Golden!!!!! 前編

やっぱ黒だろ、と彼は言った。
荷物もたいして多いわけじゃないから、ツードアとかでもいいんじゃねえの。スポーツカータイプの、スピード出るやつ。なんつーか、流線型で無駄の無いデザインのがいい。
「ええーっ、流線型?オレってばもっとガツンとしたゴツイ系がいいなあ。色もぱきっと目立つ色にしてさ。あ、これとか!オレこういうの好き」
そう言って広げたカタログの中からマンダリンオレンジのSUVを指差すと、覗き込んだ美形が派手に歪んだ。馬鹿言うな、こんなけばけばしい車乗ってて落ち着かねえよなどと無神経に吐き捨てられた科白に、目の前にいるレンタカーショップの男性店員の頬が引き攣る。
「派手な方がいいじゃん、黒なんてつまんないってばよ」
「何言ってる黒が一番格好良いじゃねえか。後は百歩譲って白か。まあシルバー辺りも許してやる」
「えー…サスケってばなんか趣味がおっさんくさい」
「…あァ!?」
「あと黒だと汚れがさー。スゲー目立つんだよな」
「3日しか使わねえんだから別にいいだろ」
「運転すんのオレだし」
「レンタカー代出すのは俺だ」
「うっ、それを言われるとなァ」
「決まりだな」
「やっ、ちょっ……じゃ、じゃあジャンケンで!」
「いいだろう」
歩み寄りの見えない言い合いの果てで、勢い込んで出したオレの『グー』は、気負うことなく出されたサスケの『パー』にあっさり負けた。くそう、なんでコイツにオレはいつも勝てないんだ…!?昔同様どうしても負かされる自分の手をじっと睨み、悔しさに歯噛みする。
「馬鹿め、てめえみたいなウスラトンカチがこの俺に勝とうなんざ、百年早い」
ニヤリと口の端を上げて、サスケが言う。ちょっと意地の悪そうな笑いも、眇めた目も。腹立たしい程にキレイな顔も、ジャンケンに異様に強いところまでもが昔のままだ。あまりに変わっていない立ち位置に、なんだかうっすら悔しくなる。
(いや…でも、いいんだ。オレが求めてたのは、まさしくこの『サスケ』なんだから)
一瞬過ぎった昔の記憶に、綺麗に整った横顔が「じゃあ、この黒のクーペで」ときっぱり店員に伝えるのをぼおっと眺めた。再会してから一ヶ月。夢よりも夢のような現実に、オレはまだ正直、この幸福の半分程はオレが作り出した幻なのではないかと疑っている。

  * * *

――名を呼ぶ声に、薄目をひらいた。
肩に触れてくる白い指。ほのかに青みがかった細い血管が透ける、華奢な手首。
視界の端を、黒髪が掠める。ああ、そこにいたんだとホッとした気分で腕を伸ばし、オレはその小さな頭をしっかりと抱き寄せた。多分、これは夢だ。これまでにも幾度となく見ている、都合のいい夢。流石のオレでもそのくらいの事はわかってた。本当はこんな夢見てるなんて事を彼が知ったら物凄く嫌な顔するだろうけど、でももう見ちゃってるしどうせ実害なんて無いただの夢なんだから、せっかくならもう少しだけここに浸りたい。
(サスケ……サスケ、)
微睡んだ頭の中で切なく呼んで、温もりを確かめる。生まれたての貝殻みたいな耳が見たくて、そっとその髪を指で掬い口付けた。甘やかな含み笑いと共に、ぬるい吐息が漏らされる。
裸のままの胸元にかかる息が、蜜のように広がった。
「…ふ…、くすぐったいよ」
甘く咎めるような響きにハッと気が付いて、抱き寄せた温もりを覗き込んだ。赤い唇、大きなアーモンドアイ。広がった黒髪も記憶の中と同じつややかさだけれど、こちらにはあの野放図さはなく、丁寧な手入れによって静かにオレの腕に流れている。
「あ…?!」
「ん?なあに?」
「……いや、その、」
ゴ、ゴメン、と呟いて身を離すと、それをどう捉えたのか彼女は小さく笑った。「いいよ、まだチェックアウトまでには時間あるし。する?」と茶目っ気を含んで送られてきた上目使いに、ちょっと考えてからまた「…ゴメン」と言う。謝ったのは気持ちが萎えたからでも、体が急に冷めたからでもない。呼びかけられた声に対して、腕の中にいる彼女の名前が思い出せなかったからだ。
(ど、どういうことだってばよ…なんでオレ、こんなトコに?)
上を見たらなぜか天井が鏡張りになっていて、思わずギョッとして折り曲げた足が、横にいる彼女のやわらかな素肌に触れた。慌てて見渡した視界には投げ捨てられたと思わしき二人分の衣類、ある特定の場所でしかお目にかかれない大仰なベッド。どこか不自然な壁紙にぶら下がる分厚いカーテンの隙間からは、目に眩しい光が差し込んできている。
……なんてこった。どう考えてもここは、『そういうコト』のための部屋じゃねえか。
(ええと確か昨日は練習が休みで、会社終わってからすぐ帰宅して家でのんびりしていて…)
ああそうだ、夜になってから長門さんからSOSの電話をもらったんだ。
ようやく思い出して、オレはゆっくりと体を起こした。いつものように歓楽街に繰り出したエロ仙人が、行きつけの店で酔い潰れて。いつもだったらまず長門さんが迎えに行くところなんだけど、昨日はどうしても外せない用があるとかで、オレの方にお役目が回ってきたんだった。連絡を受けたオレが仕方なく迎えに行ったんだけど、着いた時には何故かエロ仙人は復活していて派手などんちゃん騒ぎが繰り広げられていて。なんとなくそれに巻き込まれてしまい、あれよという間にガンガン飲まされて、ふと気が付けば肝心のエロ仙人の方が先にタクシーで帰ってしまっていたのだった。
体中に染み付く、強い酒の匂いが離れない。
詳細は覚えていないけれど、オレにしては珍しくこんなにも悪酔いしてしまった理由だけはしっかりと覚えていた。床に脱ぎ捨てられた服とは別に、きちんと椅子に掛けられたオレンジのジャケット。
――昨日、都内に住む恩師の元から、これが届けられたからだ。

『――あ、ナルト?今ちょっと話してても大丈夫?』
北海道で迎える初めての夏が終わり、気が付けばもう季節は秋に差し掛かっているところだった。
話には聞いていたけれど、こちらの夏は本当に短かった。生まれも育ちも都内だったオレは早々と涼しくなっていく朝夕に少々驚きながらも、澄んだ空気と温かな環境にすっかり身を馴染ませてきていた。練習の傍ら普通の勤め人らしく仕事に行くことには、すぐに慣れた。元々がバイトと練習を並行してやっていたのだから、考えてみればそれは当たり前なのかもしれない。本業であるホッケーの方も存分にさせてもらえていたし、本当にすっかり道が開けてきたみたいで、急に順風満帆になった生活がなんだか怖いくらいだった。
そんな中、掛かってきたのがその電話だった。相手はかつて世話になった、高校時代の恩師。
「…わぁ、カカシ先生!?」
もちろんだってばよ!とちょっと久しぶりな恩師からの連絡に、オレは声を弾ませた。相変わらずお前は声に張りがあっていいねえ。いつもながらあまりやる気のなさそうな恩師は、ちょっと呆れ混じりにそんな感心を口にする。
『どう、そっちはもう結構涼しくなってきてる?』などとのんびりとした口調で尋ねてくる恩師に「うん、結構朝晩は冷えてきてるってば。オレ結構暑がりな方だけど、もうそろそろ羽織るものがいるかなあって」などと答えると、電話の向こうでゆるく笑う気配がした。
『そっかあ、それでアイツも返さなきゃと思ったのかな』
「何が?」
『あのね、昨日サスケからお前宛の荷物を預かって。中身は服だとか言ってたけど。なんか借りたままになってたものだから、返しておいてくれって』
「……サスケから?」
忘れようもない名前に、胸が大きく高鳴った。実際声に出してこの名を言ったのは、数ヶ月ぶりだ。なんとなく音にすると気持ちに歯止めが利かないような気がして、これまでずっと意識してその名を出さないようにしていたのだ。未練は、もちろんある。嫌になるほどある。けど、ちょっとずつでもこの気持ちを薄めていかなければならないのは、自分でも承知していた。できるかどうかというのは別として、ある種の踏ん切りだけは付けるべきだろう。
『あいつさ、自分で送ればって言ったらそっちの住所知らないからって。なんかうちの退去届、連絡取れる電話番号書くだけで、転居先の住所は書くとこ無いんだってね?じゃあ教えてあげるよって言ったんだけど、なんか頑なになっちゃってさ。送料と一緒に、玄関先に置いてっちゃって』
なんだろうねえ、ホントに。強引なんだから。
ため息混じりにそんな事を言うカカシ先生の声が、なんだかとても遠くに感じた。…そっか、アイツオレの連絡先とかも、もう知らない方がいいと思ってるんだ。あの花火の夜が本当に、最後だったんだ。わかってはいたのだけれど改めて現実を確認すると、心臓のあたりがぎゅうっと痛む。
『まあそんなんだからさ、オレの方から今日送っておいたから。明日明後日には着くと思うんだけど』
夜間指定にしといたし、受け取りよろしくねー、と気楽に残して、恩師との通話は途絶えた。
そうしてその荷物が届いたのが、昨日の晩。
丁寧に梱包された包を開けると、中から出てきたのは荷札に書いてある通り、一枚の上着だった。
いつかの試合で彼に貸した、オレンジのライトダウン。
(そっか…これ、そういえば貸したままになってたか)
ため息をつきながらきちんと畳まれたそれを手に取ると、柔らかく手に落ちてくるその生地に、彼の熱がまだ残っているような気がした。温度の低いアイスアリーナで見た、無防備な笑顔。
あん時のアイツ、ほんっとかわいかったんだよなあ…。
思い出してしまえば、無理矢理鎮火させようとしていた思いが再びブスブスと燻り出して、それをまた消すのは容易ではなかった。忘れなきゃならないし、先に進むべきなのはわかってる。こんなの不毛だし、きっとサスケだって、一方的とはいえオレがこんな風にいつまでもグズついた思いを抱いているのを知れば、決していい顔はしないだろう。
(でもさ……あの時。あの、最後の夜)
白い頬を伝っていた、透明な雫。花火の煙がしみただけだと言っていたあれを、オレは空港に向かうタクシーの中で、何度も何度も思い出した。最後にねだったキスを、離れ際、小さく震えていた長い睫毛を。
唇を触れ合わせるだけのものだったけれど、あの口付けからは、彼からの拒否は感じられなかった。
それに、あの目。濡れたような光をのせたあの瞳が最後の瞬間、「ごめん」と言ったオレの言葉に大きく揺れたのを見た気がする。本当に、あの雫はただの煙によるものだったのだろうか。……もしかしたらあれは違う理由で、こぼれ落ちたものだったのではないだろうか?
(けどまあこれを直接返してこないって事は、やっぱりそんなのも全部、オレの勝手な思い込みだったって事なんだろうな)
やめたやめた、自分勝手な記憶にしがみつくのは、もうやめるってばよ。
ため息を深くひとつ吐いて、オレは手にした上着を検めた。何事にもきっちり落とし前をつけたがる彼らしく、そのオレンジは一度ちゃんとしたプロのクリーニング店に出されたらしい。洗った事を示すためだろう、襟裏のラベルのところに付けられたグリーンのタグは、敢えてそのままになっていた。ホッチキスで留められたそれを外し、ちょっと羽織ってみる。すこし肌寒くなってきたこの頃、この位の上着が、丁度入用だと思っていたところだ。
明日の朝からもう着て行っていいなと思いつつ、何気なくポケットに手を入れてみると、指先にカサリと乾いた感触があった。指先で挟むようにして、それを引っぱり出してみる。記憶違いでなければ、名刺程の大きさのその紙片は、管理人室のデスクにいつも置いてあったブロックメモと同じものだ。本当にどこにでも売っているような、ありふれた事務用品。

『 遅くなったが返す  ありがとう 』

ちょっと薄い鉛筆で書かれていたメッセージは、ただそれだけだった。宛名も、自分の名前もない。だけどきちんと形の整った端の処理まで丁寧な筆跡は、間違いなく記憶の中にある彼のもので。
……途端に、狭い管理人室で静かに佇む彼の姿が、まざまざと思い浮かんだ。すりガラスの小窓、そこからいつも覗いてた、うつむき加減の黒い頭。ほんのり湿った匂いのするあの部屋で、回転椅子が軋んだ音をたてていた。書き終えた後、たった一言のメモをちぎる白い指。余計が一切ないメッセージも、いかにもあの彼らしい。

――ああ、これ、アイツの手が書いたんだなあ。

そう思ったらもう、ダメだった。

(……そうだ、だんだん思い出してきたぞ……)
まだ頭に掛かる靄をどうにか振り払いつつ必死で記憶を手繰り寄せると、昨夜の自分のみっともない乱行の数々が徐々に思い出されてきた。呼び出された夜の店、酒気と嬌声の入り混じる中場違いな気分を抱いていたところで、すっかり真っ赤に出来上がったエロ仙人の隣りでしとやかに座る彼女を見つけて。勧められるがまま席に座りいつになく急ピッチで強い酒をあおった上、勢い任せな口説き文句を並び立てていた昨夜の所業がうっすらと蘇ってきた。何が決め手だったのかはよく覚えていないけれど、どうにかこうにか店が引けた後の彼女と一緒に、怪しげな裏路地に足を踏み入れたところまでは覚えていて。
「なんか、喉渇いちゃったね?」
邪気もなく言う澄んだ声に、顔を向けた。短い黒髪を耳に掛けながらオレと同じようにゆっくりと体を起こした彼女が、この状況にまだどこか放心としているオレを見上げ苦笑する。
(……この子、やっぱり)
似てるな、と送られてくる視線に改めて思った。
抜けるような白い肌も、気の強そうな切れ長の瞳も。つやめいた黒髪も、どことなく彼を彷彿とさせる。最初のうちは、確かに彼女自身を口説いていたつもりだったんだけど、どうも後半にいくにつれて、彼女とあの彼との境目がどんどん曖昧になってしまっていたような。なんだかすごく必死になって何か頼んでいたような気もするんだけれど、どうにも途中からの記憶が途切れてる。
――オレってば昨日、やっぱこの子抱いたんだろうか?
乱れたベッドと微笑む彼女を、しげしげと見比べた。パンツは…はいてる。でも彼女は裸だ。枕元の避妊具は使われた形跡がないけれど、箱から引き出されたティッシュだけがいくつか丸めて転がっている。鳥のように細い首筋には一点だけ、赤い痕跡が残されているのが見えた。うう…状況証拠から鑑みれば、やっぱこれは『黒』だろうか。でも見事に全然覚えてねェんだよな、アルコールには強い方だしこれまで飲んでも飲まれるような事なんて一度も無かったのに、昨日に限ってなんでこんなに記憶が無いんだ…!?
「――どっちかなあって、思ってるんでしょ?」
唐突に言い当てられて、オレは「えっ?」と呻いて言葉に詰まった。
覚えてないんだよね?と笑いながら、彼女が胸元に上掛けを引き寄せる。
その唇からはもうすっかり口紅が落ちてしまっていたが、元来そこは瑞々しい赤で染まっているらしかった。そんなところからもまた彼が思い出されて、後ろめたさについ目を逸らす。

「したか、しないか」
「……」
「――どっちの方がいいなって、思ってる?」

黒々とした瞳に覗き込まれると、散り散りになっていた思考がまっしろに焼かれていくようだった。
どっち…どっちの、方が?質問の意図するものが読めなくて、言葉が全然浮かんでこない。
どっちの方が良いんだろう、いや男としたらこんなキレイな子とできてたら間違いなく幸せだと思うんだけど。でもそれってこの子をアイツの代用品にしたって事だよな、だいたいが昨夜彼女に目が留まったのもアイツに似てたからってのが理由なんだし。…そういうのってやっぱ、物凄く彼女に対して失礼なわけで。いやまて、でも彼女が好みのタイプだってのも嘘ではないんだよな。キッカケとしては、別におかしくはないのか?てかそもそも、好みのタイプのベースにアイツをもってきてるところに問題があるような…ん?じゃあ『好み』って一体なんなんだよ、それじゃあ結局オレってばアイツ以外はどうしたってダメって事になるのか?
「――ふ、」
……黙りこくったままぐるぐると尽きない煩悶に巻かれていたオレだったが、ふと聴こえてきた囁かな息遣いに、はっとして隣りを見た。続けて漏らされる、可笑しげな忍び笑い。むき出しのままの華奢な肩が、堪えきれないといったように震えている。
唐突な彼女の笑いに「…へ?あ、あのっ…!?」と戸惑っていると、布団にうずめられていた顔がゆっくりと持ち上がり、三日月になっていた瞳がうっすらと開かれた。「やだなあ、もう。真剣に悩み過ぎだよ」というからかうような声音に、どきんと胸がひとつ鳴る。
「してないよ」
「へ?」
「してもいいかなあと思ったんだけどね。その前に君、寝ちゃったから」
「…うそっ…寝落ち!?」
こ、こんな美人を前に!?と思わず声に出すと、そんなオレに艶然と笑いかけた彼女は小さな頭をゆるりと肩に載せてきた。黒髪から漂うふわふわした女の子の匂いとやわらかな体温にどぎまぎしていると、目を伏せたままの彼女が「…名前を、ね」と小さく言った。
「な、名前?」
「そう、もう一度名前を呼んでくれって。君、昨日言ってて」
「……」
「すっごい真剣な顔してね」
……でも呼んであげたらすっごく悲しそうな顔になっちゃって、『違う』って言い出して。
ささやくようにそう打ち明けると、彼女は甘やかに喉を鳴らした。髪先が、素肌をくすぐる。ムズ痒さを感じると同時に、さあっと頬に、鮮やかな熱が広がっていくのがわかった。
――ナルト…ナルト。
甘く、やさしく、そう呼んでくれた声を思い出した。ああ、そうだ。なだれ込んだベッドの上、素肌を合わせて、キスをして。いざコトに及ぼうとした時に、オレはそれをねだったのだった。もう一度だけでも、また彼に呼ばれたくて。あの声が聴きたくて。そんな他愛ないけれど切実な望みを、彼によく似た彼女に託したのだった。だけど呼んでくれたその声は、どうしたって聞きたかったものとは違っていて。そうしてみると、丸められていたティッシュにも心当たりがあった。たしかちょっと……メソメソとやったのだ。よりによってオレの未練の犠牲となった、彼女の目の前で。
「……思い出した?」
がっくりと項垂れたオレに察しがついたのだろう、うかがってきた彼女の声には、そんなオレをちょっと面白がるかのような色が含まれていた。「思い…出しました、スミマセン…」と萎れるオレに、整った顔が苦笑する。
「まったく。あれだけ煽ってその気にさせといて、土壇場で『違う』とはね」
「…うう、た、大変失礼をば…!!」
「そのまま君、私の上で寝ちゃったのよ。すっごく重たかったんだから」
「…かさねがさね、申し訳ありません…!!!」
平身低頭、ここはパンツ一丁のままでも土下座するべきだろうと体を動かすと、それを制止するかのように「まあ、いいけどね」という笑みを含んだ声がした。「なんか君、かわいかったし。よしよしってしてあげたら、私の胸にしがみついちゃったりして」という言葉に、処理のしようのない居た堪れなさと恥ずかしさが吹き荒れて、一気にてっぺんまで焼き尽くされる。
「してなくて、ホッとした?」
君なんだかんだいっても真面目そうだもんね、傷つけなくて良かったとか思ってるんでしょ?
おどけたようにそう言ってすくめられた肩が、シルクのようななめらかさで輝いて見えた。魅惑的な胸元の膨らみが、抑えた手によって柔らかく潰されている。ちょっと赤みの滲むまなじりと、細らかな白い首を目で辿ると、昨夜の自分の不甲斐なさに脱力する。うう…この子、本気でかわいい。アイツに似てるとか似てないとかそういうの関係無しで、すげえキレイな子だ。
「……ホッとしてるのは、確かだけど……」
恥ずかしさをおしてどうにか顔を上げながら、ボソボソとオレは言った。
ここまでみっともないとこ見られてんなら、全部もう今更だ。カッコつけてスカした事言ったところで、何の意味もないだろう。
「でもそれと同じくらい、こんなキレイな子と寝れる事なんてきっともう一生ないのに、どうして途中で気がついちまったんだろうってガッカリもしてるってば」
隠すことなく正直な気持ちを伝えると、黒目がちの大きな瞳が、きょとんと丸くかたまった。あー…やっぱこの顔、スゲー好みだ。そんな事を思いながら、ちょっとウズつく下腹を感じる。
「……正直だね」と感心したかのような彼女の呟きに「うん」と返すと、しばらく考えこんでいた彼女はいきなり白い腕を伸ばし、オレの両頬を包み込むとぐっと顔を引き寄せた。想定外の行動にぽかんと口が開くも、そんな心許無いオレの唇を軽く啄んでから黒々とした瞳で覗き込んできた彼女は、いたずらじみた笑いを浮かべて「ね…やっぱ、しよ?」とオレを誘う。
「――へ?今から?」
「うん。なんか私、君としてみたくなっちゃった」
「…でも、オレってば…」
「『私』じゃ、勃たない?」
可憐な唇であけすけな言葉を口にすると、オレの首に細い腕を回した彼女は、鮮やかに微笑んで小首を傾げた。ぶら下がってくる重さが、嘘みたいに軽い。楚々として整った顔はやはりどこか彼に似ていたけれど、やさしい眉尻やふっくらとした唇は、まごうことなき『女の子』のものだ。

「まさか。……ぜんっぜん、勃つってば」

そう答え、迷いを仕舞い込みながら、オレは彼女の体に覆いかぶさっていった。密やかな息が甘く零される。しなやかにうねり、染まっていく白い肢体に、本能的な興奮が確実に高まっていく。
……この子の事、本当に好きになるかもしれないな。ぼんやりとそう思いながらも、頭の片隅には早々と、でもアイツ程にはならないだろうな、という冷静さが居座っていた。今ある熱を吐き出したら、この『好き』はきっとすぐに淡いものになっていくだろう。彼に抱いたようなあんな恋は、多分もう二度とできない。だけどアイツがあのジャケットを返してきたように、オレも少しずつ、この思いから離れていかないと。多少の無理はあっても、忘れていかなきゃならないと思った。それを望んでいるからこそ、アイツもあのジャケットを人伝いで返してきたのだろう。
彼女が蕩けているのを確かめるとオレはおもむろに腕を伸ばし、ベッドサイドにある箱から避妊具をつまみ上げた。ほんの一瞬、椅子に掛けたオレンジが目に入る。そこから目を背けるように目の前で息を乱している赤い唇に視線を落とすと、片手で愛撫を続けながら、歯先で四角い袋の角を噛んで開けた。
パッケージが破れる「チリッ、」という音が、なんだか妙に鼓膜に滲みた。

――おい、と呼ぶ声に、目が覚めた。
朝日に跳ねる、つややかな黒髪。しなやかな筋を浮かせた細い手首が伸びてきて、やわらかな動きでオレを揺さぶる。ああこれ、また夢だ。オレにとってどこまでも都合のいい、お決まりの夢。いい加減もうこのシチュエーションにも慣れっこになってしまったけれど、何度見てもいいものだ。
(ほら……つかまえた)
肩を掴んでくる手を捉え、指を絡めた。さすが夢、すごく簡単だ。都合の良さに感謝しつつ、そのまま引きずり込むようにして、こちらへと引き寄せる。
「ちょっ…馬鹿、やめろって!」と抵抗するのを押さえ込んで胸元に無理矢理閉じ込めてしまえば、なんとも言えない充足感に頬がゆるんだ。なんだか今回の『サスケ』は科白もリアルだなあ。そんな事をのんきに考えつつ腕を回し、鼻先を髪に埋めてうすい耳先を甘く噛む。夢なんだからもうやりたい放題だ。額に、こめかみに、まなじりに。届くところ全部に、キスを落とす。
「ひ…っ」
「うう……サスケ、すき……」
「――おっま、いい加減にしろ!」
朝っぱらからサカってんじゃねえよ!という低い唸りと共に、がっ!と顎下から思い切り手のひらで突き上げられ、ぐうっと呻いたオレはようやくハッキリ目を開けた。眼下から突き刺さしてくる、強烈におっかない視線。赤い顔したサスケがオレの腕に巻き取られたまま、怒りと羞恥で小刻みに震えている。
「あ…あれ?」
「てめえ、ここではそういうコトしてくんなって、来る前に散々言っただろうが…!」
「……サスケ」
だんだんと晴れていく頭で見渡すと、そこはいかがわしさ漂うラブホテルの一室でも、間借りしている北海道の自室でもなく、仲のいい兄弟の為に用意された明るい子供部屋だった。ネイビーのカーテンはすっかりまとめ上げられ、清潔感漂う朝の光が部屋中に溢れている。
(そっか、夢じゃなかったんだっけ……)
抱きしめた体にしっかりとした質量と体温を確かめて、ふかぶかとした息を吐いた。確かに、本物だ。夢でも人違いでもなく、本物のサスケだ。
ひと月前オレの前に何の前触れもなく現れた想い人は、そのまま当然のようにオレの隣に滑り込み、あっという間にまたオレの心をワシ掴みにしていた。細かい説明はいまだに全く無いのだけれど、とりあえず彼がオレといるためにわざわざ北海道くんだりまで来てくれたというのだけは、間違いないらしい。何が夢みたいって、その単純な事実が何よりも夢のようだ。しかもこの連休には、「母さんとの約束だから」と言って実家に誘ってくれたし。久しぶりに会ったミコトさん(相変わらず年齢を感じさせない美しさでオレはまたもや感動した)はまたここに来たオレに物凄く喜んでくれて、昨夜の夕飯にはテーブルの上に収まりきれない程の沢山のご馳走を並べてくれた。仕事から戻ってきたフガクさんもオレの再来を笑顔で歓迎してくれて、昨日は寝るまでなんだか本当に浮き足立ったような気分のまま、あっという間に一日終わってしまった。
「おい」
「ん?」
「手ェはなせ。離れろ」
言われて仕方なくちょっと腕の力を緩めると、憮然顔のサスケはすかさずその機に、逃げるようにするりとそこから抜け出した。乱されたシャツを整えつつ、舌打ちをする彼を見る。
再会した日、白衣を着ていた彼はなんだか凄くビシッとしていてますますそのクールさが際立っていたのだけれど、一旦それを脱いでしまえばやっぱり昔のままのサスケだった。今のようにTシャツにジーンズという学生の頃と同じ格好をしていると、ますますそう思える。
(あー……やっぱ、本物は違うなあ)
さっきまで夢で見ていた昔の記憶に、しみじみと目の前の光景を照らし合わせてみた。やっぱりあの子、かなり似てたなとふわふわ思う。結局あれからも彼女とは何度か寝たけれど、なんとなく付き合うとかにはならなかった。そのうちに彼女が勤めていた店を辞めてしまい、それっきりだ。
一応機会があれば何人かの女の子と付き合ったりもしたけれど、どれも長続きはしなかった。最初はかわいいなと思っていても、そのうちすぐに違和感を覚えだしてしまうのだ。でも考えてみれば当たり前だ。どんな子と付き合ってても、彼と似ているところを見つける度に(いけないな、また代わりにしようとしてる)と思い、全然違えば違ったで(なんか違うんだよな)と思う。災難なのはそんなオレと付き合ってしまった彼女達だ。どっちにしたって比べられている事には違いないだろう。
そうした結論により、途中からはもう誰に告白されても、全部丁重にお断りする事に決めた。決めてしまえば結構気楽なもので、ここ数年は割と楽しく独身生活を謳歌できていたように思う。幸か不幸か、一緒に暮らしているのも同じようなスタンスで生きている人達だったし。……変わる事がなかったのは、彼にまた会いたいなという願いだけだ。それだけはどんな時も、どんな子と付き合っていても、薄れる事がなかった。
「……ったく、お前やたら腕力付けやがって。巫山戯てねえでとっとと起きろ」
また腕を取られるのを警戒しているのだろうか、ぼやっとしたまま未だベッドの中にいるオレを見下ろしたサスケはジーンズのポケットに両手を隠しながら、「おら!」と仕返しのようにオレの腰の辺りを軽く蹴った。「はいはい、起きますよ」と体を起こしたオレに小さく鼻を鳴らす、いつもの彼の癖が聴こえる。
再会してから一ヶ月。本音を言えば毎日ずっと一緒にいて、この数年間我慢してきた彼の何もかもを知り尽くし、見尽くしたい気分だったのだけれど、お互い仕事を持つ身となった今、そんな我が儘は到底できるはずがなかった。何よりも驚くべきは、研修医となった彼の忙しさだ。勤務は昼夜を問わずだし、定休というのもあってないようなものだし、決められた時間に帰れるかといえばそうではないらしい。その上国家試験に受かったといえども勉強しなければならない事は永遠に増えていく一方で、常にやるべき事に追われているようだった。再会した日も、相当な連続勤務をこなしてきた後だったらしい。本当はそのまま朝までずっと一緒にいたかったのだけれど、自分も翌日に仕事があったし、なにより彼の「かれこれ丸二日程寝てないんだ」という発言に、断腸の思いでひとり帰宅したのだった。
そんなワケで、オレ達はまだシていない。それどころか細切れのような時間を寄せ集めては電話やメールをするのが精一杯で、こうしてゆっくり共に休日を過ごすのも、実は今回が初めてだ。
(なのにサスケからは実家にいる間はイチャイチャ禁止だって言われてるし。この連休中はやっぱ、そっち方面での進行は期待できないかな…)
清廉そうな指先をぼんやり見つめながら、ようやくベッドから抜け出したオレはちょっと物憂いため息をついた。そもそもサスケは、オレとそういうコトをする事についてどう思っているんだろう。したいって、思ってくれてるのかな…それともやっぱそれはそれって感じなのかな。別れた頃、おそろしく初心だった彼だけれど、それに関しては今どうなっているのかも未だ確認できずにいた。キスは結構、好き…じゃないかと、思うんだけど。ていうかどうしてあんなにキスが上手くなっていたのかもまだ聞けてない。オレが他の女の子と過ごした時間があったのと同じように、もしかしたらサスケにもこの離れていた期間に、親密な時間を分かち合った人がいたのだろうか。う…やだな。やだなって思う事自体、みっともない事だってのもわかってるんだけど。
「なにいつまでもボケっとしてんだ、早く着替えろって。メシが冷めるぞ」
口の悪い催促に(うーん、なんだかオリジナルのサスケが一番感じ悪いんじゃ…)などと思ったが、最後の『メシが冷めるぞ』という言葉にひくりと耳が反応した。「あっ、なになに、朝ゴハン!?」とすぐさま破顔して顔を上げると、「そう。もうできるから、母さんが食べに来いってさ」と言ったサスケがうすく笑う。
「……ほんとだ、いい匂い!」
「お前昨日、出汁巻きじゃなくて厚焼きの卵リクエストしてただろ。なんか今朝はそっちにしてみたって、さっき母さんが言ってた」
「マジで!?」
喜び勇んでばさばさと起き上がり、借りた寝巻きからラフな普段着に着替えていると、横で待っていたサスケが「メシ食ったら、ちょっと出掛けるか。カカシんとこ行くぞ」と唐突な提案をしてきた。「え?先生も帰ってきてんの?」と訊き返すオレに、「ああ。あいつゴールデンウィークには、ここ数年は毎年必ず帰ンだよ」とサスケが答える。
「へえ、そうなんだ」
「なんかオレに渡したいものがあるから、連休中こっち来たら一度寄ってくれって母さんに言伝があったらしくてよ」
「ふうん、サスケに?」
なんなの?と首を傾げてみたが、サスケの方でも思い当たるものが無いようだった。管理人室に何か忘れ物でもあったのかもな、とたいして気にもなってない様子で呟いていたが、着替えの終わったオレを見るとちょっと迷ってから「―――なぁ、」と言う。
「お前さ…いっつもああなの?」
「ん?なにが?」
「朝っぱらから好きだのなんだのって。あれ……毎回、やってんのかよ」
毎回?と一瞬わからなかった単語に(ああ、誰かと付き合う度にって事?)と気が付くと、少し驚いたオレは思わずまじまじとサスケを見た。正直尋ねるのにかなり葛藤があったのだろう、そらされた視線が居心地悪そうに斜め下に落ちている。
陶器みたいなほっぺたに、だんだんと色がついていく。
あ、たぶん今、訊いたこと物凄い後悔してるな。(クソ、俺とした事が余計な事を…!)って顔に書いてある。くうっ…やっぱコイツすげえかわいい。ほんとこんなの、誰とも比べようがねえよ。

「…………サァスケェェ!!!」

湧き上がる衝動のままに抱きつくと、恥じらいに隙だらけになっていた体は「うわっ」と小さく叫んでベッドに沈んだ。「てめっ…なにしやがる!」と驚きながらも荒ぶる声を無視し、押し倒したその体を覆うように上になると、顔の両脇に腕をついてしっかりと固定する。
「だっ…から、ここではこういうのよせって言ってんだろ!人の話聞けよ!!」
「――名前」
「あァ?」
「名前、呼んでくれってば」
まだ足掻こうとするサスケを抑えたまま、じいっと見詰めた瞳の中には縮小されたオレがいた。…ホントだ、すげえ真剣な顔してら。濡れた黒に映る大真面目な自分に、笑い混じりに指摘されたいつかの言葉が思い出される。
顔を寄せ、あらわされた無垢な額に額を重ねる。強い光を散りばめたその目に見蕩れつつ、自分の目をふわりと閉じた。ああ、サスケだなあ。本物だなあ。くん、と鼻をヒクつかせ、漂ってくる朝食のにおいの中に、彼のにおいを拾い上げる。
「なァ、サス―――」
「……アホか、くだらねえこと言ってねえでとっとと降りろ。メシが冷めるつってんだろが!」
言うが早いか、無防備になっていた鳩尾を長い足が思うざまに蹴り上げた。いきなりの仕打ちに思わず妙な呻きが出る。ぐあっ…な、なんて色気のない…今のってここ一番のハイライトだったのに。熱い口付けのひとつ位あってもよかったとこじゃねえの?そう嘆きつつ脇に退いて腹を押さえるオレに、ちっとひとつ舌打ちが鳴らされる。
「ひっでぇ…これはあんまりだってばよ」
「約束を守ろうとしないお前が悪い」
言い捨てて、さっさと起き上がったサスケはまだ体を曲げているオレを一瞥すると、颯爽と歩み離れて閉じられていた子供部屋のドアノブに手を掛けた。カチャ、という密やかな音と共に扉が開かれ、そのまま出ていこうとする彼を恨めしく睨む。なんだよなんだよ、別にやらしー事ねだったわけでも無理な頼み言ったわけでもないのにさ。ケチ、カタブツ、イシアタマ、サスケなんてもう知らないもんね、ずっとそうやってひとりケッペキでいたらいいってば。思いつくままぷちぷちと文句を連ねていると、それを背中で感じていたらしい彼が、ひたりとその足を止め、振り返る。
「…るせえなァ、男のクセにいつまでもグジグジと…!」
「だってオレってば別になんもムツカシイ事頼んだワケじゃねーじゃん!名前呼んでって言っただけなのに」
「わざわざしなくてもいいだろがそんな事!」
「そんな事とはなんだよ大事なヒトの名前だぞ!?しかも、オレの!」
「……ああもうわかった、呼べばいいんだろ呼べば!」
こちらに向き直ったサスケは自棄っぱちになったかのように息を吸うとハッキリした声で「ナ!」と告げ、堂々として胸を張った。
そのまま二文字目を言おうとしたけれど、無性に恥ずかしくなってきたのだろう。「ル、…」まで言った途端視線を下げてしまった彼は、そのままむうっと口篭ってしまう。そうして待っていると、長い長い逡巡の果て僅かに揺れたトーンで「……ト」という、小さな呟きが聴こえてきた。ぽかんとしたままそのうつむいてしまった姿を見るオレは、なんだか妙な羞恥プレイになってしまったそれに唖然とするばかりだ。
なんと応えたらいいのかよくわからなかったので、とりあえずオレは「…ええと、あ…はい。」と返事した。だけど彼の中にはそれに続けるべき言葉が見つからなかったらしい。黙った肩にはどんどん困った空気が立ち込めていき、そのまま痛々しい沈黙が重なっていく。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……~~~っ、なんっなんだよこれ!恥ずかしい事やらすな!!!」

いいから早く支度して来いよ、ドベ!!
逆キレしたかのように吐き出したサスケはそのまま振り返ることなく、逃げるようにして部屋を出て行った。ドスドスという彼らしからぬ荒い足音が、だんだんと遠くなっていく。呆気にとられたままのオレの脳裏に、出て行く瞬間の彼の表情が早々と蘇った。ほんの一瞬だけ見えた、恥ずかしげな横顔。耳まで真っ赤になったその顔は、眩暈がするほどのかわいさで。
やっべ…オレマジで幸せ過ぎて死ぬかも。ほんと向こう帰るまで、色々我慢できっかな。
(――神様、本当にありがとうございます…!!!!!)
シアワセの鐘がリンゴンと鳴り響いて、オレを祝福するのを確かに聴いたような気がした。
ああ素晴らしき哉黄金週間、父ちゃん母ちゃんオレは今幸せです。
天国にいる両親に報告しながら、いとしい恋人の後を追うべく浮ついた足取りで銀のドアノブを掴んで回す。

――だけどオレがそんな有頂天でいられたのは、その日までの事だった。
オレはわかっているようでいて、わかっていなかったんだ。
どんなに昔通りだと思っていても、すんなり元の鞘に戻れたようでも、オレ達には分かち合えない数年間というのが、確実にあるという事を。