだと思っていたが、案外そうでは無かったらしい。あの花火の夜から一ヶ月。何もしなくとも時間はどんどん過ぎていき、その日木の葉荘は102号室に、新しい住人を迎え入れたのだった。
そんな俺を余所に、「ジャポニスムってのはさ…」と声を大きくして、金髪の小男は意気揚々と説明をしだした。なんでも昔パリの画家が陶磁器の詰め物に使われていた北斎の絵を目にしたのを切欠に、ヨーロッパで広まった日本趣味の潮流の事を、そういう風に呼ぶらしい。
『日本の美術品、特に浮世絵な!そういうのが当時の美術家達にすごく影響を与えたんだな、うん』
『ああ、浮世絵とかが外国の方に好まれるってのは、聞いたことありますねえ』
何故か得意満面な様子で自らの芸術論についての前フリをするそいつに、重吾さんがふむふむと頷いた。その横にはこの前の夏祭りで顔を合わせたばかりの彼の同居人。帰りが遅くなるだろうから、という名目で同席しているその人物は驚くべきナチュラルさで、木の葉荘の面々の中にちゃっかり居座り缶ビールを開けている。
『でな、その流れを汲みつつーの、新しいジャポニスムを表現したいとオイラずっと思ってて。そんでそのイメージにぴったりだったのが――』
『イタチだったってわけね?』
力説に振り上げたこぶしを感心したように眺めながら、続きを引き継ぐようにカカシが言った。その横ではチヨバアが、「あー、そうじゃのう。イタチさんは和装が本当によく似合ってたからのう」と納得したように相槌を打っている。ちなみに今回の主催はこの人だ。どうやら海外に残っている孫から、元ルームメイトの事をよろしく頼むと言われたらしい。……というか何なんだろうこの面子は、どうしてこの顔合わせでこんなに盛り上がっているんだ。そしてその中に他でもない自分が放り込まれているという事実に、我ながらちょっと空恐ろしくなる。
『ねえでもさ、ゴッホもモネも、描いてたのって花魁とか振袖着た女の子みたいな女性ばっかじゃなかったっけ?まさか君、イタチさんに女装してもらおうと思ってたのか?』
重吾さんの横で、缶ビールを手にした彼の同居人(君麻呂、というのが彼の名前らしい。本名なのか?とちらりと思ったがニッコリと人をくったような笑顔を浮かべる彼には問い質せなかった)が言った。訝しむように絵描きを見る目がいかにも賢そうだ。著述で生計を立てているという彼は、中々の知識人らしい。ほんの少ししか会話していなくても、その発言の端々からそれがうかがえる。
その言葉に「ええっ花魁?」と声を高くするカカシに、「確かにイタチさんだったら見事な太夫になったじゃろうな」とチヨバアが妙な合いの手を打った。「そっか、歌舞伎とかでも男性が女性を演じたりしますもんね。そう考えたら別に変ではないのかも」というよくわからない納得を見せたのは、ひとりだけノンアルコールを貫いている重吾さんだ。
『じゃあなに?サスケも女装するんだ?』
『――ハァ!?ふっざけんな、するわけねえだろが』
いやらしい笑いを浮かべ言われた言葉に、俺は思わず飲みかけていたビールを噴きそうになった。そんな俺に、言ったカカシがニッタリとした目付きを送りつける。苛立ちを感じつつも全力で睨みつけると、そんなの屁でもないもんねというようにカカシはまた笑った。……こいつ、絶対面白がってンな。早くも田舎にいる親友とこの話題をどう笑い合うか、その算段でもつけているに違いない。
そんな俺達に、新顔の絵師は人差し指を立てると「ちちちちち!」と芝居がかった仕草を見せた。大げさに眉をしかめると、指を立てたまま「だからさあ、それじゃ違うんだよ」と唇を突き出す。
『違うの?』
『そーだよそれじゃ昔のジャポニスムと変わんねえだろ。日本の美ってのはあーゆー極彩色の世界にばかりあるんじゃねえよ。もっと静かで深い闇の中にこそ、オイラはそれを見出すんだな、うん』
『はー……闇の中ねえ』
どこまで日本語を理解して言ってるのかは知れなかったが、その絵描きは口を開けているカカシに力強くそうのたまうと、またひとり「うん!うん!」と頷いた。とりあえず、女装ではないらしい。ちょっとホッとして、俺は飲みかけの缶ビールを口に運ぶ。
先程聞いた話では、どうやらこいつは兄の代わりとしてこの俺を描きたくて、わざわざ海を渡ってやって来たらしかった。いや、兄さんとこいつを巡る話自体は別にいいのだ。むしろ久しぶりに兄の端正な文字を見れて懐かしかったし、そのやり取りもいかにもあの気遣いのある兄らしいもので胸があたたかくなった。誰かにじっと見られて更に絵にされるなんて考えただけでぞっとしないが、まあそういう理由があるならば我慢してやってもいいかと思う。どうやらこいつも、兄さんに対して純粋な敬愛の念を抱いているらしいし。好きか嫌いかでいえば決して好ましいタイプでは無かったが、その熱意は確かにたいしたものだと思う。
以前は孫と暮らしていたというチヨバアの部屋は木の葉荘の中でも希少な2DKだったが、大の男が5人も座り込めばなんだか酸欠でも起こしそうな窮屈さに感じた。至近距離にいるデイダラが気になる。子供の頃から慣れているカカシの体温さえも、こう狭苦しい場所にいると急に暑苦しく感じられた。……あいつの持つ熱っぽい程の体温だけは、全く嫌に感じなかったのに。離れていくあたたかさが惜しくさえ思えたのに、ただの体温が、どうしてこんなにも違うのかと思う。
ちょっとぼんやりしている所に、ひとり素面の重吾さんが「あの…」とおもむろに手を上げた。それで結局、デイダラさんの描きたいジャポニスムって一体どんなのなんですか?おずおずと尋ねられた言葉に、「よくぞ聞いてくれた!」と金髪の絵師は鼻の穴を膨らめる。
実はもう衣装は用意してきててさ~という彼は、うきうきとした様子で持ってきていたずだ袋のようなバッグからバラバラと荷物を広げだした。衣装?と早くも不穏を感じさせる言葉に訝しんでいると、その内容が次々と明らかにされる。着物のような前合わせの黒の上下、地下足袋、アルミのような銀糸で精巧に作られたフェイクの鎖帷子。用途不明の黒い布、何故か包帯、どうしてなんだ注連縄、そして子供の頃行った露天の軒先でぶら下がっているのを見て以来、とんと近頃お目に掛かる機会など無かった十字の手裏剣。更に名前は失念したが先の尖ったナイフとも手裏剣ともつかない金属製の刃物までもが、所狭しと並べられる。
鋼付きの額宛てに日本刀まで出てきたところで、まさか、と思った。
場が一気に静まり返り、誰もが広げられた扮装グッズと俺を、じっと注視している。
『おい……まさかとは思うがお前、これを俺に着ろと……?』
嫌な汗がこめかみを伝っていくのを感じつつ、俺は一応確認した。
いや、だって…確かに花魁や振袖ではないが。でもこれはないだろう。こういうのは確か、京都にあるナントカ村とかどこか地方にあるナントカ屋敷とかで、アトラクションの一環として着られているものだ。東京のど真ん中、おんぼろのアパートの6畳間でただポカンと着るものではない筈だ。絶対に違う筈だ。
そんな俺に気が付いているのかいないのか、日本かぶれの絵師は声を失った一同を顧みる事なく、満面の笑みで言った。あったりまえだろ~オマエ絶対これ似合うって!そうして景気付けするようにフリーズした俺の背中をべしっ!と叩き、堂々と宣言する。
『――大丈夫!オマエなら間違いなく完璧な『Ninja』になれっからよ!オイラのアートセンスを信じろよ!!』

その場で即「こんなの着れるか!」と啖呵を切った俺に、当初はデイダラも「なんだよやってくれるって言ってたくせに!」と大騒ぎしていた。だがそれもいっときの事で、9月に入ってからは水月の説得によりその行き過ぎな程の催促はアッサリ解決する。その後はずっと彼も大人しくしていた(相変わらず俺の周りをうろついてはいたけれど節度は守っていたし、邪魔をしてくる様子はなかったため、その位だったら好きにしたらいいと適当に放置していたのだった。変に注意して下手に刺激するよりも、その方が断然楽だ)し、スケッチブックを片手に街を歩いては目に留まったものを描いたり、時々チヨバアの手伝いをしたりして小遣い稼ぎをしていたらしい。あんまりにも何も言ってこないから、正直最近では忘れそうにさえなっていたのだ。
しかしそうやってすっかり鳴りを潜めていたその話が再び浮上したのは、この前眉を下げた重吾さんから言いにくそうに、「あのう、サスケさん。デイダラさんが今月で、ビザが切れるそうなんですよね」と教えられたからだ。一年も待たせた挙句なんの収穫も無しに帰らせるのはあんまりじゃないかのう?とチヨバアに説得され、せっかく張り切ってらしたのにどうしても嫌ですか?と重吾さんに困った顔をされ、いよいよ追い込まれた俺は先日、ようやく首を縦にしたのだった。そんな俺の遅い決断に対し、「でもさあ、そもそもこんな事に一年もグズグズとやっている事自体、勿体つけ過ぎだったんじゃないの?結局は自分自身で無駄にハードル上げちゃっただけなんじゃない?」というのがカカシの意見だ。
――もう行けるか?と尋ねてくる言葉に渋々頷くと、「荷物はオイラが持ってってやるよ」と上機嫌に言ったデイダラが、ポーターよろしく俺の手から鞄を取った。あっ、そういやさっきそれ見てたけど、もしかしてこれから読もうとしてた?途中で休憩もいれるから、暇潰しに持ってくか?そう言って棚の上にある雑誌を指差し、確認も無しに取ろうとする。
「あっ……待て、そりゃダメだ」
「ん?なんで?」
「その雑誌、重吾さんのなんだ」
手を出す前に牽制すると、やる気のバロメーターなのか今日は一段と高い位置でまとめられた金髪がゆらりと揺れて、ヤツはその写真の表紙を立ったまま眺めた。「ふーん」と小さく呟くデイダラに、「いいから、さっさと行くぞ」と促す。その声にすぐ、当初の目的を思い出したらしい。気を取り直すかのようにもう一度俺の鞄を持ち直し、傍目からも非常に張り切っているらしい画家は「よし、じゃあ行くか!」と背筋を伸ばす。
施錠を確かめながらエントランスから表を見ると、時計の針はもう夕方だというのに外は一向に暗くなる気配がなかった。連行されるかのように前を行く小柄な背中から数歩下がった所をついていくと、一階の廊下の端にセミの死骸が転がっているのが見える。それを足元に見たデイダラは「うわっ、これ死んでっかな、まだ生きてっかな?」と不謹慎な程にワクワクしたような声を出した。躊躇なくその場にしゃがみこみ、小さな亡骸をじっと観察し始める。その様子に、「…そんな寄り道してんならやっぱやめるぞ」とボソリと呟くと、慌てたようにその金髪頭が勢いよく立ち上がった。あの死骸は後で、裏庭の木の根元にでも置いてやればいいだろう。今週に入ってからアパート内でもしょっちゅう、ああいった風に行き倒れになったセミを見かけるようになった。
……二年ぶりに上がった102号室は、窓からの草いきれと画材の独特な匂い、そしてむっとした8月の熱気で溢れかえっていた。うちと同じ間取りの部屋はやはり住人が変わっても雑然としていたが、その散らかり方に微妙に個性が出ているのが興味深い。前の住人の散らかし方は男らしい利便性を追求した果てのズボラさによって片付けられていない感じがしたが、今の住人の散らかし方はもっと単純で、物をあれこれ思い付きで置いたり、雑多に収集してしまう癖があるらしかった。壁にはスケッチブックから破り取ったと思わしき鉛筆描きの絵がベタベタと貼られ(その中でも絵描きがことに気に入っていたモチーフは何故かカラスらしく、壁一面の絵の半分はその闇色の翼の絵で覆われていた)、置かれた棚には所狭しと、自作らしい粘土細工のオブジェのようなものに混じって、鳥の羽やらマーブル模様の石やらセミの抜け殻やら、訳の解らないものが陳列されている。エアコンのない部屋の中、窓から差し込む明るすぎる夕方のほんの少し黄みがかった光が、その宝物達の上に斜めに降り注いでいた。匂いまですっかり今の住人に塗り替えられたこの部屋に、もう前の住人が住んでいた痕跡は、どこにも見当たらない。
「例の一式はその中に入ってるから。よろしくな」
そう言って示された場所を見遣ると、端に寄せられた折り畳み式の小さな卓袱台に、どこかの画材屋の紙袋がひとつ置かれていた。…着替えの場所は?とぼそぼそ尋ねると、顔を上げた画家はキョトンとした様子で、「あ?なんで、そこで着替えりゃいいだろ?」と即座に答える。そんな奴に数秒黙った俺は、やがて静かに「……洗面所を借りるぞ」と告げた。ここまで来たらもう逃げる気は無いが、それでも着替えの所から見せてやる必要はないだろう。
「なんだよ別に男同士なんだから、気にする事ねーのによ。やっぱ日本人て恥ずかしがり屋だな」
などと言って笑う金髪男を睨みつけてから、俺はちゃぶ台の上の一式を手に玄関脇にある短い廊下へと向かった。うるせえなァ、こんなのとてもじゃないが、誰かに見られながらしれっと着替えるなんて出来る訳ないだろうが。内心ではそう反論しながら、むっつりと口を結んだまま動きの鈍い足を叱咤する。
煩悶を振り切るように、洗面所の入口にぞろりと垂れ下がる、藍染ののれんを無言で潜った。
恥ずかしがり屋だと?――結構じゃないか。慎み深さは日本人の、誇るべき美質だ。

「おおおォォ…!!!スッゲエ、お前マジで似合ってるぞソレ…!」
清水の舞台から飛び降りるような気分で洗面所から出てきた俺を見た瞬間、奴は本気で感動しているようだった。立てたイーゼルになにやら準備を施していた手は完全に止まり、ありえない事にその青い目は涙に潤んでさえいる。添えられていた額宛てだけはどうしても思い切る事が出来なくて着けてこなかったのだが、首から下だけでも奴にとっては充分らしい。無表情を保つのがやっとの俺にしばらく肩を震わせていたデイダラだったが、やがて何を思ったのか突然両の手を「パンパン!」と高らかに鳴り合わせ、熱心に俺を拝み始めた。…だからどうしてここで柏手を打つんだ。こいつまたおかしな異文化理解をしてやがるな。
「――おい」
唸りともつかない声で低く告げると、まだ熱心に両手を合わせていた奴が「うん?」と顔を上げた。
……なにが「うん?」だなにが。これだから俺はこいつのアートセンスとやらにずっと信が置けなかったんだ…!
「お前な……あれだけ正しい忍者について教えてやったのに、どうしてセオリー通りの忍び装束を用意出来ないんだ。なんなんだこの服は、これじゃ全然忍んでねえだろが……!」
そう言って紙袋の中身に添えられていたメモを突き出すと、それを見た奴は感動に上気していた顔をさっと納め、キョトン首を傾げてみせた。メモの内容は手描きのイラストだ。用意した衣装の着方の説明と、その完成図がそこには描いてある。洗面所でこれを見た瞬間の、俺の衝撃ときたらなかった。これは一体どういう事だ。腕は二の腕まで思い切り出ているし、胸元の合わせは極端に身幅が狭く鳩尾辺りまでほぼ丸見えだ。腰周りには防御の為なのかスカートのような布が巻かれ、地下足袋だった筈の足元はつま先と踵が剥き出しになる形の脚絆に変えられていた。なんだこれ、これってなんだか時々女が履いてる変なタイツみたいじゃないだろうか。そしてそんな心許無い足裏を覆うのは、草履型のサンダルだ。
衝撃に固まった後、それでももうここまで来てしまったのだからと半ば破れかぶれな気分で息を止め一気にそれに着替えた俺ではあったが、それでも何か一言は物申してやりたかった。去年の夏に見たこいつの忍者コスチュームは割とステレオタイプな忍装束だったのに、どうしてわざわざこんな妙に露出の高いアレンジを加えるんだ。身軽さが身上の忍の者といえども、これはちょっと軽装過ぎるんじゃないだろうか。しかしそれよりも何よりも謎なのが、腰帯に用意された注連縄だ。なんで注連縄なんだ、これは忍者とは一切関係ないものだと以前散々説明したというのに!
「なんで袖が無いんだ……あと鎖帷子はどうした。これじゃ前がガラ開きじゃねえか!」
「あー、前見せたやつだとさすがに暑過ぎるかと思って。袖取ったら少しは涼しいだろ?」
「それを忍び耐えるから忍者なんだろうが!これじゃ無防備過ぎンだろ!」
「なんだよ折角気を使ってやったのによー。お前肌キレイなんだから、出さなきゃ損だぞ、うん」
女じゃあるまいし、そんな理由で誤魔化すな!とは思ったが、エアコンも無い南向きの部屋はムシムシとした暑さで満ちていて、黒ずくめの長袖で長時間いるのは確かにかなりキツそうだった。言いたい言葉をぐっと抑え、仕方なく包帯でぐるぐる巻きにされた手首を下ろす。…この包帯は一体、なんの意味があるのだろう。肌に隙間なく巻かれているせいか、単純な装備の割に地味に暑い。
「……もういい。いいからとにかく、早く終わらせてくれ……」
根負けしたかのように肩を落とすと、ニカリと笑った絵師はそれではといった感じで、急にテキパキと指示を出し始めた。立ち位置はここ、ポーズはこんな感じで。早く終わらせたい一心で言われるがままにフラフラと動き、指定された場所で背中を伸ばす。
「今日は最初だし、それにお前モデルの仕事慣れてないからな。とりあえず今日は2時間で切り上げるし、20分に一度は休憩も入れるから。もしそれでもキツかったら、その時は言えよ?」
言われた立ち位置で指示通りのポーズになった俺に向かいそう言った奴に、俺はすぐさま「は?そんなの要らねえからどんどん進めろよ」と傲然と言い切った。というか『今日は』ってなんだ、もしかして今日一日だけでは終わらないのか?また明日もコレをやる位なら、今夜どれだけ遅くなろうとも一度で最後まで描いてしまって貰いたい。
「俺は平気だから、もっと一気にいけよ。休憩なんて1時間に一度で充分だ」
「いや、無理だって!暑いしマジでぶっ倒れるから!」
「大丈夫だ」
「……じゃあ、とりあえずやってはみるけど。無理だと思ったらすぐに言うんだぞ?」
カーテンを締め切られ(日の傾きで光の具合が変わるとマズイのだそうだ)、じっとりと暑い部屋にうんざりしつつも、始まる前俺は確かにそんな風に考えたのだ。
しかしそんな余裕はそこまでで、作業が始まると俺はすぐに、その悠長な提案の意味を思い知った。

「――わり、もうちょい顎上げて」
30分後。
また少し顔の下がってきた俺に指示を出した奴は、俺の動きを確かめると、「…ん、そう。そんくらい」と言いまた手元に目を戻した。音のない部屋でサリサリという画材がキャンバスを引っ掻く音だけが、妙な心地よさで耳に残る。……どんどん進めろよなどと偉そうに言ってしまったが、早くもちょっと、あやうくなってきた。凛とした感じで立って、と言われよくわからないながらも取り敢えず真っ直ぐ立っているだけの姿勢をずっと取っていたが、時間が経つに従って頭が痺れたようになっていき、体幹がどんどんぐらついてくる。
……これは辛い。確かに辛い。
中途半端な顎の高さも、腰に佩いた日本刀に掛けた手も。決してキツい体勢を取らされている訳でもないのに、静止を続けていると次第に小刻みに震えそうになってきた。時間の進みが、とにかく遅い。以前見た時にはあった覆面がなくなっていたのは、今となっては本当にありがたかった。これで更に息苦しさまで加わっていたら、きっともっと耐えきれなくなっていただろう。
「サスケ、」
キツい?休むか?
そんな俺の我慢に気が付いたのだろう。イーゼルに置いたキャンバスから斜めに顔を出したデイダラにそう尋ねられ、俺は僅かに顔を動かした。…ほんの少し動けるだけで、嘘みたいにこわばりが楽になる。それでも最初に自分で言った休憩なんか要らないという科白が蘇れば、ほら見たことかと思われるのは気に入らなかった。自分で言いだしたのだ、せめてこの1時間は粘りたい。
「……いい。平気だ」
顔を元の位置に戻し素っ気なく言い捨てると、痩せ我慢を見透かしたのかキャンバスの向こう側にいる奴が、僅かに苦笑する気配を感じた。当てられている照明が熱い。袖もなく前もスカスカなくせに羽織っている黒のあわせは密な生地のせいか、肌に触れる部分はやけにうっとおしく気に障る。
そんな非日常の感覚が麻酔に代わっているのだろうか、着替えた瞬間はこのまま穴に逃げ込みたいと思った強烈な恥ずかしさは徐々に薄れていって、今はもうその素肌に着ている衣装の暑苦しさと、肘から下の腕を締め付ける包帯の圧迫感だけが俺を苛んでいるのみだった。……人間の順応性というのは恐ろしい。土踏まずに引っかかる妙な脚絆にも、なんだか慣れてきた。
「――兄弟ってのはホント、不思議だよなァ」
多分、早くもちょっとぐったりしてきている俺に気を使ったのだろう。
背中を玉の汗が伝い落ちていくのを感じつつ顎の角度を気にしていると、キャンバスに目を留めたままのデイダラが言った。最初はさ、瓜二つ位の勢いでそっくりに見えるのに、中身を知れば知るほど、全く違う顔にどんどん見えてくるんだよな。そんな他愛ない事を言いながらも、半袖の甚平の肩が絶えず動いている。
「お前、兄さんにもこの格好させる気だったんだろ?それちゃんと手紙で伝えてあったのか?」
進まない時間を少しでも進めるべく話を打ち返すと、「伝えてあったに決まってんだろ、うん」というあっけらかんとした返事が返ってきた。『Ninja』のモデルをお願いしたいって、ちゃんと手紙で書いたっつーの。自信満々にそう言ったヤツに、見掛けによらず面白いもの好きだった兄を思い出す。そういえばあの人は高校の学祭でもクラス出し物の劇で、しれっと主役を張っていた。それも題目は『ロミオとジュリエット』なのに兄が演じたのは何故かヒロインのジュリエットの方で、体育館で絶句する俺に、舞台上から茶目っ気たっぷりのウインクを飛ばしてきたものだ。……確かにあの人だったら、お題が花魁だったとしてもノリノリでやったかもしれない。今のこの、東京のど真ん中で腰に注連縄をしている俺を見たら、兄は何と言うだろうか。許せサスケ、とでも言って笑って楽しんでしまうだろうか。
そういやさっきのさァ、と切り出された声に頭を戻されると、大きなキャンバスにすっぽり隠されたままのデイダラが言った。あのちっこい女ども、あれってオマエの何?ファン?
「かわいーな、あれ。ふたりしてくノ一とかやってくんねーかな」
「……お前、マジでやめとけよ」
そんな事してみろ、あいつらの親父さんにぶっ殺されるぞ、と真面目に脅かすと、何をどう捉えたのかデイダラは「えっ、サスケあの子達のお父さんに挨拶しに行った事あんのか?」などと素っ頓狂な声をあげた。「んなわけねえだろ、馬鹿も大概にしろよ」と低く唸ると、イーゼルの向こう側からこちらを見る目が「だよなァ」と細くなる。
「そっか、やっぱあの子達もオマエの女じゃねえのか」
「当たり前だろ」
「その気になりゃいくらでも女作れそうなのになー。全っ然、そういう気配ないよな、オマエ」
「ほーんと、恋愛経験少なそうだよなァ、うん」などという無礼だけれども的を得た発言に、言い返しようもない俺はムスリと黙った。勝手な事言いやがって、いくら選り取りみどりだろうと、あんな疲れる事そうそうやってられるか。……一度きりで、充分だ。
「――あのさァ、前々から一度訊いてみたかったんだけど」
手の動きを止めないまま、そう言い出した声に耳を傾けると、少し開けられた間にまた「シャッ、シャッ」という画材がキャンバスを滑る音がした。ヤツが手にしている黒い棒のようなものは、木炭なのだそうだ。さっきからすごく大胆に手が動いているのだけれど、絵を描くというのはそういうものなのだろうか。
「オマエがな、女作らないのは、好きな奴がいるからだって。それってホントか?」
「……ハァ!?」
腕の動きに劣らない大胆さで投げかけられた質問に、先程からずっと下がりがちになる顎の角度を気にしていた俺は思わずそれを忘れ振り向いた。「なんだそれ、誰がそんな事」と唇をわなつかせる俺に、前を向いたままのヤツはアッサリと「チヨバア」と答える。…あいつか!
別に、そんなんじゃねえよ、と直ぐ様姿勢を戻し言ったが、一旦狼狽えてしまった後では、その言葉にはどうにも説得力はないようだった。興味深そうにまたたかれた青い目が、じっと俺の顔を眺めているのを感じる。
どうなんだ?と重ねて訊いてくるデイダラに、俺は出来るだけ平静の声になるよう心掛けながら一言だけ「ノーコメント」と告げた。……当然の処置だろう。こいつに話すような事じゃない。
「ノーコメント?」
「そうだ」
「それって『言わぬは言うに勝る』ってやつだよな、うん」
「……ちげェよ……!!」
ノーコメントはノーコメントだ!ときっぱり告げて無表情を貫いていると、ようやく諦めたのか、ずっと俺の顔を見ていたヤツはやがて「…ふーん」とつまらなさそうに呟いた。尖らせた口が、キャンバスの向こうに再び隠れる。
「――じゃあさ、ここに前住んでた『うずまきナルト』ってヤツ。そいつって一体、どんなやつだったんだ?」
やや拗ねたように口を噤んでいたデイダラだったが、やはり気を使っているのか少しすると手元を見たまま、再び会話の口火を切った。先程までの会話に妙に繋がる名前に、落ちかけていた肩がギクリと上がる。まさかあのバアさん、そんな事まで喋ったのか…?思わず最悪の予想が頭に浮かび、背中を冷たい汗が伝っていく。
「……なんでそんな事訊くんだ?」と慎重に尋ねると、デイダラは「うん?いやだって、そいつの事聞こうとすると、みんな口を揃えてオマエに訊いてみろって言うからよ」と答えた。何の含みもない声色に、どうやらこの妙な符合は単なる偶然らしいと知る。
「オマエが一番、そいつと仲良かったからって。誰よりもそいつの事よく知ってるからってさ」
そんなに仲良かったのか?と何気なく訊かれた言葉に、俺は結構迷った末、かすかに顔を動かした。好きだとか、嫌いだとか、大切だとか。お互い投げ合った気持ちは沢山あるようにも思えたけれど、あの関係を言葉で言い表すとしたら、やはりそう言うしかないのだろう。
そんな俺には特に引っかからないまま、デイダラは「なんかさあ、そいつの話になると、みんなちょっと優しい顔になるんだよなー」とどこか羨ましげに言った。「どんなヤツだったんだ?」という再びの問いに、ほんの少し考える。
「――そうだな…いいやつ、だったかな」
考えてはみたけれども適当な言葉が見つからなくて、仕方なく俺はありきたりな言い回しで、彼の事を評した。他にどんな言い方が出来ただろう。明るくて、剽軽で、俺とは正反対の素直なやつで。散々傷つけられたのにもかかわらず、そんな俺に最後まで心をくれた、どうしようもなく優しかったお人好しのウスラトンカチ。
短いコメントではあったけれど、それでもなにか伝わるものはあったらしい。
つと手を止めたデイダラが、キャンバスの横から出した顔で「へえ…!」と驚いたような息をはく。
「『いいやつ』!」
「……なんだよ」
「そりゃそいつ、『かなり』いいやつなんだな。納得した、うん」
(どう言う意味だ)とは思ったが言わんとしている事もなんとなくわかったので、不本意ではあったが俺はその科白を甘んじて受けた。そうこうしているうちに、イーゼルの脇に置いてあるワゴンの上で、置かれた携帯がアラームを鳴らしだす。
「おぉスゲエ、1時間耐えたな!」という声にホッと肩を下ろすと、そのまま指先までもが脱力してだらんと下に落ちた。…初っ端にヤツが、1時間くらい平気だと言い張った俺を必死で止めた訳がよくわかった。ただ何も動かないでいただけだというのに、体中から大量の汗がふきだしている。
「ちょっと待ってな」と言いながら立ち上がったデイダラは、締め切っていたカーテンを開け放ったかと思うと、ついでに玄関の扉も開けに行った。道が出来た事で通りが良くなったのだろう、まだ少し昼間の熱を含んだ風が窓から流れ抜けていく。それを確認すると、画家は戻って来がてら途中にある冷蔵庫からペットボトルを取り出し、早々と床に座り込み足を伸ばす俺に差し出した。「ん、しっかり給水しろよ」という言葉と共に受け取った透明なボトルの中には、しっかりと冷やされた水がたぷたぷと揺れている。
「椅子もあるけど。そこでいいのか?」
「いい、とりあえずは」
「じゃあ15分――いや、30分休憩な。ゆっくり体休めてて」
暑かったら上脱いでてもいいからな、という言葉に「は?脱ぐって」と顔を上げると、椅子に戻ろうとしていたデイダラはちょっと振り返って「上だけでもさ。それ腕抜くだけで、簡単にはだけられんだろ?」となんでもない事のように言った。ここまでくるともう、恥ずかしがっているのもなんだか馬鹿らしい。腰を下ろしたまま作業を続けているヤツに軽く背を向けると、俺は広い肩口から両腕を引き抜き、胸元のあわせを開くようにそこから腕を出した。……なるほど、確かにこれならまた着るのも簡単だ。そのまま腰紐で留めるような形でばさりと下に流し、脱いだ上着を腰周りに垂らしておく。
俺が休憩していても向こうにとっては違うのだろう。真剣にキャンバスに向かうデイダラを余所に、俺はぼんやりと窓の外を眺めた。夏の夕暮れはまだまだ明るい。また鬱蒼としかけている裏庭に、あそこでふたりしてしゃがみこんだ短い思い出が蘇った。裏庭の草はあの後も容赦なく何度も生えたが、いっぺんにやるのではなく二日程に分ければ、自分ひとりでも無理なく処理ができるという事実を俺はあれから知った。彼がいなくても日常生活で困るような事は殆どなく、大学では水月が待っており、アパートに戻れば店子達があれこれと声を掛けてくる。昔よりは交友関係も広がり、時々は小さな友人達が、甘くない菓子も差し入れてくれる。学業の方で特につまずくような事もなく、部屋に置かれた銀時計は、今日もスムーズな音をたて正確な針を回している。
(……このままでも、全然問題ない筈なのにな……)
なんの不満もない日々の生活に、もう何度考えたかもわからない事を、俺はまた思った。
こんなのはただのエゴだ。本当にあいつの事を思うなら、きっぱりと捨て去るべき望みだ。
――本当は。一旦はもう全部、諦めようと思ったのだ。
このまま分かれ道を行くことが、一番彼の為になる事だと思った。きっともうこんな思いを抱く相手にも、あんな風に俺を見てくれるやつにも、この先二度と出会えないだろう。けれど彼の行き先が明るく開けているならば、別にそれでいいと思った。今でもその選択は間違っていなかったと思っているし、後悔もしていない。
だけどそれでもまだここで踏み止まっているのは、最後の夜に奪われた、あの口づけが忘れられないからだ。
閉じたままだった唇にやさしく残された熱だけが、どうしてもまだ切ないからだ。

『ごめん……ありがと』

油断すればすぐにまた蘇ってくる囁きに、固まった四肢を伸ばした俺はゆっくりと体を戻した。
まなうらに浮かぶのは、闇の中、極彩色の火花に照らされた明るい金髪だ。
滲む青と共に囁かれた声が、最後に見せた、困ったような笑顔がまざまざと思い出された。一緒にいた時間のどれもこれもが静かに思い出と変わっていくのに、どうしてもあの最後の記憶だけが、少しも薄れていかない。本当なら諦めるべきだとわかっているし、密かに何度も試みてはみたのだ。けれどあの熱にもう一度触れたいというその呆れるほどに単純な欲望だけが、当たり前のように戻ってきた日常の中、いつまで経っても鎮まってくれない。
(だけどやっぱりこれはただのエゴだ――俺自身の、たんなる我が儘だ)
再び戻ってきた煩悶に、俺は軽く唇を噛んだ。
いつかこの先、彼がくれたのと同じだけの思いを、同じだけのあたたかさを。もし俺に返せる自信ができたら、その時は今度こそ、あの手を掴みに行こうと思っていた。
そう思えばこそ、平静も保てた。彼のいない毎日にも慣れる事が出来たし、あのオレンジのジャケットも返すことが出来た。これまで通り、目の前にある仕事を淡々とこなし、やるべき事をきちんとやる。ぽっかりと空いてしまった穴に落ちることなく、ただ静かに前へと進むことが出来た。過去にあった兄との別離の方が余程苦しかったのだ、それを思えばどうして我慢出来ない事があるだろう。
……だけど最近になって少しずつ、その決心がぐらつきだしているのを、俺は感じつつあった。
望む気持ちは変わらない。けれど本当に、そんな事をしてもいいのだろうか。今の彼は昔のままに、俺の事を望んだりするだろうか。そんな事をしたところで、迷惑にしかならないのではないだろうか。
時間が経ち、冷静になってみればみるほどに、このまま分かれ道を行くという選択だって決して間違ってはいないという事がよくわかるのだった。実際に、彼は今とても幸せそうだ。どれだけ先になるかわからない未来で、突然現れた俺に再びあの手が差し出される保証はない。保証はないけれども、諦めきる事ももう出来なかった。なんだか追い詰められたうえ、四方を取り囲まれている気分だ。行き場のない熱だけが、ただ気怠く体の中に溜まっていく。
(……だいたいが、俺がいなきゃあいつがダメになるっていうわけでもないしな…)
再びの堂々巡りに溜息をついて、俺はまた考えた。現に彼はもう別れる前から、ちゃんと自分の進むべき道を歩き始めていた。俺がいなくても、自分の力で夢を掴んできていた。あの頃の彼は確かにどうしようもなく俺に囚われていたけれど、それさえもきっと新しい世界が開かれた今では、きれいな思い出に変わっているだろう。懐かしい過去として昇華されているだろう。
時折カカシから聞かされる彼の暮らし振りからは、楽しげな気配と充実した生活がうかがえた。はっきりと告げられた事はないけれど、話の端々からは時々女性の気配を感じる事もある。誰に対しても気さくで、人に優しい彼の事だ。散々迷った末に送り返したオレンジのダウンジャケットは、きっともう誰かの腕に通されているだろう。誰かの体を、温めている事だろう。
……考えれば考えるほどに、自分のやろうとしていることの強引さと大胆さに頭が痛くなった。それでも俺が彼に会いに行く意味はあるんだろうか。口づけを求める、権利はあるのだろうか。彼が向こうで作り上げた新しい出会いを俺が壊していい道理など、どこにもあるわけがないというのに。そんな俺を彼が受け入れてくれるかどうかさえ、この先の未来ではわかりやしないのに。そもそもがあんな大きな思いに報いれるだけの価値が、返せるだけの力が、自分に備えられる日がくるのだろうか。欲ばかりが空回りして、現実には百年経っても、『その日』がこないようにも思える。
――窓から流れ込む、裏庭を通ってきた風がぬるい。
ざわりと揺れる庭の木々はオレンジがかった光に照らされて、そのシルエットは金粉で縁取りをされた影絵のようだ。
「なーなー、そのさ、オマエと仲良かったヤツって、今遠いとこにいるんだろ?」
キャンバスの向こう側から聞こえてきた声に、放心しかかっていた頭が呼び戻された。ほんの少し頭をかしげ、耳だけをデイダラの方へ向ける。
「会いに行ったりしねえの?」という気楽な問い掛けに、俺はしばらく口篭った。
会いに――行けるだろうか。行っても、いいのだろうか。
「そうだな……いつかは」
ぽつりと答えると、ふと手を止めたらしいデイダラが「『いつかは』?」と聞き返してきた。冗談半分で言ってるとでも思ったのだろう、「冷てえなあ、いつかはっていつのことだよ」というちょっと揶揄い混じりの笑んだ声に、しばらく黙った後、「……さあな」と答える。
「なんだよー、『いつかは』の次は『さあな』か?」
「……」
「…ん?何オマエ、行きたくねえの?」
「――…わかんねぇ」
背を向けたまま淡々と告げた言葉に、少し間を開けてから後ろから「…ふうん?」という妙にしみじみした相槌が返ってきた。再び沈黙が訪れ、画材がキャンバスを引っ掻く、乾いた音だけが絶え間なく部屋に漂う。
やがて再びアラームが鳴ると、なにやら後ろではがしゃがしゃとと道具を出し入れるするような賑やかな音がしていたが、そのうちに「よし、じゃあまたよろしくな!」という景気のいい声に呼び戻された。上着を直し(本当に、実に着脱の楽な服だ)、立ち上がる。先程まで取っていた姿勢を思い出しつつ、腰帯に差した刀に手を掛けた。そうしている間に、またカーテンが閉められる。暑いけれどもよく考えてみたら、こうしてカーテンを閉めてもらえるのは外から見られないという点では、ありがたいかもしれない。カカシあたりは物凄くこの格好を見たがっていたけれど、その先に繋がる人物達の事を考えると、ヤツにだけは絶対に見せるべきではないだろう。
「どうする?今度は20分にしとくか?」というヤツに「何言ってんだ、今度だって1時間でいくに決まってんだろ」とガンとして言い張ると、手に木炭を持ったデイダラは半分呆れたような笑いを浮かべた。「まあいいや、じゃあ今日はあともう1時間だけにするな、うん」という言葉に、顔には出さずホッと胸を撫で下ろす。
――やがてまた修行のような1時間が過ぎ、満足げに立ち上がったデイダラは笑顔で「じゃあ明日も頼むな!」と当然のように言い切った。全身が蝋人形のようになった俺は、もはや言い返す気力も無い。黙って頷くと、のそのそとその扮装を脱ぎ捨て、這い出るようにして102号室を出た。玄関先まで見送るデイダラに何も言わず、無表情のまま歩き出す。
あちこちに妙な強張りをみせる体を引き摺りながらアパートの廊下を進んでいくと、先ほど落ちていた小さな遺骸は、他の虫が持っていったものかいつの間にか綺麗になくなっていた。
ようやく沈んだ太陽の代わりに、空にはあの晩と同じ淡い半月が浮いていた。