evergreen 4

なんの因果か、サスケは昔から「育ちが良さそう」と言われる事が多い。
決して多くはないけれど高校などで話し掛けてくる輩で遠慮のない奴などは、もっと有り体に「いいとこの坊ちゃんぽい」と言ってくる場合もある。
なので、実際の所は全くそんなではないというのを打ち明けると、どういう訳か想像が外れた相手は、皆一様にちょっと残念に思うらしい。冗談半分に、「え~なあんだ、つまんないの」などと言われる時さえある。つまんないのなどと言われようとも、事実なのだから仕方がない。サスケからしたら実に不条理な反応である。
バイト先である都内の下町からやや遠く、電車で四~五十分もいったところにサスケの家はある。
戦後開発著しかった私鉄沿線の中でも一際力を入れて宅地開発が進められたその街は、幾度となく重ねられた駅前の再開発も相まり、今ではちょっとした人気のエリアとなっている。そのため住まいを聞かれて答えると大概は「へえ!やっぱりね」などと感心されるが、なんてことはない単にサスケ達の先祖が昔東京にまだ狐狸の類がウロウロしていた時分からそこに住んでおり、今も尚そこに子孫が暮らしているというだけだ。別段特別な事なんて何もない。
つまり、サスケの住まいは一応そこそこハイソな住宅街の一角にあるが、実際の建物は実に普通な二階建て家屋なのであった。10年ほど前に建て直されたそこに、サスケは家族と共に暮らしている。兄弟二人に両親という実に一般的な4人家族。父親は厳しい人ではあるが普通の勤め人で、母親は週に数回パートに出てはいるが、大概は家の事を第一にしている主婦だ。まあ確かに母親はなかなかの美人であると息子として思わなくもないし、それに似た自分の外見が人目を引くというのも薄らとは自覚している。けれどもいかに見てくれからは意外に思われようと、中身は中身だ。実際のサスケはどこをどう切っても、ごくごく普通の家庭に育った17歳の高校生男子なのだった。

「――おはようサスケ、夏休みだからってゆっくり寝すぎだぞ」

はだけたタオルケットを蹴りつつベッドでぐずついていると、風を通すため半分開けっ放しになっていたドアから背の高い影が部屋に入ってくるのを感じた。「もう起きろって、母さんが」という声と共に、軽やかな音をたててカーテンが引かれる。差し込む夏の光に思わず「眩しっ……」と目を細くすると、しかめっ面が可笑しかったのか窓際に立ったままその人は、サスケを見て(ぷっ)と吹き出した。自分とよく似た切れ長の目尻が、至極やわらかく絞られる。
「……なんて顔してる」
目がなくなってるぞ、などという揶揄いにぶすりと体を起こすと、いきなり変えた姿勢に血の巡りが追い付かないのか、ぼやけた頭がくらりと目眩のようなものに襲われた。面倒さも手伝って、そのままその感覚に身を委ねたくなる。もう一度ぱたりと倒れようとするサスケに、咄嗟に「おっと」と長い腕が伸ばされた。

「しっかりしろよ。相変わらずお前は寝起きが悪いな」

笑い混じりの言葉にそれでも曖昧な返事をすると、伸ばされた腕は安心したかのように引っ込められた。もそもそとしながらも起き上がろうとする姿に、朝から完璧な佇まいのその人――兄は苦笑しつつも、光で満たされた部屋に満足したかのように颯爽と出て行く。
ああそうだ、とどこか諦めのような頭でその背中を見送りつつ、サスケは思った。
ガッカリされる程に普通な我が家で飛び抜けて普通でないのが、この5歳年上の兄だった。
外見の類似点を上げずとも、実の兄であるのは間違いない。
けれどそんな遺伝子的なものを疑いたくなるほどに、平々凡々な我が家の中でこの人だけは誰がなんと言おうと、文句なしに特別だ。

  * * *

「あっ、よかった起きてきた!座んなさいサスケ、ごはんよそうから」
くたくたした足取りで降りていくと、階下では既に朝食の支度が整えられていた。4人掛けのダイニングセットのテーブルの上には和食党の父親に合わせ、こんがりと焼かれた魚とみずみずしいお新香、白米の盛られた飯碗の右には味噌汁の椀が並べられている。

「たまご食べたい人は?」

ぼおっと立ったままでいたところにきたキッチンからの問いかけに「ん、」と小さく手を上げると、既に卓に着いて新聞に目を落としていた父親とその向かいに座る兄も、黙ったまま各々挙手をした。
角度もタイミングも見事に揃った三人の仕草に、カウンター越しに見た母親がくすりとする。
「はいはい、三人前ね」
どこか満足げな母親はそう言って背を向けると、やがて「じゅっ」と熱いフライパンに何かが落とされる音がした。気配と匂いから察するに目玉焼きだろうか。そんな事を思いつつ、兄の隣の椅子を引く。

「起きたな、ねぼすけ」

含み笑いと共に、兄が言う。うるさいな、という代わりに「ふん」と鼻を鳴らしてやったが、どういう訳か逆に喜ばせてしまった。どうやらこんな反抗でさえも、この兄には笑いの種らしい。
「起こされなくても、元々もう起きるつもりだった」
「そうか」
「……本当だって」
「わかってる。いずれにせよあのままじゃ暑くて寝てられなかっただろうしな」
しれっと返された言葉は、さりげなく図星を突いてくるものだった。確かに。梅雨も明け七月も下旬に入ると、日の出からすでに太陽の光は真夏の熱を孕んでいる。サスケの部屋は南東向きだ。あのまま窓を締め切った部屋にいたら、じき蒸し焼きになっていただろう。

「……『T大学の研究室が細菌ゲノム解読で新発見』……」

広げた新聞の向こう側から、ぼそりと読み上げる声がした。
これ、お前のところの話じゃないのか?と訊いてくる父親に、兄が「ああ、うん。……え、もう発表になってる?」と顔を前にする。
「すごいじゃないか、『今後の病態進化予測に大きな進歩か』だって?」
「うまくいけば、ですが」
話しかけてくる父親に対しても、兄は控えめに答えた。すっきりとした眉がどこか困ったかのように、ほんの少しだけ真ん中に寄せられている。
サスケが生まれる前から、兄は飛び抜けてよく出来た子供だった。
幼い頃から天才・麒麟児の呼び名を欲しいがままにし、文武両道を地で行くこの兄(優しい顔をして実はこの人は合気道の有段者である)は、昔からサスケにとってどうあっても叶わない高い存在だった。
比べられる事も多々あったし悔しく思った事も少なくないのだけれどどうしても嫌いになれないのは、この兄が底抜けにサスケを可愛く思っているのが、わかりやすく伝わってくるからだ。憎まれ口を返しても楽しげに返されるし、かといって本気で邪険にしようとすると、穏やかなその顔がほんのり傷ついたような苦笑を浮かべる。誰にも追いつけない位なんでも出来る人の癖に、この兄はサスケの動向が、常に生活の中で第一らしいのだった。
そんな兄は今、大学の『新領域新生科学研究科』とかいう長々しい名前の場所で、バイオについて学んでいる。どうやらかの天才は、遺伝子レベルでの人の成り立ちや起源に興味があるらしい。学術レベルが高すぎてサスケからは最早話を聞いていてもさっぱり理解できない領域に彼はいたが、取り敢えずそこでも兄は類まれなるその頭脳をふんだんに揮っているらしかった。その優秀さから、なにやら大学院の研究室からも早くも声が掛かっているらしい。きっとこの先もこの人は自分の思うがままの人生を歩んでいくのだろう。それを可能とするだけの力を、兄は持っている。
「『若き研究者の発想により成し遂げられた新発見。着実に育っている新しい世代の頼もしさを感じる』……これってお前の事じゃないのか?」
「研究室にいるのはオレだけじゃないですよ」
感心したような父親の言葉にも、兄は笑って謙遜を口にするばかりだった。が、それは本当にただの『謙遜』なのだ。この人の事を知る人間なら聞かずとも察せる。多分間違いなく、この新聞の紙面を華々しく飾る記事の立役者は、ここでニコニコしているうちは家の長男だ。

「お待ちどうさま、さあごはんにしましょうか」

最後の一品が出来上がったらしい。キッチンから盆を捧げ持って来た母親は話を区切るかのように言うと、座っている三人の前にそれぞれ皿を置いた。普段使いの染付の平皿に乗るのは予想通りの目玉焼き。蒸しと焼きがきっちりとされたそれはカリッと焦げた縁取りをしているが、ぷっくり盛り上がった中心では乳白色に透けた薄皮が、慎ましやかに黄身を包んでいる。
いただきます、という父親の一声に、手を合わせた家族もそれぞれに唱和した。
朝食だけは揃って食べるのが、多くはないけれども一応決められた、うちは家の家庭内ルールだ。
箸を手にしたサスケは、まずはその出来たての目玉焼きに手を伸ばした。白身の膜に包まれた中心をぷつりと箸先で突き、とろりと黄色が溢れ出た所に、間髪入れず醤油をたらりと落とす。
「美味そうだなそれ。オレもやろう」
そのまま炊きたての白飯の上にぽっちりとそれを乗せる弟を見て、横で見ていた兄は無邪気に言っては真似をしだした。おそろしく賢い癖に、彼は妙に子供っぽい所もあるのだ。いや、子供っぽいというより天然と言った方が、本当は近い。
「あ、ねえ今日お母さんお休みの人の代わりに仕事出ることになっちゃったんだけど、あなた達の今日の予定は?二人共お昼もいるようだったら、何か用意しておくけど」
あらら、ごめんねサスケにおみおつけをつけるのを忘れてたなどと、一旦座ってもまた立ち上がってはなにくれと世話を焼いてくれていた母親であったが、ようやく落ち着いて座ったかと思っても口にしたのは再び息子達の食事の話だった。今しがた朝食の支度を終えたばかりだというのに、なんとも忙しない事である。
「オレは大学に行かなきゃならないし、そのまま学食で食べるから大丈夫」
すぐにそう答えると、兄は箸を伸ばしお新香を口に入れるとザクザクと音を立てて噛んだ。母のつくるキャベツの浅漬は、彼の好物のひとつだ。絶妙な歯応えを残すよう切られたキャベツには、刻んだ昆布がたっぷりと入っている。
「そう。サスケは?」
流れのままに尋ねられると、サスケは目線を上げないまま「んー」と曖昧に返事をした。
どうせだったら目玉ふたつにしてもらえば良かったなどとこっそり思いつつ、供されている焼き鮭の皮をぺりりと剥ぐ。

「オレも要らない。バイト先で食うから」

焼かれた身をほぐしつつ顔を上げないままに言うと、汁椀を口にしようとしていた母親が「えっ?」と高い声を上げた。声に釣られたのか、茶碗を手に再び浅漬に箸を伸ばそうとしていた兄もちらりとこちらを見る。
「バイト先?教室は夕方からじゃないの?」
「そうだけど」
「じゃあなんで昼間から行くの」
「今日から小学校も休みだから、夏休み特別イベントで流しそうめん大会をやるんだと」
それにオレも来いって言われてんだよ。口の中にある鮭を咀嚼しつつモソモソ答えると、その答えに訝しんでいた母親はぱっと明るい表情になった。
「あら!なにそれ楽しそうじゃないの」と俄かに盛り上がる母親にも、黙ったままもぐもぐと口を動かす。
「いいわねえ、かわいい生徒さん達がみんな来るんでしょう?」
「……らしいな」
「楽しそうじゃない!」
「ガキどもに混じってそうめん食ったところで、落ち着かないだけだろ」
つんけんとした返しに、母はふふ、とわかったような笑いを浮かべた。「やあね、またそんな言い方して」と言いつつ茶碗を持ったまま僅かに揶揄いじみた目線を上げる。
「賑やかでいいじゃないの、あの竹の滑り台みたいなのでやるんじゃないの?」
お教室神社の中にあるんだっけ、お庭が広いなら外でやるのかしらね、とうきうきと続けざまに尋ねてくる母親に、サスケは敢えて無表情を拵え適当に頷いた。その通り、今日のイベントは毎年恒例のものらしいが、いつも広い境内を利用して行われるらしい。なにやらナルトが講師として世話になっているカルチャースクールの理事長が、材料費からなにから全てスポンサーになってくれるのだそうだ。
「生徒だけじゃなくうちに通ってない子供とかも自由に参加できるし。スゲー賑やかだし楽しい中で、そうめんじゃんじゃん流すから、サスケも食いに来いってばよ」
満面の笑みを浮かべたナルトにそんな風に誘われたのは、つい先週の事だ。
「しかし珍しいな、ただの書道塾がそんなイベントまで企画するなんて」
表情を動かさないまま内心ではほんの少しだけそんな風に浮かれていたサスケであったが、何気なく言われたその言葉にふと横を見た。隣にいる兄と、ぱちりと目線がかち合う。
「……そうか?」
「そうだろう。だって普段の教室とは別に、純粋な夏休みの楽しみとしての催しなんだろう?」
「ああ、まあ」
「夏休みの特別授業をやるならまあわかるが、そこまで生徒の為にやってくれる書道塾というのはあまりないんじゃないか?」
余程子供好きな先生なんだな、という言葉に、サスケは無言で味噌汁を啜った。
確かに。こういったイベントじみたことはさすがにそうあるわけではないが、それでもナルトの塾は子供達に対して随分と距離が近い対応をする事が多いなとは思う。
というか、サスケから見るにナルト本人がそもそも、子供の扱いに長けているようだった。叱る時はかなり厳しいナルトだけれど、子供達は皆その古びたプレハブ小屋で書を教えてくれる金髪の先生が大好きだし、生徒たちの親も随分と彼に信を置いているらしい。以前ナルトの思いつきでパフォーマンス書道(と、一般ではいうらしい)を見せてもらった時も、迎えに来た親達は墨まみれの我が子に苦笑いを浮かべつつも、頭を下げるナルトに気持ちよく謝辞を述べていた。
「まあ……先代の講師の頃から、毎年やってたイベントらしいから」
一瞬、脳裏に肩やら背中やらに子供達をぶら下げているナルトの姿が浮かんだが、説明が面倒でサスケは結局そんな返事だけにとどめた。確か今日は、その先代だったナルトの祖父の古い友人だという人物も来るらしい。塾で開いてはいるけれども実はイベントの本当の主催者はその人物で、材料から何から全てをカルチャースクールの代表をしているというその人が出資してくれて、祖父の存命の頃からナルトの書道教室では夏休みの恒例行事として開催していのだという。

「しかしバイトをするのは構わんが、そもそもどうしてサスケはそのバイトを選んできたんだ?聞いているとなんだか随分と、お前らしくもない仕事のようだが」

ぼそりと。それまでじっと黙って家族の会話に耳を傾けていた父親が、唐突に口を開いた。
「お前子供そんな好きな訳でもなかっただろう?確かに昔少しばかり書道教室には通っていたが、別に習字が好きだったわけでもないし。ちゃんとやれているのか?」という質問に、「……やれてるよ」と小さく答える。
「当たり前だろ」
「……そうか」
「子供っつっても、れっきとしたお客だし」
「というか、ずっと疑問だったがそのバイト自体、いったいどうやって見つけてきたんだ?」
それまで黙ってじっくり自分の膳と向き合ってきたお陰か、素朴な疑問を口にした父親はもうすっかり食事を終えているようだった。「お茶出しますか?」と尋ねてくる妻にウムと頷きながら、じいっとサスケに目を合わせる。
「盛大に情報誌なんかで募集をかけるような仕事でもなさそうだし、それでいて学校からもうちからも半端な場所にあるし」
「…………」
「どうやったらそんなバイト見つけてこれるんだ?」
「……それは、その……」
「もう!お父さんたら前に教えたでしょう?『お友達からの紹介』だって」
悪意ゼロなのだろうけれども微妙に困る質問に思わず口篭ったが、横槍のような助け舟を出してくれたのは母親だった。呆れたかのような顔でキッチンから戻ってくると、座ったままの夫の前に淹れてきたばかりのお茶を出す。
「高校までの行き帰りの電車で知り合いになったお友達に、紹介されたのよね?」という更に邪気のない母親からの言葉に、サスケはあやふやな感じの返事をした。
嘘は言っていない。
言ってはいないが、流石にその『友達』が前世からのものでしかも向こうから一方的にアタックされてきたもので(多分それは世間一般でいうところのナンパというやつではないかというのは、流石のサスケも感づいている)、ついでにいえばどうやらその前世で自分達はどうも色々と事情を抱えながらも特別な関係(ナルト曰く『大喧嘩の果ての両思い』)だったらしい事などは、とてもじゃないけれど説明できない。
「どんな経緯だっていいわよ、なんだか楽しそうなお仕事だし」
あっけらかんと、母親は言った。この母親はどうも、これまでただただ学校と家とを往復するだけだった次男がどこかに寄り道するようになったのが、とかく喜ばしい事として見えているらしい。
「それにね、子供好きとかお習字が得意とか、そんなのはあんまり関係ないのよ。だってこの子のお目当てはそこの先生だもの。先生に会いたくて、張り切ってお仕事に行ってるのよね?」
「は?」
唐突な言葉に、サスケは思わず再び箸先で摘んでいた目玉焼きの欠片をポロリと皿に落とした。
覗き込むような視線に対し咄嗟に出たのは、間の抜けた声だけだ。
「…………いや、そんなんじゃねえし」
もそもそとご飯を口に運びつつ、サスケは言った。
「嘘おっしゃい。そもそもあんた部活だって面倒だからって入らなかった癖に、このバイトだけは先月からは曜日も増やしたし。帰りも色々とご馳走ななったりして帰ってくるじゃないの」という母親の言葉には物申したい気分ではあったが、どうにも目線が上げられない。

「……へえ、そんなに気に入ってるのか」

ふと上げられた声に、チラリと隣を見た。サスケを見る兄は感心したような、または驚いたかのような表情を浮かべている。大学の研究室に入り浸っている兄は、帰りがいつも遅い。子供向けの時間に終わるサスケのバイトより大概帰宅が後になるためか、これまでそういったことがあったのも知らなかったらしい。
「それは確かに、サスケにしては珍しいな」
納得したように、兄は言った。覗き込んでくる視線に、つい目を逸らす。
「別に……関係、ねえって。ただ単にアイツが忙しそうだったから、曜日増やしただけで」
理由を述べても、嘘などひとつも言ってないのになんだか妙に落ち着かなかった。しかしそんな自分も嫌で、誤魔化すかのようにせっせと御飯を口に運ぶ。
「流行っている塾なんだな」
「や、流行ってるという程でも。生徒数はまあ、確かに少なくはねえけど」
「ほお、」
「……余所に教えに行ったり、イベントみたいなのに呼ばれたりで外に行くことも多いからさ」
「イベント?結構有名な書家なのか」
「…………」
「しかし目上の人に対して『アイツ』呼ばわりするのは感心しないな。目の前にいなくてもきちんと先生とお呼びするべきだろう、まさか実際もそんな失礼な口振りで話しているのか?」
「……いいンだよアイツはアイツで。『先生』なんてガラじゃねえし」
強引に締めると、風向きの悪くなってきた話を断ち切るかのように、サスケはがたんと立ち上がった。手早く食べ終えた食器を重ねるとキッチンにまわりシンクに預け、さっさとした足取りで部屋を出て行く。
「あっ、ねェじゃあサスケは何時頃出るの?」
行きかけた息子の背中に、母からの確認が追いかけた。お昼前?もう少し早いのかしらという声に、サスケは肩ごしにほんの僅か振り返る。
「いや、支度したらもう行く」
「もう!?呼ばれてるのはお昼じゃないの?」
「…………滑り台作んなら、人手はあった方がいいだろ」
ごちそうさま、と素っ気なく付け足すと、足音を響かせサスケは階上の自室へと戻っていった。つまらなさそうな顔付きに反し、階段を踏む音は「トッ、トッ」と割に軽い。

(なんだ、やっぱり張り切ってるんじゃないか)

その音を聴きながら、ダイニングに残された三人は各々思った。ああだこうだ言いつつも、本人は結構、いやだいぶイベントを楽しみにしているらしい。気恥ずかしければ気恥ずかしい程に正反対の表情になっていくのは、この家の末っ子についてはいつもの事だ。
「――珍しい事だな、あの人嫌いが」
ぼそ、と落とされた父親の言葉に、母親が「あら、」と声を上げた。
「あの子は人嫌いじゃないですよ、ただ他人に自分を合わせるのが嫌いなだけで」
あなたそっくりじゃない。そんな斟酌のない反論に、食べ終えて再び新聞を手にしようとした父親がむっつりと黙る。
「でも珍しいのは確かじゃないですか?」
まだ半膳程白い御飯が残る茶碗を置きながら、兄は言った。自分の覚えている限り、いくら年が上であろうとこれまで弟が兄である自分以外の人物に、特別懐くような事は無かったのだけれど。
「どんな方なんですか?その先生って」
「ああ、若い男の先生でね。お教室は確かお亡くなりになったお祖父様が残してくださったものだって聞いたけど」
「それでもサスケなんかよりはずっと年上なんでしょう?」
「そうねえ、でも一回りは違わない筈よ。見てみる?」
どことなく釈然としない気分でいる兄を見ると、なんでもない事のようにさらりと母親が言った。「えっ、見るって」と少し目を大きくする長男にウフフと何か企むかのようにエプロンの肩が竦められる。
「……教室まで行くつもり?」
「まさか、写真だけよ」
言いながら、伸びをするかのように体を捻ると、母親は後ろのキッチンカウンターに手を伸ばした。「写真なんて、どうして母さんがそんなもの」と呆れる息子にも動じない様子で、レシピ集や読みかけの文庫本などが置かれた小さなブックスタンドの間から、丁寧に畳まれたチラシを一枚抜き出す。

「一昨日新聞の折込で、習い事のチラシが入っててね。サスケがやけにじっくり眺めてるから聞いたら、バイト先の先生が教えに行ってるのがそこのスクールだったらしくて」

――ほら、この人。
乾いた音をたてつつ開かれたカラーチラシを示しつつ、母は言った。ポップな色合いでまとめられたその紙面は、話の通りどこかのカルチャースクールのものらしい。『夏期生募集!』という大きな見出しの下には、そこの講師らしき人物の写真が、講座名と共にずらりと並んでいる。
「ほら、この『大人から始める書道』って講座。この先生がそうよ」
指さされるがままに覗き込めば、そこに載っていたのは書の持つ和のイメージを覆すかのような、明るく眩い雰囲気の青年だった。
澄んだブロンドに晴れた青い瞳。
にっこりと笑うその感じはいかにも気負いがなくて、見た目は若いのに妙な落ち着きがある。
意外な風貌に黙りこくる二人に対し、母親は実に愉快そうだった。「ね、ちょっとビックリするでしょう」と言う胸のすいたような言い方に、「うん」とも「ああ」ともつかない声で父親が唸る。
「……日本人なのか?」
への字のように結ばれた父親の口からようやく出された質問は、確かにその写真と職業を考えれば極めて自然なものだった。
「サスケはそうだって言ってたわよ。お父様が外国の方なんですって」
「ほお」
「ね、驚くわよね。言われなきゃお習字の先生だなんて、絶対思わないわよ。お母さんここの教室いってみようかなって思ったんだけど、そうしたらサスケにもの凄く嫌がられちゃって。あの子ったら『絶対やめろよ、勝手なことしたら本気で怒るからな』なんて言うのよ、あやうくそのチラシも没収されそうになったんだから」
娘のように小さく舌を出す母親に、呆れた父親は「そりゃそうだろう。いい年して、馬鹿な事を言うもんじゃない」としかつめ顔で言った。「やあね、冗談よ」と母はどこか余裕な態度で言い返すも、その様子からだとそれもなんだか怪しい感じだ。
「……どうしたの?」
写真を出した途端、しんと静かになってしまった兄に、母親は尋ねた。
兄弟でよく似た黒目がちな瞳が、じっと大きく拡大された画像を見つめている。


「――うずまき、ナルト」


一文字、一文字。
自分の記憶に確かめるかのように、兄はゆっくりとその写真の下にある名を口にした。黒々とした瞳がまたたき、かすかにその頭が傾げられる。
朝の光が差し込むダイニングで、つけたまま誰からも顧みられないままのテレビから、朝のニュースが小さく流れている。
なんとなく静かになってしまったその中で、金髪のその講師は静止した平和の中、穏やかな笑いをただ浮かべていた。