上機嫌な鼻歌は彼らが出て行ってからずっと途絶えることなく、広々とした屋敷の中でフンフンと楽しげなメロディーを奏で続けていた。
トタトタという、廊下を行き来する足音も軽い。何をしているのか、「あらやだ、私ったらまたこんなことして」などと言う独り言までもが、どこかはしゃいだような笑いに彩られている。
障子を開け放ち、居間との仕切りをなくした広縁には、穏やかな午前の光が心地よい空間を作り上げていた。そこの端にひとつだけ置かれたリクライニングチェアは、大昔には祖父のうたた寝用に、その後はうちの息子達の格好の遊び場になっていたものだ。しかし子供のいなくなったこの家で、今これを使っているのはもっぱら俺ばかりだった。革張りのそれは体を預けるとしなやかに背中に沿って、日々の緊張で強ばった体を気持ちよく受け止めてくれる。
広げた医療書はいつもながら字が細かくて、眇めた目付きで辿ったそれは、休日でゆるんだ頭にはどうにも入ってこなかった。半分だけ開けている掃き出し窓から流れ込む、ぱしゃんという清かな水音。多分また庭の池に住まう鯉が、尾ひれで水面を叩いたのだろう。
余程気に入っている曲なのだろうか。妻の鼻歌は飽くこともなく、何度も同じメロディーを繰り返している。
* * *
伯父さん?という声に呼び止められ辺りを見回すと、テーブルをいくつか挟んだ向こうで、よく知る顔がその口元を綻ばせ、片手を上げているのに気が付いた。目が合った途端、青年は利発そうな目を嬉しげにまたたかせて、するすると人波をすり抜けこちらにやってくる。
「よかった、こんなとこで会うなんて意外だったから、最初人違いかと思ったんですけど。やっぱりフガク伯父さんだ」
「ああ…ちょっと断れない筋からの誘いでね。そういう君は、どうしてこんな所にいるのかね」
――シスイ君?と尋ねると、久しぶりにあった甥っ子は凛々しく整った顔を苦笑いに変えて、「俺も伯父さんと同じですよ」と言った。「…この教授、もう引退だとか言ってますけど、実際まだまだ発言力大きいから」という小さなおまけを、口許にあてた手のひらの内側でこそこそ落とす。
もう4年も前になるか。その日行われていたのは某有名大学の名誉教授の喜寿を祝う会で、招待状には『ささやかな宴』と書きつつも、実際は都内にあるホテルのホールで大々的に開催されていた。正直心底どうでもいい祝い事ではあったがそれでも顔を出したのは、これが病院長として付き合いをやめるわけにはいかない人物からの頼みだったからだ。まあ要は、誕生パーティーの会場がガラガラになってしまわないよう、頭数のひとつになってやったというところか。甥のいうように、特別な事情でもない限り、こういったパーティーは本来俺の最も嫌うものだった。
「伯父さん、今日はこちらにお泊りの予定ですか?」と訊いてくる甥に「いや、日帰りだが」と答えると、「ここ、最後までいらっしゃいます?」と重ねて尋ねられた。期待するような目に一瞬考え、腕に巻いた時計を一応確かめる。「…そうだな、まだまだ居たいところだが。生憎今日は車だし、そろそろ行かないと」と周りに聞こえるような声でそれとなく言うと、少し離れた場所でどこかで見たような顔が、ちらりとこちらを振り返った。
「あまり遅くなると家内も心配するからな…申し訳ないが、俺はこのあたりで失礼するか」
「あ、じゃあ俺外までお見送りしますよ。伯父さんに会うのも久しぶりですし」
そう言って、退席する俺を先導するようにまんまと宴会場を抜け出した甥っ子は、外に出た途端、ふっと後ろにいる俺を振り返った。無表情のままの俺を確かめると、おどけたように肩を竦める。「助かりました…ありがとう、伯父さん」という囁きに、「構わんよ。俺もどうやって出ようかと考えていたところだった」と平坦に返すと、そんな俺の言葉に甥はクスリと笑いを漏らした。俺と共にちゃっかりエスケープをしてのけたこの甥は、今は亡きうちの長男の一番の友人だった男だ。情に篤く面倒見もいい彼は、温厚で争いを嫌う気質だった長男とはよく馬が合ったらしい。昔まだ俺達家族が都内に住んでいた頃は、同じく都内に住まうこの甥っ子がよく我が家に遊びに来ていたものだった。長男が他界してしまってからすっかり会う機会が減ってしまっていたが、幼い頃から利発で自分をしっかり持っているこの子を、俺は昔から気に入っている。
並んでエレベーターホールに着くと甥は「車、ここの駐車場ですよね?」という飾りのない質問に頷く俺を確かめつつ、先に伸ばした指でエレベーターの下行きボタンを押した。久しぶりに会ったからと言って変にお茶や談話に誘ってこない甥に、また好感を持つ。多分俺が、そういったものを面倒がる質であることを、よく知っているからだろう。
やってきたエレベーターに乗り込み待つと、やがてロココ調の装飾が施された扉が閉まる。するとようやく人心地ついたのか、暑苦しげにネクタイの結び目に指を入れながら甥は「ああ、ようやく息ができる」と笑ってまた俺の方を向いた。
「ああいうパーティーって、どうして無くならないんでしょうね。やってる当人達も、若い頃はきっと今の俺と同じように嫌々出席してたでしょうに」
エレベーターが動き出せば周りに誰もいなくなったのに安心したのか、甥っ子はそんな事を言いつつ溜息をついた。中途半端な時間だからだろうか。エレベーターには他に利用者はいないらしく、階を示すランプはパタパタと滞ることなく数を減らしていく。
「どうだろうな、そういう輩ばかりでもないだろ。あそこでできる人脈を、最初から目当てにしている奴もいるだろうし」
「ああ、確かにそういう話は聞きますね」
「まあうちの一族は特にああいった集まりが嫌いな奴が多いからな。正直、俺も本当に好かんよ」
隠すことなく本音を伝えれば、気のいい甥は「でも伯父さんなら、断れる時も多いからまだいいですよ。俺みたいな下っ端は拒否権なんてないですから」と苦笑いを浮かべた。「教授の命で、いいように使われてばっかりで」と言う甥は、都内で心療内科の専門医として職に就いている。
長男よりも一足先に国家試験に合格した甥は、卒業後、大学の附属病院を研修先に選んだ。今現在も甥が籍を置くそこに、最初うちの長男も研修に行きたいと言ったものだ。当時長男は外の世界も見てみたいからと言っていたが、多分あの時東京に残るのを希望したのは、この甥の存在も大きかったのだろう。幼い頃から実際の年齢以上に大人びた子供だった長男が、誰よりも素直に自分を出せていたのがこの甥だった。その希望を、あっけなく潰してしまったのは俺だ。出来のいい息子を手元に置いて、その優秀さを愛でたいという、そんなしょうもない親の我が儘で、滅多に自分の事を言ったりしないあの子のささやかな願いを、俺は聞いてやることが出来なかった。
なんとなく黙ってしまったまま、体が下に降ろされていく微妙な浮遊感に身を任せていると、同じように何か思っていたらしい甥が「ああそうだ、」と言い出した。現実感のあるその声に、ようやく頭が戻される。
「そういえばサスケの奴、折角いい友達ができたみたいなのに。なんか、残念でしたね」
初っ端からそう言って凛々しい眉を下げる甥だったが、言われた方は一体何の事を言っているのがさっぱり見当がつかなかった。『いい友達』というのは、夏前うちに遊びに来ていたあの金髪の青年の事だろうか?しかし残念とはどういう意味だ。妻からは特に、何も聞いていないのだが。
話の繋がりが見えなくて首を捻る俺は、やはりおかしな風に見えたのだろう。ちょっと驚いた様子の甥は「…あれ?もしかしてまだ、ご存知ないんですか?」と言って目をぱちくりとさせた。
「友達って、うずまき君の事かね?」
「ええ。ほら、去年から木の葉荘に代理管理人で入ってる重吾君。先週、定期検診で彼に会って」
甥の話が始まったのとほぼ同時に、エレベーターは「チン、」という音と共に目的階に着いた。律儀な甥は宣言通り、きちんと最後まで見送りをしてくれるつもりなのだろう。着いたのはホテルの正面玄関ではなく、地下の駐車場だった。開いた扉からもう見える俺の車は、甥にも覚えがあったのだろう。「あれでしたよね?伯父さんのって」と言う彼に返事をしつつ、「ありがとう。見送りはここまでで」とエレベーターをひとりで降りた。
「すまないね、どうせなら君も車で送ってあげたいところだが、生憎俺は都内の道に明るくなくて」
「大丈夫ですよ、駅はここの目の前ですし。お気遣いありがとうございます」
「……で、うずまき君が、どうしたって?」
途中になってしまっていた話が気になって、最後にすべり込ませるように質問を挟むと、もうすっかり別れの態勢に入っていたらしい甥は気が付いたかのように「ああ、そうでした」と声を出した。「その重吾君がですね、この前言ってたんですが」と甥が喋っているうちに、エレベーター上にあるランプが、上昇を告げる点滅をしだす。
「ああすいません、やっぱ一旦降ります」という甥を押しとどめ、「いいから、そのまま行きなさい。折角乗ってるんだから」と言うと、甥は礼を言いながら出しかけた足をまた戻した。「どうしたのかだけ教えてくれるかい?」と尋ねると、また少し眉を下げた甥はちょっと気遣わしげに言う。
「確か先月の話だと、言っていたかと思うんですが」
「?」
「――その『うずまき君』っていう子。木の葉荘から出て行ってしまったそうですよ」
言い終えた途端、エレベーターの扉が、おっとりとした動きで静かに閉じた。
甥の口から聞かされたのは、まさに寝耳に水の話だった。
その話を聞いた妻が最初に行ったのは、管理人であり大家でもある息子に直接問い合わせる事ではなく、同じアパートに住まう同郷の人物に連絡をし、裏を取る事だった。ここら辺、実に息子の性格をよく把握していると思う。最初から息子に直接訊いたところで、あの不親切な説明ではきっと話の細部までは聞き出せないだろう。言いたくない話であれば尚更だ。
そうして妻は、彼に電話をした。彼というのは、『はたけカカシ』という人物だ。以前子供達の家庭教師をしてくれていた彼は俺の弟の親友で、妻にとって離れて暮らす息子の様子を知るための、貴重な情報源となっている。
「……あなたどうしましょう。本当ですって」
はたけ君との電話を切った途端、妻は半分泣きそうな声で言った。ナルト君、もうひと月も前に引越してるんですって。今北海道にいるんですって。
余りに辛そうな妻の様子に、俺は咄嗟に何かとんでもない事件に巻き込まれたか、アパートの管理に問題があって彼が出て行ってしまったのかと思った。が、よくよく話を聞いてみると、どうやらその転居は彼が長年夢見ていたアイスホッケーのプロチームへの入団が理由らしく、しかもあちらから乞われて決まった話らしい。なんだ、だったらいわゆる栄転による転勤みたいなものじゃないか。めでたい事だとアッサリ思った俺に対し、妻はそう簡単にはいかないようだった。いやだ、どうしたらいいかしらなどと、頬に手をあてている。
「どうしたらって、別にどうもしなくていいだろう?彼の夢が叶ったんだ、良かったじゃないか」
「そりゃそうですけど。でもそれじゃあ、ナルト君次いつうちに来てくれるかわからないって事よね?サスケうちに帰ってくる時、ナルト君も一緒に連れて来てくれないわよね?」
「それはそうだろう、住まいが離れているんだから」
「だからそれが困るって言ってるんです。私あの子に、絶対また来て貰いたいと思ってたのに」
「……そもそもサスケの帰省の度に彼をうちに呼びつける方が不自然だと、俺は思うが」
正論だと思って返した言葉であったが、妻は酷く不満な様子だった。そりゃまあ、そうなんですけど。と言う口が、小娘のように尖っている。
「でもね、カカシ君の言う事もなんだか変で。ナルト君の事、サスケにあんまり訊かないでやってくれなんて言うのよ?」
「そりゃあもう行ってしまったものなんだから、今更あれこれ訊いたところで仕方がないだろう。戻ってこいと言えるわけでもなし」
何がそんなに気になっているのか、納得がいかない様子の妻はまだ何か言いたそうだったが、平静なままの俺と話しているうちに、少しずつ頭が冷えてきたようだった。むうっと膨れた頬はそのままではあったが、やがて渋々ながらに「…そうね、わかった」とちょっとうつむく。
「確かにお祝いするべき事で、こんな風に拗ねるのは間違ってるわよね…」
「そうだな」
「じゃあせめて離れてもお友達でいられるよう、ちゃんと自分からもナルト君に連絡するようにって、あなたからサスケに言ってくださらない?」
突然そんな事を言い出した妻に、呆気にとられたおれは僅かに目を見開いた。なんでそんな事を。というか小学生でもあるまいし、なんでわざわざ親がそんな事言わなきゃならないんだ。
そう思い、思ったまま妻へ反論したが、彼女は怯む事が無かった。だってあなた、あのサスケよ?いくらナルト君がサスケの事気に入ってくれてても、いつもいつも受身のままでいたらそのうちに段々向こうだって離れていくわよ。そうでなくたって、ナルト君だったら向こうでまたすぐに沢山のお友達ができるでしょうし。…サスケってあなたにそっくりなんですもの、プライドが高くて、思ってること言わなくて。仲良くしたい相手がいても自分から手を伸ばすなんて事、こちらからせっつきでもしなければ自尊心が邪魔して、ずっとしないまま終わっちゃうわよ。そんなので、折角出来たお友達との仲が自然消滅しちゃったらどうするの。
「だからって、なんで俺がそれをサスケに言わなきゃならないんだ」
ズバズバとした物言いに少しカチンときたが、それをなんとか収めて俺は言った。しかし妻もたいしたものだ。反論する俺を前に「だって、私が言うよりもあなたが言ってくださった方が、サスケはちゃんと話を聞くんですもの」と動じない。
「……ねえあなた?あのサスケが、イタチしか見えてなかった子が、ようやく見つけた子なんですよ、ナルト君は」
ふっと急に静かな表情になった妻はしみじみとした感慨を込めながら、どこか甘やかな空気を混ぜながらそうやって俺に囁いた。サスケが向こうできちんと立ち直れたのは、きっとナルト君がいてくれたからだと思うの。あなただって見ててわかったでしょう?あの子がどれほどナルト君に心を預けているか。それだけでも貴重なのに、その上あんなにサスケの事大切にしてくれて。あんないい子、探してもそうそう見つかるものじゃないわよ、絶対。
「それにあなたとサスケ、性格そっくりだし。似た者同士の方が、話もしやすいわよきっと」
「話って、一体何を話せというんだ」
「意地っ張りだろうと偏屈だろうと、ここぞという時はちゃんと自分から気持ちを伝えなきゃダメだって。待ってるだけじゃ誰かに取られちゃうって、あなたよくご存知でしょう?」
――だからはい、電話。
大昔にあった事を微妙に持ち出しつつニッコリと差し出された家の電話機に、返す言葉が見つからなかった俺はむっつりと黙り込んだ。仕方なくそれを受け取り、気の進まないまま、アドレス帳の一番最初に登録されている息子の番号にかける。
コール3回でもう切ろうとした俺に「だめよ!サスケの時は最低でも8回は鳴らさなきゃ」と待ったをかけた妻の言うとおり、受話器からようやく『…なに?』という億劫そうな息子の声が聞こえたのは、実に11回目のコールが鳴り終わる頃だった。……このしつこさが息子の出る気を削いでいる事に、妻は気が付いているだろうか。機会があれば教えてやった方がいいなと、頭の隅でそっと思う。
「あー……俺、だが」
軽い咳払いと共に告げると、受話器の向こう側にいる息子は素直に驚いた様子だった。『父さん?』と確かめてくるその声も、さっきよりもワントーン高くなっている。
どうかした?と逆に訊いてくる息子に、俺は少し言い淀んだ。話をしろと言われても、いざ考えてみるとなんと言ったらいいのかよくわからない。
「その、ナルト君の……事なんだが、」
そこにもういないというのは、本当かね?とさっき既に裏を取った事を改めて確認すると、さっきの俺よりも更にたっぷり言い淀んだ息子は、しばらくしてから観念したかのように『…本当、だけど』と小さく答えた。はらはらした様子で横に張り付いている妻が、じっとこちらを見つめている。
「プロに、なったんだって?」
『そう』
「良かったな。きっと、ここまでくるのは決して楽じゃなかっただろうに。たいしたものだ」
そう言うと、電話の向こう側にいる息子がほんの少しだけ、ほどけたような息をはいた。
一瞬だけやわらかくなった空気に、電波がゆるく震わされる。
要件はそれだけ?と言う息子に肯定して思わずそのまま切ってしまいそうになったが、それを機敏に察した妻が、横から指で「×」を作って顰め面をしてみせた。まだ本題に入ってないでしょう?という無言の圧力が、ぎゅっと見上げてくる瞳からひしひしと迫ってくる。
「それで…だ。お前、向こうに行ったナルト君と、その後連絡は取り合っているのか?」
いきなり上から言いつけるのはさすがに乱暴だろうと、まずは探りを入れてみると、案の定息子は返事を返さずそのまま黙りこくってしまった。取ってないのか?と尋ねてみても、だんまりが返ってくるだけだ。
「どうして連絡を取らないんだ?」
『……別に。わざわざ知らせなきゃならないような事が、特にないってだけで』
「特になくとも、何かあるだろう?ちょっとした…話とか」
『話?』
例えば?と訊かれてちょっと考えた俺は、「そうだな、例えば天気の事とか、今日食べた昼飯の話とか」と適当な事をもそもそと言った。すると向こう側から、『父さんは男友達にわざわざそんな連絡をしたりすんの?』と逆に訊き返される。……しないな。
「それでもまあ、たまには近況を報告するとか」
『報告するほど変化のある暮らしじゃないし』
「……彼の近況を逆に訊くとか」
『聞かなくても大体のことはカカシから無理矢理聞かされてる。チームの成績は、知りたきゃネットでいつでも見れるし』
ああいえばこういうといった感じではあったが、息子の言ってる事もいちいち尤もに思えた。そもそもが俺たちは、妻が言うところの似た者親子なのだ。俺は友達なんてわざわざ作らなくても周りには常に兄弟や従兄弟がいたし、サスケにいたってはイタチさえいれば他はもうどうでもいいと思っていたような子だった。友達だ友情だとかいうものには元々興味がなかったというか、とことん馴染みが薄い。妻からしたら薄情に見えるのかもしれないが、俺からしたら男友達の付き合いなんてまあこんなものだろ、という気がする。
『――あいつはあいつで、今向こうで新しい繋がりを作ってる時だろうし。仕事とかも、覚えること色々あるだろうし』
それでも切るのが許されずに受話器を持っていると、息子は少し考えてから、静かにしゃべりだした。ようやくぽつぽつと言い落とされ始めた話を、黙ったまま聞く。言ってる言葉は丁寧で、声の感じを聞く限りでは、嘘を言っているようにも拗ねているようにも聞こえない。
『連絡を取ったところで、あいつのいる世界の事は俺にはよくわからないし、理解してやれない事も多いから。そういうのをわかってやれる仲間の方が、今のあいつには俺よりも必要だと思う』
だから今は、邪魔したくないんだ。
はっきりとした一言が、静かな言い分の最後に落とされた。なんとなくではあるが、息子が言わんとしている事はわかるような気がする。確かに、仕事の仲間と、プライベートの友人は全く別物だ。俺の妻は友人なんて必要ないと思う程に俺の事を理解してくれているし一緒にいて心安らぐ女だが、やはりそれでも仕事の話となると、同じレベルの知識を持った仲間と意見を交わしたいなと思う。専門色の強い職業であれば、猶の事そうだろう。
「……なるほど。だから連絡を取らないと」と確かめると、揺るぎない声が『うん』と答えるのが聴こえた。なんだ、結構ちゃんとした考えがあるんじゃないか。意外と大人びた考えを持っていた次男を見つけ、急に安心したような気分になる。
「そうか、じゃあ」と会話の終結に向けて進みだそうとすると、クイクイと上着の裾を引っ張る手に気が付いた。(ちゃんと・言って!)とパクパク動く唇に、また仕方なく受話器を持ち直す。
「あー……まあ、お前の考えはわかった。でもな、その…彼は、折角出来た友達だろう?お前だってたまには、ナルト君の声が聞きたくないか?」
動きの鈍い唇で言いながら、俺はまた気の進まない頭で考えた。なんだかなあ…やっぱりこんな事、わざわざ言わなくてもいいんじゃないか?という思いに、漫然と頬を掻く。連絡を取っていようといまいと、この子があの青年の事を大切に思ってるというのは明らかじゃないか。もうそれだけでいいと思うのに、どうしてこう、形にしてみせないと妻は納得できないのだろう。
ちょっと膿んだ気分で言葉を探していると、不意に『父さん、』という確かな声に呼びかけられた。そういえば息子は今、どこでこの話をしているのだろう。背後から、遠いさざなみのような笑い声が聴こえてくる。どこか外に出掛けているのだろうか。
『なんか…ごめん』
「え?」
『でも、心配はしなくていいから。――横にいる母さんにも、そう言っといて』
そう言うと、ふつんと糸が切れるように、回線は途絶えた。通話終了を告げる、無機質な電子音だけが、規則的に耳に残る。「ねえ、どうだって?サスケなんて言ってた?」と期待に満ちた目で見つめてくる妻に、「心配しなくていいそうだ」とだけ伝えて俺は電話機を返した。するとその言葉に一瞬呆気に取られた妻だったが、すぐに自分の思うような成果は俺の説得(らしきもの)からは得られなかったのを悟ったのだろう。俺を見上げてきていた妻の顔は、見る間に見事なふくれっ面に仕上がっていく。
ああ、これは早々に何処かへ行ってしまった方がいいな。面倒は御免だ。
そうしてそそくさと居間を後にした俺の背中に、「もう!!」という怒った溜息が投げつけられた。
――フンフンという鼻歌は、もう何巡目かもわからないサビを再び奏でていた。台所からは何かを揚げる、香ばしい油の匂い。昼前で気持ちよく空になってきている腹はすでに受け入れ態勢万全で、食欲を刺激するその匂いに、きゅうきゅうと騒ぎ出す。
結局息子はあれからもずっと北海道にいる友人には自分から連絡を取ろうとはしなかったようで(というのが、妻がカカシ君から得た情報だ)、妻はずっとやきもきしていたようだったが、それが大学6年生になって、突然北海道の病院へ研修に行きたいと言い出した。さすがに少々驚きはしたし、一瞬渋りもしたが、最終的には俺はそれに了解を出す事となる。そりゃあ本音を言えば、長男の時と同じように手元でその成長を見たかったというのが正直な気持ちだ。研修医の忙しさや過酷さはよく知っていたから、出来る事ならきちんと生活面を管理してもらえる自宅に戻ってくる方がきっとこの子自身も楽だろうというのもわかっていた。だけどそんな事よりも、息子自身の意思を尊重したかった。多分、俺は恐れたのだ、長男の時のような、同じ後悔が繰り返されるのを。二度はないだろうと頭では理解しつつも、それでもやはり、この世に『絶対』なんてものは存在しない。
「心配しなくていい」と言った言葉の通り、サスケが再び金髪の友人を連れてきたのは昨日の事だ。最初妻は、「向こうに行ったところであの子本当に大丈夫なのかしら、大体がこんな何年も不義理を重ねてきたような子と、ナルト君がまた仲良くしてくれるかしら」と気を揉んでいたようだったが、それはまったくの杞憂だったようだ。並んで帰ってきた二人は笑ってしまう程に以前と同じ空気に戻っていたし、むしろ昔以上に気易い関係になったように見える。その上驚くべき事に、息子は大学でもきちんと友人を作っていたようだった。そのうちの一人は、今春からうちの病院で研修医として勤務している。中々に優秀な子で、もしかしたらこの先彼が、いずれ病院を継ぐ事になるであろう息子の大切な『仲間』となるのかもしれない。息子本人も言っていたように、プライベートとは別に、心置きなく仕事の話をしあえる仲間というのはやはりありがたいものだ。そういえばその彼もこの連休中にサスケが帰ってくると先日病院で会った時に伝えたら、是非会いたいからどうにか時間を作って、一度うちに顔を出しに来ると言っていた。最後に「なんだよソレ聞いてないし!!もーほんとサスケってさあ…!」などとブツブツ言っていたようではあったが、まああれはあれで多分それなりにいい関係を、息子と築いてきているのだろう。
それにしてもよくもまあ、サスケがこんな社交的な事をやってのけたものだと、目を閉じたままの俺は広げた思いを再び束ねつつ、しみじみと感心した。昔何かの席で妻に指摘されたように、俺には昔から友達らしい友達はいなかったし、別に欲しいとも思わなかった。なのにそんな俺にそっくりな息子が、こんなちゃんとした繋がりを作ってくるとは。『奇蹟だ』などと言う妻はさすがに大袈裟だと思うが、現状をみれば確かにまるで、俺の子じゃないようだ。
……この日を相当楽しみにしていたらしい妻は、昨日からすこぶる機嫌がいい。どうやら本当の本気で彼女はナルト青年の事を気に入っているらしい。今にして思うと妻はサスケの事が心配で連絡を取れだのなんだのとせっついていたのではなく、ただ単に自分がまたあの青年(妻の言うところの、『俺たちとは正反対で、明るくて素直でかわいげ溢れる素敵な子』)に会いたかっただけなんじゃないかと思うわけだが、まあそのくらいの事は別にいいかと思う。俺はこの程度の事で妬くような器量の小さな男ではないし、それに彼が来てくれると食卓に美味い料理が沢山並ぶ。胃袋が満たされている時、男というのは大抵心を平安に保てるものだ。
……と、いつの間にかリクライニングチェアをすっかり倒して目を閉じてしまっていた俺の耳が、表で軋む砂利の音を拾った。しばらくの間をおいてから、ドアが閉まる音。一回…いや、二回。
よかった、丁度いい頃合で帰ってきてくれたわ~と機嫌よく迎えに出る妻と前後して、「あーいい匂い!腹減ったあ、ミコトさんゴハンなに~?」という愚弟の声と、ドタドタという気兼ねない足音が聴こえてきた。その後ろからやってくる、もう少し静かな足音。すれ違いざまに声を掛けたのだろう、「ああサスケ、広縁にいるお父さんに声掛けてきてくれる?もうすぐにお昼にするから」という妻の言いつけに、無言のままこちらに近付いてくる気配を感じる。
「父さん」
呼び掛けてくる無愛想な声に、目を開ける。ムスリとした表情、愛想のない唇。脇に立つ息子はひとりだけだ。昨日からずっと常にセットでいた明るい輪郭が、何故だか今は見当たらない。
「起きて。昼だって」という声にすこし体を起こして、もう一度息子の周りを確かめた。やはり、いない。リビングや廊下にも気配が無いし、そういえばさっきの車のドアの音も人数分なかった気がするから、もしかしてまだ車の中にいるのだろうか。
「本。そっち側に落としてる」
「…ああ、」
「中、折れちまってんじゃねえの?」
「いやまあ、それは別にいいんだが……お前、友達は?ナルト君はどうした?」
いつの間にか胸の上から落としてたらしい読みかけの本を拾いつつ、足りない気配に訝しむと、ひとり立つ息子は(あぁ?)とでも言うように不愉快そうに眉をしかめた。
俺を見下ろす顔がすうっと冷めた無表情に変わり、うすい唇が静かに開く。
「――ナルト?誰だそれ、そんなヤツ知らねェな」
容赦ない科白と共に「フン、」と短く鼻を鳴らし、息子はくるりと踵を返した。
離れていく背中に、ぽかんと口が開く。…えっ?いや、ほんの一時間程前、お前達確かに連れ立って出てったよな?なんかナルト君は浮かれてたし、お前も別に特別機嫌悪くもなかったのに。
痛烈な一言に、さっきまでの明るんでいた光景は、一瞬にして散らされた。先に食卓についている、不機嫌な横顔。頑なに組まれた腕はとりつくしまもなさそうで、気まずげな様子でようやく居間に現れた友人にも、完全無視を決め込んでいる。
妻の鼻歌は、いつの間にか止んでいる。
前言撤回、やっぱりというか、なんというか。……いっそさすが俺の子、とでも言うべきだろうか。