Golden!!!!! 前編

ぐんと広げた両手で大きなパレットを持ち上げると、中にぎっしりと敷き詰められた緑の葉先が一斉に風にそよいだ。揃った動きがなんだか妙にいじらしく、細く頼りない苗達がかわいらしい。まずいぞ、これは本気で、かなりハマってきてるかもしれない。そんな危惧を抱きつつパレットを移動させ、腰を伸ばしたオレは首に巻いたタオルで汗を拭う。
借りた麦わら帽は思いの外快適で、抜けていく風がなんとも言えず心地良かった。やはり昔から使われている道具には理由があるんだなあなどとちょっと感心していると、宿泊先である古い家の前にどこからかやってきた黒のクーペが一台、滑り込むように停車する。この家の車ではないなぁなどとぼんやり眺めていると、そのうちに両側のドアがほぼ同時に開き、車の中からにょきにょきと二つの頭が現れた。
「おー。ようやく来たね、あいつら」
ちょうどいいから、ちょっと休憩にしましょうか。思いの外近くから聴こえてきた声に振り返ると、先程から作業機のエンジンの具合を確かめていたその人は一度手を休め、いつの間にかオレのすぐ後ろにまで来ていた。朝からどんどん上昇していく気温に耐え兼ねたのか、今朝きっちり着込まれていた筈の色あせたツナギは上半分がはだけられ、腰の辺りでぎゅっと袖が結ばれている。
普段のねずみ色したスーツを着ている時から薄々気がついてはいたけれど、そうしてラフな格好をしていると、この人が実は物凄くスタイルのいい人なのだというのが改めて見て取れた。「どうもこの埃がダメなんですよねえ」と言って学校では毎日がっちり装着しているマスクを外した顔も、明るい日の下でのびのびと安らんでいる。

「――カッカシセンセー!!」

金髪の青年から弾む声で大きく呼ばれると、オレの横にまできたその人はちょっと斜めに立ちながら、鷹揚な笑顔を浮かべた。それを見て、大声を出した人物はオーバー過ぎる程の動きで盛大に手を振る。そうして何言か後ろにいる黒髪の同行者に話しかけたかと思うと、身軽な動きで舗装された道路から一段下にある草むらに飛び降りて、オオバコやクローバーの這う細い農道を躊躇う事なく駆け出した。
まっしぐらにこちらへと向かってくる彼に対し、同行してきた黒髪の青年の方は全然急ぐ気が無いようだった。ところどころに落ちている泥の塊を器用に避けながら、光の躍る水面が続く、一面の田園風景をのんびりと眺め歩いてくる。
「久しぶりだねえ、ナルト。元気そうでなにより」
あっという間に目の前にまで来た教え子の姿に目尻を下げながら、カカシさんは言った。「先生も!そんなカッコしてるから、違う人に見えたってばよ!」とはしゃぐように応えた金髪の青年は、高校生だった頃から比べると、当然の事ながらやはり随分と大人っぽくなったようだ。卒業しても、まだ背が止まらなかったのだろうか。記憶よりも高い位置にある明るい金髪は、強い日差しに負けじと眩しく輝いている。
そうしてからふとその恩師の横にいる麦わら帽の存在に気がついたらしい彼は、じいっとこちらを見つめていたかと思うとようやく思い出したかのように「えぇ!?」と驚いた声を出した。「うそっ、もしかしてイルカ先生!?」と目を剥く彼に「…やあ、」と応え、ふにゃふにゃとした笑いを見せる。彼が驚くのも無理はない。なにしろ誰よりもこのオレが一番、この展開に驚いているのだから。
「えーっなんでなんで、イルカ先生ってカカシ先生とそんなに仲良かったんだ?」と口を開けている彼の隣に、のんびり歩いていた黒髪の彼が追いついた。オレを見た瞬間、一瞬だけ(ん?誰だっけ?)という表情を浮かべたが、すぐに思い出したらしい。ふうん?といった感じでちょっと目を眇めると、そのまま興味を失ったかのようにまた景色に視線を移してしまった。素っ気無さは以前会った時とほぼ変わりないけれど、こちらの彼も、外見はなんだか昔よりも更に洗練されたようになっている。
「――サスケも。どう、新天地の方は。もう慣れた?」
横を向いてしまった彼にも構う事なく話しかけると、カカシさんはふうっとひとつ、ため息をついた。
まさかお前が俺の裏をかくようになるなんてねえ。…先生あんまりにもお前の成長がスバラシ過ぎて、思わず涙が出ちゃったよ。苦笑いと共に零された言葉を聞くと、そっぽを向いていた彼はようやくこちらを見て、口の端をほんの少しニヤリと上げる。
水を渡る風がさわさわと苗床の葉を揺らし、水田に無数のさざなみをつくる。
それに乗ってきたヒバリの高い歌声が、濃い青に染まる5月の空に伸びやかに広がった。

  * * *

あのー、つかぬことを、うかがいますが。
前触れもなく突如頭上からぬうっと現れたその人は、デスクの上に並べられたタッパーをじいっと観察すると、普段どおりの実にのんびりとした口調でオレに話し掛けてきた。
びっくりさせられた拍子に思わず箸先の人参を取り落としたオレに、「その食べられてるお弁当って、いつもイルカ先生がご自分で作られてるんですか?」という出し抜けの質問がぶつけられる。
「は!?……いや、ええ、…その」
驚きのあまり取り乱してしまった声は、質問主にはどっちつかずな返答と取られたらしかった。
「それって肯定ですかね、それとも否定?」と首を傾げるその人に、慌てて口の中にある酢豚の赤ピーマンを飲み下したオレは、「……肯定、です」と小さく頷く。
もう4年以上前の話になるだろうか。夏休みが明けて少し経った、9月半ばの事だ。
……その人、つまりカカシさんとオレは、職場の同僚だ。
だけどその立場は微妙に違ってて、彼は私立高校に務める正規教員、オレはその同じ学校で経理や総務的な仕事を処理するための事務職に就いている。仕事の内容は本当に様々だけれど、ちょっとした行事の手伝いや子供達に直接関係してくる手続き(色んな届出やら各部活動での活動費等の申請など)をする事もあって、子供達からはなんとなく、そのまま名前をとって「イルカ先生」と呼ばれている。本当は教職員じゃないのになと思いつつも、『先生』という単語は子供から呼ばれてみると、何故だかそう悪い気がしないから不思議だ。
そしてカカシさんも、オレの事を『先生』と呼ぶ。職員の中で、オレのことを子供達と同じように『先生』と呼ぶのは、実はこの人だけだ。
「ええと…それが、何か?」
デスクの端に置かれた水筒に手を伸ばしながら、オレは訝しみながらその一段と高い位置にある顔をまじまじと見上げた。何しろこのはたけカカシという人は、変わり者が多いうちの教職員の中でも、特に謎にまみれているのだ。
まずそもそもが、オレはこの人の素顔を見た事がない。相当なアレルギー体質であるらしく、出勤から夕方校門を出るまでずっと、その顔半分には大きなマスクが年中無休でガードを張っていた。所構わず18禁のいかがわしい本を愛読しているにも関わらず、ごくたまに恐ろしく難しそうな英字の専門書を開いている時もあって、職員室に流れる出処不明な噂によると、どうやら若かりし頃一度海外にある某有名大学に留学した経験があるらしい。その割にはいわゆる上昇志向というものは皆無で、いつもやる気なさそうな猫背を背負ってはオジサンサンダルをペタペタいわせて歩いていた。一般男性よりも頭ひとつ大きく育った体でニコニコしている様はまさに『人畜無害』を絵に描いたもののように見えるのに、時折物凄く鋭い意見を職員会議で出す時もあって、人の評価には厳しいうちの学校長も彼には一目置いているようだった。いい加減なのか切れ過ぎる程の切れ者なのか、なんとも読めない人物だなあと、実は前々からずっと不思議に思っていたのだった。
「いやー、実はですね。俺の家、田舎で百姓やってるんですけど」
ぼんのくぼを掻き掻き、ちょっと口篭りながらも彼が打ち明けてきた話は、こうだった。
カカシさんの生家は北関東の僻地にあるらしく、農家を営む父親の元から、時折(というか、カカシさん曰く割としょっちゅう)東京で一人暮らしをする息子へダンボール箱いっぱいの農作物が届けられるのだそうだ。カカシさんとてあまり料理が得意な訳ではないからひとりで全部を食べきる事はとても出来なくて、これまでずっと住んでいるアパートの隣近所に御裾分けする事でどうにか廃棄を避けてきたのだという。ところがこの夏、その配布先であったひとりの青年が引っ越してしまったため、その途端お裾分けの分配率と田舎からのグリーン便の消費ペースがたちまち狂ってしまったのだそうだ。ただでさえ毎日ぐんぐん育っては収穫を迎えるのが夏野菜というものだ。どしどし送られてくるダンボール箱(愛されてるんですねぇ、などとぼやっとした感想を告げてみたが、「実家の方は実家の方で沢山採れ過ぎてしまった野菜を処理しきれないんですよ。だから問答無用で俺に送ってくるんです」というのがカカシさんの弁だった)、はたけ邸の冷蔵庫は今大変なコトになってしまっているらしい。
「……でね。どこかにこれを、うまく使ってくれるような料理上手な方はいないかなと探してまして」
真っ先に思い浮かんだのが、イルカ先生だったんですよね。というあっけらかんとした結論に思わず飲みかけていたお茶を吹きつつ、「いやいやいや…ちょっと待ってくださいよ、なんでそうなるんですか」と言い募ると、きょとんとした様子のカカシさんは心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「なんか変でしたか?」などと罪のない口調で言ってくる彼に「いやだって、職員室には他にも料理の得意な方は沢山いるでしょう?家庭科の先生とか、女性陣とか!」と声を潜め抗議すると、ちょっと寝ぼけたようなタレ目がニッコリと細められる。

「でもね、俺が見た限りではイルカ先生のお弁当が一番ちゃんと手間を省かず作られてて、美味しそうだったんで」

どうせだったら目一杯美味しく料理してもらえた方が、野菜も幸せじゃないですか。
……本当のところはただ単に自炊歴が長いというだけで、オレには別段凝った料理が出来るわけでも腕に自信があるわけでもなかったのだけれど。それでも穏やかな笑顔と共にそんな事を言われてしまったら、なんだかもう遠慮もお断りも、絶対に出来ない気分にさせられた。
学校まで持ってきますよと言う彼に対し、「いえ、分けていただくんですから、ご迷惑でなければオレがご自宅まで取りに伺いますよ」と申し出たのが金曜日の昼休みの事。
こうして来る土曜日、オレは謎の高校教師の住まいへと、足を踏み入れる事となったのである。

書いてもらった地図は簡潔だったけれど物凄くわかりやすくて、全く知らない街だったにも関わらず、降りた駅からオレは一度も迷う事なくそのアパートにまで辿り着く事が出来た。こういう所にまで頭の良さって出るんだなあと、無駄のない線で描かれた地図にしみじみ思う。
朝から振り続けている雨に傘をさしつつ、住宅街のブロック塀を流し見ながら指示された角を折れると、少し先に建つ木造のアパートの前で、やはり大きな黒い雨傘を片手にふらりと立つ背の高い影を見つけた。駅に着いた時に一度連絡を入れたから、もしかしたらそれからずっと立っていてくれたのかもしれない。しまった、気を使ったつもりが却って迷惑を掛けてしまったかと慌てて駆け出したが、そんなオレを見たカカシさんは苦笑しながら、(まぁまぁそんな、走らないで)というようにちょっと眉を下げた。
「すいません、お待たせしました!」
「んーん、全然。俺も今さっき出てきたばっかだから」
地図、わかりました?とニコニコ尋ねてくる彼に「ええ、すごくわかりやすかったです」と素直に答えると、穏やかそうな横顔がそれは良かったと目を細めた。今日は、マスクを掛けていない。わぁ、この人口許が出るとこんなにも優しい印象になるんだ…としみじみ感じ入っていると、「お渡しする物はもう準備出来てるんですけど、折角ここまでいらしたんですから少し上がっていきません?」という呼び掛けにはっと気持ちが戻された。自然な流れで持ってこられた誘いをありがたく受けながら、やはり普段お目に掛かることのできないTシャツの背中に付いて薄暗いアパートのエントランスを抜け、時折ミシミシと鳴る階段を上っていく。
そこは見たところ、相当に古い物件のようだった。入ってくる時見た「木の葉荘」という看板もかなり年季が入った感じだったが、内装もそれに見合った古めかしさだ。エントランスは意外と広い造りだったが階段は細く、飴色になった木製の手摺りは経年を感じさせる艶を載せていた。それでも手入れはきちんと行き届いているらしく、古ぼけてはいても梁や天井の隅には蜘蛛の巣ひとつ掛かっていない。ドキドキしつつも勧められるがまま上がらせてもらった部屋も、広くはないけれど貰った地図から推測するにどうやら真南を向いているようだし、年代物というだけで案外入ってしまえば住み心地は良さそうな物件だなと、中を見回したオレは最終的にはそう結論付けた。
古びた枠に填まったガラス窓の向こうには、弱い雨が細い線を引いている。ここ数日続いているこの雨は、いわゆる秋雨というやつなのだろう。
(あ、……写真)
もしかしたら、学生の頃から使っている物なのだろうか。部屋の隅には年月の感じられるデスクがひとつ置かれ、その上には写真立てがひとつ、きちんとした佇まいで置かれていた。中に写っているのは、三人の子供だ。中学生位だろうか、真ん中で満面の笑みを浮かべる女の子の後ろで、二人の少年が睨み合っている。その内の片方は、多分…というか、ほぼ間違いなくこの部屋の主だろう。木製のフレームに漂うなんとなくかしこまった雰囲気に、中の写真が持ち主にとって特別大事な思い出であるのが察せられた。
他には大きな本棚と、古びた卓袱台。窓際には観葉植物がひとつだけ、青々とした葉を茂らせていた。誰が書いたのだろうか、素焼きの植木鉢にはあまり上手とは言えない文字で、「ウッキー君」と書かれた札が挿してある。ウッキー君?
「今飲み物用意するんで。むさい部屋で申し訳ないですけど、適当に座っちゃってくださいね」
部屋の景色に見とれていると、後ろのキッチンに立っているその人は水切りカゴから湯呑をふたつ取り出しつつ、「イルカ先生、甘いものとかお嫌いじゃないですよねー?」とのんびりとした口調で訊いてきた。「あっ…すいません、ほんと、お構いなく」と振り返るも、キッチンカウンターのお盆の上には、既に美味そうな照りをのせた羊羹が数切れ、客に出されるのを待っている。
適当にと言われつつなんとなく座る場所に困っていると、予兆もなく部屋の呼び鈴が鳴らされた。これも古いせいなのだろう、ちょっとひび割れ気味な音が、雨に閉じ込められた部屋の空気を揺らす。
ちょっとすいませんね、とオレに断ってから「はーい」と玄関に向かったカカシさんは、ドアに向かって「どちらさま?」と暢気に呼びかけた。やや間を置いてから返ってきた「俺」という短い答えを聞くと、すぐにロックを外しドアを開ける。
「サスケ?どしたの」
「…よォ」
扉の向こう側には、ひとりの青年が立っていた。親しい仲なのだろうか、どちらの受け答えにも構える気配が全く無い。「悪いが、ちょっと頼みが」と言いかけたところで、青年は玄関先に並べられたオレの靴に目が留まったらしかった。ちょっと控えるような感じで「…誰か来てんのか?」と尋ねた青年は、目線を上げるとすぐに部屋の中央で所在なく立っているオレに気が付く。
「どうも、」とこちらからお辞儀をすると、向こうも黙って静かに訝しむような礼を返してきた。言葉数が少ないせいか酷く愛想のない子に見えたけれど、ちょっと他では見ない程に顔立ちの整った青年だ。なんというか、存在感だけで人を圧倒するような、奇妙な迫力がある。
「……珍しいな、あんたに客とは」
青年はどう見ても二十歳前後位にしか見えなかったが、シニカルな笑みと共に言われた言葉には、年長者に対する敬意のようなものは微塵も感じられなかった。けれどそれもいつもの事なのだろう、「お前に言われたくはないよ」と苦笑するカカシさんは、そんな態度にも気にする所がない。
「なに?急ぎの用なの?」
「あー…いや、急ぎという程ではないんだけど」
なんとなく語尾を濁しつつ「これ、」と言って差し出されたのは、丁寧に梱包された小ぶりの荷物だった。宅配便業者の名前が印刷された専用の紙袋の上に、元払いの送り状が未記入のまま貼られずに置かれている。
「なにこれ?宅配便?」
「……これを、さ。あんたからあいつのとこに、送って欲しいんだけど」
「あいつって――ナルト?」
聞き覚えのある名前に「え?」と思わず声が出ると、急に入ってきたオレが意外だったのか、『サスケ』と呼ばれていた青年はちょっと驚いたような表情でこちらを見た。「あっ…すいません」とつい謝ると、それを取りなすかのようにカカシさんがちょっと笑う。
「別にそんな謝らなくても…むしろ謝るのはこちらの方で。すいませんね、まだお茶もお出し出来てないのに」
「イエ、そんなのはもう、本当に」
「サスケ、こちらのイルカ先生は、俺と同じ学校にお勤めなんだよ。ナルトが通ってた高校に」
先生もナルトの事、覚えてるでしょ?という笑顔の問いかけに、オレはコクリと頷いた。もう何年前になるのだろう、ひとりの男子生徒を思い出す。華のある外見に見合った明るさと剽軽さで、周りにはいつも沢山の友人が取り囲んでいた。自由な校風が売りのうちの学校だけれど、その中でも特に目立つ子だったのではないだろうか。けれどオレの記憶にしっかりと残っているのは、それが理由ではない。在学中、彼のご両親が事故で亡くなって、その関係で彼にはいくつかの手続きや書類の再提出を頼む事があり、直接何回か会話をする機会があったからだ。
「ええ、よく……覚えています」
そういえばカカシさんと初めて会話をしたのも、あの時が初めてだったんだよな…と遠い記憶を探りつつ、オレは玄関先から送られてくる、二人分の視線を受け止めた。当時そのうずまき少年を受け持っていた担任が他でもないこのはたけ氏で、そもそもオレがこの人の事が気になるようになったのも、あの頃その男子生徒の件で幾度か話をする事があったからだった。
頭の中だけで思い出を反芻していると、無表情のままの青年はオレの紹介にも引っかかる事なく、「送料は多分これで間に合う筈だから」と言ってズボンのポケットから封筒を出し伝票に添えた。もう一度「ん、」と言って差し出される小包に、カカシさんは小さな溜息をつく。
「あのね、ここまでやったんなら、自分で出したらいいじゃない。なんで俺に」
「あいつの住所、知らねェんだ」
「退去届に書いてあったデショ?」
「うちの退去届、転居先の住所は書くとこ無いんだよ。電話番号だけで」
えぇー、そんなんでいいの?とちょっと呆れたような声を出すカカシさんに、青年は表情を変えないまま「知るか。昔っからそれでやってきたんだろ」とつっけんどんに言った。
退く気はないのだろう、手に持った荷物はずっと差し出したままだ。
「あ、じゃあいい機会だから教えてあげるよ、住所」
手帳か何かを持ってこようとしたのだろうか、ちょっと待ってて、と言ったカカシさんは首をめぐらせデスクの椅子に置かれた鞄の方へと視線を移したが、玄関先で動かないままの青年に「いや、いい」と先回りされると、ちょっと恨めしげな目付きで再び前へと向き直った。「お前さあ…さすがにちょっと、薄情過ぎるんじゃない?」と諭すような溜息をつくカカシさんを無視して、青年は玄関先に設置されている靴箱の上に、さっさと荷物を置いてしまう。
「じゃあ悪ィけど、頼んだから」
「ねぇ、『悪ィけど』なんて言ってるけど、ソレ全然そういう態度じゃないよね?」
「……大急ぎってわけじゃねえけど、出来たら早目に送ってやってくれ」
「たまには人の話も聞きなさいよ」
どうあってもその荷物を自分では送らまいと、青年は決めているらしかった。追い縋ってくる言葉の全てをシャットアウトするように「じゃあな」と言い捨てると、未練など何もないかのように、閉じられていた玄関の扉を開ける。
「あっ…?ねえ、ちょっと待って」
どうあっても聞く耳を持たない様子の青年に、諦めたかのように伝票を確かめていたカカシさんだったが、青年が出て行く間際、急に何かに気が付いたかのように彼を呼び止めた。端正な顔をほんの少しだけ訝しませながら振り返った青年に、「これ、中身はなんなの?」と腰に手をあて僅かに尖らせた声で訊く。
「品名。伝票に書かないと」
「ああ、服だ。ダウンジャケット」
「服?」
「……前、あいつにちょっと借りた事があったんだ」
そのまま返しそびれてたんだけど、多分そろそろ、使うだろうから。
それ以上はもう話したくないのだろうか、そうやって最低限の事だけ告げると、青年はもう振り返る事もなく、颯爽とした足取りで雨で少し湿るアパートの廊下へと出て行った。生温い湿気が、トタンで造られた雨樋を打つ音と共に流れ込んでくる。
「ヤレヤレ。ほんと、頑固なんだから」
いつもと変わらないぼさぼさの頭を掻きながらそう言ったカカシさんは、「すいませんね、変な所をお見せしちゃって」とハの字になった眉をしかめてみせた。それでもきちんと頼みは聞き入れるのだろう、振り返ったその手には預かった伝票と送料がしっかりと握られている。
「なんていうか……迫力、ある子ですね」
ズバズバとした物言いと擦り寄ってくるのを許さないような雰囲気に、圧倒されたままポツリと感想を漏らすと、伝票をデスクの引き出しの中に仕舞ったカカシさんは「なに、ただのワガママな子供ですよ」と苦笑した。厳しい評価を下した割にはどこか労わるような、甘やかすような、そんな微妙なニュアンスの混じる声音だ。
「ホントにねえ、やることが極端なんだから。あそこまで完全に縁を切ることもないのに」
「彼も、ここに住んで?」
「ええ、この階の端の部屋に。あの子がここの大家なんですよ」
随分と若々しい大家に少々驚いていると、「あいつら…ナルトと今の子、サスケっていうんですけどね。ナルトがここ出ていくまで本当にいいコンビだったんですけど、なんなんでしょうねえ、今は、あんな感じで」と卓袱台の前の座布団をオレに勧めながらカカシさんは溜息混じりに説明した。氷の浮いた湯呑と一緒に「あ、これ隣のおばあちゃんご推奨の栗羊羹なんですけど。よかったら」と小皿を置いてから、正座するオレの前に座ったカカシさんは、悠々とあぐらをかく。
羊羹の皿は、オレの方には二切れ、カカシさんの方には一切れしか乗っていなかった。…カカシさんは本当は、あまり甘いものが得意ではないのかもしれない。
「うずまき君はどうしてここに?彼は確か、卒業後は大学の学生寮に入ったんじゃ」
おぼろげな記憶を頼りに尋ねると、カカシさんは「ええ、でもあいつ途中で大学辞めてしまって。寮も出なきゃって言ってる時たまたまここに空きが出たんで、オレが声掛けたんですよ」とにこやかに答えた。卒業後もそんなに付き合いがあったんですか、とちょっと驚くオレに向かい、目を細めたカカシさんは「ええ…ほら、あいつってなーんか放っておけないというか。妙に世話焼きたくなっちゃうとこあるでしょ?」と笑いお茶を啜る。
「なんとなくね、オレの知り合いにもどことなく似てて。それもあってつい、ね」
そう言いながらチラリと写真立ての方に向けられた視線に、オレは聞かずともうっすらとした答えを見た気がした。多分、あの写真の中にいるもうひとりの少年の事を言っているのだろう。
「でもナルトの奴、今年の夏前に北海道のプロチームに入団が決まりましてね。それでここを出て、今は北海道の方に住んでるんですよ」
「へえ、北海道ですか」
そりゃまた遠いなあ、などとありきたりな感想で相槌を打っていると、「お菓子、お嫌いでなければどうぞ召し上がってくださいね」と促しながら、カカシさんはまた湯呑に口を付けた。
「あっ……じゃあすいません、いただきます」と竹楊枝を手にするオレに、「はい、どーぞ」と目尻を緩ませる。
「ほら、サスケはあんな子だし、対するナルトはまるっきり正反対のタイプでしょ?毎度毎度懲りずにしょーもないケンカばっかしちゃあいつの間にか仲直りするの繰り返しで、まあホントいつまで経ってもガキ臭くて」
「はぁ、」
「……それがなんとも、オレには嬉しかったというか、微笑ましくてね」
だからついつい肩入れしちゃってしつこく仲を取り持とうとしちゃうんですけど、やっぱりダメですね、当人達の意思がなきゃ。そう言って、カカシさんはちょっと脱力したような微笑みを浮かべた。相手の事を思うからこそ自分の方が消えようっていうサスケの考えも、まあ、俺にはわかりすぎる程よくわかるんですが。
「カカシさんも、同じような事した経験が?」
いつになく弱っているような空気に、引き込まれてしまったのだろう。甘い菓子を飲み下したオレは頭で考える前に、ついそんな質問を口にしてしまっていた。しかし言ってしまった途端、怒涛のような後悔に襲われる。興味本位にこんな事聞いてどうするんだ。オレなんかが聞いたところで、何が出来るわけでもなし。
いっそいつもの調子で適当にはぐらかしてもらえたらありがたいのになどと密かに願ったが、返ってきた答えは「うん、…まあ、そんな感じですかね」という妙にしっかりとした返事だった。「でも俺はサスケほど極端なやり方はしてないですよ?」と言って笑う顔には先程までのような弱々しさはなく、単純な苦笑いが浮かぶのみだ。
「――後悔、されてるんですか?」
思わず尋ねてからハッとして「あっ…いや、別に無理にお答えいただかなくても、全然いいんですがっ!」とあわあわと言い訳すると、ポカンとしていた様子だったカカシさんはそんなオレを見ると、ふっとその表情を溶かした。
「いえ、後悔はしてないです」というきっぱりとした声が、そのやわらかい笑顔に見蕩れていたオレの鼓膜に届けられる。
「どうしたってね。欲しいもの全部を抱えたまま大人になるのは、無理だと思うんですよね、実際」
「…はあ」
「だけど守りたいものは、ハッキリしてたので。……それを選んだ事で代わりに結構沢山のものを落っことしちゃったようにも思いますけど、最終的に大事なものはちゃんと腕の中に残せましたし。まあ、それならいいかってね」
でもあいつらだったらもしかして、俺とは違う結末をつくりあげられるんじゃないかって。…なんか、期待しちゃったんですよね、俺。
苦笑混じりにそう言うカカシさんは、僅かにその肩を落としたようだった。こんなに残念に思うって事は、やっぱり俺、後悔は無くても未練はあるのかもしれないですね。そんな事をぼやきつつ、湯呑の中でゆっくり溶けていく氷を見つめている。
この人の守りたかったものって、一体なんだったんだろう。
その正体はわからないままだったけれど、煙に包まれていたこの人の本質が、今ほんの少しだけオレにも見えたような気がした。飄々としているように見えるけれど本当はとても傷つきやすいし、揺らぎやすい人なのではないだろうか。だけどそんな自分をいつも叱咤しつつ、懸命に生きているのではないだろうか。
「……まあ俺の話はいいとして。そういうイルカ先生は?親しくされてる方とか、いらっしゃらないんですか?」
さっきまでのやや真面目な口調からガラリと普段ののんびりした調子に戻しながら、話題を変えたカカシさんはニコリとしてこちらを見た。いきなり水を向けられて、途切れた会話の合間に甘い菓子を咀嚼していたオレは、つい喉を詰まらせる。
「は?親しくって、友人、の事ですか?」
「いや、友人でも恋人でも。イルカ先生って確か、オレの4コ下でしたよね?」
「そうですけど……よくご存知ですね」
恋人とかいないんですか?というのんきな問いかけに「いたらこんな土曜の真昼間にひとりでいないですよ」と口を尖らすと、それを見たカカシさんは「あー、そっか、それもそうですねぇ」と物柔らかに言いながらうなじを掻いた。
でもそれって、『つくれない』んじゃなくて、『つくらない』だけでしょ?
そんな風に邪気もなく尋ねてくる声に、すぐさま返事が浮かばなかったオレは、しばし口籠る。
「なんでつくらないんですか?」
「なんでって、普通に…オレなんかを好きになってくれる人がいないからですよ。それだけです」
「ウソウソ、イルカ先生優しいし、面倒見もいいのに」
「そりゃあ仕事柄、そういう風に見えるだけですよ」
「笑顔だってすっごくかわいくて。なーんか、イルカ先生が笑うと周りの空気がほわっとするんですよね。俺いつも、職員室で癒されてますもん」
「はぁ!?な、なに言ってるんですか!?」
「――ホントですよ?」
目を細めつつそんな事を言われると、首元の方から徐々に熱が上がってくるようだった。年甲斐もなく顔が火照ってくるのを気恥ずかしく思いつつも、「…そういうカカシさんは、どうなんですか」と言い返すと、赤くなるオレに面白がるような視線を向けていたカカシさんが「あー、誤魔化しましたね?」とニヤニヤする。
「誤魔化すもなにも。三十路もとうに過ぎた男捕まえて、からかうもんじゃないですよ」
「からかってなんかいないのに」
「……で、どうなんですか?カカシさんは」
「ええー?やっぱり訊くの?」
「訊きますよ」
仕返しのようにしつこく追うと、ちょっと考えた様子のカカシさんはやがて小さく息をつくと、「……まあ、俺はもういいかなあ。なんていうか、色々と厄介じゃないですか?これから『そういうの』を始めるのって」とへらりと笑った。
ほら、俺なんてもう三十路どころか、アラフォーだしねとついでのように言い添えると、器用に手首を捻りながら、手にした湯呑をゆらゆらと動かす。
「知り合って、腹探り合って、気持ちを計り合って。『そういうの』を始めちゃったら、どうしたってそういう事から逃れられないでしょ?あったら楽しいだろうなとは思いますけど、いざ冷静になって考えてみるとなんていうか…やっぱ、億劫だなって。それにやっぱすごく疲れるじゃないですか、この年になると。冗談抜きで、いつ死に水取ってもらう事になるかもわからないですし」
縁起でもないような事を呆れる程気楽な様子で述べつつ、カカシさんは湯呑の中ですっかり小さくなってしまった氷が、くるくると回る様をじっくりと眺めていた。死に水云々はさておき、その言い分には確かに納得できる部分が多い。実際オレ自身、恋人がいたらいいなあと思う半面、年々そういった事に対する億劫さが先に立ってしまい、『そういうの』を避けているふしがあった。『そういうの』はちょっと、めんどくさい。恋人が欲しいという気持ちとその億劫さを秤にかけたら、多分僅差で億劫さが沈むだろう。若い頃は思いもしなかった事だけれど、今のオレにはこれが正直な気持ちだ。
けれどその裏側で、オレはほんの微かな痛みを覚えた。小さな火花が弾けて飛んできたような、妙に熱のある痛み。その正体にはなんとなくすぐに察しがついたけれど、オレは敢えてそれには気がつかなかった事にする。
「なるほど、確かに面倒ですねえ」
「デショ?」
「うん、なんとなくオレにも、わかります」
「――ああでもね、今してるこのイルカ先生とのおしゃべりは、なんだかすごく楽しいです、俺」
そう言って、会話の途中で不意に見つめてきた灰黒の瞳に「えっ?」とたじろぐと、途端に不安になったらしいカカシさんは、「あれ?…楽しく、なかったですか?」とそろりと尋ねてきた。
情けなく下がってしまった眉尻がなんだか申し訳なくて、大急ぎで「いえっ…オレも、同じです」と伝えると、ホッとした様子のカカシさんが「なら、よかった」と笑う。
「こういうことってのは、この位の位置で留まっているのが、一番いいのかもしれないですね」
「は?」
「いえいえ、なんでもないです」
よくわからない事を言いながらも、鼻歌のような意味深な笑いでそれをもみ消したカカシさんは、空になってしまっているオレの湯呑に気が付くとそれを持ってさっと立ち上がり、すぐ背後にあるキッチンへと向かった。その拍子にまた目に入ったのだろう、靴箱の上に置かれたままの荷物をちょっと見詰め、「ああアレ、明日忘れないようにしないと」と自分に確かめるように呟く。
「中身、服とか言ってましたよね」
そのまま話題を引き継ぐと、「うん。なんか、借りたままになってたとか言ってたね」と冷蔵庫からペットボトルのお茶を出しながら、カカシさんが答えた。オレの分のおかわりを作って戻ってきたカカシさんにお礼を言いつつ、「できたら早目にとかとも、言ってましたよね」と話を続ける。
「この暑いのに、ダウンジャケットだって」
「……まだ、9月ですよね」
「まだっていうか、オレなんて今日も半袖シャツ一枚よ?」
「やっぱりちょっと、気が早いように思えますよねえ」
「うーん、でもどうなんだろう。北海道だったらもう使うのかなあ」などとブツブツ言いながら、カカシさんは再び湯呑に手を伸ばした。さっきまで軽やかな音を立てていた氷はいつの間にかすっかり溶けて、湯呑の中に残るグリーンティーは、今はたぷたぷとその表面を揺らすばかりだ。
そのうちになんとなく会話が途切れたのを機に、オレは小皿に残っていた羊羹をぱくりと口にすると、「…ごちそうさまでした、じゃあオレは、そろそろ」と立ち上がった。それを見て「あ、なら俺も表まで一緒に」というカカシさんを手の動きで制しながら、「いえ、雨も降ってますし。ここの玄関先までで」と笑いかける。
「荷物、重たくてすいませんね」
靴を履き終えたオレにズシリと持ち重りのする袋を手渡しながら、申し訳なさそうに眉を下げたカカシさんは「いっそ俺、これ半分持って先生の家まで付いてきましょうか?」などと本末転倒な事を大真面目に言い出した。そんなカカシさんに苦笑しつつその中身をちょっと確かめると、二枚重ねにされたレジ袋の中には瑞々しい胡瓜や大きなオクラ、肉厚そうなピーマンなどがぎっしりと詰まっている。「うっわ、なんかコレすっごくいい野菜じゃないですか!?」とちょっと驚くと、僅かに照れたようなカカシさんが「あーでもうちの野菜、全部無農薬なんで。虫喰いとか多いのは許してくださいね」と頬を掻く。
「それでも、夏野菜はもうぼちぼち終わりですかねー。もう少ししたら今度は新米が届きますよ」
「田んぼもやってるんですか?」
「ええ、沢山じゃないですけどね。畑の方は芋かな…あとは根菜類。土から抜いたばかりの人参とか、ホント甘くて美味しいですよ」
語られた話に「へえ…!」と感心していると、それを受けたカカシさんは「畑仕事とか、ご興味あるんですか?」と首を傾げた。「あっ…いえ、オレ自分の田舎って持ってなくって。両親も街の人間だったし、だからその、田舎暮らしとか自給自足とか、ちょっと憧れてて」と少し気恥ずかしく思いながらも告白すると、そんな俺にカカシさんは一瞬きょとんとした様子だったが、すぐに「ご興味あるようでしたら、いつでもご案内しますよ」とにっこり微笑んだ。
よかったらまた是非いらしてくださいね、と言いながらドアを開けてくれるカカシさんにお礼を言いつつ外に出たオレは、肩に掛けた鞄のベルトをちょっと揺すり上げると、少し雨が吹き込む廊下を進み出した。横に広がる空は、さっきと変わりない灰色だ。雲だけはだいぶ薄くなってきてはいるようだが、細かい雨はまだしばらくは続きそうだった。
来た時と同じ階段をゆっくりと踏みしめていくと、見下ろした視線の先に、管理人室のドアノブに鍵を挿し込んだままぼんやりと外の景色に見入る、アパートの若き大家を見つけた。余程気持ちがどこかに飛んでいるのだろうか。すぐ近くにまで来ているのに、彼はオレの存在に気がついていないようだ。
なんとなく黙って通るのもアレだろうかと思い、「…あのぅ」と声を掛けると、ようやく彼は背後の存在に気が付いたらしい。こちらを向いた途端ギクリと跳ねたその薄い肩に逆に驚かされながらも、「えっと…オレ、そろそろ行きますね。お邪魔しました」と一応告げると、すぐに先程のようなポーカーフェイスに戻った彼は「ああ、」とか「はぁ、」とかなんだか有耶無耶な感じの返事をした。
「――雨。なかなか、止みそうにありませんねえ」
先程まで外を眺めていた姿に倣った訳ではないのだが、まだその場から動かない様子の彼の横でなんとなく自分も広がった雨雲を見ながら呟くと、隣からは「…そうですね」という案外普通の返事が返ってきた。多分、その『普通』な様子に気が緩んだのだろう。僅かに和らいだ空気につい先程まで話題にされていた荷物の事が思い出され、「北海道も、今日は雨かなあ」などという気楽な独り言が、何気なく口をつく。
考えなしに出てしまった言葉に、またもやオレは(…しまった)と慌てて口を噤んだ。流石に今のはまずいだろう。ただでさえ迫力あるのに、本気で怒らせたら、この子は相当おっかないのではないだろうか。
肝を冷やしつつ背中に嫌な汗をかいていたオレだったが、やがて聴こえてきたのは怒りなどまるで含まない、落ち着いた返答だった。「降ってないですよ」と静かに告げる凪いだ声に、上げた目線は、隣にある整った横顔に引き寄せられる。

「え?」
「晴れです、むこうは」

素っ気なくそれだけ言い落とすと、青年はなんの思い残しもないかのようにくるりと踵を返し、今しがたオレが下りてきたばかりの階段をさっさと上っていった。まっすぐに伸びた背中はやがて消え、薄暗いエントランスにはやわらかな温度と甘い湿度だけが、ゆったりと溜まっている。
表に出て、アパートを見上げると、二階の廊下から軽く手を振るカカシさんが見えた。
差した傘を掲げちょっと挨拶を返すと、片手に持った重たいレジ袋が指先にキュッとくい込んだ。

(……それがどうしてこうなってるんだろう……)
被っていた麦わら帽を取りながら、オレはかつての自分と、今ここにいる自分とのギャップにまた首を捻った。こういうのは完全に想定外だったんだけど。まったくもって、未来というのはわからない。
その野菜の一件を機に時折学校の外で会うようになったオレ達の間には、実に丁度いい気楽な関係が出来上がっていった。会う時の口実には『お裾分け』が使われる事がもちろん多かったけれど、そのうちには特別な理由がなくてもなんとなく一緒に食事に行ったり、お酒を飲みに行ったりする事も自然になってきて。
あの日出来た小さな火傷はその後膿んだりするような事もなく、今ではうっすらとその跡を残すばかりとなっていた。あまりにきれいに癒えてしまって、途中からはそれがあった事を忘れてしまった程だ。
だけどそれが変えられたのは、今年の春の事だった。4月の頭、桜が満開の頃。
そう、あの日も確か雨で――…
「ごめんごめん、お待たせ~」
掛けられたちょっと間延びした声に、涼しい風が抜ける母屋の縁側に並んで腰掛けていたオレ達は揃って振り返った。軽い調子で謝りつつ奥の方から出てきたカカシさんの小脇には平たい大きな包みが抱えられ、空いた方の手には個別包装された棒アイスが4本、片手で器用にぶら下げられている。先に客人である若者達にそれを配ってから「はい、イルカ先生もどうぞ」と渡されたアイスに、お礼を言いつつオレはすぐに袋を破る。今日は朝から、また随分と日が暑かった。薄い水色の氷から立ち昇る冷気が嬉しくて、思わず子供のようにためらい無くアイスに齧り付く。そんなオレにニコニコしながら、端っこで黙ったまま受け取ったアイスを検分しているらしい黒髪の青年に気が付いたカカシさんは、「サスケも食べなよ、それあんま甘くないからさ」とさらっと言い足すと、オレの横、列の一番端にゆったりと腰を落ち着けた。
「そういえば先生の父ちゃんは?今日いないの?」
他に人気の感じられない家屋に気が付いたのか、やはり早速開封したアイスに口を付けていたうずまき君が、ちょっと首を傾げた。「うん、今日はちょっと他方での用があってね。あれで中々、忙しい人なのよ」と答えたカカシさんに、ふうんという相槌が返される。
「――で。これが、お前宛ての荷物ね」
じゃーん、コレなーんだ?と冗談めかして言いながら見せられた荷物は、半折にした新聞紙程の平たい長方形の物体だった。厚さはそうでもなく、単行本程度の厚みしかない。無地の紙できっちり包まれたそれに、長身の高校教師を除いた一同は、揃って首を捻った。
「……なんだこれ」
最初にぼそっと呟いたのは、宛先である当の青年だった。
なんだろなー、あ、でっかいまな板とか?とどこまで本気なのかよくわからない答えで続けたのは、その横にいる彼の相方だ。
そんな彼等に口元を緩ませ反応を待っていたカカシさんだったが、どうやらふたり共真面目に答えを言い当てる気がないらしい事を悟ると、(つまんないなあ、もうちょっとノってきてくれてもいいのに)というかのように軽く口を尖らせた。「…絵だよ、絵。キャンバスが入ってんの」と仕方なく自ら答えを告げると、その荷物をふたりの青年の間に置く。
「出がけにたまたまデイダラさんに会ってさ。こっちでお前に会えるかもって話したら、じゃあこれサスケにって」
「はあ?」
「ほら、お前一度だけ、あの人の絵のモデルやったことあったでしょ。その時の絵らしいよ?」
そうやってカカシさんが喋っている間にも、聞いていたサスケ青年の顔色がみるみる悪くなっていくのが見て取れた。そんな彼を余所にどこまでも気楽な様子で笑顔を見せているうずまき君は、「ええっ、サスケがモデル!?」と能天気な驚きに声を上げている。
「すっげえ、見たい見たい!!オレってばぜってー見たい!」
「……いや、見なくていい。というか俺も別に見なくていい。このまま奴に返してくれ」
鼻息荒く盛り上がる金髪の青年に対し、黒髪の方の反応は冷たいものだった。相当、見られたくないのだろうか。整った顔はしかめられ、陰鬱そうな影をその眉根に刻むばかりだ。
「なに言ってんの、折角描いてもらったのに」とたしなめるカカシさんに乗っかるように、「そうだってば、失礼だってそんなの」と自分の相方が肩を持つと、今度は無性に腹が立ってきたのだろう。苛立った様子のサスケ青年は鋭い舌打ちを落とすと、「…うるせェな、そんなのはお前らが気にする事じゃねえだろが!」と語気を荒げた。
「なんだよ、照れるなってば。一瞬だけでいいからさ」
「一瞬だろうがなんだろうが、嫌なもんは嫌だ」
「えー、いいじゃん見せてよ。別に減るもんじゃなし」
「嫌だ。絶対。見たらマジで怒るからな」
「怒るって、もう怒ってんじゃん」
「黙れ。兎に角これは開けない。このまま奴に返す」
「そんな事言うなって。カカシ先生だって、わざわざここまで運んでくれたんだからさー」
絶対拒否の姿勢を崩そうとしないサスケ青年に、ニヤニヤしながらあれこれ説得しようとしていたうずまき君だったけれど、ひとまず作戦を切り替える事にしたのだろう。「…そういやデイダラさんて、オレの後に102号室に入った人だろ?」と一旦退いた彼はボサボサ頭の恩師に尋ねると、カカシさんは「うん、そう。絵のお仕事をされててね。今も木の葉荘に住んでるよ」とにこやかに答えた。
「へえー、どんな人?外国の人なんだろ?」と更に訊いてくる教え子に、「あ、画像あるよ。見る?」とカカシさんはポケットから携帯を出した。多分まだ残ってると思うんだけど、と呟きつつ、液晶画面に指を滑らす。
「…あ、これこれ。チヨさんの引越しパーティーした時のだから、ちょっと前のだけどね」
言いつつ、差し出された液晶画面を覗き込むと、そこにはささやかな集合写真が展開されていた。背景から察するに、多分これは東京にある、あの古いアパートの一室で撮られたものだろう。既に皆アルコールでいい気分になっているのだろうか、しわしわのおばあちゃんを真ん中に、個性の強そうな面々がぎゅうぎゅうと肩を寄せ合っている。その一番端っこには、画面ギリギリにかろうじて入っている、アパートの若き大家の姿もあった。本当は、写真みたいなものは彼は嫌いなのだろう。ちょっと横を向いたその顔には(仕方がないから入りました)という無言のメッセージが、ありありと浮かんでいる。
「ほら、この人。この人がデイダラさんだよ」
そうして指差された人物は、仏頂面で写るサスケ青年のすぐ横で、派手な笑顔を浮かべている人物だった。華やかな金髪を長く伸ばし、開かれたその瞳は明るい青。
……なんだかどこかで、見たような。妙に親近感沸くカラーリングだ。
「へえー……この人かあ」
誰かに言われずとも、すぐに気が付いたのだろう。やはりオレと同じ事を思ったらしい金髪の青年はその画像の人物に対し、ちょっと靄がかったような言い方をした。だがそれも一瞬の事だけで、食べ終えてしまったアイスの棒を咥えた彼は静かになってしまった相方を振り返ると、「…なんか、賑やかそうな人だな!」と取り繕ったような笑顔で感想を告げた。
しかしそんな風に彼に対しても、サスケ青年の反応は依然暗いままだった。わずかに下を見て、ムスリとしたままアイスを齧っている。そんな彼の様子に、何か思うところがあったのだろうか。やけに目を逸らす相方をじいっと見詰めていたうずまき君だったが、やがて「…やっぱその絵、見してくれってば」と包みに手を伸ばすと、ガサガサと乾いた音をたてて包んでいた紙を広げ始めた。
その行動にギョッとしたのだろう、慌てた勢いで齧りかけのアイスをぼとりと地面に落としたサスケ青年だったが、構ってられない様子で体を起こすと紙を開けようとする手をがしっと押さえる。
「ちょっ…!?何してんだてめえ、勝手な事すんな!」
「いいじゃん。ちょっとだけ」
「ちょっとももっともダメだ!」
「じゃあサスケは見なくていいって。オレだけでこっそり見るならいい?」
「ふっざけんなよ、ダメに決まってんだろが…!」
「なんだよなんでそんな見せらんねえの?ただの絵だろ!?」
「――そーだよ、ただの絵だろ。見せてみろって」
突然入ってきた新しい声に驚いて見上げると、いつの間に家に上がっていたのか縁側に腰掛けたオレ達の後ろにはまたひとり、姿のいい男性がゆらりと立って言い争うふたりの青年を上から覗き込んでいた。カカシさんよりは低いけれど、俺よりは高いだろうか。すんなりと伸びた体に、ダークネイビーのリネンシャツがよく似合っている。すっきりと短く刈った黒髪には、思い当たる所があった。…多分、この人が『オビト』だ。カカシさんの親友で、あの写真の少年。「玄関開いてたから、勝手に上がったぞ」という声も、なんだか聞き覚えがある。
「オビッ…!!?」と言葉半ばで息を詰まらせ驚きに固まるふたりの隙を掠め取るように、上からさっとその包みを奪った男性はくるりと背を向けると、断りを入れる事もなくビリビリとその包装を破り捨てた。あっけなく剥き出しにされたその絵を立ったまま眺めると、ちょっと腕を伸ばして「…なんだ、後ろだけじゃん」と拍子抜けしたような声をあげた。
「――オレも!オレにも見せて!!」
「バッカ余計な事すんなクソオビト!それ返せ!!」
意識が戻ったのも同時だったらしい。ハッと気が付いた様子の青年達は我先にと立ち上がり、そのネイビーの背中に即座に飛びついた。割と体格のいい人のようだけれど、流石に成人男性ふたりに乗られては敵わないと判断したのだろう。すかさず叫んだ「カカシ!」の声に、まるで最初からわかっていたかのように素早く手を出したカカシさんは首尾よくその絵を手に入れた。
「へー…いやでも、よく描けてるんじゃないの、これ」
渡された絵をしげしげと眺め、カカシさんは感心したような声を上げた。「あ、イルカ先生もどうぞ」と引き寄せられると、いつの間に形勢が変わったのか、逆に男性から羽交い絞めにされたサスケ青年の無念そうな唸り声が聴こえてくる。ちょっと申し訳なくは思ったけれど、好奇心の方が勝った。「オレもオレも!」と膝立ちで擦り寄ってきたうずまき君と共に、どれどれとその絵を覗き込む。
短髪の男性が言うように、白いキャンバスの中に描かれていたのは、背を向けるひとりの青年だけだった。それも画面に収まっているのは腰から上、上半身のみだ。しかし何故だかやけに、見る者の胸をざわつかせる絵だった。わずかに横に向けられた頭部はその頬のラインを示すのみで、顔のパーツは殆ど描かれていない。だが無造作に跳ねる髪と男性にしては華奢な肩が、顔を見せずともモデルとなった人物の正体を如実に語っていた。間違いなく今ここで羽交い絞めにされたまま悔しげに奥歯を噛んでいる、黒髪の青年だ。
「ほら、よく描けてますよねえ?」
「ええ…このクレヨンみたいなのって、コンテって言うんでしたっけ?」
「質感とかもすごくリアルですよね」
「でもこれじゃ顔が全然わかんねえよ。どうせなら真正面から描いて貰えばよかったのに」
「わかってないねえ、オビト。これ後ろ姿だからすごく雰囲気あるんじゃない」
「ええー?そうか??」
「そうだよ。すごいねデイダラさん、あの人実は本当に天才なのかもしれないなあ」
一枚の絵を取り囲みながらアレコレと勝手な品評をし合っていたオレ達だったが、ふと先程から急に聞こえてこなくなった声に気が付くと、そろりとそちらを窺った。まるで石膏で固められてしまったかのようにじいっと動かなくなってしまった金髪の青年は、無彩色の絵を見詰めたまま、完全に沈黙に沈んでしまっている。
「おーい、ナルト?」と控えめな声で恩師に呼びかけられると、ようやく思考が戻ってきたらしい。ぱたりと一度まばたきをした彼は少し顔を上げて、「…え?」となんだか心ここにあらずといったような声を出した。「なんだよお前ー、久々に会ったのになんか静かじゃん」と短髪の男性に笑われても、ふにゃりと力ない表情をこしらえるのみだ。
「なあ、感想は?感想」
「ハイ?」
「だから、絵の感想。お前もどうせだったら、顔までちゃんと描いて貰った方がよかったと思わねえ?」
「えっ?……あ、いや……ていうか、」

――なんでこれ、服着てねえの?

白いキャンバスに描かれた剥き出しの背中を見詰めていた青年から、ぽつりと最後に投げられた質問は、のどかだった5月の縁側には、おそろしく場違いなもののように聴こえた。
遠くでまた鳴いたヒバリの高い囀りが、空に染み込むようにして消えていった。

――そうだ、あの日の事を考えていたんだった。
あの日。中途半端だけれど都合のいい、オレ達の関係が変えられた日。
始まりは、一本の電話からだ。
その時も確か雨が降る土曜日の午後で、例によってお裾分けの連絡をもらったオレは、またカカシさんの部屋にいた。
「……あれ?カカシさん、携帯鳴ってません?」
先に気がついたのは、オレの方だった。デスクの上に放置されたままチカチカ光っている携帯を、立ち上がったカカシさんが取り上げる。液晶画面に出された名前を確かめるとカカシさんは急ぐわけでもなく携帯を取り上げ、のんびりとした口調で「はいはい、俺だよ」というなんとも言えない出方をした。

『カカシィ!!』

出し抜けに張られた大きな声は、卓袱台前に座るオレにまで十二分に伝わってくるものだった。
「……オビト、お前もうちょい声抑えなよ」というちょっとうんざりしたようなカカシさんに、電話の相手はお構いなしに『なあお前、サスケ知らねェ!?』とがなる。
「は?なに言ってんの、サスケはもうとっくにここ引き払ってるよ。そっちの病院にいるんでしょ?」
呆れたような溜息をついたカカシさんは、デスク前にある回転椅子を引き出すとギシギシ鳴くそれにゆったりと腰掛けた。オレと目があった瞬間、(ほんと、すいませんね)といった感じに僅かにその目が眇められる。
『いねえんだよそれが!今日ウチ休診日だからサスケの仕事っぷりみてやろうと思ってフガクんとこ冷やかしに行ったら、アイツ何科にも籍置いてねえの!』
「そんなワケないでしょ、イタチみたいにうちは病院に入るって言ってたよ?」
『でもマジでどこにもいねえんだって!フガクもミコトさんも、なんかしらばっくれてるし!』
「えー…?だけど先月末に、あいつ確かにここ出てったよ?」
『どこに?』
「だから俺だってそっちにいると思ってたんだって」
『なんだよじゃあこっちにもそっちにもいないってことは、アイツ一体どこに――』
ぽんぽんと投げつけ合うような疑問符だらけの会話の途中で、何気なく窓の方に顔を向けたカカシさんはふとそこにある植木鉢に目を留めた。カカシさんの部屋で毎日気持ちよさげに日を浴びているソレが、数年前ここを出て行ったかつての教え子の置き土産である事を、今ではオレも知っている。
濃い緑の葉っぱは先までピンと伸び、その根元には変わらず汚い文字で「ウッキー君」と書かれた札が刺さっていた。これの元の持ち主は、現在はここから遠く離れた、北の大地に住んでいる。

「『――あっ…!!?』」

答えに気が付いたのは、二人共ほぼ同時だったようだった。通話口をあてた口許はあんぐりと開き、驚いた様子のその目もぱかっと大きく開かれている。多分、向こう側でも同じような顔が同じように言葉を失っていたのだろう。長々とした沈黙が、繋がれた回線の間を伝っていく。
『……クッソ、あんにゃろ、やりやがったな……!!』
地の底から這い出てきたかのような低い唸り声が、持たれた携帯から漂ってくるのが聴こえた。
「そーね、今回ばかりは、俺等完全にあいつにしてやられたみたいね」と苦むカカシさんは、ちょっと首を斜めにして肩をすくめるばかりだ。
チクショー裏切り者め、覚えてろよ!!などと喚きながら勝手に切れた携帯をデスクに戻すと、そのままカカシさんは動きを止め、じいっと何か考え始めた。余りにも静止してしまった彼に若干不安になってきたオレが、「あの…ど、どうしました?カカシさん?」と尋ねても、やはり黙りこくったままだ。
だがやがてポツリと、「成程ねえ…やっぱり子供の発想力ってのはホント、スバラシイね」と呟いたかと思うと、ふふふ、と可笑しげにその肩を震わせだした。小さかった笑いは徐々に大きくなっていき、やがて最後には「あっはっは!」とお腹を抱え体をふたつに折るような盛大なものになっていく。突然のバカ笑いに、オレは唖然とするばかりだ。
「――まぁ、あの子に出来て俺に出来ないなんて事、あるわけないか」
しみじみそんな事を呟くと、ひとしきり笑ったカカシさんは滲んだ涙を拭きながら、突然くるりと回れ右をした。そうしてから呆気に取られたままのオレに向かい、「ねぇ、イルカ先生。またつかぬことを、うかがうんですが」と笑いかけてきた。
「来月のね、五月の連休なんですけど。何かもう、ご予定がありますか?」
「……は?」
なんだか聞き覚えのある前置きに、どこか気の抜けた声が出た。立ったままだったカカシさんは「よいしょ」とまた言いながらオレの前にしゃがみこむ。そうしてまだ要領を得ないままポカンとするオレの顔を、じいっと灰黒の瞳で覗き込んだ。おだやかな口元は楽しげな弧を描き、その頬にやわらかな笑みを刻んでいる。
「連休?ゴールデンウィークのことですか?」
「ええ、もしよかったら、俺と一緒にうちの田舎に来てみませんか?」
「カカシさんの田舎に?」
「以前、なんだか農作業にご興味あるようでしたので。丁度、連休中に田植えをする予定なんです」
先生も一緒にやってみませんか?という唐突な誘いに断る理由もなく、「はあ、じゃあ、ぜひ」と訝しみつつも頷くと、それを見たカカシさんは「多分なんですけどね、イルカ先生は結構、畑仕事とかにハマるタイプのような気がするんですよ」とニッコリとほほえんだ。なんだかよくわからない予言に「…そうですか?」と頭を傾ける。それに対して「うん、なんとなくですけどね」と答えるカカシさんは、妙な自信に溢れているようだった。背後に見えるウッキー君までもが、なんだか胸を張っているように見える。

「多分ね、面倒も多いし、すごく疲れるのは間違いないんですけど」
「はあ」
「でも絶対、楽しくもあると思うんですよね」
「それはまぁ、そうでしょうねえ」
「なんだかんだ言っても、俺もやっぱ好きだし。なんていうか、癒されるんですよね、ほんとに」
「へぇ、そうなんですか」
「ええ。だからね、もしうちの田舎が気に入って、土いじりの仕事も好きなようでしたら、」
「……?」
「ついでに俺の事も、好きになってみませんか?」
「…………はい??」

間抜けな聞き返しに、カカシさんはふわりと、極上の笑顔で答えてみせた。
――こうしてオレは、なんだかうまく丸め込まれたかのような心持ちではあったけれど、とりあえずはカカシさんの生まれ育った家へと行く事になったのだった。


「大丈夫ですかねえ、あの二人……」
土煙を起こしながら走り去っていく二台の車に、不安を隠せないオレはぽつりと漏らした。
まあ、大丈夫でしょ。隣でそんな安請け合いをするカカシさんは、手のひらで作った日除けの下でちょっと色素の薄い目を細める。
「カカシさん」
「はい?」
「……アナタあの絵の内容、本当は最初から知ってましたね?」
そう言ってちょっと睨むと、とぼけたようなタレ目が、白々しく泳いだ。その様子に、やっぱりと思う。あの黒髪の青年に見事に出し抜かれたのを、この人(と、多分あのオビトという人も)はずっと悔しく思っていたのだろう。きっといつ仕返しをしてやろうかと、機会を狙っていたに違いない。
「意地悪だなあ…!いい年して、おとなげないですよ」
「えー、そんな風に言わないでくださいよ」
「かわいそうに、ふたりともお通夜みたいな顔しちゃって。今頃車の中、きっとものすごく痛々しい事になってますよ」
「そうかなあ、いやでも、大丈夫ですって」
ケンカと仲直りは、あいつら得意ですから。と笑み混じりに言ったカカシさんは車の影が完全に消えたのを確かめると、「さあ、お仕事お仕事。お昼までに一段落付けておかないと」と途中のままになっていた田んぼの方へと向かった。足場の悪いあぜ道を、長い足がひょいひょいと進んでいく。
「こんなに暑いんじゃ、夕方には夕立でもきちゃいそうですねぇ」と空を見上げた言葉に、「ああ、じゃあその前に畑の方にもいってやらないと。サヤエンドウの支柱が倒れかけてるんです」と急いでオレは言った。「あとですね、ブロッコリーがいい感じに育ってきてるみたいなんですが。あれちょっと、一回採ってみてもいいですか?晩に食べたいなって」と追って言うと、そんなオレにちょっと振り返ったカカシさんが、可笑しげに目を細める。
「その言い方」
「はい?」
「……ハマってきてますね?やっぱり」
ニヤリと口の端を上げるしたり顔に、体裁の悪さを押さえつけながら「…ちっ、違いますよ!」とはね返すと、歌うように「そうですかねえ~?」と言ったカカシさんは嬉しげに空を仰いだ。視線の先、抜ける青の高い高いところを、鳥がゆっくりと回っている。
熱くなった頬を手の甲で冷ましながら、オレは前を行く背中を見た。東京にいる時同様ボサボサのままのカカシさんの髪が、明るい日の下で気持ちよさげにそよいでいる。
水鏡みたいな田んぼの上を、みどり色した風が渡っていく。
――足踏みで止まっていたオレがこの人にハマってしまうのも、多分時間の問題だ。